[推理小説] 画家は夕焼けの古城の絵を描いた―翠河瑠香の葛藤

Act2.断崖の古城

三人が断崖の古城についたのは、午後を少し回った昼下がりだった。まだ空は青々としていて、地中海の青い海に、古城の景観が映り込み、打ち寄せる静かな波に揺らめいていた。

自動車から降りた由梨菜は、気持ちのよい潮風を感じて、断崖の上から広い地中海を見下ろした。古城が立つ崖から眺めると、海面はずっと下に見える。

「砂浜からは…ざっと30メートルほどの高さがあるかしら」と瑠香。

由梨菜は、うっかり足を滑らせてしまわないように気をつけないと、と気を引き締めた。眼下に広がる紺碧の海は、あらゆるものを吸い込んでしまいそうに思えた。


エティエンヌは車を車庫へと戻しに行き、二人はエレーヌの案内で、古城の城門をくぐりぬけ、重々しい閂がはめられた玄関を開けて中に入った。入ってすぐの広間は、石造りの冷たい壁に囲まれていて、高い天井から凝ったデザインのシャンデリアが吊るされている。床には豪華なじゅうたんが敷かれていて、壁には燭台が灯されているが、中の明かりは現代的な電球が取り付けられて、文明の利で補修しつつ、古風な雰囲気を演出しているようだった。

「お父さま、お母さま、今戻りました」

エレーヌの声が、入り口の広間に反響すると、それに答えるようにして、広間の奥の扉が開いて、白髪の紳士が軽い身のこなしで現れた。

「やあ、おかえり、エレーヌ。そしてようこそ、エレーヌのお友だちの皆さん。わたくしが父のアルベールです」

優しくほほえむアルベールは、エレーヌと同じような繊細さを感じさせる、華奢な体格の紳士だった。白髪とはいえおしゃれに髪型を整えていて、それほど老いを感じさせない凛とした出で立ちで、柔和そうな顔に小さな丸メガネのアクセサリがよく似合っている。エレーヌがおとぎ話の中から出てきたような出で立ちなら、こちらも負けず劣らず、中世の物語に出てくる聡明な錬金術師のような出で立ちだった。

「あら、帰ったのね、エレーヌ。皆さん、ようこそおいでくださいました」

鈴のような気品ある声とともに、アルベールの後ろから、ワインレッドのドレスを身にまとった長髪の女性が現れた。

「わたくしは、エレーヌの母のテレーズです、どうぞよろしく」

そう言って、テレーズは、舞踏会の淑女のような優雅なお辞儀をして、瑠香と由梨菜にあいさつした。由梨菜は、これまでも瑠香の手引きで色々な人たちと知り合いになってきたけれど、ここまで気品のある一家に出会うのは始めてだったので、どこか自分は場違いに感じて緊張してしまった。瑠香はそんな由梨菜をちらっと見やり、くすりとほほえんで、エレーヌの両親に自己紹介し、由梨菜のことも紹介してくれた。そのおかげで由梨菜は気を取り直して、二人にあいさつすることができた。それでも、どこか居心地の悪さを感じてしまって、なかなか平静になれず、城内をきょろきょろと見回してしまうのだった。


アルベールとテレーズは、瑠香と由梨菜の長旅をねぎらって、まずは今晩二人が休むことになる客室へと案内してくれた。途中の廊下の左右の壁にも、いくつかの壮麗な風景画が飾られていて、瑠香と由梨菜は目を奪われてしまった。見事な色使いの風景画に思えたが、こうして廊下に飾られているものは、習作にすぎないのだと聞かされて、二人は目を丸くした。そんな二人の様子をエレーヌは面白そうにくすくす笑っていた。

二人が案内された部屋は、古城の二階部分の端に位置していて、ちょうど崖とは反対側だった。残念ながら窓の外から地中海を一望できることはなく、見えているのは、さっき自動車でやってきた鬱蒼とした林や岩肌だった。由梨菜はその景色を見下ろして、一瞬、先ほどエレーヌが取り乱した人の顔の件を思い出して不安な気持ちがよぎったが、頭を振って気持ちを切り替えた。

部屋にはバルコニーがあり、そちらからは、古城の中庭を一望できた。古城は中庭をコの字型に囲むような形をしており、左右にせり出た両端はそれぞれ「古城のそで」と呼ばれているのだという。瑠香と由梨菜の部屋は、ちょうど森側の「そで」の端に位置していた。

「本当はもっと見晴らしのいい部屋をお貸ししたかったのだけど」とアルベール。「海側の『古城のそで』は、画廊に使われていましてね。あとで、ご案内いたしますよ」と優しい声で告げた。

「では、瑠香、由梨菜、30分後くらいに執事のエティエンヌがお迎えに上がりますね。まずは少し旅の疲れを癒やしてください」

そう言ってエレーヌたちは扉を閉めて出ていった。


瑠香と由梨菜は、二人だけになると、ふーっ、と大きく息をついて声を出して笑った。

「なんか緊張しちゃったね、息が詰まってたみたい」

「そうね。由緒ある家系の方たちの前だからか、なんだか背筋がピンと伸びて、動きが固くなってたわ」

「へぇー、瑠香でも緊張することがあるんだ!」

「わたしのことじゃなくて由梨菜の様子についてなんだけど」

珍しく意地の悪い笑みを浮かべて言ってのける瑠香に、由梨菜はおかしくて吹き出してしまった。

荷物を下ろして整理したあと、窓から爽やかな風が通るのを感じながら、二人はベッドに腰掛けて気になっていたことを話し合った。

「ねえ、瑠香、さっきのことだけど…」 由梨菜は窓の外をちらっと見やりながら声のトーンを変えて言った。

「ええ、わかってる。エレーヌが取り乱した人の顔の話ね」 瑠香も厳しい顔つきになって答える。

「うん…。ほんとに…何かを見たのかな?」 由梨菜は心配そうに瑠香に尋ねた。

瑠香は、しばらくじっと押し黙って考えてから、

「そうね…、わたしとしては、さっきのは多分、本当に見間違いじゃないか、と思うの。エレーヌは感受性の高い子だから、不安になって森を見たら、それこそ何気ないものが人の顔に見えたりするものよ。学生時代からそうしたことは何度かあったし…」

「そうなんだ…」と、ちょっとホッとした声で安心する由梨菜。

「でも」と瑠香。

「わたしが気になっているのはその前のことよ。なぜエレーヌが不安になって取り乱してしまったのか、ということ」

「というと…あの古城の伝説とかいう…?」

「そう」

瑠香はベッドから立ち上がって、バルコニーのほうへ歩き始めた。

「あの雑誌には、もう少し詳しく、その伝説のことが書かれてあったの」

瑠香はバルコニーの外を眺めて、由梨菜に背を向けたまま言った。

「えっ!? そ、それってどんな…?」

由梨菜は恐れを感じたものの、そう尋ねずにはいられない。

「うん…。わたしはただのゴシップじゃないかと思ってはいるんだけど、どうやら、このお城で過去に何度も人が死んだっていう伝説があるみたいなの」

「ええっ!?」

「あくまで話半分にとどめておいたほうがいいと思うわ」

瑠香はそう言って由梨菜のほうを向き直った。

「実際にエレーヌたちから聞いたわけじゃなくて、雑誌の話題にすぎないから、面白おかしく脚色されているのかもしれないし」

「うん…、でも、あのときのエレーヌ、普通じゃなかったよ?」

「ええ、それが気がかりね…。わたしが読んだ限りでは、人が死んだというのは、いまは画廊に使われているというあちらの…」

コン、コン。

そのとき扉をノックする音がして由梨菜はビクッと振り向いた。

「執事のエティエンヌでございます。お二人をお迎えに上がりましたが、ご準備はよろしいでしょうか?」

瑠香と由梨菜は顔を見合わせてホッと溜め息をついた。

「はい、今行きます」

二人はそう答えて、身だしなみを整えて、エティエンヌの案内で、画廊として使われているもう一つの「古城のそで」へと向かった。

▽古城の見取り図

投稿日2017.06.27