「人生を心底味わっている気がしない」
「生きる喜びが感じられない」
近年、そんな人が増えているといいます。
実のところわたしもそうでした。過去の記事で書いたように、解離、または離人症と呼ばれる症状です。
離人症という症状は、差し迫った危機に対する脳の防衛反応です。人類はずっと昔から、命の危機やトラウマにさらされるたびに離人症を経験してきたことでしょう。
しかし、今日の事情は違います。「生きている実感に乏しい」人は、はるかに多くなりました。たとえ明確なトラウマがあるわけでなくても、です。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにこう書かれています。
トラウマを生き延びた人だけがからだから切り離されているのではない。
軽度のからだとこころの分離は現代文化に浸透していて、私たちすべてに大なり小なり影響を及ぼしているのである。(p419)
原因はどこにあるのでしょうか。その答えは、身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)という本に書かれていました。
最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。
自分がしっかりここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。
現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。(p2)
現代社会に蔓延する「軽度のからだとこころの分離」や「自己の存在感の希薄化」。
その原因は、「心理面だけでなく、身体感覚の助け」の欠如にあるのです。
近年、脳科学の進歩とともに、わたしたちの「今ここに生きている」という自己意識は、身体感覚によって生み出されていることが、わかってきました。
この記事では、現代社会に生きるわたしたちが、いかに身体感覚から切り離されてしまっているか、どのようにして「生きている」実感を取り戻せるか考えてみましょう。
もくじ
ソマティック・エクスペリエンス(身体的な経験)が必要なわけ
冒頭で引用した本、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの著者、ピーター・ラヴィーンはトラウマを専門とするセラピストです。
わたしは、さまざまなトラウマの専門家の中でも、特に彼の考え方に感銘を受けてきました。
このブログは、書き始めてからずっと五里霧中で、様々な話題をあてどなくさまよっていました。
ところが、ラヴィーンのこの難解な本を読んだとき、今まで疑問に思っていたことがぜんぶつながりました。
そのとき書いたのが以下の記事でした。興奮して主治医にも読んでもらったほどです。それをきっかけに、考察の軸ができて、次々に、自分のことを理解できるようになりました。
彼は、このブログでも何度か紹介してきた、「ソマティック・エクスペリエンシング」と呼ばれるトラウマのセラピー技法を開発したことで知られています。
日本でも、発達性トラウマ障害のすべて (こころの科学増刊) などの本で取り上げられ、近年注目されています。
でも、今回注目したいのは、トラウマセラピーの技法としての「ソマティック・エクスペリエンシング」ではありません。
「ソマティック」という言葉は、訳せば「身体の」という意味です。ですから、ソマティック・エクスペリエンシングには「身体で経験する」という意味があります。
どうしてピーター・ラヴィーンは、自分のセラピー技法にこんな名前をつけたのでしょうか。
よくある◯◯療法、◯◯セラピーといった定番のネーミングではなく、「身体で経験する」という、風変わりなネーミングです。
その理由は、ラヴィーンの本を読むとわかります。彼がどういった経緯で、どんな思いで、この治療法を組み立てたのかを知ると、とてもしっくりくる名前なのです。
彼は、自分の考察の要点をまとめた総括の部分で、こう書いています。冒頭でも引用した部分ですが、今回は前後の文脈を含めて読んでみましょう。
ドリー・プレヴィンの歌のように、からだで経験されない神話的経験はまるで「定着しない」。そうした経験は地に足がついていないからである。
トラウマに苦しむ人は慢性的解離の世界で生きている。
からだから切り離されたこの永久的な状態は、方向感覚を見失わせ、今ここ、とのつながりを奪う。
しかしながら、先に述べたように、トラウマを生き延びた人だけがからだから切り離されているのではない。
軽度のからだとこころの分離は現代文化に浸透していて、私たちすべてに大なり小なり何らかの影響を及ぼしているのである。(p419)
ラヴィーンは、トラウマ当事者が悩む症状を分析するうち、その根源は、身体と心の切り離し、すなわち「解離」と呼ばれるものだと気づきました。
トラウマを負った人たちは、自分が今ここに生きている、という実感がありません。あたかも身体から切り離されてしまったかのように、生きている実感が希薄で、離人症に悩まされています。
それだけでなく、現代社会に生きている多くの人もまた、「軽度のからだとこころの分離」に苦しんでいることもわかってきました。必ずしもトラウマを負ったわけではなくてもです。
冒頭でも書いたように、現代社会で「自己の存在感の希薄化」に悩む人が増えていることは、別の研究者も同意しています。
ラヴィーンは、この本全体を通して、その原因を明らかにしています。
それは「体現化の欠如」、もっと簡単な言葉に言い換えれば、身体的な体験が欠けていることにある、と論じています。
トラウマ治療において、トークセラピーのような言葉だけのカウンセリングが、ほとんどの場合うまくいかないのは、身体感覚による実感がともなっていないからです。
簡単な例をひとつ考えてみましょう。子どもは、恐ろしい経験をしたとき、親から、身体を抱きしめてもらい、身体の芯で愛情とぬくもりを感じたなら、きっと心底安心できるでしょう。
しかし、うわべだけの態度で慰められるだけだったら? ただ「愛してるよ」と言われるだけだったら? 身体感覚を伴わないそんな経験は、決して心の奥底にまで達しないでしょう。
これと同じことが現代社会に蔓延している、とラヴィーンは述べます。
かつて人類は、自然界の中で、さまざまな身体感覚を味わいながら生きていました。
恐ろしい危機に直面したときは、解離によって自己防衛し、身体感覚を切り離すことで心を守りました。
でも危機が去れば、再び心と身体はつながりました。おそらく大自然のリズムを全身で感じることで、トラウマ反応がリセットされていたと思われます。だから離人症は長引きませんでした。
ところが、近代化以降、わたしたちの社会では、身体を使って何かを経験することが日増しに少なくなってきました。
身体で経験する代わりに、本やネットで読むだけ、テレビや動画で見るだけ、といった底の浅い体験が社会を満たしました。
その結果、わたしたちは、本当の意味で、生きている実感を味わったり、トラウマから回復したりすることができなくなってしまいました。
引用した部分で書かれていたように、『からだで経験されない神話的経験はまるで「定着しない」。そうした経験は地に足がついていないから』です。
脳科学者たちの研究によれば、わたしたちの「生きている感じ」は、身体感覚を処理する島皮質などの部位から生まれます。
かつての心身二元論(心と身体を別物としてとらえる概念)は今日の脳科学では否定されています。わたしたちの身体は、ただ脳を載せて運んでいる乗り物ではありません。
身体と脳(心)は密接につながっていて、分けることができないものです。心は有機的な身体活動の結果として生み出されます。
ということは、トラウマから回復したり、生きている実感を心底感じたりするには、身体全体で感じることが不可欠です。身体なくして心を論じることはできません。
だから、ラヴィーンは、自分が開発したトラウマセラピーに、「ソマティック・エクスペリエンシング」すなわち「身体で経験する」という単刀直入な名前をつけました。
その名称は、単なるセラピー技法にとどまらず、わたしたちが変化するには、身体的な経験が不可欠だ、ということを伝えています。今回の記事で考えるのはそのことです。
かつて身体的経験はありふれていた
ラヴィーンは、身体的な経験の欠如が、「現代文化に浸透して」いると書いていました。
同様に、この記事の冒頭で併せて引用した、身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)という本では、「現代の日本で」「最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる」と書かれていました。(p2)
両者の指摘は共通しています。現代社会では身体的な経験がおろそかにされていますが、かつてはそうではなかった、ということです。
身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)の主張によると、かつての日本人は、「腰」や「肚(はら)」、つまり身体の芯に力がみなぎっていました。
その名残が、「腰が据わっている」「肚(はら)ができている」「地に足がついている」といった慣用句だといいます。相撲のような身体の芯の強靭なバランスを競う文化が根付いていたこともそれを裏づけています。
かつての人間は、意識しなくても、日常の生活のただ中で、地に足のついた感覚を養うことができました。それこそが「今ここに生きている実感」の源でした。
そのような実感は、たとえ不幸にもトラウマ的な経験を負ってしまったとしても、現実世界に根ざして踏ん張り、乗り越える足がかりとなったでしょう。
そうでなければ、人々はどうして、あれほどの戦争や内乱を乗り越えてこれたでしょうか。
ところが、わたしたちの生きる時代では、生きている実感の希薄さが蔓延しています。
わたしの精神的な師である三池輝久先生は、子どもの不登校と慢性疲労症候群を脳科学的に考察した医師ですが、現代の多くの子どもが「生きる意欲さえ失いつつある」ことに気づいていました。(p119)
先生の著書、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている に書かれていたこのエピソードは、とても印象的でした。
若者たちが「戦争を体験した人たちがうらやましい」という言葉を、戦争を語り継いでいる評論家の清水真砂子氏に投げかけたというエピソードが書かれていた。
思わずどきっとする言葉であるが、彼らの言い分は次のようであったという。
「戦争を語るみなさんは生き生きとして楽しそうである。私たちは何一つ感動して話をするような経験がない」
このことは、いいかえれば現代の若者たちが、戦争を体験した世代よりも
ある意味ではるかにつらくて苦しい時代に生きているのではないか、ということもできると清水氏は述べている。(p150)
かつて戦争を乗り越えた人々は、地に足をつけて育った世代でした。ほんの子どものころから自分の足で深い雪の中を歩き、漁船を乗りこなし、農作業や大工仕事で生計を立てていました。
苦労しながら生き抜いた身体的な経験は腹の底にたくわえられ、ちょっとやそっとではへこたれない強さを生み出しました。戦争の爪痕というトラウマを乗り越える原動力にもなりました。
しかし、今のわたしたちは違います。「私たちは何一つ感動して話をするような経験がない」。この言葉の裏に、人生の体験の希薄さがあることは言うまでもないでしょう。
わたしもそうでしたが、現実世界で生きている喜びを感じられない若者たちは、空想の冒険にのめりこみます。
ゲームの中で勇者になりきって波乱万丈の冒険を楽しんだり、異世界に転生して英雄扱いされるストーリーを想像したりします。
でも、そんな空想の体験は、何一つ本物の自信は生み出してくれません。いくらゲームで世界を救ったところで、腹の底にみなぎる自信はわいてきません。
若者たちは、トラウマを乗り越えるどころか、ちょっとした人間関係の言葉のやりとりにさえ傷つく「ガラスのハート」を抱えています。
空想の冒険はいわば「神話」なのです。
『からだで経験されない神話的経験はまるで「定着しない」。そうした経験は地に足がついていないからである』。
地に足のついていない、身体的に経験されていない体験は、どれほど壮大でも、人生のかてにはなりません。
離人症の治療テクニックのひとつに「グラウンディング」、つまり「地に足をつける」という手法があります。
わたしたちの世代は、足腰を踏ん張るとはどういうことなのか、地に足をつける感覚を得るにはどうすればいいか、セラピストからわざわざ教わらねばならないほどなのです。
「自分たちの世界を直接経験する力を失いはじめている」
いったい ひと昔前と今とでは何が変わってしまったのでしょうか。
わたしは、生まれたときから近代化社会で育ってきました。コンピュータや、携帯電話や、便利な交通機関や、コンビニなどに囲まれて成長してきた世代です。
わたしにとってみれば、この子どものころからの生活こそ「普通」のものなので、戦前や産業革命以前の生活がどんなものだったか、想像だにできません。だから、身体的な経験が失われたといってもピンときません。
でも、かつての生活を知る人たちの中には、社会の近代化とともに、身体感覚の重要性が薄らいでいる、と警鐘を鳴らしている人がかねてからいました。
たとえば、あなたの子どもには自然が足りない によると、心理学者エドワード・リードは、情報時代にさしかかり、社会から「経験」の大切さが失われていると主張していたそうです。
フランクリン・アンド・マーシャル・カレッジの心理学助教授だった故エドワード・リードは、情報時代の神話に関する最も歯切れのいい批評家だった。
著書『経験の必要』の中で彼は、「世の中を良くするためにはほとんど役に立たない情報の滓を
誰もがどこででも手に入れられるよう加工処理するために、金を使い何時間も努力するような社会は、何かが間違っている」と言う。
現代の主流派文化人もポップカルチャーの担い手も、リードが言った「最も根源的な経験」―自分で見る、感じる、味わう、聞く、嗅ぐということ―に何の注意も払わない。
リードによれば、私たちは「自分たちの世界を直接経験する力を失いはじめている。
経験という言葉の意味には内容が伴わなくなってしまった。同様に、日常の生活の中での体験も貧しくなってしまった」(p86)
リードは情報社会以前の生活を知っていました。そして、人類が近代化とともに、「自分たちの世界を直接経験する力を失いはじめている」ことに気づいていました。
ここでちょっと、インターネットもスマホも、テレビもゲームもなかった時代を想像してみてください。不便な生活という以上に、その時代の暮らしを思い描いてみてください。
何か調べたいことがあってもGoogleはありません。友達に連絡したくてもSNSはありません。自分の手で調べ、自分の足で出向かねばなりません。
コンビニやスーパーはありません。インフラも限られています。日々の食材や調味料はどうやって手に入れるのでしょう。水はどこから調達すればいいでしょうか。
何をするにも時間と体力が必要です。前もって先に先に考える必要があります。夏のうちから冬の備えが必要です。生活必需品は簡単には手に入らないからです。
そんな生活は確かに不便です、日々の必要物を得るのにも、ちょっとした知識を学ぶにも、あちこちに出向いたり、体力を使って働いたりする必要がありました。
でもそのおかげで、身体的な経験はとても豊富になりました。
険しい山や川床をどう歩くべきか知っていました。斧で薪を割ることに熟練していました。
野草の見分け方を知っていました。魚の捕まえ方を知っていました。家畜を世話することができました。木の樹皮から繊維を取って服を織ることもできました。
それらすべては、自分は「今この瞬間に生きているのだ」という実感を生み出しました。ネットで何でもすぐ調べることができ、コンビニで何でも買える現代には容易に得られない実感です。
この本では、詩人D・H・ロレンスの次のような言葉が引用されています。過去の世代の人々と、現代のわたしたちとでは、世界のとらえ方がどう変わったかを教えてくれる文章です。
表面的には、世界は小さく、よく知られたものになった。
可哀想な地球よ。旅人はおまえの上を、ブーローニュの森かセントラルパークを回るかのように急ぎ足で回る。
もう不思議は残されていない、もう見たし、すべて知っている。地球のことはもうすっかりわかったのだ、と。
それは確かに事実だ。表面的には。私たちは地球の上を、ひたすらその表面に沿って旅してまわり、すべてを見てまわった。
だが、表面的な知識が増えるほど、深い洞察は少なくなる。それは大洋の表面をすくい取って、海のすべてを知ったというようなものだ。
実際、私たちの曽祖父たちはどこへも行かなかったが、どこへでも行って何でも眺めてきた私たちよりもずっと、世界についての経験が豊かだった。
…知ったかぶりをする心は、文明を包む粘着質の紙の外側にとどまらざるを得ないことの結果として生まれるにすぎない。
その下には、私たちが知らず、知るのを恐れているあらゆることがある。(p79)
わたしたちの生きている時代は、ロレンスが描写した「知ったかぶり」の文明の最たるものです。
スマホを手にし、インターネットに接続できさえすれば、わたしたちは何でも調べることができます。あらゆる動植物の知識、あらゆる文化や民族の生活、なんでも調べられます。
You Tubeによって「地球の上を、ひたすらその表面に沿って旅してまわり、すべてを見てまわ」ることができます。南極やアマゾンの奥地やエベレストのてっぺんの風景さえ見、音を聞くことができます。
こうして、なんでも知っている気になります。こんなに情報が豊かな時代はかつてありませんでした。
では、その知識は果たして「本物」でしょうか。そこに身体的な経験は伴っているのでしょうか。
いいえ。ロレンスは言います。それはただの知ったかぶりだと。
なぜなら、「私たちの曽祖父たちはどこへも行かなかったが、どこへでも行って何でも眺めてきた私たちよりもずっと、世界についての経験が豊かだった」からです。
南極の景色も、エベレストの絶景も見たことがなく、動植物に関する科学的な発見も知らなかったでしょう。でも、自分の身体を使って学んだ経験は、どんな大学教授よりも豊富だったのです。
だとすれば、わたしたちの時代は便利で裕福なようでいて、内実はスポンジのようにスカスカで貧しい時代だといえるのではないでしょうか。
三池輝久先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている で、次のように書きます。
物質が豊かであれば幸せであるという発想は、貧しい時代に生まれ育ったわれわれ大人たちが描いていた幸せであり、経済的に貧困な時代における幸せなのである。
私には今の子どもたちが少しも幸せとは思えないのである。
多くの子どもたち(熊本では60パーセント、関東で70パーセントの中学生)が、
時間に追われてゆとりがなく、朝起きることさえできないと訴えており、将来の夢や希望ももてず、生きているのさえおっくうだと感じているというのである。
…物質的な豊かさと人の心の豊かさとは無関係であることを、私たち大人はそろそろ学ぶべきである。
…「生きる意欲さえ失いつつある」と懸命に訴える子どもたちに対する大人たちの対応は「贅沢を言うな」であるが、それは贅沢ではない。(p118-119)
物質的な意味での豊かさが、人生の豊かさを生み出すわけではないのです。
先に引用したように、現代社会の若者は、戦時下の人々の熱い語りをうらやましく感じ、異世界の冒険を題材としたゲームやラノベに現実逃避してしまうほどなのですから。
あなたの子どもには自然が足りない でも指摘されているとおり、物質的に豊かな社会では、犠牲となって失われた代価があります。
「情報時代」というのは実は神話なのだ。
私たちには、自分たちのインドア・ライフがあたかも、次元が一つ二つなくなってしまったかのように、広がりを失っているように感じられる。
…携帯電話はデジタルカメラに、デジタルカメラはラップトップコンピュータに、
ラップトップコンピュータはジョージア州メーコンの上空のどこかに漂っているe.メール用人工衛星の自動送受信機につながっている。
…しかし、生活の質というものは私たちが得たものだけで測られるわけではなく、それを得るために何を手放したかによっても測られなければならない。(p80)
わたしたちは、科学の進歩のおかげで、過去の時代に比べれば、生活の質があらゆる点で向上したと錯覚しています。
確かに過去に比べてはるかに便利になりました。でも、便利さと引き換えに「手放した」ものが確かに存在しているのです。
それこそが、身体的な経験です。
科学がもたらしてくれた便利さと引き換えに、わたしたちの時代にはほとんど失われてしまった、生きている実感の源なのです。
身体的な経験をないがしろにする教育
現代社会に生まれたわたしたちは、子どものときからずっと、主に自分の家の中で、テレビやゲーム、インターネットによって知識を取り込んできました。
自分の足で世界中を旅する代わりにテレビ番組で景色だけを眺め、生きた動物と触れ合う代わりにゲームの中のキャラクターを世話します。
映画やVRで仮想の冒険にひたり、ポルノによって現実の身体を持たない異性に夢中になります。
本当は何も身体で経験していないにもかかわらず、表面的な知識だけで、何もかも知っているかのように思い込むようになり、世界は狭いと錯覚しています。
身体的な経験の欠如は社会のあらゆる分野に入り込んでいます。そのうち最も若者に対して影響力が強いのは、学校教育でしょう。
今日の学校教育のスタイルはどのようなものでしょうか。それはとてもシンプルです。
自分の身体で経験する機会をほとんどすべて廃し、教科書を手に、教室で座って、先生と黒板を見ながら学ぶというものです。
それがどれほど「知ったかぶり」の知識を生み出すかは、詳しく説明するまでもないでしょう。みんな知っていることです。
わたしは学校のテストではいつも好成績でした。生物でも、地学でも、化学でも、正しい答えを書くことができました。
保健体育のテストでは身体の構造を把握し、国語のテストでは人々の気持ちを汲み取ることができました。
では実生活ではどうだったでしょう?
街路樹の名前もわからず、道ばたの草が何に使えるのかも知りません。自分の身体をどう管理すべきか、身近な人とどうコミュニケーションすればいいか、何もかも未熟でわかりません。
有名大学の生徒でも、ひどく世間知らずで、人付き合いが下手で、必要最低限の生活スキルさえ持っていないことがよくあります。
先に引用した文中でピーター・ラヴィーンが書いていたように、身体感覚の伴わない、言葉だけの浅はかな知識は、定着しません。「地に足がついていないから」です。
実体験のない知識など、「生きた」「本物の」知識ではありません。
あなたの子どもには自然が足りない に引用されている、スタンフォード大学医学部神経科のフランク・ウィルソン教授の言葉からも、そのことがわかります。
ウィルソンによれば、医学部の教師たちは、心臓のポンプとしての機能について学生に教えるのが最近だんだん難しくなってきたと言うが、それは「学生たちに現実世界での経験がなさすぎるからだ。
彼らはポンプで何かを吸い上げたこともなければ、車を修理したこともないし、
ガソリンのポンプを扱ったこともないし、おそらく庭の水撒き用のホースをフックに架けることすらもしたことはないだろう。
あらゆる子供たちにとって、裏庭や物置小屋や野原や森での直接的な経験は、機械を通しての間接的経験に取って代わられてしまった。
これらの若者たちの頭は鋭く、コンピュータで育ったのだから、優秀なはずだと思われている。
しかしわれわれはようやく、彼らには何かが足りないことに気づきはじめたのだ」(p89)
「ポンプを扱ったこともないし」「水撒き用のホースをフックに架けることすらもしたことはない」というのはささいなことでしょうか。
そうはいえません。わたしたちは自分の身体を通して、この世界と関わっているからです。
ポンプやホースに限らず、農地を掘り返すスコップや、雑草を刈るカマ、船をくくりつけるトモヅナ、そして他のどんな道具であっても、物理的にこの世界と関わる経験はとても大切です。
そうした肉体的経験の積み重ねが、この世界に、ひとつの身体をもって生きているという実感を生み出します。
たとえ、コンピュータ上で物理法則の数式を計算し、車であちこちに移動できたとしても、自分の手と足、そして身体全体を使ってこの世界の物理法則を実感した経験がないなら、生きている実感など生まれません。
知識だけの教育は知ったかぶりを生み出すにすぎません。「優秀なはず」なのに「何かが足りない」学生たちを輩出しています。
生態学者のなかには自分がモデルに使ったり予測したコミュニティやそこに属する生身の人々を見たことのない者すらいるのだ。
それは、本物の心臓がどんなものかを知らないままに心臓手術ができるという幻想を抱くようなものだ。(p253)
このような傾向は、日本でも、あらゆる大学のあらゆる学部で見られる普遍的なものでしょう。
自身も離人症に悩んだと思われる作家のアルベール・カミュもまた、シーシュポスの神話 の中で、現実世界での体験の伴わない教育のむなしさを嘆いていました。
きみはぼくにこの世界の姿を描き述べてくれる。世界を分類整理するすべを教えてくれる。
きみが世界の諸法則を列挙するので、知識に渇えたぼくは、それらの法則が真実だということに同意する。
…だがきみは、数個のエレクトロンが一個の核の周囲をまわる不可視の太陽系についてぼくに語るのだ。…そのときぼくは、きみが詩に到りついていると認める。
…こうしてぼくにいっさいを教えてくれるはずだったあの科学は仮説となって終わり、あの明察は比喩のなかに沈みこみ、あの不確定性は芸術作品に化してしまう。
どうしてあんなにおびただしい努力を重ねる必要がぼくにあったろう。
たたなわるあの丘々の優しい線や、乱れさわぐこの心をそっとおさえてくれる夕暮れの手のほうが、世界についてずっと多くのことをぼくに教えてくれる。(p40-41)
カミュの言うとおり、実体験の伴わない教科書だけの教育は、つかみどころのない詩のようなものです。
単に科学の教科書で法則を学ぶより、実際に現実世界を体験し、全身で味わうほうが、「世界についてずっと多くのことをぼくに教えてくれ」ます。
そもそも科学の進歩を導いてきた科学者たちはそうやって体験から学び、この世界の諸法則を発見したのですから。
学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている の中で三池輝久先生は、「経験」の伴わない教育は、子どもたちの成長の機会を奪っていると痛烈に批判しています。
当然、経験により次の行動を組み立てる脳が育たないので、子どもたちには大きなありがた迷惑である。
おまけに学校社会における評価は知識をためこみ即座に答えを出すことで決められる。コンピュータと同じ働きを、学生たちの脳に要求してきたのである。
前頭葉の賦活こそが知育教育の要であることは冒頭に述べた。しかし、コンピュータ型の教育では、当然前頭葉には出番がない。
ゆえに指示待ちができあがる。きわめて簡単・明快・当然な現象である。
自分で考えて生きていきたい欲求の強い学生たちに不登校が多いのは、このような脳につくり替えられることへの不安と抵抗があるからということもできる。(p126-127)
「経験」が伴わない知識だけの教育は、腹の底に蓄えられることはありません。地に足がつかないままで、自信をもてない若者は、自分から意気揚々と行動することができません。
神経科学者スティーブン・ポージェスもまた、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」 で現代社会の教育の愚かしさを批判しています。
私が言いたいのは、私たちの教育制度の目的は何なのか、ということです。
例えば、私たちの教育制度の目的は、子供たちに多くの情報を与えて教育することなのでしょうか?
それとも、人々がより良い相互交流ができ、気分がよくなるよう互いに調整しあうことができるようにすることなのでしょうか?
結局、デカルト哲学に戻るのです。そこでは、思考中心に生き、認知能力を拡大し、認知をもとに定義された「賢人」になることが望ましいと考えられてきました。
しかし、より「賢くなった」にも関わらず、私たちは心地よくあるために身体が欲していることについては、文字通り無知であるわけです。(p229)
現代社会の学生は、確かに受験勉強において、学歴においては「賢人」かもしれません。
しかし、その実は悲惨です。ただ知識だけ与えられ、実用的な経験をほとんど身につけないまま社会に放り出されてしまいます。
知識だけのつめこみ教育のせいで、人生経験に乏しく、社会人としてコミュニケーションもできないような若者が増えていると言われて久しいのではないでしょうか。
でも、ここで言いたいのは、知識だけに偏った教育は、それよりもっと深刻な問題を引き起こしているということです。
ポージェスがさらに書いているように、身体的な体験の欠如は、解離や離人感を社会に蔓延させる下地になってしまっています。
私たちが住む世界は認知機能にばかり焦点を当て、認知と身体的体験との統合がなされていません。
そのために解離が引き起こされ、それが人々の生活のかなりの割合を占めているのです。(p166)
身体的経験をないがしろにした教育は、子どもや若者を、トラウマに対してもろくしてしまいます。
あなたの子どもには自然が足りない にこう書かれています。
現代的な生活によって私たちの感覚は狭められ、ほとんど視覚的なもの、それもコンピュータのモニターやテレビのスクリーンのサイズに適したものになった。
反対に、自然は五感を刺激する。そして感覚こそ、子供たちが持つ最も原始的な自己防衛手段なのだ。(p201)
動物が危険を回避できるのは、鋭敏な五感があってこそです。
人間もそれは同じです。五感こそ「子供たちが持つ最も原始的な自己防衛手段」です。
でも最初から危険を回避するための優れた身体感覚が備わっているわけではありません。そうした鋭敏な感覚は、身体で経験することによって鍛えられるからです。
たとえば、教室で座って教科書で勉強している子どもと、野外で農作業や川遊びや家業の手伝いをしている子どもでは、どちらのほうが、怪我や事故に遭いにくい身のこなしを身につけられるでしょうか。
教室で同じ年齢の仲間とばかり話している子どもと、さまざまな年齢層の老若男女の中で会話し、コミュニケーションしている子どものどちらが、円滑な対人スキルを身につけられるでしょうか。
身体を使って働いたことがない若者と、実体験の中で失敗を繰り返しながら、技能を身につけてきた若者とでは、どちらがより傷つきにくいハートを持っているでしょうか。
学校教育が必要ないと言っているわけではありません。
そうではなく、身体的な経験が伴わないなら、どれほど知識を増やしても無意味であり、学んだことが「定着しない」ということなのです。
精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークは、著書身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で、
やはりこうした身体的な経験がトラウマへの耐性(レジリエンス)を高めることに注目し、もっと学校のカリキュラムに組み込むべきだと主張しています。
悲しいことに、私たちの教育制度や、トラウマを治療すると称する多くの手法は、
情動的関与系を迂回し、代わりに心の認知的能力を活用することに焦点を合わせる傾向にある。
…合唱や体育、休憩時間、その他、動きや遊び、楽しい活動を含むもののいっさいは、学校の時間割から絶対削除してはならない。(p142-143)
人は自分の行動を制御したり変えたりすることを学べるが、それは安心感を十分に抱き、新たな解決策を試してみることができる場合に限られる。
…トラウマを負った子どもたちに関して言えば、まさにそうしたことを可能にする活動、
すなわち、合唱や体育、休憩時間、それ以外の、体を動かしたり遊びを通したりして愉快なかたちで他者と関わる活動は
どれも、学校のスケジュールから絶対に排除してはならない。(p584-585)
(※ここで論じられている「体育」などの授業は、わたしたちが学校で経験してきたものとは少し異なるかもしれません。
フクロウ症候群を克服する―不登校児の生体リズム障害 (健康ライブラリー)によると、
日本の体育の授業は特殊で「スポーツをレジャーとして楽しむものだという大多数の国の人々の考えとは明らかに違った方向性をもたせたもの」だと書かれています。p134
これを読んでいる人の中には、学校の体育や音楽の授業によい思い出のない人もいるかもしれませんが、それは本来の目的を逸した教育のせいだと思います)
ですから、わたしたちを本当の意味で成長させ、「行動を制御したり変えたり」できるようにしてくれるのは、単なる知識のつめこみ教育ではなく、身体的な経験の伴う活動なのです。
「合唱や体育、休憩時間、それ以外の、体を動かしたり遊びを通したりして愉快なかたちで他者と関わる活動」なくして、地に足がついた、一人前の人間に成長することはできません。
木々は歌う-植物・微生物・人の関係性で解く森の生態学の中に、エクアドルのシュアール族の環境活動家、テレサ・シキの意義深い言葉が引用されています。
ノートなんか置いておきなさい。書かれたものは失われる。
関係性のなかで自ら生きた経験だけが続くのよ。(p313)
「直接的な経験を通じて感じる」―離人感への処方箋
身体的な経験(ソマティック・エクスペリエンス)から切り離された現代人は、もはや身体的に経験するとはどういうことなのか、わからないまでになっています。
経験したことがなければ、想像だにできません。イメージできなければ、自分にはいったい何が欠けているのか、気づくことすらできません。
「本物」の身体的な経験を知らないなら、まがいものに夢中になってしまうこともあるでしょう。
アウトドアで柔軟な筋肉を身につける代わりに屋内ジムで偏ったトレーニングをしたり、
現実の山や海を満喫する代わりに“リアル”なVRに没頭したり、異性と健全な関係を持つ代わりに倒錯的な性生活を送ったりします。
生き物としての本来の身体的経験と、人工的に作り出された不自然な身体的体験との区別がつかなくなってしまっているのです。
こうして生きている実感や、今ここにいる充実感に乏しいまま、メリハリのない日常を、地に足のつかない亡霊のようにして生きることになります。
だからラヴィーンがセラピーの技法に命名して強調したように、意識して本来の身体的な経験(ソマティックなエクスペリエンス)に身をさらすことがどうしても必要です。
むろん、重大なトラウマによる離人症を抱えている場合は、セラピストの助けを借りて、徐々に身体的な体験を取り戻すのがいいでしょう。
でも、そこまで重症でないなら、わざわざセラピストの手を借りずとも、自分から有意義なソマティック・エクスペリエンスを求めて行動することができます。
あなたの子どもには自然が足りない によると、米国の小説家また詩人であるウェンデル・ベリーはこう嘆きました。
われわれの子供たちはもう、直接体験することによって偉大なる「自然の書」を読み解く方法も、
あるいはこの惑星の季節ごとの変化と創造的につき合う方法も、学ぼうとは思わない。(p128)
あるいは、かの有名な海洋生物学者レイチェル・カーソンはこうアドバイスしました。
子供を自然の世界に紹介する時、知ることは感じることの半分も重要ではない。(p12)
この二人が言いたいのは、もっと全身の感覚を使って、この世界の広さを体験してみてほしい、ということです。
今までの狭い感覚世界を飛び出して、見知らぬ世界に旅立ってみるのはどうでしょうか。
たとえば、ゲームの中ではなく現実世界で、自分の足で荒野を歩き、自分の手で岩山を登ってみるのは。また、今まで知らなかった文化圏に飛び込んでみるのは。
テレビで見る代わりに、また動物園や水族館に行く代わりに、アウトドアのキャンプに参加して、野生に生きる本物の動物に出会うのはどうでしょう?
そうすれば、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 に出てくる学生たちのように感じられるかもしれません。
デヴィッド・ストレイヤーは教え子を雄大な自然のなかに連れていき、大学生たちが悪戦苦闘のすえ新たな心の安定を得るようすをいまも飽きずに眺めている。
毎年4月、心理学の上級クラスで「自然のなかでの認知機能」と銘打った合宿を実施しているのだ。
未開の地で学生たちは野営し、周囲を探検する。すると間違いなく気持ちが穏やかになるという。(p250)
ふだんは大都市の大学で勉強している学生たちを、未開の地に連れ出そうというのです。そこで学生たちはどう感じたでしょうか。
ある日、朝の三時にトレイルを歩きはじめると、アメリカワシミミズクに遭遇した。トレイル沿いの岩礁にとまったまま、彫像のように身じろぎもしない。
金髪で、いかにも派手な女子学生のグループに交じっていそうなアメリアが、「生まれて初めて見た!」と歓声をあげた。
その前に、アメリアは同じテントに寝泊まりしている仲間に、携帯電話が欲しいと愚痴をこぼしていた。
気になっている男の子からメールがくるかもしれないからだ。でもいまは、目の前の光景に夢中になっている。
「なんだか生まれ変わった気分! あたし、いままで半分死んでたのかも」(p255)
「いままで半分死んでいたのかも」。彼女はそう感じました。
ワシミミズクの姿を見るだけなら、スマホで画像検索するだけでたくさん出てきます。動いている本物を見たければ動物園に行けばいいでしょう。
でも彼女は、そうした便利な日常ではまったく得られない質の感動に満たされました。
身体的な経験にとぼしい現代社会で育った学生にとって、全身の五感をフルに活用して未開の地を探検し、野生のアメリカワシミミズクを見た「実体験」は、生きている実感を燃え立たせてくれるものだったのです。
別の学生たちの体験はどうだったでしょうか。
川を少し下ったところに岩面彫刻があるが、そこは川のなかを歩いたり泳いだりしなければたどりつけず、おまけに帰りは流れに逆らって戻ってこなければならないという。
気温もだいぶ上がっていたので、数人の学生が行ってみたいと言いだした。その後、彼らが戻ってきたのは日も暮れてきたころだった。
学生たちは冒険にすっかり興奮し、いかにも嬉しそうに意気揚々と戻ってくると、ストレイヤーの心づくしの手料理ですきっ腹を満たした。(p255)
奇岩を見たいだけならネットで見れます。冒険したいだけなら、ゲームや映画で壮大なストーリーを追体験できます。
でも、これらの学生たちにとって、自分の手足で困難をかきわけ、水しぶきをあげて泳いで、日が暮れるまで冒険した「実体験」は、仮想世界の娯楽をはるかに超えた本物の鼓動を呼び覚ましました。
「身体的な経験」(ソマティック・エクスペリエンス)とは、つまりこういうことなのです。
では、「生きている実感」を味わうためには、この学生たちのような僻地に行く必要があるのでしょうか。命を危険にさらしたり、無謀な旅行に出かけたりすべきなのでしょうか。
いいえ。そもそも身体的な経験があまりになさすぎる現代っ子がいきなり冒険に出かけるのは危険です。斧を触った経験がないのに、いきなり木を切り倒そうとするようなものです。
ピーター・ラヴィーンは、ソマティック・エクスペリエンシングの注意点として、いきなり激しい身体的感覚を経験しないよう、少しずつ段階的に(「タイトレーション」と呼ばれる)経験するよう勧めています。
ポイントは、ふだんよりも身体と感覚を使うことです。必ずしも非日常が必要なわけではありません。
あなたの子どもには自然が足りない にこう書かれています。
若者にはドラマチックな冒険やアフリカ旅行など必要ない。
小さく縮こまっていく感覚世界にもう一度つながるためには、ただ味わったり、見たり、聞いたり、触れたりすること―ジャレドの場合は稲妻の衝撃―だけで充分なのだ。
知ったかぶりの心とは、実際にはきわめてもろいものだ。それは一瞬にして燃え尽き、その灰の中から必要不可欠な何かが生まれるのである。(p92)
「ただ味わったり、見たり、聞いたり、触れたりすること」。
たとえば前に書いたように、マインドフルに身近な自然を観察するだけでも、「今ここ」の感覚は強められます。
わたしはよく近所の裏山に行きますが、そこで植物を観察するだけで、広すぎる世界に圧倒されてしまいます。何十種類も名前を覚えたのに、いまだ何者かもわからない生き物のなんと多いことか。
ちょうど、この本で引用されている、「情報喪失の時代」の著者ビル・マッキベンのこの体験とよく似ています。
山は君は特別なところに住んでいるんだよ、と言う。
そこは二、三キロ四方の狭い場所だが、何度もそこを歩きまわってようやく、わたしはその秘密がわかりはじめた。
ここにブルーベリーがある。ここにはもっと大きないブルーベリーがある……というように。
小道の脇には100もの種類の植物があり―私が知っているのは、そのうちの20種類くらいだ。
小さな山について知るだけでも一生かかるだろうが、昔の人々はそうやって生きていた。(p89)
まさにこの話のとおりだと、わたしも感じます。
現代社会のインターネットやSNSは、この地球はもう探検され尽くし、解明され尽くした狭い場所だと思わせようとします。
けれども、小さな山の、ごく狭い散策路を毎日歩くだけで、その「広さ」に圧倒されます。
そこに広がる冒険の戸口は、どんなオープンワールドゲームや、ファンタジー世界のアニメよりも濃密な、自分だけの体験につながっています。
それは過去の人々が経験していた、ごくありふれた身体的経験の足跡をたどる方法のひとつです。「昔の人々はそうやって生きていた」のです。
ピーター・ラヴィーンは著書の中で繰り返し、わたしたちヒトは、根本のつくりは動物の一種にすぎないのだと説いています。
どれほど賢くなろうが、またどれほど文明を築こうが、わたしたちの造りは動物と同様です。このグローバル化した現代社会に生きていようがそれは変えられません。
生物学、解剖学、また物理学や化学など、どれをとっても、わたしたちの身体のつくりは動物たちと共通した有機体からなっていることを裏づけているからです。
あらゆる動物たちは、身体で動くことによって、そして全身の感覚でこの現実世界を味わうことによって、命を謳歌しています。
動物たちのなかに、たった一種類でも、本を読んだりネットで調べたりすることによって「生きている」実感を味わおうとする種がいるでしょうか。
そんなことは考えられません。だとすれば、わたしたちが「生きている実感」を得るためには、どれほどネットで調べても、医学書を読んでも、また哲学や宗教に傾倒しても無駄なのです。
では、ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで書いている次の言葉を思いに留めましょう。
これこそが、生きている実感が希薄で、離人感に悩まされている現代社会のすべての人に対する、最良の処方箋だからです。
「自分が生きているってどうやってわかる?」と尋ねられると、ほとんどの人は、「ええと、それは……」と考えはじめる。
だが、それでは答えることはできない。
自分が生きていることを知るには、私たちの深いところにある、身体感覚に埋め込まれた生き生きとした身体的な現実を、
直接的な経験を通じて感じる能力を使わなければならない。
つまり、それこそが体現化である。(p340)
▼わたしの実体験
この記事に書いた内容を自分で経験してどのように変わったかを、ソマティック・エクスペリエンスの理論とからめて書きました。