ひどい不調が長引き、絶え間ない苦痛にあえぐとき、人はどのように反応するでしょうか。
ある人は「自分はダメな人間だ」、「何の価値もない」と感じ、自尊心を失ってしまうかもしれません。
あるいは一日一日を生きるだけが精一杯、その日暮らしの生き方になってしまって、もはや何のために生きているのか、考える余裕がなくなってしまうかもしれません。
しかしある偉人は、想像を絶する不調にあえぎましたが、決して希望を失うことも、思考を曇らせることもありませんでした。その偉人とはだれでしょうか。かの有名な科学者また数学者、ブレーズ・パスカルです。
このエントリでは、名著「パンセ」の書評として、苦難のもとでパスカルがどのように生きる意味を見いだしたかを紹介したいと思います。
パンセ〈1〉 (中公クラシックス)?
パンセ〈2〉 (中公クラシックス)
これはどんな本?
「パンセ」はもともとパスカルが編纂し、出版した書物ではありません。パンセの完全な題名は、「死後、書類の中から見出された、宗教及び他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ」だそうです。
「パンセ」というフランス語は、“考えること”、そして“思想”を意味しています。さらには、そうした考えを簡潔にまとめた、“格言”や“断章”を指すようにもなりました。(Ⅰp1)
それで、この書物に付けられた「パンセ」という題名は、パスカルが生涯をかけて残した、数多くの「格言」を寄せ集めを意味しています。パンセは、すなわち“パスカル名言集”なのです。
パスカルは天才科学者であると同時に、熱心なキリスト教徒でした。もともとパスカルは、それらの格言を、「キリスト教護教論」という本を書くための準備ノートとして書きためていたようです。しかし、パスカルの早逝のため、その目的は達成されませんでした。
なぜこの本を手にとったか?
わたしは以前、神が愛した天才数学者たち (角川ソフィア文庫)という、数学史を概説した書籍を読んで、この異色の科学者に興味を惹かれました。
その本によると、パスカルは、愛情深い父エチエンヌや、パスカルの死後に伝記を書いた姉ジルベルトなど、パスカルのことを深く思う家族に囲まれて育ちました。
パスカルは父をとても尊敬していました。数学者であった父は、息子に同じ生き方を強制したくないとの親心から数学を禁じましたが、パスカルはしぜんに数学に惹かれ、父に隠れて熱中するようになりました。それを知った父は涙を流して喜んだそうです。
天才的な資質を発揮したパスカルは、16歳のとき、パスカルの定理を発見し、18歳のときには、父の仕事を助けようと、画期的な計算機を発明しました。ところが、このときパスカルの身に悲劇が訪れます。
パスカルは若くして、「二度と戻らぬ体の不調」 に陥ったのです。
その後もパスカルは確率論や組み合わせの基礎を築くなど才能を発揮しますが、「神のない人間のむなしさ」を感じ、31歳で社交界から退きます。そして、祈りと聖書に心を砕く生活を送り、39歳で短い生涯を閉じました。
わたしは、ある日突然慢性疲労症候群(CFS)を発症した身として、若くして突如生活が一変したこの天才科学者に興味を持ちました。彼が病床のもとでも自分を見失わず、信念を貫いた秘訣は何だったのでしょうか。
「だが、それは考える葦である」
パスカルの言葉として最も有名なのは、紛れもなく、以下のパンセ(断章)でしょう。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。
…たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だからわれわれの尊厳すべては、考えることのなかにある。…だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(Ⅰp249)
人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。(Ⅰp275)
ここに、パスカルが、病床においても生きる意味を失わず、自尊心を保ち続けることのできた理由が要約されています。
パンセは、人類について考えたとき、みな死刑を宣告され、鎖につながれている囚人のようだと思いました。毎日、何人かが目の前で殺されていくのを見せつけられ、悲しみと絶望のうちに自分の番が来るのを待っているかのようです。(Ⅰp158)
また自分のあまりに限られた生涯と、宇宙や時間という概念を比べたとき、「この無限の空間、その永遠の沈黙が私には恐ろしい」とも書きました。(Ⅰp161)
しかし、深く思考を重ねたのち、「この暗黒のなかに、この光を見る人はなんと幸福であろうか」と結論しました。人間は確かに弱いものですが、考え、行動するなら、もの言わぬ樹木や宇宙すべてよりも尊い価値を持つのです。(Ⅱp100)
パスカルは科学者らしい言葉でこう説明しています。
あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。…あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。(Ⅱp187)
パスカルが、“考えること”をいかに貴重なもの、人間だけに許された特権と考えていたかがよく分かります。たとえ身体の苦痛に悩まされようとも、“考えること”をやめない限り、パスカルは自分の価値を、そして生きる意義を見失わずにいられました。
「人は自分自身を知らなければならない」
パスカルは特に、「自分自身」について、また「人間であることが何であるか」ということについて、考え続けたようです。
人間は明らかに考えるために作られている。それが彼のすべての尊厳、彼のすべての価値である。そして彼の義務は、正しく考えることである。
ところで、考えの順序は、自分から、また自分の創造主と自分の目的から始めることである。(Ⅰp114)
多くの人は、自分は何のために生まれてきたのか、何のために生きるのか、といった点について、いつしか考えるのをやめてしまいます。結局のところ、答えはないと決めつけて、ひとときの楽しみや、目の前の生活に没頭するようになってしまいます。
しかしパスカルはそうではありませんでした。パスカルは、自分の目的、自分自身の生きる意味を深く考え続けました。そしてこう勧めています。
人は自分自身を知らなければならない。それがたとえ真理を見いだすのに役立たないとしても。すくなくとも自分の生活を律するには役立つ。そして、これ以上正当なことはない。(Ⅰp41)
重い障害を抱えたとき、その人の持つアイデンティティは根本から揺るがされます。若くして人生の危機に直面した場合はなおさらです。
家族に愛され、天才科学者として才能を開花させ、将来を嘱望されたパスカルが、わずか18歳のときに「二度と戻らぬ体の不調」に陥ったとき、どれほど心を打ち砕かれたかは想像に難くありません。
それまで彼が抱いていた将来の希望や、生きる意味、自分の存在価値などは、すべて、ガラガラと跡形もなく崩れ去ってしまったことでしょう。
しかし彼はあきらめませんでした。
自分自身について深く考え続けることで、自分のアイデンティティを根本から立て直し、再構築したのです。パンセは、書物としては完成しなかったとはいえ、彼の不屈の精神の集大成といえるでしょう。
病魔によってあらゆるものを失っても、深い思考力を働かせ、再び自尊心を取り戻す、というのは、わたしが以前に以下のエントリで取り上げたテーマでもあります。よろしければ合わせてご覧ください。
また、慢性疲労症候群(CFS)とよく似た疾患である線維筋痛症(FMS)と若い頃から闘ってこられた橋本裕子さんが、「生きる意味」について考え続けているとおっしゃっていたのも興味深い点です。
【6/20 アピタル】線維筋痛症の痛み、慢性疲労症候群の疲労 その違い
“考えること”をやめないすべての人に
正直なところ、パンセは完成された書物ではなく、パスカルの覚え書きにすぎないので、意味が把握しにくいところも多々ありました。また訳文は40年前のものなので、よく言えば格調高い、悪く言えば読みにくいものです。
しかし、燃える火のような苦境のもとで、練られ、精錬され、しぼり出されたパスカルの言葉は、今なお絶えざる輝きを放っています。この書物は、時代を超えて人々に愛され、親しまれてきました。
すべてをいちどきに読むにはあまりに凝縮されすぎた書物ですが、手元においてときどきひもとくなら、苦境のもとでも“考えること”をやめない大切さを語りかけてくれるに違いありません。