[推理小説] 画家は夕焼けの古城の絵を描いた―翠河瑠香の葛藤

Act1.画家のタマゴ

「瑠香、何読んでるの?」

からりと晴れた初春の地中海沿岸。列車を降りた二人は、異国の街の駅で、待ち合わせの相手を待っていた。大理石でできたひんやりとした構内の椅子に腰掛け、何かの本を読んでいる瑠香に、由梨菜が問いかけた。

「今日見せてもらう絵のことが書かれてたの。書店でたまたま見かけた美術関係の雑誌の特集なんだけど」

瑠香はそう言って、カラフルな特集が組まれた雑誌のページを由梨菜に見せた。長い黒髪が印象的な瑠香はいつものトレンチコートのいでたち。一方の由梨菜は、栗色の髪をポニーテールにまとめ、可愛らしいネイビーのケープを羽織っている。

「ほんとだ、これって、今日見せてもらえる『夕焼けの古城』の絵だよね。夕日がほんとにきれい! 何書いてあるのかは読めないけど…」

由梨菜は苦笑いして瑠香のほうを見る。日常会話程度ならともかく、フランス語で書かれた文章を読むのは、まだちょっと難しい。

「ただのゴシップのたぐいだとは思うんだけど…」瑠香はためらいながら答えた。「この絵と古城にまつわる言い伝えが書かれていたの。絶景と名高いけれど、見る人の心を惑わす悲劇の伝説が語り継がれているんだとか」

瑠香は苦笑いしながら、きっと冗談交じりでしょ、と肩をすくめてみせた。

「ええっ、そんなことが書かれてたの!? 有名になると、変なうわさが立っちゃうものなのかな」

由梨菜はびっくりして、読めもしない文字をのぞきこむ。そして、瑠香と顔を見合わせて、二人で同時に苦笑いして、それからため息をついて、空を見上げた。すっきりと澄み渡って、気持ちよく晴れた異国の空だった。

二人がはるばる地中海沿岸の街までやってきたのは、瑠香の友だちが有名な絵を見に来るよう招いてくれたからだった。由梨菜にとっては、これでもう何度目のヨーロッパ旅行になるのだろう。瑠香が海外暮らしを始めてから、すっかり文化の壁を超えてあちこちへと飛び回るのに慣れてきた。

由梨菜は、異国の地で、のびのびとしている親友の横顔を見ながら、嬉しそうに目を細めた。瑠香とは学生時代からの長い付き合いだが、昔の瑠香とはずいぶん違うような気がする。あのころの瑠香は、どこか窮屈そうだった。外国に行ってからの瑠香は、しっかり翼を開いて、生き生きと才覚を活かして活躍しているように見える。ユニークな感性を持った瑠香には、文化の垣根を越えた広い空のほうが、性に合っているらしい。

「どうしたの、由梨菜? 人の顔を見てにんまりしちゃって?」

瑠香が問いかけで、由梨菜は過去の回想から今この場所に引き戻される。

「あっ、ごめん、ちょっと昔のこと思い出してて。なんか瑠香、のびのびしてるな、って」

「そう? わたしからしたら、由梨菜のほうが、外国旅行を始めたころより、自信がついたように見えるけど」

そう言ってまっすぐにのぞきこむ瑠香の瞳は、心の奥まで見透かしているかのように感じられた。

「そうかもしれないね。瑠香に言われると、そんな気がしてくる」

親友が成長していくように、自分もきっと変わってきているんだろう、由梨菜はゆっくりうなずいた。異国の街の並木通りを吹き抜ける初春の風が心地よかった。


「ボンジュール、瑠香、おまたせしちゃいましたね」

突然、声をかけられて、二人は顔を上げた。

「エレーヌ、こんにちは」

瑠香は笑顔になって立ち上がった。そこにいたのは、赤みがかった巻き毛の小柄な少女。銀色の蝶の髪留めに、フリルのついたブラウンのマキシワンピース、おとぎ話の世界から飛び出してきたかのような、可愛らしいコーデがよく似合っている。

「エレーヌ、こちらが、わたしの親友の由梨菜よ」

待ち合わせの相手に会えた瑠香は、とても嬉しそうに自慢の親友を紹介する。友だちと友だちを引き合わせることほど嬉しい瞬間はなかなかないものだ。

「はじめまして、由梨菜です。エレーヌ、会えて嬉しいわ」

由梨菜は 瑠香から話に聞かされていたものの、実際に会って声を聞いてみると、この新たな出会いにわくわくした。エレーヌの声や表情は、たった一瞬で不思議と心を惹きつけられる不思議な魅力に満ちていた。、

「はじめまして、由梨菜。今日ははるばる来てくださって、ありがとうございます。こちろこそよろしくお願いします」

そうほほえむエレーヌの物腰からは、繊細なガラス細工のような気品と感性が感じられた。

「さあ、こちらへ。執事のエティエンヌが、車で送迎してくれることになっています」

二人はエレーヌに促され、おしゃれなデザインの漆黒のフランス車に乗り込んだ。

「ようこそ、皆さん。わたくしはエティエンヌ。どうぞお見知りおきを。では、出発いたしますよ」

初老の執事エティエンヌは、しわがれた声で丁寧にあいさつして、車を発進させた。


異国の地で出会った新しい友だち。エレーヌは瑠香が留学生としてアメリカで心理学講座を受講していたときの同級生だった。かたや日本から、かたやフランスから慣れない異国の地で学業に励んでいた二人は、会って間もなく意気投合し、仲良くなった。単に二人とも留学生だったから、というよりは、きっともっと深いところで共鳴しあったに違いない。瑠香もエレーヌも、細やかな感受性をもっていたし、深い洞察力に富んでいたおかげで、授業の話題を越えて、さまざまな話題について話し合うのが楽しかった。

エレーヌが独特な感性を持っていたのは、きっと生まれつきの家柄の影響もあるのだろう。彼女はフランス芸術アカデミーに所属した高名な画家の一族に生まれ、自身もまた芸術をたしなんでいて、フランスに帰国した後は、一心に美術の道を志していたのだった。

執事のエティエンヌが運転する車の中、由梨菜はエレーヌと瑠香の会話に聞き入っていた。そして、アメリカに留学した後、親友が生き生きするようになった理由のひとつは、きっとエレーヌとの出会いにあったのだろう、と気づいた。エレーヌは文化を越えた感性の持ち主に思えたし、相手の良い面を引き出して、自由な感性を解き放つ才能を持っているようにも感じられた。そして、瑠香が自分をエレーヌと引き合わせたいとかねがね思っていたのも、納得できた気がした。ここにいる三人は、互いに個性はさまざまに違えど、本質的にはよく似ているのだ。

「…そんなわけで、わたしは日本にいるときは由梨菜に、アメリカに行ってからはエレーヌに支えられてきたの。どちらも大切な親友よ」

二人の共通の知り合いである瑠香は、いつもより多弁になって、それぞれとの出会いを振り返って説明した。おかげで、エレーヌと由梨菜は、初対面でありながら古くからの知り合いだったかのように、心が懐かしく響き合うのを感じていた。

「なるほど、由梨菜は、瑠香のかけがえない親友なのですね! わたし、瑠香と一緒に勉強していたころから、由梨菜のことはたくさん聞かされていたんです。写真も見せてもらいました。だから、こうしてお会いできるのは本当に嬉しいです。夢がかなったような気分です」

「そんな、わたしのほうこそ、まさかこうして招いてもらえるなんて思ってもみなかったので…」

とても純粋に気持ちを伝えてくれるエレーヌに、由梨菜はいささか照れくさそうにはにかんだ。

瑠香と由梨菜は、エレーヌの別荘へと招かれていた。けれども、別荘といっても、瑠香や由梨菜の家とはわけが違う。エレーヌは貴族の家系に生まれ、彼女の一族は名高い古城を有していた。地中感の沿岸にそぴえる その建物は、「断崖の古城」とも呼び習わされ、一族が都会の邸宅に移った後も、別荘として美しく手入れされ、画廊として大切に補修されてきたのだという。

「そういえば、エレーヌは絵の道を志してると聞いたけれど、古城にはエレーヌの絵も飾ってあるの?」

由梨菜が聞くと、エレーヌは苦笑いして人差し指を左右に降る。

「いいえ、わたしの絵は、おじいさまの絵のそばに飾っていただくなんて、まだまだなのです。古城は、芸術アカデミーに認められたおじいさまのためのギャラリーなので、わたしの絵はまだ飾れません」

そう話すエレーヌはどこか寂しそうにうつむいた。

「でも、いつかはおじいさんと肩を並べるつもりなんでしょう?」

エレーヌの顔をのぞきこんで優しく尋ねる瑠香の声に、エレーヌは明るい表情を取り戻す。

「ええ、そのつもりです。ありがとう、瑠香。今はそのために頑張っているところなんです」

そう言い切るエレーヌに瞳には強い意志が感じられた。それを見て由梨菜は、きっと家柄という重圧は相当のものだろう、と思いを馳せた。歳の離れた由梨菜の 兄は若くして高い役職についたエリートだし、瑠香の父も有名な理論物理学者だ。才能ある身内に恵まれたことで得られる喜びと、なんとも言えないプレッシャーの重荷は、由梨菜も瑠香も経験してきた。二人は身内とは違う道を選んだけれど、エレーヌは一族の有名な画家と同じ道を志して努力している。彼女は、生まれたときから背負う重い期待に答えて生きる道を選んだのだ。由梨菜はそう思うと、彼女に励ましの言葉をかけずにはいられなかった。

「がんばってね、エレーヌ。わたしも応援してる。古城にエレーヌの絵がないのは残念だけど、帰るまでに、ぜひエレーヌの絵も見たいな」

そう言うと、エレーヌは嬉しそうにほほえんだ。

「ありがとうございます、由梨菜。帰りに、ぜひわたしのアトリエにも寄ってくださいね!」

「うん、楽しみにしてるからね」

そうやって笑顔でほほえみあう由梨菜とエレーヌを見て、瑠香もまた満足そうにほほえんだ。


「ところで…、今日見せてくれるっていう絵は、この雑誌に載ってるこの絵よね?」

エティエンヌが運転する車に乗ってから数十分が経ち、窓の外が郊外の岩肌の景観に移り変わってきたころ、瑠香はエレーヌにそう持ち出した。

「あら、今月号の『フランス美術紀行』におじいさまの絵が載っていたのですね! そうです。この断崖の古城の絵。夕焼けがとても美しいでしょう?」

「こうして写真で見るだけでも吸い込まれそうな夕焼けの絵よね」と由梨菜。

「じつは、この風景は、実際に見られるんですよ。わたしも子どものころから何度も古城に遊びに行ったときに目にしました。特にこの季節は絵にそっくりの景色になるんです。ちょうど今日はよく晴れているから、こんな夕焼けがみれると思います」

「そうなの! それは楽しみ!」

「もちろん、おじいさまの絵も、じかに見ると、言い尽くせない感動がありますが、元になった風景のほうも、それとはまた違った、すばらしい味わいがあるんです。今日はお二人にその二つの感動をぜひ…、あらっ?」

感情をこめて熱く語っていたエレーヌは、ふと雑誌の紙面を食い入るようにのぞきこんだ。

「エレーヌ?」きょとんとする瑠香。

「あっ、いえ、ちょっと雑誌に書かれている解説文が気になったものですから」

「ああ、このゴシップっぽいうわさのことかしら。有名になると色々と言われちゃうものよね」

書いたライターもまさか当の家系の本人に読まれるとは思っていなかったのだろうと瑠香は苦笑いする。

「いえ…じつは、このうわさ、そうそうマユツバと言うわけでもないのです…」

やにわに深刻そうな顔つきになったエレーヌに、瑠香と由梨菜はいぶかしげに反応した。

「何か…思い当たることでもあるの?」と由梨菜。

「い、いえ、何でもありません。忘れてください。そ、そんなことより、ほら、もうすぐ古城が見えてきました、ひゃあ!」

「どうされました? お嬢さま??」

突然 悲鳴を上げたエレーヌに、思わずエティエンヌが運転席から振り返って安否を問うた。瑠香と由梨菜もびっくりしてエレーヌの顔を見る。

「あ…、い、いま、路端の林の中に怖い人の顔が見えたような…」

瑠香は、とっさに振り返って、後部の窓から通り過ぎた道の脇の樹木を観察する。

「…。なんてことはない普通の林だったように見えるけど…」

瑠香は確かめるようにつぶやいた。

「お嬢さま、きっと、樹木のうろを見間違えたのでしょう」 エティエンヌが運転席から声をかけた。「このあたりは鬱蒼としていて、わたくしどもでも、樹木を動物と見間違えたりしますから」

「え、ええ、そうかもしれません…」 エレーヌは胸をおさえてホッと息をついた。「古城の伝説を思い出してしまったので、ちょっと気が立っていたのだと思います…」

エレーヌの消え入りそうなか細い声を聞いて、瑠香と由梨菜は無言で顔を見合わせた。古城の伝説とやらが何を意味しているのか気になるところだが、ここで深く追求しないほうがよさそうだ、と二人は目で合図した。

「エレーヌも知っていると思うけど…」 瑠香が落ち着いて話し出す。「心理学でよく言われるでしょう? 何もないところに人の顔が見えてしまう錯覚のこと。シミュラクラ現象」

「そ、そういうのがありましたね。目が二つと口が一つあれば、顔に見えてしまうのでしたね…」

「ええ、車のヘッドライトだったり、木目の模様だったりが人の顔に見えてきたりすることを言うのよ。きっとさっきの道端にもそんな景色があって、それをとっさに見間違えたんじゃないかしら」

「そうですね…きっとそう」

穏やかに説得するように話しかける瑠香に、エレーヌも自分を納得させるかのようにうなずいた。

そのとき…

「さあ、いよいよ断崖の古城が見えてきましたよ」

エティエンヌが運転席から呼びかけたので、三人は一斉に正面を見上げた。自動車のフロントガラス越しに、地中海沿岸の断崖に巨大な古城がそびえたっているのが見えた。鈍く光る灰色の威容に圧倒されそうな景観に、三人はさっきまでの奇妙な話題のことをすっかり忘れて見入ってしまった。古城は断崖にしめやかにそびえたち、訪問者たちを待ちわびていたかのように見えた。

投稿日2017.06.27