[推理小説] 画家は夕焼けの古城の絵を描いた―翠河瑠香の葛藤

Act6.錯綜する記憶

事件に立ち向かう決意を新たにした瑠香と由梨菜は、先に階下に降りたみんなの後を追って階段を降りていった。すると、そこではエティエンヌが二人を待っていた。

「ああ、瑠香さま、由梨菜さま、アルベールさまたちは、先に食堂のほうにいらっしゃいました。お二人が降りてきたら、案内するようお言付けいただいております。こんなことがあっては、その…食欲も湧かないかもしれませんが、お夕食をご用意しております」

みなが意気消沈している中、エティエンヌだけは、さすがにプロの執事と言うべきか、普段どおりの穏やかな表情をしていた。けれども、エレーヌのために刑事を手配することまでして心配していたことを思うと、きっと心中は穏やかではないのだろう…と由梨菜は察した。

エティエンヌの案内のもと、一階の奥にある食堂へと行くと、ほんのりとした間接照明が部屋を照らしていた。すでにアルベールとテレーズ、そしてマリーおばさんはすでに席についていて、エレーヌを慰めているようだった。二人が入ってくるのに気づいたアルベールが席を立ち上がって声をかけてくれた。

「お二人とも、どうも申し訳ありません。すっかり家族一同取り乱してしまいまして。今宵はせっかくお二人に遠路はるばる来ていただいたというのに…」

申し訳なさそうな顔で謝るアルベールに瑠香と由梨菜はかえって恐縮してしまった。

「いえ、アルベールさんたちのほうこそ、あれほど大切にしておられた絵画が盗まれてしまって…」

由梨菜はそう話すだけでも辛くなってしまって、アルベールの顔をまともに見られなかった。

「いいえ、わたしたちのことはもういいんです」

エレーヌが沈痛ながら、幾らか落ち着いた声で返事をしてきた。

「いま、お父さまたちに慰めてもらっていました。最初はとてもつらくて…いえ、今でも言葉にできないくらい辛いのですが、それでも、絵が盗まれただけなら、警察にお願いしたら、いつか戻ってくるかもしれない、と思うことができました。人の命が失くなったに取り返しがつきませんが、ものであれば取り返せるかもしれませんから」

振り絞るような声でそう語るエレーヌの声は震えていたが、秘められた芯の強さを感じさせるものでもあった。

「エレーヌ…」 瑠香もつらそうに声をかける。

「瑠香、あなたは、確か、あの『フランス美術紀行』に書かれていたこのお城のうわさを読んだんですよね」

「ええ…」

「わたし、子どものころから、あの言い伝えがとても怖かったのです。それで、今回人が飛び降りたのを見たときも、その伝説のとおりになって、だれかが死んでしまったのだと思いました。だから、ショックのあまり、気を失いそうになりました」

「そうだよね…」 由梨菜も目を落としてうなずく。

「でも、さっきお父さまたちに詳しい説明を聞いたら、だれも死んでいないってわかりました。おじいさまの絵を盗んだ犯人は許せません。でも、だれかが死ぬよりずっとましです…」

「うん…」

由梨菜は、そう話すエレーヌの優しさに心を打たれ、涙ぐみながら同意した。あれだけ大切にしてきた絵が失われた、そんな辛い状況でも、見知らぬ人の命のほうを気遣っているエレーヌは、なんて純粋なんだろう、と感じた。

それから、執事のエティエンヌが料理を運んできて、瑠香たちは一緒に食事を楽しんだ。さすがに楽しく団らんのひとときとはいかなかったが、みんな意識して気丈に振る舞うようにしていた。マリーおばさんだけは、事件の前とあまり変わらない調子で、パリのうわさ話のあれこれを盛大に面白おかしく話してくれたので、由梨菜たちは、少し緊張が和らいで、平和な日常に引き戻してもらったような気がした。

食事後、先ほどのアラン刑事と、彼が応援に呼んだ何人かの警察官たちがあいさつに来て、簡単に事情聴取していった。

「ええと、まとめるとこういうことですね」

アラン刑事は、最後に、全員の話を総括して言った。

「みなさんが夕暮れどきに中庭に出ているときに事件が起こったのでしたな。ええと…そのとき、エティエンヌさんだけは車庫で自動車の整備をしていたようですが…これはアルベールさんがしっかり保証しております。そして、みなさんが記念撮影をしようとしていると、古城の二階のほうから大きな物音がした。わたしどもが調べたところだと、それは部屋の中でイーゼルが倒れて、それに巻き込まれて食器が落ちて割れた音のようです。おそらく、犯人が絵を盗んで逃走しようとしたときに倒してしまったのでしょう。それから、みなさんが音のしたほうを見ると、黒い人影が飛び出して、バルコニーから飛び降りた」

「そうなのよ!」 マリーおばさんが口をはさんだ。

「あたしゃ、見たんですよ! 黒い人影が、バルコニーからこちらに飛び降りて、バシャンと水しぶきがはねるのを!」

「いやいや」 アラン刑事は頭をポリポリかいた。

「バルコニーからあんたさんのほうに飛び降りたら、海じゃなくて中庭のほうに落ちるでしょうよ。それに水面ははるかかなたの崖の下ですから、水しぶきなんて見えるはずないでしょう」

「えっ…あれっ、そうだったかしらね」 マリーおばさんは急にしどろもどろになって首をかしげた。

「みなさんの証言を合わせると、あのとき、人影が飛び降りた後、水面に着水する音は聞こえたそうです。おおかた、そのせいで、水しぶきを見たと思い込んでしまったのでしょうな」

マリーおばさんは口をとがらせてしきりに首をかしげていた。

「ええと…どこまで話しましたかな。そうだ、それから、アルベールさんたちが崖の下まで行って、海岸にパラシュートを発見した。そしてそのころ、ちょうどわたしがエティエンヌさんに呼ばれて出向いてきてたもので、みなさんとばったり、ということでしたな。つまり犯人は、絵を持ってバルコニーから飛び降り、即座にパラシュートを開いて逃げたようです。貴重な絵を持って海めがけてダイブするのはさすがにどうかと思いますが、アルベールさんの話だと、しっかり保存するためにカバーをかぶせてあったらしいですし、おそらく犯人はそのことを知っていたのですな。ということは、これまでにここに絵を観覧に来た客だった可能性が高いでしょう。アルベールさん、今までここに来た客の記録はありますかな?」

「いえ…今回のように知人を招くことより、一般公開をしていることのほうが多かったもので…だれが来たのかはまったくわかりません」

アルベールは残念そうに溜め息をついた。

「そうですか…ううむ、これは操作が難航しそうですな…まあいいでしょう。今夜はこれでわたしどもは帰ります。何かまた気づいたことがあったらお電話ください」

そう言ってアラン刑事は電話番号をメモしてアルベールに手渡し、応援に来た同僚の警察官たちを引き連れて帰っていった。

アラン刑事が帰ってどっと疲れが湧いてきた一同は、その夜は早々に切り上げて、休むことにした。アルベールとテレーズは何度も瑠香と由梨菜に謝るので、かえって二人のほうが申し訳なく思うほどだった。瑠香と由梨菜は古城の森側の「そで」の部屋に戻り、今夜はここに泊まることにしたというマリーおばさんたちも、それぞれ自分の部屋に戻った。


部屋に戻ってきてベッドに腰掛け、くつろごうとしたとき、瑠香と由梨菜は、だれかが部屋の扉をノックするのを聞いた。

「あの、エレーヌです。ちょっといいですか?」

瑠香と由梨菜は顔を見合わせて。「どうしたの?」とドアを開けた。

「二人も疲れているところ、ごめんなさい…ちょっと気になることがあって…構いませんか?」

二人は快くうなずいて、テレーズを部屋に迎え入れ、三人でベッドに腰掛けた。

「あの…さっきは二人ともありがとうございます。二人がいてくれたおかげで、だいぶ楽でした」

「えっそうかしら? わたしたち何にも…」 由梨菜は予期せぬ感謝の言葉に目を白黒させた。

「いえ、夕食のとき、二人がいてくれて、ずいぶん気が楽だったんです。もし二人がいないときに事件が起きたらと思うと…もちろんお父さまやお母さまも気を使ってくれましたが、家族だけだと、気が滅入ってしまいそうだったので」

「そう…。エレーヌの力になれたのならよかった」と瑠香。

「はい。でも…」

エレーヌは少し怪訝そうな表情になって言った。

「わたし、ちょっと気になることがあるんです」

「何かしら?」
瑠香と由梨菜はエレーヌの真剣なまなざしに答えて、身を乗り出して耳を傾けた。

「どうして…どうして犯人はわざわざバルコニーから飛び降りるような真似をしたんでしょう?」

「確かに…わたしも気になっていたわ」と瑠香

「えっ、どういうこと?」と由梨菜。

エレーヌは説明する。

「その…絵を盗みに来たのなら、たぶんお城の中に忍び込んで、画廊の入り口のドアから入ったはずです。絵を盗んだあとも、来た道を引き返してしまえば、わたしたちの注意も惹かず、だれにも見つからずに逃走できたんじゃないでしょうか」

「あっ…」 由梨菜はその通りだ、と感じて瑠香のほうを見た。

「ええ…わたしもそれは気になっていたの。明らかに不自然よね」

「はい…あの物音だってそうです。まるで、わたしたちに気づかせるため、わざとものを倒して、大きな音を立てたんじゃないかって…」

「そっか、そうだよね…」

エレーヌの説明を聞きながら、由梨菜は感心した。さっきまで動揺して取り乱していたようなのに、とても鋭い指摘をする様子に、さすが瑠香の友だちだと思わずにはいられなかった。

「わたしもエレーヌの言うとおりだと思うわ。犯人は、わざと逃走する自分の姿を見せた。そうしなければいけないだけの理由があった」

「でも、どういうことなんでしょう。わたし、その疑問の答えが見つからなくって…」

瑠香はエレーヌの言葉を聞きながら、あごに手をやってしばし沈思黙考していた。由梨菜とエレーヌは二人ともそんな瑠香の仕草を見慣れているので、瑠香の考えがまとまるまで見守っていた。

「そうね…。注目させたってことは…わたしたちに事件が起こったということを気づかせる必要があったのではないかしら」

「どういうこと?」と由梨菜。

「本当は、別のときに事件が起こったのに、さもあの瞬間に事件が起こったかのように見せかけた、としたら?」

「つまり、自分から疑いの目をそらすためっていうことですか?」エレーヌが目を丸くして尋ねる。

「そうね、となると、あのとき以外の時間に、現場に入って絵を盗み出すことができた人が怪しいわね…」

三人はもう少し考えようとしたが、さすがに一日の疲れが溜まって睡魔が押し寄せているのを感じていた。

「さすがに疲れたし、明日の朝、すっきりとした頭でもう一度考えてみましょうか」

瑠香がそう言って場をまとめると、由梨菜もエレーヌも同意して、その夜はもう寝床に就くことにした。

こんなことがあった夜だから、もしかすると怖い夢でも見るかもしれない。由梨菜は部屋を暗くしたときにそう感じたものだったが、夢を見ることもできないほど疲れていたのだろう。朝までぐったりと眠り、そして夜が明けた。

投稿日2017.06.27