近年の研究によると、げっ歯類、アカゲザル、魚や鳥など、さまざまな動物に、20%ほどの割合で、感覚が敏感な個体が現れることがわかってきました。
これらは高SPS(sensory processing sensitivity)の個体として知られています。ヒトの場合はHSP(Highly Sensitive Person)として近年、有名になってきました。
これらの敏感な個体はなんのために存在するのでしょうか。
研究者たちは“for promoting survival of the species”、つまり「種の生存を促進するため」だと考えています。迫りくる危険を未然に察知して、炭鉱のカナリアのように警告を発するのです。
わたしたち人類という種にも、もちろん、この遺伝的な敏感さを持つ人たちがいます。中でも、ひときわ感受性に優れていたある女性が、今から60年ほど前、人類社会にこう警告しました。
地球が誕生してから、こんにちに至るまでの時の流れのなかで、生物が環境を変えた逆な事例は ほとんど見られない。
ところが今世紀になると、人間という一種族が、自然を変えうる おそるべき力をまたたく間に獲得したのだ。(p16)
私たちはいま、2つの道の分岐点に立っている。
…私たちが長い間歩んできたのは、偽りの道であって、それは猛スピードで突っ走ることの出来るハイウェーのように見えるが、行く手には大惨事が待っている。
もう一つの道は、人も「あまり通らないが」、それを選ぶことによってのみ私たちは、私たちの住んでいる地球の保全をまっとうするという最終の目標に到達できるのである。(p228)
この色褪せぬ言葉、わたしたちの時代にこそ、よりいっそう意義を増しつつあるこの言葉は、かのレイチェル・カーソンが、有名なベストセラー沈黙の春 (新潮文庫) の中で語ったものです。
地球が危機に瀕している今、レイチェル・カーソンとはどんな人だったのか、改めて調べてみるのは、とても意味のあることではないでしょうか。
とりわけ、敏感な感覚をもち、この世界の将来を憂慮している人たちにとっては、激動の時代を駆け抜けたこのHSP女性の生き方を知るなら、多くの役立つことを学べるでしょう。
レイチェル・カーソンはどんな人?
レイチェル・カーソンとは、いったいどんな人なのか?
今から70年も前、まだカーソンが現役のベストセラー作家だったころ、ちまたの人々は、この話題で持ちきりでした。
というのも、彼女は、自分のことをあまり公にしなかったからです。ベストセラー作家でしたが、人前に出たり、有名人として扱われたりすることを望みませんでした。
読者たちは、想像をたくましくして、それぞれ思い描くレイチェル・カーソン像を作り上げました。
伝記レイチェル・カーソンには、滑稽なエピソードがたくさん載せられています。
たとえば、ある読者たちはレイチェルは男だと考えました。「世界の優秀な知能は、男性が占領している」とされていた時代に、女性がこれほど博識な本を書くとは信じられなかったのです。
別の読者は、その幅広い知識のゆえに、レイチェルは白髪の老人だと考えました。そして、もっと若かったなら結婚したかったのに、という丁重なラブレターを書き送りました。
さらに別の読者は、レイチェルが漁師たちのような「とても大柄な、ものすごい婦人」だとイメージしました。(p139-140)
でも、ほんもののレイチェルは、それらのイメージのどれとも異なる、穏やかな性格で、きゃしゃな体つきの、繊細な女性でした。
今日では、ネットでたいていの情報は手に入るので、レイチェル・カーソンについて書かれた膨大な文章や、彼女の在りし日の顔写真まで見ることができます。
けれども、やっぱり、レイチェル・カーソンとはいったいどんな人なのか? と問われると、詳しく知らない人は多いでしょう。
有名な「沈黙の春」の著者であることは、よく知られています。でも、実際にその本を読んだことのある人はいかほどでしょう。
記憶をたどれば、わたしが学生のころ、「沈黙の春」は、夏休みの読書感想文の課題書籍の一つでした。
でも、わたしは当時、自然や環境保護にまったく興味がなく、心理学が好きだったので、「沈黙の春」ではなく、「アンネの日記」を選びました。
わたしもまた、レイチェル・カーソンという偉人の名は知ってはいても、彼女がどんな人だったのか、まったく知らない1人でした。それ以上、考えもしませんでした。
しかし、自分の病気について知るために、精神医学を調べていたら、やがて生物学や自然科学に行き着き、にわかに彼女の名前を目にする機会が多くなりました。
たまたま読んでいた、ジャーナリストのリチャード・ルーブによるあなたの子どもには自然が足りないの中で引用されていた、次の言葉がすばらしかったので、興味を惹かれました。
子供を自然の世界に紹介する時、知ることは感じることの半分も重要ではない ―レイチェル・カーソン (p179)
わたしは、“あの”レイチェル・カーソンが、こんなすばらしい言葉を残していたなんて! とたいそう驚きました。
先日の記事に書いたように、彼女のこの言葉は、わたしが自分の病気について調査を重ねた果てにたどりついた答えそのものだったからです。
人生で喜びを感じるためには、ただ頭で「知る」ことより、全身の感覚を使って「感じる」ことのほうが大切、という生物学的な真理です。
こうして手にとってみたレイチェル・カーソンの最後の本、センス・オブ・ワンダーとの出会いは忘れられません。わたしはすっかりとりこになり、恋に落ちてしまいました。
それは、科学者としての目と、芸術家としての感性が融合した、限りなく美しい言葉でつむがれたエッセイでした。
ほんの10分ほどで読み終わる分量なのに、わたしが気づいたこと、ブログで書きたいと思ったことが、きわめて繊細で心に染み入る表現に凝縮されていました。
もしかすると、彼女はわたしと似た感性を持った人だったのかも、いえ、むしろわたしが目指すべき、お手本にしなければならない人ではないだろうか、と思いました。
それからわたしは、レイチェル・カーソンの伝記や、他の作品を読んでみることにしました。
カーソンといえば、DDTの脅威を告発した「沈黙の春」が何より有名ですが、それ以外に三冊からなる海についての本と、遺作となったセンス・オブ・ワンダーを書いたことを知りました。
そして、「沈黙の春」の重々しく学術的な雰囲気は、彼女の作品の中では例外的なものだったことを知りました。
この本は、切迫する環境破壊の脅威と戦い、当時の化学業界を告発し、反対意見を封じ込めるために、科学的論拠でガチガチに武装して書かれた、異例の本だったからです。
ですから、素のレイチェル・カーソンを知りたいなら、「沈黙の春」以外も読むべきなのです。
「沈黙の春」はもちろん有益な本ですが、それ以外の他の4冊にこそ、科学者である以前に、自然を愛する作家、また詩人であったレイチェル・カーソンの人となりが、素朴なかたちで現れています。
内気でも粘り強く知識を求めた
では、改めて、レイチェル・カーソンはどんな人だったのか、考えてみましょう。
伝記レイチェル・カーソンには、次のような生い立ちが記されています。
レイチェルは、1907年、ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外のスプリングデールで生まれました。
そこはアレゲニー川に沿う自然豊かな地域で、周辺には探検できる森や野原が広がっていました。家族は農場を営んでいたので、レイチェルは動物たちに囲まれて大きくなりました。(p28)
レイチェルの生涯続く自然に対する関心を育てたのは、お母さんのマリアでした。レイチェルは子ども時代をこう振り返っています。
「私が、戸外のことや、自然界のすべてに興味を抱かなかったことは、かつて一度もありません」と、後になって彼女は語っている。
「そして、これらの興味は母から受け継いだものであり、母とはいつもそれを分けあったものでした。
私はどちらかというと孤独な子供で、一日の大半を森や小川のほとりですごし、小鳥や虫や花について学んだのです。」(p29)
ここで、レイチェル・カーソン自身が語っているように、彼女は「どちらかというと孤独な子供」でした。というのも、はにかみ屋で引っ込み思案な性格だったからです。
周りの人の評価によると、「たいへん内向的」で「その話しぶりは、常に穏やかで、実務的」でした。(p27)
もの静かで、控え目で礼儀正しく、少しも気取ったところがなかった。…彼女には19世紀のふんいきが感じられた。
彼女には威厳があり、しかも誠実で、リヤ王のコーデリアのように「その声は常に静かで柔らかく、低かった」(p96)
内気ではあったものの「家族や親しい友人…と一緒にいると、レイチェルは陽気にくつろぐことができ」ました。「とてもおもしろい人」だったとも言われています。(p27)
同僚で友人だったシャーリー・ブリッグスによれば、レイチェルは役所務めをしていたころ、持ち前のユーモアと創意工夫によって、退屈な仕事を楽しみに変えていたそうです。
シャーリー・ブリッグスは1945年にこの局に入ったのだが、次のように思い出を語っている。
「彼女の熱心さとユーモラスな性格は、役所仕事の退屈な連続を静かな楽しみに変えた。
そして冒険心を官庁の編集業務のなかに少しずつ沁み込ませていった。(p78)
レイチェルはまた、とても誠実で良心的でした。「生涯を通じ、誰のことも騙すことが出来なかったほど、誠実な性格の持主であった」と評されています。(p96)
レイチェルは誠実でユーモアのセンスもあったので、内気ではあってもコミュニケーションは上手でした。
「はにかみ屋でひっこみじあんだったので、好きになれそうだと直感した人たちとだけ友だちに」なった、とレイチェル・カーソン―沈黙の春をこえて (愛と平和に生きた人びと)に書かれています。(p26)
場の空気を読む能力に秀でていた、ということもできるでしょう。周りによく配慮できますが、人の反応を気にしすぎるあまり、自分から話を切り出すのが苦手だった、ということです。
でも、だからといって、人を避けたり、引きこもったりはしませんでした。作家になりたいという夢があったので、一生懸命、努力して人と関わるようにしました。
大学時代には、学生新聞の取材のために、さまざまな人にインタビューして、見識を深めました。
レイチェルは、文章を書くのに役立つことならばなんでもやりました。学生雑誌や学生新聞にも記事を書きました。
レポーターとして、たくさんの有名人とインタビューをしなければならないこともありました。
そういうときにレイチェルは、はにかみ屋ではない新しい自分を発見したのです。(p31-32)
レイチェルはがんばり屋だったので、大人になってからも交流を広げる努力を続けました。伝記レイチェル・カーソンによると、彼女が積極的に人間関係を広げていたことがわかりす。
レイチェルはどんな専門の人びとでもその人を正しく評価し、いつでも喜んで初対面の人と会い、
パーティーにつきもののどんな話題にも、また陽気な笑いさざめきの中にも入っていきました。(p80)
こうして培われた対人スキルは、のちにあの「沈黙の春」を書くとき、大勢の専門家たちに取材して資料を集めるために、大いに役立つことになります。
努力家だったレイチェルは「周囲の状況がどのようであろうとも、…けっしてその立場を見失わず、しっかりと自己を守っている」芯の強い人でした。(p27)
当時としては珍しい女性の科学者としての道を選び、男性社会にも勇敢に切り込んでいきました。
ガブリルソン博士の記憶によれば、レイチェル・カーソンは、よく訓練された生物学者で、科学者や公務員には珍しく天賦の表現力をもっていた。
しかも極端に内気であった。彼女が、彼に執筆を頼みに来るときなど、なかなか言葉が出ないほどだった。
かんがえてみれば、彼女は年若くしかも経験に乏しく男性の世界に入ったのだから、もっともなことである。(p72)
レイチェルは「極端に内気」ではあったものの、女性がまだ科学者や公務員の中で数少ない時代に、思い切って男性社会に飛び込む度量と才覚を持ち合わせていたことがわかります。
何より、彼女の性格を特徴づけ、のちに歴史的な成功をたぐりよせたのは、その粘り強さと飽くことなき探究心でした。
レイチェル・カーソン―沈黙の春をこえて (愛と平和に生きた人びと)によると、学校の卒業アルバムには、彼女の写真の下に、クラスメートが、こう書き込んでくれたそうです。
レイチェルは真昼の太陽
いつも輝きに満ち
とどまることなく学んでいる
真の理解が得られるまで(p28)
レイチェルは自分でもこの探究心を自覚していました。伝記レイチェル・カーソンによると、「私は、私の中にある数多くの質問に対し、長い時間をかけて答えを探し出すのが常であった」と書いています。(p108)
こと知識については、飽くなき探究心をいだき、理解が得られるまで、徹底的に追究する人だったのです。
こうした一連の性格は、近年よく耳にするようになったHSP(敏感で感受性が強い人)に典型的な性格のように思えます。
冒頭で触れたように、感覚が鋭いHSPは、生物学的には遺伝的な特性だと言われています。
人間だけでなく、パンプキンシードなどの魚や、アカゲザルなど、他の100種類以上の動物にも、敏感な個体の存在が確認されています。
こうした個体が存在するのは、いわゆる城壁の上の見張り番や、炭鉱のカナリアとしての役割を果たし、危険が迫ったときに警告を与えるためだと考えられています。
レイチェルがのちに、人類に迫る環境破壊について警鐘を鳴らす「沈黙の春」を書いたことを思うと、これはとても意義深いことです。
レイチェル・カーソン―沈黙の春をこえて (愛と平和に生きた人びと)によると、もしもレイチェル・カーソンが警告しなかったら、人類が環境破壊の脅威を認識するのが10年は遅れていただろう、と考える人々もいるようです。(p5)
敏感で感受性の強い人だったレイチェル・カーソンは、まさにその遺伝的特性をフルに発揮して、人類に対する炭鉱のカナリアとしての役目を果たしきったといえるでしょう。
余談ながら、レイチェル・カーソンのことを語るとき、彼女が猫好きだったことは外せないかもしれません。
1929年に大恐慌が始まったとき、彼女の兄ロバートは、パートタイムの仕事の報酬として、ある家の人からお金のかわりに猫をもらったそうです。(p48)
伝記レイチェル・カーソンによれば、それからというもの、彼女は「生涯を通して猫を愛しつづけ」、何匹もの猫を飼いつづけたのだとか。
レイチェルは猫とともに執筆し、ときには猫のスケッチも描きました。
バズィーとキトーは、かわるがわる夜ふけまで、私のタイプライターの傍の原稿の上に寝そべって、私が『潮風の下に』を書く手伝いをしてくれました。
ティピーは、ごく最近、『われらをめぐる海』のために同じようにしてくれました。(p43)
この話を読んで、わたしはふと、北海道の屯田兵の家族が、ネズミ対策に猫が「配給」されて、とても喜んだという話を思い出しました。(p14)
また、やはりとても感受性が強く、文学的才能に秀でていた児童文学作家エリナー・ファージョンも猫好きで、今の時代に先駆けて猫が流体だと書いていたのも思い出しました。
今や猫が寝そべるベッドは、タイプライターからノートパソコンやタブレット端末に様変わりしましたが、猫と猫好きな人たちの絆はそうそう変わらないようです。
「知る」ことより「感じる」ことが大事
内気で引っ込み思案だと、外の世界に出ていくより、自分の内なる世界に引きこもって、インドア派になりがちです。
本やネットで見聞きした知識ばかりが大きくなり、実体験がおろそかになってしまいやすいものです。わたしもそうでした。
でも、レイチェル・カーソンは全然違いました。
さっきセンス・オブ・ワンダーから引用した言葉が示しているように、彼女のモットーは、頭だけで「知る」ことより、全身を使って「感じる」ことのほうがはるかに大事だ、というものだったからです。
彼女は読書好きでしたし、研究者として優秀でしたが、一番好きなのは、外の世界を歩き回ることでした。
伝記レイチェル・カーソンによると、「いうまでもなく、彼女は自分が夢中になれる野外の旅行をことのほか好んでいた」と書かれています。
デスクワークでも並々ならぬ集中力と有能さを発揮しましたが、本当は、野山や海岸を歩き回って自然を研究するフィールドワークにこそ「自分のすべての時間を使いたい」と思っていました。(p100)
レイチェル・カーソンは野鳥を観察するのも好きでした。
友人だったアマチュア生物学者ルイス・J・ハレエが、ツグミの観察記を発表したとき、レイチェルは電話をかけて、自分もツグミの歌声を聞いてみたいと伝えました。
ハレエはのちに、そのときのことを、こう振り返っています。
私は、彼女が常に注意深く、他人を通じ、またみずからも飽くことなく知識を求めつつあった人として思いおこすのである。
フランスの実存主義者たちは、「ほんものの」生活を生きる問題について、多くのことを語る。
(彼らのなかで、知識を求むるために実際の鳥に触れようとした者は、1人もいないように私には思えるのだが。)
しかし、レイチェル・カーソンこそは、それを実証したのだった。(p97)
レイチェル・カーソンは、単なる学問上の知識ではなく、いつも「ほんものの」体験を求めて行動する女性でした。
本や研究論文や伝聞を通して、ただ知識を「知る」ことではなく自分の五感を使って経験し、じかに「味わい知る」ことを望んでいたのです。
のちに、センス・オブ・ワンダーにこう書けたのも、ただ豊富な知識を持っていただけでなく、自分の足で出向いて、ツグミの声に聞き惚れた経験があったからこそです。
かつてある人がわたしに、モリツグミの声を一度もきいたことがないといったことがあります。
けれども、その人の家の庭では、春がくるといつも、モリツグミが鈴をふるような声で歌っているのをわたしは知っています。(p38)
レイチェル・カーソンの行動力は、執筆の取材にも生かされました。
伝記レイチェル・カーソンによると、彼女は、子どものころ、海が見えない地方で育ち、貝殻を耳に当てては、海とはどんなところか思いをはせていました。
そして、海への憧れから、海を題材にした本を、手に入る限りすべて読みふけりました。
子供だったころ、それまで一度も海を見たことがないのに、大洋に魅せられていた。
私は大洋について、あれこれと空想し、それを見たいと願い、そして私が見つけることが出来たすべての海に関する著作を読破した。(p107)
のちに、彼女は海洋生物学者になり、「潮風の下で」「われらをめぐる海」「海辺」という、海を舞台にした三冊の本を書きました。
「海辺」の挿絵を担当した、同僚で画家のボブ・ハインズは、レイチェルがそれらの本を執筆するために、とても難しい専門書をたくさん読んでいた、と伝えています。(p160)
彼女の同僚のボブ・ハインズは、彼女が地区の図書館から借り出したたくさんの本を、夕方、車の後ろに積み込んで持ち帰り、
数日後、その本を返してまた新しく何冊もの本を借り出していったことを回想している。
これらの本の多くは高度に専門的なものであった。彼女は夜おそくまで読書し、ノートを取り、
主題については、自分が納得するまでほとんどすべての点について広範囲にわたり調査した。
彼女の態度はもの静かであったが自己の能力と忍耐強さに対しては過小評価していなかった。(p105)
彼女はどんなに難しい文献でも読み解いて、噛み砕いて文章化できる知性や粘り強さを持っていました。でも、ただ学問的な知識だけで本を書いたわけではありません。
ボブ・ハインズは、さらに彼女の調査活動に同行した思い出を振り返って、こう言っています。
メインの海岸では、フジツボでおおわれた氷のような潮溜まりの中を、風邪をひくのもおかまいなしに数時間もたてつづけに歩きまわり、採集したものを虫メガネで調べていた。
彼女の体は、こごえてまったく感覚を失い、岸辺に運び上げてもらわなければならないほどだった。(p28)
彼女は、文献を通して調べたことのみならず、感覚によって体験したことを書きたいと思っていました。執筆とは知識をつむぐこと以上に、経験を伝えるための手段だったのです。
実体験を重んじていたレイチェルは、「われらをめぐる海」を書いているとき、「海の中にもぐることなしにこの本を完結してはならないと考えるようになりました」。
それで、海岸を歩き回るだけでなく、文字通り、海の中にまで出かけていきました。潜水用ヘルメットをかぶって、数メートルの深さまで潜る「海中の大冒険」をすることにしたのです。
「自認しているように、彼女はやや臆病で」、水泳がうまかったわけでもありません。でも、その実体験は、かけがえのない収穫をもたらしました。(p110)
私は、海の表面の水が海面下からどんなふうに見えるか、暗礁の動物によってくりひろげられるさまざまな色彩が、どんなに絶妙であるかを学び、
そして私は、人間のいない不可思議な世界のおぼろげな緑の風景を感じとることができた。(p110-111)
彼女の冒険の場はもっと広がります。釣り船や研究船に乗って近場の海の上を駆けました。さらには、トロール船に乗って、大洋にまで出かけることにしました。
当時、政府の調査船「アホウドリ3世」には、女性はだれも乗船したことがありませんでした。
けれども、レイチェルは巧みに事を運び、女性を乗せる許可を取り付けるのに成功します。
なぜそこまでして?
『もしも私が、「アホウドリ」に乗って海へ出られれば、この船に関して出版物を発行するさい、よりよく仕事ができるだろうという結論に達した』からです。(p111)
やはりというべきか、知ることよりも感じることを大切にし、知識よりも実体験を重んじた彼女らしい言葉です。
かくしてレイチェルは、海の男たちとともに、前例のない10日間の冒険に出発しました。
そこで経験したのは、ひどい船酔い、地響きのような騒音、食べ物の悪さ。内気で繊細な女性としては、圧倒されるような苦労です。
でも、やはり実体験に勝るものはありません。
トロール漁を通して感じた海の広大さ、深さ、そしてさまざまな姿をした深海の魚たちの姿は、忘れがたい印象を残し、その後の執筆に存分に生かされました。
のちに彼女は、自分は「なによりもまず戸外へ出て自然界の美と驚異を楽しみたいと願う者」だと書いています。
「実験室や図書館に出入りするのは、その説明を求めるためにすぎない」のです。(p120)
そして、自分の本の読者にも同じようにしてほしい、と願っていました。だから、三作目の本との題材として、「海辺」を選んだ理由について、こう書きました。
海辺を選んだことには、明らかな利点があります。
まず第一に、そこは殆ど誰でも行ける場所です。したがって、私が説明することをうのみにする必要がなくなります。
興味を持った人は誰でも、じかにそれらを見ることが出来ます。(p157-158)
ただ本を読むだけでなく、自ら出かけていって自然を観察し、楽しんでほしい。
その彼女の思いは、読者たちに伝わったでしょうか。
彼女のエッセイのひとつ「たえず変貌するわれらの浜辺」を読んだ、読者のひとり、ボック判事はこう反応しました。
本当に見事です。私は読みおえてすぐ、全家族と客を集め大声で読んできかせました。
あなたは、人びとを浜辺に連れ出し、そこを歩き、それから感じとり、そしてそれを理解するように仕向けてくれるのです。(p210)
作家でもあり、科学者でもある
今でこそレイチェル・カーソンは、地球の危機を予告した科学者として名を残しています。
でも、もともと彼女は科学者ではなく作家になりたいと思っていました。
レイチェル自身、常に読書を愛し、幼いときから作家になりたいと考えていた。
「どうしてそんな気持になったのか、私にはわからないのです。
私の家族には作家は1人もおりませんが、私は、まだ揺りかごの中にいるころから、たくさんの本を読みました
〔彼女の母親は、彼女がまだ2歳のころから、声高に本を読んで聞かせていた〕。
私は、本は誰かが書くものだと感じとったに違いありません。そして、物語を組み立てるのはおもしろいことだと考えたでしょう」(p29)
レイチェルは、本をたくさん読み、自分でも物語を書きました。
10歳のころには、セント・ニコラスという雑誌の読者コーナーに「雲の中のたたかい」という戦記物語を投稿して銀メダルを獲得しました。
また、11歳(文献によっては12歳)のときには、学校の国語の授業で書いた作文が、セント・ニコラスの広告担当者の目に留まり、3ドル数セントで買い上げてもらえました。
彼女は、この時に自分は「プロの作家」になったのだ、と嬉しそうに語っていたそうです。
しかし、大学に進んだとき、思いもよらぬ転機が訪れます。
彼女は、作家になる道は、英文学を専攻することだと考えた。
…しかし、2学年が終わるまでに、彼女は、必修科目に生物学にすっかり魅せられていた。そして、自分は作家になるよりも、科学者になりたいのではないかと迷い始めた。
「私は、あれかこれかと考えました。2つの職業が統一できるなどということは、私には思いもよらなかったし、ほかの人たちもまったく同様でした」。(p30)
レイチェルの時代、科学と文学は、まったく相容れないものとみなされていました。科学は難しい文章で表現される学者たちの世界であって、一般大衆とは無縁だったのです。
それでも彼女は、子どものころからの、つきせぬ大自然へ興味、そして海へのあこがれから、科学の道を志すことにしました。
当時、大学に行く女性は少数でしたが、科学者になる女性はもっと少数でした。
海辺 (平凡社ライブラリー) の訳者あとがきによると、「女性で大学に進むのは、非常に優れた頭脳の持ち主か、裕福な家の娘に限られて」いました。(p365)
レイチェルはもちろん前者で、両親は借金してまでレイチェルの学費を捻出してくれました。
やがて、漁業局で募集されていた初級水産生物学者の試験を受けたとき、彼女は唯一の女性でしたが、最高の成績で合格し、採用されました。
こうしてレイチェルは、作家ではなく科学の道に進んだかに見えました。しかし、実のところ彼女は作家としての生き方をあきらめたわけではありませんでした。
政府のパンフレットの文章を書きながら、さまざまな雑誌への応募も続け、徐々に、自分が研究している科学を題材に作品を書くという、独自のスタンスを確立させていきました。
伝記レイチェル・カーソンによると、一作目の「潮風の下に」は、たった1600部ほどしか売れませんでしたが、専門家には好評でした。(p71)
二作目の「われらをめぐる海」は一躍ベストセラーになり、レイチェル・カーソンの名を世に知らしめました。三作目の「海辺」は彼女の名声を不動のものに押し上げました。(p134,167)
彼女が確立した、科学者でありながら作家でもある、というスタンスは、今日ではそれほど珍しくありません。
たとえば、わたしが大好きな脳科学者また作家であるオリヴァー・サックスがそうでした。
彼は、生涯を通じて、たぐいまれなエッセイの数々を世に送り出し、わたしたち一般人にもわかる生き生きした文章で「芸術的な科学」を描き出してくれました。
ネイティヴ・アメリカンの詩人でありながら大学の植物学者であるロビン・ウォール・キマラーもそうです。わたしは彼女の、詩と科学が渾然一体となったエッセイが大好きです。
やはり作家でありながら生物学者でもあるデヴィッド・ジョージ・ハスケルや、同じく作家でありながら精神科医でもあるノーマン・ドイジもそうです。
しかし、作家でもあり科学者でもある、という職業のあり方は、レイチェル・カーソンの時代には存在しないも同然でした。
レイチェルが好きだったピーター・ラビットの作家ビアトリクス・ポターも、科学と芸術両面の才能をもった女性でしたが、最終的には学問の道ではなく絵本作家に進まざるをえませんでした。
ですから、レイチェルが先駆者として道を切り開くまで、科学と文学を融合させる作風はほとんど見られませんでした。
彼女の作品がベストセラーになったおかげで、このジャンルが今日に至るので隆盛し、精錬されてきたともいえます。
レイチェルは、二作目の「われらをめぐる海」がベストセラーになったとき、全米著作賞受賞のことばの中でこう述べています。
多くの人びとは、科学読物が大衆にひろく売れた事実について驚きをもって論評されました。
しかし、このような考え方、つまり「科学」は日常生活とは、かけ離れてそれ自体の別個な世界を形づくっているということにこそ、私は挑戦したいと思うのです。
…科学の目的は、真実を発見し、明らかにすることであります。そして私の考えでは、伝記、歴史、小説であろうとも、文学の目的はそれと同じであると思います。
ですから、私には科学に関する文学という別個のものはありません。(p136)
レイチェルにとって、文学と科学は別個のものではなく、同じ目的を達成する手段でした。
いわゆる「文系」「理系」を隔てる壁は彼女の中にはありませんでした。
そもそも歴史上の偉人の中には、アインシュタイン、ニュートン、フレミング、ダ・ヴィンチなど、科学者であると同時に芸術家としての才能も持っていた人が少なくありません。
レイチェルはまさに、そうした才能の持ち主でした。科学者として難解な研究に取り組みながら、同時に、作家として美しい言葉をつむぎ、わかりやすく噛み砕いて説明できました。
たとえば、海についての三冊の本を書いたとき、彼女は専門文献を読み解き、「科学者たちの書くしばしば無味乾燥で、また極度に専門的な報告」を芸術的な作品へと作り変えました。(p108)
海辺 (平凡社ライブラリー) によると、ニューヨークタイムスは彼女をこう評したそうです。
文学上の天才をあわせ持つ科学者は1世紀に1人か2人しか現れない。カーソン女史は、まさにその1人である。(p367)
伝記レイチェル・カーソンの冒頭には、レイチェルの作家としての心構えがまとめられた章があります。
作家の仕事はこの世で最も孤独なもののひとつなので、孤独を恐れない人だけが作家になるべきだ。
自分の思いを、明快かつシンプルに表現できたと納得できるまで、際限なく推敲しつづける勤勉さが必要だ。
言いたいことを明確に表現できれば、専門用語を使わずとも、最高度の専門的水準は保った文章を書ける。
いつまでかかるかとか、他人が何を期待しているかとかは絶対気にせず、自分のペースを確立して勤勉に書くように。
こうしたレイチェルの言葉の端々から、高いプロ意識がひしひしと伝わってきます。
やがてレイチェルは、このたぐいまれな才能にふさわしい使命に出会うことになります。
彼女にしかできない一世一代の大仕事、それは、この地球を守るため、巨大な既得権益に戦いを挑み、世論を動かす本を書くというものでした。
レイチェル・カーソン―沈黙の春をこえて (愛と平和に生きた人びと)によれば、レイチェルは、それが自分にしかできない仕事だと自覚していました。
強大な力をもつ化学薬品会社は、レイチェルをだまらせるためらたたかいをいどんでくるにちがいありません。
そのうえ、農薬問題をあつかっている農務省までが、彼女の説がまちがっているといいはるだろうことは、目にみえていました。
しかし、このままほおっておける問題でしょうか? だれかが、世界中の人びとに警告しなければなりません。
そのだれかは、科学者であって作家でもある自分が、いちばん適任だし、やらなければならない仕事だと、レイチェルには思えました。(p90)
これはまさに彼女にしかなしえない役目でした。
難解な科学に精通し、幅広い学者間の人脈を持ち、しかも細やかな配慮の行き届いた文学的な表現で、大衆の心をつかみ、行動へとうながすことのできる、稀代のベストセラー作家。
「1世紀に1人か2人しか現れない」とまで評された、その感受性豊かな歌声をもって、人類を危機から引き戻すために、彼女はカナリアとして叫びを挙げることにしたのです。
「沈黙の春」ー戦いをしかけたレイチェル
レイチェル・カーソンは、平和を愛した優しい人、というイメージがあります。でも戦う必要があるときには覚悟を決める人でした。
伝記レイチェル・カーソンによると、国立がん研究所のウィルヘルム・C・ヒューバー博士は、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を通して仕掛けた勇敢な戦いについて、こう述べました。
彼女はなみはずれた学識をもつ誠実な科学者である。
しかも、信念と原則を表明し、かつそのために戦う勇気と能力をももち合わせていた……。
悪罵と非難の嵐がわき上ったとき、レイチェル・カーソンは、それらに対して、敢然と立ち向った。
なぜならば、彼女が指摘した科学的事実は確固としたものであり、彼女の説明は理にかなっていたからである。(p256)
かつて内気で引っ込み思案だった少女が、今や勇敢な戦士として闘うとは、意外に思えるかもしれません。
けれども、彼女が子ども時代に「セント・ニコラス」に投稿した3つの小説は、当時、第一次世界大戦中だった世相を反映したこともあって、どれも戦記物でした。
カナダ人パイロットが勇敢に生還した「雲のなかのたたかい」。次いで「前線からのメッセージ」、「有名な海戦」。
11歳の彼女が、はじめて「プロの作家」として報酬を得た作品は、戦いを描いた文章だったのです
第二次世界大戦が始まったころには、レイチェルは政府機関に努めていましたが、とりとめのない仕事には不満があったようです。
それで、1942年に「私は、戦争遂行に、もっと直接的に役立つような仕事をやりたい」と友人に手紙で打ち明けたこともありました。(p73)
1944年にはコウモリが超音波のレーダーを使うという解説を「リーダーズ・ダイジェスト」に掲載しましたが、海軍から「これまでに出版されているもののうちでもっとも明快なものの一つ」と評され、活用されました。(p77)
レイチェルが執筆に役立てた幅広い海洋学的な知識を得られたのは、「海洋上の軍事作戦に対する潮流の影響を中心議題とするトップレベルの会議にも出席」していたからだとも言われています。(p106)
もちろん、レイチェル・カーソンは決して戦争や暴力を好んだわけではありません。
レイチェル・カーソン―沈黙の春をこえて (愛と平和に生きた人びと)によると、子どものころ、兄のロバートがただ楽しみだけのために動物を狩猟していたときには、ひどく心を痛め、兄をひたむきに説得し、命の大切さを納得させました。(p14-15)
伝記レイチェル・カーソンにも、「アホウドリ」に乗っているときに、船員が面白半分にサメをライフルで撃ち殺したのを見て、心がひどく傷つけられた、という話が書かれています。(p114)
けれども、芯の強い女性だったレイチェルは、大切なものを守るためには、戦わなければならない時があることを知っていました。
彼女は「沈黙の春」出版前に、仲間の研究者だったクラレンス・コタム博士に対して、こう書き送っています
あなたもご存知のように、すべての事柄が余りにも爆発的です。
ある方面からの圧力がすごく強力なので、私が総攻撃を開始する準備が整うまで、こちら側で策略を練りに練るのが得策だと思います。(p250)
レイチェルは戦いに備えて、戦略を練りました。あらかじめ、徹底的に論文を調査し、何百通も手紙を書いて、専門家の裏付けをとりつけました。
その仕事は膨大、そう、あまりにも膨大で、レイチェルは「山のような資料」を手に、「気ちがいのように働」きました。(p231,235)
レイチェルが挑んだ戦いは、毒物を無害だと偽って売りつける商業体制や、それを見過ごしている人々の無関心に対するものでした。
今日では、暴力的な手段に訴える環境団体や環境保護論者も見られますが、レイチェル・カーソンのやり方はもっと理知的でした。
レイチェルは決して、暴力や怒りには訴えませんでした。常に理詰めで行動し、高度な科学的知識と証拠を「武器」に戦いました。
たとえば、伝記の著者であるポール・ブルックスは、地元でDDTの散布量を増やすという町民集会が開かれることになったとき、レイチェルに手助けを求めたそうです。
レイチェルは素早く返事を書き、地域社会の人たちを説得するために使える、生物学的な根拠を要約した文章というかたちの「武器」を送ってよこしました。
「地域社会の長老たちの前で振りまわす、あなたの武器を同封しました」(p267)
このようにレイチェル・カーソンの仕掛けた戦いは、冷静で論理的、かつ科学的な根拠に裏打ちされた正当なものでした。
しかし、出版された「沈黙の春」は、予期されていたとおり、大論争に火をつけました。
そのときの狂乱は、かつてダーウィンがキリスト教会に真っ向から戦いを挑んだときに匹敵すると言われてます。
1962年6月16日、『沈黙の春』が「ニューヨーカー」に連載されはじめると、それは忽ち全国的なセンセーションをまきおこした。
…それよりちょうど1世紀前、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』をめぐって、古典的な論議がたたかわされたが、
それ以来、この本以上に激しい非難を浴びせられたものは他になかったように思われる。
…ダーウィンの研究は、既成の教会の確たる権威に対する挑戦だった。
それに比べると、『沈黙の春』は、はじめ化学工業やその他の関連産業、(食品加工業のような)など、社会の比較的小さい(しかしたいへん金持ちな)部分を怒らせた。
そして中央政府のなかでは、巨大な力を持つ農務省が感情を害した。(p289)
レイチェル・カーソンは「沈黙の春」によって、地球環境の危機を知らしめ、DDTの恐ろしさを告げ知らせました。そして、その恐ろしい害を組織的に隠蔽していた商業体制を告発しました。
毒性のある農薬や化学物質を通して利益を得ていた死の商人たちは、すぐさま猛反発し、あらゆる方法を用いてレイチェル・カーソンの信用を貶めようと画策しました。
出版社に対しては裁判を起こすと脅し、カーソンはヒステリーだと吊し上げ、科学者やジャーナリストを買収して、偽りの情報を拡散しました。
しかし、全体的に見て、これらの妨害工作は裏目に出ました。
「『沈黙の春』に対する農業化学企業の無法な攻撃は、この本の売行きをさまたげどころか、かえってそれを助長し」、この本はまたたく間にベストセラーになったからです。(p252)
レイチェルは、この大パッシングが巻き起こっている間も、いつもと変わらぬ穏やかさを保ち続けました。
論争に飛び込んで、反対者と激論を交わしたり、怒りにまかせて罵りあったりはしませんでした。
なぜなら、「事実はすでに、本そのもののなかに語りつくされていると確信して」いたからです。(p294)
反対する人たちは、「沈黙の春」を読もうともせず、荒唐無稽の主張を繰り返しましたが、一般の人々は、このベストセラーを実際に読んで、その主張に説得力を感じました。
あらかじめ周到に準備し、「総攻撃を開始する準備が整うまで、…策略を練りに練」って本を書いた、レイチェルの作戦勝ちでした。
「衆知の通り、彼女はきわめて注意深く問題に近づいて行った」ので、「彼女の批判者たちよりもはるかに豊富な知識を持っていることが、結局は明らかになって行った」のです。(p306)
やがて世論は時の大統領、ジョン・F・ケネディをも動かします。作成された政府の報告書は、「レイチェル・カーソンの立場を公式に認める」内容でした。(p300)
これに伴い、最初は「沈黙の春」に対して批判的だった「リーダーズ・ダイジェスト」「タイム」そして「サイエンス」などの誌面も、日和見主義的に追随し始めました。(p294,301)
レイチェルは各方面から表彰と賞賛の嵐を浴び、尊敬していたアルベルト・シュヴァイツァー博士の名を冠したシュヴァイツァー・メダルも贈られました。(p308-309)
こうしてレイチェル・カーソンは、地球を守るためのかつてない「戦争」に見事な勝利を収めました。
いえ、勝利を収めたかに見えました…。
今だからこそ彼女から学びたい
確かにレイチェルは、「沈黙の春」によって仕掛けた戦いに勝利し、世論を味方につけることに成功しました。
DDTは規制され、「エコロジー」という言葉が社会に浸透しました。
けれども、残念なことに、レイチェル・カーソンの体は、ガンや関節炎と闘いながら調査と執筆に明け暮れたために、もう限界を迎えていました。
一躍時の人となった彼女は、「沈黙の春」を出版してわずか2年後に、56歳の若さでこの世を去りました。あっという間でした。
その後、奇妙なことが起こります。
現代、わたしたちはレイチェル・カーソンが勇敢に戦い、勝利を手にして亡くなった後の時代に生きているのではないでしょうか。
ところがわたしたちは、レイチェル・カーソンの時代より、はるかに深刻さを増した環境破壊を見ています。いえ、見ているだけでなく、毎日のようにその脅威を肌で感じています。
「沈黙の春」のあの輝かしい勝利はどこに消えてしまったのでしょうか。
敗れ去ったかに思われた貪欲な商業体制は、レイチェルの死後すぐに息を吹き返し、着々と力を整えて、あらゆる分野に手を伸ばし、今や地球をがんじがらめに縛りつけています。
ちょうどこの記事を書いている今日、毎年恒例になっている原子力科学者会報の終末時計の2020年のバージョンが発表されました。
2018-2019年は、米ソの水爆実験の時と同じ、過去最短レベルの残り時間に調整されていましたが、この2020年には、それが初めて更新されました。
動画:「終末時計」残り100秒 1947年の設置以来最短に 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
同誌のレイチェル・ブロンソン(Rachel Bronson)社長兼最高経営責任者(CEO)は発表で、
「世界が終末にどれだけ近づいているかを示すのに、われわれは今回、時間、ましてや分でなく、秒を使っている」と指摘した。
このような報道は、いたずらに不安をあおっていると非難されることもありますが、わたしはそうは思いません。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」もそうやって非難されました。
世界の状態を、偏見のない目と科学的な知識をもって見れば、これでも緊急感が足りないくらいです。
環境問題だけをとってみても、レイチェル・カーソンの時代より、はるかに複雑で、多岐にわたる問題が頻発しています。
生物学について学べば、ハビタブルゾーンにある地球の居住環境が、どれほど絶妙なバランスに調整されているかがわかります。
レイチェルが沈黙の春 (新潮文庫) で書いているように、「地上の生命の歴史は、生物とかれらをめぐる環境とのかかわりの歴史」であり、「地上の動植物の形や習性は、おもに環境によってかたちづくられてきました」。
別の本、海辺 (平凡社ライブラリー) では、「あらゆる種類の生物が比較的せまい温度域…に、きわめてデリケートに適応している」と書いています。(p39)
もし、絶妙に設定されたダイヤルの目もりが少しでもずれ、わたしたちの居住環境のバランスが急激に変化すれば、ヒトも含めて容易に大量絶滅が起こりうるでしょう。
でも、これほど深刻な環境問題は、数ある人類の危機のうち一つにすぎないのです。
あまりに世の中がおかしくなっているので、かえって異常が日常になってしまい、危機感が麻痺している人も少なくありません。
もし今の時代に、レイチェル・カーソンが生きていたら、どんな活動をしているでしょうか。
きっと、彼女のことなので、環境保護活動の最前線で戦っていそうです。
いま注目されているグレタ・トゥンベリさんとは性格が真反対に思えるので、声を荒らげて演説することはなかったでしょう。
その代わり、自分の科学的知識と文学的才能を駆使して、次々にベストセラーを生み出し、人々の心を動かそうと務めたはずです。
彼女は、本当の意味で人を行動へと促すのは、科学的な論議でも、暴力でも憤りでもないことを知っていました。
センス・オブ・ワンダーでは、単なる「知識」ではなく、全身の感覚を使って「感じ」、経験することによって、地球のすばらしさを知ること、それが最も大切だと述べていました。
レイチェル自身がそうしたように、自分の足でこの地球上を歩き回り、草花を愛で、森の木陰で休み、鳥の歌声を聞き分け、海辺で生き物を探し回り、海中の大冒険に出かけ、五感すべてで自然を味わいつくすとき。
そのときはじめて、人は地球との愛着の絆を結び、このかけがえない住みかを守り、大切にしなければならないことを悟るのです。
雷のとどろき、風の声、波のくずれる音や小川のせせらぎなど、地球が奏でる音にじっくりと耳をかたむけ、それらの音がなにを語っているのか話し合ってみましょう。
そして、あらゆる生きものたちの声にも耳をかたむけてみましょう。
子どもたちが春の夜明けの小鳥たちのコーラスにまったく気がつかないままで大人になってしまわないようにと、心から願っています。(p38)
地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。
…鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。
自然がくりかえすリフレイン―夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ―のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。(p50-51)
わたしたちは、レイチェル・カーソンがしたように、この地球との絆を強めているでしょうか。
ただ環境保護の必要性を声高に叫ぶだけでなく、地球のすばらしさを実感し、本当の意味で守りたい、大切にしたいと感じているでしょうか。
レイチェル・カーソンは、「沈黙の春」を通して地球の危機を警告しましたが、「沈黙の春」は彼女の作品としては例外的な本だと冒頭で書きました。
他の4冊の本を読むと、彼女がいかに繊細に自然を楽しんでいたかが伝わってきます。
大海原を飛翔する海鳥の生活や、潮流を駆け巡る魚たちの一生を生き生きと描いた潮風の下で (岩波現代文庫)を読むと、まるで自分がそれらの生き物になったかのように大自然の情景に吸い込まれます。
海の魅力をさまざまな角度から科学的に描き出したわれらをめぐる海 (ハヤカワ文庫 NF (5))を読むと、大海原を冒険し、悠久の時を感じ、できることなら深海まで潜ってみたくなります。
波打ち際の生態系を描いた海辺 (平凡社ライブラリー)を読むと、自分がいかに表面だけしか見ていなかったかを思い知らされ、身近な海岸を散策して、じっくり観察してみたくなります。
そしてセンス・オブ・ワンダーを読めば、海辺に住んでいようと、森のそばに住んでいようと、夜であろうと、雨の日であろうと、五感を研ぎ澄ませば、驚きと不思議に満たされた経験ができることがわかります。
伝記レイチェル・カーソンによるとレイチェルは、ガンに冒されて苦しんでいた晩年でさえ、自然界と触れ合うことから満足感と安らぎを得ていました。
死期が近いことを悟ったとき、彼女は友人への手紙にこう書きました。
私が、私を知らない多くの人びとの心のなかにさえ、そして美しく愛すべき物ごととの連想を通じて、私は生きつづけるだろうと考えるのは嬉しいことです。(p317)
レイチェルの生涯、そして彼女の5冊の本は、確かに今なお輝いています。嵐のごとく暗雲が垂れ込める時代にあって、進路を示す灯台の明かりのように、いよいよ輝きを増しています。
わたしたちは、今こそ、彼女の優れた感受性が紡ぎ出した言葉から学ぶべきです。
地球が朽ち果ててしまう前に、確固たる絆を結んで、その美しさと価値を味わい知るために。