[推理小説] 不思議な霧のアリス―翠河瑠香の復活


不思議な霧のアリス(表紙)

◆登場人物
翠河瑠香(みどりかわ るか)…主人公
神名由梨菜(じんめい ゆりな)…主人公の親友
エドガー・マティス…心理学博士
カトリーヌ・マティス…博士の妻
ローラ・ラヴェル…博士の館のメイド
アリス・アリス…博士の教え子

Act1.霧に消えた少女

冷たい霧があたりを覆い、うっすらとかかるヴェールのように山々を包んでいる。名も知らぬ鳥のさえずりが渓谷に響き、常緑樹の木の葉がさざめく昼下がり、石畳の一本道を歩く二人の少女がいた。

「ねぇ、ずいぶん歩いたけど、そろそろかな…」

温かそうなケープコートを着たポニーテールの少女が、いささか疲れた声で語りかける。

「そうね…。地図からすると、わたしたちは二つ目の川を渡ったから、もう近いはずよ。橋まで1時間だったから、ペースが落ちていることを差し引いても、あと10分はかからないはず」

片手で地図を確認しながら、トレンチコート姿の黒髪の少女が落ち着き払った様子で答えた。彼女もまた長い距離を旅行してきたはずだが、疲れをおくびにもださず、涼しい表情をしている。

ここはフランス、ロワール渓谷ブロワの片田舎。列車を乗り継いで、最寄りの駅に降り立ってから、二人は自然豊かな渓谷沿いを、初春の柔らかい日差しの下、かなりの距離を歩いていた。

「こんなことなら、やっぱり車を出してもらうんだったなー…」

ポニーテールの少女は立ち止まってため息をつく。

「由梨菜ったら…思い出のロワールの自然を満喫するんだ、ってあんなにはしゃいでたのに」

トレンチコート姿の少女は黒髪をなびかせ、涼しげな表情でクスクス笑う。

「だってー、自然の中なら、ちょっとやそっとくらい、歩いてもへっちゃらだと思ったんだもん」

ポニーテールの少女、由梨菜は頬を膨らませて不機嫌そうな顔をした。ただでさえ慣れない異国の地。長旅がこたえて、いつもの快活さは、少し影をひそめている。それでも、またてくてくとリズムよく歩き始めるあたり、自然豊かな景観の中を旅するのはまんざらでもないようだ。

「こうやってロワール地方の空気を吸うと、瑠香と三年前に川を下った日を思い出すなぁ…」

由梨菜は霧が流れる青空を見上げて、感慨深そうに目を細めた。

「そうね。懐かしいわね…。あの時とは少し場所は違うけれど、この同じ空気感…」

長い黒髪の少女、瑠香も、由梨菜の言葉に促されて空を見上げる。

二人の名は、翠河瑠香、そして神名由梨菜。子どものころからの親友だ。

瑠香は冷静沈着、頭脳明晰。たぐいまれな洞察力を働かせ、まっすぐな瞳でどんな謎でも見ぬいてしまう。今はアメリカの大学に留学して、科学を研究している。

由梨菜は、そんな瑠香を長年そばで支えてきた優しい親友。豊かな感情と持ち前の積極性で、瑠香の良き話し相手になってきた。

二人はかつて、とあるきっかけから、フランスのロワール地方の古城を訪れ、そこで不思議な事件に遭遇した。

それ以来、それぞれの夢を追って別々の時間を歩んでいたが、このたび3年ぶりに再会し、二人で旅行の計画を立て、思い出深いロワール渓谷を再訪したのだった。

「3年前の『尖城』 に招いてくれた教授といい、今回の博士といい、瑠香のお父さんって、相当顔が広いよね」

空を見上げていた 由梨菜は親友のほうを向いて、不思議そうにつぶやく。

「わたしのお父さんは、世界中の学者と知り合うのが趣味みたいなものだから」

瑠香は苦笑しつつもどこか嬉しそうに父のことを語った。瑠香の父親は物理学者の翠河達邦博士。しかし興味は物理学だけにとどまらず、多分野を股にかける思想家で、今回瑠香たちを招いてくれたエドガー・マティス博士は、高名な心理学者だった。

「マティス博士は、わたしも、子どものころに、何度かお会いしたことがあるの。色々と面白い心理学の話を聞かせてくれて、わくわくしたのを覚えてるわ。今日会うのは本当に久しぶりだから、とても楽しみね」

瑠香は楽しそうな笑みを浮かべながら、曲がりくねって続いている石畳の向こうを指差した。

「ほら、由梨菜。見えたわ。あれがマティス博士のお屋敷よ」

由梨菜はうっすらとかかる霧のヴェールの中に、古めかしい城跡のような館が揺らめいているのを見て、思わず息を呑んだ。渓谷のはざまにしめやかに立ち尽くすその姿は、移ろいやすく、霧の中に溶けていく幻のように霧の隙間に織り合わされていた。

 

そのとき…。

「瑠香…!? あれは?」

不意に由梨菜が館に続く道の先を指差す。

「…?」

瑠香が目をやると、自分たちからそう遠く離れていな場所に、美しい少女がぽつりと立って、じっとこちらを見つめている。

霧が立ち込めているとはいえ、この距離なら、その姿ははっきり見える。童話の中から飛び出してきたような、派手なブルーのフリルドレス。パリジェンヌが身につけていそうな大きな白い花飾りのついたつばびろの帽子。長い巻き毛の金髪は、顔の左側をすっかり覆っていて、憂いるような青い片目が瑠香をじっと見つめていた。

「あなたは…?」

瑠香が尋ねると、少女は聞こえたのか聞こえなかったのか、無言で背を向けて、屋敷のほうへ歩いていった。二人が呆然と眺めているうちに、少女の姿はいつの間にか霧の中に消えて見えなくなってしまった。

しばしの沈黙の後、我に返った瑠香と由梨菜は、顔を見合わせ、不思議な夢から覚めたかのようにお互いの表情を確かめ合った。

「い…今のは、だれだったのかな…?」

由梨菜は驚きのあまり、目を白黒させて瑠香に問い尋ねる。一方の瑠香のほうは驚きこそ見せなかったが、内心の戸惑いが顔色に表れていた。

「さあ…一体だれなのかしら…。でも、この通りの向こうへ消えていったことからすると、わたしたちが目指す場所に答えがあるんじゃないかしら。地図によると、この先には、マティス博士の屋敷以外に何もないはずよ」

そう言って瑠香は、館へ向かって霧が立ち込める道を歩き出した。

「ま、待ってよ、瑠香!」

由梨菜も瑠香の後を追って小走りで、館を目指して霧の中に飛び込んだ。冷たい空気があたりを覆い、晴れた空もいつの間にか見えなくなって、渓谷に立つ館を白い渦が幾重にも包んでいった。