解離とは神経学的に身体がバラバラに切り離されること―古代インドとエジプトの物語から学ぶ

「身体の一部が消えてしまったように無感覚で麻痺している」「手足の存在が感じられない」「身体や手足の一部が死体や異物のように感じられる」「身体がバラバラに切り離されている」

戦争や事故、虐待、痛みや恐怖を伴う医学措置など、さまざまなトラウマによって解離を起こした人たちは、そうした感覚を経験することがあります。

たとえば、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)には、次のような表現がありました。

頭がすっかり混乱してしまい、体に不思議なことが起きている気がします。

体がいくつもの部分に分かれ、目や手、脚が切り離されているのです。

なにか絶対に必要なものが消えている。しかも跡形もなく消えている。それが一度あった「場所」ごと消えてしまっているのです。それは、どこにもなにもないという恐怖なのです。(p194)

これは、神経伝達の乱れから起こる一時的な解離現象についての記述ですが、注目したいのは、「体がいくつもの部分に分かれ、目や手、脚が切り離されている」という部分です。

慢性的なトラウマのサバイバーでは、このような解離状態が、一時的にではなく、慢性的にずっと、何年も何十年も続くからです。

この「バラバラに切り離されている」、という感覚は、比喩的なたとえだと思われがちですが、現代の神経科学から解離という現象を考察してみると、単なる比喩以上のものだとわかります。

トラウマの解離とは、脅かされた部分を切り離してしまう、いわば“トカゲの尻尾切り”に似た防衛反応です。さまざまなトラウマを経験して、繰り返し脅かされた人は、全身のいたるところの感覚が切り離されてしまいます。

たとえば手足を痛めつけられた人は手足の感覚が麻痺してしまい、性的虐待を受けた人は骨盤のあたりが無存在になってしまい、繰り返し存在自体を脅かされた人は、内臓の感覚が遮断されて、生きているという実感が希薄になってしまいます。

この記事では、解離とは全身の感覚が切り離されてバラバラになることであり、解離の治療とは切り離された感覚を再び感じられるようにしてつなぎあわせることである、ということを示す、いくつかのエピソードや物語に注目したいと思います。

なお、今回の記事は、単独記事としても読めますが、以前の3つの記事の内容が土台になっているので、そちらと合わせて読んでいただくほうが意味がわかりやすいと思います。

自分の身体が感じられない生ける屍になった人たちー感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学
感覚過敏に比べて、あまり注目されず、深刻さが理解されにくい、感覚の鈍麻や麻痺、解離が引き起こすアイデンティティの障害について考察しました。
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自分の身体が存在していない、内面が空虚である、といった「空っぽ」の感覚が生じる理由について、自己のアイデンティティは体性感覚から作られているというダマシオやサックスの研究から考えて
頭や内臓の異物感,手足を虫が這うような不快感の理由ー解離の体感異常についての考察
頭や内臓に異物感や不快感を感じたり、手足など全身の原因不明のむずむず感を感じたりする、解離に伴いやすい体感異常(セネストパチー)についてまとめました。

また、「バラバラに切り離される」というテーマでまとめていることから、いくつか非常に生々しい話を含むので、感受性の強い方はご注意ください。

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解離―自分の身体を「他人の身体」にすることで生き延びる

冒頭で書いたように、解離とは、自分の身体の感覚を切り離すことで苦痛から身を守る現象です。

虐待や拷問などで手足を痛めつけられた人は、手足の感覚を切り離して麻痺させるかもしれません。存在自体を脅かされ、繰り返し恥をかかせられた人は、身体そのものの感覚を切り離し、生きているという実感が麻痺した離人症になるかもしれません。

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現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に説明されているとおり、解離とは、逃げ場のない状況下で苦痛をやり過ごさねばならない場合に、身体の一部の感覚を遮断して身を守る能力です。

たとえば、身体的虐待を受けた場合は前頭前皮質および島皮質に萎縮が見られた。「島皮質は身体帰属感や個人の主体性と関わりがあります」とブラムバーグ。

「この発見は、身体的虐待を受けた子どもがしばしば訴える解離症状がこの部位の萎縮に関連している可能性を示しています」。

子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。

そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)

前回の記事で詳しく説明したように、このプロセスは、わたしたちの身体の第六の感覚ともいえる「体性感覚」という感覚を切り離すことで起こります。

自分が「空っぽ」に感じるのはなぜか―実存の空虚という恐怖を神経科学から説明する
自分の身体が存在していない、内面が空虚である、といった「空っぽ」の感覚が生じる理由について、自己のアイデンティティは体性感覚から作られているというダマシオやサックスの研究から考えて

たとえば、わたしたちが自分の身体の存在を認識できるのは、筋骨格からの「自己受容」(proprioceptive)という感覚があるおかげであり、自分が存在しているというアイデンティティを持てるのは、内臓と内部環境からの「内受容」(interoceptive)と呼ばれる感覚があるおかげです。

解離の当事者では、これらの体性感覚を処理している脳の部分(島皮質や帯状回)の活動が低下していることが確認されています。自分の身体を自分のものだと認識する脳の働きを低下させることで、苦痛を遮断しているのです。

自分の身体が感じられない生ける屍になった人たちー感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学
感覚過敏に比べて、あまり注目されず、深刻さが理解されにくい、感覚の鈍麻や麻痺、解離が引き起こすアイデンティティの障害について考察しました。

その結果、解離を起こした人は、虐待や拷問、繰り返される恐怖などの苦痛からは保護されますが、同時にさまざまな違和感や不快感に悩まされることになります。

なぜそうなってしまうのでしょうか。

解離とは、危機的状況下で逃げられない苦痛にさらされた場合に、「ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではない」と処理することで自分を守る能力ですが、それはつまり、「他人の身体である」と処理しているともいえます。

危機的状況下において、一時的に身体の自己所有感覚を手放し、「襲われているのは自分の身体ではない」とみなすのは保護になります。当事者としてではなく、傍観者として危機をやりすごせるからです。

脳のなかの天使で神経科学者V・S・ラマチャンドランが述べているように、危機的状況下で解離が起こると、しばしば傍観者としての視点で襲われている自分を客観的に観察しているような状態になります。

これは、行動の出力も情動の出力も停止した、一種の「死んだふり(playing opossum)とみなすことができる。野生のオポッサムは、捕食者がすぐ近くに迫っていて、逃げるという選択肢がないとき、まったく動かなくなる。

…この「オポッサム反射」の痕跡もしくは外適応が、極度の緊急時に、解離状態として人間にあらわれるのかもしれない。

あなたは表立った動きと情動を停止し、痛みやパニックから自分を切り離して、自分自身を客観的に見る。

これはたとえばレイプの場合に起こる場合があり、女性は逆説的な状態になる―「私は自分がレイプされるのを、一歩離れた傍観者のように見ていました―痛さは感じましたが、ひどい苦痛は感じませんでした。だからパニックも起こしませんでした」。

探検家のデイヴィッド・リヴィングストンがライオンに襲われて、腕を食いちぎられたときにも、同じことが起きたにちがいなく、彼は痛みも恐怖もまったく感じなかったという。(p384)

しかし問題は、危機的状況が去ってもずっと「自分の身体ではない」という脳の処理が続いてしまう場合です。このとき、神経科学的にいえば、自己受容や内受容の感覚が切り離されたままになっているといえます。

あまりに強いトラウマの衝撃にさらされた人や、慢性的にずっと苦痛にさらされつづけた人は、危険が去っても、自分の身体が他人の身体のままになってしまいます。

そうすると、「手足の存在が感じられない」「他人の身体のようだ」「内部に異物が詰め込まれているように感じる」「自分の内側が空っぽに思える」などの違和感を覚えることになります。

「自分の身体ではない」と処理されているなら、つまるところ、脳にとっては「他人の身体」、さらには「異物である」という意味だからです。

そのため、慢性的な解離の当事者たちは、自分の身体に他人の手足や内臓がくっついているような奇怪な違和感に悩まされることになるのです。

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頭や内臓に異物感や不快感を感じたり、手足など全身の原因不明のむずむず感を感じたりする、解離に伴いやすい体感異常(セネストパチー)についてまとめました。

バラバラに切り離された身体の異物化

自分の身体の一部が、他人の身体あるいは異物として処理されつづけているこの状態は、あたかも身体がバラバラに切り刻まれ、つぎはぎ状態にされているようなものです。

左足に大怪我を負ってからしばらく、左足が解離状態になっていた神経科学者オリヴァー・サックスは、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、そのときの強烈な違和感をこう表現しています。

そのとき突然、足が気味のわるい感覚をおびて、厳密に言えば、足とはとうてい思えない、不可解な異質の「もの」になってしまったからである。

「これは自分の足だ」「自分にかかわりのあるものだ」と思えないまま、私はそれを見つめさわった。「おまえはだれだ?」「私のからだの一部であるはずがない」はじめてそう思った。(p84)

足はそこにあった。しかし、ほんとうの意味では「存在」していなかったのである。…解剖標本室から持ってきた、精密なろう細工のようだった。

恐るおそる手をのばし、さわってみると、左足は見かけとおなじように奇妙な感じだった。外見ばかりでなく、手触りもろう細工のようだった。みごとに象られているが、生気のないぞっとする代物。(p150)

意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源によると、自分が直面した奇怪な違和感について調査したサックスは、医師サイラス・ウィアー・ミッチェルによる、アメリカ南北戦争の時代の傷病兵たちが経験した「手足の消滅と異物化」の記述にたどりつきました。

その後、アメリカの神経科医サイラス・ウィアー・ミッチェルによる報告書に偶然出会った。

彼は南北戦争中にフィラデルフィアの手足切断者の病院で働いており、切断術を受けた人が失った手足の代わりに経験する幻肢(あるいは彼に言う「感覚のゴースト」)について、余すところなく入念に記述していた。

彼は「陰性の錯覚」、つまり重傷を負って手術したあとの手足の消滅と異物化についても書いている。

彼はこの現象にとても衝撃を受けたので、この問題について特別な回状を書き、それが1864年に軍医総監局によって配布された。(p198)

サックスの場合は、事故による大怪我というトラウマ、兵士たちの場合は戦争による負傷というトラウマでした。しかしどちらの場合も、「手足の消滅と異物化」という同じ奇怪な症状が現れました。

トラウマとは心の傷ではなく、危機的状況下で身体が反応する生物学的現象なので、戦場でも虐待でも事故でも、さらには侵襲的な医療措置でも同じ反応が起こります。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、戦争や大怪我で手足の感覚の消滅を経験した人たちと同じことが、虐待された子どもや、拷問された人、さまざまな形でトラウマを負った人たちにも生じます。

トラウマを受けた人は「失感覚症」という、身体感覚を感じられない、または体感を言葉で表現できない症状に苦しむこともよくあります。

身体感覚の欠如とそれにともなう解釈(たとえば「私はどこかおかしくなっている」、「私は自分の体を感じられない」、「私は死んだみたいに感じる」など)は、感覚を感じすぎるのと同じくらい苦しいものになりえます。(p21)

多くのクライエントが身体に否定的な感覚をもってセラピーにやってきます。

感覚を体験することを恐れたり、麻痺や身体がバラバラになる感覚を感じたり、望んだように身体が動かないので身体は自分を裏切ると怒っていたりします。(p292)

特に強烈なのは、以前に考察した ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)に書かれている凶悪犯罪者たちの感覚体験です。子どものころあまりに虐待的な環境で育ったせいで、彼らは自分の身体を認識できなくなっていました。

自分がロボットかゾンビのように感じられると私に話した者がいた。

自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない、血管や神経はなく、紐や糸が入っているだけ、そう感じる者もいるらしい。

囚人の中には、自分のことを腐敗していく食べ物のように感じる、と言っていた者もいた。(p423)

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いずれの場合も、共通しているのは、生命の危機にさらされた身体の一部ないしは全体の感覚が切り離されて「自分のもの」だと感じられなくなってしまったことです。

こうして「自分のもの」ではなく、「他人のもの」あるいは「異物」となってしまった身体の部分は、もちろん使い物になりません。

オリヴァー・サックスの切り離された足は、見た目には健康でしたが、ピクリとも動きませんでした。まったく機能してくれない足は、「解剖標本室から持ってきた、精密なろう細工」のように思えました。

子どものころ虐待されて、身体が「ただ藁が詰め込まれているだけ」になってしまった犯罪者たちの場合もそうでした。彼らの身体は、痛みを感じることができず、麻痺していました。

同じことが、身体の他の部分の感覚が切り離された人たちにも言えます。

たとえば、虐待された子どもは、視覚機能が低下する視覚鈍麻や、人の顔が見分けられなくなる相貌失認、耳が聞こえなくなる心因性難聴などになってしまうことがあります。

こうした症状は、これまで「心因性」、つまり心の問題であるとか、「転換性」、つまり心の問題が身体に転化された症状であるというように みなされていましたが、現代の脳科学によると、脳そのものに異常が起こっていることが証明されています。

だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版)
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虐待された子どもの脳がそのように変化してしまうのは、トラウマが心の問題ではなく、肉体的な変化であることを示しています。その変化は、あまりに耐えがたい苦痛を生き抜くための適応として生じたものです。

痛めつけられたのが手足なら手足の自己所有感覚を切り離し、見るに堪えない光景を見てしまったなら視覚を切り離し、聞くに堪えない暴言を浴びせられたら聴覚を切り離し、存在を脅かされたら身体を切り離します。

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そうした身体の各部を切り離して感覚を遮断することで、それ以上、命に関わるまで脅かされることはなくなります。

しかし切り離した感覚はもはや使えなくなってしまうので、解離によって切り離された手足は自分のものとは思えない ろう細工の柱となり、目や耳は役に立たない模造品になり、身体は藁が詰まった死体のようになってしまうのです。

「神経学的な要因による」悪夢

興味深いことに、オリヴァー・サックスは、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、左足が他人の足のようになっていたとき、幾度となく同じ悪夢を繰り返し見たと書いています。

ところが夜半すぎに、次からつぎへと夢を見たのである。ひどくグロテスクでふしぎな、見たこともないような夢だった。

心配や熱のせいではない。精神錯乱状態だったわけでもない。何時間にもわたってそれはつづいた。…夢というより、変化のない生理的現象がくりかえしおこっているようだった。

すべて足の夢だった。足―足にして足にあらざるものの夢。夢のなかではギプスはなかまで石膏がつまっているか、足そのものがチョークか石膏、大理石などの無機質でできていた。

…そうかと思えば、足が、石膏でも大理石でもなく、砂やセメントのように脆くて粘着力のないものでできていることもあった。

…最悪だったのは、足がまっ黒な影だったときだ。ありえないことだが、「無」でできた足というわけだ。

どの夢も、背景や場面に目立たない変化はあるものの、いつも同じだった。中心にあるのは、固定した、実体のない、虚空の何かである。

…暁の光が苦い思いを残し、ほのかに窓からさしこむころ、私はこれらの夢が神経学的な要因によるものであることに気がついた。

強迫観念による妄想といったフロイト的な要因がまったくないわけではないが、それは不変の器質的な要因によるものだったのである。(p107-108)

彼が見た悪夢は、フロイト的な心理的な理由による夢ではなく「神経学的な要因によるもの」でした。

身体の生理的な変化が、夢の内容に反映される、というのはわたしたちは誰でも経験したことがあるでしょう。身体に重いものがかぶさっていると夢の中で何かに圧迫されて、うなされるかもしれません。膀胱に尿がたまっているとトイレに行く夢を見るかもしれません。

同じように、サックスの見た奇怪な夢も、身体の内部の変化が、そのまま夢の内容に反映されていました。彼の足の感覚が遮断され、「他人の足」「異物」さらには「無」として処理されていたがため、夢もそれに応じたおぞましい内容になりました。

サックスは、続けて「こんな夢を見たことは一度もなかった。しかし、患者たちから、おなじような夢の話をきいたことはあった」と述べていますが、もしもわたしがサックスの患者だったら、自分の経験について話せたのに、と思うと残念です。

以前にも書きましたが、わたしが慢性疲労状態になった日、朝目覚めた瞬間に感じたのは、思考や身体、そして自己の感覚が「バラバラになってしまった」という感覚でした。

その感覚は、冒頭で引用したサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の言葉にとても近いものでした。

頭がすっかり混乱してしまい、体に不思議なことが起きている気がします。

体がいくつもの部分に分かれ、目や手、脚が切り離されているのです。

なにか絶対に必要なものが消えている。しかも跡形もなく消えている。それが一度あった「場所」ごと消えてしまっているのです。それは、どこにもなにもないという恐怖なのです。(p194)

この記述がわたしの場合と異なっているのは、この人の場合は、バラバラになった解離状態は一時的なものだったのに対し、わたしの場合は、何年も続いたことです。

その苦しい期間に、わたしはサックスが見たのと同じような夢を繰り返し見ました。足がコンクリートで固められた棒のようになる悪夢です。それが、1年以上にわたり毎日毎日、延々と繰り返されました。

明らかにただの夢ではありませんでした。窒息しそうな圧迫感や苦痛がともなう夢で、足が凍りついて息も絶え絶えに倒れ込むというまったく同じシチュエーションが、場面を変えては永久に繰り返されました。

当時のわたしは、金縛り(睡眠麻痺)やナルコレプシー様の幻覚も頻繁に起こしていたため、少しでもうとうとと眠ると、おぞましい悪夢に呑み込まれて、呼吸が止まって凍りつくような恐怖とともに目覚めるという始末でした。

わたしの悪夢体験は、ずっと謎に包まれていましたが、サックスのこの記述に出会って、きっと同じものを経験していたのだ、ということに気づきました。

夢から判断してたしかに言えることは、私の場合もボディ・イメージ、身体自我の一部が凍死してしまったということだ。(p109)

サックスの結論どおり、このような夢は、ボディ・イメージ、つまり、自分の身体の存在を認識するという第六の感覚(体性感覚)の障害によって起こるものです。

自分の身体を我が物だと認識するための体性感覚が切り離されると、切り離された身体の部分は、感覚が凍りついて無存在になってしまい、あたかも他人の身体や異物のように感じられるという、おぞましい違和感が生じます。

そのような感覚は、昼夜問わず常に存在する現実のものなので、夢の内容にさえ影響します。サックスもわたしも、神経学的に切り離され、バラバラになった身体の悪夢にうなされたといえるでしょう。

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身体がバラバラになると心もバラバラになる

バラバラになった身体という感覚が、心理的な妄想のようなものではなく、サックスの言うとおり、「神経学的な要因によるもの」である、という前提に立てば、次のようなエピソードの意味もまたわかってきます。

以下に引用するのは、非常に生々しい表現ですが、解離の構造で紹介されている、ある解離性同一性障害(DID)の方の体験談です。

以下にあげるのは、先ほどの女性患者アザミの語った内容である。主人格と交代人格のエリという人格との交流が始まった頃のことである。

 

エリの恐怖は壮絶なもので、最近彼女と会ったとき、彼女はバラバラの死体だらけの薄暗い家に住んでいました。

私が(背後空間に)引っ込んでいる時、たまにこのバラバラ死体だらけの部屋に迷い込みます。人間の血だらけのパーツだけが落ちている身の毛もよだつような暗い光景です。血の匂いが忘れられません。

彼女は家の外に出ると透明で周りには見えないそうで、その家しか居場所がないんです。バラバラ死体の家の中で誰ともコミュニケーションをとれないので、本当にひとりぼっちです。

私が一緒に行動しているとき、彼女の広い家の中では私のほうが半透明で彼女はクッキリしています。

家の中では、感触はハッキリしていて、ドロっとした生温かい血の固まりが降って来たり、ぐちゃぐちゃになった頭が転がってきたり……あそこは恐怖のかたまりです。

不思議なことに、家の中には神社があります。その神社にお参りに行ったことがありますが、そこでお参りすると、さにに頭からバラバラになった頭が降ってきたり、新たに死体が増えているのです……。

気持ちの悪いお話ですみません。ただ、彼女は酷い場所に住んでいて、あんな場所ではまともな思考回路は働きません。(p222-223)

この女性は親からの虐待、学校でのいじめ、性的外傷体験のサバイバーでした。むろんこのイメージは文字通りの記憶ではありません。いくら壮絶な虐待を受けたといっても、バラバラ死体だらけの家で育ったわけではありません。

それは、オリヴァー・サックスの足が、文字通りろう細工になっていたわけでないのと同じです。しかし、サックスの場合、あたかも足がろう細工になってしまったかに思えるほどの強烈な神経学的な違和感が身体に生じていました。

この女性の場合もそうです。文字通りバラバラ死体だらけの場所で暮らしたわけではありませんが、彼女の神経学的な身体感覚が、あたかもそのような状態に感じられるほど、強烈な違和感をもたらしていた、ということです。

彼女は、幼いころからの虐待のせいで「自分の身体が自分のものではない」「バラバラに切り離されている」という強烈な不快感が常に生身の身体に生じていたのでしょう。

彼女の虐待の記憶は解離されて交代人格に封じ込められていたので、交代人格のエリが、その不快な身体感覚を一手に担っている状態にありました。

そのため、エリは、自分の身体感覚から「バラバラの死体だらけの薄暗い家」という体験世界を作り上げていたとみなせます。

これは、寝ているときに身体に重いものを載せられたら、怪物にのしかかられる夢を見てしまう場合と似ています。現実に怪物がいるわけではありませんが、それを連想させる異様な感覚が、現実の身体に生じていることを意味しています。

以前に書いたように、解離は眠っている状態とよく似ています。彼女の場合、起きたまま悪夢を見ていたようなものだと考えることもできます。

「バラバラの死体だらけの薄暗い家」というイメージは、サックスやわたしのように「神経学的な要因」が反映された悪夢の世界だったのです。

そのとき脳は自らを眠らせる―解離の謎を睡眠障害から解き明かす
解離とは慢性的な低覚醒状態であるというポリヴェーガル理論の考え方や、ナルコレプシーやADHDとの比較を手がかりにして、解離と睡眠のつながりを探ってみました。

彼女のイメージは精神的、哲学的、また心理的なものではなく、幼少期からの慢性的な逆境体験によって複雑な解離が起こり、身体の各部のさまざまな感覚が神経生理学的に切り離された結果です。

ちょうど冒頭でサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)から引用した例のように、「体がいくつもの部分に分かれ、目や手、脚が切り離されている」ような神経学的状態が常に続いているため、それに対応したイメージが生み出されていたのでしょう。

そもそも、彼女が抱えている解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格という状態そのものが、身体の感覚がバラバラに切り話されている神経学的状態の反映であるということができます。

別の記事で詳しく考えたように、神経学者アントニオ・ダマシオは、わたしたちの自己意識は、身体感覚から作り出されていることを明らかにしました。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

平たくいえば、わたしたちの心を生み出しているのは身体の内的な感覚だということです。

わたしたちの「自己」や「アイデンティティ」と呼ばれるものは、身体の内臓や内部環境から発せられる体性感覚から生み出されています。

では、この女性のように、幼少期から悲惨な虐待を受け、身体の各部がバラバラに切り離されるような複雑な感覚の切り離しが起こると、「自己」や「アイデンティティ」はどうなってしまうのか。

わたしたちの心が身体の体性感覚から生み出されるのであれば、その体性感覚が切り分けられ、分断されたら、当然それから生み出される心もまた複数に分裂することでしょう。

慢性的な逆境に置かれた子どもは、あまりに苦痛で耐えがたい自分の身体の内的な感覚を、切り離すことで生き延びようとします。

その結果、その身体の内的な感覚から生み出されている「心」もまた分断されてしまい、複数の人格が生まれることになります。

解離性同一性障害(多重人格)という状態は、ときに理解しがたい奇怪な病態とみなされがちですが、解離とは身体の内部の感覚を切り離す防衛反応だという神経学的な観点からすれば、なんら奇妙なものではないのです。

「身体」の感覚がバラバラになれば、それから生み出されている「心」もまた、必然的にバラバラになって分断されてしまうということです。

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バラバラになった身体をめぐる古代の二つの物語

身体感覚がバラバラになって切り離される状態は、現代医学では長らく謎のままとされていました。しかし、人類史においてはさほど珍しいものではなく、はるか昔から認識されていたのかもしれません。

人類は、さまざまな現代病と闘うよりもはるか昔から、トラウマの問題と向き合ってきました。トラウマは人間特有の問題ではなく、捕食動物や自然界の危険にさらされる動物にも見られる現象です。

系統的な医学が発展するはるか以前から、動物や人間はトラウマに直面し、トラウマから回復するための手段を模索してきました。さまざまな文化のシャーマンたちは、医学よりも先に、切り離された身体の問題と闘いました。

以前に書いたように、昔に書かれた説話や芸術的な物語の中には、「トラウマ」という医学用語は用いられていなくても、その時代の人々の語彙を使ってトラウマのテーマを扱ったものが数多くあります。

医学の枠組みがまだない時代から、人々はトラウマからの回復という現代と同じテーマに向き合っていました。そしてその体験を、自分たちの素朴な言葉で物語にし、脈々と語り伝えてきました。

では、この記事で考えているような、「手足の消滅と異物化」、つまりバラバラになった身体の感覚というテーマを扱った古代の物語にはどんなものがあるのでしょうか。そこから何を学べるでしょうか。

2つの物語について考えてみましょう。

古代インドの物語―鬼に身体を引きちぎられた男

ひとつめに引用するのは、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳の冒頭に載せられていたもので、紀元150~250年ごろに成立したとされるインド大乗仏教中観派の「中論」という書物に出てくる説話だそうです。

この物語は、次のようにして始まります。

長旅をしている男が、空き家に泊まることにした。真夜中、一匹の鬼が現れ、運んできた死体を男の横に置いた。それを追いかけるように別の鬼もやってくる。

どちらの鬼も、死体を持ってきたのは自分だと主張して譲らない。(p5)

真夜中に誰のものかもわからない死体の前で、互いに言い争う二匹の鬼にはさまれている情景を想像してみてください。背筋が凍るような場面です。

これだけでも恐ろしいのに、主人公の男はさらに逃げられない極限状況に追い詰められます。

らちがあかないので、鬼たちは一部始終を見ていた男に答えろと詰めよった。死体を運んできたのはどっちだ?

嘘をついてもしかたがない。どう答えても、どちらかの鬼に殺されるだろう。観念した男は、死体を持ってきたのは最初の鬼だとほんとうのことを言った。(p5)

鬼たちに追い詰められた、どこにも逃げ場がない状態。これは比喩的に言って、虐待された子どもや、拷問、犯罪、災害などの被害者の置かれる状況とよく似ています。

もしも逃げ場や勝ち目があれば、わたしたちは危機的状況下においても、逃げたり闘ったりすることで対処します。

しかし最初のほうで小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)から引用したように、どこにも逃げ場がない極限状況(「逃避不能ショック」と呼ばれる)においては、最後の手段として、感覚を切り離して痛みを麻痺させる解離によって生き延びようとします。

子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。

そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)

では、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳の説話に出てくる男性の場合はどうなってしまったのか。ここからは目を覆いたくなるような残酷な描写が続きます。

二番目の鬼は激昂して、男の腕を引きちぎった。

そこからは陰惨な場面が展開する。最初の鬼はすかさず死体の腕をはずして、男にくっつけた。

以下同様で、二番目の鬼が男の身体の一部をちぎるたびに、最初の鬼が死体から同じ部分を取って男に戻したのである。

両腕、両脚、胴体、ついには頭まで―とうとう男と死体はすっかり入れかわってしまった。(p5-6)

男性は鬼たちに暴力の限りを尽くされ、徹底的に痛めつけられます。全身の手足、さらには頭までもぎとられ、その場にあった死体の身体と入れ替えられてしまうのです。

しかし、どうして鬼たちは彼の身体をもぎとるだけでなく、わざわざ死体の身体と入れ替えるようなことをしたのか。

この話を単なるインド仏教の説話として読むと不可解ですが、古代の人が実際に体験した何らかの恐ろしいトラウマ体験をもとにして作られた物語だと考えれば、意味がわかってきます。

ちょうど以前考察した聖書のヨブ記の物語が、単なる宗教の訓話として読むと不可解な展開なのに、実際のトラウマの記録として神経科学的な観点から読んでみると筋が通るのと同じです。

オリヴァー・サックスが左足を取り戻したときの「畏怖の念」およびヨブ記から学べる教訓
オリヴァー・サックスの「左足をとりもどすまで」、およびサックスがその中で引用している聖書のヨブ記の記述から、トラウマのシャットダウンとそこから回復するときの体験について考察していま

このインドの説話の中の鬼がもともと何を表していたのかは定かではありませんが、敵国の兵士、山賊、獰猛な野生動物、虐待的な親など、なんであれ残酷な危害を加える存在を象徴していたのかもしれません。

不幸にも誰かが、そうした加害者に追い詰められ、逃げられない「逃避不能ショック」の環境で、全身にひどい傷を負わされました。そのとき、その人は、解離を起こして、全身の痛みを麻痺させることで生き延びました。

しかし、命からがら生還したその人は、それ以降、痛めつけられた部分の感覚がなくなってしまいました。まるで「自分の身体でなくなったようだ」「死体になったみたいだ」とその人は言います。

言うまでもなくこれは憶測です。しかし、そのような体験談をもとに、鬼に身体をもぎとられ、死体の身体と入れ替えられた、という物語ができたのであれば、筋が通るのではないでしょうか。

この物語は、さらにこう続きます。

あとに残った男は途方に暮れた。いったい何が起きたのか。生まれたときに与えられた身体は鬼たちにみんな食べられてしまい、いまの自分は赤の他人の身体で構成されている。

自分には身体があるのか、ないのか。あるのだとしたら、これは自分の身体なのか、それとも他人の身体なのか。身体がないのなら、いまここにある身体は何なのか。(p6)

身体の各部分を死体と交換されてしまった男は、出会った仏僧たちに自分は存在しているのかとたずねた。

おまえは何者かと聞きかえされた男は、自分が人間かどうかも定かでないと答えた。(p297)

この説話は、おぞましい話でありながら、解離の本質を突いている物語です。

たとえばすでに出てきた、自分の身体を認識できなくなってしまった凶悪犯罪者のような人たちは、子どものころから鬼のような残酷な人々に痛めつけられた結果、自分の身体を死体と入れ替えられてゾンビになってしまったようなものです。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の中で、犯罪心理学者のジェームズ・ギリガンは、彼らの自己認識について、次のように語っていました。

だが、ギリガンは驚くべき話を聞くことになる。実際に刑務所内で殺人をした人間が何人か、ギリガンに話をしてくれたのだ。

「皆が口を揃えて言ったのが、自分たちはもうすでに死んでいるということです」ギリガンは私にそう言った。

「いずれも、手がつけられないほど暴力的になってしまった者たちです。彼らは、他人を殺し始める前に、すでに自分自身を殺してしまっているということです。すでに人格が死んでいる、ということでしょうか。

彼らは自分の内面が死んでいると感じていた。内面が死んでいるから感情を持つことはない。また、身体的な感覚も麻痺してしまっている。…」(p422)

こういう人間の魂は、ただ単に死んでいるのではない。死んでいるのは何者かに殺されたからだ。いったい、なぜ、どのように殺されたのか。(p423)

ギリガンは、この最後の問いかけの答えについて、自著、男が暴力をふるうのはなぜか―そのメカニズムと予防の中で同じ犯罪者たちについてこう書いています。

その理由は、私が直接知っている男性たちの場合で言えば、彼らがある種の児童虐待―私がそれまで児童虐待という言葉で捉えていたものとは比較にならないほどひどい虐待―を受けていたからである。

彼らの多くは、親たちから殺されかねないほど殴られ、くりかえしレイプされ、売春させられ、あるいは生命の危機に至るまでネグレクト(育児放棄)されていた。(p68)

子ども時代に激しい虐待にさらされたこのような人たちは、説話に出てきた男性と、まったく同じような体験を、この現実世界において味わわされてきました。

残酷な鬼のような虐待者たちによって繰り返されるトラウマ経験のたびに、身体の一部をもぎとられ、死体と入れ替えられてきたようなものです。

手足をひどく虐待されれば、その感覚が切り離され、麻痺し、自分の手足だと思えなくなります。ときには標本室の死体の手足をくっつけられているかのような不快感になります。

恐ろしい光景を目撃させられれば、視覚が切り離され、目が機能しなくなります。あたかも眼球がえぐりとられ、作り物の目をはめ込まれるようなものです。

繰り返し暴言によって自尊心をズタズタにされ続ければ、聴覚が麻痺します。耳をひきちぎられ、聞くことのできない模造品の耳をくっつけられるようなものです。

そして存在そのものを脅かされ、否定され、幾度も屈辱を味わわされると、存在の感覚をつかさどる内臓の体性感覚が切り離されます。

すると、「自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない、血管や神経はなく、紐や糸が入っているだけ」と感じるようになります。

繰り返される慢性的なトラウマ経験のために、全身の感覚がバラバラに切り離され、持って生まれた身体のほとんどすべてが他人になってしまった人は、説話の男性と同じく、最後にはこう言うしかなくなります。

「自分が人間かどうかも定かでない」、そして、「自分たちはもうすでに死んでいる」と。

古代エジプトの物語―切り刻まれた王の身体をよみがえらせる

バラバラに切り離された身体というテーマについて扱ったもうひとつの古代の説話は、神経心理学者ピーター・ラヴィーンが、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復の中で紹介している古代エジプトのイシスとオシリスの神話です。

では、トラウマを理解し処理していくうえでの、記憶の役割とは何だろうか? これについては、長く伝えられてきた神話の叡智から解を導き出すことができる。

古代エジプトのイシスとオシリスの伝説は、深遠な教えを示している。(p234)

こちらの伝説でも、オシリス王は、先ほどのあわれな男と同じような悲惨な目に遭います。

この示唆に富む伝説によると、偉大なるオシリス王は、敵に切り刻まれてしまう(dismembered)。切り刻まれた体の各部位は、王国の果てのあちこちに埋められた。

しかし、オシリスの妻イシスはオシリスへの深い愛に突き動かされ、バラバラにされた遺体をすべて探し出し、それらの「部分(member)」を元通りにした。この復活において、イシスはオシリスを「再びつなぎ合わせ、思い出した(re-member)」のである。(p234)

先ほどの説話が、トラウマを負った人が経験する、全身がバラバラに切断されるような感覚をテーマとしていたのに対し、オシリスの神話は、そのバラバラに切断された状態から回復する道のりをテーマとしています。

すでに見たように、幼少期に重大なトラウマを経験した人は、人格が複数に分裂する解離性同一性障害(DID)を発症することがあります。

それは度重なるトラウマ経験のせいで、身体がバラバラに切り刻まれ、それら分裂した個々の身体感覚から、別々の人格が生成された、とみなすことができました。神経学者アントニオ・ダマシオの言う通り、心は身体感覚から生成されるからです。

興味深いことに、ラヴィーンは、バラバラにされたオシリス王の身体を、「部分(menber)」と表現していました。バラバラにされた身体感覚は、それぞれ別個の心を生成するようになるので、複数のメンバーに分かれます。

解離性同一性障害の複数の人格とは、切り離され、バラバラにされた身体感覚から生み出された「部分人格」(メンバー)なのです。

ラヴィーンも、オシリス王の物語を、バラバラの切り分けられたトラウマ当事者の身体感覚になぞらえています。

恐怖に凍りついたときに身体および脳に何が起こるのかがわかってくると、こうした症状を理解できるようになる。

これらの症状は、分断され散り散りになった体験の塊なのだ。それは未完了の身体感覚であり、過去にはその人を圧倒した。

あたかも、惨殺され、切り裂かれたオシリスの身体が、はるかに離れた違なる場所に埋められたように、これらはかい離し、意味不明の状態にある。(p235)

子ども時代からのトラウマ当事者の身体感覚は、度重なる苦痛を生き延びるためにバラバラに切り離されています。

そして、そのバラバラにされた状態から回復する方法は、「部分人格」(member)をつなぎあわせ、再びひとつにすることであり、それは英語では「re-member」(思い出す)と表現されます。

こうしたバラバラな身体感覚を「元通りに戻す」治療方法は、エジプト神話の女神イシスが夫オシリスに施した治療に酷似している。

敵に切り刻まれ、はるか彼方にバラバラに埋められ、隠されてしまったオシリスの身体を、イシスは掘り起こしていった。

…こうしてイシスはオシリスを「つなぎ合わせ、思い出した(re-menbered)」のである。

トラウマの治療においてこれを行うには、クライアントを穏やかに誘導して、かつて圧倒されてしまった感覚を再び感じ、次第にそれに耐えられるように導くことである。(p235)

おそらくはこの神話もまた、何かしらの実在のトラウマの実体験に基づいて編集されたものなのでしょう。

憶測にすぎませんが、古代エジプトのだれかが、ひどい苦痛にさらされ、身体感覚がバラバラになって死んだような状態になってしまったのかもしれません。さっきのインドの説話の男性や、現代の児童虐待のサバイバーたちのような状態です。

しかし、おそらくは祭司と医者を兼任していたであろう古代の治療者の儀式的な手引きによって、失った身体感覚を取り戻すように援助され、少しずつ、自分の身体の感覚を取り戻し、自分が何者であるかを思い出し、回復していくことができました。

医学がまだ発展していない当時は、なぜその手法でバラバラになった身体感覚が回復されるのか、科学的な理解は得られませんでした。それは宗教的な理由による効果だと解釈され、このイシスとオシリスの神話が組み立てられたのかもしれません。

現代においては、トラウマの原因や仕組みについて、当時よりもっと多くのことがわかっていますが、その治療法の本質は、はるか昔の物語と同じです。

切り離され、失われ、麻痺してしまった身体感覚を、再び体験できるよう徐々に助けることによって、かつて自分が何者だったのかを思い出せるようにすることです。

前回の記事で書いたように、解離とは身体の内部から発せらる体性感覚が切り離されてしまうことで、「自己」や「アイデンティティ」の感覚が損なわれることでした。

自分が「空っぽ」に感じるのはなぜか―実存の空虚という恐怖を神経科学から説明する
自分の身体が存在していない、内面が空虚である、といった「空っぽ」の感覚が生じる理由について、自己のアイデンティティは体性感覚から作られているというダマシオやサックスの研究から考えて

その結果、内面が空っぽになって、自分が何者かわからなくなってしまい、生きている実感を感じられなくなり、「自分が人間かどうかも定かでない」状態になるのが離人症でした。

このようなアイデンティティ障害を治療するには、切り離されている体性感覚を再び感じられるようにするしかありません。そうすることで、切り離された部分を統合し、「自分は人間である」というアイデンティティを思い出せるのです。

回復とは「つなぎ合わせ、思い出」すこと

解離とは、身体感覚が切り離されバラバラになることであるのに対し、解離からの回復とは、身体感覚がつなぎ合わされ、再びひとつだと感じられるようになることです。

そのためには、「クライアントを穏やかに誘導して、かつて圧倒されてしまった感覚を再び感じ、次第にそれに耐えられるように導くこと」が必要だとラヴィーンは述べていました。

以前に書いたような、さまざまな感覚を用いた身体志向のセラピーは、この目的のために考案され、組み立てられた治療法です。

「からだの記憶」の治療法―解離や慢性トラウマのための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる「からだ」を土台として生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。
ヨーガで身体の声を聞く―トラウマや慢性疼痛に身体セラピーが役立つ理由
ベッセル・ヴァン・デア・コークらのトラウマ・センターで実践されている、トラウマの身体症状に対するヨーガ・プログラムを参考にして、身体的な気づきを促すボディワークがなぜ原因不明の身体

それらの特徴はいずれも、カウンセリングのような、ただ言葉のやり取りをするようなトークセラピーではなく、実際に身体を動かし、身体感覚を感じるように助ける、という身体的な性質でした。

この記事で考えてきたように、トラウマとは単なる心の傷や悩みではなく、問題は身体感覚の切り離しにあるのですから、言葉ではなく感覚に意識を向けるセラピーが必要なのは当然です。

左足の感覚が切り離されてしまったオリヴァー・サックスは、妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、自分が経験したのと同じような「手足の消滅、異物感」などを特徴とする病態をたくさん紹介していますが、それらの治療に共通するのは、感覚を使うことだと述べています。

このような発育期からの失認症はまれなケースだろうが、後天的な失認症はよくあることで、この場合もやはり治療の基本はその部分を「使うこと」とされている。

しばしば私は、糖尿病が原因でいわゆるグローブ・アンド・ストッキング型神経障害がおきている患者に出会うが、神経障害がひどくなると、手足や足先が麻痺しているとさえ感じられなくなり(すなわちグローブ・アンド・ストッキング型でなくなって)、そこにはなにもないという感じ(非実体感 デリアライゼーション)にまでいたる。

ときにはまた、手も足もまったくなくなって胴体だけになった―ある患者の表現を借りると「だるまのようになった」―という感じになる。

あるいはまた、腕の先と脚の先がばっさり切り落とされて木の切株のようになり、その先に、練り粉か石膏でつくった塊がくっついているように感じている患者もいる。

いずれにしても特徴的なのは、存在が消えたように思えるこの感情(デリアライゼーション)は、突発的におきるということである。

そして、ふたたび現実にもどって実体の存在が認識されるようになるのも、また同じように、とつぜん瞬間的におきるのである。(p135)

ここで紹介されているのは、トラウマではなく、糖尿病に伴う神経障害ですが、「手も足もまったくなくなって胴体だけに」なったり「練り粉か石膏でつくった塊がくっついているよう」な異物感が生じたりする、という似た特徴が見られます。

このとき起こっている「存在が消えたように思える」感覚(デリアライゼーション)は、その部分の感覚を「使うこと」によって復旧させることができます。感覚が切り離されてしまうことで起こる存在の消失は、再び感覚を感じられれば回復します。

しかし、いきなり感覚を回復させることには危険が伴うと、サックスは忠告しています。

このような患者にたいしてその手や足を使うようにさせることは、彼らをうまく騙してそうしむけることができたとしても、危険であり、注意を要する。

これをやると、突然急に再現実化(リリアライゼーション)がおこりやすい。すなわち、主観的な現実と「人生」に突然もどってしまうのである。

…しかし使いすぎると、十全とはいえない神経機能が疲労してしまい、ふたたび突然デリアライゼーションへと逆戻りしてしまう。(p136)

解離され、切り離されている感覚は、急に復旧することがあります。神経が死んでいるわけではなく、ただ遮断されているだけだからです。

もし急に感覚が回復したら、今まで死んでいたように思える感覚が、とつぜん生き返って、強烈な現実感にさらされます。

死んでいた感覚が生き返るというと良いことに思えますが、現実感があまりに鮮明であれば、かえって逆効果になります。

ずっと死んだ状態にあった身体は、あまりに強烈な生の感覚に耐えられず、「ふたたび突然デリアライゼーションへと逆戻りしてしまう」からです。

これと同じことが、トラウマ治療でも起こります。トラウマ治療の場合、この部分はもっと繊細で、気をつけなければならないところです。

ここまで考えてきたように、トラウマ当事者が、感覚を切り離して解離させてしまうのは、重大な理由あってのことでした。何かしらの耐えきれない感覚に襲われ、生命の危機を感じたからこそ、感覚を切り離すことで自己防衛をはかり、かろうじて生き延びたのです。

もしいきなり感覚をすべて体験させてしまうなら、トラウマの衝撃を再体験してしまい、「ふたたび突然デリアライゼーションへと逆戻りしてしまう」、つまり、死んだようなバラバラの状態に逆戻りしてしまうでしょう。

たとえば神経科学者スティーヴン・ポージェスは、 ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で、「突然急に再現実化」をはかる曝露療法のような治療法の問題点を指摘しています。

トラウマの刺激に関して脱感作させるために暴露療法(不安や苦痛を克服するため、患者が恐怖を抱いている物や状況に対して、危険を伴うことなく直面させる行動療法)を用いるセラピストがいます。

しかしこれは、クライアントの生理学的状態、そして防衛反応が起きているときの状態について十分理解していないと言わざるを得ません。

クライアントの生理学的状態を考えると、この方法では、クライアントの反応性を下げていくというよりも、むしろトラウマ的な出来事に対しての感度を上昇させる恐れがあります。(p148)

曝露療法では、耐えきれない過剰な負荷がかかるため、一時的に強い現実感が感じられるとしても、すぐにより重い解離状態に逆戻りしてしまいます。

一方で、成功するセラピーでは、感覚の洪水に圧倒されることのない、「安全な状態」が重要だと書いています。

腕の良いトラウマ・セラピストは、安全な状態を作り、クライアントがトラウマ的体験と交渉し、うまく抜け出すように導いています。

クライアントが安全であると感じられる状態で、自分の体験と交渉し、そこから抜け出すことができれば、その人はシャットダウンするか、可動化する防衛システムに頼る必要がなくなります。(p164)

ポイントは、「クライアントが安全であると感じられる状態」で、少しずつ感覚を感じ取れるように助けることです。

これは、曝露療法のような劇的にトラウマを「再体験」させる方法とは対照をなしていて、ゆっくりトラウマと「再交渉」する、と表現されます。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復に書かれていたように、バラバラになった身体感覚をつなぎあわせる作業は、細心の注意を要します。

トラウマの治療においてこれを行うには、クライアントを穏やかに誘導して、かつて圧倒されてしまった感覚を再び感じ、次第にそれに耐えられるように導くことである。(p235)

曝露療法のように、「かつて圧倒されてしまった感覚」にいきなりさらすのではなく、少しずつ「次第にそれに耐えられるように導く」ことが必要です。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に書かれているように、トラウマの当事者に自分の身体感覚に気づくよう促すと、わずかな感覚でさえ危険を感じて、すぐに調節不全を起こすため、少しずつ、ゆっくりと進める必要があります。

未消化なトラウマの体験が調節不全をもたらすため、通常の感覚を意識的に気づくことでさえ、トラウマの活性化を引き起こすことがあります。

例えば、心拍数が上昇してドキドキする、それが身体的なエクササイズによるものだとしても、無力感やパニックを引き起こします。

なぜなら、正常な身体的活動の反応としてではなく、恐ろしいものと戦ったり逃げたりすべきだという兆候として体験するからです。(p292)

身体感覚に注目させるセラピーのひとつであるソマティック・エクスペリエンシングの場合、この徐々に進む方法は、「ペンデュレーション」(振り子のように行ったり来たりする)と「タイトレーション」(爆発の危険がある薬物を混ぜ合わせるときのように一滴ずつ交互に慎重に滴定する)という用語で表されていました。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

この「ゆっくり慎重に進む」という法則は、バラバラになった身体感覚をつなぎあわせるすべてのセラピーに当てはまります。

それはちょうど、神話に出てきたイシスが、バラバラに切り刻まれた夫オシリスの身体の部分(menber)を決して乱暴につなぎあわせたはずがないのと同じです。

トラウマ当事者が、セラピストの助けのもと自分の切り離された部分(menber)をつなぎあわせていくときも、細心の注意を払いつつ、少しずつ切り離された感覚に注意を向けていく必要があります。

そうすることで、断片化された身体の部分(member)は再びつなぎあわされ、自分が何者かを思い出す(re-membered)ことができるのです。

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バラバラな死体から、ひとつの生きた自分へ

この記事では、バラバラに切り離された身体というテーマのもとに、解離とは何かについて考えてきました。まとめると次のようになります。

■解離とは、身体感覚がバラバラに切り離されること
生命の危険を感じるような危機的状況に直面し、しかも逃げ場がないとき、わたしたちは苦痛を伴う感覚を切り離して麻痺させることで身を守ろうとする。

■身体が切り離されたままだと、死んだような感覚や異物感が生じる
身体感覚を切り離すとは「自分の一部ではない」と処理すること。それによってあたかも傍観者のように苦痛をやりすごせるが、危機が去っても解離したままだと、身体の一部が死んでいる、他人の身体や異物のようだ、という感覚になってしまう。

■身体が切り離されていると、夢や心の状態も影響される
身体の感覚が神経学的に切り離されていると、その状態が悪夢にも反映される。また「心」は「身体」の感覚から作られているので、「身体」の感覚が複数に切り離されて分裂すると、それから作られる「心」もまた分裂し、複数の人格が現れる。

■古代インドの鬼の物語
古代インドの物語では、不幸な男が、鬼によって身体をもぎとられ、死体と取り替えられる。これはトラウマを負うとその部分が死体や異物のようになり、やがて自分が誰かわからないアイデンティティ障害になってしまうことを表したものかもしれない。

■古代エジプトのイシスとオシリスの物語
古代エジプトのイシスとオシリスの伝説では、バラバラにされた夫の遺体を妻がひとつに結び合わせた。トラウマの治療でも、バラバラになった身体感覚を丁寧に、慎重に少しずつ感じられるように助け、ひとつに統合することで回復できる。

ピーター・ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、このようにバラバラに切り離された解離状態から回復し、統合されていく道のりについて、次のように詩的に表現しています。

トラウマに苦しむ人は、その癒しの旅路で、自らの固い防衛を解き放つことを学ぶ。

このようにすべてに身を委ねる中で、凍りついた不動からおだやかな融解へ、そして最後には自由な流れへと変化していく。

習慣化した解離状態でバラバラになった自己を癒していく中で、断片化から全体性へと変化していく。

からだの中に存在できるようになり、長い流浪の旅から戻ってくるのである。

彼はからだに帰ってきて、それがまるで初めてであるかのように、体現化した人生を味わうのである。(p420)

文字通り殺され、バラバラに切り離され、死体として放置された人は、生き返らせることができません。

一方、身体感覚を殺され、バラバラの解離状態にされ、死んだような状態に追い込まれることは、殺されるよりはるかに辛い体験です。その苦しみは、一瞬ではなく、何年も何十年も続くからです。

しかしそれでも、文字通り殺された人と違って、バラバラの解離状態に追い込まれた人の場合は、生き返る見込みがあります。身体感覚をつなぎあわせ、再び生きた身体を取り戻せる道があります。

果てしなく思える流浪の旅路から、ひとつに統合された自分の身体という住まいに帰ってくるのは楽な道のりではありませんが、あきらめず我が家を目指して歩き続けることには価値があります。

身体がバラバラに切り離され、死んだかのような状態になってしまったときの無感覚と空虚さは、それを体験した人でないとわかりません。

わたしはこの記事を含め、「身体が死んだようになる」「実存が空虚になる」「身体が死体や異物のように感じられる」「生ける屍になる」というテーマでいくつかの記事を書いてきましたが、これらの記事を読んでくれる人はそう多くないと思っています。

自分がまさにこうした状態に陥った人でないと、わたしがいったい何を書いているのか、理解できないだろうと思われるからです。

ほとんどの人は、「生きている」自分以外の状態を体験したことがないので、「生ける屍」になるという感覚の意味がわかりません。

常に「生きている」がゆえに、「生きている」ことのありがたみや喜びをほんとうには実感しないまま、一生を送ることになるでしょう。

しかし、一度「生ける屍」になった人はそうではありません。ラヴィーンの言うように、そのような人たちは生き返るとき、「それがまるで初めてであるかのように、体現化した人生を味わう」ことができます。

そのときに感じる喜び、すなわち、バラバラに切り離された自分を集める流浪の旅から、ひとつに統合された自分の身体という住まいに戻ってくるときの喜びは、きっと、オリヴァー・サックスがレナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)で引用している、次のことばのような体験になるでしょう。(p467)

ワルチェルに着いたとき、彼はかつて経験したことのない帰宅の喜びを感じた。

自分の留守の間に、その場所が一層愛しく、興味深い場所になったような気がした。あるいは、新しい展望を持ってその場所を眺めているのかもしれない。

なんといっても、彼はより強まった感受性とともに帰ってきたのだから……。

彼は友人のテグラリウスに向かってこう言った。

「まるで、ここの日々をずっと眠って過ごしていたように感じるんだ……。いま目を覚ますと、すべてのものがはっきりと現実を持って見えたように思えるんだよ」

―ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演戯』

いまバラバラにされた身体感覚に悩まされている人たちが、解離という魂の眠りから目覚め、トラウマからの回復を目指す旅路の中で「より強まった感受性とともに帰ってき」て、このような結末にたどりつけることを願ってやみません。