このブログの訪問者の検索ワードの中に、しばしば「イマジナリーフレンド 作り方」というキーワードを目にします。
イマジナリーフレンド(IF)とは、「空想の友だち」のことで、学術的にはイマジナリーコンパニオン(IC: Imaginary Companion)として、発達心理学などの分野で研究されています。
このブログでは、これまで、イマジナリーフレンドの「作り方」については、一切触れていませんでした。このブログが重点的に取り上げているのは、イマジナリーフレンドを持つようになる人の素質です。
なぜイマジナリーフレンドの「作り方」について書いてこなかったのでしょうか。その点をこの機会に説明しておきたいと思います。
最初に、さまざまな文献を調査した結論としての、わたしの意見を書いておきましょう。
■しかし、自分で作るイマジナリーフレンドがあることも確かで、「作り方」も存在する
■ただし、自分で作ったIFと、学術的な意味におけるIFはかなり異なる可能性がある
それでは、どのようにして、このような結論に至ったのか、お話したいと思います。
もくじ
「出会う」ものとしての子ども時代のIF
最初にまず挙げるべき最大の理由は、イマジナリーコンパニオンに関する学術的な研究では、想像上の友だちは、意識して創り出す存在とは説明されていない、ということです。
「子どものときにだけあなたに訪れる」
基本的に、イマジナリーフレンドとは、子どものころ(乳幼児期~幼児期)に、子どもが自然に創り出す目に見えない友だちを指します。
以前に書いたように、何歳くらいのころにイマジナリーフレンドを持つかは、研究方法によって時期が少し異なりますが、非常に大まかにいえば、2歳から7歳くらいまでが特に多いようです。
(基本的に、聞き取り調査による統計は、幼児健忘症を度外視しているので、平均年齢が高めになっています。それに対し、観察調査による統計では、2歳半から3歳半にピークが見られることが明らかになっています)
このとき、当然ながら、乳幼児や幼児たちは、意識して、つまり空想の友だちを作ろうとして、熱心に想像力を働かせたわけではありません。多くの場合、イマジナリーフレンドは「いつのまにか」現れ、「いつのまにか」消えます。
「不思議な出会い」
イマジナリーフレンドの研究者たちは、このような現象は、とても普遍的に見られるものであり、おそらくは半数近い子どもが経験するものである、ということを繰り返し例証しています。
見えない世界の物語 超越性とファンタジー (講談社選書メチエ) という本によると、古くから伝えられているファンタジー性を持つ物語の多くは、子どもの視点を反映したものである、とされています。
この本は、イマジナリーコンパニオンの研究者である麻生武博士の研究にも触れていますが(p177)、ファンタジーというジャンルの成り立ちについては、こう述べています。
人生経験の少ない子どもの素朴な憧憬によって現出するような架空の世界について深い理解を持っていた作家たちによって、これまでにない現実と空想の均衡が保たれている物語の世界が拓かれたのだ。(p10)
ファンタジーというジャンルは、子ども特有のユニーク視点が投影されたものであるというわけです。
子どもは感覚統合が未発達なので、大人にはありえない不思議な世界を経験していることがよくあります。不思議の国のアリスのように、大きさが変わったり、不思議なものが見えたり、実際に感覚として感じたりします。
子供の頃に見えていた世界 – 大人になって見える世界 (via http://t.co/cQaXwSqMDA) pic.twitter.com/DYLtOKhrxo
? ステキデザイン? (@SutekiDesign4u) 2015, 8月 12
このような子どもの視点に基づくファンタジーというのは、ファンタジーというジャンルが存在するよりはるかに以前から、あらゆる人種や国の社会に根付いたものでした。
世界中に、さまざまな空想の生き物に関する伝承が残されています。「精霊」「妖精」「ゴブリン」「人魚」、そして日本の「妖怪」や「八百万(やおろず)の神」などです。
イマジナリーコンパニオンの研究者である発達心理学者、森口佑介博士は、こうした空想の生き物たちは、幼児のイマジナリーコンパニオンとみなせると考えています。
ポケモン、妖怪ウォッチ、トトロと、「空想の友達」研究 – 下條信輔|WEBRONZA – 朝日新聞社
それらの伝承のエッセンスを抽出して作られたのか、宮崎駿の「となりのトトロ」でした。
トトロの特徴は、やはり子どもにしか見えないことです。そして、さらに言えば、主題歌の歌詞にあるように、非常にはっきりとした特徴を持っています。
子供のときにだけ あなたに訪れる不思議な出会い
サツキとメイは、トトロやまっくろくろすけやネコバスを「作った」わけではありませんでした。それらと「出会った」のです。
「出会う」と「作る」があいまいな青年期のIF
子どものイマジナリーフレンドは、明らかに「出会う」ものであり、意識して作るものではありません。そして、子ども時代が終われば、見えなくなり、消えていきます。
しかし、イマジナリーフレンドは、青年期に出現することがある、という点も知られています。ある研究によると、9歳半から10歳半ごろに、幼年期と比べると少数ながらも二度目のピークを迎えるのだそうです。
また、奇跡の生還へ導く人―極限状況の「サードマン現象」という本はイマジナリーフレンドについてこう述べています。
最近の研究では、この現象は14,5歳前後の思春期にも起こることがわかった。
若者が想像上の友だちにたよるのは、単にほんとうの親友がいないからではなく、それどころか、この現象を経験する若者は「社会的能力も創造力もそなえている」。(p134)
こうした記述からすると、イマジナリーフレンドは、一部の人たちにとっては「子供のときにだけあなたに訪れる不思議な出会い」ではないことがわかります。
ただし、ここでもやはり、それらの若者はイマジナリーフレンドは「作った」と表現されているわけでなく「この現象を経験」したと述べられていることに注目できます。
3人のIF保持者の言葉から考える
このブログでは、これまでの記事で、青年期にイマジナリーフレンドを経験した人たちの例を幾つか取り上げてきました。
■ダニエル・タメット
タメットは、後に回想として、「友だちがいない代わりに、ぼくは校庭の樹木のあいだを歩くときにいっしょにいてくれる友だちを想像でつくった」と述べています。
しかし、それはあくまで大人になってから、自分の体験を論理的に解釈しなおした感想でした。実際には、彼はイマジナリーフレンドが「どこから来たのか」知りませんでしたし、イマジナリーフレンドは彼の意志に反して消えてしまったので、彼は激しく泣きました。
■エミリー
10歳の少女エミリーは、イマジナリーフレンドと出会うために、空想上のエージェント、ハリット氏に手紙を書いたところ、15歳のジョンと16歳のリサという二人のイマジナリーフレンドを紹介された、と述べています。
手紙を書く、といったあたりから、意識的にイマジナリーフレンドを作り出そうとしたようにも思えますが、そもそもハリット氏の存在そのものがイマジナリーフレンドなので、先に空想世界が存在していたと考えられます。
■カナコさん
イマジナリーフレンドに関する本を出しておられるカナコさんは、本の中でイマジナリーフレンドの作り方を解説しておられます。
しかし自分の体験に関して言えば、「私は彼を自分で順序よく組み立てた制作物とは認識しなかった」と回想しています。
こうして見ると、青年期のイマジナリーフレンドは、、幼児期に比べ、「作る」という意識が伴いやすいことがわかります。
しかしあくまで、大人としての立場から論理的に分析した場合にそうなるのであって、「出会うもの」という基本的な要素は変わっていないのではないかと思われます。
というのは、イマジナリーフレンド・イマジナリーコンパニオンの研究において、この現象を支えているのは、脳の「解離」という防衛機制だと言われているからです。
「解離」は、基本的に意識して引き起こすものではありません。ストレスがかかったり、危機的状況に陥ったときに、脳が自動的に引き起こす無意識の現象です。
そのため、発達心理学者たちは、イマジナリーフレンドと危機的状況下におけるサードマン現象などを類似のものとみなしています。サードマン現象は、明らかに自分で「作る」ものではありません。
アニメやマンガのキャラクターの取り込み
イマジナリーフレンドが存在するようになる経緯には、既存のアニメやキャラクターをイマジナリーフレンド化する、という経緯がときどき見られます。それはおそらく、理想を具現化したいという思いと関連していると思われます。
この場合は、さらに「作る」と「出会う」の境目があいまいになりますが、多くの人は、「いつのまにか」アニメのキャラクターと会話するようになり、「いつのまにか」キャラクターがイマジナリーフレンドになっていた、と言います。
図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法 では、人の心の中には、まわりの身近な人たちの人格の取り込み像が存在しているとされています。
これは「摂取(取り込み/取り入れ:introjection)」という防衛機制です。
虐待の被害者には、親の取り込み像、加害者の取り込み像などの人格を持っている人がいます。そうでなくても、自分の深層心理に、母親や父親が存在していると感じる人は多くいます。
養育者や加害者などの人格像の取り込みは、それら自分に対して支配的な存在に対して、自分を合わせていくための一種の生存手段なのです。その人格を取り込んでいれば、それと会話して対応をシミュレートできるからです。
子どもが行う、こうした思考実験を「反実仮想」といいます。
逆に、理想とする人の良い点を自分に取り入れるのもまた、この「取り込み」という防衛機制のポジティブな働きです。敬愛する親、模範とする先生、大切な友などの人格の一部を取り入れて内在化するのです。
子どものときに、あるキャラクターが理想像になって、大好きな人物を訊かれるとアニメのキャラクターの名前を言う人も大勢います。そうしたあこがれが、キャラクターの人格の取り入れと内在化を生じさせているのかもしれません。
そして、その理想像のキャラクターと反実仮想のやりとりをすることで、現実の問題に対処するシミュレートをしているものと考えられます。
いずれにしても、防衛機制が関わっているとしたら、キャラクターのイマジナリーフレンド化は、脳の無意識的な働きが関係しているのであって、意図して計画的に「作る」ものではないように思います。
「作る」ものではなく「出会う」もの
それで、イマジナリーフレンドの「作り方」があるのか、という問題には、次のように答えざるを得ません。
少なくとも、学問的な意味な意味におけるイマジナリーフレンド、つまりイマジナリーコンパニオンは、自分で作るものではない。よって「作り方」も存在しない。
むしろ自動的に存在するようになる、という要素は、イマジナリーコンパニオンの大きな特徴の一つとみなしてもよいほどであり、それによって、単なる「創作」とイマジナリーフレンドとは、まったく違う性質を持っているとされる。
自分で作ったIFと無意識のうちに出会ったIFの違い
しかし、「イマジナリーフレンド 作り方」という検索でこのブログを訪れる人が多いのは事実であり、実際に、「イマジナリーフレンドを作る方法」といったことを解説したウェブページも存在します。
そうした「作り方」にそって意識的に作られたイマジナリーフレンドは、ここまで論じてきた、脳の防衛機制によって無意識のうちにに出会ったイマジナリーフレンドと異なるものなのでしょうか。
わたしはこの点において、情報を持ち合わせていませんが、参考となる例はあります。ここでは、「神」と「言語」という二つの例で考えましょう。
1.「神」の存在とイマジナリーフレンド
すでにちらっと触れたように、イマジナリーフレンドは、宗教における「神」や「天使」と同等のものだと考える学者が大勢います。
この点については、おさなごころを科学する: 進化する幼児観 のp254「宗教の認知科学」を参考にしてください。そこには森口博士の意見がこう書かれています。
ボイヤー博士は空想の友達と神とを区別しますが、筆者は多くの類似性があるように感じています。
空想の友達は、過剰な行為者検出器によってその存在が検出され、他者と相互作用するための認知機構によって維持されるという考えです。(p258)
簡単にいうと、「神」も「空想の友だち」も、元は行為者検出器の過剰さ、つまりだれかがいるという感覚が強く働きすぎることによって、生まれるのではないかということです。このような気配過敏は、解離の一つの特徴でもあります。
そして、イマジナリーフレンドの場合は会話やごっこ遊び、「神」の場合は、祈りや儀式といったやりとりを通じて、存在の生々しさが維持されるというわけです。
わたしの立場としては、神などの超自然的存在がすべて人間の空想の産物という意見には賛同しません。未知なるものが存在する可能性を認めない傲慢な態度は、科学の発展を妨げまるものです。
しかし、大半の人が信じている「神」や「天使」がイマジナリーフレンドと類似するものであるという見解には同意します。
すでに述べた遭難事故などにおけるサードマン現象は、しばしば宗教家などにより、神や守護天使が存在する証拠として扱われています。9.11のときにサードマン現象を経験して、信仰を深めたクリスチャンもいるそうです。
こうしたサードマン現象が、イマジナリーフレンドと近縁のものであるとされていることを踏まえると、人類が昔から「神」や「天使」とイマジナリーフレンドを混同してきたとしても驚くにはあたりません。
さて、もし多くの宗教における「神」がイマジナリーフレンドと同等なのであれば、「IFと無意識のうちに出会った人」と「IFを意識的に自分で作った人」の違いは、次のように説明できます。
「IFを意識的に自分で作った人」…物心ついたあと、自分で選んで宗教に入り、神の存在を信じるようになった人
この二つのグループの人たちは、どちらも神を深く信じるようになるかもしれませんが、それぞれの感覚は大きく異なっている可能性があります。
子どものころから神を信じている人は、「信じている」というより、むしろ「感じている」可能性があります。神がそこにいるという確かな実感を感じられるので、疑いなく信じることができます。
それに対し、大人になってから改宗し、神の存在を信じるようになった人は、神の存在を実感する、という点で、かなりの程度苦労すると思われます。はっきり信じるようになっても、「感じている」から信じるのではなく「信じたい」から信じているという部分がなかなか抜けないでしょう。
同様に、イマジナリーフレンドと子どものときに無意識のうちに出会った人たちは、その存在についてほとんど何の疑問も持たないと思われます。すぐそこにいるというありありとした実感が伴うからです。
しかしネット上の記事などを見て、イマジナリーフレンドを「作った」人たちは、たとえイマジナリーフレンドと親しくなっても、子どものときからイマジナリーフレンドを持っている人ほどの実在感を感じるのは難しいか、そうなるのにかなり時間がかかるのではないかと考えられます。
2.ネイティブの話者とイマジナリーフレンド
2つ目の例は言語習得です。言語は、ある程度イマジナリーフレンドと同様に、感受性の時期というものが存在します。臨界期を越えると、学習が困難になります。
言語習得とイマジナリーフレンドが、どちらも子ども時代に感受性期を持つものであれば、「IFと無意識のうちに出会った人」と「IFを意識的に自分で作った人」の違いは、次のように説明できます。
「IFを意識的に自分で作った人」…物心ついたあと、自分で言語を学んだバイリンガルの話者
この二つのグループの人たちが、まったく異なっているのは、だれでもよく知っていると思います。
わたしたちの大半は、日本語のネイティブの話者であると同時に、成長してからある程度英語を話せるようになったバイリンガルの話者です。しかし、日本語と同じように英語を使える人はほとんどいません。
ネイティブの話者は感覚的に言語を理解しています。文法などを考える必要もなければ、教材で勉強する必要もありません。その言語はいたって自然であり、思考もその言語によって組み立てているからです。
ところが、成長してから言語を学んだ人は、文法や単語を覚えて、長い期間練習しなければなりません。そしてそれでも、ネイティブの話者ほど滑らかに話せるようになることは非常にまれです。
同様に、子どものときからイマジナリーフレンドに親しんでいる人は、何の努力もせずに、イマジナリーフレンドの存在を感じ、それを当たり前のものとして受け入れています。
しかし成長してからイマジナリーフレンドを作ろうという人には「作り方」の解説が必要ですし、違和感を感じることも多いでしょう。途中で挫折したり、バカらしく感じたりしてやめてしまう人も多いのではないかと思います。
ちなみにこのバイリンガルの比喩は、脳科学的には比喩ではなく、事実通りのものかもしれません。
というのも、解離性障害の専門家は、解離性同一性障害、つまりいわゆる多重人格のメカニズムは、言語のバイリンガルを制御する脳の部位に関係している、と考えているからです。
複数の言語の思考モードの切り替えと、複数の人格モードの切り替えは、脳の機能としては本質的に同一のものではないかと思われます。
タルパ―大人になってから作ろうとするイマジナリーフレンド
自分で作れるIFとして、独自の理論を組み立てている概念として、タルパ(トゥルパ)というものがあります。
タルパとは、チベット密教に起源を発する修行法の一種で、修行を極めて、人工の霊的存在を作る手段と言われています。つまり元をたどれば宗教的・オカルト的な概念です。
タルパの起源はイマジナリーフレンドにあるのか
このタルパ(トゥルパ)という概念を、イマジナリーコンパニオンの研究の立場から分析すると、次のように解釈できます。(あくまで、ひとつの推論に過ぎません)
まず、タルパはチベット密教と言われるだけあって、古い概念に聞こえますが、すでに述べたように、人類史のはじめから多くの子どもに存在したと考えられるイマジナリーフレンドのほうが、より古い現象です。
そして、「神」「精霊」「妖精」「妖怪」といった概念の中には、子どものイマジナリーフレンド体験をもとに伝承化されたものがあるとする学者たちの意見をすでに紹介しました。
一部の宗教やオカルトは、そうした子ども(と解離しやすい傾向を持つ一部の大人)が、行為者検出器の過剰などの解離現象によって感じる独特のファンタジー世界を、理論づけし、講釈したものである可能性があります。
すると、チベット密教などにおける精霊などの霊的存在もまた、広い意味で、ある種のイマジナリーフレンドから派生した概念とも解釈できます。
「神」「精霊」「妖精」「妖怪」などのイマジナリーフレンド現象(行為者検出器の過剰)は、基本的に子ども時代限定の経験です。大人になると、存在を知覚できなくなる場合がほとんどです。
そうすると、それらに憧れる大人たちは、「宗教」や「修行」、「悟り」をもって、霊的存在に近づこうと考えるようになります。それは、ある意味で、子ども時代のような純粋な感覚世界を取り戻すための手段です。
あくまで、非常に単純化した考え方だと承知していますが、タルパもまた、遠い昔から普遍的に続いている人類の解離体験から枝分かれした、さまざまな「宗教」「オカルト」「ファンタジー」の一つであるのかもしれません。
そう考えると、タルパはイマジナリーフレンドの一部、ひいては解離現象の一種として分類可能です。
イマジナリーフレンドのネイティブ性
こうして考えてきたことからすると、学術的な意味でのイマジナリーコンパニオンと、今日一般に知られるようになった、自分で作るイマジナリーフレンド、そしてタルパの間には、大きな文化的違いがあるものと考えられます。
ここまでの論議では、学術的な意味でのIF保持者はネイティブの話者、意図的にイマジナリーフレンドやタルパを作った人は、成長してからバイリンガルになった話者に例えてきました。
同じ日本に住んでいても、日本語のネイティブ話者と、外国からやってきて日本語を学んだバイリンガル話者との間には、大きな文化的な違いがあるものです。
しかしもちろん、それは、ネイティブの日本人に対し、日本語を学んだバイリンガルの外国人が劣っているという意味では決してありません。
むしろ、双方には、違ったメリットがあるでしょう。ネイティブの日本人は、馴染み深い文化にひたって安心感を抱けますし、バイリンガルとしてやってきた外国人は、新鮮な経験を通して、人生経験が深くなるかもしれません。
同様に、無意識のうちにIFと出会った純粋なIF保持者と、後に意識してIF的存在を作った人たちとでは、文化的違いがあるとはいえ、それぞれに優劣はなく、別個のメリットがあるものと考えられます。
このブログでは、概念の混乱を避けるため、両者の混同は避けていますし、「作り方」について書くこともしていません。
しかし、双方の概念に同等の敬意を表したいとは思っており、大切なのは、個人個人の感覚世界を尊重することだと考えています。
その後、この話題についてさらに考察してみたので、よろしければ以下の記事もご覧ください。