虹を見ました。うだるような暑さの中、雨上がりの空に架かる虹の鮮やかさは格別美しいものでした。
わたしは、虹を目にするとき、いつも自分に問い尋ねることがあります。それは、「わたしは“虹を見る目”をもっているだろうか」ということです。
“虹を見る目”、それをもっているかどうかは、わたしにとってとても大切なことです。それがあるかどうかによって、病気は耐えやすくもなれば、耐えがたくもなります。
ここで述べる“虹”とは何でしょうか。“虹を見る目”を養うには、どうすればいいのでしょうか。みなさんは、毎日の生活の中で“虹”に目を留めておられますか。
ありふれた光が描く色とりどりの虹
太陽の光はほんとうに不思議なものです。
太陽の光は、一日じゅう、絶え間なくわたしたちを照らしています。しかし、普段、わたしたちは太陽の光を意識することはあまりありません。なぜでしょうか。
それは太陽の光は「白色光」であり、無色透明に見えるからです。
ところが、太陽の光は、雨上がりの大気に浮かぶ水滴に差し込むと、複雑に屈折します。白色光として束ねられていたさまざまな波長の光線は、わずかにずれて、さまざまな色の光に分かれます。そして、わたしたちの見る美しい虹となって空に架かります。
わたしたちは、空を彩る虹を見るとき、太陽のありふれた光が、じつは色とりどりの光の束だったことに気づきます。ふだん当たり前に感じていた太陽の光の、別の一面を発見して、喜びにあふれるのです。
ありふれた物事に感謝する色とりどりの理由
わたしたちは太陽の光を毎日受けていながら、そこに色とりどりの光が含まれていることには気がつきません。同様に、いつも周りにいる人や、身の回りのありふれたものから益を受けているのに、感謝できる色とりどりの理由を見逃している、ということはないでしょうか。
病気や障害といった辛いできごとは決して嬉しいものではありませんが、見逃している大切なものに気づくきっかけになることがあります。
ちょうど、どしゃ降りの雨が上がったあと、太陽の白色光が虹を描くように、辛い経験を通して、何気ない物事や、いつもそばにいてくれる人、当たり前に感じていたささやかな親切の、かけがえのない大切さに気づくかもしれません。
“虹を見る目”を養う
もちろん、辛いできごとを経験するだけで、自動的に感謝できる理由に気づけるわけではありません。“虹を見る目”を養うには意識的な努力が必要です。
では、ありふれた物事の中に感謝できる理由を見つけるには、どうすればよいのでしょうか。
これまで、このブログでは、物事を違う角度から見る方法を幾つか紹介してきました。
1.幸せを数える
化学物質過敏症の早苗さんのように、毎日ひとつ、感謝できる理由を探すなら、1年で365色の、色とりどりの幸せに気づくことができます。何気ない無味乾燥な日々の中に、七色に輝く贈り物を発見できるかもしれません。
また3 good thingsの取り組みに倣って、良かったことを3つ、毎晩寝る前に書き出してみるのも良いでしょう。一日のできごとを振り返る時間を取り分けるなら、見逃していた大切なものに気づくことができます。
わたしが知っているあるALS(筋萎縮性側索硬化症)の方は、病気を発症した後になって、自分が恵まれている点を数え始めました。やがて、症状がいよいよ悪化して、身体が動かなくなり、言葉が不明瞭になりましたが、その積極的な思いは、病気を忍耐する助けになりました。
2.日常のことに注目する
感謝できる理由を見つける別の方法は、日常のありふれたこと、当然と思っていることを、つぶさに観察することです。作家ウィル・デュラントは、「生活のごく普通の働きすべてには,何らかの喜びがある」と述べました。
幸せは、追い求めるものとは限りません。メーテルリンクの青い鳥の童話のように、じつはごく身近なところで羽を休めているのかもしれません。問題は、わたしたちが立ち止まって、それに気づくかどうかなのです。
3.リフレーミングする
病気や障害は決して嬉しいものではありません。
しかし、その状況を変えることができない以上、見方を変えるのはいかがでしょうか。雨を止ませることは決してできませんが、雨に対する見方を変えることはできます。どしゃ降りの雨を、虹を見るための機会ととらえるのです。
アメリカの歌手、ドリー・パートンはあるときこう述べました。
わたしの見方からすると、虹を見たいなら、雨は我慢しなくちゃならない
同じように、病気や障害そのものではなく、苦しいできごとを通して得た貴重な経験や、気遣ってくれる身の回りの人たち、自分自身の心の成長など、積極的な側面に思いを向けることができます。
わたしが見た虹
わたしは、不登校になってしばらくになります。病気という大あらしに吹きあおられて、太陽も、星さえも見えない日々もありました。今でもなお、いつ降り止むか分からない長雨のさなかにいます。
しかし、この病気をきっかけにして、身の回りのありふれたものや、家族や友人への見方が変わったことも確かです。
ちょっとそこまで散歩したり、優しく手を触れたり、愛する人の料理を味わったり、友と語らったり…。そんな何気ない日常の大切さに気づくことができました。また、周りの人のちょっとした親切や気づかい、思いやりのある一言に感謝できるようになりました。
みなさんは、今、何かの試練に直面していますか? ごうごうと打ちつける雷雨のような風あらしにうちひしがれているでしょうか? 突然の夕立に驚いて、目的地への道のりを踏み出せないでいますか?
もしそうなら、“虹を見る目”をぜひ養ってほしいと思います。ありふれた物事の中に、喜ぶ理由、感謝する理由を見つけ出す“虹を見る目”は、つらい状況にいるすべての人にとって、なくてはならないものです。
あなたは虹を見ますか?
残念ながら、空に虹がかかっていても、すべての人が見ようとするわけではありません。わたしが今日、虹の写真を撮っていると、2種類の反応が見られました。
ある人は、何を写真に取っているんだろうと関心を寄せて、「おお、虹だ」と感動し、自分の携帯のカメラにおさめていました。
しかし別の人たちは、見向きもせずにわたしの横を通りすぎて行きました。とても忙しかったのかもしれませんし、自分のことで頭がいっぱいだったのかもしれません。せっかく美しい虹が架かっているのに、ほんの一瞬、足を停める心の余裕さえなかったのです。
わたしは、虹を見るたびに、自分はどちらの人だろうか、と自問します。
自分は、病気や障害があっても、身の回りの人や物への感謝の気持ちを深めているだろうか。それとも、自分のことでいっぱいいっぱいになって、心の余裕を失っているだろうか。
わたしもまだまだ、自分のことに気を取られて、“虹を見る目”を失ってしまうことがよくあります。
それでも、こう思うのです。
この病気になってしまったという事実はもはや変えようがない。
そうであれば、降り止まない雨に打たれてうつむいているよりは、ときどき雲の切れ間にのぞく、色とりどりの虹を探して、空を見上げているほうが ずっといい、と。