近年、幼少期の子供たちの感受性がますます乏しくなっている(場合によっては、感覚が偏ってしまっている)。
そのような状況を背景に、野外や森、場合によっては自然環境の中でさまざまな経験をする機会は不可欠なものとなってきた。(p44)
欧州でロングセラーになった、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書の邦訳が出たので読んでいました。
幼い子どもを、狭い建物の中ではなく、自然の森のフィールドで育てよう、という取り組みに、わたしはとても共感します。
わたしは都会で生まれ、都会の幼稚園や小学校で育ちましたが、成長するなかで、心身ともにさまざまな問題を抱えるようになりました。かつての子どもにはなかった、現代っ子特有の問題です。
現代っ子がさまざまな問題を抱えるのは、甘やかされすぎや過保護のせいだと言う人もいます。ゆとり教育のせいだと述べる人もいます。
でも、わたしはそれらの指摘が本質を逸してると思います。
現代の親は子育ての手を抜いているわけではありませんし、子どもたちは楽をしているわけでもありません。むしろ現代のほうが子育てのストレスや若者の葛藤は増えています。
昔の子どもたちは、森や川や田畑が身近にありました。自分から身体を動かし、探検し、感覚と思考を使う機会がたくさんありました。そのおかげで、おのずとたくましく、健全に発達していただけなのです。
たとえ現代に生まれても、過去の子どもたちみたいにたくましくなれるでしょうか。その答えのひとつが森の幼稚園の取り組みです。
幼少期に自然の中に飛び込み、全身で体験することは、心身の発達に、どんなよい影響を与えてくれるでしょうか。
この本の中の経験談や、科学的な裏付け研究を読んでいて気づいたのは、大自然の中に引っ越したわたしが今、実感していることばかりだ、ということでした。わたしは今、森の幼稚園に入園したて、1年目の生活を送っているようなものだったのです。
もくじ
これはどんな本?
森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書は、自然教育者イングリッド・ミクリッツによる、ドイツの森の幼稚園の取り組みについての指南書です。
2000年に刊行された20年も前の本ですが、欧州各国でロングセラーになりました。当時よりさらに自然が減っている今日の社会に必要な一冊です。
人類の歴史の長きにわたって、森を含めた自然界とのつながりは当たり前のことでした。子どもたちは森や野原で学び、畑仕事や家業を手伝って育ちました。
ところが産業革命後、そうした生活が失われました。その中で、身近な自然が失われたことを嘆き、子どもたちを自然の中で育てることの大切さに注目する人たちが現れました。
森の幼稚園の取り組みをさかのぼると、1892年にスウェーデンで設立された野外生活推進協会(Friluftsfrämjandet)や、1950年代なかばにデンマークでエラ・フラタウがはじめた、子どもたちを森に連れて行く活動に源があるそうです。(p2)
その後、1968年にはドイツで初めて森の幼稚園が自治体から認可されました。(p3)
日本でも2005年から「森のようちえん全国交流フォーラム」が開催され、2009年からは「NPO森のようちえん全国ネットワーク連盟」が活動しているそうです。(p xiii)
この本は、実際的な方法論についての本なので、気軽な読み物にはあまり向いていません。でも森の幼稚園ではどんな活動が行われ、何を目指すかを知るには役立ちます。
森の幼稚園の体験をつづった読み物としての本は、他にもたくさん出ているようなので、目的に合わせて読み分けるのがいいと思います。
森の幼稚園で育った子どもはどこが違うか
貴重な幼年期を、森の幼稚園で過ごすことには、どんな価値があるのでしょうか。これについては、統計上のデータという答えがあります。
この本のp362-371に載せられている森の幼稚園出身の子どもと、普通の幼稚園出身の子どもを比較した種々の研究では、たとえば、以下のような能力が高いことがわかりました。
・授業中の共同作業
・大きく体を動かす運動能力
・手元にある情報から新しいことを導き出す創造力
・不満があってもあまり攻撃的にならない
・ご褒美にあまり左右されない
・集中力
森の幼稚園出身の子どもは、普通の幼稚園出身の子どもより、多くの点でよりよい成績を残しました。進学してから学業に苦労することはなく、かえって適応能力が高いことがわかりました。
注目に値するのは、一般的な幼稚園では「扱いにくい子」とみなされるような子どもたちが森の幼稚園では役割を持てることです。
森の幼稚園の保育者たちは、伝統的な幼稚園では、いわゆる扱いにくい子どもとして目立つ子どもたちが、森の幼稚園では、異なる環境の下、感情的にも社会的にも溶け込み、グループの一員となる、と報告している。(p241)
このような「扱いにくい子」は、普通の幼稚園なら問題行動を起こしていずれ医者に紹介され、発達障害や愛着障害と診断されるような子どもたちでしょう。
遺伝的に周囲になじみにくい、または家庭環境のせいで問題を抱えている子どもたちは、森の幼稚園では孤立しにくくなります。
裏を返せば、普通の幼稚園や小学校で「発達障害」や「学習障害」とみなされる子は、その子自身の脳の欠陥のせいで問題児になってしまっているわけではない、ということになります。
もしそうした子どもが、森の幼稚園のような環境で育てられたら、問題児になるどころか優れた才能やリーダーシップを発揮できるかもしれないのです。
これは、女の子のADHDについて先駆的な研究を行ったことで知られるカナダのクラウス・ミンデ博士が、早くも1975年に語っていた次の洞察と一致しています。ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたかに、こう引用されています。
自分たちの周りの世界との間で困難を感じる子どもたちの多くは、初めから多動症ではなく、自分たちの発達に必要な要素を提供してくれない環境に対して反応しているのである。
こうした発達上で必要とされるものの理解は、われわれが、学校、家族、それに子ども自身を含む子どもの生活空間の全体を評価する特に得られる。(p249)
前に紹介したピーター・ラビットの作家ビアトリクス・ポターはともすれば問題児とみなされるかもしれない子どもにとって、自然豊かな環境が役立つ希有な一例です。
彼女は生まれつき周囲となじみにくいタイプだった上に、母親との確執がありました。
しかし、子ども時代の多くを森の中で過ごした経験によって、世界的な作家につながる創造性を開花させました。
では、森の幼稚園のような自然の中で育った子どもたちは、具体的にどんな恩恵を受けるのでしょうか。5つのメリットを考えてみましょう。
1.運動パターンが発達する―簡単に転んで怪我しない
森の幼稚園というと、親が心配するのは、事故や怪我の危険でしょう。
しばしば山で遭難したり、川で溺れたりして誰かが亡くなったというニュースも報道されるので、自然は危険だと感じる人が多くいます。
しかし、そうしたイメージに反して、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書によると、森の幼稚園で育った子どもは、かえって怪我が少なくなることがわかっています。
しばしば、一般的な幼稚園より森の中での方が怪我の危険性が高いと思われるが、これは経験に反している。
一定の慣らし期間後に、子どもたちの動作の確実さが急速に増すことは確かである。(p131)
すでに引用した統計データでも出ていましたが、森の幼稚園の出身の子どもは、そうでない子どもより、運動機能が発達します。
さまざまな経験を通して、身体的な運動パターンのバリエーションが豊富になっていくので、かえって危険に対処するのがうまくなります。
自然環境ではつまずくこともあるが、それはそれで良い。
というのも、つまずくことで転ぶことを学べるし、転べる者は、怪我をする危険にさらされることが少なく、自分の身体を評価することを学び、いざというときには体得した運動パターンをひっぱり出してくることができるからである。(p222)
野原や森でつまずいたり転んだりするという体験は、運動パターンを豊富にします。子どもは失敗できてこそ成長していけます。
一方、子ども時代のほとんどを、建物の中で育てられた子どもは、そうした臨機応変な運動能力を発達させることができません。
室内の普通の平らな床面では、比較的同じような動きばかりになる。子どもは、特に床面に気をつけることなく走ることができる。
これが平らではない床面では、さまざまな動作をしなければならない。自然環境では、幼稚園の時間中ずっと、平らでない土地で動かなければならない。
この事実だけですでに、バランス感覚を持続的に訓練する結果となり、運動器官の負担が偏るのを防ぐ。(p222)
この違いは深刻です。ちょっとやそっとでは怪我しない子になるか、簡単にバランスを崩したの転倒したりする子になるかが左右されます。
日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめという本によると、現代っ子のなかには、自然の起伏に富んだ地面をまったく経験しないまま育てられる子もいます。
森林学校のような野外体験教室は[ヨーロッパでは]デンマークから広がって、英国をはじめ各地で取り入れられた形態で、野外での遊びや学習を通じて、子どもたちを教育し、前向きな気持ちを促すことを目指している。
体験が終わって帰るころには、子どもたちは自信も増し、自分への評価も一段と上がっているが、最初はおっかなびっくりだ。
指導者のひとりシアン・ジョーンズは、「はじめのうち、森に入ると考えただけで泣き出す子さえいます
……なかには平らでない地面を歩くのもままならない子もいますが、それまで舗装した道路か絨毯の上しか歩いたことがないに違いありません」と警鐘を鳴らす。(p194-195)
現代では「舗装した道路か絨毯の上しか歩いたことがない」子どもは珍しくないでしょう。都会で育てられた子どものほとんどがそうかもしれません。公園でさえ地面は真っ平らに整地されているからです。
そんな子どもが森の幼稚園に連れてこられると、最初は怖くて泣き出すかもしれません。
でも、しばらく森で過ごすうちに「子どもたちは自信も増し、自分への評価も一段と上が」ります。
子どもは、柔軟に新しい環境に適応していくことができます。でこぼこに隆起する丘や、木の根が張り巡らされた複雑な斜面を歩く方法を覚え、すぐに危険を避けて歩き回れるようになります。
現代の大人たちは、子どもを怪我から守ろうとして、柵に囲まれた平坦な公園や、やわらかい絨毯の上で育てようとします。
しかし、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書で指摘されているように、そうした配慮は子どもたちの適応能力を軽く見ています。
私たち大人が、繰り返し驚かされるのは、森の子どもたちがいとも簡単に色々な状況を“甘受して”しまうことである。
心配性な親は、氷点下で子どもが過ごすのを避けさせるが、そうした親に対して私たちは、子どもたちがこうした経験をすることを差し控えないようにと、励ますべきである。(p224)
現代の親は、良かれと思って、子どもを自然界から遠ざけます。でもそれは、危険を避ける方法を学ぶ機会から、遠ざけてしまっていることになります。
確かに、ADHDのような好奇心にあふれた活動的な子どもは、現代社会では危険と隣り合わせです。ボールを追いかけていったら、道路を走ってきた車にはねられるかもしれません。
わたしたちの社会では、そうした子どもを守るには、行動を制限するしかありません。好奇心を殺してでも、狭い建物や公園の中だけで生活するように強いるほかないでしょう。
昨今騒がれている「ゲーム障害」の原因は、大人たちが子どもが遊べる野山をなくしてしまったことにあると考える専門家もいました。
一方、子どもたちが、森の中、自然の中で育っていたころは違っていました。
山や川にはさまざまなレベルの危険があります。子どもは段階的に危険について学べます。好奇心に導かれて探索する中で、危険の避け方を学べます。
好奇心には、自由と時間、そして空間(そして見られていないこと)が必要で、子どもは、危険を冒すことができなければならない。
閉じられた空間では、危険を冒す自由よりも、管理された危険のほうが多く存在している。それによって、好奇心に基づく行動は弱まる。
計算できない、驚きのある、そして未知の状態が、まさに自律的な構造を持つ自然環境には存在し、子どもや保育者の好奇心に基づく行動を、自由に解き放ち、満足させることができる。
好奇心は可動性を必要とする。(p228)
森や川はもちろん、火を使って料理することであれ、包丁を使って食材を切ることであれ、危険を伴う活動は昔からたくさんあります。
だからといって、ずっと子どもを遠ざけていたら、いつまでも危険にうまく対処できるようになりません。
用心深いことは身の守りにはなります。でもずっと好奇心を抑えていたら、生きていくための知恵が身につきません。
少しずつ、段階的に経験して慣れてこそ、日常に潜む危険に、うまく対処できるようになります。
子どもは、初めのうちは用心深い。基本的にその反応は正しく、もっともなことだ。
人間の持つ自然な防衛反応である。子どもは、危険を過大に見積もった経験を何度も繰り返すことによって、不安がなくなっていく。
生き物やその生活習慣を知ることによって、生き物と比較的恐れのない関係になる。(p94)
わたしも、ADHD気質で、好奇心が強い性格です。子どものころ外国旅行に行ったときには、知らない土地なのにぐいぐい進んでいくのでたいそう心配されました。
わたしは、危なっかしく、無謀でした。確かに、大都会で育つ子どもにとって、好奇心のままに動きまわるのは危険です。
やがて、大自然のなかに引っ越してきてからも、わたしは好奇心に導かれて探検し始めました。
街灯のない真っ暗な夜道をサイクリングしたときには、野生動物を怖がってびくびくしていました。家のすぐ近くでさえ、ちょっと山の中に入れば、クマが出るんじゃないかと恐れました。
しかし、数ヶ月生活していると、家の近くにそんな危険な野生動物などいないことがよくわかってきました。真っ暗でも、地形を把握すれば、安全に移動できるようになりました。
半年も過ごすころには、野生動物の行動パターンもわかってきて、どこまでは行ってもよいか、どこからは危険か、ということを経験から理解できるようになっていました。
さまざまなアウトドア用品の扱い方も習得して、危険を避けて山や森を探検できるようになってきました。雪の道の歩き方も、足を滑らせながら覚えました。
森の幼稚園の子どもたちも、きっとこうやって、少しずつ危険に対処する方法を学んでいくのだろう、と感じました。
道路に飛び出せば車にひかれるような大都会では好奇心は危険です。しかし、自然界の中では、危険が段階的に存在しているので、スモールステップで慣れていくことができるのです。
2.あいまい性耐性が身につく―「白黒思考」にとらわれない
現代は白黒思考がはびこる時代です。
善か悪か、敵か味方か、安全か危険か、どちらかでないといけない、という考え方です。全か無かで判断する白黒思考は、多面的な思考の対極にあります。
昨今の国際情勢をみると、世界中でこの考え方が席巻していることがわかります。世論が2種類に分断され、自分たちと異なる人種や宗教は悪だと決めつける人が増えています。
ずっと前の記事で書いたように、白黒つけなければ気持ちが収まらないのは「あいまい性耐性」が低い状態です。
あいまいな物事への耐性が低いと、考え方に柔軟さが欠け、不適応や衝突を起こしやすいことがわかっています。
あいまい性耐性の低さを抱える人の中に「境界性パーソナリティ障害」(ボーダーライン)の人たちがいます。
不自然な生育環境で育った結果、あらゆることを白か黒か、敵か味方かに分けて考えてしまうようになります。
たとえ境界性パーソナリティ障害ほど極端でなくても、現代社会で育った人たちは、多かれ少なかれ、あいまい性耐性の低さを抱えているものです。わたしもある程度そうです。
森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に書かれているように、現代社会の構造では、あいまいさが極力取り除かれているからです。
大半の保育者にとっては、自然環境において制御されていないこと、自然のままで手の入っていないこと、複雑で予測不可能なこと、そして整然としていないことを受け入れるのは難しいかもしれない。
結局のところ、私たちは来る日も来る日も、文化的な縛りやあらかじめ基準として与えられた構造に直面している。(p41)
人工的な都市では、不確実な要素はほとんどありません。電車は時刻を守り、学校や会社は決められた日程に従って活動し、商品はいつでも手に入ります。
しかし、自然界では「制御されていないこと、自然のままで手の入っていないこと、複雑で予測不可能なこと、そして整然としていないこと」がはるかに多くあります。
自然の中で暮らしてみると、不確実であいまいなことだらけだと気づきます。
道の状態は毎日変わります。手に入る食べ物は日によって違います。きれいなままでいることはできず、何かしら汚れます。吹雪の日は外出できません。
ポケモンを全種類丸暗記することができる子どもは大勢います。図鑑をすべて埋めて完璧主義が満たされます。しかし自然界の生き物はあまりに多く、複雑で、完璧主義は打ち砕かれます。
自然界とともに暮らすというのは、あいまい性を受け入れるということです。白黒つかない状況、はっきりとわからない見通し、完璧には理解できない状況を楽しむ気持ちが必要です。
ところが、自然界から遠ざかった現代社会の人たちは、自然を勝手に白か黒かに分けるようになりました。益虫と害虫、善玉菌と悪玉菌、ハーブと雑草など。
わたしたちは自然界の生き物を、良いか悪いかに区別できると思い込まされています。でも、これはマスコミや商業体制が作りだした架空の分け方です。科学的事実ではありません。
自然界を観察すると、あらゆる動植物は白にも黒にも分類できないことがわかります。
すべての生き物が相対的な役割をもっています。害を及ぼしているようにみえて、益をもたらしていることがあります。
ほぼすべての植物や動物は、複数の食物連鎖の構成員である。ある動物が獲物を狩りもすれば、自らが獲物である。
特定の人に責任があると一方的に決めつける子どもたちは、自然の中で、特定の出来事には意味や必然性があるのだというヒントに遭遇する。(p124)
自然界の仕組みをよく知り、学ぶにつれて、この世界は白か黒に二分することはできない、ということがわかってきます。
自然をよく観察できる環境で育てば、子どもたちは「特定の人に責任があると一方的に決めつける」ような態度にならずにすむはずです。
たとえば、クマにあったらどうするか: アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 (ちくま文庫)のに書かれている、アイヌ民族の考え方を見てみましょう。
昔から地球上に、お前たち生きろと神様から言われて分布しているものは、生きていてほしいと思うね。
虫一匹だっていなければ人間には困ることだってあると思う。たとえば花粉を運ぶ虫なんてね。畑を作っていて害虫が増えたからって、みな殺してしまう。
そうすると、チョウがいなければ花粉を運んでもらえない。人間に悪い面があっても、人間の役にも立っているんだと思うんです。
それから木が育つのが遅いからって、育つのがはやい針葉樹ばかり植林しても、そこには小鳥も何も住めない。そうするとバランスが崩れる。
だから生きているものには、それぞれの働きがあるんです。人間だけが生きればいいと考えていると、人間も最後にはひどい目に遭って死んでしまうと思うんですよ」(p316-317)
どんなものにも役割が与えられてこの世に存在するという、このアイヌ民族の思想は、アイヌ語で「アイヌモシッタ ヤクサクペ シネプカ イサム」(この世に無駄なものは一つもない)と表現されるそうです。(p317)
森と大地の言い伝え によれば、アイヌ民族はもめごとを解決するとき徹底的に討論しましたが、白黒はっきりつけようとはせず、非がある相手にも逃れ道を残しておいたそうです。
アイヌ民族は昔、何か問題があったときにはチャランケでもめ事を
解決した。「ウコ・チャランケ」というのは徹底討論、徹底論争と いってもよいだろう。 しかしだからといって、チャランケは相手を
徹底的にやり込めたり、追及することではない。
たとえ相手に100%の非があったとしても、ちゃんと相手に逃げ 道を残しておくものである。これがアイヌ民族の真の優しさ、 度量であり、アイヌ民族の流儀である。(p327)
自然界の生き物をよく観察したアイヌの人たちは、「特定の人に責任があると一方的に決めつける」ようなことはしなかったことがわかります。
おもしろいことに、コケの自然誌によると、遠く離れたアメリカの先住民族たちのあいだにも、どんなものにも役割が与えられてこの世に存在するという同じ概念があります。
ネイティブアメリカンのものの考え方では、すべての生き物にはそれぞれの役割があるとされる。
生き物はそれぞれ、特有の才能と知恵、魂、物語を生まれながらにして持っている。
私たちに伝わる言い伝えでは、それらは最初の指示として創造主が与えたものである。(p158)
アイヌとネイティブアメリカンが、この同じ結論にたどりついたのは、どちらも自然界とともに生き、自然界をよく観察することで学んできた部族だったからでしょう。
ネイティブアメリカンによれば、人間に与えられた役割は「尊敬することと管理すること」です。自然界のあらゆるものに敬意を抱き、世話する責任があります。(p172)
しかし、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に引用されているように、ネイティブアメリカンの
「命あるすべてのものへの畏敬の念が不足していき、すぐに人々への
今日、国家間や宗教間、SNS上で繰り広げられる対立を見れば、そのとおりになっているのではないでしょうか。
自然をよく観察できる環境で育てば、そうした不毛な白黒思考から解放されます。
世の中は白か黒かはっきりしたオセロのようなゲームではなく、複雑な生態系から成り立っていることを知れるのです。
3.ストレスへの対処を学ぶ―原因不明の心身症を防ぐ
このブログでは、子どもが抱える原因不明の心身症について、たくさん扱ってきました。
その中には、たとえば、子どもの頭痛、腹痛、発熱、さらには、起立性調節障害、慢性疲労症候群、線維筋痛症といった病名で呼ばれている慢性的な体調不良があります。
子どもが原因不明の心身症を抱えるきっかけはさまざまです。子ども自身にも親にも原因がわからないこともあります。
わたしがそうだったように、ドクターショッピングに泥沼にはまりこむこともあります。
しかし、わたしは自分で理由を調査して、子どもが抱える原因不明の体調不良の大半は、以下のいくつかの記事に書いた内容で説明できると考えるようになりました。
わたしたち人間は、子どもも大人も、人間である以前に、動物の一種です。ストレスのかかる状況に置かれたときは、まず動物たちと同じように反応します。
動物たちは、ストレスにさらされても心を病むわけではありません。そもそも心というのは、身体や脳の化学的反応から生み出されるものだということを、現代の科学は証明しています。
動物たちは、ストレスのかかる状況に置かれると、心を病むのではなく、まず身体的な反応を示します。
交感神経系が興奮して、闘争/逃走モードになることもあれば、逆に凍りついて動けなくなることもあります。
ずっと慢性的にストレスを感じていると、いつも筋肉が緊張して張り詰めていたり、疲れ果ててしまったりします。見えない丸太を背負い続けているようなものです。
子どもはこうした慢性的なストレスを自覚できないかもしれません。
たとえば、敏感な子どもなら、ごく普通の都市の騒音や学校生活でも負担がかかります。みんなと同じ環境にいるだけで体調不良になるので、原因がつかめません。
こうして、神経系が慢性的に興奮し、行き場のないエネルギーが身体に閉じ込められた結果、理由もわからない、痛みや疲労や体調不良に悩まされるようになります。
わたしもそうでしたが、現代の子どもは、ずっと都市や学校や家庭に縛られているので、どこにも逃げ場がありません。ストレスは身体に閉じ込められる一方で、限界を越えてしまいます。
しかし、自然界の動物たちの場合、これは起こりません。動物たちもストレスを感じて緊張したり疲労したりすることはありますが、身体に閉じ込められたエネルギーを発散できるからです。
同じように、森の幼稚園の子どもたちは、自然の中で、日常のストレスをうまく発散することを覚えます。
“ドアや壁のない”森の幼稚園は、攻撃性が身体に鬱積することがまったくない、という効果がある。
森には攻撃性を取り除き、創造力に変える可能性がある。(p31)
わたしは、以前の記事に書いたように、都会で暮らしていたころ、数ヶ月に一度、発熱発作を起こしていました。
神経科医オリヴァー・サックスの考察を読んで知りましたが、それは無意識に身体に溜め込まれていたストレスのせいでした。限界を迎えるたびに噴火が起こっていたようなものだったのです。
ところが、大自然の中に引っ越してきてから、この発作は起こらなくなりました。
毎日、自転車で森や川のそばを何キロもサイクリングすることで、たとえストレスを経験しても、内側に溜め込まず発散できるようになったのだと思います。
森の幼稚園で育った子どもは、もっと幼いころに、その方法を学びます。
成長とともにストレスを感じ、体調が悪くなることもあるかもしれませんが、自然豊かな場所でリフレッシュできます。都会で育った子どもと違って、逃げ場を持っています。
あなたの子どもには自然が足りないによれば、ストレスにさらされる子どもたちにとって、身近に自然のある環境が支えになることは、数多くの研究の裏付けを得ています。
ピーター・カーンは『人間と自然との関係』の中で、自然の中で過ごすことの主な利点の一つがストレスの軽減であることを裏づける100以上の研究について指摘している。
2003年には、コーネル大学の環境心理学者たちにより、窓から自然を眺めることのできる部屋では子供がストレスを感じないこと、そして身近な自然が農村地帯の子供の精神衛生のための重要な要素であることが明らかになったという報告がなされている。
コーネル大学のニューヨーク州立人間生態学カレッジでデザインおよび環境分析学助教授を務めるナンシー・ウェルズはこう指摘する。
「調査の結果、自然が少ない環境で暮らす子供に比べ、豊かな自然環境で暮らす子供たちにとって、日常受けるストレスは心理的にそれほどの苦しみとはならないことが明らかになった。
そして、最高レベルの日常的ストレスを受けている最も傷つきやすい子供たちに関して、身近な自然が与える保護効果は最も顕著である」(p69)
自然の中で過ごすことは「最高レベルの日常的ストレスを受けている最も傷つきやすい子供たち」を保護するのです。
森の幼稚園で過ごすことは、ストレスに対して、健全な耐性を身につけるのに役立ちます。
以下の記事の補足部分で詳しく書きましたが、子ども時代のストレスについて、興味深いことがわかっています。
ストレスが多すぎると子どもは壊れますが、少なすぎても虚弱になってしまいます。中程度のストレスを経験してはじめて、ストレスにうまく対処する柔軟さを身につけられます。
多すぎても少なすぎてもいけない、というこの特徴(ゴルディロックスゾーンと呼ばれる)は自然界のさまざまなしくみに見られる普遍的なものです。
さっきも書いた、ある程度までは危険を経験しないと対処能力が育たないという話も同じです。
森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書によると、森のような自然環境は、まさにその中程度のストレスを経験できる最適な場所です。
小さい子どもにとって最適なのは、慣れ親しんだ刺激と新しい一風変わった刺激の中間にある環境である。
この条件のすべてを、自然に密着した環境は満たしている。(p104)
自然の中で過ごすと、不自由さや不快さを感じることもあります。ほしいときに水がなかったり、泥で汚れたり、虫にたかられたり、寒かったり暑かったり、足元がおぼつかなかったりします。
しかし、それらは厳しすぎるストレスではありません。次第に慣れて、うまく対処できるようになります。
自然の中で中規模のストレスを経験して育った子どもは、ささいなことでは圧倒されなくなり、ストレスがかかっても、自分で工夫してやりすごせるようになります。
しかし、自然から隔絶され、空調の効いた安全な部屋の中で、決まった時間に食べ物が出てきて、平坦な地面の上ばかり歩いて育ったなら、自分で自分の面倒をみることを学べません。
ストレスをうまく発散したりやりすごしたりする方法がわからず、ただ自分の中に閉じ込めてしまい、いつか原因不明の体調不良という形で破綻してしまうのです。
4.自分で考えて行動する―「指示待ち族」にならない
だいぶ昔、自分で考えて行動できない若者が現れはじめたとき、「指示待ち族」と呼ばれるようになりました。
たとえば、不登校の慢性疲労症候群について解説した学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書) にこんなエピソードがあります。
S君は17歳になった。高校でうまくいかず、二回目の二年生である。
…頻繁に電話をかけてくる用件は「今日一日、何をすべきか、何をしたらよいのかを教えてほしい」というものである。
私が留守のときは、医局の誰彼となくつかまえて質問する。…答えるほうもたいへんであるが、なにも自分で決められない彼はもっとたいへんだ。(p78)
しかし、今や「指示待ち族」なんて言葉も古くなった感があります。そんな若者ばかりなので、わざわざそう呼ぶ必要もなくなったからです。
どうして自分で考えて行動できないのでしょう。それはきっと、ずっと周囲が決めたことばかりやらされてきたからです。
自分で考えて行動するチャンスを与えてもらえなかったから、やり方がわかりません。
人工的な環境では、身の回りのあらゆるものが用途を決めてデザインされています。
たとえば、普通の幼稚園に置かれている椅子は「座るためのもの」です。子どもたちは、椅子は座るために用いるよう教えられます。想像力をつかう余地はありません。
一方、森の幼稚園には椅子はありません。どうやって座るか、何を椅子にするか、ということから考えないといけません。
切り株に座るか、岩に座るか、木によりかかるか、地面にシートを敷くかは自由です。子どもたちは、どれをどう使おうか、自分で考えて決める経験を積みます。
森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に書かれているように、自然界のものは、どう使うべきか、あらかじめ決定されていません。アイデア次第で工夫できるのです。
ここで大事なことは、構造をつくり出すのは人間ではなく、自然が構造をつくり出しているということである。
それゆえに、子どもたちは森の中で、より自由に解釈するのであり、大人たちからの特定の期待(特定の物事の扱い方、利用方法)による圧力にさらされることはほとんどない。(p46-47)
現代社会で生まれ育った人は、用途の決められた工業製品なしでは生活できません。
ある日突然、ハサミがなくなったら、ライターやコンロがなくなって、しかもどこにも売ってなかったら、どうしたらいいのでしょう。
自然の中で暮らしていた昔の人たちはどうにでも工夫できたことでしょう。でも現代人は知りません。
コケの自然誌を呼んでいて、おもしろいな、と思ったのは、先住民族たちがコケをどのように使ったか、という話です。
どこにでもあるコケの使い方を現代人はまったく知りません。しかしネイティヴ・アメリカンはコケを幾通りにも活用しました。
当時の母親たちにとってミズゴケを入れた袋は、おそらく、今日どこにでも見られるおむつ用バッグ同様、なくてはならないものだったことだろう。
乾燥したミズゴケがたっぷり持っている空気穴が、赤ん坊の肌からおしっこを逃がす。湿原で水分を吸い上げるのと同じことだ。
酸性で収斂性があり、若干の殺菌作用を持つという特徴が、おむつかぶれを防ぎさえした。
…多くの伝統的な文化において「ムーンタイム」と呼ばれる月経の期間中も、女性の生活とコケは深く結びついていた。乾燥したコケは、広く生理用ナプキンとして使われていたのだ。
…女性たちがいろいろな種類のコケを見分けることに長けていて、それぞれの特徴を熟知し、リンナエウスよりもずっと早くに詳細な分類法を確立していただろうことは、避けがたい結論に思える。(p170)
おむつにしても生理用ナプキンにしても、今はみんな既製品を店で買って使います。でも、そんな商業製品がなかった時代でも大丈夫だったのです。
必要なものはみんな、自然界の中にあったからです。自然界の素材は、どれも特定の用途が決められてません。使う人の想像力しだいで、何にでも活用していいのです。
子どもが最も創造的になるのは、特定の遊び方のためにデザインされたおもちゃで遊ぶときではなく、自分で創意工夫できるおもちゃで遊ぶときです。
あなたの子どもには自然が足りない によると、ケンブリッジの建築家サイモン・ニコルソンは「ばらばらの部品」からなるおもちゃの楽しみ方には限りがなく、子どもたちの創造性を伸ばすのに最適だと唱えました。
この「ばらばらな部品」理論は、有名なレゴブロックや、マインクラフトをはじめ、ヒットした多くのおもちゃに組み込まれています。しかし、自然界に勝る「ばらばらな部品」はありません。
この「ばらばらな部品説」の根拠となるものとして、緑の自然の遊び場とアスファルトの遊び場を比べての遊びの研究がある。
スウェーデンで行なわれた研究によって明らかになったのだが、アスファルトの遊び場で遊ぶ子供たちは、何度も中断をさしはさんだ、細切れな遊び方をする。
その一方で、より自然に近い遊び場で遊ぶ子供たちは、一つの長大な物語を織りあげるあそびに何日もふけりつづけ、次々に物語の意味を創っては組み合わせ、その物語を完成させるのである。(p95)
レゴブロックやマインクラフトが世界中の子どもに大人気なのは、それが無限の遊び方をもつ「ばらばらの部品」だからでしょう。
でも本当はおもちゃもゲームもいらなかったのです。昔の子どもたちは、自然界の身の回りにある素材を使って、あらゆるものを自由にクラフトできました。
つまり、自然界はもともと、「ばらばらの部品」で成り立っているため、子どもたちの創造性を引き出すような構造になっているのです。
そうした自然界の遊び場を奪われて、部屋やゲームの中だけでクラフトが許されている現代の子どもは不幸だと思います。
森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に書かれているように、どれほどよいおもちゃに見えても、それは自然の代用品にすぎないからです。
工業生産された多くの遊具は、必要ないものである。
体育館やどろんこ遊び用溝付きテーブルは、野外にあるもっと良いもの、そして、お金のかからないもので代替すべきである。
美しく、冒険あふれるわくわくする自然の世界は、急速な勢いで縮小している。
その背景には、急速に拡大した商業主義的子ども文化産業が存在している。
いつになったら保護者や保育者たちは、これらの代用品に逆らい、子どもたちが独自に作りだす空間を与えようというコンセプトを持つようになるのだろうか。(p47)
大人たちは、子どもたちから無料で遊べる野山という遊び場を取り上げました。代わりに、金儲けのためにおもちゃやゲーム産業が作った製品を買わせるようになりました。
「急速に拡大した商業主義的子ども文化産業」の中で育った子どもたちは、幼いころから、さまざまな影響を受けます。
今日、子どもたちは、常に、遊び方をあらかじめ決められたおもちゃを買い与えられます。自分で遊び方を決める代わりに、テレビ番組やゲームの製作者の考えた遊びに取り込まれます。
その結果、子どもたちは自分で考えたり、創意工夫を働かせたりすることが苦手になっていき、大人からの指示を待つようになりました。そう育てられたからです。
しかし、自然の中の遊び場で、自分で考えて、想像力を働かせて、ものを組み合わせて使う経験を積んできた子どもたちは、決して「指示待ち族」にはならないでしょう。
5.自然界に対する愛着―「種の孤独」に陥らない
昨今、「愛着」という概念が知られるようになってきました。幼いころの親子の関係は、のちの人生に大きな影響を及ぼします。
愛着は心の問題ではなく、生物学的な問題です。幼少期にどんな身体的な体験をするかによって、自律神経系などの反応パターンが変化するのです。
子どもは親子関係の中で愛情に満ちた体験をするなら、人とのつながりからリラックスすることを覚え、健全な人間関係のパターンを身につけます。
しかし、不幸にも虐待されたり、機能不全家庭で育ったりして、適切な愛着が育まれないと、人とうまく関わる方法がわからず、人間関係に無関心になったり、執着したり、恐れたりするようになります。いわゆる「愛着障害」の状態です。
あなたの子どもには自然が足りない の中で、愛着理論の専門家である心理学者マーサ・ファレル・エリクソンは、これが自然との関係にも当てはまるのではないかと述べていました。
子供たちの自然の世界での体験は、子供の発達研究ではほとんど見過ごされてきたようです。
しかし、子供たちの幼児期の自然体験を調べ、それらが子供がその後も自然の中で満足感を得たり自然への尊敬を育むことにどのように影響を与えるのかについて追跡調査すれば、興味深い結果が得られることでしょう。
なぜなら、満足感と尊敬は、親子の愛着理論の研究の中心となる概念だからです。(p173-174)
自然界との愛着という概念が、人間の親子関係における愛着といかに類似しているかは、以前の記事で詳しく書きました。
親子の愛着という生物学的な絆は、感覚的体験を通して身体に刻み込まれ、無意識のうちの安心感や充足感をもたらすようになります。
同じように、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書にも書かれているように、自然の中で過ごした子どもは、様々な感覚的体験を積み重ねます。
森の幼稚園は、世界を深く理解するための情緒的な基礎を形成することができる。
子どもは通常、最低一年をかけて季節の移り変わりと自分自身とを結びつける機会を得る。
春の香り、夏の華やかな色彩、秋の実りの贈り物、そして冬のかじかむ指の痛みといったさまざまな経験をすることで知識が増え、心身に刻みこまれる。
感覚器官を通してのこの強力な知覚による体験/経験は、長い記憶として特に強烈に定着する。(p68)
自然の中で豊かな感覚的経験をした子どもは、のちの人生で、自然の中でリラックスしたり、適度な距離感をもって自然と接することができるようになります。
フロイトは、「こころは忘れてしまう。でもからだは忘れない―ありがたいことに」と述べました。
言葉や知識だけの記憶は失われますが、感覚で経験した記憶は忘れることがありません。
「春の森のこもれびは心地よい」ということを単なる知識だけ記憶するのと、実際に体験して感覚記憶として知っているのとでは、まったく違います。
ただ知識として知っているだけの人は、それをイメージしてもリラックスすることはありません。森が破壊されるというニュースを聞いても人ごとです。
実際に体験して、感覚記憶として知っている人は、その温かさや落ち着きを身体的に思い出して、リラックスできます。森の心地よさ、大切さを本当の意味で知っているので、自然を守りたいと心から感じるでしょう。
具体的に全身の感覚を通して体験してはじめて、知識は生き生きとした意味をもつようになるからです。
子どもたちが生き物との出会いを自然の連関の中で体験すると、その学習プロセスはまた、違った意味を持つだろう。
本物の原体験や、すべての感覚器官を動員して語られたことは、情緒的な関わりをつくり出し、さまざまな問いを立てるきっかけになるかもしれない。
ここで初めて、ものごとの情報がその然るべき持ち場を得る。(p68)
一方、子ども時代に自然とふれあうことができなかった子どもは自然に対する愛着障害に陥ります。
自然と関わる肯定的な感覚体験がないので、自然環境に無関心になったり、過度に執着して過激な保護運動に身を投じたり、自然を恐れて近づこうとしなくなったりします。
たとえば、自然界にある本物の暗闇を経験したことのない都会の人たちは、暗い場所を恐れて、次々に照明を増やし、光害を増やして環境を破壊しています。
都会の人たちは暗い場所は危険で犯罪に遭いやすいと考えます。しかし、統計が示しているのは逆です。
本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか によれば、明かりを増やせば、健康被害が増えるばかりか、夜にうろつく犯罪者が増え、対象を見つけやすくなるからです。(p98,104)
また、自然とふれあったことのない人は野菜に虫が入っているだけで大騒ぎします。虫がいるのは良好な土や健康な野菜の証拠なのに、殺虫剤や農薬で虫を殺すことを要求します。
細菌のいない「清潔な」殺菌された商品を好む一方、虫や細菌を殺す薬剤が人間にも有害かもしれないとは考えません。
自分も生物の一種であり、地球の生態系の一員であることをすっかり忘れていているからです。
こうした生き物として不自然な恐れや不快感は、いずれも子どものころに自然を身をもって体験していないことからきています。
たとえば、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に書かれている、こんな体験です。
自然との出会いには、自然の中で生きる動物たちから感じる自分の恐れや不快感に、意識して対峙することが含まれる。
この恐れを自覚することが、精通することへの第一歩である。
生命共同体の森の中でのクモの重要性を知ると、いつの日か不快感なく手の甲の上でクモを歩かせることができるようになる。
…自分たちを同時代の世界の一部として身をもって体験する、つまり生物全体の一部としてとらえるところまで来れば、大きな一歩が踏み出されたといえるだろう。(p87)
現代の都市は、人間以外の生き物を徹底的に排除してきました。野生動物はほとんどいなくなり、動物はペットショップか動物園に隔離され、虫や細菌は殺され、生態系が破壊されています。
そんな環境で育ったなら「自分たちを同時代の世界の一部として身をもって体験する、つまり生物全体の一部としてとらえる」ことなど不可能です。
わたしも今でこそ自然が好きですが、子どものころから虫が苦手で大騒ぎしていました。動物に触ることもできませんでした。
しかし、不思議なことに、大自然の中で生活するようになってから、急速に虫に慣れました。
といっても、曝露療法のように、嫌いなものに徹底的にさらされたから恐怖心が麻痺したわけではありません。
都市や人工物の中で見かける虫はいまだに気持ち悪いのに、森や野原で見かける虫は美しいと感じます。手を伸ばして触ることもできます。
もしかすると、周囲の環境や背景と調和した、本来いるべきところにいる虫は、あまり警戒心をかきたてないのかもしれません。
生物学者デヴィッド・ジョージ・ハスケルは、ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球 の中でこう説明しています。
ショウジョウコウカンチョウや、アカフウキンチョウは、環境から切り離された図鑑の中で見るとけばけばしさが目立つ。
だが森の沈んだ緑色の中では光のスペクトル中、赤の部分が弱い。「華やかな」赤い鳥も、森の日陰では沈んで地味な色調に見えるのだ。
…カモフラージュ(隠蔽擬態)している動物は、まわりの環境の色相や明暗に合わせるだけでなく、その表面の質感も、背景のリズム感やスケール感と同じでなくてはならない。
周囲の環境の見え方と少しでも違えば視覚的な不協和音が生まれ、擬態に失敗するかもしれない。(p256)
鳥や虫は、環境に溶け込むような色や形をしています。だから森の腐葉土の中など、生息環境の中で見るとよく調和していて、「けばけばしさ」がそんなにありません。
しかし、人工的な都会の風景や家の中では、虫の色や形は、背景から浮いていて、けばけばしく気持ち悪さが際立ち「不協和音」を響かせてしまうのです。
(追記 : のちに東大が似たような仮説を発表したことを知りました。わたしの体験談は研究の内容とよく一致しています。なぜ現代人には虫嫌いが多いのか? ―進化心理学に基づいた新仮説の提案と検証― | 東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部を参照)
残念ながら、わたしたち人類は、他の生物から、あまりに遠く離れた場所で生きるようになってしまいました。
植物と叡智の守り人によると、哲学者は、人間だけが自然界から切り離された「種の孤独」に陥っていると述べました。
哲学者は、孤立して他者とのつながりを失ったこういう状態を「種の孤独」と呼ぶ―周りの生き物たちから遠く離れてしまったこと、関係性の喪失からくる、深い、名前のない悲しみだ。(p267)
しかし、たとえ他の生物を遠ざけようが、人間は生き物の一種にすぎず、地球の生態系から切り離されたまま生きることはできません。
わたしたちは生きるために、食物として他の生き物を必要とします。食物の生産過程がどれほど社会で隠されてきたとしても、わたしたちの他の生き物の死の上に生きています。
いくら文明人が自然から切り離された生活スタイルを構築しようが、電脳空間で生きるというわけにはいきません。
自分たちが生物種の一種であり、有機体の身体を持っているということは変えようがありません。
現代の慢性病や発達障害といった健康問題の多くは、わたしたちが健全な生態系から切り離され、生き物として機能不全に陥ってしまった結果だと言われています。
闘う微生物―抗生物質と農薬の濫用から人体を守るに書かれているように、「自然は私たちを必要としないが、私たちには自然が必要」なのです。(p185)
自然から切り離されて育った人はそれを認識できませんが、自然との愛着を形勢して育った人はそれをよく知っています。
健全な親子関係で育った子どもが、家族や身の回りの人を敬うことを覚え、大切にするのと同じです。そのかけがえのない価値を身をもって知っているからです。
自然と触れ合って育った子どもは、この地球と、そこに生きるすべての生き物がかけがえのない存在であることを知っています。それらなくして人間は生きていけないことを、感覚によってわきまえ知っています。
わたしは森の幼稚園の1年目みたいなもの
こうして森の幼稚園のいろいろなメリットを書いてきましたが、結局のところ、言葉だけでは何も伝わらないでしょう。
たぶん、この記事をここまで読んでくださった方がいたら、もともとご自身が自然と触れ合った経験を持っておられるか、さもなくばよほど多様な情報に興味のある方でしょう。
先にも触れたように、現代人の大半が、あまりに自然とふれあう機会がないせいで、自然への愛着障害に陥っています。自然に対して無関心になり、情報を学ぼうとさえしません。
わたしは自分の経験や、主治医が話してくれた幾つもの臨床経験を通して、不登校など現代っ子が抱える問題の大半は、大自然の中で暮らすことで解決すると思っています。
でも、このブログにそんな話を書こうが、ほとんど読まれないのが現実です。大半の人は、どんな薬が効くか、どんな医学的措置が役立つかしか関心がないからです。
自然と触れ合うことは、選択肢として見向きもされません。現代の子どもたちはもちろん、その親たちも、ろくすっぽ自然と触れ合った原体験がないせいで、それが健康な発達にどれほど役立つか、想像だにできなくなってしまいました。
わたしは、人類はもう取り返しのつかない一線、ポイント・オブ・ノーリターンを越えてしまったと思います。
ここまで環境が破壊され尽くし、自然界の動植物が第六の大量絶滅期と呼ばれるほどのスピードで消失し、気候変動の危機が現実になっているのに、自然と調和した生活の価値を認める人はほとんどいません。
国家、大企業、主要宗教などは、みな自分の利益ばかり追求して、地球のことは見て見ぬ振りで、後回しにしています。これでは人類が生き残ることは無理でしょう。
もう種としての、集団としての人類全体は衰退を免れえないでしょう。でも失われた、自然を読む力にも書かれているように、個人としては別の選択肢を選ぶことができます。
われわれは個人としては自由意志を持っているが、種としては持っていない。
個人として進路を決められるが、集団としては予測可能な道を歩く。
個人が分岐点で曲がる方向は予測できないが、集団が曲がる方向は予測できる。(p281-282)
今回紹介した森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書の翻訳者である、東京大学名誉教授の教育学者、汐見稔幸さんもそうでした。
推薦の言葉によると、汐見さんは40代なかばのころ、都会で疲れた体を癒すために、ある山のふもとに向かいました。
それまで萩の花を美しいと思ったことはありませんでしたが、そのときは違いました。無意識のうちに体が反応し、自然と共鳴するかのように感じたといいます。
このとき以来、私には自然がどうしても必要だと思うようになりま
した。 外なる自然が、私の中の自然に働きかける。私の中の自然が
外の自然に共鳴する。すると、私の中に都会ではなかなかえられな い落ち着きが得られる。 …社会の中で生きることは、
人間には必要ですが、社会の論理は逆に、 人工的な論理への適応を人間に求めます。 そのために人間は自分の
自然なあり方を忘却し、無理して社会に合わせていることも忘れて しまうようなことが起こります。 その逆説に気づかせてくれるのが、森であり、自然なのではないか
、と思うようになったのです。(p vii)
わたしはというと、子ども時代の大部分を大都市で育ったので、自然への関心がない大半の現代人たちと同じ道を歩みかけていました。
でも、自分の病気について調査し続けた結果、思いがけず微生物学や生態学の研究に足を踏み入れ、もしかしたら自然界から切り離されたことが根本にあるのかもしれないと気づきました。
わたしは、幼少期にそこそこ自然と触れ合った経験はありますが、残念ながら、森の幼稚園のような理想的な環境で育てられたわけではありません。
だから、この本を読んでいて、もしこんな育てられ方をしたら、病気にも不登校にもならなかったのかもしれないのにな、と思いました。
それでも、読みながら気づいたことがありました。
この本の中で、園児たちが経験しているような出来事と同じような体験を、大自然のただ中に引っ越してきて、いま体験しているということです。
わたしは今、森の幼稚園の1年目の暮らしをしているも同じなのです。もうすっかり大人になって、園児というには大きすぎるけれど。
自然界の中で生きる経験があまりに不足しているので、幼稚園児と同じスタートラインから、日々学んでいるということでしょう。
でも、それはそんなに悪いことではありません。
わたしのような自然から切り離されて育った大人でも、ちゃんと大自然の中に来れば、森の幼稚園の園児たちと同じ経験ができる。
そして、何歳になったとしても、自然の中に帰り、自然から学びはじめるのに、決して遅いということはない、ということを教えてくれているのですから。
たとえ何歳になっても、母なる自然は、子どもであるわたしたちを喜んで受け入れてくれるのです。ただ、わたしたちの側に学ぼうという意欲さえあれば。
補足:自然の中での遊びはジェンダー(文化的な性差)にとらわれない
本文中で指摘したように、現代の子どもたちは、あらかじめ大人たちに決められた方法で遊んできました。大人たちがあらかじめ決めている要素のひとつは、文化的なジェンダーです。
おもちゃ売り場に行ってみると、「男の子向け」「女の子向け」にコーナーが分かれているのは一目瞭然です。子どもたちは決められた文化的な役割やジェンダーを押しつけられて育ちます。
脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼 (B&Tブックス)によれば、「女の子はおままごとが好きで、男の子はチャンバラが好きになったりするのは、小さいころの環境で刷り込まれた部分が大き」く「親が与えた環境で、子どもが無意識に学習していった結果」だと書かれています。(p163)
でも、自然界の中で遊ぶなら、まったく違うことが起こります。
あなたの子どもには自然が足りない に書かれているように、自然界で遊ぶ子どもたちは、男の子も女の子も一緒になって楽しめる遊び方を創造することができます。
スウェーデン、オーストラリア、カナダ、そして米国で、緑の多い遊び場をもつ学校と人工的な遊び場のある学校の子供たちを比べたところ、子供たちは緑の遊び場のほうがずっと創造的な遊びをすることがわかった。
これらの研究の一つでは、より自然が多い学校の校庭では、子供たちは男の子も女の子も平等なかたちで一緒に遊ぶことのできる、より空想的なごっこ遊びをした。(p96)
自然環境は、子どもが「男の子も女の子も平等なかたちで一緒に遊ぶ」助けになりました。
森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書でもやはり、自然の中で遊んだ子どもたちは、大人たちが決めた枠組みにとらわれない、さまざまな空想的な遊びを創り出したと書かれています。
“いかなる天候でも、外で遊ぶ幼稚園”での子どもたちの遊びは、変化に富んでいたことが観察された。
時には、下草や幹や根っこの上を、走ったり木によじ登ったりして、危険を顧みず騒がしく、また時には反対に動きのない静まり返った遊びであった。
どちらの場合においても、複雑な遊びの構造と役割が存在しており、その際、“遊びの場、遊びの根拠”があった。
それは例えば、戦場、宇宙冒険、妖精や女王が出てくる神話的な風景、あるいはショッピングセンターであった。
“外”での遊びには、始まりと終わりがあり、子どもたちが、それを自分で決めることができた。(p370)
文化による影響が入り込んでいない自然の中で遊ぶとき、子どもたちはどう遊ぶかを「自分で決める」ことができます。
一般的に、人工的な遊び場では、男の子はチャンバラのような活動的な遊びを好み、女の子はおままごとのような穏やかな遊びを好むという文化的ジェンダーの強い影響がみられるでしょう。
しかし、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 に書かれているところによると、自然の中では男女の運動量の差が埋まるようです。
都会の学校でよく見られるごく普通の校庭でも、男子は女子より活発に走りまわる。
ところがスウェーデンの研究によれば、自然の多い環境では男子と女子の運動量の差が縮まるという。
運動量の男女差を、自然が詰めると言ってもいい。(p315)
商業体制が作りだすおもちゃと違って、自然界の遊び場では、子どもたちは、文化が生み出したジェンダーの影響にとらわれず、自分で考えて遊ぶことができるのです。
その一方で、自然の中で遊ぶことは、セックス(生物学的な性差)の影響まで無くしてしまうわけではないようです。
イングリッド・ミクリッツは、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書の中で、こう書いています。
自律的な構造を持つ自然環境は、男女それぞれの典型的な行動パターンを無くしはしないようである。(p181)
この観察によると、自然の中で遊ぶとき、男の子は女の子より体力的にきつい活動を選ぶ傾向があるようです。
生物学的な体のつくりとして、男性のほうが女性より筋力があるので、狩りや採掘や建築といった、より力のいる仕事には向いているのでしょう。
他方、登山グループをつくる場合は、男女混合より、女の子だけのグループのほうが、限界への挑戦が可能だったとも述べています。
女性のほうが辛抱強さや忍耐強さに優れていて、森の中でじっくり食料を探したりする仕事に向いている、ということなのかもしれません。
いずれにしても、自然界の中で遊ぶ場合には、文化的に後付けされた性別の枠組みにとらわれず、男女が互いに協力しながら、それぞれの役割を見つけられるといえます。