あなたはミスをするのが好きですか?
わたしもそうですが、ミスをするなんてとんでもない、できれば失敗したくない、失敗しないように注意している、石橋を叩いて渡っている、そんな慎重な人は多いと思います。
ミスをするのは できるかぎり避けたいですし、可能なら少ないミスで成功体験を味わいたい、と思うのは、ごくふつうのことです。
でも、それで本当にうまくいくのでしょうか?
わたしが好きな作家さんである、ダニエル・タメットの本、ぼくと数字のふしぎな世界に、こんなおもしろいエピソードがありました。
人間は、曲がった材木から作られている(訳注:カントの言葉)。
これはチェスプレイヤーにもあてはまる。初心者(パツァーと呼ばれている)は、ミスをするとすぐさま ぼろがでる。あまりにも早めにクイーンを動かし、あまりにも多くの駒をさっさと交換し、ポーンの配置がスイスチーズのように穴だらけにする動かし方をする。
しかし、これは量より質の問題に属する。初心者が負けるのはミスをたくさん犯すからではなく、あまり犯さないからだ―つまり、ほんのわずかの大失敗を犯すだけで終わってしまう。(p240)
彼が言うところによれば、「初心者が負けるのはミスをたくさん犯すからではなく、あまり犯さないから」です。
彼はこの法則を、チェスプレイヤーだけでなく、画家や小説家にも当てはめています。
勝利に繋がるミスは、早合点や不注意や臆病から生まれるのではない。それと関係なく起きる。
画家が間違った場所に色をつけたり、作家が書き間違ったりして、絵や文章に思いがけない効果が生まれるのと似ているかもしれない。(p236)
初心者よりプロのほうがたくさんミスをしている、とはどういうことでしょうか。
クリエイティブな活動においてミスをすることは悪いことではなく、仕方のないことでもなく、むしろ歓迎すべきことである、という心理学の実験結果を紹介しつつ、わたしも苦手な「失敗」や「ミス」について考えてみたいと思います。
もくじ
「沼地からカバを引きずり出す」
一般にわたしたちは、「下手な人ほどミスをする」「上手くなればなるほどミスが減る」と思いがちです。
けれども、冒頭で引用したように、チェスのプレイヤーや画家や作家といったクリエイティブな発想がものを言う人たちの場合、かえって初心者ほどミスを犯さず、プロフェッショナルほどミスを歓迎するという不思議なパラドックスが見られます。
この本では、具体的な例として、チェスの王者ミハイル・タリの、なかなか奇抜なエピソードが引き合いに出されています。
リガの魔術師と呼ばれたソビエトのチャンピオン、ミハイル・タリほど個性的なグランドマスターはいなかったとぼくは思う。名局と賞賛された試合は相当な数にのぼる。
最強のときのタリの試合からは、無頓着とも言える大胆さが見て取れる。彼はいつも戦いを好んで複雑な状況を呼び寄せた。
厄介な状況を好む自分の性向について、彼はこう語っている。
「相手を深くて暗い森の奥に引きずりこまなければならない。それは2+2が5になる森であり、外へ出るための道はひとり分の幅しかないのだ」(p21)
チェスプレイヤーの頂点に立ったミハイル・タリの戦術は、コンピュータのような正確無比な駒運びではありませんでした。まったくその逆、なんと2+2が5になるような、定石が通用しない複雑な状況へと相手を引きずり込むことだったのです。
続けて引用されている逸話は、タリが「相手を深くて暗い森の奥に引きずり」こむとはどういうことか、これでもかと鮮烈に物語っています。
ソ連の選手権でグランドマスターのワシコフと対戦したときのこと。危険極まりない試合運びの挙げ句、ふたりは非常に複雑な局面に入った。
タリは次の一手を動かすまで長いあいだ ためらっていた。…そのときいきなり、どこからともなく詩人コルネイ・チェコフスキーが子供のために書いた詩の、愉快な一節が心の中に浮かんだ。
「ああ、なんて難儀な仕事だろう。沼地からカバを引きずり出すのは」
…観客と記者たちが見守る中、タリはカバを救い出す方法について考え続けた。ジャッキ、梃子、ヘリコプター、「縄梯子はどうだ」。しかしどんな手段も役に立たない。「仕方がない、溺れさせるしかないな」。
…翌朝、新聞はこう報じた。「ミハイル・タリは、40分に及ぶ長考の末に、正確無比な計算をして駒を犠牲にした」。(p242)
もはや何の話なのか、ちんぷんかんぷんなほど混沌としたエピソードですが、カバの保護プロジェクトの話ではありません。れっきとしたチェスの対局、それも頂上決戦のエピソードです。
いったいどうして、チェスの試合が、こんな突拍子もない連想に乗っ取られてしまったのでしょう。
それはもちろん、ミハイル・タリが、自ら好んで、相手を森の奥の沼地へと引きずり込んだから、言い換えれば、自ら進んで、定石からすれば失敗とみなされるような複雑な局面へとズカズカと踏み進んでいったからです。
タリは、このような複雑極まりない状況を「2+2が5になる森」だと表現していました。
チェスや将棋といったゲームは、よく理詰めの計算で先読みする競技だと思われがちですが、タリの戦術は、そうした常識と一線を画しています。言ってみれば、タリは、自分も相手も先読みできない泥沼へ飛び込むのを常套手段としていたわけです。
もしタリが、理詰めで高度な読み合いを展開できるコンピュータ的な局面を好んでいたとすれば王者にはなれなかったかもしれません。そうなってしまえば結局は記憶力勝負です。
その代わりに彼は、理詰めの読み合いができない、定石が通用しないような局面に相手を引きずり込むことで、お互いに経験したことのない状況に持ち込み、記憶力の戦いではなく、想像力の戦いを展開しました。
自分も相手も経験したことがない、これまで前例がないような場面を作り出せば、勝負のカギを握るのは、どちらのほうがクリエイティブかということです。
そうなればタリの独壇場でした。タリはある意味、論理演算マシーンではなく詩人でした。彼はチェスの駒の行方をひたすら先読みする代わりに、「沼地からカバを引きずり出す」方法について40分考えました。その結果たどりついた発想によって、彼は勝負に勝ちました。
クリエイティブな人はミスを進んで犯す
タリはチェスの盤面でクリエイティブな想像力を発揮した人でしたが、彼の戦術は、カンヴァスの上でも役立ちます。
とてもおもしろいことに、まったく別の本、「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86には、画家のフランシス・ベーコンのこんな言葉が載せられていました。
失敗とは何かがうまくいかなかったということだという先入観を、あなたは乗り越えなければならない。予期せぬ出来事をもっと積極的に受け入れなければ。
画家のフランシス・ベーコンの一言が、クリエイティブな人が偶然というものに対して持つ態度を言い当てている。
「すべての絵画は偶発的な事故なのだ。事故であって、事故ではない。なぜなら、事故のどの部分を残すか決めるのは画家本人だからだ」。
誰もが、仕事中に事故が起きないように気をつけて日々を暮らす。しかし、クリエイティブな人たちは、事故が起きても苛立つことなく、逆に偶然に刺激されるのだ。(p168-169)
ここで紹介されているフランシス・ベーコンの態度は、ミハイル・タリの戦術とびっくりするほど似ています。
ミハイル・タリは自ら進んで泥沼へと突入しました。フランシス・ベーコンは自ら進んで偶発的な事故に飛び込んで、予期せぬ出来事を積極的に受け入れました。
ミハイル・タリはミスを恐れるどころか、常識が通用しない場所、ミスがありふれた場所へと飛び込むことでクリエイティブな能力を発揮しました。フランシス・ベーコンは、事故を恐れず、偶然の失敗やミスを活用することで創造的な絵を描きました。
ミハイル・タリは自分も相手も予期できない沼地に入り込みましたが、長考の結果、どの駒を活かし、どの駒を犠牲にするか判断することで、勝利にたどりつきました。フランシス・ベーコンは、偶発的な事故が起きても、「事故のどの部分を残すか決める」ことによってそこから創造性を引き出しました。
この両者を比較してわかるのは、クリエイティブな人たちは、ミスを恐れたり、敬遠したりするどころか、歓迎しているということです。そして、ミスが生じてもそれを楽しみ、ミスをどう活かすか想像力を働かせることで、ミスから良いものを引き出し、凡人にはできないクリエイティブな結果を残すことができました。
こうした実例を見ると、最初に書いた常識に反するような法則が、ほんとうに存在するのだとよくわかります。
つまり、初心者はミスをあまり犯さないから初心者なのであって、上級者はミスを進んで犯すから上級者なのだということです。
ミスしない人はオリジナリティある絵を描けない
絵にしてもほかのどんな創造的な活動であっても、ミスを恐れて教科書どおりにやろうとする杓子定規な人は、それ以上 上達することがありません。
わたしの身の回りには絵を描く人が大勢います。中には、オリジナリティあふれる絵を描く人がいる反面、何年経っても、模写から抜け出せない人がいます。
模写をこよなく愛し、模写を生きがいとしている人は それでいいと思いますが、わたしが気になるのは、本当はオリジナリティのある絵を描きたいと言いながらも、「自分には才能がないから…」と模写を続けている人のことです。
そうした人たちは、この記事で考えている、ミスをあまり犯さない人によく当てはまっているように思えます。
チェスプレイヤーでいえば、教科書的な定石からそれることを恐れ、一手一手「正しい」駒運びをすることに とらわれすぎているようなものかもしれません。
オリジナリティのある絵を描けない人を見ていて思うのは、絵が下手なわけでも、ミスが多いわけでもなく、圧倒的にミスをする回数が少ないのではないか、ということです。
本当はもっとたくさん、ミスを犯せばいいのです。自分が絶対に描けないと思うもの、これまで描いたことがないもの、人に見せられないようなものを何枚も何枚も描いているうちに、オリジナリティという創造性は養われていきます。
それはちょうど、自ら好んで「深くて暗い森の奥」に飛び込み、「無頓着とも言える大胆さ」で「厄介な状況」に身を置いたミハイル・タリと同じです。タリは、ただ相手を混乱させるためにそうした状況を作り出したわけではありません。そうしたほうが、自分の創造性、オリジナリティを発揮できることを知っていたのです。
つまるところ、オリジナリティとは何でしょうか。それは教科書的な定石や、お手本どおりに書き写す整った模写の正反対の場所にあるもの、つまり2+2=5のようなミス、事故から生まれる個性なのではないでしょうか。
むろん、すべてのミスが個性的なわけではありません。頭を抱えるようなミスも数知れません。でも、定石からかけ離れたミスがなければ、いつまで経っても、何年続けていても、オリジナリティなど生まれないのです。
数々の名作を送り出してきたピクサー社長のエド・キャットムルは、その秘訣を記したピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法 という本の中でこう書いていました。
行動を起こす前にすべての動きを決める、つまり後で失敗がないよう時間をかけて慎重に計画するのがいいと思っている人は、勘違いをしている。
すでにあるものをコピーしたり繰り返したりする作業ならば計画を立てやすい。だからもし、入念で確実な計画を立てることが一番の狙いならば、得られる成果は独創性に欠けるだろう。
…一般的に言って、やり方を考えることにエネルギーを注ぎ、行動に移すのは早すぎると言っている人は、何も考えずにどんどん進める人と同じくらいの頻度で失敗している。
計画が入念すぎる人は、失敗するまでに人より時間がかかる(そしてつまずいたとき、失敗したという感情に押し潰されやすい)。
これも当然の結果だ。時間をかけて考えたぶんだけ、そのやり方に対する思い入れが強くなる。それがぬかるみの轍のように頭の中で凝り固まる。
そこから抜け出せなくなり、一番やらなくてはいけない「方向転換」が困難になる。(p161-162)
まだ一歩踏み出すのは早い、と感じてずっと同じことを続けていると、オリジナリティのあることに挑戦するチャンスを失います。
「すでにあるものをコピーしたり繰り返したりする」模写ばかりやっていると、失敗はしないかもしれませんが、「得られる成果は独創性に欠け」ます。
やがて、今までどおりの同じやり方に対する思い入れが強くなりすぎて、そこから抜け出せなくなってしまいます。
教科書どおり、定石どおり、手順通り、決められたとおり、お手本通りに、なぞったり書き写したり模写したりするということは、誰かが作った道を後追いしているだけです。基本を学ぶという意味ではそれは大切ですが、いつかは道からそれて冒険してみないと、自分だけのオリジナリティは永遠に見つけられません。
進んでミスをしようとしない限り、恐れず失敗に飛び込んでいかない限り、初心者から抜け出すことはできません。ミスを犯さない人はずっと初心者のままであり、ミスを多く犯す人ほど個性豊かなプロフェッショナルへと成長していきます。
このことをよく言い表しているのは、「勇気」の科学 〜一歩踏み出すための集中講義〜に載せられている映画作家エイドリアン・ベリッチの言葉です。
アカデミー賞ノミネート作(『ジンギス・ブルース』)で知られるドキュメンタリー映画作家のエイドリアン・ベリッチもこれを的確に表現しています。
「世の中には成功と失敗があるのでない。成功と機会があるだけだ」とベリッチは言います。
「一本の映画をつくるためには、何百時間ものファイルを撮影する。すべてのショットは作品で使われる可能性があるが、ほとんどはボツになる。それでも、編集室の床に散らばった、本編には使われなかったフィルムの山を、私は無駄な物だとは思わない。
すべてのフレームは全体的なプロセスの一部であり、重要なものだ。これらのフィルムがあるからこそ、初めて作品をつくり上げることができるのだ」。(p208)
ベリッチは、「成功と失敗」という言葉を「成功と機会」という言葉に言い換えています。
ということは、「失敗」を恐れる人は、「機会」を恐れているということになります。「失敗」をしない人は「機会」(チャンス)を逃しているということです。
そしてベリッチが言うように、一本の映画は、無数のミスショットの上に成り立っています。ミスショットは確かに本編には使われませんが、それは無駄なものではありません。
無駄なものであるどころか、「これらのフィルムがあるからこそ、初めて作品をつくり上げることができる」と彼は言います。
彼が言わんとすることは明らかです。
無数のミスショットがなければ、自分の作品を作り上げることはできないのです。
失敗を恐れてミスを犯さない人は、いつまで経っても、オリジナリティある自分の「作品をつくり上げる」ことはできない、ということになります。
「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86には、アメリカのジャズ奏者マイルス・デイヴィス のこんなエピソードが載っていました。
デイヴィスは、プレイヤーたちに向かって、録音の前に練習するなとさえ言った。冒険して新しいことを試せば、何か新鮮な発見が隠れているかもしれないからだ。
失敗を恐れないマイルス・デイヴィスと他のプレイヤーたち。だから彼らの演奏は、凡庸なジャズグループの何倍も優れているのである。
…失敗してみないということ自体が、失敗なのだ。(p354-355)
「ミスは許容するだけでは不十分だ」
失敗とは機会(チャンス)である、というエイドリアン・ベリッチの言葉からよくわかるのは、ミスとは、世間一般で思われているようなネガティブなものではないということです。それどころか、避けて通れない必要経費のような「仕方のない」ものでさえありません。
ミスはネガティブなものではない、というと、「ミスをしても大丈夫だと気楽に考えよう!」なんて通り一遍のアドバイスが思い浮かびますが、じつはそれさえも正しくありません。
「勇気」の科学 〜一歩踏み出すための集中講義〜 には、ハーバード大学の心理学者エレン・ライガーが行なった、とても考えさせられる心理学の実験結果が紹介されていました。
最初のグループには、“プレゼンの間にミスをしないように”と指示することで、「ミスは悪いことである」という条件付けを行います。
二番目のグループには“プレゼンの最中に意図的にミスをすること、ただしミスをしても問題はないので安心するように”と指示することで、「ミスをしても許される」という条件付けを行います。
三番目のグループには、“意図的にミスをすること、そのミスを活かしてプレゼンを効果的なものにすること”と指示することで、「想像力を使う」という条件付けを行います。(p224)
この実験では、これからプレゼンをする人たちを3つのグループに分けました。それぞれ、ミスをネガティブなものと考えるグループ、ミスは仕方ないものだと気楽に考えるグループ、そしてミスはプレゼンをより効果的にするチャンスだとポジティブに考えるグループです。
では、どのグループが一番よい結果を出したのでしょうか。
発表を終えた後、各グループの中で、最も快適にプレゼンを行え、自らのパフォーマンスにも満足できたと答えたのは、三番目の想像力を使ったグループでした。(p224)
一番快適にプレゼンしたのは、もちろん「ミスをしてはいけない」とネガティブになったグループではありませんでした。それどころか、「ミスは仕方ない」と割り切ったグループでもありませんでした。なんと「ミスはクリエイティブになるチャンスだ」とポジティブに考えて、進んでミスを犯し、それを活用したグループだったのです。
この結果を受けて、この本ではこう結論されています。
このエピソードから得られる教訓は、「ミスは許容するだけでは不十分だ」というものです。
その代わりに、ミスは創造性や自信、自発性の源となる、頼もしい味方だととらえるようにしましょう。(p236)
この心理学の実験結果は、これまで見てきたチェスの王者ミハイル・タリや、画家フランシス・ベーコン、そして映画監督エイドリアン・ベリッチの言葉すべてと一致しています。
もっともクリエイティブな力を発揮できるのは、ミスをしない人ではありません。単にミスを許容する人でもありません。むしろ暗い森や沼地、偶発的な事故のようなミスや失敗だらけのところに自ら進んで飛び込んでいき、ミスを歓迎してそれをどんどん活かしていく人たちなのです。
過去の有名な画家たちが、ミスを心配するより、どんどん失敗して試行錯誤することを選び、駄作を作りまくっていた、という話は前の記事でも書きました。
わたしがオリジナリティある絵を描けるようになった理由
この記事で考えたミスとは、自動車運転のミスや、安全点検のミス、経理のミスのような、他の人に重大な影響を及ぼすミスのことではありません。そうしたミスの防止策を徹底するのは大切なことです。
ここで言っているミスとは、わたしたちが恥ずかしさや思い込みのせいで、ついつい尻込みしてしまうたぐいのミスのことです。こんなことをしたら他の人にどう思われるだろうか、自分には向いていないのではないか、どうせうまくいかないんじゃないか、そんな思い込みにとらわれて、一歩踏み出すことができない失敗への恐れのことです。
このタイプの恐れに陥りやすいのは、あまり自分に自信がない人、人からの評価に敏感な人、過去に挫折体験がある人などです。加えて、マルバツ主義の学校教育に馴染んでしまった人ほど、ミスを恐れてクリエイティブでなくなってしまうかもしれません。
わたし自身がまさにそんなタイプで、失敗やミスを恐れるあまり、過度に完璧主義になってしまい。大胆にチャンスを掴み取れないことがよくありました。
今でこそオリジナリティのある絵を描いていますが、わたしの絵が変わってきたのはここ数年です。
子どものころの絵を発掘してみると、かなりオリジナリティ豊かで、自分でも驚くのですが、中学・高校生くらいになると、ほとんどまともに絵が描けなくなっていました。ひどいときは、棒人間くらいしか描けなくなっていたほどです。そのあたりのころの話は前に書きました。
思えば、わたしの足かせになっていたのは、さっき模写から上達しない人のところで書いたように、失敗を恐れるあまり、ミスを犯さないことでした。どうせ自分は下手だからうまく描けない、と決めつけてしまって、試しに絵を描いてみようと挑戦することを避けていました。
失敗を恐れてミスを避けるというのは、ある意味、プライドが高すぎるのだともいえます。ミスをする自分の姿に耐えられない、下手だと言われてしまうのに耐えられない。理想と違う自分に幻滅するのに耐えられない。
変にプライドが高いせいで、チャンスをつかみとることより、挑戦しないことのほうを選んでしまいます。
わたしが無意味なプライドから解放されたのは、皮肉にも不登校になったからでした。それまで自分が大事にしていた学校の成績とか進路をすべて失ったおかげで、失うものが何もなくなりました。最初はそれに打ちのめされましたが、そのおかげで、プライドをかなぐり捨てて、自由に何でも挑戦できるようになりました。
絵はもう描けないと思っていたけれど、ダメ元で描きたいものを描いてみよう! と挑戦してみると、やっぱり最初は思うように描けず、とてももどかしく、挫折しかけました。ほらみろ自分には才能がなかった! と落ち込みました。
でも執念深かったのか、あきらめが悪かったのか、そこでやめませんでした。何百枚もひたすら描き続けているうちに、しだいに納得できる絵が描けるようになってきました。
その過程で他の人にはない、自分だけの持ち味、絵のオリジナリティが育ってきました。今では、だれにも言っていないはずなのに、絵柄だけでリア友に特定されて、年間数人ペースでサイトがバレてしまうくらい個性的です。
結局のところ、わたしがそこそこクリエイティブになれたとすれば、そのオリジナリティの源は、ミスをたくさん犯したことにありました。ミスを少ししかしなかったときのわたしは、いつまで経っても絵の初心者でしたが、恐れずミスをするようになるとオリジナリティある絵が描けるようになってきたのでした。
それで、自分の経験に照らしてみても、この記事で考えた法則、ミスを恐れて避ける人ほど初心者から抜け出せず、ミスを進んで犯す人ほどクリエイティブになれる、というのは事実だと思います。
最後に、失敗を恐れて一歩踏み出せない人や、ミスを避けてしまう敏感な人たちに、ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)という本から、次の言葉をプレゼントしたいなと思います。
それこそたくさんの映画のテーマにもなっているが、「試してみて成功した人」のことは忘れよう。
私は、たくさんの「試したけれど失敗した人」を知っている。たしかに彼らは、大金も名誉もないかもしれない。しかし彼らは少なくとも試してよかったと思っている。
失敗したことで、自分自身について、また世の中について学び、賢くなって、今は新たな他の目標に向かって邁進している。それまで指をくわえてまわりを見ていた時よりも、ずっと確たる自信もついている。(p195)