[推理小説] 我が一中に捧ぐる詩―翠河瑠香最初の事件

◆登場人物 
翠河 瑠香(みどりかわ るか):頭脳明晰かつ冷静沈着な少女。一中三年科学部員
行毅 純一(ゆうき じゅんいち):著者。下手な洒落ばかり言う。一中三年科学部員
髙関 譲(たかせき じょう):サルと呼ばれる理科系の男。一中三年科学部員
沖井 源(おきい げん):源さんと呼ばれる穏やかな性格の男。一中三年科学部員
村上 守道(むらかみ もりみち):相撲と料理をこよなく愛す男。一中三年科学部員
(むかい):科学部の顧問。理科の教師。
廣辺 京子(ひろべ きょうこ):国語の教師。出番少なし。

Scene1.第一中学校科学部

 ああ、懐かしき一中よ――

 年を経た桜に彩られ、歴史という冠を戴いてその校舎はたつ――

  追憶とは儚いものであろうか。過去の過ぎ去った美しき日々を思い、今からほんの一時のあいだ離れることは無為なことであろうか。もしそうであるならば、我 が一中生活は何の意味ももたない。それはいつしか記憶から拭い去られ、その美しき輝きは黒ずみ、色褪せてしまうであろう。そうしてそれが忘却の沼へと沈ん でいくさまを果たして私は見ていられるだろうか――。想い出を明日への力にできるなら、追憶は決して無駄ではない。

  一中の前を通りかかったとき、ふと足が止まった。そこには別の風が吹いていた。違う時が流れていた。それに惹かれるように私は目を上げて古びた校舎を仰ぎ 見た。それは今でも澄んだ空を背景に威厳とともに聳えていた。そして私は聞いたのだった。時の隔たりを越えて、私を呼ぶ懐かしい声を。あの時と同じように 響く懐かしき友の声を。私の脳裏には数々の想い出が渦巻きだした。それは私を記憶の中へといざなうのだった。私はしばし目を閉じた。そしていつしか私は、 想い出の中にゆっくりと足を踏み入れていったのだった……。

 これは我が一中生活の、ほんの一場面に過ぎない。今 ではかの一中生活もはるか彼方で轟く波音のようでしかない。往時渺茫としてすべて夢に似たり。かつての煌きと栄光の盃は已に地に注ぎだされた。もはやそれ を再び味わうことはできまい。にも拘らずこの想い出だけは異彩を放ち、いつまでも胸に刻み込まれている。一中の校舎を正面に、挨拶の声が飛び交う門をくぐ り、校舎に足を踏み入れると、まずそこには下足室がある。騒がしい一中の一日の始まりである。そこから教室へと行く道……ああ、何もかもが懐かしい結晶を なした想い出である。そして我が一中生活三年の年、それは決して忘れることができないだろう。しかしながらこれから話題に上せるのはそのことではないの だ。私が話題に上せたいのは科学部、鶴浜第一中学校の数ある部の中でも特に燦然たる輝きに満ちていたあの部である。

  我が科学部を構成していたのは少数の三年生であった。まずは私、行毅純一。化学の知識は殆どなかったけれども、駄洒落とそれにともなう笑いとで科学部を支 えていた。つぎに、源さんと慕われた沖井 源という男がいた。これも特に科学を専攻していたわけでもないが、何ゆえか科学部の一員となり、周囲の雰囲気を和ませる役割を担っていた穏やかな人物で あった。そしてサルと呼ばれた髙関 譲。彼は完全なる理科系で科学部の男子としてはただ一人的確なように思えたけれども、その顔の滑稽さからいつしか皆にサルと呼ばれるようになったのだっ た。加えて、危うく忘れそうになったが村上 守道という男もいた。彼ほど謎の多い人物はいなかった。彼は理科室のガスバーナーで鼈甲飴を作り、カルメラ焼きを作り、綿菓子を作るという妙技を持ってい たただ一人の人物であった。その作る速さたるや綿菓子なら一分間に六十人分、その食べる速さたるや綿菓子なら一分間に百人分、当時科学部の顧問で、向丼と 呼ばれていた向という男に冷やかされても、決して彼はその速度を弱めようとはしなかった。それでいて彼は痩せていて、しかもギリシャ彫刻のような美顔を 持っているのだった。サルが彼を『隠れ大食漢』と呼んだのはそのためである。

 さて、そして忘れてはならぬ存在に 翠河 瑠香がいる。最初は複数の女子もいたこの部だが、三年になるころには彼女だけがこの部に残っていた。彼女のことを説明しようものなら原稿用紙が何枚あって も足らぬだろう。私はいつも、長き一中の歴史のなかに彼女ほどの天才が果たして存在しただろうか、と思う。容姿端麗かつ博聞彊識、彼女は皆の尊敬の的で あった。彼女はあまりにも真面目一徹であった。だが、彼女の欠点はまさにそこにあった。今だかつて私の素晴らしい多くの洒落をまったく理解し得なかったの は彼女だけである。彼女は私がとんでもない洒落を言うたびに顔を引きつらせるのだった。そして彼女にとって私や守道は理解できない不思議な存在であったの である。

 さて、このような部員で構成された科学部は、いつも向という教師の指導の元で、活動を行っていた。彼は 向丼と呼ばれた。しかしこの男、かつて科学部の顧問であったこの男ほど生徒から嫌われ、そして好かれた男はいないだろう。まさに彼こそは一中の歴史に名を 刻むに相応しい教師の一人であった。彼は自らの世界をもって一中の歴史の流れを変えようとさえしたのであった。彼のことを語るにも、やはり原稿用紙が何枚 合っても足らぬだろう。しかし私が語ろうとしていることは彼のことでもない。私が語ろうとしているのはこの科学部に起きた事件、そう、我が一中時代におき た犯罪についてであるのだ。

 静かで荏苒と過ぎてゆく人の一生のうちにも、火花が散り、焔があがる瞬間というもの がある。どんなに穏やかな心のうちにも、赤い底流は流れているものだ。焔がどんな形であがるのかはその都度異なるであろう。それは情熱とも怒りともなり、 悪へ進む心とも義心のはためきともなりうる。このとき科学部のあいだに散った火花は何であったのか。私はその火花を見て悲しく思ったものだ。それは互いに 対する猜疑心という火花であった。

 その日、既に日の輝きは没し、辺りを透明な紺色の空気が満たしていた。科学部 の活動は時に暗くまで及ぶときがある。そしてそのような時分、一中にある二つの理科室のうち、二階に位置し、第一理科室と呼ばれていた実験施設の整ってい る部屋では、毎日同じような光景が見られた。サルと瑠香とが熱心にわき目も振らずに高度な化学実験をしている後ろに、それを眺めている沖井こと源さんの姿 があり、部屋の隅では守道と私とが洒落と綿菓子に夢中になっている、という光景である。顧問である向丼がいることはあまりなかった。彼がいなくともサルや 瑠香はどのような実験であっても安全かつ完璧にこなせたし、守道と私も彼がいないときは、いつも以上に洒落のきれが増すことが多かったのである。そしてこ の日も、全く同じ光景があった。私が覚えているのは守道がサルに声をかけたところからである。

「おい、サル、今度は何をしているんだ、また葉脈標本か?」

サルは初めは無視していたが、執拗な守道の問いに癇癪を起こしたように振り向いた。

「うるさい、誰がサルだ! いま水銀を観察してるんだ。危ないから騒ぐな。お前がやっている綿菓子なんかよりよっぽどためになる実験なんだぞ」

こ こまではいつも日常坐臥に行われていることであった。私も沖井も顔を見合わせて笑っていた。化学の鉄人村上守道はちぇっと舌打ちをすると再び綿菓子の量産 を始めた。やがて時間が経過すると、守道もさすがに疲れたのか口数のほうが多くなった。雑談やとりとめのない話が続いた。そうしているうちに時刻も遅く なってきて、私と守道はそろそろ帰ろうかと話し合い、立ち上がって理科室の入り口へ向かって、歩き出した。

そのときである。

そ の瞬間、誰もが息を呑んだ。理科室内にシューという大きなガスもれのような音が響き渡った。真っ先に音の源に目をやったのは瑠香であった。消火器!理科室 の壁に設置された消火器、その消火器が白い煙を上げていたのだ!暴発したのか? 私と守道は顔を見合わせて一目散に理科室から飛び出した。何が起こったのかすぐには呑み込めなかった。ただ後方から、理科室の中から白い壁が、押し迫って くるのが見えた。それはまさに白い壁以外の何ものでもなかった。恐怖が渦巻き、心臓が高鳴った。白の壁は生き物のように、理科室から飛び出した私たちの後 を追ってくるのであった。瑠香とサル、続いて源さんも急いで駆け出してきた。彼らは白い粉にまみれていた。夜の暗い廊下にあって白い壁は鉛色をなしていた が、私にはその動きがあまりにもはっきり見えていた。恐怖がそうさせたのだろうか。私の目は見開かれていたのである。

投稿日2002.01.23