なぜ道北に移住したか、どのように引っ越したか、という話をしよう。長くなるけれど。

去年10月に道北に引っ越してから、半年が経ちました。東京や大阪の大都会で生まれ育ったわたしですが、そこで過ごしていたころの体調不良がかなり和らいで、楽しく充実した毎日を過ごしています。

田舎に引っ越したら退屈ではないかという人もいますが、とんでもない。今までの人生で、これほど刺激的な日々はありません。

毎日朝早くから自転車であちこちを巡り、自然観察を楽しみ、植物の名前を覚え、鳥の鳴き声に耳を傾け、農業や園芸を手伝ったりして、人生ではじめて、人間らしい当たり前の暮らしを実感しています。

本当は絵を描いたり、エッセイを描いたり、楽器を練習したりもしたいんですが、目まぐるしくて時間がなかなか取れないのがもどかしいです。

厳しい冬を無事に、というより楽しく切り抜けて、半年が経過した今、新しい生活がとても気に入っています。そこそこ元気になったおかげで、活動範囲がとても広がりました。

同じ場所の風景 冬と夏

大都市で生まれ育ったわたしが、ぜんぜん環境が違う日本の最果てに移住するというのは、もちろん一大決心でした。

どこに引っ越すのか? 人間関係は? 収入は? 慣れない環境でやっていけるのか? 外国ほどではないけれど、戸惑いも不安もありました。

どのように引っ越すことを決心し、計画を進めていったのか、気になる人もいると思うので、この記事にまとめておきたいと思います。

本音をいえば、どこの町に引っ越したのか、具体的な名称を書きたい気持ちもあります。でも、一度実名を出してしまうと、人目が気になり始めそうなので、これまでどおり道北の町、とだけ書いておきます。(まあ道北の町なんて限られているのでだいたいわかるとは思いますが 笑)

 

不登校になって、慢性疲労の原因を探る日々

うちのサイトを見てくださっている方なら知っているかもしれませんが、わたしは学生時代に、ひどい体調不良で寝たきりに近い状態になり、不登校になりました。

原因は過労でした。元来、空気を読みすぎ、無理を重ねる性格だったわたしは、周囲の目を気にして手を抜くことができず、限界を越えて、がんばり続けた末に破綻しました。

医者からは概日リズム睡眠障害(非24時間型)および、慢性疲労症候群と診断されましたが、治療法はありませんでした。

家から出歩けないくらい悪化して、ほとんどベッドで過ごしていました。この闇のような時期に、ほかに何もできないので絵心教室で絵を描き始めました。こうして、このサイトに載せているたくさんの絵が生み出されました。

現実では病気に囚われている身でも、わたしは絵と空想の世界では自由になれました。

「色がない」わたしは自分が描く空想世界の中でだけ虹色でいられる
わたしは「色がない」から「虹色」の空想世界を描き続ける

けれど、やっぱり将来のことを考えると不安でしたし、自分はこれからどうなるんだろう、と思いました。空想の世界は安らぐ避難所でしたが、現実は無情に時間が過ぎていくばかり。

主治医の先生によると、この病気はADHDの傾向がある子どもがなりやすいらしく、わたしもそうでした。それで、ADHDの薬(コンサータ)を使うことで、一時的にそこそこ改善しました。

「のび太型ADHD」の本を読んで自分のお絵描き人生の謎が色々解けた話
わたしの創作力はADHDで苦労していたことの裏返しだった

でも、どんな薬も副作用がつきもの。使い続けるうちに、リバウンドのように悪化しました。万策つきて、もう何も見込みがないかに思えました。

転機になった本。それは医学ではなかった

そのような日々でも、自分の体調不良の原因を探す努力だけはやめませんでした。たとえ医者にわからなくても、必ず何か打開策があるはずだと信じて、自分で調査を続けました。

医者は自分の狭い専門分野の知識しか持っていない。わたしのモットーは、「真実にたどりつくのは専門家ではなく博物学者だ」という考え方です。

狭い範囲ばかり深く掘り下げるのではなく、あらゆる分野を横断的に調べたとき、無関係に思えるようなところから、きっとヒントが見つかるはずだ。そう考えていました。

本物の自然を観察して描く。そうやってポターとダ・ヴィンチは芸術家また博物学者になった
ピーター・ラビットの作家ビアトリクス・ポターは、本物の自然をじっくり観察して描くことで、博物学者になった。

最初のころは、自分が診断された病名についての本ばかり読んでいました。でも、はっきり言ってなんの助けにもならず、時間の無駄だった。

自分の病気について、専門家ばりの知識を持っているくせに、病気の症状は何も変わっていない。病気仲間に、したり顔で、治療法を力説するくせに、自分はどこも治っていない。

それもそのはず、本を書いている医者がそもそも患者を治せていないのだから、そんな医者が書いた本を読んで何か解決策が見つかるはずなんてない。

けれども、唯一、主治医の病院の三池輝久先生が書いた本だけは、とても役立ちました。厚生労働省の研究班も率いておられた方です。

先生は、不登校とは、医学的には慢性疲労症候群であり、社会学的には「学校過労死」と表現しうる病態だ、と書いていました。

その先生が書いた著作はすべて読んだし、どれもとても励みになりました。直接お話ししたのは一回きりだけど、わたしの心の師だと思っているし、あらゆる考察の出発点でした。

今になって読み返してみると、当時は気づかなかった重要なことがたくさん書いてある。わたしの今の考えに近い考察がなされていて、先生は全部最初から気づいておられたんだな、と驚くほど。

先生の著作はいくつかありますが、学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているかフクロウ症候群を克服する―不登校児の生体リズム障害 (健康ライブラリー)学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書) あたりがお気に入り。タイトルから内容がわかりにくくて読まれないのが残念ですが、どれも慢性疲労症候群についての本。

たとえば、フクロウ症候群を克服するには、わたしのような睡眠障害や慢性疲労を抱える子どもには、外国に留学したり、自然と親しんだりする経験をきっかけに回復していく子が多い、という記述がありました。

当時のわたしは、身動きがとれなかったこともあって、ひとごとのように読んでいましたが、なんとなく心に片隅には残っていました。

いろいろ調べていくうちに転機になった別の本は、過去記事でも紹介した、エレイン・アーロン先生の著書です。

アーロン先生は、HSPと呼ばれる、人一倍敏感な感受性をもつ子どもの育て方について書いていました。そうした子どもは、医学の世界では発達障害と誤解されやすいとも書かれていました。

芸術的な感性が鋭いHSPの7つの特徴―繊細さを創作に活かすには?
感受性が強いHSPの人が芸術に向いているのはなぜか

わたしは自分のこれまでの人生を振り返ってみて、発達障害ではなくHSPだと思いました。

わたしの主治医は、わたしをADHDと診断するのを、ずっとためらっていました。広い意味では発達障害の診断で間違いない。けれど、ちょっと違う感じがすると。最終的には薬を処方するために診断してくれましたが、何か引っかかっているようでした。

わたしは確かに不注意や衝動性は強いですが、HSPの考え方によれば、それは感受性が強いからです。

たとえば、ほかの子なら気にしないような騒音、におい、化学物質、明るさなどにも、無意識のうちに過敏に反応してしまい、気もそぞろになったりイライラしたりしてしまうため、多動や不注意に見えてしまうというわけです。

ということは、わたしが体調を崩した原因の半分は自分にあるとしても、もう半分は環境にある、ということになる。

もともと感受性が強いだけでなく、感受性の強い子にとって負担になるような環境で生活していたせいで、体調がひどく悪化したということでは?

この考え方は、わたしの主治医の先生のところの不登校の研究ともよく一致していました。

三池先生の不登校外来―眠育から不登校病態を理解する によると、不登校になる子どもは、とても体調が悪いときは「発達障害」と診断されるような振る舞いをみせる。でも、環境がよくなって、体調が回復すると、発達障害と診断するような根拠がなくなる、と書かれていたからです。

なぜなら、治療により回復した彼らから発達障害と診断する根拠が消えることが少なくないのである。…このような誤解から不登校の背景に発達障害の存在が小さくないという誤った情報が流れてしまうことになった。(p82)

これらの睡眠問題が若者たちの脳機能にアンバランスを生じさせ、おかしなことに児童生徒期に及んではじめて“発達障害”の診断を受けるものが急増しているのである。(p97)

またHSPの子は、さまざまなことからトラウマを抱えやすい、ということもわかってきました。広い範囲の本を読んでいるうちに、自分の病気が過去のPTSD的体験と関係していることを知りました。ADHDっぽさもそこから来ている可能性がありました。このことからトラウマ治療にも興味を持ち始めました。

でも、わたしにとって、本当に転機になったのは、これらの医学や心理学の本ではありませんでした。

こうした本はみな、それぞれいくらか発見をもたらしてくれた。もしかすると、これこれの治療法が効くのでは、という期待も与えてくれた。でも、ぜんぶ失敗しました。

たくさんの医学の本を読み、主治医の協力でさまざまな治療法を試し、漢方の煎じ薬、食事療法、鍼灸、マッサージ、サプリメント、トラウマ治療など、手の届く範囲のありとあらゆることを試しました。

それぞれ、ちょっとした進展があったり、次のステップに進むヒントが得られたりはした。でも、わたしはずっと慢性疲労状態のままで、根本的には変化しなかった。ドクターショッピングや治療法の調査の繰り返しで、袋小路にはまってしまった。何か間違っていました。

本当の転機をもたらしてくれたのは、医学とはまったく違う分野の本の数々でした。

それは、ジャーナリストのフローレンス・ウィリアムズのNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 や、ポール・ボガードの本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか

そして、これら二冊の本の先駆け的な役割を果たしたリチャード・ループのあなたの子どもには自然が足りない といった自然科学の優れた本。

感受性が強いあなたに自然が必要な5つの科学的根拠―都市や学校の過剰なストレスを癒やすには?
わたしたちがごく当たり前だと感じている都市生活が、脳に慢性的な負荷をかけているといえる5つの理由を紹介し、大自然との触れ合いがストレスを癒やし、トラウマを回復させる理由を考察しまし

いずれも、自然がいかにわたしたちの神経系に影響を及ぼすかという科学的な研究の数々がまとめられているサイエンス・エッセイです。そして、自然との関わりが失われた現代社会で、動物と人間にどんな問題が起こってきたかが、読み解かれています。

これらの本は医学の本ではない。でも、おもしろいことに、わたしが直面していた数々の問題、ADHD、概日リズム睡眠障害、トラウマなどについて、とても詳しく書かれていました。

文明が発達する以前、それらの病気は今ほど問題にはなっていなかったこと。もともと、それらは病気とはみなされていなかったこと。なぜなら、大自然の中では、それらは生きづらさを生み出していなかったから。

このころ、わたしは、たくさんの本を読んで、医学よりも生物学のほうが、わたしの問題を解決するのに役立つのではないか、と思い始めていました。

医学関係の本は、たいてい製薬会社や病院との利権がらみで内容が偏っています。そうでなくとも医学という学問そのものの狭量さのせいでどうしても視野がせまい。

たとえば概日リズム睡眠障害の本なら、原因は遺伝子がどうのこうのと書かれていて、治療法は睡眠薬や高額な医療機器を用いた光治療のことばかり書かれている。

基本的に医学の本は、病気になったのは遺伝的な体質が原因で、どうしようもないから、病院に行って薬を処方してもらえ、というのが結論になる。

でも本当にそうなのか。大学や製薬会社といったスポンサーの利益になる研究だけが投資され、情報が偏っている可能性はないのか。

わたしはもっと公平な観点を求めました。そして、人間も生物なので、生物学や自然科学のしくみにそった理解のほうが本質に迫れると思いました。人間だけを診る狭い医学ではなく、地球や動物との相互関係も考えに入れなければ、問題の本当の答えは見つからない。

生物学では、環境との相互関係が重視されます。生き物はみな、他の動植物や微生物とのあいだに築かれた複雑な相互依存関係の中に、つまり生態系の中に存在しています。

たとえば、失われてゆく、我々の内なる細菌 という本によると、かつてイエローストーン国立公園ではこんな大惨事が起こりました。

70年前にオオカミがイエローストーン国立公園から駆逐されたとき、エルクの数が爆発的に増加した。

エルクは突然天敵がいなくなったので、安心して好物のヤナギを食べるようになった。

ヤナギは川堤に生息しており、その結果、鳴鳥やビーバーといった、ヤナギで巣やダムを作る動物の個体数が激減した。

川が侵食されるにつれて、水鳥が見られなくなり、オオカミが食べ残す死骸がなくなったので、ワタリガラスやワシ、カササギ、ウマの個体数が減少した。

エルクの増加はバイソンの減少も引き起こした。食物の不足が原因だった。

コヨーテが公園に帰ってきてネズミを食べ始めたが、ネズミはトリやアングマの餌でもあった。

こうしたことが相次いだ。キーストーン種が取り除かれたことによって、相互作用の深い関係性が破壊されたのである。(p27-28)

こんなことが起こったのは、生態系はすべてつながっているからです。オオカミだけが独立して存在しているということはありません。すべての生物は、自然界の生態系の中に埋め込まれているので、何かがなくなれば、他のすべてのものが、ドミノ倒しのように影響を受けます。

人間も動物なので、もちろん同じです。ということは、人間が今抱えている問題は、自分たちの身体の中だけにあるのではなく、自分たちが組み込まれている生態系や、地球全体の問題とつながっているのではないか。生物学ではそう考えます。

わたしは睡眠障害の当事者で、主治医も睡眠の専門家なので、睡眠関係の本はたくさん読んできたつもりです。

でもすべての医学関係の本を合わせたより多くのことを本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか から学べました。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

この本には、20世紀に照明が普及し、世界中で光害が爆発的に増えたことによって、いかに本物の夜が失われてしまったかが書かれています。現代の若者の睡眠障害は、そうした地球的な危機と紐ついている。

夜中に暗闇が失われ、光害が満ちあふれている環境は、動物はもちろん、人間の健康をもひどく損ないました。その結果、不眠症、生活習慣病、概日リズム睡眠障害、さらにはガンなどの問題が急増してきました。

医学だけでは問題を解決できない。しかし、分野を越えて全体を見渡す博物学ならば解決できる。

発達障害にしてもそうです。これは遺伝子のしわざだからどうしようもない、と医者は主張する。

しかし、もともと20世紀に入るまで何千年ものあいだ、人類社会に発達障害という概念はなかった。ADHDやアスペルガーっぽい人はいつの時代もいましたが、それらの人は過去数千年生きづらさを感じていなかった。

たとえば、ネイティブ・アメリカンや、アボリジニ、アイヌみたいな自然との調和を重んじる民族で、発達障害のような概念が社会問題になっていたとは考えにくい。

ところが、身の回りに自然がなくなって、健全な環境がなくなったとき、問題行動を起こす子どもが現れた。さっきの数冊の本によると、そうした子どもを大自然の中の生活に戻してやると、不適応が起こらなくなるという。

医学では、発達障害は子ども本人の脳に原因がある遺伝的疾患だとみなします。しかし自然科学では、おかしいのは子どもではなく環境だと考える。

確かに子どもは多様な遺伝子を持っている。しかしそれは欠陥ではなく多様な環境に適応するためのもの。真の問題はそうした多様な遺伝子に適する環境がなくなってしまったこと。発達に必要な当たり前の自然がなくなったせいで、子どもたちが不安定になってしまっただけなのだと。

こうした本から学んだことを簡単にいえば、わたしが悩んでいたADHD、トラウマ、概日リズム睡眠障害などの病気は、人類があまりに自然界や微生物の生態系から切り離されて、公害や騒音だらけで森も山もなく星も見えない都会で、24時間過ごしているから蔓延するようになった、ということ。

そして、そのような病気に悩む人たちを大自然のまっただ中に連れて行けば、完全に治るとはいかないものの、かなり回復するという研究がたくさんある、ということでした。あなたの子どもには自然が足りない にこう書かれているように。

「私たちの脳は、5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできているのですよ」

…「神経学的には、人類は今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれていません。ただし脳は強くて融通が利くため、70から80パーセントの子供はかなりうまく順応しています。

でも、残りの子供たちにはそれができません。彼らを自然の中へ連れ出すと、状況を変えることができます。(p113)

これら3冊を読んでいるうちに、自分がいかに環境の価値を軽視していたかがわかってきました。

わたしは子どものころから大阪や東京の大都会で育ち、そこが便利な文明社会だと思っていました。しかし、生物学的には、そこは生き物が住むような環境ではなかった。都市は、生態学的には砂漠のような場所なのだと知りました。それまで、都会の環境を、「当たり前」だと思っていた自分が怖くなりました。

ジャーナリストのデイヴィッド・ウォレス=ウェルズが、The Uninhabitable Earth: Life After Warming(居住できない地球)で、「ひどいことだ。あなたが思っているより、ずっとひどい」と書いているとおりだった。そこまでひどいとは、まったく気づいていなかった。

それで、もしこれらの本に書かれていることが本当であれば、実際に行って確かめてみる必要がある、と思いました。

本当の意味で大自然が残っている場所にしばらく滞在してみて、本に書かれていたように体調が変化するかどうか、自分の身体で実験してみなければならない、と。

「こんなものは自然ではない」と気づいた

そのころ、わたしは、ボディワークのセラピーを受けていました。身体を動かしながら、これまで無意識のうちに処理していた微細な感覚の変化に気づく、いわば身体の声を聞けるよう訓練するセラピーです。

生物学によると、トラウマとは心の傷ではなく、体に保存された過去の経験の感覚的な記憶です。だから、ただ会話するカウンセリングでは解決しない。感覚的な記憶を修正する唯一の手段は、別の感覚的な経験によって上書きしてしまうことだとされています。

簡単にいえばこういうこと。たとえば、子どものころ親から温かい愛情を示してもらえなかった子どもがいるとする。その子のトラウマ症状は、いくら言葉で慰めたところで治らない。トラウマは心の傷ではなく、身体的な記憶だから。

でもその子が、もし本当の愛情を身をもって実感するような、温かく包み込まれるような体験をすることがあれば、身体的経験がアップデートされます。

トラウマを負った人は、耐えがたい過去の経験のせいで、感じる能力が麻痺してしまっていることがよくあります。だから、セラピーでは、まず自分の体を感じる訓練をします。身体の感覚を、圧倒されない範囲で、少しずつ自覚するように。

わたしもこのトレーニングをしましたが、感覚が戻ってくるにつれて驚きました。自分が都会の生活で、いかに多くの刺激をシャットダウンし、感じないよう麻痺させることで心を守っていたか気づくようになったからです。

わたしは、自分が感受性が敏感なHSPだと思ってはいましたが、実際には想像をはるかに越えていました。もともと感受性がとても強かったわたしにとって、都会の騒音や明かりや人混みなどは、耐えられるものではなかったのでしょう。感覚を切り離して麻痺させてしまっていました。

その防衛機制が、セラピーを通して、少しずつ解除されたので、自分がどれほど多くの洪水のような刺激を、感じないようにマスキングしていたかがわかってきました。

こんな場所ではとても耐えられない。そう思いました。こんな刺激にずっとさらされていたのなら、頭がパンクしてADHDのような不注意になったり、慢性疲労になったり、睡眠リズムがめちゃくちゃになったりしたのも当然だ、と思いました。

わたしは子どものころから都会で暮らす中で、ずっと許容できる以上の洪水のような刺激を受け取っていました。でも、感覚を麻痺させることによって、意識から閉め出してきました。しかし、体はとっくに限界を越えてしまい、そのせいで寝たきりに近い状態に陥っていたようです。

わたしは、生まれてからずっと檻の中に閉じ込められて育った動物園の動物のようでした。大人になって初めて、自分が檻の中にいることに気づきました。死に物狂いで、そこから出たくなりました。生き物としての自由な本来の環境に逃れたい、と思いました。

さっきの3冊の本では、回復するためには、本物の「大自然」、それも、「畏怖の念を覚えるような大自然」が必要だとされていました。でもそれはいったいどんなものなのでしょう? 都会育ちのわたしにはわかりません。動物園で生まれ育った動物がサバンナもジャングルも知らないように。

ある日、あまりに苦しくて寝られなかった朝に、思い立って、近所で一番大きな公園に行ってみました。林のような木々が立ち並び、バードウォッチングなどもできる公園で、そこがわたしの知る「自然」のある場所でした。

でも行ってみて、セラピーで学んだように感覚をオープンにしてみたとき、ここは全然違う、と思いました。こんなのものは自然ではない。

早朝にもかかわらず、どれほど林の奥に行っても、幹線道路や工事現場の騒音が絶え間なく響いています。夜に行っても、レーザービームのような街灯に照らされ、本当の闇はありません。

こんなハリボテのような作り物の自然ではなく、畏怖の念を覚える本物の自然がある場所へ、大都市からはるか遠いところまで行かなければならないと悟りました。

海外まで行くのは無理です。沖縄はずっと昔に旅行で行きましたが、観光地化されすぎていました。わたしに思い当たる大自然といえば、修学旅行で行った北海道くらいでした。

北海道、それも、まだ観光地化されておらず、原生の自然が残っているところ。選んだのは「道北」と呼ばれる日本列島の最果て、見知らぬ地方でした。

果たして、わたしのような体調で、そんな遠くまで旅できるのか? 普通の心理状態ならためらったかもしれません。

だけど、そのときは、もう追い詰められていた。一秒でも早く、どこかへ逃れたいと思った。もう、これ以上耐えられないほど、思い詰めていました。生きるか死ぬかの問題だったのです。

後になって知ったことですが、そう考えたのはわたしだけではありませんでした。

たとえば、HSPの概念をさかのぼると、心理学者カール・ユングの研究に行き着くと言われています。自分も敏感な人だったユングは、日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめによると、自然の大切さをよく知っていました。

わたしには、高い山々、川、湖、木々、花、そして動物のほうが、滑稽ななりをして、貪欲で見栄っぱりで嘘つきで臆面もなく自己中心的な……人間よりも、はるかに神の真髄を示していると思われる(p341-342)

その時わたしの胸にある考えが固まったー湖のそばで暮らさなければならない、と。水がなければ誰一人生きることはできないとわたしは思った。ーカール・ユング(p174)

敏感な人だったユングは自然界を愛していました。それなくしては生きられないと悟りました。わたしは知らず知らずのうちに、彼の足跡を追っていました。

さらには、森にやすらぎを求めた小説家ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、湖水地方へと逃れた画家ビアトリクス・ポターや、詩人ウィリアム・ワーズワースといった先人たちと同じ道をたどっていたのです。

追い詰められた果ての、初めての道北旅行

こうして、昨2018年の6月末に、はじめて、この町に旅行に来ました。片道10時間くらいかかる、海外旅行より遠いかもしれない長旅で。

飛行機で道北の主要都市である旭川に着いたとき、雨でがっかりでした。景色を見ても、期待していたような感動はなく、単調に感じました。

道中の旭川市内も期待はずれでした。北海道のこんな遠くまで来たのに、大阪や東京とそれほど変わり映えのしない相変わらずの都会で、ごみごみしていました。旭川の人口は所沢と同じくらい。こんなところには絶対住みたくありませんでした。

目的地に向かうために宗谷本線に乗りましたが、暑くて大変でした。一両編成のディーゼルで騒音がうるさく、座る場所も狭くて、夏だというのにクーラーもかかっていません。

二時間近く揺られる間、開けた窓から眺める景色はずっと同じような田舎の風景ばかり。本当に、こんな北まで行く必要があるのだろうか。もっと手前でも、いやそれこそ奥多摩とかでもよかったのではないか、と思いました。

駅に着いても、やっぱり都会の風景。そこからバスに乗って宿泊する町に向かいました。

家から10時間旅をして着いた町は、はっきり言って、殺風景に思えました。どんよりとした雲、ずっと降り続ける雨、ここまで来ると暑くはありませんでしたが、イメージしていた北海道の美しい自然はどこにもないように感じました。少なくともそのときのわたしの目には。

ただ、宿泊施設のコテージは、とてもすてきな住宅でした。広々としていて、バリアフリーで、窓から見える裏庭や山の風景も美しい。ここでなら、少し落ち着いて休めるかもしれないと思いました。

宿泊施設では、自転車を無料で貸してくれたので、夜になって雨がやんだ町を散歩してみました。すると、なんだか不思議なことに体が軽い。10時間も旅をしてきたにもかかわらず、いったいどういうことでしょう。

夏らしくない過ごしやすい涼気も相まって、ずっと夜の町を探検したい気分に駆られました。夜の町は、都会生まれのわたしには想像もつかないほど、静かで、漆黒の闇が広がっていました。

わたしは、いつも明かりがまぶしくて、都会では夜でも遮光サングラスをかけていました。ところが、コテージの裏庭では、サングラスを外しても足もとが見えないほどでした。本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかに書かれていた、現代社会から失われた本物の闇を垣間見ました。

それから一週間弱、その町に滞在しました。滞在中のわたしは、大都会にいたころが嘘のように元気でした。ある日には、くもり空の下、近くの温泉まで片道数キロかけてサイクリングしました。それほど運動できたのは久しぶりでした。

はっきり言うと、滞在中、北海道の自然がきれいだとはあまり思いませんでした。ずっと曇り空でしたし、山々の緑は、本州の山奥とそんなに変わらないような気がしました。

違うことと言えば、道幅がとても広く、道の起伏が少なく、家と家の間隔がとても広いこと。あらゆるものが広くて開放感があること。家の中のトイレでさえ東京の二倍くらい広い。人は少なく、自動車も少ない。公共施設はよく清掃されていてきれい。

交通は不便でした。ある日、バスで隣町のカフェに行ってみたら定休日。困ったことに、帰りのバスは二時間後で、しかもかなり雨が降っていました。

でも、せっかくだから、雨の中、近くを散歩してまわりました。山と森がすぐ近くにあって、新鮮な空気が気持ちよく感じました。ルピナスの花が色とりどりに、一帯に咲き誇っていました。二時間はあっという間でした。

家に帰る日の朝、はじめて空が晴れました。地元の人が、帰る前のわずかな時間に、町全体を一望できる展望台に連れて行ってくれました。

長い階段を登って見晴るかす景色の美しかったことと言ったら! 今回の旅行で、はじめて心底美しい、と感じた景色でした。昔旅行した、モンゴルの郊外の自然を思い出しました。

わたしは東京のスカイツリーや、大阪のあべのハルカスから見る都会の景色には感動しません。どこまで行ってもコンクリートジャングルでしかない。

でもその日見た景色はアートでした。わたしもこんな奥行きのある色使いで風景を描いてみたいと思いました。

その景色はどうやっても写真には写りませんでした。じかに見る景色と、写真に収めた景色はこんなに違ってしまうのか、とびっくりしました。

少しでも長く、その景色を目に焼き付けようと、わたしは何度も町と山々を見渡しました。

「闘うか逃げるか」反応。それならば逃げよう

帰宅したとき、この一週間は夢を見ていたんじゃないか、と錯覚しました。あまりにふだんの日常とかけ離れすぎた世界でした。ただの旅行というより異世界に飛ばされて、別の人間の人生を垣間見てきたようなものでした。あれが、いつか自分の人生になるときがくるのでしょうか。

ところが、余韻に浸る間もなく、帰宅後、体調が急激に悪化しました。PTSDのような「闘うか逃げるか」の切迫した精神状態になり、あらゆるものに過敏で、耐えがたく、もう生きていられない!と感じるほどでした。

理由はすぐわかりました。わたしはもともとセラピーによって感覚がオープンになりかけていました。そこへ、あの道北の環境を体験したので、わたしの体は「もう安全な場所に着いた!」と錯覚して、全身の感覚が目覚めました。わたしの体は全身で大自然を感じ、かつてないほどリラックスしました。

しかしそのさなか、いきなり大都会に帰宅してしまいました。全身のオープンになった感覚が大都会のすべての刺激をそのままキャッチしたようです。都会の24時間の騒音や明かりは拷問のようでした。

わたしはひたすら家に引きこもって耐えました。医学の知識だけは豊富だったので、これは、感覚のマスキングが外れたせいで起こっている狂乱状態だとわかっていました。だから、感覚がまたシャットダウンされるまでの辛抱でした。以前のように都会に適応し、元のように麻痺するまでの。

予想どおり、二週間くらい経つと、わたしの感覚は麻痺してしまい、都会の環境はそこまで苦痛ではなくなりました。でもそれに伴って、あの慢性疲労などのひどい体調不良も戻ってきました。ぜんぶもとの木阿弥です。

こうして、地道にセラピーする日々に戻りましたが、あの夢のような日々が忘れられませんでした。あれは現実だったのか、それともただのはかない夢だったのか。もう一度確かめたいと思うようになりました。

毎週のセラピーで、感覚のコントロールのスキルも身についてきたので、もう一回あそこに行けば、あのときの改善が本物だったのか、気のせいだったのかわかる、と思いました。

わたしの身体が「闘うか逃げるか」状態になったのは生物として生き残りをかけるためでした。これは生理学者ウォルター・キャノンが発見したfight-or-flight反応です。

わたしの神経系は明らかな危機を感じ取っていて、闘うか、さもなくば逃げるかして危険を回避するよう伝えていました。

それならば、わたしは自分の身体の言うとおりにしようと思いました。この不毛な大都市を捨てて逃げよう。もっと生き物として当たり前の環境、身体がリラックスしていられる大自然のもとへ。

二度目の旅行で、本格的に移住を考え始める

それで、最初の旅行の二ヶ月後、9月のはじめに、もう一度、旅行することに決めました。

この二回目の旅行のときも、家を出発するときの体調は最悪でした。下手すると空港でぶっ倒れるんじゃないかというほど。

でも、前回と同じように、道北の町に近づくにつれて元気になり、着いた日の夜から自転車で町を探検できました。前とまったく同じでした。

これが、プラセボ(いわゆる心理的な思い込み)による改善でないことは確かでした。わたしはこれまで、ありとあらゆる治療法を試してきました。それでも、基本的に、どんな治療法を試してみても、よくならず悪くもなりませんでした。気のせいや思い込みでは変化しませんでした。

薬も数多く試しました。でも、劇的な変化(良い意味とは限らなず、はっきりわかる反応)があったのはわずか3種類だけです。それぞれ、ドーパミン、アドレナリン、オレキシン関係の薬で、どれもADHDに関わる神経伝達物質です。

そのうちのひとつがADHDの薬(リタリン/コンサータ)でしたが、副作用が出たので効果は一時的でした。

しかし、あなたの子どもには自然が足りない によると、大自然は、副作用なしでその薬と同様の効果をADHDの子に生じさせるとのことでした。

森は私に抗鬱剤リタリンのような作用をもたらした。自然は私を鎮め、私に注目してくれただけでなく、私の感覚を刺激してもくれたのである。(p25)

わたしに起こっていたのはまさにこれでした。わたしが大自然のもとで感じた体調の変化は、劇的であると同時に限定的でした。それはコンサータを飲んだときの変化とよく似ていました。慢性疲労が薄れ、脳の霧が晴れ、活動的になりました。

しかし、他の諸々の症状まで変化するわけではありませんでした。相変わらず息切れや胃腸症状、目の弱さ、軽い頭痛、さらには全身の凍りつき傾向など、さまざまな不定愁訴がありました。これらは、コンサータを飲んだ時も改善しなかったものです。

もしプラセボだったら、すべての症状が区別なく一時的にすべて和らいだように思えてもおかしくないはず。

けれど、わたしの体調変化は基本的にドーパミン関係の変化に限られていました。リタリンなしでリタリンの効果がある、しかも副作用はない。研究のとおりでした。

のちに主治医にこの経験を話したとき、主治医はわたしの説明に納得してくれました。最初に書いたように、主治医のところの研究チームは、不登校になった子どもの慢性疲労や概日リズム睡眠障害を専門に診ていますが、やはり自然の多いところに引っ越したりすると体調が良くなることを、何度も観察していたからです。

主治医が務める病院では、高照度光療法のような医療機器で睡眠障害や慢性疲労を治療しています。しかし、入院中に体調が改善されても、退院して元の生活に戻ると悪化する例が多かったようです。生活環境そのものを根本から変えないといけないようでした。

数年前に主治医と話したとき、こんなことを言っていました。不登校や慢性疲労症候群のような問題は、現代文明が生み出したものであって、電気もないような自然と調和した生活に戻ることができれば、そうした病気はなくなるのではないか、と。当時のわたしは、確かにそうかもしれないけれど、今さらそんな生活は無理だと思っていました。

ところが、わたしは奇跡的な偶然からそれを経験することになりました。

二度目の旅行中に、胆振地震が起こり、北海道全体がブラックアウトしました。そのせいで、いやこの場合は、その“おかげ”で、わたしは予期せずして、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかに書かれていた、本物の星空と巡り会いました。

道北のその町は、普段から天の川が見えるほどには夜が暗いですが、その日の星空は格別のものでした。この時の体験談は、前に体験記に書きました。

その特別な星空は、この日だけのものでした。毎日見れるものではありません。それでも、ここでなら、晴れている日なら毎日、天の川がうっすらと目視できます。月しか見えないような都会の汚染された星空とは大違いです。車でもっと山のほうに行くことができれば、この日に迫る満天の星空も見られるでしょう。

地震のあいだ、停電した町では支援が行われ、一介の旅行者にすぎないわたしを、地元で知り合った人たちがいろいろと援助してくれました。人口が数千人のコンパクトな町なので、住民同士の適度な距離感が保たれつつ、行政の援助も受けやすいようでした。

そのとき、ここに住みたい、自分がいるべき場所はここなのだ、とはっきり思うようになりました。

電気も使わないような文明以前の生活は、やっぱりハードルが高い。そもそも、わたしは科学技術をすべて否定することが解決策だと思っていない。そうではなく、自然と調和した、本当の意味での科学が必要だと思っている。ここでなら、文明人として可能な限り、自然と調和した生活ができる。

かつてここに来たときは、都会に帰ってから「まるで夢のようだった」と感じました。でも、もう夢のままで終わらせたくはありません。夢を現実にしよう、そう決めました。

家を探す。でも意外と狭き門

田舎の町は人口減に悩んでいることが多いので、積極的に移住者を募集していることが多いものです。しかし、いざ引っ越してみようと思うと、そう簡単にはいきませんでした。

わたしが引っ越そうとしていた町は特に、移住希望者の需要に対して、住宅の供給が追いついておらず、機会損失を生んでいるように思えました。

まず、これまで都会であちこち引っ越してきたときと同じように、ネットで不動産物件を調べてみました。ところが、一軒もない。町なかで不動産物件の張り紙などは見かけたのですが、仲介業者がいないようでした。

役所の移住担当部署に訊いてみたところ、引っ越してきたいなら、知り合いから空き家を紹介してもらうか、公営住宅に応募するしかないようでした。

都会だと、公営住宅に応募するには、何年かそこに住んでいなければならない場合がほとんど。東京だと3年間在住しないと応募できません。でも、この町は、町外から、いきなり公営住宅に申し込み、引っ越してくることが可能でした。ただし、空きが出るのは、月に数件あるかどうかです。

ほかに選択肢はないので、わたしはネット上の公営住宅のリストを見ながら、Googleマップを使って、公営住宅の立地条件などを調べていきました。

二回目の旅行のときに、自転車で町中をめぐり、ほとんどの住宅地をじかに確認しました。

ここは日本でも有数の豪雪地帯で冬はとても寒いと聞いていたので、住宅の築年数は新しいに越したことはありません。それに、わたしは町の中心部ではなく、森のそばに住みたいと思っていました。こんな小さな町でも、主要道路のそばだと騒音がうるさく感じられたからです。

10を越える住宅地がありましたが、築年数や立地場所を検討した限りでは、候補は2箇所くらいでした。「自然が足りない」から引っ越してくるのですから、最も自然が多い場所に住まないと意味がありません。

運良く空きが出れば申し込めますが、数ヶ月の間、募集されていたのは、他の住宅ばかりでした。わたしが望んでいる住宅に引っ越せる可能性はないように思えました。引っ越したくても引っ越せない。引っ越す決意があって、すぐに動けるのに、肝心の家がない。そんなジレンマでした。

ところが、二度目の滞在中、地震の数日後に、まさに、わたしが望んでいた住宅が募集リストに載せられました。千載一遇のチャンスでした。それから数ヶ月経った今でも、ここの住宅は一度も募集に出ていません。最高のタイミングでした。

宿泊場所のスタッフに移住の考えを話すと、郵送で申し込むより、滞在中に役場に直接出向いて申し込んだほうがいい、と言われました。

現地で知り合った友人は、わざわざ電話をかけてきて、移住希望の理由の欄には、事情を詳しく書いたほうが印象がよくなるとアドバイスしてくれました。

それで、自分が都会では体調が悪くなってしまい、自然の多いところで暮らしたいこと、主治医も賛成してくれていることを書きました。

そして、地震明けの役所に出向いて、直接、申し込みました。役所の担当者に「ここはとても星空がきれいでいいところですね」と言うと「夏は天の川が普通に見えますからね」とこともなげに返されました。住民にとっては、何の変哲もない普段の景色のようでした。

まだ申し込んだだけなので、本当に入居できるかどうかはわかりません。年配の人やもっと障害レベルの重い人などがいれば、そちらが優先されるでしょう。

この記事では時系列がややこしくなるので省きましたが、一回目に別の住宅に応募したときはその理由で落とされました。そこは本命ではなく妥協して申し込んだところだったので結果的にはよかったんですが。

それでも、わたしはいつかここに住むんだ、というビジョンをはっきりさせていました。残りの滞在中は、町を隅々までめぐって、晩夏の風景を楽しみました。帰宅するころには、またきっとここに戻ってくる、という決意とともにそこを去りました。

もしダメだったらやり直せばいいじゃない

もし住宅が当たったら、わたしは10月末に引っ越してくる予定でした。しかし、現地で知り合った人の中たちは、ずっと都会暮らしのわたしが、最低気温がマイナス30℃にもなるような過酷な豪雪地帯に引っ越してくるなんて本当に大丈夫なのか、と心配していました。

一回、試しに冬場にも旅行に来て、それから決めてはどうか、とアドバイスされました。もっともな意見に思えました。でも、検討してみた結果、それではダメだと思いました。

わたしは過敏なほうなので、外泊施設では本当の意味でリラックスしてぐっすり寝られません。冬場が大変なら、なおさら宿泊施設ではなく自分の家で、じっくり腰を据えて乗り越えなければなりません。

それに、一時的な旅行では、冬場の大変さは味わっても、冬の良さはわからないだろうと思いました。

一回目の旅行のときがそうでした。最初の旅行のとき、わたしはここ道北の景色にぜんぜん感動しませんでした。都会ぐらしが長すぎて、自然を感じ取る感覚が麻痺していたからです。今では普段の景色も美しいと感じますが、旅行のときはじっくり味わう余裕がありませんでした。

わたしが二度目も来ようと思ったのは、景色が美しかったからではなく、ただ単に体調がよくなったから。それだけの理由でした。

一回目の旅行のときは、ちょうど季節外れの長雨で、ずっと曇り空でした。二度目の旅行のときは地震でした。一時的な旅行だと、なかなか自然の美しさを感じるとまではいかないものです。冬場に旅行に来たら、大変さだけ印象に残って、良いところが見えないのではないかと思いました。

それは確かに事実でした。こちらに住んで、一冬まるごと経験した今、わたしはこの豪雪地帯の冬を愛しています。毎日のようにサイクリングしたりスノーシューで歩いたりしながら見た美しい景色は、一時旅行では味わえなかったでしょう。

何よりも、そのときのわたしは、もう体調が限界でした。来年の春まで待つような余裕はありませんでした。引っ越してきたら、体調が良くなる、ということは、二回にわたる旅行で実証されていました。さんざん調べまくった科学的知識によっても裏付けが取れていました。だから、とにかく引っ越してきさえすれば、厳しい冬だってきっと乗り切れると思いました。

それに、もしも引っ越してきてダメだったら、またやり直せばいい。失敗しても構わない。そう考えることにしました。試してみてダメだっとしても死ぬわけではない。だけど、今試さなければ、もう身体が限界なので死んでしまうに等しい。

詳しく説明しだすと紙面がいくらあっても足りないので簡単に書きますが、わたしみたいな慢性疲労症候群でぶっ倒れている人は、生物学的にいうと、仮死状態に近い状態にある、ということを突き止めました。感覚が麻痺して、半分死んでしまっている状態。

そんな人が息を吹き返すには、よく整えられた庭園みたいな、単なる心地よい自然では足りない。荒々しい本物の自然、畏怖の念を抱かせるほどの原生の大自然が必要だと、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書いてありました。

都会には、本物の自然以上に人に畏怖の念を抱かせる要素があるのだろうか?

本物の自然―人類がそのなかで進化をとげてきた自然―は変化に富み、複雑だ。血潮がみなぎり、強風が吹きあれ、命が躍動し、大地の振動が伝わってくる。(p331)

本書で見てきたとおり、そうした旅を通じて、わたしたちの脳の核にある部分が変化し、希望や夢といったものがはっきり見えてくることもある。

さらに自然に畏怖の念をもつことで、人との絆が強まり、森羅万象における自分の存在に思いを馳せることができる。

荒々しい自然に囲まれることで、とくに心身にいい影響が得られる人がいる。

ジェットコースターに乗っているように激しく気分が上下し、自我を確立しようともがく思春期の若者、そして深い悲嘆を経験した人やトラウマに苦しむ人たちだ。(p338)

だからわたしは道北を目指した。避暑地でも、リゾート地でも、療養地でもなく、生きること自体がサバイバルな、厳しい大自然が残っている土地を。麻痺した心をさえ突き破って、魂に響いてくる息吹が感じられる大地を。

地元の人たちは、一年の気温差が60℃あるような厳しい土地に来て大丈夫かと心配してくれた。でも、それこそがわたしの求めているものでした。

死んだ身体に「いま生きている」と実感させてくれるほど豊かな感覚的な体験ができる大自然をわたしは求めていた。動物園で育った動物にさえ、野生を思い出させてくれるような自然を。

道北に移住するのは賭けでした。でも、十分に調査し、検討した科学的な知識に裏打ちされた賭けでした。わたしの調査と結論が間違っている可能性も、もちろんありました。それでも、正しいか間違っているかは、やってみなければわからないのだ。

移住にあたっての不安あれこれ

そのほかにも心配はありました。たとえば仕事のこと。わたしの場合は遠隔の仕事でかろうじて収入を得ていたので、ネット環境が充実しているこの町は、それだけで十分でした。もっとも、ちゃんと移住者向けの仕事募集もされていたので、ネット上の仕事がなくなってもなんとかなりそうでした。

田舎の閉鎖性も心配でした。ネットで調べていると、たとえば悪名高い秋田の上小阿仁村のように、ひどく排他的な社会があることを知りました。わたしの引っ越し先はどうか。

地元で知り合った人たちによると、もともと外部から労働者が大勢くるような町なので、外から来た人のことを、まったく気にしないおおらかな土地柄だとのことでした。

本当だろうか、と思っていましたが、引っ越して半年以上たった今では、確かにそんな感じです。住民同士の距離が近くなりすぎないよう、プライバシーを互いに尊重できる町です。

ともあれ、引っ越し前には、Googleの関連キーワード検索で、この町の名前とセットでよく検索されているキーワードを洗い出してみました。もし悪い評判があるようなら関連キーワードで出てくるはずです。

結果はいたって平穏で、ポジティブな関連ワードはいくつかある一方、ネガティブな関連ワードはひとつもありませんでした。事件といえば、ヒグマが目撃されたことくらいでした。

ではヒグマなど野生動物の危険はどうか。何度も過去記事で書いていますが、野生動物よりはるかに人間のほうが怖いです。「ヒグマ出没注意」の看板をもし都会に当てはめれば、「危険人物出没注意」「変質者出没注意」の看板をすべての道に立てなければならないでしょう。

実際、引っ越してからこの半年、わたしの町はとても平和ですが、もともと住んでいた東京の町では、殺人や暴動や性犯罪のニュースが何度もありました。明らかにクマの被害の何倍、何十倍も多い。

ほかに少し気にしていたのは、本当にこんな北海道の果てまで来る必要があるのか、ということ。「自然が足りない」からここまで来たわけですが、本物の大自然が残っている地域はここだけではないのでは?

このことはずっともやもやしていましたが、答えは出ませんでした。そのときのわたしはもう限界だったので、他の候補地を探る余裕はありませんでした。とりあえず体調が良くなることが実証されている道北に引っ越すしかなかった。

けれども、今となってはここがとても気に入っています。個人的な好みとして、わたしは寒さより暑さが苦手です。寒ければ服を着込めばいいですが、暑すぎるともう脱ぐものがありません。だから本州の暑い田舎よりは道北のほうがいい。

引っ越してきてからわかったのですが、道北は寒さ対策に特化しているので、本州よりよほど住宅の断熱がしっかりしています。おかげで、この冬は、外はマイナス20℃以下だったのに、家の中はかつてないほど温かくて快適でした。真冬でもシャツ一枚で過ごせるなんて! (その後、室温を下げて厳寒地用の下着を着るなど工夫しはじめましたが 笑)

都会だと、土地代があまりに高すぎて、住宅にかけられる費用はごくわずか。おかげでプレハブみたいな薄っぺらい壁の家ばかり。真冬に朝起きたら気温一桁とかはざらでした。しかしここは土地が有り余っていて安いので、みんな家にお金をかけます。優れた建築技術が集積されていて、都会では考えられないほど機能的な住宅が多いです。

一番の問題は、近くに専門的な手術などができる大きな病院が少ないことかもしれません。でも、これについては都会のほうが本当にいいのかどうか、考えあぐねます。わたしの場合、都会の病院ではまったく治らず、ここに引っ越してきてやっと元気になったわけなので。

もし特殊な病気のために専門的な治療を継続して受けなければならないなら都会に住む必要があるかもしれませんが、健康的な体づくりを考えれば、自然豊かな場所のほうがよっぽどいいでしょう。いわゆる未病状態の人は、医療の整った大都会に住むより、自然豊かな場所で病気を予防したほうがいいと思います。

日本で一番、人口密度が低い地域

あとでわかったことですが、自然が多いところはたくさんあれど、道北にしかない良いことがありました。それは人口密度。

道北は、家と家の間隔がとても広いのが魅力的。都会だと、家がびっしりでプライベートスペースがわずかしかありません。しかし、ここではオーストラリアの郊外みたいな、広々とした家が立ち並んでいます。

当然のようにすべての家に庭がありますし、冬に雪捨て場にするスペースが必要なので、家と家の間隔が広い。というか、道路も歩道も広い。普通の道路が片側二車線並みの広さで、歩道は車が通れる広さです。

あとで調べてみたところ、日本の1740ほどの市区町村の人口密度ランキングでは、だいたい1700位あたりから下の最下層に道北の町々が並んでいます。

人口だけでいくと、本州の田舎のほうがもっと少ない過疎地域が多いのですが、ここはなんと言っても面積が広い。だから人口密度がとてもまばらになります。

反対に、沖縄のような狭い島では、人口が少なくても人口密度は高い。

人口密度マップ≒光害マップ(Light pollution map)と考えていいと思いますが、日本全国の光害は以下のとおり。

都市部は真っ赤っか、郊外や田舎でも都市に近ければ緑や青。日本全国の内陸部では、ほぼ唯一、道北だけにグレーの地域が残っており、光害が少なく、人口密度も低いことがわかります。

うちの町に、北海道の美瑛市から引っ越してきた保健師さんがいたんですが、美瑛は人混みすぎてだめで、札幌なんかはもう人だらけすぎて具合が悪くなってしまうと言っていました。

美瑛というと「自然豊かな地域」のイメージ。でも、出身者からすると、観光地化されすぎていて住みにくいそうです。光害マップでみれば、確かに黄色くなっていて、都会ですね。

大自然のイメージが強い知床半島も真っ赤。いくら自然が残っているといっても、観光地化されてしまったら、もう人が密集してしまって住めないことがわかる。

本当の意味で自然豊かなところに行きたかったら、口コミや評判に頼るだけではだめで、ちゃんと光害マップなどの観測データも参照しなければならない、ということを学びました。

ちなみにこの光害マップによると、シンガポール、韓国、およびドイツ、イタリアなどのヨーロッパ諸国は、国土の中に光害のない地域がもうなかったりします。

日本はまだ北海道の道北や、西表島などの離島に北欧の北部並みの夜空が残っているぶんだけマシです。その北欧もフィンランドはかなり光害だらけだったりしますが。

わたしは都会生まれなのに人口密集地が苦手です。人が多すぎてしんどい。少人数の人と適度な距離感でのびのびと暮らしたい。狭い土地に密集して住む人はストレスでいつもカリカリしていますが、広い土地にまばらに住む人には心の余裕があると感じます。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方からすると、これはわたしの印象ではなく、生物学的な事実です。

1965年、動物行動学者のパウル・ライハウゼンが、異常に混雑した環境に何匹もの猫を押し込めたらどうなるかという実験を行なった。すると猫は横暴になり、「いじめっ子軍団」と化した。

ノルウェーの実験で同様の環境にラットを置いたところ、ラットは巣作りの方法を忘れ、自分の身体を食べはじめた。

霊長類が狭い場所に閉じ込められると、ホルモンのバランスが崩れ、生殖能力が急激に低下する。

ということは、人間の場合はどうなるのだろう?(p321)

動物は狭い環境に閉じ込められると怒りっぽくなり、物づくりができなくなり、自傷行為をはじめ、ホルモンバランスが乱れ、少子化傾向になります。では動物の一種である人間は?

広範な医学文献を分析したところ、都市部居住者は非都市部居住者と比較し、不安障害の罹患率が21%、気分障害の罹患率が39%増大し、統合失調症の罹患率は倍増することがわかった。(p321)

人間も動物なので、例外はありません。狭いところに密集して住んでいると、さまざまな問題が引き起こされる。広々とした牧場で育った牛のミルクがおいしいように、人間も、しっかりパーソナルスペースが確保された場所で生活する必要がある。

そんな生活をしたい人にとっては、道北はいいところです。自然の多い市区町村は本州にもたくさんありますが、面積あたりの人口という視点で考えたら、道北ほど人口密度がまばらなエリアは日本にほかにないからです。

それに、このスケール感は、「畏怖の念を起こさせる大自然」という意味ではぴったりだったと今になって思います。外国ならともかく、日本国内でみれば、ここを超える場所はそんなにないのでは? さっきも書いたように、わたしが求めていたのは療養地ではなく、荒々しい野生の自然なのです。

もちろん、だだっ広いということはオーストラリアなどと同じく、車移動が必須、ということでもあります。

でも、免許さえあれば、これほど走りやすい道路はありません。だって車も人もめったにいないわけですから、運転が得意でないとしても事故を起こしにくい。

というわけで、引っ越してきてからの最初の冬は、免許取得に悪戦苦闘することになりましたが、それは別の話。

そうそう、何より日本全国、道北だけのメリット?として、最低気温記録を忘れるわけにはいきません。

日本で一番寒い場所は、旭川や朱鞠内湖でマイナス40℃を記録したことがある道北地方なのです。

今では温暖化のせいで、年に一日、マイナス30℃に達するかどうか?というレベルになってしまいましたが、それでも冬の道北は日本国内では異世界みたいなものです。

あたり一面を覆い尽くす白銀のファンタジックな景色は、何度見てもうっとりします。サンピラー、サブサン、ダイヤモンドダストのような自然の神秘もよく観察されます。

普通の生活しているだけで、畏怖の念を感じられ、ファンタジー世界に迷い込んだような感覚になれるのは、道北の冬だけじゃないでしょうか。

もちろん、寒さ対策は必須ですけれど、わたしはすぐ慣れて楽しめるようになりました。

追記 : 2年ほど暮らした結果、道北は本州以南と比べて、森歩きしやすい理由がたくさんあると感じています。

・マダニ感染症のうち特に危険なSFTSは西日本を中心に分布。

・マダニの危険はあるが、春や秋は涼しく、夏も30℃くらいが最高気温なので、全身を覆う服装で防備しやすい。マダニ、ブユ、スズメバチ、イラクサなどの対策のため、わたしは夏でも薄手のレインウェアを着込んで、顔網、手袋、長靴の重装備で森に入っています。

・ヤマビルが生息していない。ヤマビルの北限は秋田県あたり。植物研究家の宣教師ユルバン・ジャン・フォーリーの死因はヤマビルらしいし、気持ち悪いので怖い。

・ツキノワグマではなくヒグマの棲息帯。クマが危険なことに変わりはないが、おそらくツキノワグマのほうが凶暴ではないかと思われる。ヒグマは(おそらくアイヌ時代以降)人間を恐れる習性が強いので、突然出くわさないように熊鈴などで注意すれば襲われる心配はあまりないはず。

・先人としてのアイヌ民族の知恵のおかげで、自然と共生しやすい。ほとんどの自生植物は利用方法が判明しており、美味しい山菜も豊富。また入林許可を取れば、広大な国有林で山菜採りが可能。私有地の山だから進入禁止というケースが少ない。

・国外も含めれば、北欧の森など魅力的なロケーションは他にも多くあるが、北欧は高緯度すぎて日没時間の変動が激しい。道北でも夏至付近は21時前まで明るく、冬至付近は16時で暗いが、これ以上極端だと過ごしにくいと思う。

・上にも書いたが、北海道のうち道北は観光地がなく、旭川以北は人がほとんどこないので、森や滝や川を独り占めして楽しみやすい。人が少ない上に、わざわざ来る旅行者はアウトドアな人が多いので、車を道路脇に停めて森や川で自然観察していても、さほど怪しまれないと思う。

そして、道北の住人になる

二度目の旅行から帰宅したときも、リバウンド的な体調悪化は起こりました。しかし、前回の経験から一時的なものだとわかっていたので、ひたすら辛抱して乗り越えました。

そうこうしているうちに、ついに入居募集の結果が出て、見事に当選しました。晴れてわたしは道北の住人になることになりました。

引っ越しにあたっては、数年前にも一度、通院の関係で東京に引っ越していたので、かなり持ち物がシンプルになっていて整理できていました。

さすがに北海道の果てまで引っ越すのは費用がかかりましたが、札幌に本社がある運送会社の見積もりが頭一つ抜けて安かったので、そこにお願いしました。荷物の配送だけで数日かかる遠さでしたが、そのあいだは、くだんの宿泊施設に泊まりました。

引っ越しのとき不思議だったのは、東京のほうで集荷してくれた人たちは非常に不機嫌でイライラしていたのに比べ、道北についてから荷物を下ろしてくれた人たちは終始ニコニコしていたこと。

たまたまかもしれませんが、半年間住んでみて、やっぱりそんな傾向がある気がしています。道北で配送をしている人たちは気持ちに余裕があって親切な人が多いです。

入居が決まった公営住宅は、荷物を搬入する前に掃除する必要がありましたが、築20年のわりに、非常にしっかりした構造でした。バリアフリー、ペアガラスの二重窓、断熱がぎっしり詰まった木目の壁、強力なボイラー、庭も物置も車庫もある。正直なところ、今まで住んだ都会のどの家より立派でした。しかも家賃が10分の1 !

引っ越す前、地元の人に「何を持ってきたらいい?」と尋ねると、「引っ越してきてから買いそろえたほうがいい」と言われました。本州とは生活が全然違うので、引っ越してから必要なものをたくさん買う必要がありました。

来たる豪雪の冬に備えて、まずはFF式ストーブ(強制給排気式のこと)を買いに行き、業者に取り付けてもらい、除雪道具一式をそろえて使い方を覚え、寒冷地仕様の自動車や自転車を手に入れ、雪の上を歩いても滑らないスノーブーツを買ってきて…。もはや日本語の通じる外国みたいなものです。

でも、わたしは元気でした。東京だと常時寝たきりに近い生活でしたが、こちらに来てからは毎日出づっぱり。運転免許取得にも通いました。健康な人と比べたら、まだまだ体力は少ないですが、以前の自分と比べたら雲泥の差です。自分でも信じられません。

わたしの体力の変化をお金に例えて言えば、生活保護レベルで生活していたのが、そこそこのパートタイマーの予算で生活できるようになったようなものでしょうか。かつては雀の涙だったのが、今はそれなりにある。

かつてほど枯渇しているわけではない。でも余裕があるほど多いわけでもない。この増えたぶんの体力をどう配分するか、バランスを取ることを学ぶ必要がありました。それでも、まったく動けない死んだような生活より、ちょっとやりすぎて休むような今の生活のほうがよほどましです。

その後の出来事については、このサイトの体験記であれこれ書いてきたとおりです。

凍てついた道をサイクリングし、夜の森をスノーシューで登って、シラカバのたき火のもとスーパームーンを見て、山菜採りに行って森の幸を味わいました。今までの人生でこんなに大自然に浸ったことはありません。

「発達障害」という概念を超えた先に

引っ越してきてから半年、わたしは大勢の人たちと知り合いました。

もともと、自然科学の本を読んで、医学に疑問を抱いていたわたしですが、ここに来てから、「発達障害」という概念の正当性をより強く疑うようになりました。

都会に住んでいるときは、発達障害という疾患が存在することは疑いようのない事実に思えました。発達障害の人たちは間違いなく生きづらさを抱えていて、どうしても治療が必要でした。

しかし発達障害は、人類史の長きにわたって存在しない概念でした。産業革命以降に現れはじめ、20世紀の終わりに、突然、社会現象になり、今日に至っています。

わたしが読んだ自然科学の本では、発達障害は概日リズム睡眠障害と同じく、人類が自然から離れ、都市に居住することで存在するようになった症候群だとされていました。

たとえばリチャード・ルーブはあなたの子どもには自然が足りないにこう書いています。

自然セラピーがADHDの症状を緩和させることが真実だとすると、その逆も言えるかもしれない。

つまり、ADHDは自然との接触を欠くことで悪化させられた一連の症状なのではないだろうか。

薬物療法の恩恵を受けている子供たちはたしかに少なくないかもしれないが、本当の障害は、子供たちの中にあるというよりは、むしろ人工的な環境で暮らすことを余儀なくされていることにある。(p120)

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、都会の人口が田舎の人口を上回ったのは、ごく最近です。そのとき、人類史上はじめて、わたしたちホモ・サピエンスという種の生息環境の定義が更新されました。

2008年、人類は生息環境に関して重大な決断をくだし、いわば一線を越えた。人類史上初めて、都市部に暮らす人の数が過半数を越えたのだ。

ある人類学者は人類に「都市(メトロ)サピエンス」と命名した。わたしたちは実際にそんな種になりつつあるのかもしれない。(p320)

歴史でゲルマン民族の大移動を習ったことを覚えている人がいるかもしれません。現代の人類はもっと世界規模で、都市に向かって大移動しています。そして、その大移動が活発になった時期と、発達障害ブームになっている時期は一致しています。

かつて、人間が自然界と共に暮らしていたころ、発達障害なんて概念は存在しませんでした。けれども、人工的な環境で暮らし始めると、一部の敏感な子どもたちが過剰な刺激に不適応を起こすようになりました。こうして、発達障害という概念が社会に必要とされはじめました。

道北に引っ越してきた今、たぶんこの見方が正しいのだろうと思っています。

たとえば、コケや地衣類は、環境汚染にとても敏感です。日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめ によると、「地衣類は科学者に空気の質を測るのに使われるほど大気の汚染に敏感で、地衣類がびっしりついていたなら、どんなに深呼吸しても安心だ」とのこと。(p51)

だからここ道北では、色とりどりの多様性に満ちたコケと地衣類が観察できます。

 

しかし、汚染が多い都市部に近づくにつれて種類が減ります。汚染が激しい都市部では、コケだとヤノウエノアカゴケやスギゴケ、地衣類だとチャシブゴケ科のLecanora muralisなど、ほんの一部の汚染に強い種しかみられなくなります。

これを人間に置き換えると、こうなります。

自然豊かな場所だと、多様な神経系をもった個性豊かな人たちがのびのびと暮らしている。しかし都会に近づくにつれ、不適応を起こす人が多くなる。

都会の中心部では、ごみごみした環境でも生きられる「都市(メトロ)サピエンス」という種以外はまともに生活できなくなる。適応できなかった種は障害扱いされてしまう。こうして発達障害という概念が“作られた”。

わたしは人間観察が趣味です。そして医学系の本もけっこう読んだ。だから、人間のタイプを判別することにかけては、そこそこ自信をもっていました。

都会では、いわゆる「定型発達」と呼ばれる、鈍感、集団的、個性が薄く、悪い意味で量産型みたいな人が多いと感じました。そして、個性的だけど生きづらさを感じている、ADHDやアスペルガー系の人もいました。よく観察すれば、だいたい何のタイプか確定できました。

しかし、引っ越してくると、それが通用しない!  こちらでも、定型発達っぽい人もいれば、発達障害っぽい人もいます。でも、区別できるほど境目がはっきりしておらず、一人ひとりがもっと多面的傾向を持っているように思えました。

定型っぽい人は、定型の悪いところである無個性さが少ない。発達障害っぽい人は発達障害の悪いところである協調性のなさが少ない。都会の人たちのように白黒はっきりしていない。

都会ではかなりはっきりと、健常者の定型発達、障害者の発達障害、という区別が観察できました。それはちょうど、一本のモノサシで測るかのよう。左端は健常、右端は障害で、その中間に、一直線上にさまざまな人が並んでいる。

しかし自然豊かなここでは、もっと個性に多様性があって、ステレオタイプに分けることができない。モノサシというよりは円形の色相環のような感じ。多様な色が分布しているけれど、どれが良くて、どれが悪いといった優劣はない。

これは、医学というより、生物学の観点からみれば、うまく説明できます。

ある地域でははっきりわかる種の違いが、別の地域ではあいまいになるなんて、よくあることじゃないですか。ダーウィンはガラパゴス諸島で特殊な動物たちの生態を観察した。でもそれはその狭い島々の中だけに当てはまるものでした。

わたしは、定型発達と発達障害の区別は、都会という限定された地域や、20世紀から21世紀にかけて作られた独特の生息環境のみで観察される、ホモ・サピエンスの生態ではないか、と思うわけです。

日本のガラパゴス化ならぬ、都市環境のガラパゴス化、あるいは人類史におけるガラパゴス時代が生じているのではないか。

さっきも書いたけれど、もし自然と調和していたネイティブ・アメリカンや、アイヌや、アボリジニなどの部族の中に行って調査してみたら、現代社会で使われている発達障害の尺度なんてぜんぜん役に立たなくなってしまうのでは? と思います。

個人的に、発達障害の概念ととてもよく似ていると思うのが、異常巻アンモナイトについての研究です。

アンモナイトというと、あの黄金比のきれいな螺旋の渦巻きを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、発掘される化石には、とても奇妙で曲がりくねった殻のアンモナイトがけっこういるらしい。道北の中川町の博物館に、そんな異常巻アンモナイトの化石がたくさん展示されていました。

学者たちは、最初のうち、これらは「異常」だと考えた。だから「異常巻アンモナイト」と名付けられた。ところがどうもそうではなさそうだとわかってきた。

このニッポニテスをはじめとする異常巻アンモナイトは進化末期の奇形であるという考え方が長い間あった。

しかし、現在ではその不規則に見える殻形態は、むしろ様々な生活環境や生活様式への巧みな適応であると考えられ、進化の成功者であると捉えることもできる。

化石を発掘した学者たちは、アンモナイトの多様な殻を見て、これは正常、これは異常と分類しましたが、アンモナイトが生きていた古代には、そんな区別は存在しなかったわけです。ただ多様な適応があるだけでした。

発達障害という概念は、異常巻と同じだとわたしは思います。本来、ホモ・サピエンスは、地上のさまざまな自然環境に適応する必要があったので、アンモナイトと同じく、多様な遺伝的形態が出現したはずです。

ところが、前世紀ごろから、突然、みんなが都市に一極集中して、画一的な義務教育を受けるようになった。すると、多様な遺伝的形質をもつ個体の多くは適応障害を起こすようになった。そして、異常巻と同じように発達障害とみなされ、奇形扱いされるようになってしまった。

けれども、異常巻が、本当は様々な自然環境に巧みに適応して発達した種だとわかってきたように、いま都会で障害とみなされている子どもたちも、本来は多様な環境に適した遺伝子をもった子たちじゃないんだろうか。

それはちょうど、アイヌやアボリジニやネイティブ・アメリカンの人を現代社会に連れてきたら適応障害を起こしてしまうようなもの。そうした民族の人たちは多様性を持っているだけで障害者ではないのに。

いま現代社会に適応できないというだけで障害扱いされてしまっているのは、それと似た感性を持った子どもたち。

でも、もし自分の特性に適した環境に住むようになれば、障害者ではなく成功者になれるはずなのだ。そうアンモナイトは教えてくれています。

ここでもやっぱり、医学だけで考えたらだめです。生物学や自然科学の知識が必要です。

わたしたちは人間である以前に動物であり、コケやアンモナイトと同じ生き物です。人間もまた自然界の構成要素の一部なので、真実を明らかにするのは博物学なのです。

わたしの居場所は、ここにある

誤解なきように書いておくと、わたしは自分の決定が単なる転地療養だとは思っていません。この記事は、「田舎に引っ越して環境がよくなったから良くなった」という趣旨で書いたわけではありません。

田舎に住んでいても、重いうつ病だったり、慢性疲労症候群だったり、発達障害だったりする人はたくさんいます。そんな単純な話のつもりではありません。

環境を変えることはもちろん大切です。でも、それだけでなく、本当の意味で自然と共に生きることのほうが、もった大切だと思っています。

たとえば、概日リズム睡眠障害の例が一番わかりやすいと思います。都会でも田舎でも、概日リズム睡眠障害の人はいます。なぜなら、今や、世界中どこでも、電灯やデジタル機器が普及しているからです。

だけど、もし光害がまったくない辺鄙な場所で、アウトドア生活をすれば、最も重症とされる概日リズム睡眠障害でも改善するはずです。別の記事で書いたとおり、それを示唆する研究があります。

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産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

都会に住んでいるか、田舎に住んでいるかという以上の、ライフスタイルの違いが必要です。言い換えると、たとえ田舎に住んでいても、自然と共に暮らそうとしないなら、何の意味もない、ということです。

道北に引っ越してきてよくわかりますが、こんな自然の多いところでも、自然に親しんで、五感すべてを使って生きている人なんて、めったにいません。みんな家でテレビばかり見て、自動車に乗って、草花や鳥の名も知らず生きています。

そうした生活をしているなら、都会に住んでいようが、田舎に住んでいようが、ほとんど何も変わりません。ライフスタイルとしてはほぼ同じだからです。

わたしにとって役立ったのは、ただ環境を変えたことではなく、自然豊かな環境の中で、感覚的な体験を日々実感できるようになったことです。

ただ自然豊かな場所に住んでいるのではなく、その中で、五感をオープンにするよう努め、真剣にマインドフルネスに取り組んでいるからこそ、体調がよくなってきたと考えています。

はっきり言いますが、道北に引っ越してきてから知り合った人のうち、全身の感覚を使って自然を感じ取ろうと努力している人を、わたしは一人も知りません。

引っ越してきて日も浅いわたしのほうが、ここで生まれ育った大半の人より、動植物の名前をよく知っています。わたしのほうが大半の人より鋭敏に自然の兆候に気づけます。

この現代社会では、たとえ道北のような自然豊かな場所で生まれようと、ネットの世界に引きこもったり、車で移動してばかりだったり、自然について何も知らないまま大人になったりすることはありふれています。

自然の中で生まれ育っても、身の回りの美しいものにまったく関心がなく、何も気づかない人が大勢います。感じる力が鈍くなっているからです。

わたしが目指しているのは、こうした文明が登場する以前の人たちの生き方、感じ方です。自然の兆候に敏感であることが生死を分けた時代の人たちは、もっと自然界のことを詳しく、親しく知っていました。

その当時の人のような感覚の使い方をして、自然界のリズムや息吹を感じ取れるようであれば、近代以降に蔓延しはじめた様々な現代病は和らぐとわたしは考えているわけです。

幼い時期の逆境体験で脳の神経回路が変化してしまうとか、腸内細菌のマイクロバイオームは3歳頃までにおおよそ決まってしまうといった、取り返しのつかない要素もあるので、完全に回復するとはいいません。

でも、症状は和らぐはずです。都会で暮らしている病気の人は、怪我をしている上に、さらに重荷を背負っているようなものです。

環境を変えて、豊かな自然に親しめば、少なくとも重荷を取り除くことはできます。もし怪我が完治しなくても、重荷がなくなったぶん楽になるはずです。

多くの出会いのうち、とりわけ印象に残っているのは、こっちに引っ越してきてすぐ、たまたま隣の座席に座ったことがきっかけで知り合った人です。その人は、わたしより半年ほど前に、佐賀県から道北に移住してきた人でした。

子どものころからアトピー性皮膚炎に悩まされ、ずっとステロイド剤を服用していたそうです。しかし次第に効かなくなって、思い切ってやめたところ、症状がひどく悪化し、ほぼ寝たきりになってしまったとのこと。わたしがADHDの薬コンサータをやめた経緯にそっくりです。

もうどうしようもなくなったとき、その人は豊富温泉の存在を知りました。道北の最果てにある世にも珍しい石油質の温泉です。アトピー性皮膚炎や乾癬にとても効果があることが知られていて、世界中から湯治客が来るらしい。

追い詰められたその人は、一縷の望みをかけて、豊富町まで旅行しました。すると、ちょっと滞在しただけで、とても体調がよくなるのを実感。すぐ移住を考え始め、仕事や公営住宅を確保したそうです。

病名が違うだけで、何から何までわたしとそっくり。引っ越してすぐ、こんな出会いがあったことにとても元気づけられました。わたしは追い詰められて、もうどうしようなくて、一念発起して道北まで移住してきた。でもそんな決定をしたのは自分だけじゃないんだ。

お互いに、初めての冬を越した後、この春に再会しました。その人はとても元気になっていました。もう温泉に毎日浸からなくてもいいほどだそう。この一年間、温泉の泉質だけでなく、道北の自然豊かな環境や、温かい人間関係が助けになった、と話してくれました。

その人に招かれて、わたしも日本最北の温泉郷である豊富温泉に行ってきました。独特ながら、とても気持ちのいい温泉でした。湯治用のお風呂は、39℃くらいのぬるめに設定してあって、一日中でも入っていられそうなほど気持ちいい。

脱衣場には、「低温サウナ」なる部屋が設置してありましたが、実はこれ、うちの主治医の病院にもありました。慢性疲労症候群の子どもの自律神経失調の治療に使われています。

わたしの体験から言って、不登校とか概日リズム睡眠障害とか慢性疲労症候群を治したかったら、都会の病院に入院する代わりに、いっそ道北まで湯治にやってきて、温泉につかって、大自然の中を散歩して、真っ暗な夜で星空を見上げたらいいと思います。そうすればきっと、入院するよりもはるかに元気になるでしょうから。

と、わたしが偉そうに言うまでもなく、三池輝久先生がはるか昔に、フクロウ症候群を克服する―不登校児の生体リズム障害にこう書いていました。

しばらく温泉にでも行ってのんびりとした気持ちになることです。あるいは料理学校にでも行って自活の準備をするか、海外に出かけていってフーテンでもするか、そんなようなことを考えてみてください。

フクロウ症候群 [慢性疲労症候群に伴う概日リズム睡眠障害のこと]はあなたの生きるためのエネルギーが一度ガクンと低下した状態を意味します。

いわば生命の炎が半分消えかかった状態を意味します。もしあなたが野生の草原に住む動物であるとしたらとっくにライオンに食われてしまっていることでしょう。

そのような目に遭ったことを脳が覚えています。草原に戻っていくことに知らず知らずのうちの恐怖感があってもおかしくないのです。徐々に時間をかけてその恐怖心を取り除き、ゆっくり体力を回復する時間が必要です。

…自然と親しむことは最高です。基本的には学校や職場とは無関係な何かしらリラックスできる環境を探しましょう。(p182)

本当に、三池先生は、ぜんぶあらかじめ書いてくれていました。

わたしの状況が一種の生物的トラウマであることも、安心できる居場所を探す必要があることも。その答えが大自然や遠くの地にあるかもしれない、ということさえも。

ただし、三池先生のオススメは沖縄だったみたいですが(笑)

「民泊に効果期待」 不登校研究の三池名誉教授 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

三池名誉教授は「生きる力が落ちている不登校の子どもたちに『自然』の力が大きく影響を及ぼすのではないか。……生きる力を取り戻せる有効性がある場所になる」などと期待を寄せた。

わたしがまわり道したのは、先生のアドバイスの価値がわかっていなかったから、また実践する方法も知らなかったからです。

あまりに感覚が麻痺してしまっていたから、ボディワークのセラピーを受けて「感じること」のトレーニングをするまで、自然を感じるという当たり前のことができなくなっていたという理由もありました。

それに、今までどおりの場所で暮らし、学校や社会という同じ枠組みの中にとどまり、毎月繰り返し病院に行って、薬物療法を試しつづける、というやり方のほうが楽です。だから大多数の人はずっとそうやって時間を浪費してしまいます。

でも、先生は自分から出かけて「学校や職場とは無関係な何かしらリラックスできる環境を探」すよう勧めていました。それがたとえ遠い辺境や異国の地であったとしても。

エネルギー生産性が低下している状態はたしかに後遺症として引きつづいていくように思われます。しかし、明らかにこの状態が改善してしまう状況が一つあるのです。

環境が脳を変えるお話は前にしましたが、じっさい、環境を変えることは大変重要な意味をもっています。(p187)

わたしは今になってそれが真実だとわかります。原因が生まれ持った敏感さや、学校での慢性的ストレス、都市環境からくる絶え間ない刺激であるならなおのこと。

ここ道北には、ほかにも、化学物質過敏症や電磁波過敏症などの、いわゆる環境過敏症の人たちも療養に来ていると聞きます。無農薬や減農薬栽培に関心をもって取り組んでいる農家や酪農家、ハーブ園の人たちなども、しばしば見かけます。

公害がまったく無いわけではないし、環境に無頓着な人もいますが、都会よりはよほどましだと思います。自然豊かなところで子育てがしたくて都会から引っ越してくる家族も大勢います。

わたしは今、やっぱりここに来てよかった、と思っています。学生時代に不登校になって、長年病気と闘って大変だったけど、回り道もしたけれど、やっと自分のいるべき場所を見つけました。

ずっとこの町にいるかはわかりません。道北といっても今住んでいるところは文明と自然の境界であり、まだ「自然が足りない」と思うことがあるので。本音を言えばゲル生活とか、イグルー造りながら冒険とかしたいです。

でも、今のわたしの生活力ではここが限度なのも事実。ことによればまた引っ越すこともあるかもしれないが、それがいつかはわからない。

だけど、ひとつのことは決まっています。わたしはもう都市には戻らない。たとえ引っ越すとしても次に目指すのはまた自然豊かな場所でしょう。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、シンガポールの南洋理工大学の霊長類学者マイケル・ガマートは、大都市に住む人類は「自覚しないまま、自分で自分を家畜化している」と言いました。(p323)

わたしも動物園で生まれ育ったようなものでした。でも、もう自分が檻の中にいたことに気づいて、そこから逃げ出すことができた。サバンナやジャングルのような、生き物が生きる本来の世界を知ったのだから、二度と檻の中には戻りません。

あまりに追い詰められて、初めて旅行に来たのが去年の7月。引っ越したのが10月末で、今は6月。思えば激動の一年でしたが、すばらしい一年でした。

今、わたしの居場所はここ、道北の大自然とともにあります。

▼その後のエピソード
さらに歳月が経過した後の変化など。

「生ける屍」だった私が「生きる喜び」を取り戻すまでー大自然と暮らした3年間にどう変わったか
道北に引っ越してから、この3年間、症状はどう変わったか、かつて身体志向のセラピーを受けたことは、どう役立ってきたか、自然と親しむことは、いかにして生きる喜びにつながったか、という点
投稿日2019.06.21