わたしは小学生のころから、やたらとまばたきの多い子どもでした。明るい光が苦手だったり、目が疲れてしぱしぱしたり、いつも目の不快感に悩まされてきました。でも、視力はよくて斜視などもなく、眼科では原因不明でした。
本をいろいろ読んで、文章もたくさん書いているので、きっと意外に思われるでしょうが、じつは本を読むのが苦手で、一時期、失読症(ディスレクシア)らしき症状とも闘っていました。
最近、そんな長年の目の疲れや明るさ過敏、読書の苦労の原因が、「アーレンシンドローム」という光の感受性障害にあるのではないか、と気づきました。
アーレンシンドロームの人は特定の色の波長に対する感受性が強すぎて、ひどいまぶしさに悩まされたり、人一倍目が疲れたり、読書のとき文字や行を追うのが難しくなったりするそうです。
この光過敏のせいで、自分でも理由がわからないまま、学校の勉強に付いていくのが難しかったり、本を読むのがしんどかったりして、学習障害や不登校になってしまう子も多いといいます。
わたしの場合も、おそらく、この光過敏が一つの原因になって、不登校に追い込まれたのだと今になって気づきました。
アーレンシンドロームは筑波大学で検査してもらうことができ、見えやすくするレンズもフィッティングしてもらえると知って早速行ってきたので、その感想を何回かにわけて書こうと思います。
まず最初の記事では、わたしが明るさ過敏や読書困難のせいでどれだけ苦労してきて、どうやってアーレンシンドロームのことを知るに至ったのかを書きたいと思います。
実際の筑波大学に行ったときの話は続く記事にて。意外にも、わたしが書いている絵のスタイルとも大いに関係があるっぽいので、そのこともおいおい書いていこうと思います。
もくじ
わたしの光過敏の物語
まずはじめは、わたしの光過敏の物語からはじめましょう。
わたしがアーレンシンドロームという概念を知ったのは、つい数カ月前ですが、そこに至る道筋は、あまりに長く、紆余曲折を繰り返す受難の道筋だったのでした…。
小学生のころに気づいたまばたきの多さ
わたしと光過敏の、長い長い物語をさかのぼると、最初の記憶として思い出すのは、小学校高学年ごろのこと。
そのころ、自分が他のクラスメイトよりも、明らかに頻繁にまばたきをしているのに気づき始めました。
わたしは、2秒と目を開けているのが困難で、1秒に一回以上かとも思えるペースでひたすら目をしばたたかせているのに、他の人はどうやらそんなにまばたきをしていない様子。
なんでだろう、気にしすぎかな、と漠然と思っていたのですが、ある日、それほど親しくもなかったクラスメイトから、「なんでそんなにまばたきしてるの?」と直接聞かれました。そのとき、やっぱりまばたき多いのか…と思ったのが最初の記憶。
まばたきの異常な多さは、それ以降も変わらず、いまだにみんなと写真を撮ると、2回に1回は目をつぶって写ってしまうという撮影者泣かせです。
大人になってから、相手のほうからまばたきが多いと言われたことはありませんが、目が疲れやすいといった話題を持ち出すと、「まばたきが物凄く多いもんね」と言われることはよくあります。
みんな気づいてはいるけど、遠慮しているのか興味がないのか、わざわざ指摘する気にはならないということなのでしょう。
まばたきが多いというのは、ネットで調べてみると、緊張しているとか、ウソをついているといったイメージを伝えてしまう場合もあるようで、ちょっとしたコンプレックスにもなりました。たとえば緊張してポカしやすい大関稀勢の里がまばたきを頻繁にするのが有名だったり。
思い返せば、小学生のころから、夏休みなどに舟釣りに連れて行ってもらっていたのですが、なぜか当時から、サングラスを必ずかけていました。
サングラスの格好良さにあこがれていたような記憶もあるので、それが光過敏と関係しているのかどうかはわかりませんが、ことによると、無意識のうちにまぶしさを防ぐアイテムを必要としていたのかもしれません。
目の疲れに悩まされ始めた中学校時代
中学校に入ると、自分でも、どうやらまぶしさのせいで、目が疲れて、まばたきが多くなっているようだ、ということを自覚し始めます。
小学校のころからパソコンを使って小説を書いていたわたしですが、まぶしさに耐えかねて、パソコンやテレビのディスプレイには、いつもグレーの物理フィルタを貼っつけていました。
当時は今ほどパソコンもテレビも高機能ではなかったので、明るさを調節する機能がなかったり、たとえあっても最低まで輝度を落としてもまだまぶしかったり。
仕方なく、視力を保護するためとかいう名目で売られていた明るさ遮断の物理フィルターをディスプレイに両面テープで貼り付けざるを得なかったのでした。
そのころだったか、あまりに目が疲れるので、どうすればいいか調べたら、これは眼精疲労と呼ばれるものだと判明。
それで、眼精疲労に効くと宣伝されていた、キューピーコーワゴールドなどのサプリメントを飲みまくっていました。結果は当然ながら、何も変わらず。
適当に得た生半可な知識で、サプリなんかに手を出しても意味がないのは当然のこと。でも、当時はまだ、理解力も乏しい10代の学生で、テレビなどで言うことをそのまま鵜呑みにしていたのです。
…まあいい年の大人でも、テレビのバラエティ番組で得た知識を鵜呑みにして健康にいいと紹介された商品に群がったりしますが、ああいうのは何の役にも立ちません。
疲労が蓄積してぶっ倒れた高校時代
幸いわたしは勉強はできたので、有名進学校に進みましたが、じつはわたしが成績がよかったのは、少々いわくつき。
わたしは当時、学校の予習をしたり宿題をしたりするのが、カメ並みにのろかったのです。なぜかというと、問題文を読み飛ばしたり、書き写しているところがどこなのかすぐ見失ったりするから。
学校の勉強というのは、正確に暗記したり、漢字や文章を正確に書き写したりする、機械的作業が求められるもの。ところがわたしはうっかりミスが多く、見逃したり見失ったりすることが頻繁にあったので、正確さを期すにはやたらと時間がかかるかかる。
いまだに、わたしの文章は、ひとつの記事にかなりの数の誤字があったりしますが、見落としてしまって気づかないのです。書いた後、日を置いて何度となく読み返すうちに、誤字を毎度のように見つけては修正していっています。
あとで書きますが、これが実はアーレンシンドロームの症状だとはつゆ知らず。
それどころか、これが普通で当たり前、みんな同じ経験をしているのだと思っていました。
そんな時、とても仲が良くて、星のカービィマニアで、成績もかなり上位をキープしていた友人が、わたしが苦労して死にかけている予習や宿題を、わたしの3倍くらいのスピードで終わらせていることを知りました。
わたしは授業範囲にギリギリ追いすがるのに精一杯で、明け方4時まで勉強しているというのに、その友人は涼しい顔で、半年先の単元まで予習を終えているという驚きの事実。
当時は、ただその友人だけが宇宙人なのだろう、と思っていたのですが、なんのことはない、わたし一人が人の2倍も3倍も時間かかって勉強していただけなのでした。
わたしはそのころ、あまりに時間がかかるので、明け方4時まで勉強して、朝刊の入る音あたりでやっと寝て、朝遅刻寸前で学校に行って、午前中の授業で睡魔と格闘し、帰宅後疲れ果てて昼寝して、夕食に起きてからまた予習して…という惨憺たるスケジュールでした。
みんなそれくらい苦労しているものと思いきや、当時わたしのライバルで学年トップを競っていた別の友人は、普通に毎晩、十分睡眠を取っていたと後で聞きました。
こうした友人たちと自分の違いを知った当初は、わたしが真面目すぎて勉強に時間がかかっていただけなのかとも思いましたが、そもそもわたしは真面目な性格でも完璧主義者でもない。
なぜあんなに大変だったのか、ずーっとずーっと謎のままでした。
結局、わたしは、過労でナルコレプシー寸前の症状を発症し、いくら寝ても疲れが取れない過眠や、毎日のように生じる睡眠麻痺(金縛り)と悪夢で身動きがとれなくなり、不登校に追いやられてしまいました。
ところで、その当時は、パソコンの明るさ調整も、非常に極端なことをしていて、Windowsのユーザー補助機能の、コントラスト反転というのを使っていました。
これはパソコンの背景を真っ黒に、文字を白に変える視覚補助機能で、ハタから見ると、真っ黒に呪われたみたいな作業画面になるのですが、案外それが楽だったので、長いこと愛用していました。
いまでも、知り合いの自閉傾向がある年配の人が、白黒反転した画面のAndroidタブレットを使っているのを見かけます。わたしは自閉傾向はないですが、自閉圏で光過敏の人は多いので、やってることは似ているのでしょう。
不登校になってからも理由がわからない
そんなこんなで、あまりに無理がたたって死の淵をさまようことになったわたしですが、体調を崩した影響か、視覚機能の不調も劇的に悪化。
何より本がまったく読めなくなりました。それまでは、正確に読むのは苦手だったとはいっても、読書は好きで、推理小説をひたすら愛読していて、自分でも小説を書いていましたが、不登校になったときには失読症を発症。
文字の形は見えても、何が書いてあるかわからないとか、ひとつの文章の意味を理解しようと何度読み返しても、意味がつかめず、同じ場所でループするといった症状で、読解がまったく不可能に。
もともと、文章を順番に正確に読めない傾向はありました。推理小説でも、P.D.ジェイムズやコリン・デクスターなど、一段落がやたらと長くてぎっしり詰まった文章だと、どこを読んでいるのかわからなくなり延々とループして、結局最後まで読めないことがあったり。
そうした問題を抱えているところへ、さらに意味さえもわからないということになって、読書能力が破綻してしまったのでした。
文章を読もうとするだけで、目の奥が痛くなったり、目がむずむずして目を反射的に背けたくなるような謎の不快感も。さらに本以外の動くものを見るだけでも、同じような目の不快感に悩まされるように。
もともとまばたきが多いせいか、目が乾いて仕方なかったので眼科に行ったものの、異常がないどころかドライアイでさえないと言われる始末。
ゲームが好きでしたが、テレビを見たりゲームをしたりすると、ほんの五分くらい画面を見ているだけで、目が熱くなって疲れ果ててしまう。
結局原因不明でどうにもならなかったので、自分で乗り越えるしかないと思って、読書が非常に苦しい中でも、情報を得るために、少しずつ本を読むリハビリを敢行することにしました。
わたしは不思議なことに、逆境になるたびに打開策を粘り強く探して、意外な方法で克服していく人みたいです。
手探りで克服していった読み困難
とりあえず読む能力を改善しなければどうしようもないので、読書術の本から初めて、まずフォトリーディングを学びました。
これは本のページを写真のように取り入れて読むという方法で一時期話題になっていましたが、科学的にはあまり効果はないそうです。
しかし、フォトリーディングの関係で、マインドマップというノート術に出会ったのが運命の転機でした。マインドマップは、ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由 によると、一応、科学的な実験でも、効果があることが証明されているようです。(p256)
マインドマップは、文章を書かず、キーワードの単語だけを木の枝のように放射状にメモしていくノート術です。
たまーに、マインドマップ初心者や、ルールを守らない適当な実践者が、単語ではなく文章でマインドマップをかいているのを見かけますが、マインドマップの正式なルールでは、何を置いてもまず単語のみでかくように訓練されます。
わたしはそのあたりはキッチリしていて、だれかから訓練されたわけではないものの、キーワードだけを書くよう徹底。
もともと字が汚くて、書きが苦手だったわたしは、きれいなノートをとらなくても自由自在にかいていいマインドマップがすぐにお気に入りになり、読書メモもマインドマップでとるようになりました。
すると、本を読むのは、文章を読まなくても、キーワードだけを抜き出していけば、理解できることに気づきました。
今まで、本というものは前から順番に文章を丁寧に読まなければならないと思っていたのが、飛ばし読みで全体を概観するほうが理解が深まることも発見。
生真面目な人は、読書するとき、一字一句飛ばさずに丁寧に読んでいくんですが、それをやると細部の理解は深まるのに、全体の主旨がつかめていないことが多いのです。いわば「木を見て森を見ず」のようになってしまう。
ささいな表現とか、誤字脱字とか、著者の一部の主張だけに気を取られて、全体の論旨をつかめずに、どうでもいいところにこだわったり、重要でないところを批判したりしてしまう。
ところが、わたしは、マインドマップを通して、重要なキーワードだけ注目しつつ、枝葉末節は飛ばし読みして、素早く読む方法が自分に合っていることに気づきました。
もし重要なところを読み飛ばしても、本当に重要なら著者は何度も繰り返し書いているので、かえって飛ばし読みで最後まで素早く読んだほうが、全体としての著者の意見がつかみやすいのです。
その上で、気になるところにはフィルム付箋を貼って読み進めていくので、詳しく知りたい部分があれば、全体を理解したあとでその部分に戻って、細部を確かめればいい。この読書法を身につけて、わたしは読み困難を抱えたまま多読になりました。
ただしこの飛ばし読みは、実用書には効果的ですが、ストーリーを順番に追う必要がある小説にはあまり向いていないので、フィクションはあまり読まなくなりました。
本を読めば解決策が見つかる
そうやって、本をたくさん読んで、情報を仕入れることができるようになったわたしは、引き続き、自分の問題の原因を色々と探りつづけました。
目の問題を調べていて、ためしてガッテンで放送されて話題になった、信州大学の松尾先生のまぶたで健康革命―下がりまぶたを治すと体の不調が良くなる!?に書かれている 腱膜性眼瞼下垂という、まぶたが垂れ下がることによる目の疲れが自分に当てはまるのでは、と思ったことも。
わたしは目が細いので、腱膜が切れてミュラー筋とやらが引っ張られて、まぶたが垂れ下がっているというのはありえるかなーと。一度は診察予約もしかかったのですが、幸か不幸か話し中でつながらず、冷静に考えたら年齢的にありえないかと思って翻意。
そのあと、きょうの健康のテキストか何かを読んでいて、普通の検査で見逃されやすいBUT短縮型というタイプのドライアイか、軽い遠視による眼精疲労なのではないかとも思ったり。
しかしそれらを専門としている眼科で検査を受けるも、軽いドライアイ傾向はあるものの、ヒアルロン酸を点眼するくらいで大丈夫と言われてしまって、当然ながら気休めレベルの潤いにしかならず。
別の病院では、自律神経失調による、瞳孔の調節障害だとか言われることもあり、最初はそうなのかも、と思っていましたが、次第にそうではないことに気づく。
というのも、慢性的な自律神経失調の60代の友人と、ある曇った日に高層ビルに登ったときのこと。わたしが曇り空や窓ガラスに反射する光でクラクラするのに、友人はなんともない様子。
また、パーキンソン病の友人の家に行ったとき、その人が自宅の大画面のiMacで、とても高い輝度のまま、何も不自由を感じず快適に作業しまくっているのも目撃。
さらには、当時通っていた漢方病院で、内装がビタミンカラーの黄色で統一されていて、わたしは相当気分が悪くなったと先生に伝えたら、意味がわからないというような顔をされる。
その病院は西洋医学で打つ手がない重い慢性病患者が大勢通っている有名なところなので、もし自律神経失調のせいなら、わたしと同じような苦情がたくさん行ってるはずでしょう。
そして極めつけは、近年普及しだした大画面テレビ。わたしは大画面テレビの明るさで目がくらんでフラフラするので、大画面テレビを買わないどころか、テレビさえも見なくなったのですが、体調不良の慢性病患者の家でも、必ずといっていいほど大画面テレビはあるのです。
また、わたしは、パソコンのモニタは、光が反射すると見にくいので、必ずあまり人気のないノングレアを買うのですが、慢性病の人のお宅でもたいていは、見栄えがして映像がきれいだと言われるグレアの光沢バリバリのテレビが置いてありました。
明らかに、自律神経とか、体調不良のせいではないと確信しました。本当に医者というのは9割方役に立たない。医師の言うことを無批判に鵜呑みにしたら路頭に迷うだけです。もちろん今の主治医のようにとても誠実ですばらしいお医者さんもいますけれど。
そんなころ、自分は他の人とあまりに特徴が違いすぎるのでは?と思い始め、発達障害というキーワードに行き着きました。
そもそもマインドマップは特にADHD傾向のある人に役立つテクニックなのです。開発者のトニー・ブザンが典型的なADHDっぽい人物なだけあります。
そして、VOICE新書 知って良かった、大人のADHD に行き当たり、今までの自分の人生がADHDだったと気づいたとき、ADHDの人はチック症状でまばたきが多いことがあると書いてあるのを見て、そうか、これだったのか…と納得。
やがて正式にADHDの診断も下り、処方された薬も、さまざまなADHD症状に劇的に効いたので、ADHDに随伴しやすいチックのせいで、まばたきが多くなり、その摩擦で目の水分が蒸発しやすくて目が疲れるのか…と最終的な結論が見えたように思いました。
しかし…ADHDの薬を飲んで色々な症状が治まるなか、まばたきが少なくなる気配はなく。まだすべての謎が解けたわけではありませんでした。
▽ADHDの診断で色々謎が解けた話はこちら
そしてアーレンシンドロームへ
そのころから、わたしは、目の疲れの対策としては、ブルーライトとUVをほぼフルカットするレンズの、目をすっぽり覆うフレームのついたメガネを愛用するようになりました。少し黄色がかった色のカラーレンズです。
またPCやスマホは、昔と違って、明るさを調整するソフトなどが出揃ってきたので、本体機能の輝度調節をはじめ、ブルーライトカットや色温度の変更アプリで、暖色系のフィルターをかけて明るさを抑えました。
しかしそれでも、目のまばたきの多さや、明るさ過敏、眼精疲労は改善されず、チック症状なので仕方ないと諦めかけていたここ数年。
その間もせっせ読書を続けていたのですが、二ヶ月ほど前、思いがけない発見が。今年2月に発売された発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス) という本を読んでいると、こんなことが書かれてあったのです。
瞬きを頻繁にしたり、片目だけで見る行動が、感覚過敏に基づいている可能性がある。発達障害者によると、こうした行動は気分を落ち着かせるのだという。
つまりこれらの行動は、過敏すぎる感覚を無意識にコントロールしていることになるのだ。
たとえば、蛍光灯の60サイクルの点滅が、いちいち見えてしまうという。無視できないことが苦痛となっているのだ。
…中には蛍光灯の点滅が、ディスコのミラーボールの点滅のように感じると話す者もいる。
これはディスレクシアの一部であるアーレンシンドロームと呼ばれる症状の可能性が高いかもしれない。(p64-66)
アーレンシンドローム??
初めて聞く言葉でした。
ディスレクシアのことは知っていました。これは読み書き障害のことで、学習障害(LD)の一種です。スティーブン・スピルバーグとか、トム・クルーズといった有名人もディスレクシアを持っていることで有名です。
そのディスレクシアの中に、特定の色のフィルターを使って読むと改善する人がいるというということも知っていました。
ディスレクシアは知能が低いのではなく、視覚認知の問題で、文字がうまく見えないため、色フィルターなどで見やすくしてあげれば効果がある場合がある、というのは、学習障害(LD)の本には時々書かれています。
しかし、わたしはディスレクシアではないと思っていました。
確かにADHDには学習障害が伴いやすく、ディスレクシアの人にマインドマップが役立つケースはあります。でもわたしは、学習障害どころか、常にトップクラスの成績だったわけなので、読み書き障害だなんて縁がないように思えます。
ところが、ここで、ディスレクシアの一種に「アーレンシンドローム」という耳慣れないタイプがあり、しかもその人たちは、まばたきが多く光過敏であると書かれています。
さらに、蛍光灯の点滅が見えるとか。わたしはこの記述を読むまでは、見えるのが普通だと思っていました。集中していると気にならなくなりますが、意識するとミラーボールほどではないものの、点滅がはっきりわかってうっとうしくなります。
この本の著者である認知心理学者の山口真美先生の本は、前著も含め、このサイトの以下のような記事で、繰り返し参考にしています。発達障害の感覚過敏について、非常に興味深い考察が光る著者なので、このアーレンシンドロームとやらも重要な情報に違いないと直感しました。
そんなころ、絵を通して知り合った、とある学生さんと話していて、そのかたがディスレクシアを持っておられることに気づきました。そして、早速知ったばかりのアーレンシンドロームのことをお伝えしました。
それがきっかけで、自分というよりは、その学生さんに役立つかなーと思って、アーレンシンドロームについて調べてみようと決意しました。そのときはまだ、役立つ知識だろうとは思いつつも、自分のことだという自覚はほとんどなかったのです。
ネットで調べてみたところ、アーレンシンドロームについての情報は少ないものの、2013年に筑波大学の熊谷恵子先生という方が訳された、発見者のヘレン・アーレン博士のアーレンシンドローム: 「色を通して読む」光の感受性障害の理解と対応という本の邦訳が出ているのを発見。
やる気になっているうちに、早速取り寄せて読んでみることにしました。すると…
アーレンシンドロームとはまさに自分のことだった
友人の助けになるかな、と思って読み始めたアーレンシンドロームの本でしたが、次から次に明らかになる意外すぎる事実にびっくりしました。
わたしにとって、特に重要な情報だったのは、「アーレンシンドローム」イコール「学習障害」ではないということ。またさっきの本に書かれていた「ディスレクシアの一部であるアーレンシンドローム」というのも間違いだということ。
アーレンシンドロームとは、光の感受性障害のことであって、もともとの概念に、学習障害などとの関連はありません。ただ、特定の光の波長に過敏なだけなのです。
確かに、アーレンシンドロームのせいで、読み書きが難しくなり、授業についていけず、ディスレクシアや学習障害と診断される子どもは少なくないようです。
しかしアーレンシンドロームを持っていても、学校の成績がトップクラスだったり、多読だったり、学者にまでなったりしている人もまた少なくないのだとか。
そもそも最初にアーレンシンドロームの研究プロジェクトの対象になった人たちについて、こんなことが書かれていました。
研究プロジェクトに参加していた成人は、研究の対象者としての高い動機づけがある人たちばかりでした。
彼らのうち何人かはまだ思春期の13-14歳でしたが、その他は少なくとも18歳以上の成人でした。
彼らは同学年の人たちよりも、2倍も3倍も勉強していた人たちであったので、成績はトップクラスでした。
学校で勉強を続けるためには、彼らは、他の人が1時間もかけずに読めるところを3時間もかかって読まなければなりませんでした。
彼らは、勉強により多くの時間を重ねられるように、自分の勉強のやり方を工夫し、作り上げなればなりませんでした。(p18)
なんと、最初にアーレンシンドロームが見つかった人たちは、学力トップクラスの人たちだったのです。
そして、その成績を維持するために、人の二倍も三倍も時間をかけて勉強していた努力家の人たちでした。
わたしはついに答えを知りました。なぜ学生のころ、クラスメイトと同程度の成績を維持するために、朝の4時まで勉強せねばならなかったのか。なぜわたしだけ、いつも授業中に課題を終えられず、提出がギリギリになってしまっていたのか。
さらにこんな記述も。
顕著な読みの困難を抱えたSSS[※アーレンシンドロームのこと]のある人とは異なり、SSSのある人のなかでも、その症状が軽い人は、基本的には上手に読むことができます。
しかし、彼らの場合には、読みの情報処理過程に必要以上の労力を注いでいることに気づいていないかもしれません。
そうした人たちは成績もそこそこよいでしょうが、友だちよりもたくさんの時間を読書や勉強に費やしている可能性があります。
夜遅くまで起きて宿題を終えようとしていることもあるでしょう。
読書や勉強の時間を余分に取らなければならないので、友だちと過ごす時間が少なくなったり、娯楽的な活動にも本人が望むほどには長い時間参加できなかったりということもあります。(p68)
もう、なんと言ってよいのか…。
学生時代のわたしを観察して書かれたのではないかと思うほど、自分のことがそっくりそのまま書かれていて、驚くを通り越して、背筋が寒くなるような記述です。
実際には、わたしを観察したのではなく、わたしと同じような境遇の人が決して少なくないということ、つまり、なぜ人よりも苦労に苦労を重ねないと勉強ができないのか自分でも気づかず、追いつめられながら死にものぐるいで頑張り続けている不幸な学生が、今この瞬間にも大勢いる、という悲惨な現実を物語っているのです。
▽「横書き」の読み取りが困難になる (2016/09/29追記)
今日公開された眼科医の方の視覚系に問題ないのに、うまく読み書きできない…発達障害の可能性 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)という記事の中にアーレンシンドロームのことが出ていました。
私たちのグループは、学年の成績トップクラスにいる女子高生が、英語の長文問題に限ってとても手間取ってしまうという症例を提示しました。
調べると、行を間違えたり、次の行の文字列や隙間が気になるなど、縦書きの読み書きではほとんど起こらない能率低下が生じました。ある種の遮光レンズを用いると、多少改善する不思議な現象もありした。これも、一種の学習障害に分類されます。
わたしの症状がまさにこれなので、とても気になります。アーレンシンドロームについて知るずっと前の学生のころから、「横書き」の文章がひどく読みづらいことに気づいていました。「縦書き」はわりとスムーズなのですが、「横書き」になると集中できず、読んでいることが理解できなくなって何度もループしてしまうことが多いのです。
今でこそ、こうしてブログも横書きで描いていますが、読書のときは縦書きのほうが楽ですし、ブログでもスペースを開けて読みやすくしたり、カラム幅を狭くしたりして対応しています。
このような「横方向」の読みが難しいのはよくあることなのでしょうか。それとも、たまたま、わたしやこの女子高生がそうだっただけで、人によって「縦方向」が難しかったり、どちらも苦手だったりと、さまざまなケースがあるのでしょうか。それはわかりません。
「横書き」が読みにくい原因として考えられるのは、左右方向の眼球運動障害です。眼球運動はさまざまな神経や筋肉によって制御されているので、何かしらの理由によって上下方向より左右方向の運動機能に大きな影響が出てることがあるのかもしれません。
あるいは、右脳と左脳を見つけた男 – 認知神経科学の父、脳と人生を語る – を読んでいて思ったことですが、もしかすると視野の左右の統合に問題があるのかもしれません。
わたしたち人間は、左右の視野を無意識のうちに統合してひとつながりのワイドな視野であるかのように見せていますが、脳に障害を負った特殊な状況では片側の視野がバッサリ存在しなくなり、しかも本人がそれに気づかないという「半側空間無視」と呼ばれる不思議な現象が生じます。
視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書) によると、左右の眼球の情報を統合して、奥行きを知覚しているのは、脳の一次視覚野にある両眼性ニューロンと呼ばれる神経だそうです。(p192)
「半側空間無視」とまではいかなくても、もし無意識のうちに左右の視野の統合に違和感が生じているとしたら、左右に視線を動かす「横書き」の効率が悪くなったり、立体感が損なわれたりするのではないでしょうか
ではなぜ、アーレンの遮光レンズを用いるとそれ改善するのか。たとえば光過敏による情報刺激の量を減らすことで、左右の目を司る脳の左右半球が、それぞれ別々の刺激に気を取られてしまうのを防ぐ、といった効果があるのでしょうか。
もしくはこの仮定自体がまったくの見当違いで、まったく別の要因、別のメカニズムによるのでしょうか。現時点では手がかりがありません。
▽輻輳不全 (2016/11/28追記)
わたしが横方向の読みが苦手だったのは、輻輳不全(外斜位)による眼球運動障害だったと検査によってわかりました。輻輳不全は、近くを見るときに目の位置を保つのが難しい隠れ斜視です。
ディスレクシアのみならず、アーレンやADHDの人は、この輻輳不全が多いようですが、その理由は今のところわかりません。今後の調査課題です。
アーレンシンドロームは「原因」学習障害は「症状」
わたしが今に至るまで、自分の問題に気づかなかったのは、結局のところ「学習障害」とか「ディスレクシア」という診断が、いかに表面しか見ていないものであるか、ということに尽きます。
それらは、症状ないしは結果だけを見て つけられる診断名なのです。さまざまな原因によって生じる学習の問題を、症状だけ見てひっくるめてしまっているので、結局子どもがなぜ学習が難しいのかわかりませんし、同じ原因を持っていても、なんとか頑張っている人たちが見過ごされてしまいます。
こうした例は他にもたくさんあります。たとえば、岡田尊司先生の生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書) という本には『小児科医が好んでつける病名に「起立性調節障害」というのがある』と書かれています。(p25)
これは自律神経系の乱れからくる低血圧という症状に対してつけられる病名ですが、実際にはその背後にいろいろな原因があるということを見過ごしています。
続く記述で著者が苦言を呈しているように、「これは単なる随伴症状であって、問題の本体ではないので、起立性調節障害をいくら治療しても、問題は改善しないことに」なってしまいます。(p26)
大人の場合も、近年よくみられる自律神経失調や慢性疲労という病名があります。これも症状だけ診ている病名です。
原因はいろいろあるはずなのに、表面的な症状だけを見てひとくくりにしてしまっているので、結局のところ、問題があやふやになって、なぜか治る人もいれば、いつまで経っても治らない人もいるという不可思議な病名になりがちです。
もし、「症状」ではなく、「原因」を見極めることができればどうなるでしょうか。
たとえば、自律神経失調の原因が、あくまで一例ですがADHDや自閉症のような発達障害にあるケースでは、脳の特性や感覚過敏に適した環境を整えてあげれば、ストレスが減って、結果的に自律神経に負担がかかることも減って、体調がよくなってくるはずです。
同じように、学習困難の原因が、アーレンシンドロームのような光の過敏性にあるのなら、それに対処すればよいはずです。
そして何より、「症状」ではなく「原因」に着目することが大事なのは、原因があっても症状が出ないようにギリギリバランスを保っている人たちを発見できることです。
ADHDや自閉症があっても、自律神経失調症や不登校などの適応障害を起こさずに、才能として活かしている人もいます。
けれども、そのような人たちも、「症状」である適応障害は出ていなくても、「原因」である発達のでこぼこは存在しているので、涙ぐましい苦労をして、ギリギリのところで社会に適応しているかもしれません。
表に出る「症状」に注目してしまうと、「症状」が出ないようカバーしてギリギリ踏みとどまっている人たちを見過ごしてしまいますが、「原因」に注目すれば、不幸にも不適応を起こしてしまった人だけでなく、努力を尽くしてハンディキャップを補っている人たちにも助けを差し伸べられます。
同様に、学習障害やディスレクシアというのは「症状」です。アーレンシンドロームは「原因」です。
アーレンシンドロームを持つ人たちの中には、視覚の問題を乗り越えられず、学習障害やディスレクシアという「症状」が出てしまう人もいますが、中には自分なりの熾烈な努力を重ねて「症状」が出るのを食い止め、人一倍苦労して、学校の勉強に適応している人もいるのです。
もちろん、ここに挙げた例のような、「症状」に注目したアプローチが必ずしも悪いとは言いません。「症状」のほうが目につきやすく、わかりやすいので、不適応を起こして苦労している人たちが助けを求めるきっかけになりやすいからです。
しかしただ「症状」に注目して、いつまでも「原因」に目を向けるのを怠っていると、わかりやすい「症状」が出ている人たちの影で、ギリギリのところで適応して頑張っている人たちの存在がかき消されてしまうのではないでしょうか。
わたしが自分の問題に気づけなかったのは、「原因」はあるのに、独特の工夫によってそれを補い、典型的な「症状」が出ないように対処していたからでした。しかしそれでも不登校に追い込まれるほど苦しい目に遭ったので、決して問題が軽かったとはいえません。
不器用さや他の過敏性も
さらに、アーレンシンドローム: 「色を通して読む」光の感受性障害の理解と対応を読んでいて、ハッとしたのが、目の認知機能以外のところに出る症状。
たとえば、アーレンシンドロームの人はやたらと不器用なのだそうです。わたしは不器用すぎて、いまだに部屋の中のものにけつまずいたり、飲み物を入れようとしてぶちまけたりするのが日常茶飯事なのですが、最初はそれは、発達性協調運動障害(DCD)というものだと思っていました。
これは、自閉症やADHDの人に伴いやすい不器用さや運動音痴のことで、体のイメージやなめらかな動きに生まれつきハンディキャップがあるため、日常的な動作に不自由を感じやすい症状のことをいいます。
確かにそれもあるのかもしれませんが、わたしの場合はアーレンシンドロームから不器用さが来ている可能性があります。
アーレンシンドロームの人は、光過敏のせいで、目から入る情報の位置を正確に把握しにくく、ちょっと遠くにあるように見えたり、逆にちょっと近くにあるように見えたり、さらには立体感をつかむのが難しかったりして、動作に誤差が生じやすいのだそうです。
SSSのある人はまた、すべての物体が実際の距離よりも少しだけ遠くにあると認知しています。
そのため、スペースが余分にあると思ってしまい、物にはぶつからないで歩けると思っていても、テーブル、ドア、壁等によくぶつかってしまいます。(p121)
まさしくわたしがそのとおりで、主治医の先生と不器用さについて話し合っていたときに、距離感を見誤るせいでうまくいかないのだろうと説明しました。
部屋の中でけつまずくのは、見えていないわけではなく、障害物はちゃんと確認しているのに、これくらい足を上げれば当たらないだろう、という見積もりが甘いせいです。
飲み物をこぼしてしまうのも、これくらいまで入れれば大丈夫だろう、とコップの中の液体の表面を見ながら入れるのですが、どの程度まで入ってきたかという高さを見誤ってしまうことが原因です。どちらも立体感の認知に問題があるようです。
彼らは育ってきた過程のなかで、ミルクをこぼしたり、コップやバケツをひっくり返したりと、その不器用さのためにどんなにか怒鳴られてきたことでしょう。
不器用という言葉はこのような人たちにも使われているのです。実際、彼らは本当に不器用に見えます。(p121)
さらに、わたしは彫刻刀やミシンや包丁やナイフでひどい怪我をすることがよくありましたが、こんな説明もありました。
また、このような人たちには、ちょっとした大工仕事が大仕事となることがあります。
のこぎりでまっすぐに切ったり、自分の指を打たないで釘を打つためのハンマーを使ったりすることは、彼らにとっては不可能に近い作業となります。(p121)
わたしは包丁をなるべく使わない料理のスタイルを身につけましたが、どうしても使わざるを得ないときは、気を引き締めて細心の注意を払う「大仕事」になります。
そういえば、過去の記事に、学生時代に、書道の高名な先生から字が汚いのは心が澄んでいないからだとけなされた話を書きましたが、あのような仕方で、生来の不器用さをけなされている人がわたしの他にもいるのだろうと思うと忍びなくなります。
別の記事にまとめましたが、NHKの記事によると、発達性協調運動障害(DCD)の運動が苦手な不器用な子どもたちと、上の記事で取り上げたような絵が苦手な子どもたちの直面する状況はよく似ています。
どちらも、「上手い」子と比較されるので、絵にしてもスポーツにしても「上手」でなければだめなのだ、と自信をなくして、絵やスポーツを嫌いになってしまうようです。
そのほか、アーレンシンドロームの人は、視覚以外の感覚過敏も抱えやすいとされていました。以前書きましたが、わたしは聴覚過敏があって、外出時は耳栓必須なので、さもありなんといったところです。
ベースに発達障害があると、感覚の統合がうまく発達せず、複数の感覚過敏や感覚鈍麻を抱えやすく、その一つとして、アーレンシンドロームという光の感受性障害も生じるということなのでしょうか。
いざ筑波大学へ
そんないきさつで、アーレンシンドロームについて知ったわたしは、あまりに自分のことそのものだったので、びっくりして、早速、アーレンシンドロームの検査ができるという筑波大学の心理・発達教育相談室に予約を入れることにしました。
医療機関ではなく、研究機関なので、医師による正式な診察ではないのですが、相談という形で問診や検査をしてくれて、アーレンシンドロームかどうか判断し、症状を軽減するための色つきレンズのフィッティングもやってくれるのだとか。
電話で問い合わせてみたところ、近いうちに予約がとれて、それまでに問診票のようなアンケートを送るので、回答して当日持参してほしい、ということでした。
また、それまでに眼科検診に行って斜視などの生理学的な異常がないか診てもらうようにとのことでしたが、幸いわたしはついこの間行って、まったく異常がないのでヒアルロン酸でも差しておくようにとお墨付きをいただいたばかり。
そして、IQテストのような発達検査の結果もあれば、ということでしたが、それもまたADHDの診断時に受けたものがあったので、準備万端でした。
こうしていよいよ、筑波大学に行くのですが、それは次の記事にて。
アーレンシンドロームの話は一つの記事にまとめてしまおうと思って書き始めたのですが、筑波大学へ行くまでの前置きだけで、まさかこんなに長くなるとは思いもよらず。それだけ悩み続けた問題で、積もる話が多々あったということです。
実際に筑波大学に行って、面接を受けてどうだったのか、そして、わたしが描く絵との意外なつながりとは何なのか、続く記事で振り返りたいと思います。