じつをいうと、古植物学はすでにこうした考え方によって若返りはじめている。その結果、化石には過去5億年におよぶ地球の物語が秘められていることがわかってきた。
よく誤解されるが、化石は「沈黙した過去の証人」ではなく、地球の歴史上に起こったことをずっと記録した、精密なタコメーターなのだ。(p265)
植物は地味です。恐竜の化石は博物館の展示の目玉ですが、植物の化石は片隅に細々と展示されているだけです。
「生きた化石」であるシーラカンスの人気に比べると、同じ「生きた化石」のウォレミマツはパッとしないかもしれません。
でも、植物が出現し、気候を変えた を読むと、そんな認識がガラリと変わります。
著者デイヴィッド・ビアリングはまえがきで「恐竜なんて目じゃない。地球の歴史をもう一度植物を主役にして見直そう」と言い切ります。その宣言どおり、恐竜の物語をはるかに越える規模の謎解きが目白押しでした。(p iv)
たとえば、はるか古代の石炭紀には、見上げるほど巨大なシダ植物の森があり、60cmにもなるトンボ、1mのムカデやヤスデ、1.5mのサソリなどがうろうろしていました。どうして怪獣のような巨大生物が現れたのでしょうか? (p55-46)
北極や南極は、今では永久凍土で木が育たないのが当たり前です。ところが白亜紀や始新世には、なんと青々とした森に覆われていました。亜熱帯の木々が立ち並び、ワニやエイが泳いでいたといいます。どうしてそんなに暖かかったのでしょうか? (p171,xliv)
面白いことに、こうした太古の謎を解き明かす重要な手がかりが植物にあります。冒頭で引用したように、植物の化石は「地球の歴史上に起こったことをずっと記録した、精密なタコメーター」であり、はるか昔の地球はどんな気候だったのか教えてくれるのです。
そうした研究からわかったのは、太古の地球は、何度も深刻な気象危機を経験してきたということでした。そのたびに大量絶滅が起こり、果てしない年月をかけて再び安定を取り戻しました。
空恐ろしいことに、本書によると、現代の人類は、過去の大量絶滅のときと似た気候変動を再現しつつあります。古植物学の研究は、単に過去を解き明かす面白い読み物である以上に、人類の未来の青写真でもあるのです。
わたしが植物が出現し、気候を変えたを読もうと思ったのは、わたしの好きな脳神経科学者オリヴァー・サックスが、生前、「今年読んだノンフィクションのベストワン」だと絶賛していたからです。
ワクワクする科学読み物を楽しみ、そこそこ専門知識を得たいなら、この本はうってつけでしょう。ウイルス騒動で世間が騒がしくなっている今だからこそ、読書を楽しむのにお勧めの一冊でした。
もくじ
これはどんな本?
植物が出現し、気候を変えたがどんな本なのかは、オリヴァー・サックスの寄せた書評を読むとよくわかります。
過去5億年の地球の歴史を周到に論じながら、ぐいぐいと読ませる。ビアリングの語る物語は、10年前なら語り得なかっただろう。
というのも、ここには古生物学、気候科学、遺伝学と分子生物学、化学といった幅広い分野の最新の知見がみごとに統合されているからだ。
ダーウィンの著作を読むときにも似た、深く、静かな読書の愉しみを、この本は私に与えてくれた。
確かにこの本は興奮を誘う、わくわくする読み物です。著者のビアリングは、これは「科学的な推理小説」であり、読む人がより植物への愛着を深めるためのものだ、と述べていました。(p iv)
ちょうど名探偵がさまざまな知識を駆使してトリックを見破るように、著者はさまざまな専門分野の研究をひもといて、いかに古代の地球の謎が解かれてきたかをドラマティックに語ります。
わたしは探偵小説好きですが、血なまぐさい殺人や犯罪を題材にしなくても、推理小説を書くことはできるのだと、この本から教えてもらえました。
むろん「死んだ」化石が手がかりが手がかりになり、どうやってある生き物が「殺されたか」の謎を解くという意味では、もっと多くの命と死が関わっているともいえますが。(p4)
科学史に関わる人物のストーリーが生き生きと描かれているのも、群像劇らしくて読んでいて楽しい点です。自然界が「犯人」だからといって、人物描写の味気なさはまったく感じられません。(p8-9)
「本文中から専門用語をなくそうと、できるかぎりの努力をした」とあるように、専門的な科学知識を扱う本としては異例なほど読みやすく、気取った推理小説を読むよりも易しいほどでした。(p v,7)
この本の刊行は2007年なので、今となってはいささか情報が古いかもしれません。でも、それを補ってあまりある面白さに引き込まれる一冊です。
100%の正確さを期待していたら、どんな科学の本も読むに耐えません。10年以上前の本ならなおさらです。サックスが引き合いに出してたいたダーウィンの本だって、今読めば間違いだらけです。
それでもダーウィンやサックスの本のおもしろさは、一見無関係なバラバラの証拠を、博物学的な知識を使って結び合わせ、思ってもみない全体像を描き出すところであり、この本もまたそうです。
読書していて、こんなに楽しいと思ったのは久しぶりでした。惜しむらくは、こういった面白い内容かつ良い翻訳の本と出会える機会がめったにないことかもしれません。
植物ー太古の大量絶滅の目撃証人
わたしは自然が大好きですし、生態系の保護にも関心があります。現代の人為的な気候変動の被害や、絶滅していく動植物について知ると胸が痛みます。地球はこの先どうなっていくのだろう、と感じます。
でも、この本を読めば、過去の地球はもっととんでもない場所だったことが明らかになります。
たとえば、過去の土壌の研究によると、古生代のある時期、二酸化炭素濃度が現在の15倍だったことがありました。植物たちは豊富な二酸化炭素という豪盛な食卓を楽しみ、植物版「カンブリア爆発」のような種の多様化が起こったそうです。(p32)
中生代には、二酸化炭素濃度がわずか数十年で3倍になり、8℃も気温が上昇したこともわかりました。これはわたしたちが経験した温暖化の10倍です。多くの生き物が死滅し、恐竜時代が始まるきっかけになりました。(p136-137)
ほかにも、よく知られているように巨大隕石が衝突したこともありますし、現代にまで地形の名残りを残す数十万年にもわたる火山噴火によって、極めて大規模なオゾン層の破壊が引き起こされたこともあります。(p107)
こうした天変地異のたびに、生物は大量絶滅を起こし、地球も大ダメージを受けました。科学者たちの推定によると、過去5回ないしは6回の大量絶滅があったとされています。
それでも地球は何十万年、何百万年の歳月をかけて復活しました。生き物たちも、大量絶滅のたびに顔ぶれを変えつつ、現在まで繁栄してきました。ペルム紀の大量絶滅の際には種の95%が失われたとされるにもかかわらず、多様性は復活したのです。
しかしながら、どうしてそんな太古の気候がわかるのでしょうか。30年前の天気なら、気象庁が蓄積してきたデータを調べればわかります。しかし、この本で扱われているのは何百万年前から、何億年前といったスケールの気候なのです。
たとえば、過去の大量絶滅のうち、2億年前の三畳紀の大量絶滅は、化石の手がかりも少なく、最も厄介だとされていたそうです。「三畳紀末に動物の多様性が減った原因については議論しても無駄だ」とまで言われる、いわば迷宮入り難事件でした。(p128,272)
かつては、そんな古い時代の地球の気候を知るすべはありませんでした。しかし、研究の進歩とともに、当時のことを知る目撃証人が存在する、ということが明らかになりました。
ということで、肝心な部分を含んでいたはずの海の記録のほとんどが「行方不明」だとしたら、代わりに植物の化石記録から、これを明らかにするしかない。
なぜ植物かというと、陸や海の動物が滅びてしまったなか、植物は絶滅を免れたからだ。
…植物はふつう、動物よりは大量絶滅を乗り切りやすい。植物なら、種子をばらまいたり地下に球根を作るなどして次世代を確保できる。いつか環境が改善されたら、こうした種子や球根から復活すればいい。
…2億年前の災難においては植物の粘り強さが功を奏して、三畳紀の終わりについてもたくさんの化石を古生物学者に残してくれた。(p133)
真打ち登場。植物ってかっこいい。
そう感じさせられる熱い展開です。このブログでも、以前の植物の生き物としての特殊性に注目したことがありました。
植物は、危機に直面したとき、動物のように「闘争・逃走反応」によって身を守ることができません。今いる場所から動くことができないので、逃げる代わりに、さまざまな能力を発達させました。
ある意味でそれは、危機に面して逃げ場がない状況の人間の反応とも似ていました。嵐のような苦難を生き延びるため、異常な環境にさえ適応し、並々ならぬ忍耐強さを発揮するのです。
このブログのテーマとして扱ってきたように、人間の場合、恐ろしいトラウマを生き延び、異常な環境に適応してきた人は、身体にトラウマの痕跡が刻まれることがわかっています。
同じように、植物も、異常な環境に適応して生き延びたとき、その体に何らかの痕跡が刻まれます。
たとえば、この本で重要な手がかりとされているのは、植物の化石から読み取れる気孔の数です。近年の研究からわかったのは、植物の葉の気孔の数は、大気中の二酸化炭素濃度に応じて変化する、ということでした。(p33-35)
科学者たちは、今や、植物の化石に残された、異常な環境に適応した痕跡に気づけるようになりました。また、コンピュータの進歩によって、過去の地球の気候をシミュレーター上で再現し、テストできるようになりました。
こうして、各地の博物館に眠っていた貴重な植物の化石群が、一躍、注目されるようになりました。今まで見過ごされていた太古の証人の目撃証言を聞けるようになったのです。
それまでの数十年、グリーンランドの東海岸から発見された葉の化石は、コペンハーゲンにあるデンマーク地質博物館に眠ったまま忘れ去られていた。
それがここにきて、気候変動を明らかにするドラマチックな証拠として活躍することになったのだ。
そしてなんと、二酸化炭素濃度が三畳紀とジュラ紀の境で急上昇したことが初めて明らかになった。(p135)
今まで研究者たちが「議論しても無駄だ」と匙を投げていた三畳紀末の大量絶滅の謎が、化石化した植物の証言によって解き明かされ始めたのです
本書では、こんな劇的な瞬間が何度も訪れます。植物という物言わぬ証人の声を解析する手法が見つかり、迷宮入りの難事件の謎が、ついに白日の下にさらされます。ぜひこの本を読んで、その興奮を味わってほしいと思います。
温暖化で破滅に向かう人間と似ている?
この本を読んでいると、思わず植物に感情移入してしまうことが何度もあります。推理小説の登場人物に共感するように、植物の生き様に心揺さぶられるのです。
植物は動物と同じような脳は持っていません。脳にともなう意識の中枢も存在しません。だから、植物とヒトを含む動物が全然違うのは当たり前です。
しかし、植物は高度な感覚器官を持っていて、周囲の状況を常に監視し、記録しています。光合成という「まれに見る複雑な経路」によってエネルギーを生産するテクノロジーの塊です。地下には菌糸という“インターネット”も張り巡らせています。(p233)
そのような観点から見ると、植物は産業革命以降の人類にも匹敵する、大規模な文明を築いているともいえます。命のあり方は違えど、人類の文明よりはるか先を行く、地球の生命体としての先駆者です。
だからこそ、と言うべきでしょうか。現代の人類が歩んでいる破滅への道筋を、植物もはるか太古に突き進んでいたことがあります。
時は古生代、3億年か4億年以上も前のことです。最初期の植物はなんと「葉」がありませんでした。なんと茎だけで光合成を行っていたのです。
それが明らかになったのは1859年、ウィリアム・ドーソンというカナダ人が葉のない植物の化石を発見したときでした。のちにイギリスの植物学者ウィリアム・ラングがより完璧な化石を発見し、「クックソニア」(Cooksonia)と名付け、1937年に論文で報告されました。
やがて研究が進むにつれ、とても奇妙な事実が明るみに出ました。わたしたち現代の人類は「葉」があってこそ植物だと感じますが、はるか太古においてはそうではなかったようです。
化石の記録によると、植物版のカンブリア紀大爆発が起こっても、なぜか葉は最後まで登場しませんでした。葉をもつ最古の樹木アーケオプテリス(archaeopteris)の仲間が現れたのは、じつに4000万年も経ってからでした。(p23-26)
どうして、そんなにも長いあいだ、植物には葉がなかったのか。それがこの本の第一章のテーマです。詳しくは書きませんが、最初の章からわくわくする論理的な推理が展開されるので、読み応えがあります。
興味深かったのは、植物はもともと、葉を作り出す潜在的な能力を持っていたようだ、ということです。歴史のある時点でいきなり、盲目的な偶然による突然変異によって葉が獲得されたわけではなかったのです。
植物が葉を作り出したのは偶然の変化ではなく、必然の適応によるものでした。簡単にいえば、大気中の大量の二酸化炭素濃度が低下して、制約が取り除かれたことで、植物が自由に葉をつけられるようになりました。
著者はこれを、「遺伝子の潜在的可能性と環境が用意したチャンス」の巡り合わせで起こった変化だと描写しています。(p44)
わたしたち人類の歴史でも、同じようなことがよくあります。
たとえば、ルネサンス期に芸術が爆発したのは、たまたま才能のある人ばかり生まれたからではありません。もともと芸術の才能がある人は人類に一定割合いると思われますが、それを後押しする特異な環境が現れたとき、一斉に開花しました。
現代の女性の社会進出もそうでしょう。昔から男性にも女性にも才能ある人はいましたが、女性の活躍は環境という制約に阻まれていました。
面白いことに、古生代において、葉を作る制約となっていた大量の二酸化炭素濃度を低下させたのは、植物たち自身だったようです。恣意的ではないにせよ、何百万年もかけて、自分たちが飛躍できる環境を作り上げたのです。(p48)
人類もまた、数百年の歳月をかけて、集団として社会の仕組みを変えてきました。法を整備し、技術を発達させ、人権意識や生活の利便性を高めてきました。今日男女問わずさまざまな背景の人が活躍できているのは、先人の集団的努力あってこそのものです。
しかし、文明の急速な発展には、思いもよらぬ落とし穴が待ち受けているものです。人類の場合、産業革命以降、地球の環境をひどく破壊してしまい、異常気象を招き、「第六の大量絶滅」のただ中にいます。
植物もじつは同じでした。植物が驚異的なエネルギー生産装置である葉を作り出すという「産業革命」を成し遂げた結果、地球のバランスは大いにかき乱されました。
陸地の緑化、そして葉と深い根をもつ植物の森林化は、岩石の風化を促進した。その規模は予想を超える大きさであり、その結果、大気中から大量の二酸化炭素を奪い去った。
…二酸化炭素の濃度が下がり温室効果が低下して地球の気温が低くなっていった。
地球が雪の玉へと変わる大惨事に近づき、植物自体そのほかさまざまなものの存続が危うくなったころ、ようやくサーモスタットのスイッチが入った。
寒冷な気候では岩石の風化速度が落ち、大気から取り除かれる二酸化炭素の量も減った。気候は安定化し、植物も窒息状態に陥る事態を免れた。(p48)
光合成のエネルギーに後押しされて発展した植物の文明は、二酸化炭素を取り除きすぎて、あわや氷河時代という大惨事へ向かうところでした。地球の気候が安定するまでに、きっと数多くの動植物が死滅したことでしょう。(p275)
人類もまた、産業革命によって、エネルギー生産を加速させました。植物のときとは逆に、温室効果ガスを増加させすぎて、地球は燃えています。どちらにせよ、大惨事の手前まで来ているのは同じです。
このたびも、過去と同じように、ぎりぎりのところでサーモスタットのスイッチが入るのでしょうか。たとえそうであるにしても、かつての植物と同様、人類もまた、種族として首の皮一枚で生き延びられるかどうかでしょう。
植物にもある「ウサギとカメはどちらが速いか」
植物に人間らしい親しみを感じてしまうエピソードはほかにもあります。たとえば、有名な「ウサギとカメはどちらが速いか」という古い童話の植物バージョンともいえる研究です。
論争のきっかけは、北極の森で発見された植物の化石です。わたしたちの常識では、北極や南極は極寒の世界かもしれません。しかし冒頭でも触れたように、化石が物語るところによれば、過去には森林で覆われていました。
私たちにとって、極地に森があるというのは異常な状況に思える。しかし実際には、森があるほうが地球にとってはふつうだったらしい。
…過去5億年のうち80%近い期間は、極圏まで森が広がっていたらしい。(p169-170)
当初、北極で発見された化石のほとんどは、メタセコイアのような落葉樹でした。そのため、ある人たちは、次のようなまことしやかな説明を考え出しました。
「こうした木々の落葉する性質は、暖かくて暗い極地の冬を生き抜くために適応した結果」であり、「常緑樹は暗い冬のあいだ、呼吸で自分たちの蓄えを浪費してしまう」ため、極圏では生き抜くことができないのだ、と。(p177)
過去の地球では、北極や南極の付近も、植物が生育できるほど十分暖かかったことがわかっています。しかし、地球の自転軸の傾きは変わらないので、たとえ暖かくても極圏には白夜と極夜が訪れます。
このような環境では、夏だけ光合成して休む“ウサギ”のような落葉樹のほうが有利で、一年中コツコツと光合成する“カメ”のような常緑樹は不利だと考える人がいたのも不思議ではありません。
この説は広く受け入れられ、教科書にも載るようになりました。しかし、それを裏付ける証拠はありませんでした。ただ「もっともらしい」「直感的」というだけで受け入れられてしまったのです。
推測だけで事実に乏しい「学説」が、直感以上のなんの支えもないまま、…本などを通して次の世代へ伝わっていくうち、この説は、学説というより信仰に近いものとなっていった。(p179)
科学の世界でどうしてこんなことが起こるのだろう、と思うかもしれません。でもわたしたちの身近にも、これと似たような例はいくらでもあるのではないでしょうか。
たとえば、このブログで過去に扱った例としては、「朝型」と「夜型」の問題があります。朝型は健康的で勤勉、夜型は不健康で怠惰、というステレオタイプが広がっています。もっともらしい説だからです。
ほかにも、男性のほうが女性より経営に向いているとか、どの人種のほうがより誠実だとか、挙げればいろいろあるでしょう。
証拠によって確かめられたわけでもないのに、直感的に正しく感じられる、というだけで広がっている概念は枚挙にいとまがないでしょう。きっとわたし自身も、きちんと確かめもせず信じ込んでいる通説がたくさんあるはずです。
落葉樹のウサギと、広葉樹のカメはどうだったのでしょうか。頭の中で考えるだけでなく、きちんと事実を観察できる人なら、反証は容易でした。
たとえば、高緯度地域にある植物園に証拠がありました。植物園では、温室の中で世界の樹木を育てますが、日照時間までコントロールしているわけではありません。
ということは、過去の地球と同じ状況、つまり熱帯の植物が育つほど暖かいにもかかわらず、季節によって日照時間が大きく変化するという環境がそこにある、ということになります。
そうした温室にある植物は、熱帯の常緑樹であっても、普通に花を咲かせ、実をつけていました。長く暗い冬がやってこようが関係なかったのです。
やがて、ハイテク技術を使って、過去の地球の高緯度地域を再現した環境で、実際に常緑樹と落葉樹の成長を比較し、代謝物も測定するという、もっと大規模な実験が行われました。その結果は驚くべきものでした。
実験の結果、わかったのは予期しないことで、それなりにセンセーショナルだった。苦労して手に入れた炭素を湯水のように使っていたのは、常緑樹ではなく落葉樹だった。
計算してみると、常緑樹が冬に呼吸で失う炭素より、落葉樹が葉を落とすことで失う炭素の方が20倍も多かった。(p182-183)
過去の極圏では落葉樹が有利だという説は、日照時間が長い夏だけ光合成するほうが効率がよいはずだ、という理由によるものでした。ところがいざ実験してみると、むしろ効率が悪いという正反対の結果が出たのです。
ほかにも幾つもの実験がこの事実を裏付けていました。そしてとうとう落葉説にとどめを刺す証拠まで現れました。南極やニュージーランドの化石に常緑樹も高い確率で含まれていたことがわかったのです。(p186)
結局のところ、常緑樹も落葉樹も、異なるメリットをもった、植物の多様性の一部だということがわかりました。
ウサギとカメのような違いはあれど、どちらがより優れている、というわけでもなく、どちらも極地の冬にうまく適応して生きることができたのです。
一年をトータルで考えれば、落葉ウサギと常緑ガメの競争は引き分けなのだ。
落葉樹は、すべての成長を短い夏に賭ける。常緑樹は、もっとのんきに二酸化炭素を吸いつづけながら、日照と気温が許すかぎりゆっくりだが着実に成長をつづける。
結局、炭素の貯め込み方のパターンは異なるが、最終的には一年でだいたい同じ程度の生産量を達成し、引き分けることになるのである。(p187)
ごく身近に目にする常緑樹と落葉樹という樹木の生活スタイルに、それぞれメリットやデメリットがあるだけでなく、長い目で見れば「引き分ける」ことを知ると感心させられます。
この本ではほかにも、大きな葉と小さな葉、鋸歯(ギザギザ)のある葉とない葉、C3型光合成とC4型光合成など、植物の多様な生存戦略のメリットとデメリットなどが科学的に考察されています。
どちらかがより優れている、というわけではないので、植物界の頂点に立つ最新型の高性能な種は存在しません。それぞれに利点と欠点があり、異なる場面で強みを発揮し、共存することができます。
こうした植物の多様な生き方を知ると、身近な植物を見る目が変わります。そして人間社会の多様性についても、見方が変わります。
どちらがより優れているか、といった目線ではなく、異なる長所を持ち、異なる環境に適応した人々という観点から物事を見れるようになります。
証拠がないのに「一見説得力があり、実感に逆らわない」説に出くわしたときは、探偵のような目で、よく観察してみる必要があります。高緯度地域の植物園の温室で育つ常緑樹のような反証がないでしょうか。(p187)
チャールズ・ダーウィンは、「何かの事実や観察結果、新しい考え方が発表され、それが自分の出した結果に反している場合、必ずすぐにメモしておく」習慣を持っていたそうです。
常に、自分の考えに反する事実に目ざとくあり、立ち止まって考えるようにするなら、ただ「直感的である」「実感に即している」というだけで信じてしまうことはないでしょう。
次の印象的な言葉を、ぜひ覚えておきたいと思います。
実際、科学の進歩というのは「ユリイカ!」などと叫ぶような形で得られることはまれで、多くの場合、あまり幸せそうには聞こえない「ちょっと待てよ……」というつぶやきとともにはじまる。
しかしそれは、研究の歩みとともに何か刺激的なことが進行しつつあるというサインなのだ。(p283)
直感的なひらめきも取っ付きを得るには役立ちます。でも本当の進歩に必要なのは、違和感を覚えて足を止め、じっくり観察し、考えることなのです。
植物は現代の大量絶滅の証人でもある
この本を読んでいると、植物が人間らしく感じられ、親しみがわきます。しかし、植物が人間らしい、というより、人間が植物らしい、つまりヒトも地球に生きる他の生物種と大差ない存在なのだ、と言ったほうがいいのかもしれません。
少なくとも、感染症で世界的な危機が訪れているのに、いまだに分裂し続けている人類を見れば、過去に大量絶滅に面した他の生物と大差ないか、より愚かしい行動しかできていないようです。
今のところ、人間が引き起こしてきた環境の異変は、過去の大量絶滅のときほど極端にはなっていません。しかし変化のスピードは過去とは比較にならないほど急速です。
過去の気候の変動の多くは何百万年もかかって進行しましたが、人類の手による気候変動は、わずかここ200年ほどの間に起こりました。
私たちが生きる時代には、人間による環境への影響が日に日に大きくなっている。
実際、環境に対する人間社会の影響があまりに強いので、現在の地質時代には新しく「人類世(人新世)」という名がついているくらいだ。
氷床コアに閉じ込められた過去の大気の泡を分析すると、地球の大気中の二酸化炭素濃度が18世紀後半から増加し始めたことがわかる。
これはちょうど、スコットランドの発明家ジェイムズ・ワット〔1736-1819〕が蒸気エンジンを設計した時期にあたる。そのため、この時期が人新世の始まりとされている。(p10)
人新世が始まったのはわたしたちが生まれるずっと前ですが、人類の歴史としてはごく最近で、地球の歴史としては一瞬です。
あまりに変化が急激に起こっているため、生物体としての人間も、環境の変化についていけず、適応不良を起こすことがあります。前に書いたとおり、現在急増するグレーゾーン的な発達障害の一因はそこにあると思っています。
過去の大量絶滅のとき、生き残った植物たちは、目撃者として、その変化を体に記録していました。今日の進行中の六度目の大量絶滅の場合はどうでしょうか。もちろんそれも記録しています。
ヴィクトリア時代の人々は、自分の標本が後世でこれほど重要な役割を果たすとは思っていなかっただろう。
…彼らの標本は、西洋で産業革命がはじまり、大気中の二酸化炭素量が増えたとき、植物がそれにどう反応したのかを示していた。
標本を調べてウッドワードは驚いた。人間が産業革命を起こしているあいだに、樹木もひそかに革命を起こした証拠が見つかったからだ。
樹木たちは、二酸化炭素の増加に気孔の数を減らすことで対抗していた。南イングランドの樹木の葉は現在、150年前にくらべて気孔が40%も減っている。(p34)
このままだと、はるか遠い未来に、現生人類のことを知らない科学者たちが、地層から発見された植物の葉の化石を調べて、こう言うことになりかねません。「当時のヒトの社会は極端な気候変動で自滅したことが植物の目撃証言からわかる」。
過去の大量絶滅の記録を調べると、不穏な事実も明らかになるそうです。
たとえば三畳紀末の大量絶滅は、二酸化炭素濃度が3倍になり、気温が8℃も上がることで起こりました。これは過去一世紀の人類による変動の10倍にあたるそうです。(p136)
ということは、まだまだ猶予があるということでしょうか。いいえ、実はこのとき、極端に気温が上がったのは、手のつけようのない負のスパイラルが始まったせいでした。
ひとたび気温が上昇すると海流の流れが変わり、海中のメタンハイドレートが溶けて、大量の温室効果ガスが吐き出されてしまったのです。同じことが、現代の温暖化によって起こっても不思議ではないとされています。(p146,148,154,227)
人類が、過去の動植物と同じように絶滅していくか、それとも自分たちの力で絶滅を回避できた知性ある種として名を残すかは、過去から響く声を聞き、教訓を学ぶかにかかっています。
わたしはこの本を読んで、地球やそこにいきる生き物が、いかに見事な仕組みでつながっているかを知って感動しました。
たとえば、地球の二酸化炭素や酸素の循環は、信じがたいほど精巧です。単に動物と植物のみでやりくりしているわけではなく、岩石の風化、細菌による有機物の分解、海流の循環など、地球のありとあらゆる要素がつながっています。(p61-62)
その複雑さは、もはやひとつの専門領域で説明できるものではありません。植物学、生物化学、地質学、鉱物学、その他多くの学問のあわせ技でないと理解できないものです。(p79,81)
何より驚かされるのは、必ず帳尻があうようになっている、ということです。たとえば、植物が酸素を作りすぎたり、人間が二酸化炭素を排出しすぎたりしても、地球の大気の組成が生物が住めなくなるほど悪化して、死の惑星になることはありません。
この本によると、いままで存在した生物種の99%はすでに絶滅しています。ですから、特定の種が生き延びるかどうかは未知数です。(p xxxvi)
しかし、地球そのものは何度も大規模な環境破壊と大量絶滅を経験しながら復活してきました。オゾン層が破れて致死的な放射線が大々的に降り注いでも、地球は回復しました。
ですから、今起こっている環境破壊や気候変動によって、地球が破滅する可能性はないでしょう。人間が環境保護を叫ばなくても地球は生き延びます。何十万年もかけて再生し、再び水と緑の惑星に回復するポテンシャルが地球にはあります。
宇宙物理学者フレッド・ホイルは、この巧妙さに感銘を受けて、宇宙はまるで事細かにチューニングされて「仕組まれた」ように思えると述べたそうですが、わたしもそう感じます。(p257)
わたし個人に、地球の環境や、人間の将来を変える力はまったくありません。未来を憂いたところで何もできません。わたしにできる唯一にして最大のことは、この地球を愛して今を生きることです。
著者は冒頭でこの本に次のような願いをこめたと述べていました。
私としては、植物のさまざまな活動を新しい視点から明らかにすることで、本書を読む人がいままで抱いてきた植物への愛着を ー 生きた植物も、とうの昔に死んでしまった植物も含めて ー より強く感じてくれることを願っている。(p iv)
わたしは、この本を読んで、どんな推理小説やノンフィクションにも増して、物語の舞台である地球と、登場人物である植物や他の生き物たちが愛おしくなりました。そして、もっと地球の仕組みや生き物について知りたいと思いました。
この地球の永劫の歴史からすれば、わたしはほんのちっぽけな、霧にも等しい命かもしれません。それでも、ますます植物が好きになりましたし、それ以上に、このすばらしい惑星に住んでいることを誇らしく感じます。
すでに自然が好きな人はもちろん、推理小説好きな人にも、植物が出現し、気候を変えたは特におすすめできる一冊です。
補足 : コロナ禍で地球薄暮化が改善するとどうなるか
植物が出現し、気候を変えた の第8章を読んでいて、はじめて「地球薄暮化」(Global dimming)なる現象を知りました。
これは2005年ごろセンセーションを巻き起こした概念で、産業排出物としてのエアロゾルなどが空を覆うことで、太陽光が減り、地球が寒冷化してきた、という内容だそうです。
実際に、世界的に太陽光が減少していること、そのせいで(温暖化で気温が上がっているにもかかわらず)水の蒸発速度が遅くなっていること、昼夜の気温差が減っていることなどのデータから裏付けられているようです。
薄暮化は温暖化とは逆の性質を持っています。この2つが同時に起こることで、温暖化の進行が抑制されている可能性が指摘されています。
日本語の情報を探してみると、今から15年くらい前の当時に書かれた、グローバル・ディミング〜温暖化は実際にはもっと強烈かもしれない(2006.03.10)|イーズ 未来共創フォーラムという記事が見つかりました。
温暖化と薄暮化が同時に起こっている今の状況が、次のような秀逸なたとえで、わかりやすく説明されていました。
言ってみれば、一つの部屋の中でストーブをどんどんたいている。
薪をどんどんくべているけれども、それほど室内の温度は上がっていない。
安心していたけれど、ふとクローゼットを開けてみたら、そこに強力なクーラーが働いていて、部屋の温度を一生懸命下げていた、ということがわかった。そのような状況ではないでしょうか?
気がかりなのは、もしこの薄暮化という隠れたクーラーを止めてしまうと、より温暖化の影響がダイレクトに出てしまうかもしれない、ということです。
たとえば、もし無計画に温暖化対策や環境保護だけを叫んで地球の大気をきれいにしてしまったら、逆に温暖化が加速してしまう可能性があるかもしれません。ビアリングはこう危惧しています。
しかし皮肉なことに、空気がきれいになればなるほど、私たちは温室効果ガスの増加によって起こる気候変化の影響を受けやすくなるという。
では、いま私たちが踏んでいるブレーキを弱めると、…明るくなった空の下、温暖化が劇的に進んでしまうのだろうか? (p280-281)
空のエアロゾルはすぐにきれいになりますが、温室効果ガスは数百年大気中にとどまりつづける性質があります。すると、エアロゾルによる寒冷化だけが取り除かれ、本来の補正値なしの温暖化が牙がむくかもしれません。
一例として、9.11同時多発テロのとき、たった3日間アメリカの民間航空機が停止しただけで薄暮化が改善され、気温の日較差が3倍になる、つまり日光を跳ね返していた水蒸気のバリアが薄れるという現象が観測されたそうです。(p282)
この本が書かれた時点では、断片的な証拠はあれど、本当のところどうなるか、結論は出ていませんでした。
その後も、英語のニュースを調べてみても、散発的に話題になるくらいで、特に大きな進展はなかったようです。
しかし今年、2020年、地球薄暮化に再度注目が集まるような出来事が起こりました。コロナによって経済活動が停滞し、今までになく大気汚染が改善される地域が出てきたのです。
中国で大気汚染レベルが低下、新型ウイルス流行による経済停滞も一因=NASA – BBCニュース
コロナによる各国の大気汚染改善のニュースは、おおむね好意的に受け止められていました。しかし事実はどうなのでしょうか。
あまり話題にはなっていませんが、地球薄暮化の改善が、異常な高温を増加させる、と指摘している研究者もいるようです。
インドとパキスタンで「50.0℃」、コロナで気温上昇の可能性も(森さやか) – 個人 – Yahoo!ニュース
英レディング大学のローラ・ウイルコックス教授らは、次のような研究結果を発表しています。
大気汚染物質が急激に減少した場合、一年で最も暑い日の気温が、2050年までに最大4℃上昇して、気候変動を加速させる可能性があるー。
現に今年の9月は観測史上最も暑く、年間としても1位から3位のどこかになるだろうと言われていました。
先月は観測史上最も暑い9月に EU機関発表 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
2020年は観測史上最も暑い年の3位以内、1位の可能性も 国連 写真6枚 国際ニュース:AFPBB News
大気汚染の改善がどの程度これに影響していたのかはわかりません。それでも銘記する必要があるのは、気候変動には、思ってもみないような予想外の現象もありうる、ということです。
植物が出現し、気候を変えたを読むと、地球のさまざまな部分が、びっくりするようなつながりを持っていることがわかります。
たとえば、「土壌の微生物が窒素酸化物を作り、その窒素酸化物が触媒となって何キロも上空のオゾンを破壊する」というような関連性です。嘘みたいな話ですが、この関連性を発見した科学者ポール・クルッツェンはノーベル賞に輝きました。(p91)
地球には、まだまだわたしたちが知らないフィードバック網がたくさん秘められていることでしょう。人類の理解が浅すぎて、いまだ重要な要素を見落としている可能性が常にあります。
人はみな「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)に陥りやすく、手持ちの情報だけで最善策を考えがちです。
この世界の事象はあまりに複雑で、神ならざる身の人間には把握しきれません。1つの問題を科学で解決しようとして、別の2つの問題が現れることが繰り返されてきました。
良かれと思って感染症撲滅のために抗生物質を開発して、急性疾患に対する勝利を収めたことが、のちのち自己免疫疾患などの慢性病を爆発的に増加させるばかりか、耐性菌の逆襲にも遭うなどと誰が予測したでしょうか。
産業革命にしても、核開発にしても、緑の革命にしても、自動車の普及にしても、人間はいつでも、目先の問題の解決のために全力を注いで、その結果、まったく予想だにしない結果を刈り取って、かえって自分の首を締めてきました。
気候変動問題も同じ落とし穴が潜んでいるかもしれない、とわたしは危惧しています。
それは地球薄暮化という緩衝材がとりのぞかれることによる温暖化のさらなる悪化かもしれませんし、いまだ明らかになっていない未知の要素の表面化かもしれません。
わたしは個人として自然をこよなく愛していますし、環境に配慮した生活を心がけたいと思っています。しかし同時に懐疑的ですから、安易な気候デモや環境保護活動が、本当に「正しい」といえるのか、やみくもに支持することはできません。
どのみち、時代の流れを変える力は個人にはありません。人間は自分の習慣を変えるだけでも難しいのに、どうして他人を、そして社会をさえ変えられると思い込むのでしょうか。
変えることのできないものを変えようとしても、シーシュポスのような徒労を味わうだけです。他人や社会に干渉するより、自分の生き方を顧みて、生活の質を向上させるほうがいいでしょう。
これから人類を取り巻く環境は、いよいよ悪化の一途をたどることが予想されます。いま自分のライフスタイルを吟味する時間をとることは、これからの時代を生き抜く糧となるはずです。