このブログでは、TwitterとFacebookページで最新記事のお知らせをしていましたが、利用をやめることにしました。SNSを通してアクセスしてくださっていた方々には、ご不便をおかけしてしまい申し訳ありません。
SNSの利用にはメリットもたくさんあったのですが、最近の下記の記事で元Facebook社長が述べているような、さまざまなデメリットにもずっと悩んでいました。
元Facebook幹部が「Facebookは社会を分断させた」とSNS全体について語る – GIGAZINE
「Facebookは人間心理の弱点を突いている」:初代CEOのショーン・パーカー氏 – CNET Japan
人の弱みに付け込むモンスターを生み出した ?? 元フェイスブック社長らが語る後悔とは | BUSINESS INSIDER JAPAN
「それが子どもたちの脳にどのような影響を与えているかは、誰にもわからない」
フェイスブックの創業から1年弱の2004年に同社に参加し、初代社長を務めたショーン・パーカー(Sean Parker)氏は、Facebookについて気掛かりな警鐘を鳴らしている。
こちらのニューヨーク・タイムズ誌の翻訳記事では同様の意見を持つ人たちが増えていることを示しています。
デジタル依存症に業界関係者もついに警鐘を鳴らす [The New York Times] | cafeglobe
わたし個人が、過敏すぎて悩んでいたのならともかくも、ツールの開発者たちがそのデメリットを認めているのであれば、自分の健康や創造性を守るために、あえて世の中の流れと違う方向を選びたいと思いました。
誤解のないように最初に書いておきますが、わたしはテクノロジー嫌いではありません。今まで10を超えるSNSを使ってきましたし、とりわけ愛して入り浸ったSNSでは、フォロワーが1000人以上いたこともありました。
大半の人より積極的に色々なツールを使ってきましたが、それでも今になって、SNSをやめたほうがいいと感じるようになった理由を5つほど書いておきます。
もちろん、これはあくまでわたしの場合の話、ただ個人的な気持ちによるものであって、いまSNSを利用している人たちを批判する意図はありません。
もくじ
1.外的報酬より内的報酬で書きたい
わたしは、TwitterやFacebookを利用しているとき、「いいね」やそれに類する機能をまったく使っていませんでした。以前は、シェアやリツイートを時々使っていましたが、ここ一年はそれらも使わなくなりました。
そうした機能によって評価したり情報を広めたりすることに違和感を覚えていたためですが、今回の記事で、Facebook元社長のショーン・パーカーが述べていることが、わたしの感じてきた気持ちに近いと思います。
「『どうすれば、ユーザーの時間や意識、注目を最大限に奪えるか? 』という、Facebookをはじめとしたアプリ開発者の思考プロセスが全てを物語っている」とパーカー氏は言う。
「そのためには、ユーザーの写真や投稿などに対して『いいね』やコメントがつくことで、ユーザーの脳に少量のドーパミンを分泌させることが必要だ」と同氏は指摘する。
「そうすることで、ユーザーがより多くのコンテンツを投稿するようになり、ユーザーはコメントやいいねを更にもらえるようになる」
「これが、社会的評価のフィードバック・ループだ……人間の心理に存在する『脆弱性』に付け入る、私のようなハッカーが思いつくような発想だ」と同氏は付け加えた。
SNSの利点は、反応がつくことでやる気が出ることですが、そのやる気は、外的報酬によって引き出されるものです。
反応があれば嬉しくて、さらに情報を発信するようになりますが、やがて反応を気にしすぎるようになります。反応がどれだけあるかないかに一喜一憂しはじめ、もし想定よりも反応が少なければ、イライラしたり、落ち込んだり、意欲を失ったりします。
わたしはハイパーグラフィア気質なので、普段、内的報酬のために文章を書いています。ただ自分が書きたいから文章を書くのであって、人からの評価は気にしていません。
しかし、SNSを利用しはじめ、反応が返ってきてしまうようになると、いつの間にか内的報酬が外的報酬にすり替わってしまうような気がしました。無意識レベルで人に好まれやすいものを書こう、という気持ちが入り込んでくるような危惧がありました。
本当は、ただ自分の本心を吐露したいがために始めたSNSでも、どれだけ見られたか、評価されたかが気になり始めると、より多く反応をもらえるような文章や画像をシェアしたい、という意識が働いてしまうものです。
わたしがときどき読ませていただいているブログの以下の記事は、ここで言いたいことをよく表現してくれています。
20年後に再評価されるYoutuberとかいるのだろうか? – 未翻訳ブックレビュー
わたしはこの記事で言われている、評価を求めるために創作するという「他人の評価へのオーバーフィッテング」を避けたいがためにあえて時代に逆行したわけです。
わたしはSNSを通して、批判的なコメントをもらったことはほとんどなく、ほとんど温かいコメントばかりだったので、とても感謝しています。
しかし、この記事が示唆しているように、良い評価こそがかえってオーバーフィッテングを引き起こしやすいように思えたのも確かです。
書きたがる脳 言語と創造性の科学 にあった、次の説明を思い出しました。
意欲ある作家はすべて自分の作品に熱中する。
だが好奇心や喜びなどの内的な意欲に駆られた人々と、賞賛や金銭や常に変転する世間の批評などの外的な動機に動かされる作家とでは、仕事に対する取り組み方が異なる。
言葉に魅せられた作家は、世間を満足させられればいいと考える作家よりも細部にこだわり、創作全体の手触りにこだわる。
強い内的な動機は創造性を増大させるが、驚いたことに、そこに外的な動機が加わるとーそれがプラスの動機であってもー創造性を低下させることがある。(p82)
わたしも、「外的な動機が加わるとーそれがプラスの動機であってもー創造性を低下させる」のを、どうしても感じてしまいました。
2.「いいね」やコメントによるドーパミン依存
ショーン・パーカーは、SNSの仕組みは「ドーパミンを分泌させる」ことで成り立っていると述べていました。
何年も前のことですが、わたしは、今は無きとある別のSNSを日常的に使っていて、そこでの評価が気になるあまり、一日に何度もタイムラインを確認したり、通知を開いたりしてしまうことがありました。
最初、自分の投稿に、いいねやコメントが返ってきて即席のフィードバックがあると、すごく嬉しいものですが、そのときの快感がやみつきになってしまいます。
やがて、SNSの反応と、ドーパミンの分泌とが条件付けされてしまい、それなしではやっていけなくなります。四六時中SNSを気にするようになりだしたら、すでにドーパミン依存に陥っています。
さっきの記事で、グーグルの元幹部トリスタン・ハリスの、次のような言葉が載っていました。
「人々の時間は貴重だ。そしてこれは、プライバシーやその他のデジタル権利と同じくらい厳格に保護されるべきだ」
もしも、一日に何度もSNSのタイムラインを見ているとしたら、すでに立派なSNS依存だとわたしは思います。長いスパンで見れば、どれだけ貴重な時間が無為に費やされているかぞっとします。
ドーパミン中毒の話で思い出すのは、岡野憲一郎先生がよく引き合いに出しているジェームス・オールズ教授とピーター・ミルナー教授による「レバーを押し続けるネズミ」実験です。
そのネズミは、あるレバーを押すと、脳の快感中枢に刺激が伝わる仕組みの装置につながれました。レバーを押すことで快感のドーパミンが放出されることを覚えたネズミは、快感を求めて、一時間に2000回も、寝食を忘れてレバーを押し続けたそうです。
この原理は、現代のテクノロジー社会の収益システムに応用されています。SNSの社会的評価のフィードバックループ、射幸心をあおるガチャ、買い物依存症、ポルノ中毒などなど。
さすがにこのネズミほどドーパミン中毒になる人はまれですが、一日に何度もSNSの通知を確認してしまう人はれっきとした予備軍ではないかと思います。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 という本の中で、注意力の専門家である認知心理学者デヴィッド・ストレイヤーとポール・アチェリーはこんなやり取りをしていました。
「ぼくの言っているテクノロジーは、電話、テレビ、デジタル・メディアのたぐいです」と、ストレイヤーが応じた。「刺激が強くて、ちかちかして、おそらくは依存性もある」
熱を帯びた口調で、ポール・アチェリーが言った。「36%の人が、セックスの最中にもケータイをチェックしている。それにケータイを離さずに寝ている人は70%もいるんですよ」
ストレイヤーも持論を展開した。「携帯電話を見る回数は1日に平均150回です。10代の子どもは1か月に平均3000回、テキストメッセージを送っています。あきらかに依存症や強迫性パーソナリティ障害の兆候も出ています。(p61)
今回の元幹部によるSNS批判に対して、Facebook側はブログで声明を出し、確かに健康への悪影響を示す研究はあるが、使い方しだいだ、と反論していました。
フェイスブック、元幹部のSNSに対する否定的発言に反論 WEDGE Infinity(ウェッジ)
「フェイスブックはメンタルヘルスに悪影響も。でも使い方次第」とフェイスブック
確かにテクノロジーは使い方しだいだとわたしも思います。たとえば、包丁や飛行機は、怪我をしたり犯罪に使われたりするリスクがありますが、必ずしも悪いものかというとそうは思いません。使い方しだいです。
しかし、この記事で書かれているように、SNSによる子どもや若者の健康被害は、さまざまな研究機関から指摘されてきました。
英国のシェフィールド大学のチームは昨年12月に発表した研究で、10歳から15歳までの子どもたち4000人に対する調査で、フェイスブックなどのソーシャルメディアの利用時間が長いほど、幸福感が低下する、とのデータを明らかにしている(※フェイスブックのアカウント登録は13歳以上)。
わたしのブログで扱っている、子どもの不登校や概日リズム睡眠障害には、LINEをはじめとしたSNS依存がかかわっているケースがあると たびたび指摘されています。
子どもの慢性疲労症候群(CCFS)は、ドーパミンバランスの不安定さが関わっているらしいことが研究でわかっています。
ひとたび、SNSとドーパミンが条件付けされてしまうと、SNSを使っているときはドーパミンが出ても、そうでないときはドーパミンが枯渇してしまうようになり、無気力や、気分の不安定さ、創造性の低下にもつながりかねません。
そんなことを言い出すと、インターネットを利用すること自体、健康に悪影響がある、という極論に行き着いてしまうので、どこかで平衡をとることは必要です。SNSを正しく活用している大勢の人を責めるつもりはありません。
ただ、あくまで、わたし個人がドーパミンが不安定な体質の当事者であり、ショーン・パーカーが指摘する「脆弱性」が強いことを自覚しているので、自分の健康と創造性を守るためにSNSから距離を置きたいというのが本音です。
3.SNSによって情報収集する必要があるのか
わたしがTwitterを始めたのは、Twitterが情報発信や共有のツールとして大変すぐれているように感じたからです。
特に、現実では身近にいないような似た境遇の人とやり取りしたり、まだ記事に書き起こされていない最先端の情報をリサーチしたりするのに、魅力的に思えました。
しかし、SNSで情報収集すればするほど、そこで流れてくる情報には意味がないと思うようになりました。意味がないどころか、必要でない情報のほうが多く、自分の精神的健康に害があるとも思いました。
先程の記事で、チャマス・パリハピティヤが、SNSにおける「情報の欠落と曲解された不正確な言動」を指摘していました。
元Facebook幹部が「Facebookは社会を分断させた」とSNS全体について語る – GIGAZINE
SNSの世界に漂う空気感についてパリハピティヤ氏は、書き込みに対する「ハート」や「いいね」のような仕組みを例に挙げて「私たちが作り上げた、スパンが短く、ドーパミンの分泌によって駆り立てられるようなフィードバックのループが、社会を壊しています」とコメント。
さらに「そこにはソーシャルな会話や協力がなく、情報の欠落と曲解された不正確な言動が存在します。
そしてこれはアメリカだけの問題でも、ロシアが関与したFacebookの広告問題でもなく、地球全体の問題なのです」と、SNSによって社会の成り立ちが変わりつつある現状について語っています。
わたしがSNSでのやりとりをやめたのは、SNS上で、同じ病気の人たちが互いに異なる意見を主張しあって論争しているのを見かけたからでした。真偽もあいまいな情報をめぐり、無意味な争いや対立の火種がくすぶっているように思いました。
SNSを通して拡散される短い文章は、物事の一面だけしか伝えないがため、容易に曲解され、誤解や偏見を生みます。
Twitterでは誤った情報のほうが1.7倍早く拡散されるという研究結果もありました。おそらく極端な内容のほうが人目を引くからでしょう。
The spread of true and false news online | Science
ツイッター:デマは真実より1.7倍「RT」 MIT調査 – 毎日新聞
SNSはしばしば炎上の温床になっていますが、激しく反応する人たちは、前後の文脈を読まずに(あるいは、そもそも存在しないため読めずに)非難することがよくあります。
脳科学が明らかにしたところによると、わたしたちのコミュニケーションの大部分は、非言語的コミュニケーション(顔の表情や、声の調子、身振りなど)からなっているそうです。
短いテキストメッセージだけでは、それらが欠けているので意思疎通に行き違いが起こるのも当然です。
顔文字や絵文字は、欠けている非言語コミュニケーションを補うために編み出された工夫ですが、それにも限度があります。
以下の記事の最後の部分に書かれている忠告は、非常な大きな意味を持っているとわたしは感じます。
分断と対立にうんざり、トランプ支持者とアンチが対話・傾聴する会が全米で人気(The Telegraph) – Yahoo!ニュース
しかし、このやり方が功を奏するのは、面と向かって行う対話だけだと参加者はくぎを刺された。インターネットやソーシャルメディアで同じ手法を取っても、失望に終わる。
スマーリング氏はこう語った。「残念ながら、ネットはまったく別の生き物です」
リアルで面と向かって対話すると、異なる立場の相手とも共通の土台を築き、分断を修復し、歩み寄れる可能性が生まれます。
直接の対話では、身ぶり、顔の表情、声のイントネーションなどの非言語要素によって、言外の感情が伝わるからです。
ところが、それらがまったく廃されているネット上の文章では、互いが互いの言葉を、自分の都合のいいように解釈できます。相手の本心が読み取れないので、終わりのない対立と分断が繰り広げられます。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、ネット上のコミュニケーションが大きなウェイトを占めるようになると、顔と顔をあわせるコミュニケーション能力が低下するという研究もあります。
たしかに近年、社交能力の衰えに関する論文が次々と発表されている。マサチューセッツ工科大学のシェリー・タークルもそう指摘する研究者のひとりだ。
人間関係がアナログからデジタル化するにつれ、共感力が衰え、内省する機会も減っている。すでに退化が始まっているのかもしれない。
タークルがひとつの解決策として控えめに勧めているのは、できるだけインターネットのない環境ですごすことだ。
思いきって人里離れた場所に出かけていけば、否が応でも人と交流することになる。
そうすれば大きな恩恵が得られるのに、そういったことはほとんどかえりみられていない、とのことだった。(p256)
SNSをはじめとするネット上のやり取りによって社交能力が低下するのは、おそらく非言語的情報が欠落したコミュニケーションを繰り返すうちに、非言語的情報の読み取り能力が退化してしまうことによるのでしょう。
わたしは今では、SNSで見知らぬ人とやり取りしたり、情報収集したりする必要をもはや感じていません。
わたしがSNSに魅力を感じていた点のひとつは、最新情報をいち早く発見できることでした。
しかし、よく考えてみれば、最新情報をすべて知ろうとタイムラインに張り付いていなくても、本当に価値のある情報なら、そのうち何かの書籍で読むことになるはずです。
最新情報を一つ残らず見逃さないよう注意しておかなければならない、という強迫観念も、一種のドーパミン依存かもしれません。
そのほとんどは知る必要がない情報ばかりです。知って得する情報より、不必要に気分をかき乱される情報のほうがはるかに多いと感じます。
最新情報を得てして間違いが多いものです。ただセンセーショナルなだけで、まったく実用化には程遠いものや、非現実的なものもあります。
わたしたちの脳は、あらゆる情報を処理できるようにはできていません。
SNSやインターネットで流される不確かな最新情報の洪水に圧倒されるより、信頼の置ける本を読んで、すでに価値が認められた情報に注意を向けるほうが、わたしには向いていると思いました。
SNSは確かに「効率的」な情報収集ツールに見えるかもしれません。現代社会は、「スキマ時間を有効活用する」ためにSNSや各種アプリで効率化を図っています。
しかし、創造性の研究によれば、情報に多く触れすぎることは逆効果です。脳は、タスクを入れず休んでいるとき(デフォルト・モード・ネットワークのとき)に創造性を発揮します。
前に書いたスラックとトンネリングについての研究が、それを裏付けています。余裕のないところから創造性は生まれません。
わたしは自分の精神的健康や創造性を守りたいので、雑多で扇情的な情報であふれるSNSからは距離を置くことにしました。効率だけがすべてではないからです。
4.人間関係から多様性が失われる
わたし自身そうでしたが、身の回りの人たちに理解してもらえない複雑な問題を抱えていると、SNSを通して似た境遇の人に巡り会えたとき、居場所を見つけたように感じて嬉しくなるものです。
しかし、以前の記事で考えたように、SNSの人間関係は、いくら魅力的に思えても、現実の人間関係に取って代わるものではありません。
なまじSNSで居場所ができると、そちらでの関係を大事にするあまり、現実の人間関係を築く努力がおろそかになってしまい、いざ助けを必要としたとき身の回りに誰もいない、なんて事態も起こりえます。
少なくともわたしはそんな傾向がありました。SNSの通知を頻繁に確認し、SNSの友達とやりとりするのが楽しいあまり、普段会う生身の人間とのコミュニケーションが面倒に感じられました。
というのも、SNS上の人間関係は、ある程度、似た境遇同士で集まっているので、(少なくとも表面的なレベルでは)親しくなりやすいからです。
一方、リアルの人間関係は、背景も事情もさまざまに異なる相手がほとんどです。親しくなろうと思えば、よく相手の話を聞き、時間をかけてコミュニケーションする必要があります。
けれども、大事なのはそこではないか、と気づきました。
より大切なのは、似た境遇の人で寄り集まることではなく、互いに境遇は違っても尊重しあえる人間関係を時間をかけて築くことだと思います。
自分と似たような人ばかり探して付き合っているとどんどん見方が狭くなります。自分とまったく違う人と意思疎通をはかるのは苦労しますが、その努力をしなければいつまでも突破口は見つからないと思います。
果たしてインターネットは多様な意見の交流を促進するのか、それとも同じグループで固まっていくだけなのか。
その答えは、WORK DESIGN:行動経済学でジェンダー格差を克服するに載せられている次の研究からわかる気がします。
ある研究によれば、思春期の子どもたちは、通っている学校の規模が小さいほど、多様な友達がいる。
大きな学校は友達になりうる候補者の数が多く、選り好みの余地が大きいため、同じ性別、人種、年齢、社会的、経済的階層の子どもたちが寄り集まり、属性別のグループが形成されやすい。
人は自分と似たような人と一緒にいるのが好きなのだ。
しかし、選択肢が少なければ、属性の違いへのこだわりは小さくなり、異なる集団間の接触が増える。
700を超す別個のサンプルを対象とする500件以上の研究結果を集約した分析によれば、接触が増えると、異なる集団間の偏見が弱まる場合が多いという。
この結果は、心理学の「集団間接触理論」を裏づけるものと言える。(p275)
確かにインターネット上には世界中の多様な意見が集まっていますが、それを閲覧する個々の人間の処理能力のキャパシティには限りがあります。
たくさん選択肢があればあるほど、同じ趣味嗜好の人と出会えるようになるため、それ以外の人たちには見向きもしなくなります。直観とは裏腹に、規模が大きくなればなるほど、多様性に触れる機会は減少していくのです。
そうであれば、世界中が参加できる学校のクラスともいえるSNSは、さまざまな集団を一致させるどころか、かえってさまざまなクラスタに分断して、多様な意見の交流を妨げてしまうことになるでしょう。
多様な人間関係ではなく、似た境遇の人ばかり寄り集まった関係はどうなっていくのか。
精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で、トラウマ患者について指摘していることは、この場合にも当てはまるでしょう。
トラウマを負った人の多くは、四六時中、身の回りの人々と同調できずにいる。
同じような背景や経験を持った人々と、戦闘体験やレイプ、拷問を一緒に思い返せる集団の中にいると快適に感じる人もいる。
…世間から自分を切り離し、間口の狭い犠牲者集団に身を置くと、他者というものは良くても無関係、悪くすれば危険だという見方が促され、けっきょくさらなる疎外につながるだけだ。
犯罪組織や過激派政党、カルト集団は慰めをもたらすかもしれないが、人生が差し出してくるものに対して完全に心を開くために必要な精神的柔軟性を育んでくれることは稀で、そのため、所属する人をトラウマから解放できない。
うまく機能している人が、個人差を受け容れて他者の人間性を認めることができるのと対象的だ。(p132)
むろん、SNSの交流は「犯罪組織や過激派政党、カルト集団」ではありません。
でも、「世間から自分を切り離し、間口の狭い犠牲者集団に身を置く」ことは比較的起こりやすいと思うのです。
わたしは病気の当事者グループや患者団体がまさにそうした環境になっていることを身をもって経験しました。同じ体験を共有し、身の回りの人や家族などに不満をつのらせていました。
そうした環境に身を置いていれば、どうしても、自分の体験を「わかってくれる」SNS上の顔も知らない誰かと会話することに夢中になりやすいものです。
そして、本当に助けになってくれるかもしれないのは身近な人たちについては、「わかってくれない」とレッテルを貼ります。こうして「けっきょくさらなる疎外につながるだけ」です。
はっきり言って、SNS上で体験を共有して、「わかってもらえた」と感じるのは、ほとんど幻想だと思います。それが、日常生活の質を改善してくれることはめったにありません。
たとえ困難でも、時間がかかるとしても、現実の生活で出会う多様な人たちと、地道にコミュニケーションを深めて親しくなっていかない限り、「個人差を受け容れて他者の人間性を認める」良質な人間関係を育むことはできません。
わたしの体力は非常に限られているので、ネット上のやり取りに割いているリソースは、現実の人間関係の向上のほうに振り分けたほうがよいと感じました。
広すぎるネットの世界で同じ境遇の人を探して寄り集まるより、身近な現実の世界で多様な人間関係を築くことに体力を振り向けることにしたのです。
また人間関係の多様さは、発信する情報の質とも関係してきます。
SNSによって情報共有されるのが当たり前になった今、SNSで情報を収集して発信すると、必然的に他の人と同じもののコピーになってしまいます。あえてそれらを知らない人のほうが、独自性と多様性のある情報を発信できると思います。
研究によると、意見を共有することで集合知の正確性が低下することも知られています。個人個人が独自に判断した場合には集団の意見は正確に近づきますが、意見を共有して互いに影響されると、意見の正確性は損なわれます。
『Proceedings of the National Academy of Sciences』に5月16日付けで掲載された論文によると、「集団は最初のうちは『賢い』が、他者の推測を知らされると、意見の多様性が狭まり、それによって(集合知が)低下する」という。
「穏やかな社会的影響であっても、集合知効果に悪影響が及ぶ」
Surowiecki氏が述べているように、集合知が発揮されるためには、一定の条件がそろわなければならない。
つまり、集団の各構成員は多様な意見をもち、また、それらの意見にはめいめい自力で到達する必要があるという。
SNSで熟慮なしに衝動的に拡散された意見にさらされることは、集合知の低下を招くでしょう。じっさい、SNSでは最初は多様な意見があるように思えても、しだいに白か黒かに淘汰されていき、対立があおられるように思えます。
さらに、わたしが尊敬する神経科学者オリヴァー・サックスが、知の逆転 (NHK出版新書)で書いていることにも考えさせられました。
ただEメールについては、人と人とのコミュニケーションをはたして高くしているのかどうか疑問です。
手軽なので当然高くしていると思いがちですが、その実、ナンセンスや思慮の浅い単なる思いつきを書きがちになる。
私はいつも実際にペンでゆっくりと手紙を書くようにしています。この「ゆっくりさ」というのが重要で、よく考えますし、考えを洗練させることができるからです。(p165)
かなり昔の記述なので、Eメールについて書かれています。でも要点は、今のSNSにも当てはまります。
手軽なのでコミュニケーションを促進しているように見えて、「その実、ナンセンスや思慮の浅い単なる思いつきを書きがちになる」というのは、今やSNSのほうに、よりはっきりと当てはまるでしょう。
本来、わたしたちは、何かを話す前によく考えるべきです。相手がどう思うか、本当に相手のためになる言葉か、異なる立場の人の気持ちを傷つけないか。そもそもわざわざ言うほど大切なことなのか。
アナログで手紙を書いているころは、じっくり考えて相手に配慮できました。しかしEメールになると、送信ボタンを押す前に一晩待つといったライフハックを意識的に取り入れなければならなくなりました。
SNSはそれとは比較にならないくらい、思いつきで発信する場になり果てました。人々は心にのぼったことを、衝動や怒りにまかせて、自制心などかなぐり捨てて書き散らすようになりました。対立や争いが絶えないのも当然です。
わたしはサックスのアドバイスのように、もっと「ゆっくり」に戻りたいと思います。そのほうが、よく考え、精錬することにつながるのです。
5.あまり自己主張したくない
最後に、わたしの性格にSNSはあまり向いていないと感じたところもあります。
SNSで自分のブログの更新を通知し始めたのは、読んでくれる人に便利かもしれないと考えたからでしたが、なんだか記事を読んでほしいとアピールしているみたいで、あまり好きではありませんでした。
単なる更新のお知らせとして使えればよかったのですが、SNSのシステム上、他の人とのつながりが可視化されたり、数値化されたりするのは避けられません。
SNSは、フォロワーの名前やそれぞれの反応が可視化されてしまうせいで、特定の意見をだれが支持しているか、だれがスルーしているか、あるいは、反感を持っているかが、衆目にさらされてしまいます。
人々のつながりが可視化されると、相異なる主義主張の派閥(グループ)が生まれやすいことが気にかかっていました。チャマス・パリハピティヤが述べていた、SNSは「社会を分断させた」という表現がしっくりきます。
あるいは、最近オバマ大統領がSNSについて述べていた表現もまた、この点を懸念しています。
「SNSは社会を分裂させる恐れ」オバマ氏 | ロイター | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
インターネットの危険の一つは、それぞれが全く異なる現実を持っていることだ。偏った見方を強化するような情報に囲まれて満足しきってしまう可能性がある
先に書いたように、SNSは似た境遇の人、似た意見の人を見つけやすいがために、異なる多様な人と意思疎通をはかるより、自分と同類の人を見つけて寄り集まっていく傾向が強いように思います。
わたしは、ここのところSNS上では、単にブログの更新通知をしていただけですが、それでも相反する主張の対立のただ中にいるという居心地の悪さを感じていました。
わたしは注目されるのが苦手です。だれかから「見られている」「評価されている」というのを意識してしまうと、とたんにフリーズして、身体が、心が、そして想像力が凍りついてしまいます。
これは全部、わたし個人の感じ方にすぎないと承知しています。ほとんどの人にとっては気にならないことばかりでしょう。
SNSを通して、温かいコメントをもらったのも事実ですし、Facebook、Twitterともに何百人もの方がフォローしてくださっていることを思えば、本当にやめてもいいのか何度も悩みました。
でも、自分の気持ちを無視し続けるわけにはいきませんでした。納得のいかないツールを使い続けることはできません。
SNSを使って、このブログの更新をチェックしてくださっていた方にはご不便をおかけすることになってしまい、申し訳ありません。
わたしの場合、自分の文章をより多くの人に読んでもらいたいという気持ちはあまりありません、ましてやだれかと意見を戦わせて議論をしたいという気持ちはまったくありません。ただ自分が書きたいものを好きなように書いているのが好きです。
何年か前にブログランキングへの参加をやめたのも、自分の記事を宣伝したくなく、だれかと優劣を競い合うのが肌に合わなかったからです。
フォローやいいねという構造のせいで派閥やグループが生まれやすいSNSの世界で意見を発信するより、インターネットの片隅で、ひっそり物書きをやっているほうがわたしのスタンスに合っています。
だれとも面識やつながりもなく、利害関係も協力関係もなく、ただ興味のある人だけがときどき足を運んでくれる、というくらいで十分に満足です。こんなふうに考えるのは回避型愛着スタイルの典型なのかもしれませんが(笑)
ブログのRSSフィードのほうは、ほぼ純粋な更新通知でしかなく、SNSとは性質や目的が異なるので、今後もそのままにしておきます。
各記事のSNSシェアボタンは、とりあえずそのままにしておきますが、煩わしく感じるようになったら撤去するかもしれません。(追記:結局その後撤去しました)
「テクノロジーの進歩はその時代の人間そのものだ」
この記事では、わたし個人がSNSをやめる理由について書きましたが、わたしはテクノロジー嫌いではありませんし、SNSが必ずしも悪いものだとは思っていません。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 に載せられている、ユタ大学の認知心理学者デヴィッド・ストレイヤーの言葉には考えさせられます。
「テクノロジーはいつの時代も諸刃の剣だ」ストレイヤーはそう言うと、繊細な波模様があしらわれた土器片を指でなぞり、順番になぞり、順番に見るようにと学生に渡した。
「技術は人類を進歩させるが、人間のあり方を変えてしまう。カウボーイたちがこの地で骨を発掘していたとき、突然、後頭部が平らな小さな頭蓋骨をいくつも掘りあててね。
こりあたりで暮らしていたアナサジ族がトウモロコシの栽培を始めると、母親は畑仕事に出なければならなくなった。それで赤ん坊の頭を背負い籠にしっかりと紐で固定するようになったから、赤ん坊の後頭部が変形したのだろう。
テクノロジーの進歩はその時代の人間そのものだ。いわば踏み石なんだよ。新たな発明が新たな考え方を生みだす。そうなれば、もう後戻りはできない」(p254)
(ちなみに近年のNewsweek誌によると、スマホ利用というテクノロジーでも、この引用例のような頭蓋骨の変形が起こっているということだった。若年層の頭蓋骨にツノ状の隆起ができていた……その理由は? | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト )
SNSが善か悪か議論するのは不毛です。それは良くも悪くも「人間のあり方を変えてしまう」テクノロジーのひとつにすぎないのですから。
退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す にも同じことが書かれていました。
私たちは、人類が経験したことのない転換点にいます。これほどたくさんの情報にまみれた時代はありません。スマホとタブレットが広まったことで、モバイル端末の利用時間は平均して2時間57分、画面に向かって過ごすのは11時間にもなります。
これが健康に悪いかどうかはまだわからないものの、テクノロジーが私たちを変えつつあるのはたしかです(そして、それがいい方向へかどうかも、まだわかりません)。(p14)
手元にあるデータはせいぜい状況証拠にすぎません。生涯にわたってスマホを使った人とそうでない人を比較する客観的な研究なんて、もちろんないんですから。
つまり、私たちは今、だれもが壮大な社会実験に参加しているわけで、結果を知るには、身をもって経験するしかないーその結果がいいか悪いかにかかわらず。(p19)
SNSというテクノロジーは、確実に人類社会を変えました。それが未知なる大洋へ続いているのか、それとも滝壺へ続いているのかはわかりません。わたしは単に個人的な好みから社会の流れに従わないことにしたにすぎません。
SNSによる健康阻害が取りざたされているとはいっても、いつしかSNSに適応できる人のほうが健康で、そうでない人は異常だとみなされる時代が来てしまうのかもしれません。
次々に現れるテクノロジーが善か悪か考えるよりも、何を使い、何を使わないかを自分で選択できる勇気を持つほうが、これからの多様な価値観を特色とする時代を生き抜く上で、より重要なのではないでしょうか。
今までSNSでお世話になった方々には、心から感謝いたします。ありがとうございました。ブログ自体はマイペースで書くつもりなので、もしご興味があれば、今後ともよろしくお願いいたします。