大自然の「歌」がトラウマに役立つ理由―わたしは凍てついた冬が心地よかった

本書はこれまで森に関する話題をさんざん取り上げてきたけれど、正直なところ、わたしが好きなのは荒野だ。荒涼とした大地に行きたくてたまらないのだ。(p257)

アメリカでは昔から、傷を負った兵士は荒野に向かうと言われているけれど、それも不思議ではない。

…とくにヴェトナム戦争後、都会では自分たちの心情がまったく理解されないと感じた多くの帰還兵が、こうした辺境の地で大きな安らぎを得た。(p291)

林浴、透き通るエメラルド色のビーチ、一面のコスモス畑。

大自然でリフレッシュすると言うと、たいていの人はそんな風景を思い浮かべるでしょう。

このブログでも、大自然がもつ、さまざまな健康促進効果について書いてきました。

大自然には、現代社会で発達障害と診断されるような子どもを変化させ、PTSDなどのトラウマを癒やす力があります。

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でも、癒やしを与えてくれるのは、緑があふれ、透き通る川や湖のある楽園のような風景だけなのでしょうか。

自然の中でリフレッシュしたいなら、沖縄やハワイでバカンスするのが最良の選択肢なのでしょうか。

わたしは、そうは思えませんでした。

というのも、わたしの場合、一番落ち着くのは、真冬、それも分厚い雪に覆われる、息をのむような美しさと静寂に満ちた季節だったからです。下の写真は近所をスノーシューで歩いたときのものです。

これは単にわたしの好みの問題なのでしょうか。

冒頭で引用したNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方の著者フローレンス・ウィリアムズは、わたしと似たような人たちがいることを述べていました。緑あふれる森や川のせせらぎよりも、荒涼とした荒野に惹きつけられる人たちです。

この記事では、身体によい大自然とはどんなものなのか考えます。なぜ大自然と関わることは、ADHDやトラウマに効果的なのでしょうか。

墓場を愛したコタール症候群の男性、哀歌を聞いて立ち直った神経科医などのエピソードから、どんなことがわかるでしょうか。

バイオフィリア仮説ー緑あふれる自然だけが心地よい?

自然界が身体に良い、というのは気のせいや思い込みではありません。

近年、多くの研究者たちが、自然の中で過ごすことが、自律神経機能や血圧などの生理的昨日によい影響をもたらすことを実証してきました。

そうした研究結果は、製薬会社の利益に結びつかないために軽視されていますが、あなたの子どもには自然が足りないに書かれているように、れっきとした事実です。

エモリー大学ロリンズ・スクール・オブ・パブリック・ヘルスで環境および産業医学部長を務めるハワード・フラムキンは、《アメリカ予防医学ジャーナル》誌への寄稿で、植物や自然に触れた場合には怪我からの回復が早まるとする研究結果が数多く寄せられているにもかかわらず、この分野は近代医学で最もないがしろにされていると記した。(p66)

子供が生活の中で経験する困難な感情を癒すものとして、自然がクローズアップされることはほとんどない。

最新の抗鬱剤のコマーシャルとは違って、自然によるセラピーを謳ったけばけばしいコマーシャルが放映されるのを見る機会はめったにない。

しかし、親や教育者、保健師などは、感情や体のストレスに対して自然がどれほど有効な解毒剤になりうるかを知るべきだし、とくに現代においてはその知識が必要だ。(p67)

わたしは、これまで調べてきたことから、また自分自身の体験や、主治医との話し合いから、これを実感しています。

現代社会で、発達障害、不登校、概日リズム睡眠障害、起立性調節障害などを抱える子どもたちは、もし大自然の中で暮らすことができれば、多くの問題が解決するでしょう。

ここ日本でも、森林浴の研究者たちや、疲労の専門家たちが、自然が健康にもたらす効果を研究してきました。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、その根底にあるのは、バイオフィリア仮説という考え方です。

日本の研究者たちは、生命愛(バイオフィリア)仮説に基づき、ストレスをやわらげ、精神面の健康を増進するうえで自然がはたす役割を科学的に測定している。

このバイオフィリア仮説とは、人間は自然のなかで進化してきたのだから、自然に囲まれているときがいちばん「くつろげる」という考えだ。(p22)

「バイオフィリア」という言葉は、1973年、社会心理学者エーリッヒ・フロムによって作られたといいます。

その後、ハーバード大学の昆虫学者また作家であるエドワード・オズボーン・ウィルソンが、バイオフィリアとは「人間が他の生きた有機体と情緒の面で生まれつき密接な関係をもっていること」だと定義しました。(p36)

バイオフィリア仮説では、人間は、そもそも自然界の生物の一種なので、「自然対応」にできていると考えます。

わたしたち個人個人は、生まれたときから自然がほとんどない都会に住んでいるかもしれません。しかし、ホモ・サピエンスという種としては、ずっと自然の中で過ごしてきた歴史があります。

わたしたちの身体は、自然界とのつながりなしでは正しく機能しないような仕組みになっています。

自然界の生態系は、いわば外部の臓器のような役割を果たしているので、自然から離れた生活スタイルは、慢性的な臓器不全に陥っているようなものなのです。

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しかしながら、バイオフィリア仮説には欠点もあります。

まず、バイオフィリア、つまり「生命愛」という考え方は、いささか精神論に偏りすぎた、古い思想に思えてなりません。

常々書いているように、神経科学によると、「心」とは突き詰めれば身体の有機体から生まれています。

わたしたち人類が、自然界の生き物たちと強く結びついているのは間違いありませんが、それは「生命愛」による絆ではなく、生物学的な構造によるものです。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

また、バイオフィリア仮説は、自然界の特定の風景だけが健康によいとみなしている問題点を抱えています。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方にこんな話がありました。

ウォータールー大学の認知神経科学者デルチョ・ヴァルチャノフは、都会で生まれ、ゲーム機で遊んで育ちました。

自然に興味があったわけではありませんが、あるとき「バーチャルリアリティを利用すれば、自宅のリビングルームでたいして金もかけず自然を楽しむことができる。虫にわずらわされたり、時差ボケに悩まされたりすることなく、ハワイ滞在を満喫できる」と考えるようになりました。(p165)

そして、バイオフィリア仮説の論文に基づいて、「自然の風景を評価し、分類し、総合評価を割りだすことができる」スマートフォン用アプリを作りました。

要するに、風景をスマホで写真に撮れば、健康にいいかどうか数値化できる、というアプリです。

このアプリは、バイオフィリア仮説に基づいて、青い海や緑の森に最高評価を与えています。

五感による認知機能に関していえば、ヴァルチャノフのアプリは青色に最高の評価を与えている。緑色や青色の外観をもつ捕食者はあまり存在しない。

生命愛信奉者にいわせれば、人間は進化の過程で青や緑といった色を生命を生み出す健全な生態系と結びつけて考えてきたからだろう。(p171)

一方、この仮説に基づけば、緑や青でない風景のもとでは、人間はリラックスできないことになってしまいます。現に、ヴァルチャノフのアプリは、雪山をそう判定しました。

森のなかの谷の画像は、完全な緑色、湖はやはり完全な緑、都会の交差点は赤色。無機質なビルは白色。青空の下に林立する上海の高層ビル群は白色。

ところが、ロッキー山脈の観光パンフレットに掲載されているような、白銀の山の手前に広がる雪原の画像にスマフォを向けると、赤色が表示された。

「これってどういうこと?」とわたしは尋ねた。

「えっと、それは、山の稜線がぎざきざしているし、全体的に白っぽいし、木が枯れているように見えるからかもしれません。

季節も冬だし。…ウィルソンのバイオフィリア仮説によれば、人間は枯れた木に強い嫌悪感を示すんです」

「でも、この風景のなかの木立は枯れているわけじゃないでしょ。冬だから葉がないだけよ。いい眺めだと思うけれど」(p174)

バイオフィリア仮説に従えば、人間は、冬の真っ白な雪原やゲレンデ、枯れた木々が立ち並ぶ山を嫌悪する、ということになります。

でも、わたしは、この本の著者のフローレンス・ウィリアムズと同様に、どうしてもそうは思えません。

ヴァルチャノフのアプリは、「無機質なビル」や「青空の下に林立する上海の高層ビル群」よりも、「白銀の山の手前に広がる雪原」の質が悪いと判定しました。

しかし、わたしはそうした真っ白な雪山をスノーシューで歩くのが大好きです。樹氷の立ち並ぶ中をスパイクタイヤでサイクリングしているときが最高に幸せです。

フローレンス・ウィリアムズも、冒頭で引用したように、「わたしが好きなのは荒野だ。荒涼とした大地に行きたくてたまらないのだ」と述べていました。

バイオフィリア仮説では、人間をひとくくりにして、緑の森や青い海でこそ、人はリラックスできると考えます。

でも本当にそうなのでしょうか。荒涼とした大地や、枯れ木立ち並ぶ雪原でこそリラックスできる、という人もいるのではないでしょうか。

墓場を愛した、コタール症候群のグラハム

そう思っていたところで、とてもおもしろい話を見つけました。

なんと、墓場が一番リラックスする、という人がいるというのです。

普通はそうは思わないでしょう。気味が悪くなって、一刻も早くそこを後にしたい、と思う人のほうが多いかもしれません。

でも9つの脳の不思議な物語に出ているグラハムという男性の場合は違いました。グラハムは珍しい病気を患っていました。その病気とは「コタール症候群」です。

コタール症候群については、このブログの過去の記事で何度か取り上げています。一言でいえば「自分はもう死んでいる」と感じるようになる病気です。

自分が「空っぽ」に感じるのはなぜか―実存の空虚という恐怖を神経科学から説明する
自分の身体が存在していない、内面が空虚である、といった「空っぽ」の感覚が生じる理由について、自己のアイデンティティは体性感覚から作られているというダマシオやサックスの研究から考えて

グラハムはコタール症候群の感覚について、こう語っています。

「ただ、頭の中に何もなくなったような気がしたんだ」

…「なんて言ったらいいかわからないんだが、私の脳はもう水を吸い込めないスポンジみたいな感じなんだ」

…「何かをちゃんと考えたり、感じたりしない。何も感じないんだ。においも感じない。味覚もなくなった。

好きな銘柄のタバコを吸っても、ちっともいい感じにならなかった。タバコは12歳からずっと吸っていたのに。だからそのままタバコをやめた。普通ならイライラするはずなのにしなかった。

何も楽しいことがなくなった。楽しいってどんなことか忘れてしまった。あるのはこの空っぽな頭だけで、なぜかはわからないが、もう脳がないっていうことはわかるんだ」(p236-237)

コタール症候群になったグラハムは、ひどく感覚が麻痺し、「生きている」実感がまったく得られなくなりました。

それで、まっとうな結論として「自分はもう死んでいる」と考えるようになりました。

うつ病と違うのは、悲嘆も感じないことです。コタール症候群の人は自殺しません。「もう死んでいるのに、なぜわざわざまた死ななければならない?」と感じるからです。(p232)

前に書いたように、コタール症候群は、離人症とよく似ています。たとえば、どちらも「今ここ」に自分がいるという感覚を生み出している島皮質の活動低下が起こっているようです。

「意識しすぎる」脳―HSPや解離の理解に不可欠な島皮質と帯状回についてまとめてみた
HSPの人たちの脳では活動が活発なのに対し、解離の人たちの脳では活動が低下していると言われている「島皮質」や「帯状回」とはどんな機能をつかさどっているのか、意識や自己についての研究

神経科学者ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは、離人症の当事者の中には、「それほど極端ではないタイプのコタール症候群が存在する可能性が容易に見て取れる」と述べていました。

わたしも離人症の当事者でしたが、コタール症候群のように「わたしはすでに死んでいる」と感じることはありませんでした。でも「半分生きていて半分死んでいる」「生きながら死んでいる」ような感覚はありました。

興味深いのは、コタール症候群のグラハムが、墓地にいるときにとてもリラックスできたというエピソードです。

彼が訪れる場所はもう一箇所だけあった。それは地元の墓地だった。まる一日墓地で過ごすこともあった、とグラハムは語った。

「自分が居るべき場所だと思ったんだよ」

彼は墓の周りを歩き回り、自分の埋められたいという強い衝動を理解しようと最大限の努力をした。

「自分ができる中でもっとも死に近いことだ、と思った。『どちらにしても脳が死んでいるんだから、何も失うものはない。ここにずっといてもいいだろう』と。墓地はすごく居心地がよかった」

グラハムが行方不明になり、心配した家族が警察に捜索願を出したのも一度ではない。毎回、彼は墓地の真ん中で発見される。死者のための場所で残りの日々を過ごせるなら幸せだと彼は言っている。(p253)

「自分が居るべき場所だと思ったんだよ」。この感覚にわたしも心当たりがあります。

色とりどりの花が咲き乱れる春の風景や、パワフルな生命力あふれる植物が生い茂る夏の風景も美しいとは思います。

でも、分厚い雪に覆われ、静寂に包まれた冬、まるでナルニア国物語の白い魔女によって凍りづけにされたかのような風景のほうが、わたしにとって「すごく居心地がよかった」のを覚えています。

自分はすでに死んでいると感じたコタール症候群のグラハムが墓地でリラックスできたこと、トラウマを負ったベトナム戦争帰還兵たちが荒野に居場所を求めたこと。

そして、ブログで「凍りつき」反応について散々書いてきたわたしにとって、凍てついた冬が居心地がよかったことは偶然とは思えません。

バイオフィリア仮説では、あらゆる人間は緑の森と青い海を好むかのよう仮定していますが、もしそうなら、自然界は無駄だらけということになってしまいます。

わたしはそうではなく、一人ひとりの脳や身体の状態に適した自然環境があるのではないか、と思います。

大半の健康な人たちが森林浴や海水浴でリフレッシュできるのは事実でしょう。しかし、神経系が少し普通と異なる状態にある人にとっては、墓場、荒野、雪原なども琴線に触れる風景になりうるのです。

心身が深く傷ついた人が、独りだけの場所を求めて、険しい山や荒野に向かうというのは、映画や小説でもおなじみの光景ではないでしょうか。

そんな人たちが、ハワイのエメラルド色のビーチに向かっては、雰囲気がぶち壊しです。

おそらくは、身体がそう求めるからこそ、傷ついた人はビーチではなく荒野に向かうのです。

音楽との類似点―哀歌が心地よく染みるとき

このことは、自然界と音楽の類似性を考えてみると、とてもわかりやすくなります。

明るい音楽、楽しい音楽を好む人は大勢います。でも、すべての音楽が底なしに明るいと、困ったことになります。

ときには、激しい音楽、悲しい音楽、沈鬱な音楽も聞きたくなります。音楽はさまざまな旋律があるからこそ、あらゆる感情に響きます。

失恋したとき、大事な人が亡くなったとき、落ち込んだときに聞きたいのは、自分の心情に寄り添ってくれる音楽ではないでしょうか。

具体的な例のひとつは、このブログで過去に何度か引用している、神経科医オリヴァー・サックスの経験です。

彼は、音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々で母親を亡くしたときのことを書いています。

母の死の知らせを聞いたとき、私はすぐにロンドンに飛んで実家に駆けつけ、そこで一週間、喪に服した。

…しかしその一週間が終わり、ニューヨークの誰もいない冷え冷えしたアパートに戻ったとき、私の感情は「凍りつき」、鬱という言葉では表現しきれない状態に陥った。

何週間も、起きて、服を着て、職場に行って、患者を診て、外見はふつうに見えるようにと努力した。しかし内面は死んでいて、ゾンビのように生気がなかった。

ある日、ブロンクス・パーク・イーストを歩いていると、突然すっと気持ちが軽くなるのを感じた。気分が高揚し、命の、喜びの、ささやかな予感が感じられる。

そのときはじめて、心象か記憶とまちがえるくらいかすかではあったが、音楽が聞こえていることに気づいた。

歩き続けるとだんだん音楽は大きくなり、とうとうその源までたどり着き、地下室の開いた窓から流れるラジオのシューベルトだとわかった。

その音楽が私を突き刺し、さまざまな心象や感情を次々と解き放った―子どものころの思い出、一緒に過ごした夏休み、母がシューベルト好きだったこと(彼女はよく、すこし調子はずれの声で『夜の歌』を歌っていた)。(p405)

深い悲しみを解き放ち、感情を再び流れさせた音楽が、レッサーの場合は鎮魂歌、私の場合は哀歌だったことは、偶然ではない。これは喪失や死に臨むために考えられた音楽だ。(p407)

母親を亡くして失意のどんぞこに陥り、「凍りつき」状態にあったサックスの慰めになったのは、鎮魂歌や哀歌といった、物悲しいメロディでした。

陽気な気分のための音楽もあれば、「喪失や死に臨むために考えられた音楽」もあります。そしてそれは自然界も同じです。

自然界と音楽には、さまざまな類似点があります。

たとえば、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、鳥のさえずりと人間の作った音楽はよく似ています。

人間の脳は鳥の鳴き声を言語ではなく、バックグラウンドミュージックの一種として解釈する。

むしろ、鳥の鳴き声は人間が創作した音楽と不可解なほど似ているところがあり、その音域と魔法のように高度な技術は、無意識のレベルで幸せな音楽を感じとるニューロンを刺激する。

…とりわけ、人間の大脳基底核と鳥のそれにあたる部位が重要な役割をはたし、ここはまた感情を調節する部位でもある。(p137-138)

もとをたどれば、人間が作り出した音楽は、鳥のさえずりや、そよ風が木々を駆け抜ける音、寄せては返す波、虫のオーケストラといった、自然界に見られる「音楽」を模倣したものでしょう。

自然界の「音楽」は、音の風景(サウンドスケープ)だけではなく、視覚的な風景の形の中にも存在しているようです。

たとえば、自然界に特徴的なフラクタルな風景(たとえば森の木の枝や、川の支流のような、同じ形が大きさを変えて連続する風景)を眺めるとき、自律神経機能がリラックスすることがわかっています。

このとき、わたしたちの脳では、風景を見ているにもかかわらず、音楽を処理しているときと同じような場所が活性化するという研究があります。

予備実験では、中等度のフラクタル次元によって、脳のいくつかの部位が活性化することがわかった。

予想どおり、後頭葉腹外側部(高次視覚野処理も含む)や空間の長期記憶を符号化する部位に活性化が見られたが、同時に海馬傍回にも変化が生じた。

海馬傍回とは感情を調整し、音楽を聴いていると激しく活性化する部位である。

テイラーにとって、これは最高の発見だった。「(中程度のフラクタルが)音楽に似ているとわかったときは嬉しかったね」とテイラーは言う。

つまり大海原を眺めていれば、ブラームスを聴いているような気持ちになれるのかもしれない。(p158)

音楽と自然の風景は似ている。

高名な作曲家のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンも、そのことに気づいていました。彼は狭苦しい都市ウィーンから自然豊かな地方へ行ったとき、こう言ったそうです。

低木、木立、森、草地、岩場を歩けることのよろこび! 森、木立、岩々を眺めていると、人間が欲する共鳴が伝わってくる。(p160)

ベートーヴェンは、共感覚なセンスによって、自然の視覚的な風景が、音楽の聴覚的な共鳴とよく似ていることに気づいていました。

大自然を眺めているときの脳の反応と、音楽を聴いているときの反応がよく似ていることは、ADHDやトラウマに音楽と自然が似たような効果を及ぼすことからもわかります。

どちらの場合も、音楽や自然界のリズムが、興奮を落ち着かせてリラックスさせたり、凍りつきを溶かしたりする効果があります。

ADHDやトラウマが、どちらも内部の興奮性によって、外部の環境と足並みを合わせられなくなる脱同調、言い換えれば、周囲との時間感覚が狂ってしまうリズム障害だとすれば、これは納得がいきます。

「時間感覚の障害」としてのADHD―時の流れを歪ませるのはドーパミンだった?
ADHDの人は時間感覚が歪んでいる、ということが実験で証明されているそうです。「脳の中の時間旅行 : なぜ時間はワープするのか」という本から、なぜADHDの時間感覚は歪んでいるのか

さっき引用した文中で、音楽や鳥のさえずりは大脳基底核で処理されるとされていましたが、そこは時間感覚も処理している部位で、ADHDやトラウマ症状とも関連性があるようです

内部で興奮しすぎて多動になったりPTSDを起こしたりする人はリズムが早くなりすぎており、内部で凍りついて不注意や解離に陥っている人はリズムが遅くなりすぎています。

そうした人たちは、リズムの同調障害に陥っており、一人だけ世界から切り離されている状態にあります。

音楽や自然は、そのような人に外部から正常なリズムを与え、足並みをそろえさせる効果があるのかもしれません。

トラウマを負った人に自然のリズムが必要な理由

わたしが大自然のただ中で生活して、都会と一番異なっていると思うのは、自然界にはリズムやメリハリがある、ということです。

森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に書かれているように、「自然環境は、人の影響を介さずに、毎日、いえ、毎時間変化する」ので、「毎日、子どもたちは新しい発見ができます」。(p iii)

一瞬たりとも同じ景色はなく、さっき見た美しい景色は次の瞬間には形を変えています。自然のスケジュールにしたがって、次々に新しい花が咲き、あちこちで実が弾けます。

大自然の中にいると、昔の人たちが、季節をたった4つではなく、二十四節気や七十二候に分けた理由がよくわかります。毎週のように異なる生き物が次々に顔をみせてはバトンタッチしていくからです。

昼夜のメリハリや季節のメリハリによって、苦しみや不自由は一時的なものにすぎず、辛抱すれば心地よさが待っているのだ、という感覚を学べます。

都市ではそうはいきません。人工物は変化しません。春も夏も秋も冬も、一年中同じ姿かたちです。通勤通学で見える景色はいつも同じです。変化はありません。

冷房や暖房で温度管理された室内にいると、気温の変化さえありません。都市のヒートアイランド現象で、夜中にも気温が下がらず、寝苦しい熱帯夜が続きます。

都会の生活では、今や四季どころか夏と冬しかないようなありさまです。自然界がもつリズムやメリハリから切り離された結果です。

自然界の特徴は「絶えずリズミカルに変化する」ことであり、都市環境の特徴は「変化しない」ことです。24時間また通年、いつでも同じものが手に入るようデザインされているからです。

自然界はリズミカルな音楽ととてもよく似ていますが、都市環境はメリハリのない不協和音が延々と続くようなものです。

興味深いことに、トラウマの専門家のピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、トラウマからの回復に重要なのは、自然のリズムを取り戻すことだと書いています。

トラウマとは危機が去っても興奮や凍りつきが解除されない状態です。例えるなら、一年中、真夏のまま、あるいは真冬のまま変化しなくなるようなもので、身体が自然なリズムを失っている状態です。

治療者は、この変化のない状態に一石を投じ、わずかながらでも揺らぎを感じさせることによって、自然な振り子のようなリズム(ペンデュレーションと呼ばれる)を取り戻せるよう導きます。

この転換によって、からだが生得的に持つ知恵への最も重要な再接続の一つがもたらされる。

それが、収縮と拡張というからだが持つ本来の回復的リズム、ペンデュレーションの体験であり、何かを感じたとしても、それは一時的なものであって、苦痛は永続しないということを教えてくれるのである。

ペンデュレーションは、困難な感覚や感情を切り抜けるために、すべての生物に備わっているものである。

…この安定した潮の満ち引きのようなリズムは、(収縮期に)いかにひどい気分であっても、拡張が必ず後に続き、開放、安堵、流れの感覚がもたらされることを告げる。(p98-99)

このような「本来の回復的リズム」は、ラヴィーンが提唱するようなセラピーの手法によって取り戻される場合もあります。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

しかしラヴィーンが触れているように、これは「すべての生物に備わっているもの」であり、自然界に組み込まれた「潮の満ち引きのようなリズム」なので、必ずしも人為的なセラピーが必要とは限りません。

大自然の中には、もともとこのリズムが組み込まれています。

トラウマ当事者は、大自然と触れ合ったり、大自然のリズムを模倣した音楽を聞いたりすることによって、「からだが持つ本来の回復的リズム」を活性化できます。

たとえば、大自然の中で生活する子どもは、森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に書いてあるように、自然界の移り変わりのリズムを身をもって体験することによって、変化は必ず起こるという確信を深めることができます。

幼稚園2年目で、春夏秋冬の季節を繰り返し体験する森の幼稚園の子どもは、1年目同様に(季節に当てはめて)、長期観察をすることになる。

すべて決まった事柄が繰り返されることに気付くだろう。

季節ごとに起こる自然の変化は、再度体験してようやく、子どもたちにこの深い確信を与えてくれるのだ。この感情である。

「あぁ、そうか、今はまたそうなんだ。ぼくはこれをすでに知っているし、来年もまたそうなるんだ」。(p192)

このとき子どもは、ラヴィーンが述べていたのと同じ自然界に備わる普遍のリズムについて学習しています。

たとえ寒い冬が来ても、また温かい春が来るという確信、「いかにひどい気分であっても、拡張が必ず後に続き、開放、安堵、流れの感覚がもたらされることを告げる」リズムです。

トラウマに陥った当事者は、セラピーなどの経験を通して、このリズムを体験し、身体的に覚える必要があります。

そうすれば、トラウマの凍りつきや擬死反応に陥っても、圧倒されることなく、落ち着いていられます。一時的なもので必ず変化するとわかっているからです。

大自然の中で育った子どもは、幼少期にこれと同じことを自然との関わりの中で体験して知ることができます。「ぼくはこれをすでに知っているし、来年もまたそうなるんだ」という感覚です。

だから、ラヴィーンが別の本、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで書いているように、自然界のリズムともっと密接につながっていたころの人たちは、もっと容易にトラウマから回復できたはずです。

古代、野山を歩き回り、木の根や実を集め、狩りをしながら洞窟に住んでいた頃、私たちの存在は自然界と密接につながっていました。

…自己の自然な部分とより深くつながっている人々が、トラウマに関してはうまく切り抜けることが多いのは偶然ではありません。(p53)

もっと自然とつながっていた時代の人たちは、現代のわたしたちよりも、不便なことや辛いことを多く経験したかもしれません。

それでも、うまく切り抜け、立ち直れました。自然界のリズムと同調することによって、自律神経系の興奮を鎮め、振り子のようなリズムによって平衡を取り戻すことができたからです。

ところが、現代のわたしたちは、かつてより便利で快適な時代になったはずなのに、数々の慢性的な不調に悩まされています。

日常生活のストレスやトラウマによって自律神経機能のリズムを失ったとき、それを補正するためのペースメーカーである自然が身近になくなってしまったからかもしれません。

現代の子どもたちは、ささいなストレスにも敏感で根性がない、と批判されることがあります。

でもそれは現代っ子が軟弱になったせいではなく、自然界から切り離されすぎた生育環境のせいで「からだが持つ本来の回復的リズム」が活性化されなくなったせいだとわたしは考えます。

過去の世代の人たちは、子どものころに、自然界の中で遊ぶことを通して、自律神経機能の柔軟性(耐性領域と呼ばれる)を広げ、自己コントロール能力を育むことができました。

しかし自然と親しむ選択肢を奪われた現代っ子には健全な発達の機会が与えられていないのです。

(このことは森の幼稚園出身者が、一般の幼稚園出身者よりも心身の機能が良好だという多数の研究から裏付けられています)

本当にゲームが悪者なのか―発達障害の子がなりやすい「ゲーム依存」を考える
WHOが「ゲーム障害」を依存症とみなしたことを受けて、ゲーム依存の背後にある原因について考えてみました。

そのように本来の生物的リズムを失ってしまったせいで不調から回復できないでいる人たちが、大自然の中で感じるリズムや、それを模倣した音楽を通して息を吹き返すとしても不思議ではありません。

その回復は生命愛(バイオフィリア)によるものではありませんが、自然界に組み込まれたリズムや、自然界を形勢する多種多様な要素には、わたしたちに生物学的な平衡を取り戻させてくれる力があります。

感受性が強いあなたに自然が必要な5つの科学的根拠―都市や学校の過剰なストレスを癒やすには?
わたしたちがごく当たり前だと感じている都市生活が、脳に慢性的な負荷をかけているといえる5つの理由を紹介し、大自然との触れ合いがストレスを癒やし、トラウマを回復させる理由を考察しまし

そうであれば、文字通りの音楽の場合に、さまざまな曲調のメロディに役割があるように、自然界の「音楽」にも、春や夏のメロディだけでなく、秋や冬のメロディにも役割があるのではないでしょうか。

自律神経機能が平穏な状態にある健康な人たちは、春の花畑や、夏の緑あふれる森や透き通った海に同調してくつろげるかもしれません。陽気な人が陽気なメロディを楽しむのと同じです。

しかし、もともとストレスを受けやすい敏感な人や、トラウマを抱えた人は、そうした明るいメロディには同調しづらく思うでしょう。

そんな人たちが内的なリズムを回復し、自然界と同調するために、違和感なく入っていきやすい、と感じるのは、秋の繊細な景色や、荒野の荒涼とした風景、冬の真っ白な静寂なのかもしれません。悲しい気分の人が物悲しいメロディに身を委ねるように。

冬は陰鬱で暗い季節だと思われがちです。詩人のエミリー・ディキンソンも冬季うつ病(季節性情動障害)だったと言われています。

でも、彼女の創作は、冬のほうが傑作ぞろいだったと言われています。冬には夏とは違った創作のエネルギーが湧いていたことがわかります。

自然界のさまざまな風景は、それぞれ異なる役割をもつ音楽のメロディのようなもので、それぞれに異なる役割があります。

ヴァルチャノフのアプリのように、ある風景が健康によく、ある風景は不快だ、と単純に分類できるわけではないのです。

でも、そんなことは、こうやって長々と考察するまでもなく、昔からよく知られていたのではないでしょうか。

「春を愛する人は~」の歌詞で始まる有名な「四季の歌」で歌われているとおり、どの季節が好むかは人それぞれなのです。

冬を愛するわたしが、根雪をとかす大地のような心広き人かどうかは知りませんが。

わたしは「静かで硬直」した冬が落ち着いた

こうして考えてくると、リラックスする自然の風景は、パソコンの壁紙になるようなテンプレ的な風景に限らないことがわかります。

その人の脳の状態によっては、墓場が落ち着くこともありますし、荒野や雪原で居心地がよくなることもあります。

もともと、わたしたちホモ・サピエンスを含む地球の生き物は、悠久の年月にわたり、地球上のさまざまな季節や環境とともに生きてきました。ある特定の季節や景色だけが必要とされたわけではないでしょう。

ヴァルチャノフが目指していたように、VRヘッドセットで、いつでもハワイの風景を楽しめるようにしたところで、それが人々の精神衛生や健康に役立つのかは疑問です。

作り物の自然は、本物の自然から目をそらしかねません。本物の自然に触れようとする人がさらに減って、より問題が蔓延するかもしれません。

人間の神経系は、本物の自然と偽物の自然を見分けることができます。

自然界の作用は視覚だけでなく、鳥のさえずりなどの聴覚、そしてVRヘッドセットでは永久に実現できなさそうな、ありとあらゆる複雑な感触や匂いすべてから成り立っています。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方の中で、大自然の効果を多面的に研究しているユタ大学の認知心理学者デイヴィッド・ストレイヤーは、キャンプ場でエンチラーダを焼きながら、こう言いました。

「たんに視覚野の刺激だけですむなら、『ナショナルジオグラフィック』の写真を眺めれば、いまと同じ感覚を味わえるはずですよね? 

どんなにすばらしい映像だろうと、四日間も見てはいられないし、いまのような気分になれるはずがない」(p259)

テクノロジーがいかに進歩しようと、大自然のただ中に身を置いたときの感覚を再現するのは不可能でしょう。もし可能だとしても、そんな夢を追うくらいなら、本物の自然の中に行くほうがずっと楽です。

わたしが今住んでいるのは、夏には30℃を越え、冬にはマイナス30℃に迫るような、季節のメリハリがとても強い地域です。

7月から8月の頭は昼間は30℃で暑いですが、夜には20℃以下まで下がるので、一日のメリハリもはっきりしています。おかげでクーラーはいりません。

ラヴィーンが書いていたように、暑さを感じても、「それは一時的なものであって、苦痛は永続しないということを」日々、自然の振り子のようなリズムによって体験しています。

このメリハリの強い環境では、それぞれの季節がこの上なくはっきりしています。

春は雪解けの儚い花が一斉に顔を出し、夏は植物がパワフルすぎて山がジャングルみたいになり、秋の紅葉は色鮮やかで、冬は一面の銀世界です。

どの季節にもそれぞれの良さがありますが、わたしはどうも、一面の緑の季節は圧倒されすぎてしまって、静寂と沈黙に包まれた冬が居心地よく感じました。

わたしが一番活動的なのはマイナス10℃以下の真冬で、白銀の世界を一週間に50km以上サイクリングしていました。今はその半分も走る気にならないことがあります。

森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書を読んでいたとき、この文章を見つけて、なんとなく理由が納得できた気がしました。

子どもは直接的に季節を体験する。それぞれが特徴を持つ春、夏、秋、そして冬を体験する。

子どもは、深い霧に最初の太陽の光が差す喜び、空の暗い雲と土砂降り、秋のカサカサと音をたてる木の葉、あるいは、冬の氷結した水たまりの喜びを体験する。

どうして春は華やかでいい香りがして騒がしくて動きに満ちているのか、反対に、なぜ冬は静かで硬直していて色彩や香りに乏しいのか、

雪に足跡を残すのは誰なのだろうか、どうして土砂降りの後、小川は変わるのだろうか、誰が葉っぱをかじるのだろうか、アリの行列はどこまで続くのだろうか、というようなことを体験したり、不思議に感じることだろう。(p28)

「冬は硬直していて色彩や香りに乏しい」。確かにそのとおりでした。そして、この「硬直している」という、ちょっとばかり冬を擬人化したような表現が、すんなり染み入りました。

わたしは解離や凍りつきのせいで、身体が硬直したようになってしまうことがよくあります。あまり機敏に動くのは得意ではなく、ぎこちないところがあります。

そんなわたしにとって、硬直した冬は、控えめで繊細な友人のように感じられるのでした。自由奔放で遠慮のない夏よりも、一緒にいて心地よい友人のように。

わたしは冬の森をスノーシューで探検したり、真っ白な雪原に立ち並ぶ木を観察したり、誰もいない圧雪路面をサイクリングして樹氷を眺めたりするとき、気心の知れた友人が寄り添ってくれているように感じました。

冬は無条件に親しくなれたのに対し、明るくはにかむ春や、エネルギッシュな夏は、はじめのうち、とっつきにくく感じました。友だちになれないかもしれない、と思いました。

でも、少しずつ春や夏の良いところを知ろうとするうちに、それぞれの季節の良いところが見えてきました。人間関係と同じです。

先日は、近くの原始河川に行って、苔むした岩場を流れる曲がりくねった川を泳ぎました。澄んだ水の冷たさに「いま確かに生きてる!」と感じました。夏も悪くないなと思うようになりました。

9つの脳の不思議な物語から紹介した、コタール症候群のグラハムは、やがて回復し、「自分はもう死んでいる」とは感じなくなったそうです。

「あるとき、こんなの全部馬鹿らしいと思うようになって、脳が戻ってきた」

医師らはグラハムの回復は投薬と、脳自身の修復の結果だったと考えている。

…グラハムは言った。「私はだんだん自分らしい気持ちを取り戻していった。本当にときどきちょっと死んでいるような気持ちになるけれど、だいたいは元の自分でいられる」(p257)

わたしの今の状態は、このグラハムとよく似ています。かつてのような生きているのか死んでいるのかわからない解離症状や慢性的な疲労状態からはかなり回復し、「だいたいは元の自分でいられる」ようになりました。

グラハムは、コタール症候群の影響が残っているのは、空腹を感じないところだけだと述べていますが、奇しくもわたしもそれは同じです。

「コタール症候群の影響が残っているのはそれだけだ。以前は普通に食事をしていたのに、今は食べても食べなくてもどっちでもいいんだ。もう空腹を感じない」

私はそれだけかと訊いた。空腹を感じなくなったこだけなのかと。彼はしばらく考えてから答えた。

「そうだね、今もときどき変な考えが浮かぶことがある。そこに座っていて、急にちょっと死んだような感じがするときがある。本当にときどきしか起こらないし、そのうちその感じも消えるんだけど」(p259)

前に考察したように、解離や離人症の本質は、内臓感覚からの切り離しだと思われます。

ヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンら、近年のトラウマ専門家たちがこぞって指摘しているように、解離とは脳と内臓の接続が切り離されている状態です。

愛着やトラウマをめぐる物語の主役は腸内細菌かもしれないという意外すぎる話
神経寄生生物学の知見から、愛着やトラウマの問題を腸内細菌を中心に読み直してみました。
もはやトラウマは心の病ではなく内臓の微生物群集(マイクロバイオーム)を取り巻く生態系の問題だというパラダイムシフト
エムラン・メイヤーの研究から、トラウマ医学におけるマイクロバイオーム(体内の微生物群集)の重要な役割について考察しました。

グラハムの場合もわたしの場合も、空腹を感じない、という症状が残っていることは、完全に脳と内臓の接続が回復していないことを示唆しているでしょう。

たまに離人症状が戻ってくることからしても、不安定な状態だとみなせます。まだ当分のあいだ、グラハムは墓場に惹かれ、わたしは冬景色に魅了されるのかもしれません。

それでも、悲しむ人のために哀歌があるように、自然界には硬直した人のための居場所があります。

落ち込んだ人が物悲しい曲を通して、徐々に生気を取り戻し、やがては明るい音楽も楽しめるようになるように、わたしもきっと、雪原を歩く中で癒やされ、数年後には春も夏も秋も楽しんでいることでしょう。

わたしの住んでいる地域では、もうすぐ夏が終わります。地元の人たちによると、8月に入ったらもう秋らしいです。週間予報を見ると、来週はもう最低気温が10℃ほどでびっくりしました。

寄せては返すリズムが自然界の特徴なので、寒くなったと思ったらまた暑さがぶり返すでしょう。でも、もうすぐ大好きな冬がやってくると思うと、今からわくわくします。

わたしはきっとまた、冬じゅうあちこちを探検するでしょう。その体験は、きっとわたしを癒やし、また振り子のように巡ってくる次の季節へと備えさせてくれるはずです。