北海道の山菜採りで感じた生きている感覚。今まで半分死んでいたのかも

北海道に引っ越してきて楽しみにしていたことの一つが、春の山菜採りです。子どものころに本州で田舎に遊びに行ったとき、山菜採りに参加したような記憶がありますが、そのとき山菜の天ぷらがおいしかったようなおぼろげな記憶があります。

毎年山菜採りというと行方不明者が出たとか、ツキノワグマに襲われたというニュースを聞きますが、北海道の山もヒグマが出るので、素人だけで山に入るのは危ない。

だけど、今回は、地元の森林インストラクターによる山菜採りのガイドツアーがあったので、申し込んでみました。

自分だけで山に行くよりも、さまざまな植物や動物のことを教えてもらえて勉強になりましたし、昨今問題になっている山菜の乱獲に注意し、自然と共存しながら山の幸を楽しむ方法についても教えてもらえました。

今回は、森の中で撮ったさまざまな生き物の写真とともに、その体験記を書きたいと思います。

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森が「お隣さん」である幸せ

北海道に移住するにあたり、いくつか候補地はありましたが、今住んでいるこの町、この住宅がいいと思ったのは、森や山がとても身近だったからでした。

ほかの候補地、たとえば大雪山のふもとの東川町なども自然豊かで美しいところだと聞きました。なんと大雪山の雪解け水を使っているので水道代がタダ!

しかし東川町は、自治体そのものには山や森も含まれていますが、中心部の住宅街は畑に囲まれていて、森や山が遠く感じられました。都会の感覚から言えば、ものすごく近くではあるんですが森まで数kmある。そのほかの町も、似たような環境のところが多い。

それに比べると、引っ越してきたここは「森の町」として居住区のすぐそばに森があり、実際に入山しないまでも、山のふもと、森のそばを気ままにサイクリングしたりすることができます。

市民が楽しめるように手入れされた森もあって、自動車で遠くまで行かなくても、ちょっと家の外に出るだけで、気軽に森林セラピーのような体験ができるのが気に入っています。

今回、山菜採りに出かけた森も、家からわずか自転車で10分ほどのところ。都会だとちょっとコンビニに行くみたいな感覚で、豊かな生態系を楽しめるのはすばらしい。

そういえば、植物学者ロビン・ウォール・キマラーの植物と叡智の守り人に、ガマの湿地帯が、比喩的な意味で、昔の人たちにとっては生活必需品が何でもそろう「ウォルマート」だったという面白い話があったのを思い出します。

授業の前に見かけたブラッドは、まだ機嫌が悪い。私は彼を元気づけようとして、「今日は湖の向こうに買い物に行くわよ!」と言う。

たしかに、湖の反対側の町には、エンポリアム・マリーンという名の小さな店がある。辺鄙なところにあって、靴の紐やキャットフードやコーヒーフィルターやシチューの缶詰や胃薬などと並んで、あなたが必要としているまさにそのものが必ずある(ように思える)、そんな雑貨屋だ。

でも、私たちが行くのはそこではない。ガマの生えた沼はエンポリアム・マリーンと似ている点もないわけではないが、その広大さは、どちらかと言えばもっとウォルマートに似ているかもしれない。今日はその沼地で買い物だ。(p289)

現代生まれ、都会育ちのわたしたちは、生活に必要なものを手に入れるには、お金をもってスーパーやコンビニに出かけないといけないと思っている。でも、昔からそうだったわけじゃありません。

キマラーの祖先であるネイティブ・アメリカンの人たちや、ここ北海道の先住民族だったアイヌの人たちは、生活に必要なものは何だって森からもらっていました。

それも、森から搾取するのではなく、森の住人として、慎み深く敬意を払いながら、持続可能なやり方で、森の恵みを活用していました。ネイティブ・アメリカンがガマの湿地帯から、必要なものをなんでももらっていたように、

私たちの買い物用のカヌーはすでに、服やゴザや糸や住む家を作るためりガマの葉でいっぱいだ。炭水化物のエネルギーを補給する根茎はバケツに何杯分もあるし、茎の心は野菜になる。

他には何も要らないではないか? 学生たちはこうした戦利品を、自分が考えた「人間が必要とするもののリスト」と比較する。(p294)

私は以前、学生たちと私がガマで籠を編んでいるところに、モホーク族ののエルダーであり学者でもあるダリル・トンプソンが居合わせたときのことを話す。

「若い人がガマのことを勉強してくれてるのを見るとすごく嬉しいよ」と彼は言った。「ガマは俺たちに必要なものを全部くれるからね」(p305)

わたしは家から10分の森に入っても、そこにある様々な素材を、どう使ったら生活に役立つのかまったく知りません。

でも、今回の山菜採りを通して、ちょっとだけわかったことがありました。

きっと、昔の人たちにとって、森に山菜を採りにいくのは、わたしたちがコンビニにお菓子を買いに行くのと同じくらい気軽なことだったんじゃないか、ということ。

わたしが子どものころお世話になったおばあちゃんはカラフト出身でしたが、子どものころは、海岸にウニが大量に流れ着くので、おやつとして拾って食べていた、今のお寿司なんかとは比べものにならないくらいおいしかった、と言っていました。

きっとそれと同じようなものなんでしょう。だって今回教えてもらった山菜は、びっくりするほどおいしかったから。それこそ、コンビニで売っているお菓子とは比べものにならないくらい。

わたしたちが気軽に買い物に行くのと同じくらい、昔の人たちにとって、山や森に出かけるのは気軽なことだったのかもしれない。

でも、この表現は、ある意味では正しく、ある意味では的外れかもしれない。

わたしたちはスーパーやコンビニで買い物するとき、そこで働いてる人と顔見知りになって親しくなるとは限らない。でも、昔の人たちは、自然の中に“買い物”に行くだけでなく、自然の生き物たちと顔見知りの親しい関係を築いていただろうから。

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わたしたちはその昔、自然と親しんでいた。自然はいわばファーストネームで呼び合うような親しい仲間だった。

ところがいまは森にあらためて自己紹介をするために、プロの力を借りなければならない。

じきに人間同士が直接会って話をするやり方も指導員に教えてもらうようになるのかもしれない。

だって、すでに相談員から授乳の方法を教えてもらったり、ユーチューブを見てパンの焼き方を覚えたりしているのだから。(p215)

かつて人類は大自然と「ファーストネームで呼び合う仲」だった。森の恵みを採りに行くにしても、自然に敬意を払い、感謝と慎みを忘れることなく、乱獲したり破壊したりはしなかった。

それが今や、ちょっと山に入るにも、遠出したり許可をもらったり、知識のある人にガイドを頼んで教えてもらったりしなければならないほど、よそよそしい関係になってしまっています。

自然界の産物を「恵み」また「贈り物」ではなく、単なる「消費資源」としか見れなくなってしまった。

わたしもそのような社会のど真ん中で育ったので、今となっては自然とよそよそしい関係のもとにいます。だけど幸い、ここに引っ越してきてからは、森はすぐご近所さんだから、毎日のように顔を合わせることができる。

だからこそ、今回、山や森をよく知るインストラクターに連れられて、森について手取り足取り教えてもらったことで、少しは距離が縮まったような気がしました。

今はまだ引っ越してきたばかりのお隣さんの段階かもしれませんが、ファーストネームで呼び合える関係を目指そう。

森に入る注意点と3分の1ルール

森に入る前に参加者全員で集まって自己紹介。

ほとんどは地元の子ども連れでしたが、経験豊かそうな年配の方や、ゴールデンウィークということで東京のほうから遊びに来ている家族もいました。

事前に持ってくるように言われていたのは、長靴と軍手とはさみ、そしてダニが入ってくるのを防ぐため、長袖長ズボンや、ツルツルした素材の上着など。

一番いいのは、タイツのようなものを靴下の中に入れてしまって、ズボンの裾を長靴にかぶせてしまうこと。そうすれば寝転がっても大丈夫だし、冬場でも雪が入ってこないのだとか。

わたしは履きやすい長靴を持っていなくて季節外れのスノーブーツで代用したので、そこまでしっかり防備はできず。スノーシューでスーパームーン見に行ったときもそうでしたが、ちゃんと装備を買いそろえないと。

森の中には、ダニやヒル、アブなどの危険な生き物もいます。アブが飛んできたら、決して手で振り払うなどして攻撃したりはせず。静かにその場を立ち去るのかいいらしい。

また、やはり北海道の森なのでヒグマが出没しますが、大勢で話しながら入っていれば大丈夫だとのこと。熊よけの鈴を持ち歩く人も帯同。もちろん、気をつけるに越したことはありません。

準備を整えて森林公園へ向かうと、うっそうとした森の中に町が整備して切り開いた小道が続いています。平地より少し高い森の中なので、もうすぐ5月だというのに、雪があちこちに残っていて、渓流から流れてくる冷気が、まるでクーラーの風のように冷たい。

山菜採りを始める前に注意事項の説明を聞きます。

それは山菜を見つけても、全体の3分の1くらいだけ採って後は残すように、ということ。そうすれば乱獲して山菜が生えなくなってしまうことなく、毎年楽しむことができます。

この3分の1だけ採る、というやり方は、ネイティブ・アメリカンの自然観について書いてある、植物と叡智の守り人にも同じようなことが書いてありました。(確かアイヌ関連の本でも見たような気もするのだけど)

レナはスイートグラスが密集している区画をいくつも、手をつけずに通り過ぎる。

「これが私たちのやり方」と彼女が言う。

「必要な分だけもらうこと。見つけたものの半分以上は採らないように、と昔から教わってきたの」。

一本も採らないこともある。ただ草原をチェックしにここへ来て、スイートグラスの育ち具合を見るのである。

「私たちの教えはとてもしっかりしていてね。役に立たない教えは教わらないからね。

一番良く覚えとかなきゃいけないのは、私のおばあちゃんがいつも言ってたことなんだけどね。

『敬意を持って礼儀正しく草をを使えば、草はずっといなくならずに元気に育つ。世話をしなければいなくなってしまう。敬意を払わなければ私たちのもとを去ってしまう』ってね」。(p200-201)

ネイティブ・アメリカンの場合、良識ある収穫は、三分の一ではなく「半分以上採ってはいけない」というおきてでした。

しかし、この「半分以上採ってはいけない」という指示には暗黙の了解が付属していて、先にその場所で収穫した人は、近くの草を結んで、自分がもうここで収穫したというしるしを残しておくのだとか。

そうすることによって、同じ場所が何重にも収穫されるのを防ぎます。そうでないと、みながみな半分ずつ採っていったら、1/2、1/4、1/8とどんどん減っていってしまいますから。

森の中を通る帰り道に向かって草原を後にするとき、レナは通り道沿いに生えているオオアワガエリを数本束ね、その場でゆるい結び目を作る。

「こうやって、他にスイートグラスを摘みに来た人たちに、私が先にここに来たってことを教えるの」とレナが言う。

「だからもうこれ以上は摘んじゃいけないってわかるようにね。ここはいつでも良いスイートグラスが採れるよ、きちんと面倒を見てるから」(p201)

だけど、現代の日本でそんな暗黙の了解が通用するはずもなく。よほど伝統を守る価値観でもなければ、草を結んだしるしなど通じないし、そもそもそんなしるしがあることにも気づかないでしょう。

だからこその、せめてもの妥協としての三分の一になっているのかな、などと思ったりもしました。半分さえ採らず、できるだけ遠慮がちに収穫するようにと。

もっと観光が盛んな地方では、山菜の乱獲が進んで、レストランから旬の山菜を使ったメニューがなくなってしまったなんていう話もあるらしい。さすがに道北の奥地ではそんなことにはなっていませんが、対岸の火事ではないでしょう。

時には地元の人たちが乱獲して自分の家の畑に移植してしまったせいでなくなってしまうこともあるのだとか。

でも畑で作った山菜は、やっぱり“山”菜ではなく、山で採れるものほどおいしくはないらしい。動物や魚でもそうですが、人間はどうして自然のものを自分の家に持ち帰って所有したいと考えるのでしょうか。

わたしは動物は野生にいるからこそ、魚は海を泳いでいるからこそ、山菜は山で採るからこそいいものだと思うんですが。オリや水槽や庭に閉じ込めていいものとは思えません。

いよいよ山菜採り。スプリング・エフェメラルを探す

こうして準備を終えたあと、いよいよ山菜採りを始めます。

インストラクターの人が、事前に調べておいた群生地をまわり、どれが食べれる山菜なのか、またどのように収穫すればいいのか、危険な毒草との区別はどうすればいいか、といったことを教えてくれます。

最初に目に入ったのは、やっぱり「フキノトウ」。

ここ道北には、あちこち至るところに生えている雑草的な存在で、だれも採らないまま放置されていることがほとんど。

その数たるや、ぎょっと目を見張るほどで、シーズン中、毎日たらふく食べてもなくならないでしょう。

だけど、このあたりの人はフキノトウよりもっとおいしい山菜をたくさん知っているので見向きもしないのだとか(笑) それに、町の中や畑の周辺に群生しているようなフキノトウは、農薬や除草剤がかかっている可能性が高いとのこと。

だけど、この日のフキノトウは森の中に生えている山菜。せっかくだから、収穫して食べることにします。もうそこそこトウが立っていますが、つぼみ部分がのびてしまっても、茎の部分を食べると十分おいしいらしいです。

続いてよく見かけるのは、水色や紫色をしたかわいらしい花。

「エゾエンゴサク」という名前だそうです。カタクリなどと同様の、春先のはかない花「スプリング・エフェメラル」の一種。

花そのものは、町中でも見ますし、前に来たときに観察していたんですが、これもなんと、おひたしや天ぷらで食べることができるのだとか。意外でした。

ほかにも、食べるものではないけれど、やはりスプリング・エフェメラルの「アズマイチゲ」の花がそこらじゅうに咲いています。

花のまわりには、小さなアブが飛んでいて、「トラツリアブ」という名前だと教えてもらう。なんでもとてもかわいい姿をしていて、ポケモンのアブリーのモデルにもなったのだとか。

そう言われて観察してみようとしましたが、あまりに小さくて飛び回っているので、じっくり眺めたり、写真に写したりはできませんでした。

本当ならこのあたりには、同じイチリンソウ属の仲間で食べることができる「ニリンソウ」の花も咲いているらしいのですが、今年は山菜全般の成長が遅く、まだ出てきていないようでした。

ちなみに、ニリンソウは、あの有名な毒草「トリカブト」ととてもよく似ているらしい。そのトリカブトの葉っぱは、近くにありました。これがあの推理小説になくてはならない猛毒の!

トリカブトにはさまざまな種類があって、葉っぱの形もいろいろ。だから葉っぱだけでニリンソウと区別するのはけっこう難しいようです。一番いいのは咲いている花を見ること。花の形や色は全然違います。

ニリンソウとトリカブトに限らず、山菜類は、はっきりこれだと確信できるのでなければ、安易に採って食べないほうがいいそうです。また群生している場合も、ひとつひとつ確かめて採ることが大事。ニリンソウの群生の中にトリカブトがまぎれていることもありえますから。

続いては、渓流からつながる池のほうに降りていきますが…

インストラクターの人が指さして教えてくれたのは、カエルの卵ならぬ、なんとエゾサンショウウオの卵!

わたしは初めて見るものだから、どれを指しているのかすら最初はわからなかったけど、地元の子どもたちは、すぐにめざとく見つけていました。水田とかに普通に卵があったりするらしいですね。

そのエゾサンショウウオの卵がある池のほとりには、謎の黄色い花が。

じつはあらかじめ別の日に来たときも見かけていたんですが、斜面を降りたところにあるので、危なく感じて、遠巻きに眺めていただけでした。

そのせいで何の花なのか首をかしげていたのですが、それこそが、今回のメインターゲットのひとつ、ヤチブキこと「エゾノリュウキンカ」だったのです。

それにしても、地元の人たち&子どもたちの身軽なことと言ったら。前のときにわたしが躊躇した斜面を苦にせず、どんどん降りていきます。わたしも都会ではわりと身軽なほうだと言われていましたが、さすがに全然違いますね。気をつけながらも大胆に水辺へと降りていきます。

エゾノリュウキンカは、葉っぱの部分は苦いけれど、つぼみがとてもおいしいのだとか。ここに咲いている群生はもう花が開いているのと、数が少ないのとで、もっと奥まで進んでから採ることになりました。

森の奥の不思議ないきものたち

さらに森の奥へ進んでいくと、あの有名な「ギョウジャニンニク」の群生地が! だいたい地面の下に水気のあるところに生えているそうです。まだ今年は出始めなので短いですが…。

北海道に来てから、やたらと名前を聞く山菜。別名アイヌネギ。

名産品でギョウジャニンニクが配合されたパウダーが売っていたりします。なんともおいしそうな、食欲そそる香辛料みたいな扱いなので、ぜひ食べてみたかった。

ギョウジャニンニクも、イヌサフランという毒草と似ているらしいですが、このあたりにはイヌサフランは分布していないのだそう。

ギョウジャニンニクは根元が赤いのに対し、イヌサフランはそうでない。またギョウジャニンニクはその名のとおり葉をもむとニンニク臭があるので嗅ぎ分けられるらしい。ネットで見てみた感じでは葉っぱの形からしてけっこう違う感じですけれど。

むしろスズランのほうがよく似ていて見分けにくそう。調べてみたとこでは、匂いのほかに葉脈で見分けられるようです。ぜひ覚えておきたいところ。

しかしこのギョウジャニンニク、今回採る山菜のうちでも、とりわけ乱獲が問題になっている種類だそう。

というのも、数年経ってやっと葉っぱが一枚。、次の年に二枚葉、そして次の年の三枚葉になり、やっと花が咲いて繁殖するのだとか。

それで、決まりごととしては、まだ幼い一枚葉や、これから子孫を残す三枚葉のものは残しておき、二枚葉のものだけを選んで、その三分の一だけを収穫するよう言われているとのことでした。

そこまで言われるとかなり収穫しづらい。慎重に選んで、ちょっとだけいただくことにしました。自然に敬意を払うとはこういう感覚なのか、としみじみ感じ入ります。

植物と叡智の守り人に書いてあったことを思い出します。森を利用するのは、決してわたしたちだけではないのだ、ということ。

ヨーロッパから遊びに来ていた工学科の学生に会ったことがある。

…彼を収穫に連れて行ってくれたのは、昔からワイルドライスを収穫している家族だったが、感謝の印に彼は、カヌーの船べりに装着してワイルドライスをこぼさずに受け止める装置をデザインしようと申し出た。

こうすれば今より85パーセント多くワイルドライスを集められる、と説明した。

その家族は礼儀正しく説明に耳を傾けた後でこう言った。

「そうだね、そうすればもっとたくさん採れるね。でもワイルドライスは来年用の種を蒔かなきゃならん。わしらが収穫せずに残しておく分は、無駄にしているんじゃないんだよ。

ワイルドライスが好きなのは人間だけじゃない。わしらが全部採ってしまったら、鴫はここに来ると思うかね?」(p233)

山菜だって、自分の子孫を残さなければ繁殖できないし、何より、山菜を楽しみにしているのは、人間だけじゃない。

森の動物たちが食べるはずのぶんから、人間は厚かましくも少し拝借しているにすぎないのだということを覚えておかないといけない。

さらに奥に進んでいくと、また池ができていて、エゾサンショウウオの卵はもちろん、こんどこそはカエルの卵もありました。

前に雨の自然誌で読みましたが、カエルをはじめ、こうした両生類がいるというのは、良好な自然環境が残っていることのバロメーターになるらしいですね。

カエルは生物指標だと科学者は言う。カエルの健全さは、環境のよさを反映する。

カエルは水陸双方の生息場所を必要とするうえに、その皮膚は浸透性が高く、毒素を容易に吸収してしまうので、生態系の破壊を忠実に警告するのだ。(p309)

社会は、そこに生息するカエルの健康度で判断されるというフォートの言葉が正しいとすれば、私たちは厳しい裁定を下されることになる。

…1960年以降、カエルは200種近くが消え、生き残っている両生類全体の三分の一以上が、いまや絶滅の危機にある。

科学者が世界の第六次大量絶滅と呼ぶ、より大きな惨事の一部だ。(p310)

「三分の一」。ここにもこの数字が出てきましたが、広い意味で当てはめれば、人類は自然界のものを「三分の一以上穫ってはならない」というルールを侵し、自然界を持続しえないほどに破壊しつつある、といえるのではないでしょうか。

わたしたちは少なくとも、個人としてはそのルールを思いに留めておかないといけません。

さて、生い茂るクマザサなどをかき分けて水辺に行くと、見事にヤチブキ(エゾノリュウキンカ)やギョウジャニンニクが群生していました。つぼみ状態のおいしそうなものも多数あり、ここでいくらか収穫していきます。

それだけでなく、ぬかるんだ地面にはあちこちにクレソン(オランダガラシ)が生えている。米国CDCが最も栄養素密度の高い野菜に選んだとかいうあのクレソン。

スーパーで買うと高いクレソンもここでは採り放題。クレソンは外来種で、繁殖力も相当に強いので、たくさん根こそぎ採っても大丈夫だそうです。これは気兼ねなく採れる(笑)

そして、面白かったのは、このぬかるんだ地面に、なんと「ジャゴケ」(蛇苔)が生えていたこと!

コケの自然誌で読んで名前は知ってしましたが、実物を見るのは初めてで興奮しました。本当にヘビ皮みたいな表面なので、じかに見るとなかなかに衝撃的です。こんなキモカワイイ植物があるなんて!

定期的に見に来たいくらいエキゾチックな見た目のコケですが、そこそこ森の奥なので、一人ではちょっと危険かもしれない。

本当はもっと森の奥まで行けたら、図鑑でしか見たことがないようなレアな植物がたくさん見つかるんでしょうね。19世紀の探検家にあこがれます。

また、そのあたりの木々には。サルノコシカケ科と思われるキノコ(ツリガネタケ?)の姿もたくさん。移住前にこのあたりの森を見にきたときにもたくさん見かけたキノコ類ですが、いつ見ても面白いですね。サルノコシカケ類は、薬に煎じて飲む人もいるのだとか。

帰りに見かけた木には、ツタアジサイが絡みついていましたが、中には水道管みたいな太さのものがあってびっくり。ツタアジサイと言うからにはツタのイメージくらいの太さで巻き付いていくのかと思いきや、実際にはちょっとした幹の太さにまで成長するんですね。まだまだ知らないことがいっぱい。

そういえば、別の日でしたが、森の中に、「ルリホコリ」という粘菌があるのも教えてもらいました。春の雪解けの時にだけ子実体を観察できるという。

一緒にいた小学校の子どもたちが「まるでブルーベリーみたい!」とか「ブルーベリーとはなり方が違うよ!」とか言ってましたが、その発想からすごい…。都会育ちの人間はブルーベリーがなっているところさえ見たことがないものですから。

 

ほぼ日の記事では、なんだかものすごく苦労して見つけたような話が書かれていたけれど、それを自宅から自転車ですぐの森で発見して普通に観察できるというのが恐ろしい。

もっとしっかりルーペなども使って写真を撮ればよかった。こんなに珍しいものだとはつゆ知らず、ありがたみが足りていませんでした(笑) 

今回の山菜採りでは、フキノトウ、エゾエンゴサク、ギョウジャニンニク、ヤチブキ、クレソンを収穫しましたが、時期によってはほかに、ニリンソウ、タラの芽、ウドの芽なども採れるそうです。

特にタラの芽は森林組合の人たちが目をつけていて、すぐになくなってしまうほど美味なのだとか。いつかありつける日は来るのだろうか(笑)

びっくりするほどおいしかった

最後に、収穫してすぐ食べるのが一番おいしいとのことで、料理の仕方などのパンフレットをいただき、初めての山菜採りは終わりました。

帰ってからとりあえず天ぷらにして食べてみることになりましたが…

 

これは…!?

あまりにおいしくて、絶句するレベルでした。

これまでだって、何度か山菜は食べたこともあったし、スーパーで見かけたこともある。だけど、それらとは比べものにならないくらいのおいしさ。今までのイメージは何だったのか、と思うくらい。

ヤチブキのつぼみなんかはもっちりした食感で口の中でとろけるようだし、ギョウジャニンニクの天ぷらはカリッとして独特のニンニク風味がたまらない。ああ、こんな感想を書いているとまた食べたくなってきた。

わたしはグルメなほうじゃないから うまく表現できないのですが、これだったら乱獲されるのもわかるし、クマや遭難の危険を冒して毎年山菜採りに行く人がこんなに多いのもわかるというもの。

わたしはもともと病気や胃腸の不調もあり、食べるのが好きではありません。

太宰治は有名な「人間失格」の中で、(おそらく太宰自身の体験から)主人公にこう言わせていました。

自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。

へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。

わたしも同じで、三日間くらい断食してもおなかが空いた感覚がありません。子どものころから食べることは苦行だったし、生きるために仕方なく食べてきた感が強い。

だけど、北海道に引っ越してきて初めて、ただのご飯のおにぎりがおいしいとか、地元の食材で作られたソフトクリームやプリンが絶品だと感じました。

もちろん「旬のものや採れたてがおいしい」というのはよく聞くけれど、今まで何を食べても違いがわからず、たいして美味しいと感じなかったものだから、その先人の知恵を甘く見ていました。

わたしが引っ越してきたのは内陸部なのであまり海産物は身近でないのすが、お寿司があまり好きでなかった人が、オホーツク沿岸の枝幸町で、水揚げされたばかりの食材のお寿司を食べたところ、あまりにおいしくて思わずうなったという話も聞きました。わたしも生魚が苦手ですが、ちょっと興味がわきました。

それとか、ちょっと前に利尻島に住んでいた人が、その日に自分で釣ったり採ったりした食材はとても美味しかったけれど、次の日まで置いておくともうブヨブヨで食べられないと言っていた。都会に流れてくるのは、なんとかそのブヨブヨをマシにとどめようとしてあの手この手を尽くした食べ物ってことですよね。

また、北海道の地産の新鮮なものを食べて育った地元の人が、旦那さんが旅行好きなのであちこちに行くけれど、旅行先のグルメより結局ふだん食べてるもののほうがおいしいと思ってしまうとも言ってました。毎朝、畑で収穫したばかりの野菜が一番おいしい、次の日まで置いておくともう食べる気がしないとも。

最初のほうで書いたように、カラフトで育ったおばあちゃんがウニについて言っていた話ともオーバーラップする。

今まで大しておいしくないと思っていたものって、加工食品だったり保存料や添加物まみれだったりしたせいで、本物の味が失われていたんじゃないだろうか。今回の山菜のように、大自然のただなかで採ったものを収穫してすぐ食べたら、実は食べ物ってもっとおいしいのでは?

植物と叡智の守り人にも書かれているように、スーパーやコンビニで売られていたものって、実は死んだ食べ物だったのでは?

私たちが口にするものの多くは地球から無理矢理に奪ったものだ。そういう形で食物を取り上げるのは、農家にとっても、作物にとっても、また侵食されていく土壌にとっても好ましくない。

プラスチックに包まれたミイラのように売買される食べ物を、地球からの贈り物とはもはや認識しにくい。愛がお金で買えないことは誰だって知っている。(p162)

今まで半分死んでいたのかも

ここ道北の奥地まで引っ越してきた半年で、わたしがまず感じたのは、今までわたしが育ってきた都会の「自然」なんて偽物だったということでした。

都会の公園では意識して探さないと美しい景色なんてないし、たとえ何か見つけてもさしたる美しさなどない。都会の小さな自然を軽視するわけではない。それらもよく観察すればすばらしくできている。

だけどこの道北ではあらゆるものが圧倒的なスケールで美しい。わざわざ意識して美しい景色なんて探さなくても、家から一歩出て見上げるだけで毎日美しくて否応なしに感動させられます。

そもそも「感動」というのは、受動的に心を動かされるからこそ感動なんです。自分から努めて感動しようと頑張るものではない。

自然の美しさとは、意識してわざわざ探すようなものではなく、有無を言わさず「自(おの)ずから」圧倒してくるものだと知りました。今まで親しんできた都会の自然は自然などではなく、人工的な模造品にすぎなかったのだと。

これと同じことを、今回の山菜採りを通して、食べ物に対して感じました。今までわたしが食べてきたものって、実は偽物の食べ物ばかりだったのでは?

小学校のころ、偏食がひどく、好き嫌いだらけだったわたしは、いつも給食が食べられず、最後まで居残りさせられていました。「嫌いなものでもよく噛んで味わえばおいしくなる」なんて言われたけど、あんなの嘘っぱちだった。

食べ物の美味しさも努力して味わうものではないはず。おのずと美味しいと思えるものが本物です。

東京とか大阪で暮らしていると、世界中のあらゆる美味を食べれると錯覚するものです。スーパーに行けば何でも売ってる、レストランに行けばどこの国のどんな料理でもある。

でも実際食べてみると「なんだ、こんなものか」って感じるんです。「たいしたことないな」って。

だけど、それは間違っていたのかもしれない。大都市に住んでいる時点で、そこで食べるものはぜんぶ、保存料や添加物を入れて、長距離を輸送してきたものばかり。そのあいだに本当のおいしさなんて存在しなくなっているのかもしれない。

今まで食べてきたのは羊頭狗肉だったのではないだろうか。今の子どもは恵まれているなんて言われるけれど、本物の食べ物、本物の自然がないハリボテの環境で育つ子どものどこが恵まれているんだろう?

わたしもそんな環境で生まれ育ちましたが、引っ越してきてから、いい意味で期待を裏切られてばかりです。

今まで「たいしたことないな」と思っていた自然界は、畏怖の念を感じるほど美しいところでした。-20℃の真冬のあの息をのむほど美しい景色は言葉にできません。そして、この日の山菜のおいしさも。

前にも引用した気がしますが、わたしはこっちに越してきていろいろなものを体験し、自分の身体で味わうたびに、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に出てくる、初めて大自然の中にフィールドワークに参加したこの学生と同じように感じるんです。

ある日、朝の三時にトレイルを歩きはじめると、アメリカワシミミズクに遭遇した。トレイル沿いの岩礁にとまったまま、彫像のように身じろぎもしない。

金髪で、いかにも派手な女子学生のグループに交じっていそうなアメリアが、「生まれて初めて見た!」と歓声をあげた。

その前に、アメリアは同じテントに寝泊まりしている仲間に、携帯電話が欲しいと愚痴をこぼしていた。気になっている男の子からメールがくるかもしれないからだ。でもいまは、目の前の光景に夢中になっている。

「なんだか生まれ変わった気分! あたし、いままで半分死んでたのかも」(p255)

今までわたしも、半分死んでいたのかも。

大自然に囲まれた場所で、ようやく、というか初めて、生きるということを味わっている気がします。

ただ世界の景色を見て、鳥の声や風の音を聞いて、樹木やコケに触れて、四季の香りを嗅いで、大地の恵みを味わう、という生き物としてごく当たり前の「生きる」という感覚を。

もちろん、わたしみたいに、これまで半分死んでいた人間が野性を取り戻そうというのは、決して簡単ではないし、圧倒されることもある。全然体力がなくてすぐ息が上がるし、地元の子どもたちにも到底及ばないほど知識も経験もない。

この前まで慢性疲労症候群やってたわけだから、森で遊び回ると楽しいけれど、帰ったら疲れて寝てしまう。疲れを引きずるほどではないけれど、ちょっとずつ慣れていくことが大事でしょう。

だけど、一度死んだ状態から息を吹き返すというのは、それだけ大変でもありも、楽しくもあることだと思っています。美しい景色や食べ物を味わうたびに、少しずつ、自分が生きていることを感じられるようになっていくからです。

わたしはこんな美しいものや美味しいものに対して、何かお返しができるのだろうか、とよく思います。

スーパーで買い物するときや、レストランで食事するときに対価を払わないなんてことはありえません。万引きや無銭飲食をしたら捕まってしまいます。

では、それらよりはるかに美しいもの、美味しいものを味わった今、どんな対価を支払うことができるのか。感謝をどう行動で表せるのか。

植物と叡智の守り人にも書かれていましたが、答えは一人ひとり違うでしょう。

このことについて、私は以前から何人ものエルダーに尋ねてきたが、彼らの答えはさまざまだった。

そのうちの一人は、私たちの義務は感謝することだけだと言った。そして、マザー・アースが私たちに与えてくれるものにほんのわずかでも匹敵するものを、人間がお返しに贈ることができるなどという傲慢なことは考えるなと釘を刺された。

私は、そういう考え方に内在するedbesendowen(謙虚さ)を尊敬する。

でも私は、私たち人間には感謝の他にも、お返しに差し出せるものがあるような気がするのだ。レシプロシティーという哲学は概念としては美しいが、実行するのは難しい。(p306)

与えられたものに対して、どうお返しするかは、一人ひとりが頭をひねって考えねばならないことだと思います。鳥は歌い、植物は花を咲かせますが、人は考える生き物だからです。

これから、引越し後初めての夏を迎えますが、かけがえのない体験を積んで、少しでも生きている喜びを味わえたらなと思います。そして、この土地において、自分に何かできることはないのか、感謝を行動につなげられることはないか、考えていけたらと思っています。

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投稿日2019.05.06