フネスと同じく、彼にも「事実上、一般的・観念的に考える能力がなかった」。
…驚異的な記憶力の持ち主である二人には、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』にある、「記憶力が良すぎる人は思想家にはなれない」という名言が当てはまったのである。(p99)
あなたは記憶力に自信のあるほうですか? それとも記憶力のいい人を羨ましく思っているでしょうか。もしあなたが、記憶力にあまり自信がないタイプだとしたら、この記事で考えることは励みになるかもしれません。
冒頭に挙げたのは、なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学 という本に載せられている一節です。
ここで挙げられている驚異的な記憶力を持つ二人とは、アルゼンチンの小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いた創作上の人物であるイレネオ・フネスと、実在したロシア系ユダヤ人ソロモン・シェレシェフスキーです。
フネスとシェレシェフスキーは、かたや創作上の人物、かつや実在の人物であるとはいえ、驚くほどに似た特徴を持っていました。
それは完璧な記憶力、そうです、まさしく完璧な記憶力を持っていて、見たものを決して忘れず、いつでも思い返せる人だったのです。
しかし、今回の記事で考えたいのは、単なる記憶力のすばらしさではありません。むしろ、その逆であり、記憶力が良すぎる人ほど芸術的才能には乏しく、記憶力があやふやな人のほうがクリエイティブなのではないか、という点です。
引用した文中では、哲学者ニーチェの「記憶力が良すぎる人は思想家にはなれない」との言葉が引かれていますが、これは、今回の記事のタイトルのように「記憶力が良すぎる人は芸術家にはなれない」と言い換えることもできるでしょう。
どうして、記憶力が良すぎると創造性が失われてしまうのでしょうか。記憶力と芸術的才能とにはどんな関係があるのでしょうか。天才的な記憶力を持つ人たちのエピソードや、創造性のメカニズムについて考えてみたいと思います。
もくじ
完璧な記憶力を持つ人は芸術家にはなれなかった
すでに紹介したソロモン・シェレシェフスキーは、偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫) という本によって世界的に有名になった人物です。
シェレシェフスキーの記憶力は、限界がありませんでした。どれだけ長い文字のリストを見せても、彼は暗唱し、頼まれれば逆順に暗唱することもできました。意味のある文字列だけでなく無意味な文字列でも問題ありませんでした。
彼の驚異的な記憶力は、優れた視覚イメージと共感覚に支えられていました。ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由 という本ではこう書かれています。
言葉を聞くと、S[ソロモン・シェレシェフスキー]の脳内にはイメージが浮かぶ。私たちは「象」という言葉を見たり聞いたりすると、すぐに、これは大きくて灰色で、足が太く、鼻が長い厚皮動物のことを言っているのだと理解する。
けれども、たいていの場合は、象の姿がそれほど強いイメージとして頭に浮かぶことはないし、通常の会話や読書ではわざほざそんなことをする必要はない。
しかしSは言葉に触れるたびに即座に、これを自動的に行っている。どうしようもないのだという。(p46)
シェレシェフスキーの視覚イメージは強烈です。ただ目の前にありありと浮かぶだけでなく、時には現実と区別がつかないほどでした。
現実とイメージとが連動しすぎていて、電車を追いかけて走っている自分を思い浮かべるだけで脈拍を上げることができました。数字にはそれぞれ個性があり、7と聞くと、口ひげを生やした男性のイメージが目の前に現れました。
シェレシェフスキーは、後年、リアルに膨れ上がった想像の世界を歩きまわることを覚えて、さらに記憶力を磨き上げます。現実の町並みのような「記憶の宮殿」の中を歩きまわるだけで、あらゆることを思い出せたのです。今で言えば、さながらVR(仮想現実)ヘッドセットを脳内に標準装備しているものだったのかもしれません。
さて、これほど驚異的な記憶力を持っていたシェレシェフスキーでしたが、完璧な記憶力は、良いことばかりをもたらしたわけではありません。むしろ彼にはとても大きなものが欠けていました。再びなぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学 から引用しましょう。
しかし、このイメージの正確さには思わぬ欠陥があった。シェレシェフスキーは、絵と結びつけることのできない概念、たとえば「無」という単語を処理することができなかった。
…比喩表現や詩歌に対する感性もまったくなかった。、そうしたものは、言葉から具体的なイメージと感覚的結びつきを呼び起こす人には、奇妙に思えるのかもしれない。(p97)
シェレシェフスキーは、物事を正確に覚えるのには長けていました。その点で彼の右に出る者はいません。
ところが彼には「感性」が欠けていました。詩歌のような芸術に必須の比喩をまったく理解できませんでした。比喩は、言葉の意味そのものではなく、連想に注目することで味わいを生み出すものですが、シェレシェフスキーは、ある言葉のイメージは決まっていて、別のものをイメージすることができなかったのです。
それにしても、どうして、記憶力か良すぎて、言葉を字句通りに受け止めてしまうと、芸術的感性が失われるのでしょうか。この点をさらに理解するために、もう一人の驚異的な記憶力の持ち主について調べてみましょう。それは過去の記事でも取り上げた、サヴァンの画家、スティーヴン・ウィルシャーです。
記憶力が良すぎる自閉症の画家の絵からわかること
スティーブン・ウィルシャーは、サヴァンまた自閉症の天才画家として名を馳せています。彼はものすごい速さと正確さで、建物の立体的な絵を描くことができます。遠近法など画家が何年もかけて習得する技法などまったく用いずに、完璧なパランスの絵を描き上げます。
ウィルシャーはヘリコプターで30分から1時間程度、町並みを俯瞰するだけで、その後1週間、町並みを再現する正確な絵を描くことができます。建物の配置や、窓の数を間違うことはありません。いかに優れた視覚的記憶力を持ち合わせているかがよくわかります。
しかしそんな天才的な記憶力と画力を持つスティーヴン・ウィルシャーは、大きな弱点を抱え持っています。
けれども彼の絵は、彼の限界をも物語っている。彼の絵に欠けているのは解釈であり、雰囲気である。建物の絵のなかには、光り輝く春の朝に描かれたものもあれば、秋の午後に描かれたものもあるのに、彼の絵にはそれが何ひとつ反映されていない。
…もし芸術的才能というものが作品に解釈を導入する能力だとするなら、スティーヴンの絵は真の意味での芸術とは呼べないかもしれない。(p115)
彼の絵に足りないのは、「解釈」そして「雰囲気」です。シェレシェフスキーの場合と同様、「感性」が欠けているのです。彼は風景を見たままに正確に描くことはできますが、そこに味わいを加えることができません。材料をそのまま使うことはできますが、魅力的に料理する感性はないのです。
もちろん、だからといって、ウィルシャーの作品が芸術とは呼べないとまで言うのは僭越でしょう。彼の画集は今なお売れていますし、だれかの心に達する力があるのなら、それは間違いなく芸術の形式の一つです。見たままを描く写真のようなリアルな絵やスーパーレアリズムもまた、広い芸術の世界の表現形式の一つです。
しかしほとんどの芸術は、クリエイター独自の「感性」による解釈が重視される、というのは紛れもない事実でしょう。そうした意味では、写実的で見たままを描写するタイプの画家は、スティーヴン・ウィルシャーほどの驚異的かつ飛び抜けた才能を有していない限り、芸術家として成功するのは難しいはずです。やはり基本的に言って「記憶力が良すぎる人は芸術家にはなれない」のです。
脳の中のカンヅメ工場「意味システム」
スティーヴン・ウィルシャーの描く絵は、記憶力と創造性について、多くの洞察を与えてくれます。記憶力が良すぎると、なぜ芸術的感性が失われるのか。それは、芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察 という本で解説されていました。
少し難しい内容ですが、後で要約するので、さらっと読んでいただけたらと思います。
自閉症例では、大脳白質にも問題がある可能性が示唆されている。そのために、言語学的な意味に関係するだけではなく経験自体や経験の意味するところを貯蔵するシステムである“意味システム”が、描くことに関係した神経システムと離断された状態にある、と考えられるのである。
ここでいう意味システムは、他のシステムとの高度な相互関係を持つシステムで、認知・情動・社会的関係、文脈、言語、一般的知能など、さまざまな領域から複数のモダリティを通じて集まってくる情報から形成される概念を結びつけ、芸術作品の創作にあたって顕在的にも潜在的にも豊かな知識を提供してくれるのである。(p97-98)
スティーヴン・ウィルシャーのような自閉症またサヴァンの人たちは、脳の「意味システム」の働きが制限されている、と書かれています。「意味システム」とは、解釈や概念に関係する脳のシステムです。
わたしたちの記憶は、ちょうどカンヅメを加工する工場の生産ラインのように、絶えず「意味システム」によって加工されています。わたしたちの記憶や経験は、頭の中に入るとすぐ「意味システム」という加工工場のラインに載せられます。それらは感情や文脈、過去の経験などと照らしあわせて、さまざまに解釈され、加工されていきます。そうして加工されると、記憶は、単なる知識ではなく、自分の経験の一部になります。
わたしたちは同じものを見ても、同じ経験をしても、一人ひとりそこから得るものや感じるものは異なります。まったく違う感想を持つ人もいます。同じ記憶であっても「意味システム」という工場ラインによってその人独自のカンヅメに加工され、別々の味付けがなされるからです。
この「意味システム」の働きは、裏を返せば、もともとの記憶という原材料は加工されてなくなってしまう、という意味でもあります。
たとえばあなたは子どものころの記憶を何か思い浮かべることができますか。わたしは家族と一緒に山登りしたときのイメージが思い浮かびます。
不思議なことに、子どものころの記憶を思い浮かべると、そこには子どものころの自分の姿も映っている、という人は少なくありません。自分の姿が見える、ということは、それは見たままの風景ではないはずです。主観視点ではなく、第三者視点だからです。つまり、その子どものころのイメージ記憶は、そのとの記憶や知識、感情、さらには後から聞いた話などをもとに、頭の中で加工され、再構築されたものなのです。
なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学 はこう説明しています。
私たちがいちばん古い思い出と考えるものは、実際にはずっとあとになって再構築されたものであり、大胆に編集されている。
フロイトによれば、それは、アンリ夫妻が指摘したように、「記憶のなかに自分を見る」という事実からきている。
私たちはその出来事を、あとで再構築されたような形で見ていたはずはない。したがって、回想は本当の出来事を忠実に再現したものだとは考えられないのだ。(p33)
わたしたちの記憶のほとんどは、知らず知らずのうちに、こうして加工され、再構築されています。自分では、はっきり正確に覚えていると思っていても、実は都合よく解釈され、加工されている記憶は少なくありません。
こうした記憶の特性は、「虚記憶」や「虚再認」と呼ばれていて、司法の場では特に問題視されています。わたしたちは、いつの間にか人から聞いた話やテレビで見たことを取り込み、なかったことをあったと思っていることもあれば、あったことをなかったと思い込んでしまうこともあります。本人はそれにまったく気づきません。
しかし記憶が大胆に加工され、編集されてしまうのは、悪い面ばかりではありません。
記憶が作り変えられやすいということは、すでに考えた通り、さまざまな形に加工されやすいということです。
芸術家の「感性」や発想力、創造性というのは、いかにダイナミックに、過去の記憶や体験を加工し、再編集できるかと密接に関係しています。
知識や記憶は、そのまま保存されていても何も生み出しません。コンピューターは膨大な知識を蓄えていますが、アイデアや芸術を生み出すことはありません。
正確に記録しているということは、つまるところ、変化しないという意味でもあります。変化のないところには、発想も飛躍も独創もないのです。
興味深いことに、自閉症の人たちは、過去の記憶の「虚再認」、つまり実際にはなかったことをあった、あるいはあったことをなかったと判断する率が低いそうです。これは記憶が加工されにくいことを示しています。
自閉症またサヴァンの画家スティーブン・ウィルシャーは、記憶の風景をそのまま思い出してキャンバスに描くことはできましたが、それを加工したり解釈したりして独自にエッセンスを加えることはできませんでした。
ソロモン・シェレシェフスキーが自閉症傾向を持っていたのかどうかはわかりませんが、彼の特徴のひとつ、比喩表現を字句通りに受け止めてしまうことは、自閉症の一種のアスペルガー症候群の人たちによく見られます。
アスペルガー症候群の人たちの中には、芸術家として成功した人も多く含まれますが、一般に新しいアイデアをいちから創造することは得意でなく、さまざまな知識や記憶を貼りあわせたコラージュ的作風になりがちだと言われています。
アスペルガー症候群の人は、どちらかというと、芸術よりもプログラミングや、科学、数学などの学問のような、正確な記憶と知識、論理的演算力がものを言う分野で活躍することが多いでしょう。
こうして考えると、「記憶力が良すぎる人は芸術家にはなれない」というこの記事のタイトルの意味が明らかになってきます。
冷蔵庫に材料をそのまま蓄えておけば、原材料をいつでも、元の形そのままで取り出すことができます。記憶力が良すぎる人はそのようなものです。
しかし冷蔵庫に材料を蓄えているだけでは、いつまでたっても美味しい料理は作れません。
味わい深い料理という芸術をつくるには、材料を取り出して調理しなければならず、そうするなら必然的に冷蔵庫の中の原材料、すなわちもともとの正確な記憶は失われてしまうのです。
記憶を破壊し、創造する人たち
それでは、どんなタイプの人が芸術的感性を育むのに向いているのでしょうか。
「記憶力が良すぎる人は芸術家にはなれない」という考え方が意味するのは、昔ながらに言われてきた、創造のためにはまず破壊が必要だ、という厳然たる真実です。
芸術家は新しいものを創造(クリエーション)するクリエイターですが、そのためにはまず今あるものを破壊し、分解し、ユニークな仕方で再構築しなければなりません。
自閉症やアスペルガー症候群の人たちは、一般に変化を嫌い、同じルールに従って生活する秩序を好みます。彼らは数学やプログラミングのような、絶対的な不変のルールがある世界のほうが安心できるといいます。
それに対して、芸術家になるようなタイプの人には、旧態依然を嫌い、未知なる変化を好み、無秩序さやカオスの中に喜びを見いだす人が大勢含まれています。
そうした人たちは、どちらかというとあまり記憶力に自信がなく、忘れっぽい人が多いのではないでしょうか。
こうした「忘れっぽさ」は何に由来するのでしょうか。さまざまな理由が含まれるでしょうが、ここでは2つの観点から「忘れっぽさ」の原因について考えましょう。
1.遺伝要因―新奇追求性
まず「忘れっぽさ」の1つ目の要因は遺伝的傾向です。忘れっぽい人は「新奇追求性」という性格傾向を受け継いでいることがよくあります。
これはどんどん新しいものを追い求め、変化を好む傾向のことです。歴史的に見ても、新大陸を発見したような冒険家、常に転々とする遊牧民族、フィールドワークを得意とした博物学者などはこの傾向が強かったと思われます。
「新奇追求性」と関わるのは、ドーパミン関係の遺伝子変異だと言われています。この傾向を持つ人たちは、落ち着きがなく忘れっぽいため、ADHDと診断されることもあります。
ADHDの人たちは、クリエイティブな独創性を持っていて、アーティストやクリエイターとして活躍していることも多いと言われています
こうした人たちの創造性と忘れっぽさは表裏一体です。自明の点として、新しいものを取り入れたいなら、古いものは捨てなければなりません。そうしなければ、引き出しは溢れかえってしまいます。脳が処理できる引き出しもやはり有限であり、一度に何もかも詰め込むことはできません。
次々に新しいものに挑戦し、独創的なアイデアを生み出す「新奇追求性」は、過去を忘れて捨て去り、空いたスペースに未来を創って入れるというバランスで成り立っているといえます。
2.環境要因―孤独な子ども時代
遺伝傾向とは別に、子どものころの環境要因が理由で忘れっぽくなる人もいます。創造力の不思議―アイデアは脳のどこからやってくるのか にはこう書かれています。
科学的な分野ではさほどでもないが、とりわけ芸術の分野では、幼くして親を亡くすといった幼児期の心の傷が創造力の発達に有利に働くことがある。
このような現象のうち最も説得力があるのは、トラウマを受けた幼児の中で内省的な側面が大きく成長し、例えば芸術的な言葉に信頼を寄せることで、それが過去の悲しい感情を美化する経路になるという考え方である。(p38)
幼いころに親を亡くすなど、身体的・感情的な孤独を経験する人は、芸術的な感性を発達させることがあります。そこにはやはり「忘れっぽく」なることが関係しています。
愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書) によると、幼いころに孤独を経験した人は、人との絆が希薄で「愛着軽視」という傾向を示すことが多く、過去の体験を思い出すテストをすると、他の人たちより思い出すのに多くの時間がかかり、記憶も乏しいそうです。
そうした人たちの記憶が抑制されてしまうのは、過去の辛い孤独な経験に対する適応戦略だと考えられています。
一方、愛着軽視型の人は、回避型に相当する。脱愛着の傾向を示し、過去の傷つき体験を記憶から切り離し、蓋をすることで、心の安定を保っていると言える。
幼いころの記憶が乏しく、ことに悲しい記憶や不安な記憶を思い出すのに時間がかかるのは、そのためである。
また、信頼したり尊敬できる存在や、それにまつわる出来事を思い出すのも困難である。(p207)
このような人たちは、辛い記憶を封印し、過去に蓋を閉め、子どものころの自分や家族のことを忘れてしまうことで、感情を安定させていると言われています。子どものころからいつも繰り返しそうしてきたので、成長期に人より忘れっぽい脳が発達するというわけです。
しかし創造性という観点からすれば、記憶を抑圧するせいで忘れっぽくなるという説明は片手落ちだと思われます。
別の観点から言えば、これは、創造力の不思議―アイデアは脳のどこからやってくるのか に書かれていたように、「内省的な側面が大きく成長」するという意味合いに解釈できます。
子どものころから孤独を感じてきた人は、自分自身の置かれた状況や、辛い環境の意味するところについて、深く考える時間がありました。辛い状況やトラウマを乗り越えるには、じっくり考えて、それに意味付けし、理不尽な現実を意味あるものに解釈しなおすことが必要でした。
そうすると、幸せな環境で何の疑問もなく満ち足りて成長した子どもに比べ、脳の「意味システム」がはるかに頻繁に働き、発達していきます。脳の情報加工工場のラインがフル稼働してきたので、記憶はどんどん加工され、意味付けされ、解釈されるようになります。
その結果、過去の記憶を忘れやすくなると同時に、新しいものを創造する力が身につきます。
単に辛い記憶を封印しているのではなく、辛い現実を何とか解釈し、意味づけしようと懸命に努力した結果、物事を多面的に考える思考力や、感情を加工する感性が身につくのです。ニーチェが述べた「記憶力が良すぎる人は思想家にはなれない」という言葉はこのような事情があるのでしょう。
自分で望んだわけではないとはいえ、辛い経験や悲しい記憶を破壊し、生きる意味や目的を創造する訓練を重ねてきたことが、「過去の悲しい感情を美化する経路」を生み出し、豊かな芸術的感性を育むことになるのです。
興味深いことに、子どものころのトラウマが原因で忘れっぽくなる人と、ADHDの人の脳の働き方は、脳科学的にはとてもよく似ているらしく、両方重ね着している人もいるそうです。と言われています。
ADHDの子どもは手がかかりやすいですし、親もADHDで(あたかも遊牧民族が転々とするように)子どもを置いて出て行ったり離婚したりすることも多いので、もともとのADHD傾向プラス孤独な子ども時代という重ねがけになっている人も少なくないのでしょう。
芸術的感性や創造性の発達には、「忘れっぽさ」に伴う、記憶を加工する脳の「意味システム」の発達が関係していて、その背景には遺伝的要素や子どものころの環境要因が複雑に絡み合っているといえるでしょう。
わたしと記憶力
最後にわたし自身のことを少し書きたいと思います。
わたしは自分がことさら独創的だというつもりは毛頭ありませんが、一応、オリジナル絵をたくさん載せているこのサイトを長年運営しているわけで、どちらかといえば、芸術的な部類の人間だと思っています。
そんなわたしの記憶力はまったくアテになりません。わたしが書くこうした記事を読んでいる人の中には、「様々な文献から引用して、記憶力がいいじゃないか」と言う人がいるかもしれませんが、まったくの買いかぶりです。
もしわたしの記憶力が良さそうに見えるとしたら、記憶力が悪すぎるせいで失敗に失敗を重ね、それに対処するために、記憶に関する様々なテクニックを駆使するようになったからです。
わたしは記憶力が悪すぎるので、常に首からメモ帳をぶらさげて、思いついたアイデアや、人から聞いた情報を、すべてその場で記録しています。人前であっても、話している途中であってもそうします。そうしないと会話を終えるころには間違いなく忘れているからです。アイデアを書き留めるのも思いついた瞬間です。5秒待てば忘れてしまうことを知っているので、メモに書き込む習慣を叩き込みました。メモ帳に書き込んだ内容は、その日のうちにすべてEvernoteに整理し分類します。
読んだ本については、本を読み終えるたびに、どのページに何が書かれていたかを記録した索引のような読書メモを作っています。これらもすべてEvernoteに保存しているので、検索すれば過去の記録を参照できます。
人間関係でもあらゆることをさっぱり忘れるので、もらった手紙はすべてスキャンしていつでも見れるように電子化していますし、その人の家族構成や好みなど、特に大事そうな情報はその都度連絡先の備考欄に書き込んで一箇所にまとめています。
そのほか、予定や記念日はすべてGoogleカレンダーで同期してリマインダーを設定し、一日のタスクや今後やることも、全部リストにしてタスク管理しています。一日に何度も、やることリストを参照して、次にすることを把握しています。外出するときに持っていくものなど、何度も繰り返す作業は、必要物や手順をチェックリストにまとめて毎回参照しています。
わたしは自分の記憶力をまったく信頼していないので、すべて外部の記憶媒体やリマインダーが処理してくれるように、気づいたらすぐ信頼できるシステムの中に放り込むようにしているわけです。3歩歩けば忘れるトリアタマなので仕方ありません。最大の問題は、忘れたことさえきれいサッパリ忘れているので、何もかもなかったことになってしまうことです。
わたしの記憶力がこれほどスカスカなのは、この記事で説明したような、もともとのADHD傾向と愛着回避が両方関わっているようです。やはりADHD傾向を持つ親もかなり忘れっぽいですが、それに輪をかけて記憶が飛ぶので、わたし個人の子ども時代の経験により、忘れっぽさが増幅されているようです。
わたしは作家オリヴァー・サックスが好きで親近感を抱いているのですが、彼が で書いていることは、わたしが文章を書かずにはいられない理由をよく代弁してくれています。
1949年にジョージ・オーウェルの『1984年』が出版されたとき、私は過去の事実を抹殺してしまう「記憶口」(メモリー・ホール)のくだりを読んで、空恐ろしさを覚えた。
自分の記憶についての疑念と重なるところがあったのだ。
この本を読んでから、私はますます日記をつけ、写真を撮り、過去の証拠を調べようとするようになった。(p200)
わたしはあまりに過去の記憶があいまいで、空白だらけなので、ときどき空恐ろしくなります。記憶がないというのは、自分が生きた証さえ失われるということなので、それを防ぐために、日々考えたことを絵や文章にして残しています。記憶が失われても、このサイトを見れば、わたしが今までやってきたことが生きた形で保存されているので、つかの間とはいえほっとします。おそらく、わたしがひどく不安定なアイデンティティに悩んでいるのは、記憶がなくなることと関係していそうです。
でも、今回引用したような本を読んで、記憶と芸術的感性との関係について知ってからは、物事には良い面と悪い面とがあることを認識しました。記憶が砕けた断片となって脳内をさまよっていることは、さまざまな断片を結び合わせてアイデアを生み出す余地があることを物語っています。
幾つもの物質を混ぜあわせ、新しいものを生み出すには、まずそれらを原型をとどめなくなるほどに溶かさなければなりません。油と水が分離していては、新しい発想は生まれません。チョコレートもバターも、溶けるまでかき混ぜないと、美味しいブラウニーは焼けません。
記憶が脳のスープに溶けなければ、どうして複雑で美味な味わいが生まれるでしょうか。「記憶力が良すぎる人は芸術家にはなれない」のです。