海辺について考えるとき、私は繊細な美しさをたたえたある一つの場所を、ひときわあざやかに思い起こす。
そこは、洞穴の中にかくれている潮溜りで、一年中で潮位が最も下がったときにしか現れず、ほんの短時間、しかも滅多に足を踏み込むことができないところであった。
…そこで私は、濡れたツノマタの絨毯に膝をつき、浅い潮溜りのある暗い洞穴をのぞきこんだ。
…この澄み切った水の底は緑色のカイメンで覆われていた。天井には灰色のホヤの斑点が光り、ウミトサカの集団は淡いあんず色をしていた。
…天井からは淡いピンク色にふちどられたクダウミヒドラがペンダントのようにぶら下がっていて、それはアネモネの花のように華奢だった。
ここには、この世のものとは思われないほど洗練されたよそおいの生きものがすんでいて、かれらはまことに美しく、腕づくの世界では生きていけないほど脆かった。(p17-19)
なんて美しいんだろう。初めて読んだときそう思いました。その情景を実際に見たわけではないし、ツノマタ、カイメン、ウミトサカ、クダウミヒドラとはどんな生き物なのかも知らない、それでも吐息が漏れるほど美しいと感じました。
これは海洋生物学者レイチェル・カーソンの著書「海辺」の序章から引用した描写です。彼女は自然破壊に警鐘を鳴らした「沈黙の春」で有名です。しかし、ほかにも自然科学の本を数冊書いており、「海辺」はその一つです。
わたしは昨年12月から、この本をずっと読んでいました。350ページほどの文庫本ですが、読み切るのに一ヶ月もかかりました。今まで読んだ本のうち、最も手強かったと言っても過言ではないでしょう。
決して退屈だったわけではありません。科学者でありながら、文才にも恵まれていたレイチェルは、わかりやすい言葉で生き生きと海の生き物を紹介してくれています。
けれども、わたしは海辺の生き物について全然知りません。まったく知らない異世界の話のように感じられ、ひとつひとつの固有名詞を調べながら読んだので、これほど時間がかかってしまいました。
この一ヶ月はあたかも、レイチェル・カーソンに、「海辺」という異世界をガイドしてもらっているかのようでした。常識ではありえないほど不思議な、SFの世界のような生き物が次から次に現れ、彼女はそれぞれの生態を解説してくれました。
浜辺に落ちているビスケットのようなタコノマクラ、合体ロボットのような群体生物カツオノカンムリ、タコなのにアンモナイトみたいな殻をもつアオイガイ、緑色の宝玉のような海藻バロニア。
事実は小説より奇なり、現実はどんなファンタジー小説より面白い。そう思わせてくれる知られざる名著「海辺」の感想を書きたいと思います。
もくじ
これはどんな本?
伝記レイチェル・カーソンによると、この本は、出版社の編集者ロザリン・ウィルソンが、著名な文学者たちを客として招いた時に起こった、ある事件をきっかけに企画されました。
文学者たちは、浜辺を散歩していて、たくさんのカブトガニを見かけ、前夜の嵐で打ち上げられたものと考えました。そして善意から、カブトガニを海へ戻してやりました。でもカブトガニは正常な繁殖活動のためにそこにいたのです。
ウィルソンは、この出来事から、一般の人々が海辺の生き物について知るために本が必要だと考えました。そして、当時すでに海洋生物についての本を書いていたレイチェル・カーソンに依頼することにしました。
レイチェルはその頃、「われらをめぐる海」という大洋を舞台にした本の執筆に取り組んでいました。この本はのちにベストセラーになり、彼女の名を広く知らしめる傑作になりました。
一方、新しく依頼されたこの本は、大海原ではなく身近な海辺を題材にするものでした。結果として2冊の本は、ちょうど前後編のように、補い合う関係になりました。(p156-167)
レイチェルは「海辺」というテーマのメリットについてこう述べています。
多分、私は海の他の部分を選んでもよかったでしょう。しかし、海辺を選んだことには明らかな利点があります。まず第一に、そこは殆ど誰でも行ける場所です。
したがって、私が説明することをうのみにする必要がなくなります。興味を持った人は誰でも、じかにそれらを見ることが出来ます。(p157-158)
レイチェルは、読者がただ興味深い生き物について読むだけでなく、自分で海辺に足を運び、じかに観察し、親しむきっかけになれば、と思ってこの本を書いたのです。
この本はおもに3つのセクションに分けられています。それぞれ、岩礁海岸、砂浜、サンゴ礁という3種類の海辺を扱っていて、それぞれ全く異なる生き物の生態系が息づいている様子を臨場感あふれる筆致で描き出します。
博物の本のなかで、生物がかかわる環境のすべてを生き生きとえがくことに成功した例は、『海辺』のほかにほとんど見当たらない。そのなかでは科学的な事実と著者の熱意が見事に統合されている。(p166-167)
ちょうどBBCのネイチャードキュメンタリーを活字で読んでいるような気持ちになります。レイチェルは生前、ネイチャードキュメンタリーの前身のような作品に関わっているので、彼女の本がルーツになっているといえるかもしれません。
今の時代、多くの人は活字を読まなくなってしまいました。現代の大迫力の映像作品に慣れた人にとって、この本は地味に思えるかもしれません。カラー写真も映像もありません。
でも、レイチェルの同僚で、画家でもあったボブ・ハインズによる、すばらしい絵がたくさん添えられています。それらの挿絵は、ときに写真よりも生き生きと想像力をかきたててくれます。
また、インターネットで調べる労を惜しまなければ、登場する生き物を画像で見ることもできます。わたしはこの本を読みながら、ワタトリカイメン、フサゴカイ、タコノマクラ、ウスイタボヤ、アミメコケムシといった生き物を一つずつ調べては、その不思議な姿に驚きました。
そのせいで読むのに多大な時間がかかったのは確かです。でも、もし映像のドキュメンタリーを受動的に見ているだけだったら、あまり印象に残らなかったでしょう。
文字で読んだからこそ、自分で調べたからこそ、ファンタジーのような奇妙で面白い海辺の生き物たちの世界に溶け込み、自分がそこにいるかのように思い描けました。そして、自分も海辺に出かけて、じかに観察してみたくなりました。
レイチェルが海辺の生き物を研究する取材に出かけるため、友人と一緒にあらゆる種類の道具を背負ってバスに乗っていたとき、見知らぬ人から、こんな言葉をかけられたそうです。
「二人とも新しい世界を発見しに行くみたいですね」。(p162)
レイチェルは後に、「その言葉が海辺に関する私たちの研究の目標、すなわち発見の概念を的確に表現している」と書きました。
この本はまさにそのような本、「新しい世界を発見しに行く」みたいな本なのです。
科学者であり芸術家でもあるカーソンならではの本
わたしは森についてはそこそこ知っていますが、海の生き物、ことに浜辺の生き物については無知です。この本を通して、初めて出会った生き物や、初めて知った海の性質が色々ありました。
今や海について解説した本は無数にあります。でも、この本で特に印象的だったのは、自然界の描写が、まるで流麗な詩のように美しいことでした。
「海辺」のあとがきによると、ニューヨーク・タイムズはかつて、レイチェル・カーソンをこう評したそうです。
「文学上の天才をあわせ持つ科学者は1世紀に1人か2人しか現われない。カーソン女史はまさにその一人である」(p367)
たとえば、わたしがこの本の中で特に好きなのは、干き潮のときに海岸に現れる、潮溜りについての描写です。
潮溜りは、その淵の中に神秘的な世界を抱いている。そこでは、海のあらゆる美しさが微妙に示唆され、縮図を描いている。
…潮溜りはさまざまな雰囲気に満ちている。夜には星をたたえ、潮溜りの上空を流れる天の川の光りを映す。
一方、生きている星は海からやってくる。小さな燐光を発するケイ藻植物のエメラルドの輝き、水面を泳ぐ小さな魚の光る目 ― 体はマッチ棒のように細く、小さな鼻面を持ち上げるようにしてほとんど垂直に動いている ―、クシクラゲのとらえどころのない月の光りのようなきらめきが、潮が満ちるにつれてやってくる。(p158)
読んでいて、これは果たして、わたしが知っている「潮溜り」なのだろうか、と思わずにはいられませんでした。そもそもわたしは、潮溜まりという言葉を知っていながら、実物を見たことがない気がするので、画像検索してみました。
すると確かに、「潮溜り」はわたしが知識からイメージしていた通りのもので安心しました。それは干き潮で水が引いたとき、岩の凹みなどに取り残される水たまりのことです。それくらいの知識はわたしにもありました。
でもカーソンが言うような「神秘的な世界」「海のあらゆる美しさが微妙に示唆され、縮図を描いている」「夜には星をたたえ、潮溜りの上空を流れる天の川の光を映す」「巧みな芸術家の絵筆」という視点では考えたことがありませんでした。
本物をじかに見ている人と、ただ聞き知っている人の違いでしょうか。いえ、きっとそれ以上のものでしょう。
海のそばに住んでいようが、潮溜りなんてつまらない日常の景色だと思って、目もくれない人は大勢いるはずです。毎日潮溜りを見ているとしても、そこに芸術的な美しさを見いだせる人はごくわずかです。レイチェルはまさにそのような人でした。
わたしは、自分が森を歩いている経験から、それがわかります。子どものころ、テレビや写真で森の風景を見ても、さして感動しませんでした。森の近くに住んでいる人々でも、森の美しさを熱く語る人には出会ったことがありません。
でも、わたしは、自分で森を歩くたびに、幻想的な絵画のような景色にうっとりします。もし自分が森の魅力を紹介する本を書くとしたら、レイチェルが海辺を描き出すような詩的な言葉をもって表現することでしょう。
伝記レイチェル・カーソンによると、レイチェルはこう言いました。
もし私の本に詩情があるとすれば、私が故意にそれをとり入れたからでなくて、海について誠実に記述しようとすれば、誰も詩情を無視出来ないということであります。(p136)
私は森について心からこの言葉に同意します。だから、海についてもきっと同じなのだとわかります。
もちろん、わたしは、森についてはイメージできても、海辺の風景はなかなかイメージできません。
たとえば、潮の満ち引きひとつとっても、海辺の近くに住んでいない人にはイメージしづらいものです。観光でただ一瞬訪れるだけだと、特定の潮位の砂浜しか見れないからです。
近くに住んで毎日見て初めて、干潮と満潮の時間帯でまったく景色が変わることや、大潮と小潮の日でまったく潮の力強さが異なることが、「日々、刻々、認識される」のでしょう。(p51)
それでも、レイチェルの優れた描写力のおかげで、異世界の風景をまざまざと思い描けました。たとえば、海にも、森に似た景色が数多くあることを知れたのは、嬉しい発見でした。
伝記レイチェル・カーソンによるとレイチェルは、「海の大好きな私に、それを思い起こさせるものが山の中にたくさんあることは、さして不思議ではないだろう」と述べています。わたしは彼女と逆の視点で眺めて、同じことに気づかされました。(p81)
レイチェルは海辺で、岩礁海岸が満潮になると、「ルイス・キャロル風の幻想的な海のジャングル」がたちどころに現れると書いています。(p110)
ジャングルに立ち並ぶ木々は、ヒバマタやコンブのような褐藻類です。その間を鳥ではなく小さな魚が飛び回ります。虫たちの代わりに巻き貝やカニが葉の間を歩き回っています。(p110)
海藻の枝には、トビムシなどの端脚類が、鳥のような巣を作っています。巣の中で子どもを育て、まるで鳥が巣立ち雛をせっつくようにして、子どもが独り立ちするように促すといいます。(p136)
海のジャングルには、当然ながら花も咲いています。彩りを添える美しい着生ランの代わりに垂れ下がっているのは、海藻を宿主にした紅藻のイトグサの房です。(p119)
海に咲く花は、虫を食べる食虫植物よりも獰猛な捕食者です。合体生物であるヒドロ虫や、ヒトデの群れは、見た目こそ花に似ていますが、自力で動き回って、獲物をとらえることができる動物なのです。(p126,142)
ジャングルの木々がコケに覆われているように、海の木々にも、もちろんコケが生えます。しかしコケはコケでもコケムシです。コケムシは時に苔玉そっくりになる群体生物で、顕微鏡でなければ見えないモザイク状の集合住宅に、3000から4000もの生物が住んでいます。(p135,138-140)
当然キノコも生えています。英名でシーパンジーsea pansy/Renilla reniformis)と呼ばれている刺胞動物は、レイチェルも「花そっくり」と書いていました。しかし、調べてみたら和名はなんとウミシイタケであり、画像検索してみても、確かにシイタケにしか見えません。(p188)
ほかにも、ウミシバ、ウミユリ、ウミシダと聞くと、きっと海に生える植物なのだろう、と思うかもしれません。でもその正体は動物です。(p163)
これらに限らず、海の中にいる植物っぽい形ものの正体は動物であることが多いのです。
この海のジャングルでは、一日に二度、摩訶不思議なことが起こります、なんと、干潮がくるとジャングルの木々は倒れてしまうのです。
レイチェルは言います。「一日に二回下へ下へとたわんでいき、数時間も倒れたままでいるが、結局はまた起き上がるのだ。こんなジャングルがあるだろうか?」。(p110)
ジャングルの木々は、根も茎も葉もない海藻なので、海の水が引いてしまえば、自重を支えることができません。倒れては蘇ることを繰り返します。ジャングルの生き物たちは、湿った海藻の下や潮溜りに身を隠し、潮が戻るまで保護されます。(p110,115)
こうして描写される海のジャングルの景色は、まるでSF小説に出てくる、奇怪な生き物たちが住む外宇宙惑星の風景のように現実離れしています。動きまわり捕食する植物。小さな虫が合体した巨大生物。重力が変化する森。
でもきっと、SF作家のほうが、地球上のマイナーな生き物たちの暮らしぶりを知っていて、何も知らない一般読者たちを手玉に取ってきたのではないでしょうか。良質のファンタジーは、現実世界の深い知識の上に成り立つのです。
レイチェルは詩的な文才をもつ作家である以前に、第一線の科学者であり、海の生き物の専門家でした。ですから、その文章は、芸術的であると同時に、生物学や地質学の深い知識を土台として成り立っています。
その文章はどれほど詩的で芸術的でも、ひとつとして荒唐無稽なものはなく、現実の体験と知識に根ざしています。
だからこの本は、読むのに骨が折れるとはいえ、それだけの価値があるリアルなファンタジーです。空想の異世界などなくとも、わたしたちの住むこの現実が、いかに摩訶不思議で魅力ある世界であるか教えてくれるからです。
身近な異世界を彩る不思議な生き物たち
もともとわたしは、ダイビングシミュレーションのゲームが好きだったこともあって、海の生き物に親しみがありました。本物の自然を知らないころは、水族館にも通ったものでした。でも、この本で初めて出会った生き物、初めて知った知識が山のようにあります。
たとえば、海岸の岩場にくっついている小さな貝たち。わたしもそれくらいは自分で見たことがあります。祖父がナイフで貝を剥がして、そのまま食べていたのを思い出します。
そんな貝たちは、岩に付いた微小な藻類を食べます。歯舌というベルトコンベアのような歯のついた舌で、岩を粉々に砕きながら食べるといいます。
子どもの巻き貝はルーペを使わなければならないほど小さいのに、ベルトコンベアの歯はなんと3500も並んでいるそうです! しかもそうした貝たちは、何十年で1cmという速度で岩を侵食し、地形を変えてしまうのです。貝の精密な作りと秘めたる底力には驚かされます。(p81,275-276)
驚くべきは岩を削る力だけではありません。イワタマキビは、潮のリズムをしっかり記憶していて、研究室に持ち込んだ場合でも、自分が生まれた海岸の潮の干満にそって行動し続けるそうです。(p83)
ヨメガカサは、かのアリストテレスによると、殻の形がぴったりはまる場所を見つけて住みます。そして餌を食べに出かけても家の場所を覚えていて、何時間も外出した後で、正確にそこへ帰るのだそうです。記憶力もすごいのです。(p93-96)
誰でも見たことがある有名な海岸の貝といえば何でしょうか。きっとフジツボなら、みんな知っていることでしょう。
でもフジツボは貝ではありません。なんとカニやエビの仲間の甲殻類なのです。 いったいどこが?と思いますが、生まれたての幼生のときは他の甲殻類の子どもにそっくりで海を泳いでいます。しかし、やがて理想の定住地を探し、臼のような殻を作って、わたしたちのよく知るフジツボになるのです。
その時にフジツボは「完全に徹底的に再構成され」12時間で殻ができるそうです。人が大きな変化を遂げる様子をチョウの変態に例えることがありますが、今度からフジツボに例えてみたくなります。マイナーすぎて伝わらないでしょうけれど。(p84-89)
釣りをする人ならきっと、ゴカイやイソメをよく知っているでしょう。陸のミミズと同じ環形動物なので、海のミミズのようなものです。でも、その生態となるとほとんど知らないかもしれません。
レイチェルは、イソメの仲間のパロロという生き物たちが、産卵するときに繰り広げる、驚くべき狂乱の宴について詳しく書いています。
この色のついたミミズのような生き物は、一年に一回だけ、決まった下弦の月の夜に産卵します。それまでずっと月光を徹底的に避けて生活しているのに、その日だけは月の光のもとに身をさらします。
産卵の時期が近づくと、パロロたちの後ろから3番目の体節の色が変化し(オスはピンク、メスは緑)、膨れ上がってきます。そして、産卵の月夜には、なんとそこから体が2つにちぎれてしまいます!
分かれた2つの体には、それぞれ違う運命が待っている ― 一つは穴の中にとどまり、暗闇の中で臆病な食物あさりの生活を再開し、もう一方は海面に向かって泳ぎ出し、何千もの大きな群れをつくる。その中で種の生殖活動が行なわれるのだ。(p271)
壮大な神話上の物語でも聞かされているような気持ちになります。現実に起きていることだなんて信じられないほど、突拍子もない生態です。
自分の内側に別の自分が誕生し、ついには2つの自己に分裂して独立するという、ホラーとも神秘ともいえるようなことをやってのける生き物がいるのだと思うと、狭い常識にとらわれてきた自分の浅はかさを実感します。(p270-272)
レイチェルが別のゴカイについて書いている言葉にいたく共感します。
このことは、私たちの知識が、限りなく広がる未知の大海をのぞく窓のついた、小さな囲いの中に閉じ込められていることを示す、ほんの小さな一例といえるだろう。(p234)
わたしたちがよく知っているカニのような生き物でも、その暮らしぶりについて知ると、とても壮大です。
スナガニの幼生はプランクトンの形をしていて海に放出されます。海の中で数回脱皮を行い、少しずつ形を変え、メガローパという着陸形態になります。脚がきちんと折りたたまれるような構造をしているので、波にもまれ、砂にこすられても傷つきません。
その姿はまるで、月に着陸しようとする探査船のようす。何度も燃料タンクを切り離しながら、海流の軌道に乗って、一度も見たことのない砂浜を目指すのです。
カニにとっての海は人類にとっての宇宙のように広いはずですが、「本能に導かれて海岸に向かい、上陸を果た」すのは、大スペクタクルの映画に匹敵するほどのドラマではないでしょうか。(p214-215)
砂浜には、不思議な生き物たちのかけらも流れ着きます。テンシノツバサガイという美しい貝殻が見つかることがあります。非常に繊細で壊れやすい貝殻なのに、生きているときは穴を掘る技術が一級品というのが面白い生き物です。
テンシノツバサガイの混じりけのない色と繊細な形は、一生涯泥の中にかくされている。貝が死に、貝殻が波によって解き放たれ、浜辺へ運ばれるまで、この天使の翼の美しさは人目に触れぬよう運命づけられているのだ。
暗い牢獄の中に神秘的なまでの美しさを秘め、外敵からもほかの生物からもかくれて、テンシノツバサガイは不思議な緑色の光を発している。なぜ、何のために? そして、誰に見せるために? (p239)
写真でも美しいのだから、実物を砂浜で見ることができたら、さぞや美しいのでしょう。
砂浜に漂着するもののうち、最も色鮮やかで人目を引くもの、そして同時に最も危険なものは、「生きた帆船の船団」であるクダクラゲ、カツオノエボシ、カツオノカンムリなどでしょう。
このうちカツオノエボシは、ニュース画像などで見たことがありますが、人工着色料で真っ青に色付けされたお菓子のような、自然界のものとは思えないくらい鮮やかな色と奇妙な形がとにかく目を引きます。
これらの生き物は、クラゲの仲間の合体生物です。帆を立てて移動する生きた帆船であり、猛毒の触手を引きずって獲物をとる引き網漁船でもあります。
レイチェルが座礁してしまったカツオノエボシを見つけ、丁重に海に戻してやったときのエピソードは、この本で最も好きな箇所の一つです。
私はかつて、サウスカロライナ州の海岸に打ち上げられた中ぐらいのカツオノエボシがふくらみを調節しているのを目にしたことがある。私は、そのクラゲをひと晩水の入ったバケツに入れておき、そのあと海に帰そうとした。
潮が引きはじめると、私は3月の肌寒い海の中へ歩いていき、刺されないように注意しながらできるだけ遠くへ、バケツの中のカツオノエボシを放り投げた。
しかし、クラゲは何度も波によって浅瀬に戻されてしまった。…しかし苦境に陥っているときも、つかのまの成功を喜んでいるときも、クラゲは波まかせにはなっていなかった。
それどころか、かれは大いなる幻を抱いて、決してあきらめることなく、自分の運命を切り拓くためにあらゆる努力をしていた。
最後に私が目にしたのは、海岸で海のほうへ小さな青い帆を高くかかげ、ふたたび陸を離れる瞬間をじっと待っている姿だった。(p230)
ほかに砂浜で発見できるものには、「キャッツアイ」と呼ばれる巻き貝の蓋や、「人魚の財布」と呼ばれているサメやエイなどの卵鞘の抜け殻、「スナヂャワン」と呼ばれる貝の卵塊などがあります。不思議なものだらけです。ぜひいつか砂浜を歩きまわって探したいものです。
奇妙で面白い生き物たちは、まだまだ登場します。
どう見てもゴカイやミミズのような形なのに、二枚貝の仲間のフナクイムシ。先についている小さな殻を使って船や桟橋を掘り進んでしまいます。トンネル掘削のシールド工法の技術がここから開発されたとか。(p246)
「シーボトル」(海の酒瓶)とも呼ばれる藻類バロニア。「とくに美しい藻類で、緑色のガラス球のような塊が束になっている」とのこと。検索してみると、丸い宝玉のようで、これが植物なのかと驚くほどでした。(p280)
その奇妙な姿から、怪物ゴルゴン(メデューサ)の名にちなんだ属名(ゴルゴノセファリダエ)で呼ばれているテヅルモヅル。見ようによってはカラスウリの花のようです。これが生きた動物だ、と言うには信じがたいほど神秘的な姿をしています。(p298-299)
レイチェルがこの本で紹介してくれる生き物はどれも、今まで考えたこともないような不思議な形態や能力をもつ生物ばかりです。動物か植物か、という分類すら当てにならないようなものも少なくなく、頭の中にある常識の枠組みを完全に取っ払う必要がありました。
それぞれの生き物は一芸に秀でていて、小さな生物としては信じられないような機能を持っていて驚かされます。穴掘りだったり、記憶力だったり、岩や糸を作る能力だったり…。
しかし、考えてみたら、それらの集大成のひとつが人間なのだ、と思わずにはいられません。さまざまな生き物に備わる独立した技術の粋が、人間の体には、複雑に組み合わさってはめ込まれています。この本は、わたしたちが自分自身を見る目をさえ新たにしてくれます。
異世界の住人たちのリアルな暮らしが描かれている
ネットやテレビでは、こうした生き物たちは、よく不思議生物として取り上げられます。しかし、興味本位の断片的な情報ばかりです。豆知識としては面白いかもしれませんが、現実からかけ離れていて、本当の魅力が伝わりません。
外国の少数民族の文化が面白おかしく取り上げられるのに、実態は何も伝わってこないのとよく似ています。実際にその文化の中で暮らしている人から見たら、とても滑稽で的外れに思えてしまいます。
少なくともわたしは、テレビやネットの情報では、これらの生き物が、生態系の中で生きている現実の姿を想像できませんでした。たとえ映像や写真付きで紹介されている場合でさえ、現実味がありませんでした。
一方、レイチェルの描写で輝いているのは、単なる知識ではなく、多面的な角度からその場の生態系を感じ取る感性でした。
「海辺」は、生き物たちの世界、そして文化のただ中に自ら足を運んで書かれています。実体験に根ざした描写によって、それらの生き物の本当の魅力を伝えてくれます。
たとえば、コケムシ、ヒラムシ、ヒドロ虫のような不思議な生き物は、それぞれが単独で海の中にいるわけではなく、同じ空間を共有して、密接に関わり合いながら生きている住人だとわかります。
レイチェルは、ヒトデやイソギンチャクの繊細な色合いを描写し、それぞれの生き様に思いを馳せます。潮溜まりの水のゆらめきを見て、外海の雄大なリズムを感じ取り、さらには姿を変えぬカイメンから悠久の時を想像します。
自然界の観察にとって、ある程度の知識は大事ですが、それより先に求められるのは知識よりも感性なのです。いかに自分をその場に置いて生態系の営みを感じ取れるかが、豊かな体験につながる、ということを存分に教えてくれます。(p164-172)
ここでもう一度、冒頭に引用した洞窟の情景について考えてみましょう。
そこで私は、濡れたツノマタ[ノリやテングサと同じ海藻]の絨毯に膝をつき、浅い潮溜りのある暗い洞穴をのぞきこんだ。洞穴の床と天井の間は、わずか10センチほどで、鏡のように静かな水面には、天井に生えているすべてのものが映っていた。
この澄み切った水の底は緑色のカイメン[スポンジ状の動物]で覆われていた。天井には灰色のホヤの斑点が光り、ウミトサカ[サンゴの仲間]の集団は淡いあんず色をしていた。
洞穴をのぞきこんだとき、こびとのような小さいヒトデが、いまにも切れそうな細い管足をたよりにぶら下がり、その影を映す水面にまで達していた。
…大潮の引き潮どき、このような魔法の国を訪れるたびに、私は渚の住人たちの中で、最も繊細な美しさをもつものを探し求める。それは植物の花ではなく動物であって、やや深い海への入り口にすんでいる。
妖精の洞穴は私の期待にそむかなかった。天井からは淡いピンク色にふちどられたクダウミヒドラ[個虫が合体したヒドロ虫]がペンダントのようにぶら下がっていて、それはアネモネの花のように華奢だった。(p17-19)
レイチェルの記述からは、それらの生き物が単独で存在しているわけではない、ということが伝わってきます。
それらの生き物はいずれも、海辺という身近な異世界の「住人」であり、複雑な生態系を織りなしています。レイチェルが述べるように、すべてが合わさって、美しい社会が作られているのです。
ある生物とそれをとりまく条件との関係が、一つの因果律で結ばれるような海辺は存在しない。それぞれの生物は、生命という織物の複雑なデザインを織り上げている無数の糸によって、その世界につながれているのである。(p33)
こうした情景は、ネットで調べただけの浅い知識では描き出せないものです。海の生き物が好きだと言いながら、水族館のような人工的な環境しか知らない、かつてのわたしのような人にも想像できないものです。
本当に自然を愛し、その生き物たちの暮らしぶりをじかに見て、そのただ中に身を置いた人でなければ、決して知り得ない世界です。レイチェルがこう書いているとおりです。
「海辺を知るためには、生物の目録だけでは不十分である。海辺に立つことによってのみ、ほんとうに理解することができる。
…海辺の生物を理解するためには、空になった貝殻を拾い上げて「これはホネガイだ」とか、「あれはテンシノツバサガイだ」と言うだけでは十分ではない。真の知識は、空の貝殻にすんでいた生物のすべてに対して直感的な理解力を求めるものなのだ。
すなわち、波や嵐の中で、かれらはどのようにして生き残ってきたのか、どんな敵がいたのだろうか、どうやって餌を探し、種を繁殖させてきたのか、かれらがすんでいる特定の海の世界との関係は何であったのかというようなことである。(p12)
ネット時代の今は、どんな情報でも手に入るように見えて、自己の体験に根ざしていないスカスカな情報だらけです。誰かがまことしやかに書いたものが、コピペで拡散され、実体のない情報が広がってしまっています。
「海辺に立つことによってのみ、ほんとうに理解することができる」のに、その労を惜しみ、スマホでネットサーフィンするだけで知ったかぶりになってしまう人が、どれほど多いことか。
そんな時代だからこそ、本物の自然を知っている人の本を読むことには、確かな価値があります。そこに収められている知識は、確かなガイドによって書かれたものであり、わたしたちを本物のフィールドへと連れ出し、自分の目で観察するよう導いてくれるからです。
同じ問題を違った方法で乗り越える多様性
「海辺」を読んでいて印象的だったのは、ユニークな生き物たちが織り成す海辺の社会が、わたしたちの暮らす人間の社会と似ているように感じられたことでした。レイチェル・カーソン―沈黙の春をこえて (愛と平和に生きた人びと)によると、レイチェルはこの本にそうした含みを持たせていたようです。
レイチェルは旅先のサンゴ礁や砂浜や岩礁海岸でみてきた何百という生物について、生物の生活のしかたが、環境のちがいによってどのようにかたちづくられていったかをわかりやすく、いきいきとえがきだしました。
本のなかでレイチェルは、読者に、人間もまたある環境のなかで、その環境に影響をうけながら生きているのだと語ったのです。(p79-80)
「海辺」の生き物が特殊な存在だといえるのは、そこが自然界の中でも特別に変化の激しい環境だからです。海岸は海と陸というまったく異なる環境の境目であり、しかも常に変動している動的な世界です。
波打ち際は人間でさえ住まない不安定な場所です。そこに住む生き物たちは皆、その難しい環境に適応したものばかりです。にもかかわらず、一握りの勝者のみが生き残るわけではなく、千変万化の多様性に富んでいることに、レイチェルは感動しています。
このような変化の多い場所には、最もたくましく、かつ適応性に富む生物しか生き残れないのだが、その厳しさにもかかわらず、潮の干満のはざまに位置するこれらの地域には、さまざまな植物や動物があふれているのである。(p16)
生き物たちが海岸の適応した方法は通り一遍ではなく、じつに多彩です。適応が難しい環境なのに、みなが同じ方法で適応するわけではない、、ということに驚きを感じてしまいます。
このことを、わたしたち人間に当てはめて考えてみると、社会に多様な人々がいる理由がよくわかります。
わたしたち人類社会も、過去2世紀にわたって目まぐるしく変化してきました。産業革命以降、人類の暮らしぶりは根本から組み変わり、21世紀に入ってからは、さらに目まぐるしい勢いで変転しています。わたしたちは波打ち際のような世界で日々生きています。
以前の記事で書いたように、わたしは昨今話題になる、アスペルガーやADHDのような発達障害、またHSPのような概念は、環境に対する一種の適応だと考えています。
最初は医者が主張するように「障害」だとみなしていましたが、生物学や環境科学について調べた後では、「人間もまたある環境のなかで、その環境に影響をうけながら生きている」一例だと考えるようになりました。
たとえば、以前の記事では異常巻きアンモナイトを例に考えました。異常巻きアンモナイトは軟体動物の仲間で、その奇妙な形の化石から、はじめは「障害」を負った個体なのだと思われていました。しかし研究が進むにつれ、特殊な環境に適応した正常な個体だと明らかになりました。
「海辺」を読んでいて、それとよく似た生き物が現存しているということを知りました。
ムカデガイ科のホソヘビガイという巻き貝で、調べてみたら、おそらく近縁のオオヘビガイというのが日本近海にいるようでした。巻き貝なのに、異常巻きアンモナイトと同じように、不規則な形の「ゆるくほどけたような管」の形の殻を持っています。
しかしホソヘビガイ奇妙な殻は異常ではありません。
このホソヘビガイの性質、形態、習性が近縁の軟体動物とはかなりかけ離れていることは、かれらの環境状態や、空いている生態学的地位にいかにすばやく適応するかということが雄弁に物語っている。(p280-281)
通常の巻き貝は動き回ることでエサを探しますが、ホソヘビガイは集団で絡み合って一緒に住み、動こうとしません。それには理由があり、ホソヘビガイが暮らす潮間帯は、潮が満ちるたびにエサが運ばれてくるので、一箇所でじっとしている生活のほうが効率がいいのです。
異常巻きアンモナイトの場合は、海底近くを漂ったり、砂に身を隠すような生活をしていたと考えられているので、、ホソヘビガイとはまた暮らしぶりが違います。しかし、大多数とは異なるユニークな適応を遂げたという点では似ています。
今の世の中のユニークな人たちもそれと同じだと思っています。それらの人々は、人類という種のうち、大多数とは違う能力を発達させ、異なる仕方で適応した人々です。
それなのに、子どものころから、多数派と同じ生き方を社会によって強要されるせいで、不適応を起こし、「障害」とみなされてしまうのです。
発達障害の概念は医学から見た一方的なレッテルの押し付けであり、人間のもつ生物としての多様な個性を、「障害」という言葉で不当に上書きしてしまっていると思います。
わたしが発達障害やHSPのような概念を好ましくないと感じる理由はもう一つあります。そうした概念は、人々をステレオタイプまたグループにまとめようとします。
かつてはこのブログでも、「ADHDの10の特徴」といった記事を書いていました。今でも残してはありますが、もはやその考え方にはあまり同意していません。あくまで、医学の観点からすれば、そういった見方もある、と思っているにすぎません。
HSPの場合、本来の定義は「敏感であること」だけであり、さしてステレオタイプがあるとは思いません。しかし昨今、この概念が広く流布する中で、様々なステレオタイプが作られ、議論も巻き起こっていて、望ましくない方向に進んでしまったと感じています。
表面的には確かにそうしたステレオタイプが大勢の人に当てはまるかに思えます。しかし、一人ひとりとじっくり向き合い、深く知り合ううちに、全然違うことがわかってきます。共通点は泡のように消え、分類しようがない多彩な個性をもつ、個々の人間が見えてきます。
ある部分において、誰かと似ていると感じるのは普通です。でも、すべての点で他人と同じだったり、すべてがステレオタイプに当てはまる人などいません。平均的人間という概念が幻想であるのと同じように。
誰かがステレオタイプに当てはまると感じてしまうのは、往々にして、相手のことをよく知らないからかもしれません。特にネット上のやりとりだけだとそうなりやすいでしょう。
また、特定の環境下での相手しか見ていないからかもしれません。プライベートな時間の相手を知っていますか? 都市ではなく大自然の中に身を置いたらどうなるでしょうか? さまざまな状況下で相手を観察すると、第一印象ははかなくも崩れ去ることが多いと感じます。
海辺の生き物からわかるのは、生物は同じ過酷な環境であっても、非常に多彩な適応を見せるということでした。それぞれの種にそれぞれの生存戦略があり、同じ問題を違った答えで乗り越えています。その独創性はそれぞれの個性を生み出します。
生物の個々の種に見られる違いを、ヒトという種の中の個人の違いに当てはめるのは、適切な比較でないことはわかっています。でも、わたしたちヒトが一生のうちに経験することは、普通の生物よりはるかに複雑です。その結果、環境にどう適応するか、という生存戦略にも明白な個性が生まれます。
オリヴァー・サックスは心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界の中で、失明という体験に際してさえ、一人ひとりの脳の変化はまったく異なると書いています。視覚心象をイメージする能力を完全に失う人もいれば、それを保持したまま適応する人もいますし、かえって強力になる人もいます。
どれが正しく、どれが間違っているというわけではありません。それぞれの人が別個の仕方で苦難を乗り越え、新しい環境に適応した、というだけのことです。そこにあるのは決まりきった診断基準に押し込められるステレオタイプではなく、複雑かつ多様な個性の物語なのです。
サックスがしたように、一人ひとりの物語を語ることはできます。しかし、みなをひっくるめて、このような人はこうだ、と紋切り型を作ることはできません。海辺の多様な生物を語るには、膨大なページが必要で、一つ一つの生き物の個性を見て回らなければならないのと同じように。
永久に楽しめる世界へ連れ出してくれる本
「海辺」は、レイチェルにとっては3作目の本であり、4作目である「沈黙の春」ほど知られているわけではありません。それでも、彼女にとって特別な本でした。
レイチェルは生前、自らの弔いの場で「海辺」の最後の節が朗読されるのを願っていたそうです。その節はこんな言葉で締めくくられています。
渚に満ちあふれる生命をじっと見つめていると、私たちの視野の背後にある普遍的な真理をつかむことが並大抵な業ではないことをひしひしと感じさせられる。
夜の海で大量のケイ藻が発するかすかな光は、何を伝えようとしているのだろうか?
無数のフジツボがついている岩は真っ白になっているが、小さな生命が波に洗われながら、そこに存在する必然性はどこにあるのだろうか?
そして、透明な原形質の切れはしであるアミメコケムシのような微小な生物が無数に存在する意味は、いったい何なのだろうか? かれらは、岸辺の岩や海藻の間に一兆という数ですんでいるが、その理由はとうていうかがい知ることはできない。
これらの意味はいつまでも私たちにつきまとい、しかも私たちは決してそれをつかまえることはできないのだ。しかしながら、それを追究していく過程で、私たちは生命そのものの究極的な神秘に近づいていくだろう。(p330)
この本でレイチェルは、海辺のことなら何でも知っているかのような博識なガイドを披露してくれました。しかしそれでも、知らないこと、わからないことだらけだという実感がこもっています。
ニュートンが述べた、自分は砂浜で貝殻を集めていたにすぎず、眼前には未知なる真理の大海原が広がっている、という言葉にも通ずるものがあります。
わたしは、その二人のような博識はまったく持ち合わせていませんが、大自然の中では同じ思いに満たされます。
森を歩いて200種くらいの動植物を見分けられるようになったにもかかわらず、知らないことが多すぎて圧倒されます。名前を知っただけでは何も知らないも同然です。名前さえ知らない膨大な種類の菌類や地衣類や昆虫たちのことを思えば、なんと無力なのでしょう。
この世界には面白いこと、不思議なことがあふれています。永遠の時間をかけても知り尽くせないほど深く、悠久を生きたとしても理解できないほど広いのです。
思えば、わたしはもともと森よりも海が大好きで、憧れていました。病気のあいだずっとダイビングゲームで遊んでいましたし、無理を押して、一度だけシュノーケリングに出かけたこともあります。鼻や耳がよくないので、潜水の技能を習得することは難しいけれど、可能なら海の中を探検したいという願いが常にありました。
レイチェルの「海辺」は、わたしが思い描いていた海の世界とは別に、陸と海のはざまという、まったく未知の世界があることを教えてくれました。それによって海の風景はより奥深いものになり解像度が増しました。
慣れない単語を調べながらだと、集中力がもつ分量は数ページだけのことが多く、楽しくも辛抱強さが求められました。読むのに一ヶ月以上もかかってしまいましたが、その価値は十分にありました。
伝記レイチェル・カーソンによると、レイチェル・カーソンもまた、子ども時代を海のない地方で過ごし、大量の本を読むことによってのみ、海への憧れを育てたそうです。
私はほんの子供だったころ、それまで一度も海を見たことがないのに、大洋に魅せられていた。私は大洋について、あれこれと空想し、それを見たいと願い、そして私がみつけることが出来たすべての海ら関する著作を読破した。(p107)
自分も同じことをしてみて初めて、彼女の情熱と忍耐力が相当のものだったのだと気づきました。しかも彼女が読んだ本は、彼女が書いたこの本ほどには、わかりやすくなかったでしょうから。
レイチェルは、本で読んだ事柄によって、いよいよ想像力と憧れを掻き立てられ、海洋生物学者への道を進みました。
わたしもこの本を読んでいて、いつかはきっと、実物を見てみたい、もちろん水族館や動物園ではなく、本物の海辺で、と決意しました。今のわたしの関心事はおもに森に向けられていますが、いつかは海にも向けられるのでしょう。
読者を本物の「海辺」に連れ出し、自分で大自然を体験し、より深く親しんでもらいたい、それこそが、レイチェルがこの本に込めた願いだったのです。
補足 : 付録からユニークな生き物について学ぶ
「海辺」を読むまで、わたしは、動物について大まかなことは知っている、と思い込んでいました。動物園や水族館に通うのが好きな人なら、たいていの生き物は見たことがあるものです。
哺乳類にはじまり、鳥、魚、爬虫類、両生類。だいたいこれで全部だと思っていました。
ところが、この本に出てくる海辺の生き物たちは、ほとんどがそれ以外の動物です。今挙げたのは、脊椎動物と呼ばれる種類の生き物ですが、海辺には無脊椎動物と呼ばれる摩訶不思議な生き物たちが大勢暮らしています。
序章を読んでいると、扁形動物とか、棘皮(きょくひ)動物、海綿動物といった、聞き慣れない種類の「動物」がたくさん登場することに気づきました。かれらがいったい何者なのか、イメージさえできません。まるでSF世界の用語のようです。
でも、レイチェルは親切にも、「海辺の生物の分類」という巻末の付録を用意してくれていました。せめて代表的な種でもイメージできないことにはテンポよく読むことができないので、そこから読むことにしました。
「海辺」の付録部分は、p332-361のわずか30ページにも関わらず、知らないことだらけでした。用語の定義を調べたり、画像検索したりしながらだったので骨が折れました。
でも、次から次にへんてこりんな生き物のことを調べることになって、楽しかったです。今までネットなどで「不思議生物」として断片的に見かけていたものが、頭の中でかなり整理されました。
以下は付録を参考にしながら、自分なりにまとめたメモです。
1.原生生物
いわゆる単細胞生物。目に見えないほど小さい、さまざまなプランクトンが含まれます。
たとえば、美しい石英ガラスの殻をもつ「放散虫類」や、石灰質の殻をもつ「有孔虫類」、珪酸ガラスの弁当箱のような殻をもつ「珪藻類」などもこの仲間です。
それぞれ、画像検索にリンクしておいたので、だまされたと思ってクリックしてみてください。ミクロの大きさの生物なのに、なんて美しい複雑なデザインなのでしょう。これらの動物の殻が堆積して、チョークや珪藻土になります。意外と身近に役に立っている生き物なのです。
また、最古の植物とも言われる、藍藻(ラン藻)類も原生生物に含まれます。池や湖が緑色になるアオコの原因になる生き物です。
世界中の岩礁海岸には、高潮線の上に、藍藻の「黒い帯」がついているそうです。「世界中どこでも、海と陸が出会うときのこのしるしは同じ」だといいます。こんど海岸に行ったらわたしも探してみたいです。(p55,78,274,334)
2.葉状植物
葉状植物とは、いろいろな海藻のことです。色によって大きく3つに分けられます。
まず緑色の緑藻類。クロレラ、ミカヅキモ、アオミドロなど理科の授業で聞いたものから、まるでキノコのような面白い形のカサノリ、そして食用のアオサ、アオノリなど大型の海藻も含まれます。強い太陽光線に耐えられるので熱帯の海に多いそうです。
黄色っぽい褐藻類。なじみあるコンブやワカメ、ヒジキ、ケルプ、ヒバマタなどが含まれます。強い太陽光線には耐えられないので深い海中や北方に多いそうです。ダイビングで有名なジャイアントケルプの森も褐藻です。
最後に、赤っぽい紅藻類。最も光に敏感で、深い海に生えていることが多いとのこと。日本人が大好きなノリや、寒天の材料になるテングサ、そしてカナダやアイルランドで食され、なぜか昨今スーパーフードなどと宣伝されているダルスなどが含まれます。
普段わたしたちはコンブやヒジキやノリを食べていながら、加工された後の姿しか知らないことがほとんどです。でもこうして整理してみると、海の中で生きている海藻なんだ、という実感が深まります。ぜひ潮の流れにそよいでいる実物をいつか見てみたいものです。
ところで、この本を読むまで全然知らなかったのですが、海藻と海草は全然違うそうです。
海藻は、シダやコケ、キノコと同じように胞子で増える古いタイプの植物です。海の中に適応した植物なので、水を吸い上げる根や維管束が必要なく、ただ岩にくっつくだけで生きていけるます。
一方、海草は、ふだん目にする草花と同じ種子植物です。きちんと根、茎、葉の区別があり、花を咲かせ、種で増えます。種子植物なのに、たまたま水の中で暮らしている種類が海草なのです。
このような海草はみな高等植物―種子植物―で、いわゆる海藻とは異なるものである。藻類は、地球上で最も古い植物で、海水にも淡水にも生えている。
しかし、種子植物は、わずか六億年ほど前に地上に現れたもので、現在、海で生活しているものの祖先は、陸地から海へ帰っていったのである。(p304)
3.海綿動物
名前のとおり、「カイメン」と呼ばれている動物。英語ではスポンジです。
海水を濾過する水路システムのような生き物で、石灰質やケイ素で柔軟性のある骨格を作ります。この生き物の死骸が、昔は台所用「スポンジ」として使われていました。今でも天然スポンジとして売られています。
画像検索すればわかりますが、本当にスポンジです。わたしも修学旅行か何かで、古い施設に行ったとき、使ったことがあった気がします。
天然スポンジを見ると、どうしてこんなものが「生きて」いるのか不思議で仕方ありません。見るからにスポンジなのに、かつては命を持っていた生物なのです。しかし今さら水に漬けたところで命は蘇りません。
どうして生きたスポンジは海水を濾過できるのに、一度死んでしまうともう動かなくなってしまうのか。いったい命とは、生き物とは何なのか、この単純な生き物から、そんな哲学的な命題を考えずにはいられません。
4.刺胞動物
その名のとおり「刺胞」という特別の能力をもった動物。刺胞とはワイヤー付き銛(もり)のようなもので、毒を注入したり、獲物をからめとったりするのに使われます。動物の体にそんな高度な道具がついているなんて驚きですね。
具体的には、イソギンチャク、サンゴ、クラゲ、ヒドロ虫などが、この仲間に属しています。どれも聞いたことのある生き物ですが、その生態は摩訶不思議です。
これらの生き物は、なんと合体します。個虫という小さな生き物が群体を作って、ひとつの生物になります。この場合の「虫」とは昆虫ではなく、小さな生き物という意味です。
ほとんどの人は、サンゴにしても、クラゲにしても、イソギンチャクにしても、合体した後の姿しか知りませんが、じつは小さな個虫の集合体です。
しかも、ヒドロ虫類は、植物のような定着生活をする世代と、クラゲのように移動する世代が交代交代に現れます。動物なのか、植物なのか、そんな常識が通用しません。
クラゲとサンゴは一見すると全然違う生き物に見えますが、かたや動物のように移動する合体生物、かたや植物のように定住している合体生物なので、どちらも同じ仲間なのです。
こんな不思議な生態をもつ生き物がこの世界にいるなんて…、という気持ちになるのですが、かのチャールズ・ダーウィンは、新訳 ビーグル号航海記 上の中で、合体生物は樹木とよく似ている、という目から鱗の着想を記していました。
このような「合体した動物」を調べる作業が、いつも非常におもしろいのだ。植物めいた体から、ちゃんと卵が生まれ、それが泳ぎだして適当な場所をみつけて定着する。
そして定着したその小さな体から、しばしば複雑な構造をもつ個虫を無数につけた枝を、たくさんのばしいてく光景ほどめざましい眺めは、ほかに何があるだろうか。
…それぞれ独立した個虫がこうして共通の株に集まるこの事実は、いつの時代にも不思議なことだと思われるに違いないけれど、なんと植物の樹木も同じつくりになっているのだ。一つの芽は、それだけで個々の植物と見ることもできるであろう。(p374)
わたしたちは、自分が子どものころから見聞きしているものは当たり前、普通のものとみなし、疑問を抱かなくなります。一方、大人になってから初めて見聞きしたものは、新しい奇妙なものとみなしがちです。
でもそのような先入観を取っ払って考えれば、身の回りのものは不思議で面白いものばかりです。公園に生えている、何の変哲もない、ごく当たり前の樹木でさえ、ダーウィンに言わせれば、ヒドロ虫やサンゴのような合体生物に匹敵する構造をもっています。
テレビやインターネットで面白おかしく取り上げられる不思議生物だけがユニークなのではなく、わたしたちの身の回りにあるものすべてがユニークなつくりを持っています。先入観と常識の枠組みを取り外すことができさえすれば、この世界は発見に満ちています。
5.有櫛(ゆうしつ)動物
クシクラゲのこと。水族館で見たことがある人もいるかもしれません。見るからに「櫛」(くし)のような形をした生き物です。クラゲという名がついてはいますが、上記の刺胞動物のクラゲとはかなり構造に違いがあり、ワイヤー銛も持っていません。
クシクラゲは、櫛版(しつばん)という8列の構造をもっていて、回転しながらキラキラ光ります。英国の作家バーベリオンはかつて太陽光線の中のクシクラゲが世界で最も美しいものだと述べたそうです。
6.扁形動物
ヒラムシとも呼ばれる、非常に平たく生きたフィルムのような生き物。平たすぎるので循環系が必要なく、身体の表面から酸素や二酸化炭素を交換します。「ムシ」とついていますが昆虫ではありません。
こんなフィルムのようなものが、これまた「生きて」いて、岩の上を這ったり、ひらひらと泳いだりするのだから不思議です。本当に、生き物とは、命とはいったい何なのでしょう?
人間の寄生するサナダムシとか、驚異的な再生能力で有名なプラナリアもこの仲間です。謎めいた生き物ばかりです。
7.紐形動物
これも摩訶不思議。ヒモムシの仲間ですが、やはり虫ではありません。
その名のとおり紐状の生き物ですが、あるときは丸くあるときは扁平になります。そして最大27mに達する種類(lineus longissimus)もいるそうです。
ネット上では奇怪生物として紹介されがちで、さすがに閲覧注意!といいたくなる外見をしているので、画像検索にはリンクしません。どうしてこんな生き物がいるのか不思議でなりません。
8.環形動物
環状の体節構造をもつ生き物。陸上生物のミミズや、釣り餌として有名なゴカイ、イソメなど、非常に多くの種類がいます。
ミミズやゴカイだというと気持ち悪い、というイメージが先行しがちです。しかし、中にはアンモナイトのような殻をもつウズマキゴカイや、なんとギリシャの女神の名をつけられたアンフィトリテという種や、「海の妖精」というラテン名で呼ばれる虹色に輝く種もいます。(p120)
それでも気持ち悪いな、という見た目ではあるのですが、見る人によるでしょうし、慣れたら美しく見えるのかもしれません。
9.触手冠動物
これもまた謎めいた動物で、口のまわりを触手が囲む触手冠という特殊な構造をもっています。代表的なのは、コケムシです。
コケムシは、想像以上に奇天烈な生き物で、一見すると植物ですが、れっきとした動物です。多くの個虫が群体で生活して、ふわふわした苔玉や海藻、サンゴのような形になります。
群体をつくる、という点ではサンゴなどの刺胞動物に似ていますが、個々の個虫が役割分担する合体生物ではありません。同じ機能を持つそれぞれの個虫がマンション暮らしのように共同生活しているだけで、より高度な消化系や神経系も備えています。
サンゴが生息できないような場所で海底にコケムシ礁を作り、他の生き物が生活する場を作っているそうです。
10.節足動物
今まで、〇〇ムシという動物が出てきても、虫ではない、と繰り返し書いてきましたが、ここでようやく、本物の虫の登場です。
節足動物は、他のすべての動物門をすべて合わせた生き物の5倍の種類を含みます。
昆虫類(いわゆる虫)のほかに、甲殻類(エビ、カニ、フジツボなど)、多足類(ムカデなど)、クモ類(クモ、カブトガニなど)などがいて、定期的に殻を脱ぎ捨てて脱皮します。
海洋性のものはほとんどが甲殻類です。エビ、カニ、オキアミ、ミジンコなどが有名です。陸上にもいるダンゴムシや、海の巨大ダンゴムシことダイオウグソクムシも仲間です。
他には、どこの海岸にもくっついているフジツボも、貝のように見えて実は甲殻類の仲間で、子どものころは海を漂って生活しています。
11.棘皮(きょくひ)動物
棘皮とはトゲトゲした皮という意味で、もともとはウニを指す名前です。
その他にヒトデ、カシパン、クモヒトデ、ナマコ、そして太古の昔から存在するウミユリ、ウミシダなどが含まれます。
あらゆる動物門のうち、最も純粋な海産生物です。つまり、海に出かけない限りは見られない生き物で、山や森の近くで暮らしていると縁がありません。
ヒトデのように、体の多くの部分が5の倍数のデザインなのも特徴です。
たとえば、タコノマクラや、スカシカシパン、ブンブクチャガマと呼ばれる棘皮動物がいます。日本人のネーミングセンスが光ります。到底生き物とは思えない姿なのになぜか動く、という驚きがこめられた名前なのかもしれません。どれもちゃんと5の倍数の模様がついています。(p191)
動物とは思えないほどユニークな見た目の面々が多いですが、海水を取り込んで血液のような役割をさせる水管系というシステムをもち、水圧の変化を利用して体をひねって移動できます。
12.軟体動物
体が柔らかく、体節がない生き物。具体的には、カイ、イカ、アメフラシ、ウミウシ、古代のアンモナイトなどが含まれます。
殻に保護されている種類が多いのが特徴で、一見殻がなくても、ミノウミウシのように幼生の時だけ殻があるものや、アメフラシやイカのように体内に名残りを残すものもあります。
アンモナイトは絶滅しましたが、今でも似たような形の渦巻き型の殻をもつ軟体動物がいます。
この本で初めて、そのような殻をもつアオイガイ(なんとタコの仲間で「タコブネ」という種もいる)やトグロコウイカという深海生物について知りました。有名なオウムガイ以外にも渦巻き殻の生き物が色々といるものです。(p222-223)
13.脊索動物
ここまでの生き物は、無脊椎動物ばかりでしたが、わたしたち人間や、魚、鳥のような脊椎動物に近い、中間的な存在といえる生き物がいます。
それが、脊索動物に含まれるナメクジウオとホヤです。ナメクジウオは脊椎(背骨)ではないものの脊索(柔らかい背骨みたいなもの)があります。ホヤは幼生のときだけオタマジャクシのような形をしていて脊索があり、成体になると軟体動物のようになります。
日本における代表的な種であるマボヤは食用にされて、海のパイナップルと呼ばれることもあります。深海のパックンフラワーことオオグチボヤもよく知られています。
群体ホヤのウスイタボヤは、金色の星を散りばめた体をしていて、まるで海に咲く花の茂みのようです。(p103-105)
ヒドロ虫やコケムシのように個虫が群体を作ったり、その群体ホヤの一種がマンガの顔のようでかわいいことで有名です。しかしこの画像は、一部でホヤの赤ちゃんと間違って紹介されていて、わたしが最初に見かけた記事もそうでした。
ネットの不思議生物の情報がいかに断片的で問題だらけであるかの一例です。しっかり本を読み、ホヤは脊索動物の一種で、子どもの時だけ背骨のようなものを持ち、オタマジャクシのような姿をしている、という基礎的な知識さえ持っていれば間違いようがないはずです。
以上がレイチェル・カーソンが「海辺」の付録で紹介してくれている動物たちです。これに一通り目を通してから本編を読むと、初めて登場する生き物でも、イメージしやすくなりました。