色との出会いは最初に見た一度きり。新鮮さと驚きを保つための色の認知科学

自然界を眺めていると、ふと信じられないような新しい色を見つけてハッとすることがあります。今まで見たことのない鮮やかな色、はじめて出会う色です。

たとえば、わたしは道北に引っ越してから、道路脇に積み上げられた雪の塊の中に淡く反射する青白い光に目を奪われました。

夏に雨上がりの森に行ったとき、落ち葉が積み重なった地面を彩る、色とりどりの葉っぱやキノコのちりめん織りに思わず見とれました。

残念ながら、写真では感動がうまく伝わりません。わたしが見た景色は、この写真に写っているよりも、もっとキラキラと輝いていて、もっと複雑で鮮やかだったからです。

今や高性能のディスプレイで、たいていの色は再現できる時代です。なのにどうやっても再現できない色に、自然界の中で出会うことがあるのです。それはなぜか。

日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめ を読んでいるときに、ひとつの答えを見つけました。

昨今の研究で、わたしたちが色を、ことに目新しく感じられる色を識別するのに、精一杯の努力が必要なわけが裏書きされた。

人間の脳はある色を予期しているとその色を創造できるのだという。

わたしたちがバナナの形状を見分けると、バナナは黄色く見えてくる。仮に光の加減で、実際には黄色く見えない場合でも、黄色に見えるのだ。

このことは探検家にとってはきわめて深い意味を含んでいる。

わたしたちが客体として色を真の意味で発見することができるのは、たった一度きりなのだ。

いったんある物質を見つけてしまったら、わたしたちの脳は、記憶にある色でその物体を塗りこめる。

世界がさらに色鮮やかな場所になるのに、主観と客観が手を携えているのである。(p187)

物体の色は光の波長の一部が反射したものです。しかし、わたしたちは、ただ光によって色を見ているわけではないのです。

わたしたちが、あるものの色を発見できるのは「たった一度きり」であり、自然界にはその驚きの機会が満ちあふれています。どういうことか考えてみましょう。


色は光と記憶から作られる

いま引用した文章にあったように、わたしたちの見る色は「主観と客観が手を携えて」作られます。

まず、「客観的」な色というのは、わたしたちが学校で教えられる光の効果のことです。

ニュートンがプリズムを使って発見したように、太陽の白色光にはあらゆる色の波長が含まれています。だから、太陽が雨上がりの水滴によって、虹が生まれます。

わたしたちが見るあらゆる色は、太陽光によって着色されています。

たとえば森が緑色なのは、植物が太陽光のうち、緑色の波長以外を吸収するからです。緑色の波長だけは吸収されず反射され、それがわたしたちの目に届きます。だから緑に見えます。

でも、色が見えるメカニズムがこれだけだったら、わたしたちは初めて見る色にハッと驚いたりはしないでしょう。

色は「主観的」でもあります。まず色を認知する目や脳の機能は一人ひとり個人差があります。色盲の人はうまく色を認知できません。

でもそれ以上に、わたしたちは、記憶の中から再生される色に影響を受けています。

人間の脳はある色を予期しているとその色を創造できるのだという。

一番わかりやすい例は、夢の中で見る色でしょう。眠っているとき、わたしたちは文字通りの色を見ていません。太陽光は差し込んでいません。

それなのに、夢では鮮やかな色を見ることがあります。それは完全に「主観的」な色です。

前にわたしの体験を書きましたが、夢の中では現実に存在しないような色を見ることがあります。太陽光に依存しない、純粋に内的な刺激から生み出される色です。

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上の記事でも書きましたが、そのような色がありうることは、特殊な共感覚者の経験を通して実証されています。

例えば、脳のなかの天使 に書かれているスパイク・ジェイアンのエピソードです。

共感覚の研究に着手してからおよそ三ヶ月後に、私は予想外の奇妙な展開に遭遇した。学部学生のスパイク・ジェイアンから、一通のeメールが来た。

…彼は数字-色の共感覚者で、私たちの研究のことを読んで知り、検査をしてほしいと思っているという内容だった。

そこまではなにもおかしくはなかったが、その次に爆弾発言があった。

彼は色覚異常者だというのだ。色覚異常の共感覚者だって? 私の頭は混乱しはじめた。

彼が色を体験するとしたら、それはあなたや私が体験する色と同じように色なのだろうか?(p166-167)

スパイクは、数字を見ると色が見えるという、数字-色タイプの共感覚者でした。このタイプは珍しくありません。わたしもその傾向があります。

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でも、不可思議なのは、スパイクは色盲だったことです。つまり、普段の生活では見られない色を、数字を見たときだけに感じるというのです。

スパイクは赤緑色覚異常だった。彼が外界で体験する色はほとんどの私たちよりもはるかに少ない。

しかし奇妙なのは、実世界ではけっして見えない色がしばしば数字について見えることだった。

彼はそうした色をチャーミングかつ適切に「火星の色」と呼び、「異様」で、まるっきり「非現実的」に思える色なのだと言った。(p167-168)

どうしてこんなことが起こるのか。

その理由はこの本でも解説されていますが、9つの脳の不思議な物語 (文春e-book) という別の本の解説のほうが平易なので、そちらを引用します。(こちらでは同じ人の名前がジャハーンと訳されている)

私はラマチャンドランにこの不思議な現象を解説してもらった。

それによるとジャハーンは錐体に問題があるので、現実には特定の色を見ることができないが、脳の色を処理する部分は完全に正常だ。

そしてどういうわけか、ジャハーンが数字を見ると、数字の形は正常に処理されるが、その後視覚野の色を知覚する回路を通るので、それが引き金になって現実世界では見えない色を知覚するのだという。(p119)

簡単にいえば、彼は目に問題がありますが、脳は正常です。

だから、目を通して色を認識する普通のルートでは色がうまく見えません。つまり「客観的」な色をうまく把握できません。

しかし、脳の中で色を作り出すルートのほうは正常です。夢や記憶、共感覚ではこちらのルートで「主観的」な色を作り出すので、現実にない色を見ることができます。

この本によると、色盲の共感覚者は、スパイクだけでなく、ルーベンという男性で確認されているそうです。

この人たちは、ストループテストと心拍数を使って、本当に色盲なのに色が見えていることが裏付けられています。(p116-117)

二人は客観的な色は見えないのに、主観的な色は見えるので、「彼の頭の中には現実生活では見たことのない色があるのかもしれない」と書かれています。(p118)

脳は常に色を補正している

けれども、この二人だけでなく、わたしたちはみな、主観的な色と客観的な色を組み合わせて、この世界を見ています。

そのことは、わたしたちが、見ている色を常に補正していることからわかります。

先に引用した、日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめ にこう書かれていました。

わたしたちがバナナの形状を見分けると、バナナは黄色く見えてくる。仮に光の加減で、実際には黄色く見えない場合でも、黄色に見えるのだ。

どういうことでしょうか。

例えばバナナが黄色く見えるのは白色光の下だけです。ぜんぜん違う色の照明の場所でバナナを見ると、客観的な色は変化します。

もし波長に黄色が含まれていない光の下、たとえば繁華街のネオンサインの下でバナナを見たら、バナナは黄色くないでしょう。

でも、わたしたちは、バナナの形を見るだけで、これは黄色いものだと認識し、色を補正します。客観的には黄色くなくても、記憶の中から黄色を呼び出して、黄色いと感じてしまいます。

これは「色の恒常性」と呼ばれています。前に書いたように、人はみなあらゆるものを脳内の記憶によって補正しながら見ているのです。

上の記事ではスニーカーの例を紹介しましたが、それと並んで有名なのは、この画像です。人によって、ドレスの色が青と黒に見える人もいれば、白と金に見える人もいます。

この画像について、9つの脳の不思議な物語 (文春e-book) にこんな解説が書かれていました。

けれどわかってきていることがある。みなが同じようにものを見ているとは限らないということだ。

2015年2月にそのことがかつてないほどはっきりと示された。ある青色と黒色のワンピースをめぐる混乱が起こったのだ。

いや、ひょっとしたら、私と同じようにあなたにもあれは白と金色のワンピースに見えたかもしれない。(p115)

画像はひとつですから、客観的な色は一種類のはずです。スポイトツールで色のRGBの絶対値を調べてみたらわかります。

それなのに、違う色に見える人がいるということは、脳が色を相対的に補正しているということです。

科学界は問題のワンピースはある種の知覚の境界にあるのだろうと結論づけた。あの画像が撮られた際、どんな光で照らされていたのかがわからないからだ。

つまり脳が青っぽい光に対応して補正した人々には白と金色に見え、ほかのヒトたちは可視波長域の金色を割り引いて補正したので青と黒に見えたのだ。(p116)

いずれの場合も、脳は何かしらの補正処理をしています。

ですから、昔から哲学者たちが言うように、あなたが見る赤色と、わたしが見る赤色は同じ色なのか、というクオリアの論争が生じます。

私はあのワンピースの画像を見て、少なからず驚いた。

あの画像は我々が当たり前だと思いすぎて意識していないクオリアを認識させてくれるからだ。

自分がいま見ている色は他の人が見ている色とちがうかもしれないのだ。(p116)

たとえ同じものを見ていても、そして客観的な色の数値が同じでも、色は「主観と客観が手を携えて」作られるものなので、一人ひとり印象が違っている可能性が高いのです。

一人ひとり違う世界を見ている

「主観と客観が手を携えて」いる、というのは、色だけでなく、すべての感覚にいえることです。

私たちが見ているこの世界はすべて、形や音、匂いでさえ、客観的に正確に認知しているわけではなく、記憶に基づく主観がおおっぴらに入り込んでいます。

たとえば音について言えば、わたしは以下の記事で引用されている「劣化雑音」についての話が好きです。

社長が訊く『キキトリック』

僕がいちばん最初に紹介されたときは、ある短い一文を聞いたんですが、「ザザザザザ・・・」という雑音にしか聞こえなくて、声としてはまったく聞き取れませんでした。

でもそのとき、スタッフのひとりが、「“血みどろのなんとか・・・”って聞こえる」って言ったんですね。そんなはずはないと思ったんですが、次に聞いてみると、僕にもそう聞こえたんです。

でも、じつはそれは答えじゃなくて正解は「ショートケーキを買ってきた」だったんです。それでもその場にいた僕たち全員、「ショートケーキを・・・」が、「血みどろの・・・」としか聞こえなくなってしまって(笑)。

劣化雑音というのは、元の原型をほとんど 留めなくなった音声のことです。それがどう聞こえるかは、記憶や主観に左右されます。いわゆる空耳と同じですね。

劣化雑音でなくても、わたしたちは何かを聴く時、音をそのまま厳密に聴いているわけではなく、主観的に変換し、補正しています。

だから同じ言葉や音を聴いても、人によって印象は変わるし、場合によっては解釈さえもぜんぜん変わってくるのです。

特に文化や言語が違えば、印象の違いは歴然とするでしょう。猫の声は世界中どこでもほぼ同じなのに、「ねうねう」と聞こえる文化もあれば、「meow meow」と聞こえる文化もあります。

物体の形についてはどうでしょうか。驚くべき事例が、火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF) に載せられています。

わたしたちは、人によって色の見え方が違うことには納得しても、物の形も人によって違うと言われれば、首をかしげるかもしれません。

でも、幼少期から視力が弱く、人生のほとんどを盲目で過ごしたヴァージルという男性が、手術によって目を開けられたときの体験について考えてみましょう。

ヴァージル自身もほかの人たちも、もっと単純な結果を想像していた。

目が開く、光が入ってきて網膜にとどく、そして見える。単純なことだと思ってしまう。(p163)

そう、もし「見る」という行為が「光が入ってきて網膜にとどく」だけで成り立っているなら、ことは単純だったはずなのです。しかしそうではありませんでした。

あとになって、ヴァージルはこの最初の瞬間のことを、なにを見ているのかよくわからなかったと語った。

光があり、動きがあり、色があったが、すべてがごっちゃになっていて、意味をなさず、ぼうっとしていた。

そのぼんやりとした塊のひとつが動いて、声がした。「どんな具合ですか?」そこで初めて、この光と影の混沌とした塊が顔だと気づいた。(p162)

確かに目は見えるようになりました。色も見えました。でも見えていたのは、混沌とした塊でした。

これはヴァージルだけではなく、子ども時代からずっと盲目だった人の手術の際に、必ず起きることだそうです。50代になって目が見えるようになったS・Bという人もそうでした。

包帯が外された……彼は前方、少し寄ったところから声がするのを聞いた。声が聞こえるほうを向くと、「ぼうっとした塊」が見えた。

これは顔らしいと彼は気づいた……だが、前に声を聞いていなかったら、そして声は顔から発せられると知らなかったら、それが顔だとはわからなかったのではないか。(p162-163)

こうした経験からわかるのは、「見る」というのは単に光をとらえる単純な行為ではないということです。わたしたちは光によって見るのではなく、経験によって見るのです。

赤ちゃんのころから、何ヶ月も何年もかけて目が光をとらえ、脳がたくさんの経験を蓄えて、最適化し続けた結果、わたしたちはやっと「見る」ことができるようになります。

ひとは生まれて数ヶ月のうちに、視覚の恒常性を獲得する。視点によって異なるあらゆる様相やものの変化を関連づけることができるようになるのだ。

そのためには膨大な学習が必要だが、無意識のうちに楽々と行なわれるから、これがいかに複雑なものか、あまり意識しない(しかし、どんな高性能のコンピュータもかなわないほどの作業である)。(p179)

こうして、わたしたちはみな、だいたい同じような世界を見ることができるようになります。

たとえば、スカイツリーの形が、人によって、四角に見えたり、六角形に見えたりするようなことはありません。

でも、一人ひとり経験や記憶は異なります。わたしたちが見る世界すべては、その経験や記憶といった主観によって補正されています。

赤という色は万人にとってだいたい同じですが、厳密にいえば、一人ひとりちょっとずつ見えている色は違います。

同じように、スカイツリーの形も、万人にとってだいたい同じですが、主観によって補正されているので、一人ひとりちょっとずつ形も変わってきます。

だから、意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源 に書かれているように、同じ場所の風景を見ていても、一人ひとり見ている景色は違うのです。この場合も「主観と客観が手を携えて」いるからです。

意識はつねに能動的で選択的であり、自分だけの感情と意味に満ちあふれ、自分の選択を告げていて、自分の知覚を浸透させている。

したがって、私が見ているのはただの七番街ではなく、私自身の自我とアイデンティティをまとった私の七番街なのだ。

…自分が受け身の公平な観察者になれると想像するなら、それは思いちがいである。

あらゆる知覚、あらゆる光景は私たちによってつくられるのであり、それを意図しているかいなか、知っているかいないかは関係ない。(p183)

脳は「予測装置」

一人ひとりが見ている世界は必ずしも同じではなく、経験と記憶によって補正されています。これは、近年唱えられている、脳は「予測装置」である、という説と一致します。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳という本によると、わたしたちの脳は、外から入ってくる刺激を、そのまま認識しているわけではありません。

何かの刺激が入ってくると、それを経験と照らし合わせます。そして、たぶんこうだろうと予測した結果を、現実として認識している、というのです。

セスが基本にしているのは、脳が予測装置であるという近年一般的になってきた概念だ。(p187)

脳は、感覚刺激の考えられる原因について事前信念を持っており、それにもとづいて最も可能性が高いものを計算する。

最後まで勝ちのこった予測が知覚として立ちあがってくるわけだ。(p190)

脳内には、入ってきた情報を統合して知覚を生みだす特別な場所はなく、ただひたすら予測が行なわれている―私たちが知覚し、感じることは、つねに信号の原因を探る脳の予測なのだ。(p191)

脳はひたすら予測している。

ある意味それは推理小説の探偵のようなものです。探偵は、さまざまな手がかりをもとに、一番ありえそうなシナリオを推理します。

同じように脳は、さまざまな周囲の感覚刺激を手がかりに、それがなんなのかを予測します。その予測結果を、わたしたちは「現実」として知覚しています。

わたしたちの脳は、膨大な経験と記憶を蓄えている、非常に優秀な探偵です。だから、めったに予測を外しません。みんなだいたい同じ現実を認識できるのはそのおかげです。

でも、さっきのヴァージルのような、子ども時代の経験がなく、脳がデータを十分に蓄えていない人はそうできません。

「見る」という行為は、単に光を認知することではなく、光という感覚刺激から、現実世界がどんなものか推理し、予測するプロセスです。

だから、たとえ目が見えるようになって、感覚刺激を受け取れても、推理するためのデータ、つまり経験が不足していると、ぼやけた精度の低い現実しか知覚できません。

わたしたちの脳が予測装置である、という考え方は、経験がいかに大事かを伝えています。

文字通りの探偵がそうであるように、経験や記憶という膨大なデータがあってこそ、推理や予測の精度を上げられるからです。

でも、別の観点からみれば、経験が豊富になればなるほど、わたしたちの知覚における、経験や記憶の影響が大きくなってしまいます。

赤ちゃんが初めて何かを見るときは、先入観も働かなければ、記憶による補正も働きません。手術で目が見えるようになったヴァージルもそうでした。

でも、経験が増えてくると、どうしてもそれが見るもの聞くもの味わうものを補正し、修正するようになります。だから、純粋な感覚は味わいにくくなってしまいます。

そのようなわけで、冒頭で、日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめ から引用した、こんな現象が起こるのです。

わたしたちが客体として色を真の意味で発見することができるのは、たった一度きりなのだ。

いったんある物質を見つけてしまったら、わたしたちの脳は、記憶にある色でその物体を塗りこめる。(p187)

わたしたちが、本当に純粋な意味で、色や形を発見できるのは、最初に知覚した一度きりなのです。

次からは記憶と経験がでしゃばってきて、無意識のうちに補正してしまうので、主観的な解釈が入り込んでしまいます。

そうなってしまうと、いつもの景色に安心できる代わりに、初めての出会いからくる驚きや新鮮さはなくなります。

わたしが自然界の色や形にうっとりする理由

こうやって、わたしたちの知覚の仕組みを考えると、わたしが道北に引っ越してから、何度も自然界の美しさにハッと息を飲んだり、見惚れたりしている理由がよくわかります。

わたしは子ども時代からずっと、都会で育ってきた人なので、自然界の風景をこれまでほとんど見たことがありません。

わたしが道北の景色の美しさにうっとりするたび、地元の人たちには不思議がられます。なんでそんな普通の景色に驚くのか、というのです。

わたしの状況はヴァージルみたいなものです。自然界に対していわば「盲目」だったのに、今いきなり見えるようになったからです。驚きと新鮮さに満ちています。

でも、今まで見たことがなかったから驚いているだけなのだとすれば、これからもっと記憶や経験が増えてきたら、もう驚きはなくなってしまうのでしょうか。

確かにそうです。驚きが生じるのは、最初に認識した一度きりです。

「いったんある物質を見つけてしまったら、わたしたちの脳は、記憶にある色でその物体を塗りこめる」ので、しだいに感動は薄れていくでしょう。

現に、地元の人の大半はその状態に陥っています。これほど美しい道北の大自然があっても、すっかり見慣れてしまっているので、驚いたり息を呑んだりすることはありません。

どんなに美しいものを見ても、記憶が補正をかけてしまって、これはよく知っている色だし、見慣れた形だし、今さら驚くようなことは何もない、いつもの風景だ、と知覚させているからです。

だけど、わたしは全ての人がそうでないことも知っています。

子ども時代からずっとここ道北に住んでいるのに、いまだに毎日新しい発見を積み重ね、ハッとするような色や形を見つけている人もいます。

その違いはどこにあるのか。

生涯にわたってずっと自然を愛した海洋生物学者レイチェル・カーソンが、センス・オブ・ワンダー の中でその答えを書いています。

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいとたのむでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。(p23)

違いは「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を生涯変わることなく持ち続けているかどうかです。

別の言葉でいえば、それは探検家の心かもしれません。身の回りの自然に注意を振り分け、今まで見たことがない景色や色、形、音などを目ざとく発見するのです。

その気さえあれば、自然界は人工物と違って、無限に新しいことを発見しつづけることができます。

70年生きていても、足元に生えているコケの森を観察したことのない人、服に舞い降りる雪の結晶を見たことのない人、森のマンダラ模様のような生態系を観察したことのない人は大勢いるでしょう。

そうでなくても、自然界の風景は刻一刻と移り変わります。わたしはここ道北で暮らしてもうすぐ1年になりますが、いまだに、家のすぐ前から望める山の風景に新鮮な驚きを感じます。

ただの山だと思えば感動は「一度きり」です。もう見たことがあるからです。

基本的に人工物から得られる感動は「一度きり」です。どんなに面白いアトラクションでも毎回同じだからです。

しかし自然界は違います。気をつけて見ていると、毎日風情も表情も違っています。同じ山でありながら、色も形も雰囲気も、決して同じではありません。だから毎日新しい発見があります。

わたしが特に好きなのは、真冬の凍てついた山の風合いです。まるでブリザードフラワーをつやつやにコーティングしたかのような、奥行きのある立体的な色合いに染まります。

何度見てもうっとりします。その不思議な色と質感は、どうやっても写真には映らないのです。日々姿を変えながら、繰り返し繰り返し、わたしの目にだけ飛び込んでくる。

山が凍てつき、氷づけになるたびに、わたしはその日限りの自然の芸術作品と、一度限りの出会いを繰り返すのです。

投稿日2019.09.11