これが、その後ぼくに取り憑いて離れない魔法の国のすべてなのだ。
もちろん、その半透明な非現実性や、日常の世界との相違などは巧く君に伝えられない。しかし、現実に起こったことにちがいはないのだ。
もしそれが夢だとすれば、途方もない白昼夢ということになるのだろうか……。(p276)
H・G・ウェルズの短編小説「塀についた扉」(タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫) に収録)には、わたしの心情にぴったりなこんなセリフがあります。
前回の記事で触れたように、わたしははからずも「地図にない国」に迷いこんだ放浪者のようなものでした。
最初にそれを経験したのは小学校2年生の時。世界がモノクロになり、薄っぺらい紙のように見えました。やがて、夜、ベッドの中で不思議な世界に迷い込み、目に見えない友達の声が聞こえるようになりました。
ありありと目に焼き付く見えない友達の姿、あふれ出る物語、現実よりも鮮やかなもう一つの世界。一連の不思議な体験に「解離」という名前があることを知ったのは、大人になってからでした。
それからというもの、わたしは「取り憑いて離れない魔法の国のすべて」を解き明かしたいと思うようになりました。「その半透明な非現実性や、日常の世界との相違」を、言語化することに力を尽くしました。
しかし、体調不良を治療するうちに、解離は薄れてきました。わたしは現実にとどまることを学びました。そして、かつては現実よりも現実的だったはずの空想の世界に、うまく入り込めなくなってしまいました。
ちょうど、ウェルズの短編小説の主人公が、現実世界に居場所を見出すにつれ、魔法の国へつながる「白壁の緑の扉」が見えなくなってしまうように。
解離によって、内的な世界や空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)が現れた人の中には、それらが失われるのをひどく恐れる人もいます。自分がそうだったので気持ちがよくわかります。
当時のわたしは自分が将来どうなってしまうのか不安に思って、たくさん調べました。でも役立つ資料が全然見つかりませんでした。先人が誰も、ちゃんとした記録を残してくれていなかったからです。
だから、わたしは、自分がどのような経過をたどり、どう変化していったかを書き留めておくのは義務だと考えました。この記事ではわたしの体験をありのままに書きます。
あくまで、わたし個人の体験なので、皆が皆おなじ道をたどるわけではありません。わたしの場合、願っていたとおりにはなりませんでしたが、恐れていたような結果にもなりませんでした。どういうことかお話ししましょう。
もくじ
これはどんな本?
「塀についた扉」(原題“The Door in the Wall”)は、タイム・マシンで名高いSF作家H・G・ウェルズによる短編小説です。
幾つかの邦訳があり、今回は、タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫) に収録されている橋本訳「塀についた扉」を参考にしていますが、タイトルとしては小野寺訳の「白壁の緑の扉」という表現が好きです。
この表現は、小説の中で描写されている扉の様子に基づいています。
そこには、紅色のアメリカ蔦があった。白い壁にからむ紅色の蔦は、鮮やかな琥珀色の陽をあびて一様に輝いていた。…そして緑色の扉の外の綺麗な舗道の上にとちの葉が落ちていた。(p268)
すべてはおぼろげな記憶のなかに色あせてしまったのだろう。しかしどういうわけか、例の緑の扉と白い壁だけは鮮明に覚えていたのだ。(p269)
今になって、この小説についてブログで書きたいと思ったのは、わたしの現状とよく似ているような気がしたからです。
この短編小説のテーマは、となりのトトロの有名な歌詞にあるのと同じ「子供のときにだけ あなたに訪れる不思議な出会い」です。
子どもの時には、空想世界や空想の友達(イマジナリーコンパニオン)につながる扉をくぐれるのに、大人になるにしたがってそれができなくなってしまう、そのもどかしさと苦悩が描き出されています。
このブログで詳しく書いてきたように、そのような子ども特有の体験は心理学的には「空想傾向」と呼ばれ、精神医学的には「解離」と呼ばれます。幼い子どもが解離現象を経験するのはまったく正常な発達過程の一部です。
中にはわたしがそうだったように、青年時代に入っても解離現象が持続する人もいます。その場合は、何かしらのトラウマ経験や、居場所のなさなど、慢性的なストレスが関係している可能性があります。
それでも、解離現象そのものは、病気ではなく保護として働いています。解離は心を守るために人体に備わっている、防衛機制と呼ばれる保護システムのひとつであり、耐え難い重荷をかろうじて耐えぬけるように助けてくれるのです。
ウェルズが「塀についた扉」で描写している空想世界やイマジナリーコンパニオンなどの描写は、単なるフィクションを越えたリアリティを感じさせます。
登場人物にこう言わせている以上、何かしらの実体験に即している可能性は十分にあるでしょう。
彼の話には、実際、体験したものでなければとうてい語れないような真実味というものがこもっていた。
…今では彼は自分の秘密の真実を私に語ろうと最大の努力をしてくれたのだと信じている。(p265)
巻末に解説によると、ウェルズは自分の「死亡広告」を書いたこともあるらしく、自らの経験を、あたかも第三者の経験であるかのように装って書くのはお手の物だったようです。(p358)
わたしはウェルズについて詳しくありませんが、晩年に書いた博士論文で「統一された人格という観念は生物学的にみて便宜的に作られた幻覚である」という主張を展開したと書かれていました。(p359)
このような考え方は、解離の当事者の実感とよく似ています。
彼はまた、異常に多才な人で、「風俗小説家、ジャーナリスト、SF作家、百科全書家、歴史家、社会主義者、大衆啓蒙家、科学者、ユートピアン、フェミニスト、予言者などきりがないほど」の顔を持ち、あたかも複数の人格が1人の人に宿っているかのようでした。(p357)
これは、わたしが過去記事で書いたところのコントロールされた解離にぴったりです。もしかすると、ウェルズはもともと解離的な傾向をもっていたものの、たぐいまれな才能により、破綻せずに創造性として発揮できたタイプだったのかもしれません。
魔法の国へ通じる「白壁の緑の扉」
ここからは「塀についた扉」のストーリーを概観してみます。
もはや古典的な小説ですし、わずか30ページほどの短編なので、顛末も含めて書きますが、もし自分で直接読みたい人がいたら、この副見出しは飛ばしてください。
この物語の主人公は、ライオネル・ウォレスという政治家です。彼の奇妙な告白に、ウォレスの友人であるレドモンドが耳を傾けるという形式で物語が進みます。
ウォレスは、「急にうわのそらになることがある」「寡黙な男」で、「ひとつのことに精神を集中するときは、立派にやりとげることができる」人でした。「努力したわけではなく、天性そう定められていたかのように」すばらしい成績を収めました。(p265-267)
現代風に言い換えると、過集中の傾向があるタイプでした。努力しなくても学業に没頭して、よい成績を収める反面、心ここにあらずの状態になってしまうこともあった、ということでしょう。
彼は優秀でしたが、生い立ちはあまり恵まれていませんでした。「頭脳はずばぬけて秀れていたのに、その人生は灰色で退屈だった」ようです。
「2歳の時に母親が死に」乳母に甘やかされました。父親は子育てに無関心なのに、期待だけは大きいという、とんだ機能不全家庭で育ちました。(p268-269)
このブログの過去の記事からすると、いかにも無秩序型の愛着パターンを抱えそうな環境です。
幼少期に深刻な喪失を経験したり、相矛盾する養育環境で育った子どもは、空想に現実逃避したり、感情を押し殺したり、周囲の期待に応えるべく自分を犠牲にしてまで頑張ってしまったりします。
このような子どもは幼くして親の顔色を読んで過剰に気を遣うようになりますが、ウォレスも「早熟な子供だった」ようです。(p268)
彼の回想によると、わずか5歳と4ヶ月のときに、すでに「心配や恐怖や気づかい」にがんじがらめにされていました。(p271)
幼いウォレスは、息苦しい灰色の世界に耐えきれなくなり、ある日こっそり家を抜け出して街に出かけます。
そのとき、思いがけず「白壁の緑の扉」に出くわしたのです。
ためらいながらも扉を開けると、そこにはまるで楽園のような「魔法の国」が広がっていました。
そこには、心を浮きたたせるような雰囲気と、軽やかで、期待に胸をふくらませるような至福の感じが漂っていた。またその庭園の色彩感は豊かで、完璧で、微妙な光を発散しているように思えた。
…庭園の扉がぼくの背後でさっと閉じた瞬間、ぼくは塀の向こう側のことはすべて忘れてしまった。
とちの葉の散っている道路やそこを通る辻馬車や荷馬車、しつけの厳しい自分の家のこと、要するに、心配や恐怖や気遣いというようなこの世の一切の現実を忘れてしまったのだ。
ぼくは喜びと幸福に満ちあふれた子供になっていたのだ……そこは別世界だった。(p271)
幼いウォレスはその「魔法の国」で夢のような体験をします。優しい人たちや美しい動物たちに囲まれ、灰色の現実では決して味わえないような幸福に満たされます。
この庭園こそは、やっとたどりついた我家なのだという気持ちが強かったので、やがて、ひとりの背の高い美しい少女が道に現れて、「いかが?」と言いながらぼくを抱きあげ、接吻してくれたとき、少しも変な気持ちはしなかった。
逆にそれまでぼくが逃してしまった幸福を思い出し、この喜びに満ちた花園こそがほんとうの生活なのだと思った。(p272)
「やっとたどりついた我家」のような感覚、そしてこの空想世界こそが現実よりもリアルな「ほんとうの生活」だという感覚。わたしも心当たりがありますが、今はウォレスの話を追いましょう。
ウォレスは、現実では厳しい家庭で孤独に暮らしていました。しかし、この空想世界では、気の置けない遊び友達を見つけました。
遊び友達をそこに見つけたのだ。ぼくは独りぼっちの淋しい子供だったから、友だちほど嬉しいものはなかった。
ぼくたちは、花をあしらった日時計のある芝生の上で、楽しく遊んだのだ。遊びながら愛し合った……
でも、変だな。ぼくの記憶はところどころ抜けおちている。ぼくはどんな遊びをしたか覚えていないんだ。
…ぼくの覚えていることといったら、楽しかったことと、いつも一緒にいた二人の遊び友だちのことだけだった。(p273-274)
ウォレスは、魔法の国の秘密の世界に、現実では得られなかった空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)を見つけました。彼の記憶はところどころ抜け落ちていていましたが、友だちの存在はとてもリアルに記憶していました。
しかし、至福の時間は長くは続きませんでした。ウォレスは程なくして、亡くなった母親と思しき、青ざめた顔の憂鬱そうな婦人に連れて行かれ、不思議な本を見せられます。
その本のページをめくると、なんとウォレス自身の姿が映っていました。彼のこれまでの人生が本の中で展開され、しまいには、白い塀の外をうろついている自分が見えました。
この描写は、解離現象が起こっているとき、しばしば第三者として見下ろしているような視点に移動することを思い出させます。自分の姿がスクリーンに映し出され、上映されているかのように、遠くから見えます。
さらに、ウォレスが次のページをめくると、そこは真っ白でした。その瞬間、ウォレスは現実に引き戻されてしまいました。
そのページには、魔法の国もなければ、豹もいなかった。ぼくの手を引いてくれた少女も見えず、遊び友だちの姿もなかった。
そこにあったのはウェスト・ケンジントンの寒々とした黄昏どきの灰色の道路だった。そしてぼく自身も哀れな姿で泣きながらそこに立っていた。(p275)
現実に戻ってきたウォレスは、悲しみに打ちひしがれました。空想世界は跡形もなく消えてしまいました。その話を誰かにすると、笑われたり、怒られたり、罰されたりしました。
彼はもう一度、魔法の国に行きたいと願い続けます。
二度目は8歳ないし9歳ごろ、三度目は17歳のときに、またもや白壁の緑の扉を見つけました。しかしどちらも間が悪くて、扉のそばをただ通り過ぎて開けずじまいに終わってしまいます。
その後も、時々扉を見かけますが、いつも間が悪くて、扉を開けることができません。現実の生活が忙しく、充実していたので、後回しにしてしまったのです。
やがて、39歳の中年になり、現実世界が色あせてきたころ、ウォレスはまた頻繁に緑の扉を見るようになります。そして、そのことを、この物語の語り手である友人レドモンドに打ち明けます。
ウォレスは白壁の緑の扉を何度も目にしながら、その扉を開けずじまいでいたことを、激しく後悔していました。できることなら、もう一度、緑の扉をくぐって魔法の国を訪れ、埃っぽい浮世から失踪してしまいたいとさえ語ります。
その三ヶ月後、ウォレスは死体となって発見されます。誤って工事現場の竪穴に落ちて死んでしまったのです。
その工事現場は白い塀で囲われていました。塀には扉があり、当日、何かの手違いで扉が開け放されていました。そして、その扉をくぐってすぐ、ちょうど白い壁に開いたドアの向こうに、ウォレスが転落した竪穴があったのです。
ウォレスの死をもって、この不可思議な物語は幕を閉じます。ウォレスはただの妄想にとらわれていたのか、それとも本当に魔法の国を見ていたのか。その判断は読者に委ねられます。
結局、塀についた緑の扉は実在したのだろうか?
私にはわからない。私はただ彼から直接聞いたままを書いてきただけだ。でも時に、私はウォレスは幻覚と不注意の犠牲者にすぎなかったのではないかと思う。
しかし絶対にそうだという確信があるわけではない。…これこそ、彼のような夢想家たち、幻視の能力のある人々の奥底にある秘密に触れる問題なのだ。(p291)
わたしの「白壁の緑の扉」
「結局、塀についた緑の扉は実在したのだろうか?」
この問いかけに対するわたしの意見ははっきりしています。
白壁の緑の扉は実在します。なぜなら、わたしも同じような体験をしてきたからです。
もっとも、ファンタジックな魔法の国が現実に存在するという意味ではありません。
ウォレスの話に出てくる扉は、「解離」を表していると考えるとしっくりきます。彼は解離によって、現実世界から切り離され、確かに魔法の国の幻覚を見、ありありとしたリアルな空想世界を体験したのです。
わたしの場合、経験してきた解離現象は、ウォレスの場合と似ているところもあれば、異なる部分もあります。
ウォレスが空想世界に足を踏み入れたのはたった一度きりでした。一方わたしは小学生のころから長い期間、空想世界にこもり、イマジナリーコンパニオンの存在もずっと感じていました。
わたしは必要とあらば、いつでも現実と空想を行き来することができました。その意味では、ウェルズの創作小説よりも、児童文学作家エリナー・ファージョンが自伝で書いている実体験のほうに近いものでした。
ファージョンは30歳近くになるまで、ありありとした空想世界に引きこもって生きていました。寝る前には、まるで映画が上映されるかのように、映像と音で織りなされる空想世界がたちどころに現れました。
神話や詩の世界から現れた空想の友だちがいつもそばにいて、自分の意思を持っているかのように自在に振る舞い、独りでに動いたりしゃべったりしてくれました。
わたしもファージョンと同じような体験(柴山雅俊先生の言うところの「持続的空想」)をずっとしていましたが、それがいったい何なのかはずっと謎のままでした。自分はおかしいんじゃないか、と気をもんだことも一度や二度ではありません。
しかし、慢性疲労症候群の主治医に愛着障害の本を紹介され、次の一冊として杉山登志郎先生の情緒障害の本を見つけて手にとったことが転機になりました。その本で初めて、子どもが経験する「イマジナリーフレンド」なる幻覚について知りました。
もしやこれでは?と思ってインターネットで調べてみたら、わたしと似たような体験をしてきた人のサイトを見つけました。
しかし、当時は情報が錯綜しており、科学的な説明は見当たらず、解離性同一性障害と似て非なるものである、といったことくらいしか分かりませんでした。
わたしは自分で調べることを決意し、手当り次第に書籍を調べました。すると「解離」という概念を手がかりに、わたしが子どものころから経験してきた不可解な現象すべてが整理され、探偵小説のように謎が解き明かされていきました。
やがて、もともとは無関係の別の病気だと思っていた慢性疲労症候群さえも、(少なくともわたしの場合においては) 解離に関係して起こっているものだったことを理解できました。
わたしにとって、空想の友だちがいたことは、恐ろしい子ども時代を生き抜く命綱でした。
調べるうちに、空想の友だちは、精神科医ラルフ・アリソンの言う内的自己救済者のように、また遭難などの状況下で現れるサードマンのように振る舞うことを知り、合点がいったものです。
恐怖やパニック、不安などで圧倒されそうなとき、脳は生き残るために理性的な部分を隔離して切り離し、別の自我であるかのように独立させるのです。
わたしが最初に見たサイトでは、空想の友だちは解離性同一性障害とは違う、と説明されていました。けれども、実際には働いているメカニズムは似通っており、どちらも解離の作用です。
そのサイトを含め、多くの人は精神医学の影響で、「解離とは病的な障害だ」という誤解を抱いています。それで、病気とみなされることへの忌避感から、早まった区別をしてしまっていたものと思われます。
解離について徹底的に調査すれば、それが常に保護として働くポジティブな能力だとわかります。解離性同一性障害のような一見すると異常に思える状態さえも、重大なトラウマから心を守るための創造的な生存戦略です。
わたしの場合も、解離はさまざまな形で現れましたが、すべて生き延びるために役立ちました。もし解離という保護が働いていなかったら、わたしは今ごろ、重篤な精神疾患を発症して破綻していたと思います。
わたしの空想の友だちは、その存在自体が、わたしを真実へと導く手がかりになった、という意味でも、確かに内的自己救済者のように振る舞いました。
眠る前に現れる立体的な空想世界も、ウォレスの言う「やっとたどりついた我家」のような安心感を与えてくれました。
ウォレスの花園の少女のように「それまで…逃してしまった幸福を思い出し…ほんとうの生活」を感じさせてくれました。
ですから、わたしにとって、解離こそ「白壁の緑の扉」でした。
わずか小学2年生くらいのときに、離人症によって現実世界が灰色に色あせて見えるようになってしまいましたが、解離のおかげで、もう一つの色鮮やかな世界を経験でき、生き延びることができました。
大人になるにつれ解離が弱まるのはなぜか
ウォレスが魔法の国という空想世界に迷い込んだのは、わずか5歳と4ヶ月の時でした。わたしの場合は9歳か10歳のころ、空想の友だちと出会いました。エリナー・ファージョンは13歳の時でした。
思い出のマーニーにしても、赤毛のアンにしても、空想の友だちと出会うのは子どものころと決まっています。トトロが見えるのも、妖精の国に行けるのも、子どもだけの特権です。
明らかに、解離は、子どものときのほうが働きやすく、大人になるにつれ機能しづらくなる傾向があるようです。
トトロの曲で「子どもの時にだけ訪れる不思議な出会い」と歌われているのとまったく同じように、ウェルズは「塀についた扉」でこう書いてます。
このようなことは稀なことであり、人が若くはずむような心をもっているときだけ経験できるのだ。(p270)
ウォレスは子どものころには緑の扉をくぐることができました。しかしやがて扉を見かけても、入ることができなくなってしまいます。最期には扉をくぐったのに魔法の国には行けず、転落死してしまいました。
物語の中で彼は言います。
緑の扉がいつもそこにあるとは限らないということをぼくは理解していなかった。
小学生の想像力なんてそんなものさ。ぼくはそこへ行く道を知っているだけで充分だと思っていた。(p279)
緑の扉はいつもそこにあるわけではなく、たいていは子どもの時 限定のものなのです。
解離をじかに経験したことのない人の中には、大人だって空想世界を思い描き、空想の友だちを作ることがあるじゃないか、と反論する人もいるかもしれません。
昨今では、「イマジナリーフレンド」という言葉が独り歩きし、バーチャルにしか存在しないキャラクターや、想像上の彼氏や彼女、エア友などと同じ意味で使われています。しかし、それは本来の意味とかけ離れています。
子どもは、空想の友だちに「出会い」、空想世界に「迷い込み」ます。
しかし大人は、空想のキャラクターを「作り」、空想世界を「考え」ます。
同じように見えて、これはまったく違うとわたしは思っています。「出会い」「迷い込む」のは解離ですが、「作り」「考える」のは解離ではありません。
解離とは、自分の意思とは無関係に働く防衛機制だからです。自分の意思で能動的に引き起こす現象ではなく、自分の意思の外で、完全に受動的に起こる現象です。
わたしが俗に用いられる「イマジナリーフレンド」という表現ではなく、学術的に用いられ、解離と結び付けられることも多い「イマジナリーコンパニオン」という名称を主に使うようになったのは、こうした誤解を避けたいからです。
そもそも子どもが経験するような空想の友だちや魔法の国は、独りでに、たちどころに現れるからこそ不思議なのであって、自分で考えて作っていたら、全然不思議ではありません。
わたしが子どものころの体験に当惑したのは、自らの意思をもつ別の誰かから話しかけられたからです。自分が創作した人物のセリフを自作自演したところで驚きなどありません。
(むろん、創作との境目があいまいな場合はあるでしょう。「アイデアが天から振ってくる」ようなタイプの創作は、解離の働きのひとつだと思われます。それは、自分で頭をひねって設定を考えるようなタイプの創作とは異なります)
もちろん、大人になっても、解離が働くことはあります。しかし、子どものときより状況は限定され、おもに危機的状況や緊急事態でのみ機能するようです。
子どもの場合は、特に理由もなく解離状態になることがありますが、大人の場合は、あくまで、一時的な保護システムとして解離が機能するように思えます。
たとえば、虐待や暴行などの恐ろしい危害に直面したとき、解離のおかげで、感覚が麻痺し、傷つけられているのは自分ではないと錯覚し、痛みから遠ざけられます。
雪山や海上で遭難したとき、解離のおかげで、パニックにのっとられずにすみ、あたかも別の冷静な誰かが自分を導いてくれるように感じ、無事生還することができます。
慢性疾患や生き辛さなどのせいで、生きることそのものがストレスになるとき、解離のおかげで空想世界に意識が飛ばされ、現実の苦痛がやわらぎ、日々の苦痛が少しでも耐えやすくなります。
いよいよ死が避けられないような状況では、解離のおかげで、耐えがたき苦痛から意識が遠のき、走馬灯や臨死体験のような幻覚に包まれ、最期の瞬間を幸福に迎えられるように守られます。
いずれの場合も、解離が生じるのは、緊急事態を切り抜けるためです。子どものときほど、自由自在に、現実と空想を行き来することはできません。
わたしがそうだったように、大人になってなお持続的な解離を経験する人も大勢います。しかしそのほとんどは、何か慢性的なストレスを抱えているなど、解離しなければならない生きていけない理由があるケースでしょう。
どうして、子どもの時は、解離という「白壁の緑の扉」を自由に出入りできるのに、大人になると、緊急時のみの非常ドアになってしまうのか。
はっきりとした理由はわかりませんが、このブログの過去記事には幾つか手がかりがあります。
まず、大人になるにつれ脳が成長し、感覚が統合され、解離が起こりにくくなるという脳科学的な理由。
次に、論理を重視する学校教育を受けるせいで、理性的な判断ができるようになる反面、もうひとりの自分の声を聞けなくなってしまうという文化社会的な理由。
そして、そもそも解離とは、交感神経のアクセルと副交感神経のブレーキを両方踏んでいるような状態であり、とんでもないエネルギーを消耗するので、年をとるにつれて負担が大きくなるのではないか、という生物学的な理由。
こうしたさまざまな理由が組み合わさるせいで、大人になるにつれ、解離はあまり使われなくなってしまうのかもしれません。
わたしの場合、解離が弱まるきっかけになったのは、特に三番目の理由が大きいように思います。
わたしはずっと重大なトラウマを解離によって隔離し、抑え込んできました。
10代のころから慢性疲労状態だったのは、興奮する交感神経を、無理やり副交感神経の急ブレーキで抑え込んできたためだと考えています。常にものすごいエネルギーを消費していたのです。
しかし、暴れる野獣を力づくでずっと取り押さえたままでいるのは容易ではありません。解離によって隔離し、抑制するのが限界になるたびに、高熱発作の爆発が起こるようになり、年齢を重ねるとともに、その頻度が増していきました。
解離は心を守る保護システムです。だから理論上は、トラウマの影響をずっと解離によって封じ込めることができれば、辛い症状に悩まされずにすみます。
完璧に解離が働いている人は医療機関(特に精神医療系)のお世話になりません。過去にトラウマがあっても、解離のおかげでけろりとして、優秀な社会生活を送っている人もいます。
(詳しくは、「【Q&A】実はあなたにも身近な「解離」とは何なのかを知るまとめ・参考資料集」のQ6 自分が解離しているかどうかはすぐわかる?を参照)
問題が生じるのは、解離による封じ込めが破綻を来たし始めてからです。保護システムが十分に働かなくなると、不安障害、パニック、フラッシュバック、慢性疼痛などが表面化しはじめます。
10代のころの体力がずっとあれば、ずっと解離で症状を抑え込むこともできるのでしょうが、20代、30代になると体は老化してきます。
小児期トラウマの当事者には、20代や30代に入って症状が悪化する人がいるようです。体力が衰えるにつれ、保護システムである解離が破綻してしまうことが一つの理由かもしれません。
残念ながらわたしも症状が悪化して、セラピーなどの治療に向き合わざるを得なくなりました。
もちろん治療を求めるのはよいことです。解離によって無理やり封じ込めしなくても良くなるからです。
解離性障害の研究で、中年になると解離性障害から回復していく人が多い、と言われているのは、それくらいの年になると、無理が効かなくなり、治療を真剣に受けるようになるからなのかもしれません。
解離を使って無理やり封じ込める戦略をやめる、という意味では、これは良い変化といえます。しかし、解離を手放すということは、空想世界や空想の友だちもまた手放さざるを得なくなる、ということです。
解離によって現実逃避する代わりに、過去を清算し、しっかり現実と向き合い、地に足のついた生活を送らざるを得なくなるのです。
こうして「白壁の緑の扉」は役目を終え、その中に入ることは難しくなっていきます。
「白壁の緑の扉」が閉じるのを恐れていた
「白壁の緑の扉」が閉じてしまうのは良いことなのでしょうか。
解離を“病気”や“障害”とみなしているような医者やセラピストからすれば、そうでしょう。
わたしは一時期セラピーに通っていましたが、セラピストは、解離は治療すべき症状だと信じているように思えました。
しかし、わたしの意見は違います。わたしにとって解離は大切な連れ合いです。困難な人生を連れ立って歩んできた伴侶のようなものです。
わたしが望んでいたのは、解離を治療して無くしてしまうことではなく、コントロールできるようになることでした。解離そのものが悪いとはまったく思っていないからです。
疾病利得に甘えたいとか、病的であることを望んでいるとかいう意味ではありません。この記事でも書いてきたように、解離が保護システムであるのは、生物学的な事実です。
わたしは、解離のおかげで生き延びてくることができました。もしも解離が弱いタイプだったら、今ごろ気が狂っていたかもしれません。
自分が持っている才能も解離から来ていると信じています。たとえば何かに没頭して深く考察する力や、芸術的な創造性などです。
最も苦しいときに、自分の一部を切り離し、傷ついた自己と、それを守る自己に分けるという創造的な戦略をとれたのも、解離のおかげです。
解離性同一性障害を発症する人たちは、人格の分裂という奇病を抱えているとみなされがちです。しかし実際にはそうではなく、深刻なトラウマに立ち向かうための、創造的な生存戦略なのです。
もし、解離性同一性障害の当事者たちに、解離という優れた能力が備わっていなければ、もっと重い「単一人格障害」に陥っていただろう、と専門家は言います。つまり、深刻なうつ病やPTSDのような病態です。
解離は浸水した船の水密区画化に例えられます。もし解離という隔壁がなければ、全体が浸水し、ボロボロになってしまいます。隔壁を閉じて人格を分けるという手段を取れるからこそ、最小限の被害で食い止められます。
わたしが小学生のころに現れた解離現象も、間違いなくプラスの役割を果たしてくれました。そのころ出現したイマジナリーコンパニオンは、雪山で遭難した登山家を導くサードマンのように、わたしを支え、出口へと導いてくれました。
解離が病気や障害ではなく、自分を守る保護システムだという考え方は、かなり多くの当事者が共有している認識だと思います。
以前書いたように、解離性同一性障害であれ、イマジナリーコンパニオンであれ、何かしらの別人格が現れた人たちは、解離の治療とともに別人格が消失してしまうことを恐れる場合があるからです。
わたしもまた、慢性疲労や身体性フラッシュバックのような辛い症状を改善したいと願う反面、それらの症状の裏返しである解離現象については、消えてほしくないという切実な恐れを抱いていました。
大人になれば、「白壁の緑の扉」は消えてしまうのだろうか。わたしを子どもの時からずっと支えていた空想世界や、空想の友だちは忽然と消えてしまうのだろうか。悪い言い方をすれば、彼らは死んでしまい、存在がなかったことにされてしまうのか。
わたしにとって空想の城下町は子ども時代の長い時間を過ごした故郷であり、安心できる庭であり、そこにいる友人たちこそが本物の世界でした。それらが消えてしまうことを考えただけで空恐ろしくなりました。
だから、年をとったら解離はなくなってしまうのか、イマジナリーコンパニオンはどうなってしまうのか、ということを必死に調べました。
非常に断片的な情報しか見つからず、統計のような学術的な資料はありませんでした。しかし、多くの物語や寓話では、「白壁の緑の扉」は消え、妖精や空想の友だちとはいつか別れる日が来るものだと、と運命づけられているようでした。
医療の専門家の意見もまた、解離は年をとると共に弱まっていくものであり、別人格は統合され、空想の楼閣は消えていくものだ、とされていました。
多くの芸術家たちがLSDなどの幻覚性薬物に手を染めたのも、大人になるにつれ緑の扉が失われてしまい、薬物に頼ってでも再びそれを見たいと願ったからなのかもしれません。
あらゆる情報は、現実を生きることが自然のことわりだと指し示しているようでした。それでもわたしは自分だけが例外であることを望みました。
もちろん、現実に例外は存在するとは思います。生まれつき解離傾向が非常に強い、芸術家やスピリチュアリストのような人たちは、強い解離能力が生涯持続するのかもしれません。
あるいは、慢性的ストレスのせいで解離している人でも、抱え込んでいるストレスやトラウマがさほど大きくなければ、体力が衰えてもなお、ずっと解離を機能させ続けることもできるのかもしれません。
でも、わたしの場合は違いました。
何年も前の自分が決して望まなかった道、絶対に拒んでいただろう結末へと、なすすべなく押し流されました。
人格が統合されると寂しさや喪失を感じるか
かつて、わたしが調べたとき、将来自分がどうなるかを教えてくれる情報はほとんど見つかりませんでした。先人は誰も具体的な記録を残してくれていませんでした。
しかし、今わたしは、その未知の領域に自分の足で到達しています。過去のわたしが知りたかった未来を知っています。だから、わたしには記録しておく義務があると感じました。
わたしの結末がすべてだとは思いません。あくまで一個人の事例です。けれども、当事者として経験や考察を書き残しておくことは必要だと考えました。
結論から先に言います。
わたしの空想世界や空想の友だちの声といった解離現象は、地に足のついた生活を送るようになって急速に弱まりました。しかし、かつて恐れていたような寂しさや孤独は感じていません。
どういうことか、具体的に説明しましょう。
解離とは「今ここにいないこと」です。自己防衛のため現実から逃避し、感覚を麻痺させ、空想や白昼夢の中に閉じこもってしまう状態をさします。外からの感覚はシャットアウトされ、自分の内なる声や思考に注意が向きます。
解離の反対は、「今ここにいること」です。別の言い方をすればマインドフルネスや、フローとして知られている状態です。今この瞬間の身体感覚に没頭するので、内なる声は聞こえなくなり、不安や心配に悩まされることはありません。
たとえば、植物学者ロビン・ウォール・キマラーが、「やわらかな松葉に抱かれ、ホワイトパインの幹に寄りかかり、頭の中の声が消えれば、周りの音が聞こえてくる」と述べているように、外の世界に向かって五感を開放することは、頭の内側で声が聞こえる解離の正反対です。
また、ある離人症の男性患者が「コートを走りまわり、ゲームの流れに没頭しているあいだは[離人症が]出ないんです。テニスをやめれば元どおりなんですが、それでも本人には大発見でした」と述べているように、今この瞬間の身体感覚に集中するフロー状態もまた解離の正反対です。
解離から回復していく、というのは、そんなふうにマインドフルな日常を送れるようになる、ということです。
人格が分裂している時は、常に一歩引いた視点から人生を眺めていて、あれこれ内部で会話したり、思いを巡らせたりしているものです。
しかし人格が統合されると、その一歩引いた視点がなくなります。今この瞬間の人生に集中し、没頭するようになります。
かつて人格が分裂していたことを思い出したり、喪失感に苦しんだりすることはなく、今この瞬間の充足感だけを味わうようになります。
わたしの場合、分裂していた人格が統合されていった期間、まったく自然に、徐々に別の自分を意識することが少なくなり、気づいたら一つになっていた、という印象でした。
たとえば、誰でも口の中を噛んで怪我したことがあると思います。怪我がひどいうちは傷口が異物、つまり自分の体の一部ではない何かのように感じられ、ずっとそれを意識して、あれこれ考えてしまうことでしょう。
しかし、傷が治癒していく中で、怪我の異物感は日に日に少なくなり、いつの間にか知らず知らずのうちに治っていて、怪我していたことさえすっかり忘れています。自分の体に戻ったからです。
それと同じように、解離が強いころは自分の内部に異物、つまり他人を強く感じますが、解離が弱まってくると違和感が消えていきます。
分裂していたころのことを意識したり思い出したりすることがなくなっていきます。その代わり、毎日の生活に集中し、マインドフルな日常を送れるようになります。
わたしたちは基本的に、過去の怪我や病気を忘れるようにできています。過去の発熱、骨折、捻挫などをいちいち覚えて気に病む人はいません。回復すれば、めったなことでは思い出しません。
解離から回復した場合も同じです。人格が分裂していたころの経験を思い出すことはめったになくなってしまいます。思い出さないということは、寂しさや喪失も感じないということです。
そもそも解離から回復し人格が統合される、というのは、分裂していた人格が消失して死んでしまう、ということではありません。
以前の記事で詳しく解説したように、アントニオ・ダマシオの理論では、わたしたちの自己あるいは自我は、身体感覚から生まれていると考えられています。
そして解離とは、身体感覚を切り離すことによって身を守ろうとする防衛機制です。あまりに耐え難くて受け入れられない身体感覚を切り離し、「自分」のものではなく「他人」のものだ、と認識させるのが解離です。
だから、解離の当事者は、自分の体が自分のものではないように感じます。自分の体の身体感覚が、「自分」として認識できる部分と、「他人」のように感じられる部分に隔てられます。
身体感覚が切り離されて複数に隔てられると、身体感覚から生み出されている自我も複数存在するようになります。そのようにして別人格が生み出されているのだと思われます。
(詳しくは、「【Q&A】実はあなたにも身近な「解離」とは何なのかを知るまとめ・参考資料集」のQ7 どうして人格が複数に分かれるの?を参照)
解離から回復するときには、たとえば幾つかのセラピーがそうであるように、バラバラに切り離された身体感覚を再びつなげて感じられるようにすることで、統合していきます。
つまり、解離から回復する過程では、まず身体感覚が統合され、その結果として、人格も一つに戻ります。何かが消えたわけではなく、自分の体全体を自分のもの、一つの体として感じられるようになっただけです。
イマジナリーコンパニオンは眠りについた
確かに、ふと寂しく思うことはあります。
わたしの場合、普段の生活で寂しさを感じることはありませんが、自分の過去の作品を見るたびに、もうこの空想世界に行けないことを思い出します。「白壁の緑の扉」が閉ざされてしまったことを知って悲しくなります。
ときどき、ストレスを感じる時期には、自分の殻に引きこもりたい、誰一人寄せつけたくない、過去の解離していたころの内的世界に戻りたい。そう感じることもあります。
もしわたしの前に二つの道が開かれていて、完全に内的世界にこもれる解離状態と、外的世界に出ていくマインドフルな状態、どちらかになれるから選べ、と言われたら、わたしは今でさえ前者を選びたいと思います。
本音をいえば、解離していたころが好きでした。辛い体調不良はたくさんあったけれど、自分の内側の世界に永遠にこもれるのであれば、それは悪くないものでした。あのころの創作能力もすばらしいものでした。
でも、年齢による体力の低下によるのか、もともと抱え込んでいたトラウマが大きすぎたのか、あるいは他の理由かはわかりませんが、以前ほど強い解離が働かなくなりました。内的世界に戻りたくても、不完全な解離しかできなくなってきて、それが著しい体調不良を生み出しました。
わたしのトラウマ医学の理解では、不完全な解離とはPTSDのことです。PTSDの症状ほど辛いものはありません。
完全に解離できて感覚が麻痺してしまえば楽ですが、部分的に解離しているだけだと、大いに苦しむことになってしまいます。
退路を絶たれてしまったわたしは、外的世界へ踏み出さざるを得ませんでした。完全に解離していた10代のころのような精神状態に戻れないのであれば、先に進むほかありません。
数年前の自分が一番選びたくなかった道を歩まざるを得なくなりました。心の中の楽園を追放され、知らなかった場所へ出ていくという道を。
わたしは、二つの道のうち、マインドフルな日常という道を選ぶことにしました。セラピーに打ち込み、地に足のついた生活を送るよう方針転換しました。
勇気を出して踏み出した現実の世界は、そう悪いところではありませんでした。そこは驚きと不思議に満ちています。
田園地帯をサイクリングしたり、山や森を歩いたりという、現実世界に地に足をつけた生活は楽しいです。マインドフルな精神状態になるので、人生をいとう気持ちは締め出されます。
わたしはシダが茂る森の中を歩いている瞬間がたまらなく好きです。もちろん、森には危険も色々あります。ダニやクマ、遭難には常に対策し警戒しています。
けれども、自分でも不思議だったのですが、わたしにとって、探検して自然観察している時が至福だと気がつきました。
その時わたしは「生きて」います。遠くから人生を俯瞰するのではなく、完全に自分と一体化していて、「今ここ」にいます。
こうして解離は弱まりましたが、ひとつ大きな発見がありました。今の自分の感じ方が、過去に以下の記事の中で書いた話そのものだとわかったことです。
記事の中で引用していますが、わかりやすい「解離性障害」入門に、次のような説明がありました。
解離性障害で交代人格を持つ方々は、自分が治った状態をイメージしづらく、治ることで交代人格が死んでしまうと感じていることがあります。
「交代人格は死ぬのではなく長い眠りにつくようなものである」と説明すれば、こうした不安を和らげることができるでしょう。(p271)
当時は、よくわからないままこの言葉を引用しました。しかし、今となっては、この表現どおりだとわかります。
わたしはもう、内なるもう一人の自分の声を聞くことがほぼなくなりました。しかし、寂しく感じることはありません。なぜなら、今も変わらずここにいてくれている、という存在感は感じるからです。
試しに、かつてのように話しかけてみると、かすかに反応します。しかし、あまりに眠くて目が開けられないかのようです。言葉で説明するのは難しいのですが、そう感じていることがはっきりわかります。
ちょうど、大切な友人や恋人が、かたわらでぐっすり眠っているのを見守っているときの感覚と同じです。
声は聞こえませんが、確かにそこにいて、存在しているのがわかります。死んだり、消えたりしたわけではなく、すやすやと熟睡しています。
今思えば、あの本に書かれていた「交代人格は死ぬのではなく長い眠りにつくようなものである」という表現は、医者が独自に考えたわけではなかったのでしょう。きっと、わたしの先を歩いていた人、つまりすでに統合に至った当事者が語った言葉だったのです。
上の記事に書いたように、解離によって生み出された人格が消えていくのは、「役目を終えた」からです。裏を返せば、もしまた必要とされる時がくれば、目を覚ますに違いない、ともいえます。
もっと学問的な言い方をすれば、別人格は切り離された身体感覚から生まれたものでした。
転んだときに受け身をとれる人が、毎回同じような動作で身を守ろうとするように、解離の方法にも、その人独自の手続き記憶(身体反応の癖)があるはずです。
もしもまたわたしが危機に直面すれば、きっとわたしは、過去と同じような感覚の切り離し方で身を守ろうとするでしょう。そうすればきっと、過去と同じ空想世界とイマジナリーコンパニオンが現れて、わたしを助けてくれるでしょう。
過去にわたしがまとめた記事の中に、それを裏付ける話もありました。一度消えたイマジナリーコンパニオンが、ストレスのかかる時期に再度現れて助けてくれるようになったという実体験です。
「塀についた扉」のウォレスもまた、とてもマインドフルな人生を送っているさなかには緑の扉が見えませんでしたが、ストレスが増えてくると、また緑の扉が見えることが増えました。
確かに、年齢とともに解離は弱まっていき、あまり無理が利かなくなっていくのは事実でしょう。
しかし、どんな年齢であっても、少なくとも短時間であれば、危機的な状況や死の間際に解離が起こることは確実です。たとえば走馬灯や臨死体験といった解離現象の例からそれがわかります。
また、老齢になって交感神経そのものの力が衰えてきたら、それを抑えるのに必要なエネルギーも少なくなり、解離がまた働きやすくなる、という可能性もあるかもしれません。
老齢になったオリヴァー・サックスも、最期の日々に、子ども時代に親しんだ元素の友だちが再び現れたことをつづっていました。
「塀についた扉」のウォレスは、最期に間違えて工事現場の扉をくぐり、足を滑らせて死んでしまいました。一見すると、魔法の国には行けなかったかに思えますが、別の見方もできます。
死の間際には、きっと苦痛を和らげるために解離が起こったでしょう。とすれば、彼の精神は、白壁の緑の扉の奥にある世界にたどり着いていて、幸福のうちに命を引き取ったと想像することも可能です。
わたしには巨大な空想世界があり、そこがわたしの唯一の居場所でした。
子どものころ過ごした夢の世界、ずっと一緒にいてくれた人々、歩き回った城下町、胸ときめかせた思い出を忘れることはできません。
今はそこに戻りたくても帰る方法が見つかりませんが、わたしの故郷も、わたしの友だちも、消えてしまったわけではありません。もし本当に必要な時が来れば、「白壁の緑の扉 」がきっと開かれるでしょう。
わたしはこれからも、大切な思い出を抱えながら、地に足をつけて、マインドフルに今を生きていくことを選ぶつもりです。
もし必要とあらば、必ずあの場所に帰ることができるに違いない、いつか帰る場所がある。そうわかっているからこそ、安心して、今を存分に生きることができるのです。