秋といえばキノコ狩り、ということで、士別市でイベントがあったので遠征してきました。キノコ狩りはやってみたいけど、専門家が一緒じゃないと、素人には危険ですから。
そのあと、士別市で放牧されている羊の群れを見に行ったり、道北在住の女優にして冒険家、和泉雅子さんの言葉に共感したり。
そんな秋の体験で出会った、道北の自然の不思議や面白さについて書いてみようと思います。
士別市立博物館の裏山へ
今回のイベントは士別市立博物館が開催している、年に4回の自然観察会のうちの一つ、秋のキノコ観察会です。
道北は、各地で自然観察のイベントがちょこちょこ催されていますが、数そのものはそんなに多くありません。なんといっても過疎地域ですからね。
地元のサークルとかに入っていれば別かもしれませんが、あんまり煩わしいのは苦手。
それで、こうした一般向けイベントがあれば、多少遠くても参加したいなと思っています。公共施設の掲示板などを定期的に見て、情報を集めていて見つけたのが、この士別の観察会でした。
朝早く起きて、初めての道を運転して、士別に向かうだけでも一苦労。山道をドライブしていると、途中でエゾシマリスが道を横切っていくのを目撃! あとでドライブレコーダーに映っていないか確認してみたけど、見あたらず残念。
ありがたいのは、自動車の交通量が圧倒的に少ないことです。町中の道路や、幹線道路を通らず、裏道や山道メインで行けば、めったに他の車を見かけません。たまに猛スピードで追撃してくる走り屋もいますが、そんな危険車両は早々に追い抜かせます。
慣れない道だったので不安でしたが、なんとかイベント開始の15分ほど前に士別市立博物館に到着しました。士別市の外れの山の上にある博物館。紅葉に包まれた建物が、えも言われぬ美しさでした。
イベントに参加する人が続々と集まっていたけれど、やっぱりそんなに人数は多くなく、20名もいなかったかも。道北の各地の自然観察イベントは、少人数になることが多いので、他の地域から参加しても喜ばれますよね(笑)
キノコ狩りの場所は、士別市立博物館の裏山。山の名前はなんて言うのかな…? ちょっと調べてみたけど、裏山としか書いてないな。
かなり広い裏山で、植生も豊か。遊歩道もしっかり手入れされていました。裏山を一周するだけで1時間くらいかかりそうだし、森の中まで探検すれば、何時間も過ごせそう。
さすが、道北でも有数の数万人規模の自治体。Google Mapで航空写真を見てみると、周囲の山とは切り離された都市の中の山という感じ。
この前の名寄の北国博物館もそうだったけど、本格的に自然観察できる場所なのにヒグマが出ない、という森は道北ではそんなに存在しないのでは?
森林浴しながらサイクリングできそうな道なので、一瞬ちょっとうらやましいな、と思ってしまいました。地元の山はこんなに気軽に入れないから。
だけど、気を取り直して考えてみれば、こういう都市の真ん中の森って、わたしが望んでいる「本物の森」とはまた少し違うかな。
道北の士別市だから、東京や札幌みたいな都市圏の森みたいな「作り物」ではないけれど、やっぱりちょっと物足りなさは残る。
アラスカ探検家の星野道夫さんが、クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人 姉崎 等 (出典はベア・アタックス―クマはなぜ人を襲うか (1) か星野道夫の仕事〈第3巻〉生きものたちの宇宙 のようだ)でこう言っていたのが思い出される。
もしもアラスカ中にクマが一頭もいなかったら、ぼくは安心して山を歩き回ることができる。何の心配もなく野営できる。
でもそうなったら、アラスカは何てつまらないところになるだろう。
…人間は常に自然を飼いならし、支配しようと考えてきた。
けれども、クマか自由に歩きまわるわずかに残った野生の地を訪れると、ぼくたちは本能的な恐怖をいまだに感じることができる。
それはなんと貴重な感覚だろう。これらの場所、これらのクマはなんと貴重なものたちだろう。(p316,338)
まあ星野さんはそのクマに襲われて死んでしまったのだが…。そのときのクマは完全に野生のものではなかったというような話も読んだことはあるけれど、いずれにしても用心は本当に大切です。
食べれるキノコを見分けたい!
キノコ狩りには、キノコの専門家の方が同行してくださり、見つけたキノコを全部、食べれるかどうか鑑定してくださいました。
毎年キノコ狩りで中毒者や死者がそこそこ出ているので、けっこうな重責です。きっと経験と知識を積んだベテランの方なのでしょう。専門用語が飛び交って話についていけませんでした(笑)
裏山の遊歩道を散策しながらキノコを探す。専門家はもちろん目ざといけど、さすが、と感じたのは、地元の子どもたちの目ざといこと。大人が気づかないキノコを次々と発見します。
自然の中で遊び慣れていることもあるのかもしれないけれど、たぶん脳の使い方が違うんですね。
詳しくは哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ) に書かれていますが、大人は一点に注意を集中してしまうスポットライト型の意識で見ているのに対し、子どもは、全体をまんべんなく見るランタン型意識で見ています。
そのせいで子どもは悪く言えば注意力散漫ですが、良く言えば、大人が気に留めないようなあれこれに注意をひかれ、気づくことができます。(そういう脳のまま大人になるのがADHD)
前に書いたゴリラ実験(ボールをパスした回数を数えるよう指示されたら、すぐ近くを通るゴリラのきぐるみに気づけなくなるという実験)でも、子どもはちゃんとゴリラに気づくらしい。
だから、キノコ狩りみたいな自然観察の場では、ランタン型の意識で見ている子どものほうが有利。わたしも一応、ADHDの端くれだから発見が多いほうですが、さすがに子どもたちには負けちゃいます。
わたしたちが歩いていたのは、ミズナラ林。たくさんドングリが落ちています。ということは、まずみんなが見つけたキノコは、もちろん……
ナラタケです。その名の通り、ナラの木やブナの木のある広葉樹林によく生えている。北海道では「ボリボリ」と呼ばれて親しまれています。
この前、松山湿原に行ったときにも教えてもらってたくさん採ったけれど、それと比べたらずいぶん小さい。やっぱり町中の裏山だとこんなものなのかな。それとも大きいのはすでに誰かに採られてしまったのか。
見分けるポイントは4点。
(1)カサの中央部に黒いぼつぼつ模様がある
(2)カサの端っこに縦の条線がたくさん走っている
(3)ツカの上のほうにツバがついている(もしくはツバが剥がれた跡がある)
(4)ナラやブナなど広葉樹林に生えている(ゴミ捨て場や公園などに生えるコレラタケとの区別のため)
ナラタケと言っても、一種類のキノコを指しているわけではなく、複数似たキノコがあります。たとえばホテイナラタケ。根本が布袋尊のおなかみたいに膨らんでいるのが特徴。ほぼ日で解説されてたけど、木の幹から生えることが多いのかな?
いろいろ種類はあって、少しずつ見た目も違うけれど、前記の特徴を忠実に見分ければ、ナラタケの仲間であることには間違いない。
ナラタケを見分けられるようになれば、おいしい焼きキノコにいつでもありつけるようになります。広葉樹林はわりとどこにでもあるから見つけやすい。
だけど、そうは言っても素人が知った気になるのは危険だと教わりました。こういった自然観察会に参加して知った気になった人が一番危ないのだと。気をつけます……。
今回も、サマツモドキというキノコをナラタケと間違えて採った人がいました。サマツモドキは食べると危険なキノコというほどではなく、食用にもなるけれど、人によっては軽くお腹を壊すらしい。
確かにサマツモドキも、条件によっては同じような色で、よく似ているんですよね。ちゃんと(1)から(4)を確認すれば間違えない……はず。不安だ。
もうひとつ、今回のキノコ観察会の食用キノコの目玉は、ヌメリスギタケモドキです。なんかややこしい名前だけど、毒キノコではありません。
スギタケという名前からして杉の木に生えるのかな、と思いますが、そうじゃない。だいたい道北に杉はない。スギタケというのは、杉の葉や幹に形が似ているかららしい。(諸説あり)
ヌメリスギタケモドキは弱ったヤナギの木の高い幹に生えることが多い。ヤナギの木は、葉っぱですぐ見分けられるようになるので、あとは上を向いて歩くだけです。
今回もちょっと高いところにありましたが、長い物干し竿みたいな枝を使ったり、大人が子どもを肩車して採っていました。食への執念たるや恐るべし。
ヌメリスギタケモドキは、カサの表面の独特な茶色いトゲトゲや、べとべとするぬめりなどで、比較的見分けやすい。
類似種に本家のヌメリスギタケもありますが、どちらも食用。ヌメリスギタケとモドキは、ツカにもヌメリがあるかどうかで区別できる。
個性的なキノコたちの奥深き世界
ほかにも、不思議なキノコをたくさん見かける。子どもたちが喜んでいたのは、ホコリタケ。
何が面白いかって、このホコリタケは別名ニンジャキノコやバクダンキノコとも呼ばれるそうで、つぶせば大量のホコリが出ます。胞子ですけどね。
子どもたちが、ずかずかと踏み潰して、砂煙のような胞子を舞い散らして楽しんでました。 昔の子どもたちは、こんな自然の遊びをよく知ってたんだろうなぁ。
なお、ホコリタケは幼菌なら食べれるのだとか。ホコリタケの幼菌を見分けられる自信はないし、ハードルが高すぎますが。
さて、こちらは、木の枝に付着していたコウヤクタケの仲間。真っ赤な紙のようなものが張り付いている。鮮やかすぎる真紅に思わず目を奪われます。
コウヤクタケの名のとおり、木に貼られた硬いシールみたいになっていて、いったいどんな生態の生き物なんだろう…と不思議になりますね。
ちゃんと調べてみたら「ヤナギノアカコウヤクタケ」というやつらしい。いや、「アカウロコタケ」の可能性も? 「ヒイロハリタケ」も似てるけど違うか。同定はやっぱり難しいな。
ヤナギノアカコウヤクタケとアカウロコタケの違いについての解説だと後者っぽい気もするかも…。わからない。
こちらはおなじみカワラタケ。どこでも見かけますね。見た目は似ていても、色とか形がさまざま。細かく分類すれば、いろいろ名前はついてるんでしょうか。
カワラタケには実は悪性腫瘍に効く成分があるとかいう話も聞きますが…なんとかして利用できないものか。
このキノコは、とてもつややかなペールトーンの紫色のカサ。
自然界にこんな色合いがあるのか、とうっとりしてしまいます。実は美しい紫色のキノコはそんなに珍しくもなく、ムラサキシメジという有名な食用キノコらしい。
が、今回見つけたこのキノコについては、いま書いたようにペールトーンの淡い色合い。紫色が薄く、「ウスムラサキシメジ」ではないか、との専門家の弁。
ムラサキシメジは食用なのに対し、ウスムラサキシメジは毒キノコなんだとか。なんだろう、このややここしさ。見分けるポイントは、色の薄さだけでなく、刺激臭がすることとか、いくつかあるみたいだけど、素人には難しすぎる。
見つけたキノコの中には、毒キノコとして名高いテングタケの幼菌も! というか幼菌のときはこんな形をしているのね。キノコはライフステージによって形が全然違うから覚えるのが大変です。
こちらはシロカノシタ。漢字では「白鹿の舌」。カサの裏側が鹿の舌のようにざらざらと尖っていることからついた名前らしい。鹿を狩猟して解体していた昔の人ならではのネーミングですね。
シロカノシタは食べるととても美味しいキノコらしいけど、今回は自分では採れなかった。残念。
またそのうち見つけたら食べてみたいけど、ちゃんと鑑定してくれる人を見つけないとなぁ。聞いたところによると保健所に持ち込めば鑑定してくれるらしいけど本当かな。士別限定の話?
お次はノボリリュウタケ。博物館の職員が、クロノボリリュウはよく見るけど、シロノボリリュウは初めてだから、ぜひ標本にしたいと興奮していました。
いびつで不思議な形だけど、昇り龍とはなんともかっこいいネーミング。海外では妖精の鞍というロマンチックな名前でも呼ばれているのだとか。そのまま食べると有毒だけど、ちゃんと火を通せば、美味な食用キノコになるらしい。
今回見つけたキノコはこんなにたくさん。それを専門家ができる限り同定してくれました。
今回、キノコ採りしながら専門家がつぶやいているキノコ名を、あとで調べようかと思って途中でメモしていましたが、こんな感じでした。
・ホコリタケの幼菌は食べれる
・ムラサキフウセンタケは臭い
・ひょろっとしているのはアシナガタケ
・ヤナギの下にユキノシタ(えのき)が生える
・ヌメリスギタケモドキはヤナギの木に生えやすいが違う木にも生える
・ミズゴケの間に生えるオレンジ色のキノコはミズゴケノハナ
・トモエタケ、オシロイタケ、スナガタケ(断片的な話すぎて詳細不明)
・チャヒラタケの仲間
・シロカノシタはシカの舌に似ていることから。キノコを調べるときは漢字も確認するとよい。
・ニガクリタケ、ウラベニガサ、ツキヨタケはユキノシタやナメコと間違いやすい三大きのこ
・ナメコはシラカバやヤナギに生える
・ホテイシメジは松林に生える
・ヌメリタケ
・ナラタケに似ているカバイロツルタケというテングタケの仲間があるが食用可
・ムラサキシメジはよいか、ウスムラサキシメジは当たりやすい。
・シロヤマイグチは食べれる
・ハタケシメジと間違えてウラベニタケを出して営業停止になった料理屋がある
・シラカバの木についている黒い塊はカバノアナタケの菌核(あとで調べてみると、チャーガと呼ばれる有名なキノコらしい。幻のキノコが普通の公園の中のシラカバにあるあたりが道北(笑))
・ベニタケは縦でなく横に裂けることで確認できる
・赤く木に張り付いているのはコウヤクタケ
・シロノボリリュウは珍しい
だけど、専門家でも名前がわからないキノコがいくつかあったみたいで、キノコの奥深さを感じます。わたしもキノコにもっと詳しくなりたいけれど、あまりに複雑。
山菜なら、見分けるポイントは比較的簡単で、有毒植物との違いも、数年間ほど頑張れば区別できるようになる手応えがあるけれど、キノコはいったい何年かかるやら。
今回自分で採ってきた食用キノコはこれ。
ほとんどがナラタケ、あとはおなじみハナイグチ(ラクヨウ)がひとつ、そしてヌメリスギタケモドキがふたつかな。
簡単に焼きキノコにして味付けして食べましたが、味わいと歯ごたえが抜群!
この前、松山湿原で採ってきたときもそうだったけど、キノコ狩りで採ったキノコってなんでこんなにおいしいんでしょう。
毒キノコの危険を思えば、今や栽培種のキノコを売ってるんだから、キノコを食べたければスーパーで買えばいい。そう思う人もいるかもしれないけれど、そういう問題じゃない。
森の中に生えている採れたてのキノコの味と食感は格別すぎるので、危険を冒してでもキノコ狩りに出かける人たちの気持ちがわかります。
山菜もそうだけど、野生の採れたての食材でなければ、決して味わえない本物がそこにあるのだ。
キノコ、それは共生関係のお手本
こうして野外でキノコ狩りするのは楽しいですが、それ以上に、キノコから学べることはたくさんあります。
ちょうど、士別市立博物館では、このキノコ観察会に合わせて、キノコの特別展が開催されていました。珍しいキノコの標本がたくさん展示され、たくさんのパネルでわかりやすく解説されていました。
その中でも、わたしにとって、印象深かったのは、この説明でした。
菌類は、森じゅうに菌糸のネットワークを張り巡らしていて、枯れ木や倒木を分解しています。わたしたちが見るキノコは、その菌類の活動のほんの一部です。
キノコが他の植物や動物を腐らせ、分解することは、一見、それらの生き物にとって「災難」に思えるかもしれません。しかし、森全体として見れば、それはプラスになります。
もし菌類がいなければ、森は、ゴミ収集車のこない都市のようになってしまいます。あちこちで病気が蔓延し、コミュニティはひどいありさまになります。
しかし、菌類がいるおかげで、いつも森は清潔に保たれ、生き物たちが思い思いに暮らせる豊かなコミュニティになります。
最近読んでいた生物学者D・G・ハスケルのミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球に、この菌類の役割のことが、とても興味深く説明されていました。
植物学者や菌学者が植物界の研究を進め、顕微鏡で根の標本を観察するうちに、ほとんどすべての植物が菌根菌を根の中かそのまわりに持っていることがわかった。
…つまり植物というのは模範的な共同体なのである。
…一見別々の個体に見える植物が、地下の恋人である菌類を媒介してつながっているのだ。
…ほとんどの植物群落においては、個体性というのは錯覚にすぎないのである。(p285)
こんなに広い森に生きるすべての生き物は、地下の菌類のネットワークによってつながっています。どれほどの巨木であろうが、菌類の助けなしに栄養を得ることはありません。
地下からキノコが生え出ることは、健康なコミュニティをもつ森にいるしるしです。
足の下がアスファルトで固められているでもなく、下水道や地下鉄や配管に埋め尽くされているでもなく、最大の生物ともいわれる菌類のネットワークに支えられていることを意味しているからです。
長い間、進化論者たちは、自然界は弱肉強食と適者生存によって動いていると教えてきました。強い者が生き残り、弱い者は淘汰される。その教えは、戦争や搾取を正当化するものに思えました。
しかし、やがて生物学者リン・マーギュリスが、細胞内のミトコンドリアの起源は、他の生物との共生関係だったと気づきました。そして、適者生存ではなく、共生関係が生命の原動力である、という新たな理論を提唱しました。
今では、自然界は、ただ強い者が生き延びるのではなく、より他と協力した種が生き残り、その上で互いに競争する場所とみなされています。
自然界は「弱肉強食」の掟で動いている、という昔ながらの見方が更新される必要があることは明白だ。
私たちには森を表現する新しい比喩が必要だ―植物を、共有と競争を同時に行なうものと捉えるのを助ける比喩が。(p285)
森の植物はみな、競争すると同時に協調しています。だから一種の独裁ではなく、多様性によるコミュニティが生まれます。
不健康な森ほど、多様性はなくなり、生き物が乏しくなります。たとえば林業で単一の品種が植林された貧しい針葉樹林のように。
しかし本当に健康な森は、とても数えつくせないほど多種多様な生き物が共生しあう場であり、あらゆる種が絡み合って、ひとつの生態系を構築しています。
森に生きるすべての生き物はつながっているので、菌類が植物を分解することは、その植物にとっては災難に思えても、森全体にとって益になります。
このような複雑で美しい共生関係は、菌類のネットワークだけでなく、自然界のあらゆる場所にみられます。
生命の歴史における大きな遷移のほとんどは、植物と菌類の結びつきのような共同作業によって成し遂げられたものだ。
あらゆる大型生物の細胞に共生細菌が棲んでいるだけでなく、彼らが棲む環境自体が、共生関係によって作られた、あるいは改造されたものなのだ。
陸生植物、地衣類、そしてサンゴ礁はどれも共生関係が生み出してきたものだ。この三つを世界から取りのぞいてしまえば、事実上世界は丸裸である(p286)
わたしたちの地球と、そこに生きる生き物はすべて、複雑な多様性を維持しながら、密接に協力しあうことによって発展してきました。
このことを覚えてさえいれば、そして少しでも自然界から学ぶ心を持ち合わせていれれば、近年のような愚かなナショナリズムははびこらなかったでしょう。
どこかの国さえよければ、どこかの民族さえよければ、あとはどうなってもいい。そんな弱肉強食の掟は、もう生物学の世界では時代遅れです。
自然から学べるのは、自分以外の他者の多様性を尊重すること、共存するために地下のネットワークを通じて、いかに緊密にコミュニケーションを取り合うか、です。
ハスケルの別の本、木々は歌う-植物・微生物・人の関係性で解く森の生態学に引用されているように、作家ヴァージニア・ウルフは、人間もまた例外でないことに気づいていました。
ヴァージニア・ウルフは「本物の生活」は集団の暮らしであり、「わたしたちのひとのひとりが個別に生きているちっぽけな人生」ではないと書いている。(p65)
自然界も人間も、他者の多様性を尊重し、コミュニケーションし、協力しあうことなしでは生きていけません。ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球に書いてあるとおり。
「ルーツ」「地に足をつける」―それは単に物理的な意味での土地とのつながりのことではなくて、そこにある環境との互恵性を、そのコミュニティに生きるほかの生き物との相互依存関係を、そして根の存在が、棲むところ全体に与えるプラスの効果を示している。
こうした関係は歴史に深く深く埋め込まれていて、個体性はもはやなくなりつつあり、周囲から隔絶された存在などあり得ないのである。(p287)
もしそのことを理解せず、ネットワークから自分を切り離して、自分勝手に生きようとする種がいたら、必ず滅びるでしょう。たとえそれが万物の長を自負する人間であっても。
羊飼いの町、サフォークランド士別
キノコの世界に思いをはせた後は、博物館の常設展示を見て回りました。
地元の動物、鳥類、虫などの標本は、とても勉強になると思いました。道北の自然に詳しくなりたけれは、士別市立博物館のようなところに足繁く通えばいいのかも。ちょっと遠すぎるけど。
近くには屯田兵屋が再現されていて、中を見学できます。紅葉した木のそばにある、古めかしい外観の建物。
中に入ると、簡単な説明を読むことができます。当時の暮らしがいかに厳しかったか知ると、涙が誘われます。
屯田兵屋は、支給品だったので、改造することさえ許されなかったらしい。マイナス30℃を下回る極寒のなか、こんな断熱材も入っていないような家でいったいどうやって生き抜いていたんだろう…。
おもしろかったのは、ネズミ対策に、ネコが配給されたという話。くじでネコが当たった家族が喜んでいたという。
いいなぁネコの配給。と言いたくなりますが、生態学を志す者としては、これもまた悲しい人間の環境破壊の歴史のひとコマとして見てしまいます。
近年、人類に統合失調症などの病気が広まったのは、飼い猫を媒介にして人間に潜伏感染するようになったトキソプラズマのせいではないかと言われています。
また、ネコは地元の在来種や鳥を襲うので、野生化してしまったネコによって、世界中で生態系がはなはだしく破壊されています。
詳しくは、心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会まで とか、猫はこうして地球を征服した: 人の脳からインターネット、生態系までといった本を参照。
ネコは可愛いから、あまり批判の対象になりませんが、多くの土地の生態系にとって危険な外来種であり、人間が自然界を自分勝手に作り変えた結果として増殖した、いびつな存在なんですよね。
わたしは人間が環境破壊の問題を解決できることは絶対ありえないと思っています。
ペット化されたネコ文化とか、温室効果ガスの主要な排出源のひとつになっている食肉産業とか、強欲な人々が手放せるなんて誰が思うでしょうか。
そのあと、せっかく「サフォークランド」を冠する士別市に来たので、羊の牧場の見学にも行きました。
場所は博物館の近くの世界のめん羊館。たくさんの品種の羊が飼育されています。ちなみにめん羊とは主にウールを採る羊のことで、漢字だと緬羊。
入場料は一人200円。……なのだけど、そんなに施設が広いわけではなく、飼育場の中にいる、さまざまな品種の羊を見たり、エサをあげたりできるだけです。
近くで見れて可愛かったけど、ちょっとストレスがたまってて騒いでいる羊もいました。やっぱり飼育場ではなく、外で放牧されている羊を見たほうがいいかな。
めん羊館の外にも、遊歩道や牧場、さらには羊肉ジンギスカンを食べれるバーベキューハウスなどがあります。牧場の風景は、まるでヨーロッパのよう。道北ってもともと北欧みたいだけど。
牧場には、一部自由に立ち入れるようになっていて、運が良ければ、こんなに近くで羊を眺めることもできる。
エサを期待しているのか、あまりに近づいてこられると怖いけど。(なんか動物のお医者さんにこんなシーンなかったっけ)
さっき、ペット文化とか、食肉業界を批判したけれど、問題はそれ自体が悪いというわけではなく、規模だと思うんですよね。
昔から、狩猟者は狼の子どもをペットにしたりしていました。羊飼いも大勢いたし、人間はみんな肉を食べてきた。でもそうした活動が地球を大々的に破壊することはなかった。
けれど、現代では、そうした活動が、比べ物にならないほど大規模に行なわれている。産業革命以降、大量生産が当たり前になって、ペットも食肉産業もそのレールに載せられてしまったことから来ていると思います。
昔、羊飼いたちは、自分の家畜を大事にしていました。肉を食べるために屠殺するのは大きな犠牲を払うことでした。だから犠牲という字にも「羊」が入っている。
でも、今では、食肉加工場にしてもペットショップにしても、ほとんど流れ作業のモノ扱い。命を殺したり売り買いしたりすることは特別ではなくなり、金儲けのための当たり前の工程の一部になってしまった。
さっきの森のコミュニティの話でも、森に棲む生き物は生きるために他の命を奪うことはある。でもそれはあくまで生きるために必要なぶんだけであって、欲望や楽しみのためではない。あくまで共生のための命のやり取りです。
それに比べて、産業革命以降の人類は、ひとつひとつの命に敬意を払わず、金儲けや大量生産を優先する文化を作り上げてしまった。それが、いま地球を破壊し、わたしたちの首を締めているんだと思います。
道北の豊かな自然が大好き。和泉雅子さんと同じように
士別の町での体験記の最後に、博物館で展示されていた和泉雅子さんの新聞記事に共感した話を。
和泉雅子さんというのは、女優であると同時に、日本女性で初めて北極点に到達した冒険家という経歴をお持ちの方らしい。わたしは全然知らない世代なんだけど。
北極点まで行った冒険家の方なら、狭い日本なんて飽きて飛び出してしまいそうだけど、なんと士別市に引っ越してきたので、博物館に展示が設けられている。
わたしとは比べ物にならないような経歴の方だけど、似ているところがちらほらと。
まず、もともと都会出身。また「室内での仕事が多く、ストレスで体調を崩して」しまったこと。
そして、経歴からにじみ出すぎているADHD気質。「好奇心が強く、明るく、前向きな性格」なのだそう(笑)
そんな彼女が士別を選んだのは、マイナス30℃にもなる美しい氷点下の気候で、スノーモービル国内発祥の地だったことが決め手らしい。北極に行った人でも好きになる道北の冬!
和泉さんによると、士別は「欧州アルプス山脈東部のチロル地方」みたいなところなのだという。
どんなところ?と思って調べてみたら、想像以上にすてきな場所。
リゾート地の写真は、選別して盛られていることも多いけど、きっと和泉さんは両方知っているんだろうから、似ているのは事実なのだろう。
たぶん、観光向けではなく日常の風景写真を探してみたら、きっと似ているのだと思う。
そんな和泉さんが書いている、
「銀座で生まれ育ち、ビルや建物など突き当たりのある風景が当たり前のような生活していると、自然の風景などは無い物ねだりになってしまう」
「東京に長くいると、早く士別に帰りたくなります」
「四季折々で異なる風景を楽しめ、飽きることがない」
「銀座では鉢植えの土だってそう簡単に捨てることができないんですよ」
「こんな素晴らしいところに住んでいながら、その良さに気づいていない人たちが多すぎる。士別はいいところなんですよ。私の感性にぴったりですね」
「ごみの分別だって欧州並みに高いレベル。何より地震や災害がほとんどありません」
といった感想の数々が、わたしの感想と同じすぎる。やっぱり、ずっと都会育ちのADHD気質の人が、道北に来たら、こういう感想になるんですね。わたしだけじゃないとわかり、嬉しかったです。
わたしも道北の自然が大好き。だからこそ、地元の人を見て「こんな素晴らしいところに住んでいながら、その良さに気づいていない人たちが多すぎる」と思ってしまうことも多い。
だけど、五体満足の人がありがたみを感じないのと同じ。障害を負ってはじめてありがたみを感じるように、きっと長く都会暮らししないとこの良さに気づかないでしょう。仕方ない。
わたしも、道北は「私の感性にぴったり」だと思います。士別市でキノコや、博物館の解説、そして和泉雅子さんの記事に触れたことで、自分の道北への想いを再確認できました。
世界では利己主義の嵐が吹き荒れいて、人類はどんどん、自然からかけ離れていっているように感じられます。だけど、今なお自然との共生した四季折々の生き方を楽しめるのが道北なのです。
わたしにとっては、道北でも士別や名寄はちょっと都会すぎるので、今住んでいる片田舎がぴったりです。だけど、たまには士別の博物館にも来て、見識を深めたいなと思いました。