レオナルド・ダ・ヴィンチの名画モナリザは、これまでありとあらゆる手法でその魅力の秘密が研究されてきました。その中でも、特に不思議なのが、表情の左右非対称性です。
モナリザは、明らかに顔の左側(絵の右側)を強調してこちらに向けていて、よく見るとその左側は微笑んでいるのに、向こう側の右半分はどこか複雑な表情をしています。
さらに不思議なことに、古くからの肖像画を分析すると、モナリザと同様に、女性の顔の左半分を強調した絵が、全体の7割にも上るそうです。
ロンドンの国立肖像画ギャラリーなどに展示されている一人の人物が座っている肖像画の多くを対象とした研究から、強調されているのが顔の側面で、しかもその強調の程度に性差があることが明らかになった。(MeManus & Humphrey,1973)。
男性の顔と比べて女性の顔のほうが左側が強調されていたのである(それぞれ68% 対 56%)。(p205)
どうして、女性の肖像画は、顔の左半分が強調されているのでしょうか。なぜモナリザは見る人を惹きつけるのでしょうか。芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察という本から脳の顔認識の左右差に迫ってみたいと思います。
(上図:わたしが先日レッスンで描いた肖像画も左半分を強調したものでした)
微笑みは顔の左半分に出やすい
あなたは、顔の右半分と左半分、どちらがよく笑いますか?
こんな質問をされたら、誰でも戸惑ってしまうことでしょう。顔のどちらか半分だけ笑っているような人はいませんし、わたしたちは普通、顔全体として笑っているつもりになっています。
ところが、厳密な調査によると、わたしたち人間、特に女性においては、顔の表情は左右対象ではないことがわかっているのだそうです。
たとえば、女性は男性よりも微笑を浮かべることが多い(LaFrance,Hecht,& Paluck,2003)。
微笑みは顔の右半分よりも左半分で多く、きわめて左右非対称的であることが認められている(Zaidel et al,1995a)。
人間の表情は、左右非対称であり、特に女性は、顔の左半分のほうが、表情豊かなのです。
この点についてさらに、こう説明されています。
神経心理学においては、うれしさと悲しみの表現における顔の機能的非対称性はよく知られており、いずれの場合も顔の左半側によりはっきりと表れる(Borod.1992;Borod,Haywood,& Kolf,1997)が、特に微笑は顔の左半側により強く現れる(Zaidel et al,1995a)。
特に微笑みは、顔の左半分に現われる。これは多くの実験で繰り返し示されていることだそうです。
察しのいい人は、もうこの実験結果を、冒頭で取り上げた名画モナリザと結びつけたかもしれません。
そう、モナリザは、確かに女性であり、顔の左半分が強調されていて、左半分だけ微笑みを浮かべていたのです。
脳の顔認識の左右差
なぜ微笑みは、顔の左半分に現れやすいのでしょうか。
このことに関する完全な答えは得られていませんが、一つの仮説として注目されているのは、脳の機能の左右差です。
先日の記事の中で、芸術的創造性については、脳の左右どちらの半球に特化しているわけではないことを書きました。
しかし右脳と左脳にはまったく違いがないのかというと、決してそんなことはなく、たいていの人(右利きの99%、左利きの70%)では、左脳が言語コミュニケーションにおいて優位性を持っています。
それに対し、右脳は、おもに空間認識や顔認識において優位性を持っているとされていますが、完全に役割分担しているわけでなく、あくまで「優位」であるというだけです。
しかしながら、ここで少し単純化して、左半球はコミュニケーションに、右半球は直感的な顔認識に使われることが多いと仮定してみましょう。
そうすると、人の顔を見るとき、脳の右半球と左半球はそれぞれ別々の役割を果たしている可能性があります。そのような説について、発達科学ハンドブック 8 脳の発達科学にはこう書かれています。
感情価仮説では、右半球はネガティブ表情、一方で左半球はポジティブ表情への活動が高まるといわれている。
fMRIによる研究では、怒り表情が右半球の活動を促すと示されており(Kesler-West et al.,2001)、右半球はより注意を喚起する表情の知覚に特化すると考えられている。
またポジティブ表情における左半球優位性については、ポジティブ表情はネガティブ表情に比べよりコミュニケーションを促すため、言語野の属する左半球で処理されると考えられている。
つまり、幸せな人の顔を見ると、より話しかけたくなるために、左半球の活動を誘発するのである。(p181)
この仮説によると、脳の左半球は、コミュニケーションを司っているので、ポジティブな表情に注目し、脳の右半球は、注意を要する表情の認識に関係しているのではないか、とされています。
なぜ女性の顔の左半分に微笑みが多いのか
このような、右半球と左半球の顔認識の役割の違いを考えに入れると、なぜ女性の顔の左半分に微笑みが出やすいのか、という疑問の答えが見えてきます。
重要な手がかりとなるのは、「半側空間無視」という脳の障害です。
「半側空間無視」とは、脳のどちらか片方が損傷すると、その脳が対応する側の感覚を認識できなくなることです。一般的なのは、脳の右半球が損傷したときに、左側の感覚がわからなくなることです。
とても不思議なことに、半側空間無視でわからなくなる感覚には、視覚も含まれています。
右半球が損傷した半側空間無視の患者は、絵を描くときに、キャンバスの右側だけ絵を描いて、左側は白紙のままにすることがあります。食事を食べるときも、右側に盛られたものだけしか食べません。
このことからわかるのは、左半球は視野の右側を処理していて、右半球は視野の左側を処理しているということです。
つまり、わたしたちがだれかの顔を見るときには、おもに相手の顔の右半分(自分から見ると左視野に入る)は右半球で処理していて、相手の顔の左半分(自分から見ると右視野に入る)は左半球で処理していることになります。
そのことは、芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察の中でこう説明されていました。
そのため生物学的には、女性の顔の右半分から発信される情報は、観察者(生物学的に有利な立場にある男性)の顔の処理に機能的に特殊化されている右半球によって処理されるのに対して、顔の左半分(意志の疎通のための信号を表現して伝えている)は左半球によってコミュニケーション信号の一種として処理されていることになる。(p208)
顔の左半分は、相手の左半球(ポジティブ表情などコミュニケーションを司る)に情報を送り、顔の右半分は相手の右半球(注意を要する顔の処理に関係する)に情報を送ることがわかります。
そのため、顔の左半分に微笑みなどのコミュニケーションに関係した表情が出やすいのは、人類の脳の左半球がコミュニケーションに特化していることに適応していったせいではないか?という仮説が立てられています。
しかしながら、まだ疑問は残ります。なぜ顔の左半分に微笑みなどが出る傾向は、女性のほうが強いのでしょうか。
身も蓋もない話ですが、これは、男性が「面食い」だからではないかと言われています。
心理学や文化人類学の研究によると、確かに男性は女性より、結婚相手を選ぶときに顔を重視しやすいことがわかっています。
そうすると、顔の左半分で男性に魅力を訴えかける女性のほうが、結婚し子どもを設けることが多くなり、自然選択的にそうした傾向を持つ女性たちの子孫が多くなり、傾向が受け継がれているのかもしれません。
なんともいえない複雑な気持ちになる話ですが、冒頭に挙げた肖像画の調査で、女性の肖像画の7割が顔の左側を強調されて描かれていたこともこれを裏付けているように思えます。
肖像画を描いた画家は、おそらくほとんどが男性でしょう。それらの男性は、顔の左半分に魅力的な微笑みのある女性に惹かれ、彼女らをモデルとして採用し、無意識のうちに自分が惹かれた左側を強調して描いたのではないか、と考えるなら、辻褄が合います。
モナリザはなぜ魅力的なのか
ここまで考えてきたことからすると、モナリザが多くの人を惹きつける不思議な魅力を持っているのは、脳の顔認識の左右差のせいかもしれません。
モナリザは顔の左半分(絵の右側)をこちらに傾け、微笑みを浮かべていますが、それは脳のコミュニケーションを司る左半球を刺激します。
興味深いことに、わたしたちの大半は、絵を見て美しいと感じるとき、脳の右半球より、左半球が活性化しているというデータもあります。(p197)
同時に、モナリザの顔の右半分(絵の左側)は、どこか複雑な表情をしています。これは直感的にネガティブ表情に注意する右半球を刺激します。
そうすると、全体としての印象は、コミュニケーションしやすそうな親しみ深さを感じるのに、どこか不安で陰るものを感じさせるミステリアスな女性に見えることでしょう。
これが、モナリザの魅力の正体なのかもしれません。
▽参考資料
16. モナリザの微笑 – 論文・レポート (モナリザの左右非対称性について)
▽モナリザ (クリックで画像検索に飛びます)
では、わたしたちが人物の絵を描くときも、顔の左側を強調したほうがいいのでしょうか。
これは難問です。なぜなら、画家たちは、すでに述べたとおり、女性の顔の左側を強調しがちですが、鑑賞者は逆に右側を強調された肖像画のほうを好むという実験があるからです。(p205)
つまり、確かに女性の顔の左側は、現実のコミュニケーションをする上では魅力的ですが、写真や絵になると、むしろ瞬間的な顔認識に特化した右半球に訴えかける顔の右側のほうが「一目惚れ」を生じさせるのかもしれません。
実際に、「特に美人ではないけれど、喋ってみると魅力的だ」といわれる女性や、その逆に「黙っていれば美人なのにね…」と言われる女性もいます。あくまで、女性の表情の魅力には顔の右側も左側も関係しているということでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザが魅力的なのも、単に左側の微笑みが強調されていることではなくて、むしろ右側の複雑な表情によるミステリアスさが重要な意味を持っているかもしれません。はっきり言ってしまえば、「喋ってみると魅力的」な女性と「黙っていれば美人」な女性、その両方のいいとこ取りをした現実にはありえない顔がモナリザなのではないでしょうか。
ところで実は、わたしはずっと気になっていたことがあって…自分が写った写真を後から見返すと、左側の口元だけ強く笑っていることが多いのです。
それが単なる癖なのか、それとも今回取り上げたような人類普遍の特徴なのかはわかりません。でも、こうして、人間の顔の左右非対称性と脳の機能が関係しているというのを学んで、とても興味深く思いました。
じつはこの前書いた推理小説にも早速これをトリックの一部として盛り込みましたが、本当にそううまくいくのかは分からないので、あくまでフィクションとして楽しんでいただければと思います(笑)