「病気の苦しみを理解してほしい」―それは現実的な目標なのか

「この病気の大変さをわかってほしい」

今まで幾度となく聞いてきた言葉です。難病についてのニュース記事の見出しに、そう書かれていることもあります。

珍しい病気の苦しみを理解してもらうために、熱心に啓発活動をしている団体もたくさんあります。

わたしも、ずっとそのことを考えてきました。慢性疲労症候群と診断されたときも、解離やトラウマという、とても奇妙な症状と向き合ったときも、大半の人から理解してもらえない、という壁がずっと立ちはだかっていました。

わたしは、この奇妙すぎる辛さをわかってもらうにはどうすればいいか、ひたすら考えてきました。自分の抱えている苦しみを、いかに他の人にわかりやすく伝えるができるか、頭をひねり、言語化してきました。

けれども、わたしは気づくようになりました。

結論からいえば、他の人に、自分の抱える苦しみをわかってもらうことはできません。それは不可能です。この記事で紹介する心理学や脳科学の研究もそれを支持しています。

この記事では、なぜ他の人に自分の苦しみをわかってもらうのは不可能なのか考えます。

そして、知ってほしい、理解してほしい、と願うことには危険な落とし穴があり、もっと別のアプローチをしたほうが現実的だ、ということを考えてみたいと思います。

人の苦しみを理解できるようにはならない

わたしが学生のころからずっと病気に苦しんでいる、と話すと、こんなことを言う人がよくいました。

「きっとそんな大変な経験をしてきたおかげで、しんどい人の気持ちがわかるでしょ」

せめてもの慰めとしてそう言ってくれるのだと思います。

でも、わたしはそのたびにこう返事してきました。

「いいえ、わかるようになればいいんですけれどね。そんなふうにはいかないです。

どれだけしんどい思いをしても、他の人の苦しみを理解できるまでにはならないですね」

そしてこう続けます。

「唯一わかったことがあるとすれば…

自分の想像できない辛さを味わっている人がいる、だから相手の話を聞かないといけない、ということくらいでしょうか」。

わたしが自分の闘病のなかで理解したのは、だれかの苦しみをわかってあげられる、ということではありませんでした。

そのまったく逆です。

自分の苦しみは自分にしかわからないように、誰かの苦しみはその人自身にしかわからない、人の苦しみを理解してあげる、というのは不可能なのだ、ということでした。

たとえば、二年前に書いた以下のような記事では、わたしのその実感がこもっています。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

この記事の結論は、“想像を絶する”苦しみを乗り越えてきた人の辛さは、その言葉どおり“想像を越えている”、ということ。記事ではそれを「カルダーノの輪」の外側にあると表現しました。

気持ちをわかってあげられる、苦痛を理解できる、などというおこがましい考えは捨てて、理解できる範囲をはるかに越えた辛さがあることを、まずわきまえてほしいと書きました。

自分が経験していること以外はわからない

わたしも、病気になった最初のころ、苦しんでいる人の気持ちをわかってあげられるようになった、と感じました。

しかし、同じ病名の人を含め、多種多様な病気や障害をもつ人と接するうちに、そんなものは思い上がりだと気づきました。

苦しみは一人ひとり異なります。たとえ同じ病名でも、同じ苦しみを抱えている人はいません。

自分が何かに悩んでいるからといって、ほかの人もそうだと思い込むのは、ただの決めつけにすぎません。

最近、GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)という本を読んでいたときに、こんな実験があることを知りました。

ケロッグ経営大学院の心理学者ロラン・ノルドグレンは、ある実験で被験者に、冷凍室で5時間座り続けるのはどれくらいつらいか推測してもらった。

その際、被験者を「温かい状況」と「冷たい状況」に分けて置いた。

温かいほうのグループは、お湯の入ったバケツに腕を入れた状態で推測してもらった。

一方、冷たいほうのグループも、やはりバケツに腕を入れた状態で推測してもらったが、こちらには氷で冷やした水が入っていた。

ではどちらのグループのほうがより冷凍室をつらいと推測しただろうか。

予想どおり、それは冷たいほうのグループだった。お湯のバケツよりも氷水のバケツに腕を入れていた被験者のほうが、冷凍室のつらさを14パーセント多く予想したのである。

一分間、文字どおり冷たさを体験したあとでは、それが数時間続くのがどれほどひどいことか実感できたのだろう。(p147)

この実験では、冷凍室に5時間閉じ込められる苦痛を、被験者にイメージしてもらいました。

冷水に手を浸けていたグループと、湯に手を浸けていたグループでは、冷水のグループのほうが、冷凍室の苦痛をより深く斟酌しました。

ここまでは、「予想どおり」の実験結果です。世間一般の常識どおり、自分が苦しい目に遭った人は、同じような苦しみを抱える人の苦痛を、イメージしやすくなります。

しかし、この実験結果には続きがあります。

実は同じ冷たさを、状況を少し変えて体験した第三のグループがあった。

こちらの被験者も氷水のバケツに腕を突っ込んだのだが、腕をバケツから出して十分経ってから予測してもらったのである。

すると何と、彼らの予測は温かいグループとまったく同じだったのである。

十分前に冷たさを感じていても、いま現在冷たくなければ、もはや想像することができなくなるのだ。

これを「視点のズレ」という。心理的・身体的な興奮状態を経験していないとき、人はそれが自分に与える影響をひどく過小評価するのだ。(p147-148)

なんと、さっきまで冷たいバケツに手を浸していた人でも、手をバケツから出して10分経ってしまうと、もう同じような苦しみを味わっている人の辛さをイメージできなくなってしまったのです。

昔の格言にあるとおり、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」です。

でも、この実験結果は、それ以上のことを教えてくれています。

わたしたちが他の人の辛さを想像するとき、そのイメージのもとになっているのは、今この瞬間の「心理的・身体的な興奮状態」だということです。

言い換えれば、わたしたちがわかっているのは、今この瞬間に自分がどう感じているか、ただそれだけなのです。

確かに、冷水に手を浸している人たちのグループは、「冷凍室で5時間座り続ける」人の苦痛を、より強くイメージできました。

でも、本当に、その苦痛をわかっていたのでしょうか。そうではないでしょう。

冷水のグループは湯のグループよりも冷凍室の苦痛を重くとらえましたが、「14パーセント多く」見積もっただけでした。

あくまで、今この瞬間に冷水に手を浸している自分の苦しみを参考にすれば、冷凍室に閉じ込められるのはかなり辛そうだ、と考えただけです。

わたしも、自分は、この被験者たちにそっくりだ、ということを闘病しながらずっと実感してきました。

闘病するなかで、いろんな人と出会って、話を聞いてきました。線維筋痛症の人、ALSの人、先天性の心疾患を抱える人、化学物質過敏症の人、脳脊髄液減少症の人。さらには障害をもつ子どもの親や家族など。

自分が苦しんできた以上、それらの人もきっと苦しく辛い、ということは確かにわかります。

でも、そうした人たちの置かれている状況、抱えている苦痛などを、本当の意味で理解できると思ったことはありませんでした

同じ病名で診断されていた人同士でさえそうでした。最初はお互いの経験が一致して、共感しあえるように感じます。

ところが、深く話せば話すほど、お互いの苦痛が全然違う、ということを思い知らされました。

冷水に手を浸けている自分の経験をもとに、冷凍室に5時間座っている人の辛さをイメージして、その苦痛をわかった気になっている人と同じでした。理解できた気になるだけで、本当のところはよくわかっていませんでした。

この本では、医者たちが往々にして患者の気持ちを理解できない理由もそこにあるとされています。人は自分が経験したこと以外はわからないのです。

たとえば、医者はたいてい患者の感じている痛みを実際より軽く考えるという。

自分自身がつらい目にあっているわけではないため、医者には患者のつらさが十分にわからないのだ。(p148)

喉元過ぎれば熱さ忘れる

先の実験では、もう一つのグループもいました。10分前まで冷水に手を浸していたのに、苦しみが終わるやいなや、もうそれをイメージできなくなってしまった人たちです。

わたしは、自分がこの被験者たちにも似ていることを発見しました。

学生のころから10年以上闘病するうちに、わたしの症状は少しずつ変化してきました。死んでしまいたいほど追い詰められた時期もありましたが、今はもっと穏やかになりました。

自分の症状をじっくり観察しているうちに、少し前に経験した症状がどんなに辛かったか、うまく思い出せないことに気づきました。

ずっと悩まされていた何かの症状が寛解すると、その苦しみを忘れてしまいました。

やがて月日が経って、同じ症状がまた戻ってきたときに初めて、ああこれは昔経験したことがあった、と思い出すのです。

健康な人でもこれはわかると思います。ものもらいができたり、唇を噛んだりしてしまったときは相当痛くて鬱陶しいものです。

でも、その症状が、今この瞬間に経験されているのでなければ、どうしても苦痛を過小評価してしまいます。

他人がその状況になったとき、「あー、それは辛いね、わかるよ」とは言いますが、いざ自分にまたその症状が出ると、それどころではないほど不快だったことを思い出します。

わたしも、闘病しているとき、自分が今この瞬間に経験している苦痛しか、認識できていないように感じました。

過去に経験した症状がどんなものだったか、思い出そうとしてもなんとなくしかわかりませんでした。

まさに、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」でした。このままでは、わたしは、ただいたずらに闘病するだけで、そこから何も学べないまま時が過ぎていくのではないか、と感じて焦りました。

昔に書いたように、わたしがこのブログを始めた動機のひとつはそれでした。苦しんだ経験をただ忘れるままにせず、風化させないようにしたいと考えました。

このブログを書き始めたわけについて書きました。その理由は一言で言うと「その日を生きた証」になるから。自分ならではの背景に焦点を当てています。

わたしは、自分の症状を仔細に観察し、そのときの実感や苦痛を言語化し、客観的な記録として残し、考察するようになりました。

そのおかげで自分の身に何が起こっているかをより深く理解できるようにはなりました。でも、頭では考察が深まっても、やはり実感としては忘れてしまいます。

過去に経験した症状は文章としては残っています。しかし後でそれを読んでも、そのときの自分の気持ちをイメージすることはできません。

「経験する自己」の苦しみは自分しかわからない

わたしたち人間が、「いまこの瞬間」に抱えている苦しみ以外は理解できないのには理由があります。わたしたちの脳が、そのような造りになっているからです。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、「神経科学的な研究によって、人には二つの異なるかたちの自己認識があることが明らかになって」います。

過去に以下の記事で詳しく説明しましたが、その2つの自己認識とは、「経験する自己」「記憶する自己」です。

「二つの認識システムは脳の別々の場所に局在しており、それらの領域どうしに接続はほとんど」ありません。(p387-388)

カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由
トラウマの治療において、従来の対話を中心としたセラピーに限界があり、身体志向の方法が必要な理由をさまざまな研究をもとに考察しました。

簡単にいえば、今この瞬間の自分の感覚を体で感じている自己認識が「経験する自己」であり、頭で考えたり、後から思い出したりするときの自己認識が「記憶する自己」です。

病気の苦痛というのは、今この瞬間に「経験する自己」が感じているものです。それに対して、言葉で説明したり、理解しようとするのは「記憶する自己」です。

だから、実際に体験したことと、ただ単に本で読んだり見聞きしたりしただけの知識には乖離があります。

いくら読んだり聞いたりしたところで、「経験する自己」が体験するのでなければ、その苦痛は理解できません。経験しないかぎり“ひとごと”なのです。

そして、「経験する自己」はあくまで、今この瞬間の自己認識です。実際に何かの苦痛を経験したことがある人でも、時間が経って状況が変化すれば、もう実感として理解しにくくなります。

このブログの記事の中には、わたしがリアルタイムで症状を感じている渦中で考察したものがたくさんあります。

そうした記事を読み返すたびに、あれはあの状況にいるわたしにしか書けないものだった、とつくづく思います。

それらの記事は、嵐の内側から描写し、じかに体を観察して考察したからこそ、実感のこもった記事になりました。嵐が去った凪にいる今のわたしが、それを書くことはもはやできません。

嵐のただ中にいるときのわたしは、同じ症状を抱える人の苦痛を我がこととして想像できました。自分がリアルタイムで経験しているからこそ、具体的にイメージできます。

しかし、もうその苦痛を経験しなくなってしまえば、理解することはできなくなりました。

「記憶する自己」はその出来事を覚えているので、頭ではそこそこわかります。でも、「経験する自己」はもうその苦痛を味わっていないので、迫真の感覚を理解することはできません。

でも、わたしたち人間にとって、脳や体が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ような造りになっているのは、幸いなことです。

その仕組みがうまく働かず、危機が去っても同じ苦しみがそのまま続いてしまう状態、それこそがトラウマと呼ばれるものだからです。

PTSDなどの病気で、危機が去っても、今まさに命の危険にさらされているかのように反応し続けてしまう症状は、「経験する自己」が、喉元を過ぎても熱さを忘れられないがために生じます。

そのようなわけで、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法のような本では、いかにして未完了のまま延々と続いている苦痛を完了させ、終わったものにできるのかが模索されています。

喉元過ぎれば熱さを忘れるのは異常なことではなく、むしろまったく正常なことです。わたしたちはそのおかげで、これほど苦しみが満ちあふれる世の中でも、明日を生きようという気になれます。

しかし、やはりそのおかげで、わたしたちは、今この瞬間に自分が経験している苦痛しか認識できません。他人の苦痛や、過去の自分が経験した苦痛をはっきり理解することはできないのです。

「苦しみを理解してほしい」―達し得ぬ目標

闘病をはじめたころ、わたしもやはり、「自分の苦しみを理解してほしい」と強く願っていた時期がありました。

いわゆる、病気の啓発活動のようなことも個人的にやっていました。自分の病気について説明した用紙を、家族や友人に配ったりもしていました。

どうすれば、もっと理解してもらえるだろうか、と頭をひねりました。

たとえば、比喩を用いて説明するように心がけました。相手にとって身近なものに例えれば、理解しやすくなるのではないか、と思ったからです。

そのころ考えた説明の仕方は、昔書いた記事にまとめられています。

CFSについてわかりやすく説明するためにできること
慢性疲労症候群(CFS)の患者にとって、自分の症状を的確に説明するのはたいてい難しいものです。「CFS患者の会話の助け」のシリーズでは、そのようなコミュニケーションを改善する方法を
CFS患者の会話の助け ~こう言われたら~
慢性疲労症候群のことを家族や友人に分かりやすく説明するにはどうすればよいでしょうか。わたしが用いている会話の具体例「こう言われたら」を紹介したいと思います。

その後、慢性疲労症候群という病名にこだわらなくなったこともあって、特定の病気について説明しようとする努力をやめました。

そのかわり、このブログのさまざまな記事で、自分の症状を噛み砕いて説明し、わかりやすい言葉で表現するよう気を配ってきました。

けれども、結局のところわかったのは、同じような辛さを実感してきた人には伝わるし、そうでない人にはどうやっても伝わらない、ということでした。

苦しんでいる本人は言葉に変換できます。そして、同じような苦しみを経験している人も、それを読んで、確かにそうだと共感できます。

ところが、そうした体験をしたことがない人に、言語化された文章だけ見せたところで、絶対に理解してもらえることはありません。何を書いているかわからないからです。

わたしは、「他の人に辛さを理解してほしい」と考えるのは、実は不可能な目標なのではないか、と思い始めました。

さきほど紹介したような心理学の実験や、脳科学の研究は、それを裏付けていると思います。

わたしの苦しみを理解してほしい、この病気の大変さを知ってほしい、苦痛をわかってほしい。

いくら言葉を換え、説明を増やして説明しても、わたしたちの脳の造りからして、相手が経験していない苦痛を理解してもらうのは土台無理なことです。

中には、感受性がとても豊かで、自分では経験したことのない苦痛でも、話を聞いただけで身体反応を再現してしまえる特異な人たちもいます。

たとえば、以前書いたように、子どものころに強制収容所体験の話を繰り返し聞かされていただけで、自分がまさにその体験をしたのと同じ代理トラウマ症状を抱えてしまった人がいました。

繊細で敏感なHSPの子どもを育てるために親ができる8つのこと―児童文学作家エリナー・ファージョンに学ぶ
HSPの子どもが敏感さゆえに抱えることの多い8つの特徴と、それに対して親ができることをまとめました。

でも、そのような敏感な人たちは、わざわざこちらの苦痛を逐一説明しなくても、感情移入してくれるものです。

苦痛をイメージする共感力のある人に症状をひたすら訴えれば、確かに実感のこもった理解をしてもらえるようにはなるかもしれません。

しかしその「理解」とは、身をもって味わわせるということであり、相手を自分と同じ苦痛に引きずりこむということです。

相手がよく話に耳を傾けてくれる気遣いに富む人だからといって、自分の味わってきた苦しみをひたすら訴え続けるとしたら、代理トラウマを背負わせることになります。

やがて耐えられなくなって、自分を守るために感覚が麻痺してしまう(解離が起こる)でしょう。たぶんフロイトがそうだったのだと思います。

少なくともわたしは、自分が経験してきた症状の恐ろしさをよく知っているので、それを誰か他の人にも味わってほしいとは思いません。

かといって、あまり感受性が強くない人たちに、「わたしの苦痛を理解してほしい」と訴え続けても、まったく意に介されないだけです。どのみち理解は得られません。

そもそも、自分の辛さについてずっと話し続けるような人と、だれが友だちになりたいと思うでしょうか。厄介な人、めんどくさい人と思われて、敬遠されるだけではないでしょうか。

こうした経験から、わたしは「自分の病気を理解してほしい」「しんどさをわかってほしい」というのは、不毛な目標だと思うようになりました。

周りの人に理解を深めてもらえるどころか、いつも病気の話ばかりする人と思われて、人間関係に溝を作り、自分をより孤立させてしまうことになりかねません。

わからなくても親しくなれる―より優れた方法

では、病気を抱える人は孤独になるしかないのでしょうか。周りの人たちに理解されないまま、一人で苦しむしかないのでしょうか。

そうは思いません。「病気の苦しみを理解してもらう」より、もっと現実的なコミュニケーションの目標があります。

わたしは最近、慢性疲労症候群という病名など聞いたこともない人が多い(たぶん発症する人がめったにいない)地域に住んでいます。

だから、自分が病気を抱えていることを明かすと、「それってどんな病気なの?」と聞かれます。

わたしは、この病気がとても深刻な症状を伴うことを話します。ひどいときは「死んでいるかのような状態」で寝たきりになることもあるのだと。

でも、あまり深くは話しません。

基本的に、失われた、自然を読む力に書かれているこのコミュニケーションの原則が真実です。

相手が学ぶことに熱心なとき、少しだけ教えるのが、わたしの習慣になっている。

それが意見の交換に役立ち、長いあいだ、一方通行で知識を伝えようとするより、お互いに疲れないことがわかっていたからだ。(p266)

わたしは、詳しく話して理解を求める代わりに、こう言います。

「でも、『死んでいるかのような状態』なんて言われても想像できませんよね。こういう病気の大変さって、実際に経験した人でないとわからないと思います。

たとえば、農作業のやり方や、雪国の生活について聞かれても、言葉で説明できませんよね。経験した人じゃないとわからないと思うんです。

きっと、みんなそれぞれ他人にはわからない大変さがあると思います。わたしだけじゃなくて、〇〇さんもそうだと思いますが」

そう話すと、ほとんどの人は納得してくれます。それ以上立ち入った話にはならず、話題はもっと日常のこと、病気以外のことに移ります。

地元の暮らしや、趣味のこと、動植物のこと、ふだん考えていること。さまざまな話題で盛り上がります。

そうするうちに、病気のことは十分わかってもらえなくても、他のさまざまな興味関心を通して親しくなれます。こうして信頼関係が築かれていきます。

親しくなると、病気についてはわからないなりに、体調を気遣ってくれることもあります。中には「何かできることある?」と尋ねてくれる人もいます。

わたしの病気の症状については、誰一人理解してくれてはいません。でもわたしは不自由していませんし、いろいろな話題で盛り上がれる個性豊かな友人たちがいて幸せです。

「病気について理解してもらう」という決して達しえない話題について延々と話し合って溝を深めるのではなく、お互いの共通点を探して、楽しい話題を通して絆を深めること。

わたしはそのほうがよほど優れたコミュニケーションだと思います。

病気のことばかり話していると、いつまでも相手はわかってくれません。そのうち、わたしのことなんて誰もわかってくれる人なんていないんだ、と意気消沈しますし、どんどん孤立していきます。

反対に、病気の症状は最初から理解しえないものだと割り切って、お互いの共通点を探して会話が弾むと、たとえ違ったところがあっても仲良くなれることがわかってきます。

これは、夫婦関係でも同じだと思います。

たとえば、妻が出産のときに夫に期待するのは何でしょうか。出産がいかに苦しくて痛くて辛いかを、男性である夫に理解してもらうことでしょうか。

それは無理な目標です。どうやっても男性には理解できないことだからです。

そうではなく、たとえ出産の苦痛がわからないとしても、わからないなりに気遣って、支えてくれることのほうを望むのではないでしょうか。

妻と夫は体の造りからして違います。ぜんぶ理解してもらうことはできません。でも、お互いに興味関心の交わるところがあり、共通点があったからこそ夫婦になりました。

女性の大変さは男性にはわからず、男性の抱えるストレスは女性にはわかりません。でも違うからこそ補い合えることもあります。妻にしかできない役割もあれば、夫にしかできない役割もあります。

友人関係も同じだと思います。自分の抱える病気の苦痛を理解してもらわなければ友だちになれないわけではありません。

互いに異なるところ、どうやっても決して理解できない領域があるとしても、共通の土台の上に信頼関係を築くことができます。

そうすれば、いざというとき、たとえ相手の苦痛をすべて理解できないにしても、実際的な方法で手を差し伸べて助け合おうと思える関係になれます。

先ほど、医者が患者の苦痛がわからないのは、自分が病気を経験していなからだ、と書かれていました。でも、すべての医者が、患者の気持ちを顧みないわけではありません。

たとえば神経科医オリヴァー・サックスの父親は、患者たちからとても信頼された医者だったといいます。

その秘訣はなんでしたか? 道程:オリヴァー・サックス自伝にこう書かれています。

父は一時期、神経科医になることを考えていたが、そのあと総合診療医のほうが「現実的」で「おもしろい」と判断した。なぜなら、人々とその生活にかかわれるからだ。

…彼が数世代にわたって治療した家族もいて、「きみのひいおじいさんも1919年に同じような問題を抱えていたよ」と言っては、若い患者をびっくりさせることもあった。

彼は人間を知っていた。患者の体だけでなく内面もわかっていて、どちらか片方だけを治療することはできないと思っていた

(実際、あの先生は患者の体のなかだけでなく、患者の冷蔵庫のなかも熟知しているというのがもっぱらの評判だった)。

彼は患者にとっての医者であるだけでなく友人であることが多かった。(p382)

サックスの父親も、患者の病気の苦痛を経験していないという点ではあまたの医者たちと同じでした。だから、患者がいま経験している苦痛を、そっくりそのまま理解することはできませんでした。

でも患者たちから信頼されたのは、日ごろから「患者の冷蔵庫のなかも熟知している」と思われるほど、患者の生活に深い関心を寄せていて、ただの医者ではなく友としての信頼関係を築いていたからでした。

だから患者たちは、たとえ自分の苦痛を完璧に理解するのは不可能だとしても、あの先生なら信頼できる、頼りにできると思えたのです。

苦痛を十分に理解できないとしても、他のさまざまな話題に目を向けることで、友になることができるし、助け合うこともできる、という好例です。

自分も相手の苦痛を理解できない

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)では、人に惜しみなく与える人は「ギバー」、真っ先に自分の利益を優先させる人は「テイカー」と呼ばれていました。

「病気について理解してほしい」という切実な訴えは、誠実な動機から出たものではあっても、無意識のうちに「テイカー」になってしまいかねません。

もっとわかってほしい、理解してほしい、助けてほしい、知ってほしい。

自分が何をしてもらえていないか、他人に何をしてほしいかばかり考えていて、まったく幸福ではありません。

自分がいかに恵まれていない難病患者か、国の政策から取り残されているか、まともな医者や友人に恵まれていないか。そんなことばかりに目が向いていきます。

いつのまにか自分を憐れむようになり、悲劇のヒロインであるかのように振る舞うようになってしまいます。同じような境遇の人とばかり寄り集まっていると被害者意識が強くなり、グループシンク(集団浅慮)にも陥ります。

でも、本当にそれでいいのでしょうか。

わたしは、自分が病気になってから、他のさまざまな病気の人たちと知り合いました。今まで聞いたことがないような病気の人たちもいました。

そうした多様な人たちと親しくなるうちに、世の中には星の数ほど苦しみの種類があって、わたしもまた、他の人の苦痛をぜんぜんわかっていないことを知りました。

最初は「わたしの病気の苦痛を知ってほしい」と思っていましたが、それよりもまず自分が「他の人の抱える苦痛を知らない」ことに気づきました。

もし自分の病気の苦痛を知ってほしいなら、まっとうな順序としては、まず自分が他の人の苦痛を理解することのほうが先、ということにならないでしょうか。

相手に理解してほしいなら、まず自分が相手を理解しないといけません。

でも先に書いたように、わたしはそうした病気の人たちの苦痛を十分に理解するのは無理だと気づきました。

親から虐待されて内臓がズタズタにされたと感じる子どもの苦痛、何十年も鉄の肺に入っている人の苦痛、生まれつき顔が異様に変形している人の苦痛…挙げればきりがありません。

そこまで極端な状況でなくても、身の回りには、子どもを亡くした親や、職場でハラスメントされている人や、親の介護で疲れ果てている人などが大勢いるものです。

自分がそうした人の苦痛を理解できないのに、「わたしの病気の苦痛をわかってください」とひたすら訴えるのは身勝手すぎるし、虫が良すぎるのではないか、と思いました。

だから、わたしは、身の回りの人たちに、自分の苦痛をわかってもらおうと、あれこれと説明するのをやめました。

調べたことや気づいたことは、友人や家族に話したり、理解を求めて用紙を配ったりする代わりに、ネット上のブログに記事としてメモしておくだけにしました。

そうすれば、わたしの記事を読みたい人だけが見に来れるようになりますから。

自分の体調についてどうしても誰かに話したい、とせきたてられるようなときでも、記事にまとめてしまうと気持ちが晴れて、いい空気抜きになります。

こうして、周りの人に「病気の苦痛を理解してほしい」という達しえない目標から解放されると、話せる話題がもっといろいろあることに気づきました。

ネットでは、解離が―トラウマが―と書いてきたわたしですが、リアルではそんな話題は喋りません。お互いの趣味のこと、最近おもしろかった話題、自然界の動植物のこと、などなど。

病気の話題ばかり話していたころは、全然話が通じなかった人が、天文学のことを話すと、とほうもなく博識で面白い人だったとわかることがありました。

農業の話題を振ると、興味深い話をいくらでも教えてくれる、とても気の合う人だった、ということもありました。

「病気の苦痛をわかってほしい」という実現不可能な話題が、いわばダムのように心の交流をせき止めていたことがわかります。

要求する人「テイカー」ではなく、与える人「ギバー」として会話し、共通点を探し求めれば、どうやっても話の通じなかった人と、友情を育んでいくことができるかもしれません。

コミュニケーションのアプローチを変える

わたしは、もともと人間に関心があるので、どうすれば、周りの人と仲良くできるのか興味がありました。病気になってからも、ずっとコミュニケーションを模索してきました。

わたしは任天堂の故 岩田聡社長の、この考え方がとても好きです。

ほぼ日刊イトイ新聞 – 社長に学べ!

そういう試行錯誤の途中で、わたしは昔からここだけはわりと自信があるのですが

「コミュニケーションがうまくいかないときに、絶対に人のせいにしない」

ということに決めたんですよ、あるところから。

「この人が自分のメッセージを理解したり共感したりしないのは、自分がベストな伝えかたをしていないからなんだ」と、いつからか思うようにしたんです。

うまくいかないのならば、自分が変わらないといけない。

この人に合ったやりかたを、こちらが探せば、理解や共感を得る方法はかならずあるはずだ。

ですから、いまでもうまくいかなかったら自分の側に原因を求めています。相手をわからずやというのは簡単ですし、相手をバカというのは簡単なんですけどね。

自分の病気の大変さを訴えても、一向に理解してもらえず、周りから孤立していってしまったときには、どうしてこうなってしまうんだろう、と考えました。

説明の仕方が悪かったんだろうか、と考えて、より理解しやすい比喩や、わかりやすい言葉を使うよう試行錯誤してきました。

その努力がぜんぶ無駄だったとは思いません。相手が病気について知りたいと思っているときには、わかりやすい説明ができるほうがいいからです。

でも、どれほど巧みに説明したところで、本質は絶対に伝わりません。相手が同じ病気にならない限り、同じ苦しみを実際に味わわない限り、理解してもらうことは不可能です。

色を見たことがない人に色を説明することはできません。病気のつらさを理解してもらおうと訴え続けても禅問答になるだけです。そもそも相手はそんな話など聞きたくないかもしれません。

病気のつらさを伝えるより大事なのは、理解できない領域があることを知ってもらうことでした。

出産の苦しみとか雪国の生活とか。体験せずして理解できない領域があることに意識を向けさせること。

絶対に達成できないことに努力を傾けていると、やっぱり理解してもらえないという思いが募るだけです。

共通点ではなく相違点にばかり目が向くことになりかねません。周囲の人との溝はさらに深まって、自分を孤立させてしまいます。

必要なのは、病気の辛さを理解してもらうことではなく、目の前の相手と少しでも仲良くなることだと気づきました。

そうすれば、その人は特定の病気の患者としてではなく、友人としてあなたと接してくれるようになります。困ったときには、わからないなりに実際的な助けを差し伸べてくれます。

それどころか、逆に自分のほうが相手の助けになれるときだってあります。病気の話題にこだわらず、いろいろな話題を話していれば、必ず相手の役に立てることも見つかるからです。

友だちとは一方的に与えてもらう関係ではなく、互いの長所を生かして支え合う関係です。

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自分と相手は違うから、すべて理解しあえるわけではないからこそ、それぞれの個性を互いのために用いることができます。

そうやって、親しい信頼関係を築いていくと、当初の目標だった、苦痛をわかってほしい、という部分も、なんとなく達成されてしまうものです。

信頼関係を築くというのは、お互いの生活の距離が縮まるということです。こちらも相手の生活を知り、相手もこちらの生活を知ります。

何から何までわかってもらえることはないにしても、どのくらい体力があって、どれほどやりすぎると寝込んでしまうのか、それなりに実体験からわかってもらえたりします。

言葉で伝える病気の知識ではなく、こうした実体験に基づく理解こそ、本当の意味で病気の人が必要としている理解ではないかと思います。

当然ながら、だれかと仲良くなるのは本当に大変です。コミュニケーションに楽な近道はありません

しかも、わたしのように体力が限られている人にとって、他の人とのコミュニケーションに振り分けることができるエネルギーは限られています。

病気を理解してほしい、知ってほしいという啓発活動も大切だとは思います。SNS上のやりとりや、患者会でのつながりも、時には役立つとは思います。

しかし病気の人はただでさえ体力がないので、目の前にいる身近な人たちとのコミュニケーションを大事にすることが、より現実的な、優先すべき目標ではないでしょうか。

だからこそ、優先順位を見直して、身近な人たちとどうやったら仲良くなれるか考えました。

あえて病気の話題“以外”のことを話すよう意識し、コミュニケーションのアプローチを変えることが必要でした。

自分が話したいことを話すのではなく、相手に合った話題を考えました。そうやって、テイカーではなくギバーになるよう意識しました。

わたしのケースが他の人たちにも当てはまるかどうかはわかりません。何度も書いているように、一人ひとりの状況は異なるからです。

しかし、もしコミュニケーションがうまくいかない場合、苦痛を理解してもらえないと感じる場合、かたくなに同じ方法を続けるより、まったく別のアプローチをとったほうが、良い結果につながることもあるでしょう。