[推理小説] 画家は夕焼けの古城の絵を描いた―翠河瑠香の葛藤

Act3.「古城のそで」

瑠香と由梨菜は、エティエンヌの案内で長い廊下を抜け、古城の森側の「そで」から、海側の「そで」へと向かった。

由梨菜は、さっき瑠香が言いかけたことが気がかりだった。最後まで聞けなかったけれど、あの物言いからすると、古城の伝説に伝わる人が死んだ部屋というのは、どうやらこれから向かう海側の「古城のそで」に違いなかった。もうちょっと詳しく話を聞きたかったが、エティエンヌの手前で、瑠香に続きを聞くわけにもいかず、気をもんでいるうちに部屋の入り口についた。

海側の「古城のそで」の部屋の扉は、瑠香と由梨菜が泊まる部屋と同じようなつくりだったが、さすがに画廊として使っているだけあって、きっと観覧客も多いのだろう。しっかり飾り付けられていて、廊下にもたくさんの絵が並んでいた。

エティエンヌがドアをノックして開けると、中にはすでに夫妻とエレーヌが待っていて、テーブルの上から紅茶のかぐわしい香りが漂っていた。

「ようこそ、『古城のそで』の画廊へ」

アルベールがにっこりほほえんで両手を開いて二人を迎えてくれた。

部屋の中のつくりは、やはり瑠香と由梨菜がいた森側の「そで」と同じだ。海を一望できる窓があり、奥のバルコニーは断崖の端、海に面した崖の上にせり出していた。

「どうでしょう? いい眺めでしょう? この城一番の見晴らしのいいところなのよ」とテレーズ。

見晴らしのいい開けた窓の景色を背景に、部屋に壁には、数々の作品が立てかけられていた。直射日光のあたる場所には掛けられていないが、どの絵も日焼けやキズを防ぐためか、透明なカバーで隙間なく覆われていて、保存状態に気を配られているようだった。

そして、部屋の真ん中の一番目立つ場所にその絵はあった。

「あっ…この絵が…!」

由梨菜はハッと息を呑んで手を合わせた。

「はい、これがおじいさまの描いたこの古城の絵なんです!」とエレーヌは誇らしげに手を差し伸べる。

じかに見る断崖の古城の絵は、幻想的なまでに美しい色鮮やかな夕暮れを背景に、どこか孤独さを感じさせる古城が物言わぬ威容をたたえて立ち尽くしていた。風景をそのまま写し取ったような写実志向の絵でありながら、独特の繊細で、それでいて荒々しさも秘めたタッチによって、古城がまるで生きているかのように生気を帯びていた。

「すごい…」

由梨菜はそうつぶやいた。月並みな言葉だけど、と思いつつ、そう表現するほかない圧倒的な存在感だった。

「この絵は、中庭から見たこの城の一部を描いたものなのです」

アルベールは、絵に見入る瑠香と由梨菜に説明する。

「わたしの父はとても有名な画家でした。フランス芸術アカデミーでも、とても尊敬されていました。この絵は、父の傑作のうち、長らく世に知られていなかったものなのです」

アルベールは絵画をじっと見つめて、語り始めた。

「父はわたしが生まれたころには、すでに高名な画家となっていました。残念ながら、わたしが幼いころに亡くなってしまったのですが、わたしは彼の子として、彼が生前描いた絵を補修し、公開してきたのです。父が描いた絵はもうすべて世に出たと思っていた矢先、昨年ふと、倉庫の奥からこの絵が出てきましてね」

アルベールは感慨深そうに絵を見つめている。

「このすばらしい絵を、ホコリをかぶらせたままではもったいないと、こうして保存処置を施し、父の絵を愛してくれる人たちに公開したのです」

そう述べるアルベールの声にも、父の絵を誇り高く思う気持ちがこもっていた。

「でも、じつはこの絵、もうすぐここから国立美術館へ寄贈しちゃうんです」

エレーヌが、少し寂しげな表情でぽつりと言った。

「すまないね、エレーヌ、わたしが大勢の人に見てもらいたいとこの絵を公にしたばっかりに…」

アルベールは申し訳なさそうに言った。

「いいえ、お父さま。この絵はぜひとも、しかるべきところに飾られるべきですし、わたしは毎日こうしてこの絵を眺めて、十分に満足を得られましたから」

エレーヌは吹っ切れたように笑うが、少し無理をしているようにも感じられる。

「そう言ってくれると助かるよ」とアルベール。

「それに…」とテレーズも会話に加わる。

「あなたならきっと、今におじいさまと肩を並べるほどの絵が描けるようになるわよ」と娘を温かく励ました。

エレーヌは無言でゆっくりうなずいた。

「じつはわたしは、エレーヌと違って、絵の才能はないのです」

アルベールは瑠香と由梨菜のほうを向いて苦笑いしてはにかんだ。

「父親があれほどすばらしい絵描きなら、わたしも、と普通はなるのでしょうが、どうにも絵を描くのはうまくいかなかった。それでわたしは父の後を継ぐ代わりに、父の絵を人々に届ける美術館の学芸員としての仕事に継いたのです。はじめはただ父の絵を残したい一心でしたが、今や娘のエレーヌがこうして父の道へと進んでくれている。親としてこれほど嬉しいことはありません」

そう笑うアルベールはとても幸せそうだった。由梨菜は、エレーヌがこうした両親の期待を重荷に感じていないか不安に思ったが、一緒になってほほえむ様子を見ると、肩に力の入っていない和やかな表情をしていて、この一家の絆の強さに安心したのだった。

「ところで…」

その間、ずっと絵を眺めていた瑠香がおもむろに口を開いた。

「この絵の手前のほうに舞っているのは、花びらですか?」

瑠香は首をかしげて絵の前景を指差す。なるほどそこには、夕暮れの古城の前に、花びらのように見える点がいくつも風に舞っていた。その描写がまた、夕暮れの劇的な風景をひときわ印象的にしている。

「ええ、たぶん、わたしもそうだと思います。中庭にはそれらしい花をつける木はないので、夕暮れの背景からすると風に舞う葉が染まっているのかもしれませんが」とアルベールが説明する。

「わたしもこんな美しい印象的な絵を描いてみたいです。この絵はもうすぐ手元にはなくなる。その前にぜひ瑠香と由梨菜に絵と古城を両方見てもらいたくて、だからここにご招待したんです」

古城の絵について語るときのエレーヌは本当に嬉しそうで、目が輝いていた。

それから、瑠香と由梨菜は、部屋の中のテーブルの椅子に座り、テレーズの入れた紅茶と、ちょっとしたお菓子をいただいて、楽しいひとときを過ごした。最初は一家の物腰に緊張していた由梨菜も、次第にリラックスして打ち解け、いつもの伸びやかな表情が戻ってきた。

部屋の中には、祖父が使っていたデッサン人形や、カンヴァス、イーゼルなど、絵にまつわるさまざまな道具が展示されていて、実際にどうやって絵を描いていたのかが実感できるように工夫されていた。

テーブルのそばの壁には近代的な薄型のモニタが設置されていて、アルベールが編集に協力したという、祖父の絵にまつわるドキュメンタリーを映像で見ることもできた。祖父の絵はとても有名なため、こうして家族の所有物として古城に飾っている絵は全体にほんの一部にすぎず、特に名高い絵はほとんど美術館に寄贈されてしまっているのだという。

このテレビでは、そうした手元にないさまざまな絵も解説つきで楽しめるよう工夫されていて、観覧客をもてなすのに一役買っているとのことだった。モニタに次々と映し出される絵のドキュメンタリーを鑑賞しながら、由梨菜はすっかりいつもの調子を取り戻し、感動して歓声を上げたり、思ったままの感想をとっさに口にしたりするものだから、瑠香は呆れて苦笑いするしかなかった。


絵の鑑賞と、さまざまな物語を聞く談笑の楽しい時間はあっという間に過ぎ、バルコニーと窓から差し込む光が赤みを帯びてきたのに瑠香と由梨菜は気づいた。

「あっ、瑠香、見て! 夕焼けが…!」

由梨菜は息を呑んで思わず立ち上がった。

「おお、もうそんな時間でしたか。ぜひ、そこのバルコニーから景色を眺めてみてください。本当にすばらしいんですよ」

アルベールは二人を促して、バルコニーへと向かわせた。

部屋からバルコニーへと出た由梨菜は、そのあまりの絶景に言葉を失った。バルコニーの手すりに駆け寄って、身を乗り出して一心に夕焼けを眺める。

「由梨菜、あんまり身を乗り出すと危ないわよ」

後ろから落ち着いた親友の声がして、由梨菜は我に返って眼下を見下ろした。すると、あまりの迫力にクラクラとめまいがした。見下ろした先には、足場も何もなかった。ただ真っ赤にそまった夕暮れの地中海が広がっていただけだった。あまりに広大に海面、そして崖の下に打ち寄せる波しぶき。古城に到着した時に崖から見下ろしたときよりもさらに高く、50メートルはあるかという絶景。

「そういえば…」と瑠香は由梨菜の隣に歩み寄って、一緒に手すりの下を見下ろした。

「わたしたちの部屋から見たとき、こちら側の『古城のそで』は、岩肌の上にせり出していたのよね」

瑠香と由梨菜のいた森側の「古城のそで」は単なる2階建ての建物のバルコニーにすぎなかったのに対し、こちらのバルコニーは、地面がなかった。見下ろす先は、地面よりはるか下、古城がそびえる断崖の一番下、波が砕ける海面までまっしぐらだったのだ。

「これなら…あの伝説も本当なのかもしれないわね」

瑠香が何か深刻そうに小声でつぶやいたが、打ち寄せる眼下の波の音にかき消されて、由梨菜には聞こえなかった。


「アルベールさま、マリーさまがお見えになりました」

ふと部屋の入り口のほうから声がして、瑠香と由梨菜は振り返った。どうやら執事のエティエンヌがアルベールを呼びに来たようだ。アルベールはエティエンヌと何やら話し終わると、瑠香と由梨菜に声をかけて言った。

「瑠香さん、由梨菜さん、いい頃合いですので、ちょっと下に行きましょう」

続けてエレーヌも二人に呼びかけた。

「瑠香、由梨菜、今がちょうど、この絵が描かれたのと同じ時間帯なんです。中庭に降りれば、この絵と同じ風景を見ることができますよ」

エレーヌはとてもうきうきして興奮しているようだった。由梨菜もそれを聞いてパッと笑顔になり、

「そうなの!? それはぜひ見てみたい!」とエレーヌたちのほうへ駆け寄った。

瑠香はちらっと最後にバルコニーからの景色を振り返り、目に焼き付けるように一瞥してから、由梨菜の後を追った。

「では、わたしはここの片付けをしてから行きますので、先にテレーズたちと下に降りててもらえますか。マリーが下で待ってるでしょう」とアルベール。

「マリー…さん?」と由梨菜はエレーヌの顔を見て尋ねる。

「由梨菜、マリーというのはマリーおばさまのことです。お母さまの妹で、わたしたちの近くに住んでいるんです。今日はせっかくなので、マリーおばさまもお招きしたんですよ」

そう言ってエレーヌは、瑠香と由梨菜を古城の1階にある中庭へと案内した。

投稿日2017.06.27