子どものころから明るさ過敏に悩まされ、読書が難しくなったり、目の疲れに悩まされてきたわたしの問題の正体は何なのか。
前回の記事では、これまでの出来事を振り返り、その原因がもしや、アーレンシンドロームという光の感受性障害にあるのでは?と気づくまでのいきさつについて書きました。
今回は、実際に、アーレンシンドロームのスクリーニング検査のために筑波大学の発達心理学教室に行ってきた話を書きたいと思います。そこで待っていたのは、とても意外な衝撃の事実、そして、なんとわたしの絵の個性とも関係があるかもしれない、という驚きの発見でした。
もくじ
送られてきたアンケートに答える
面接の予約をとってから、すぐに送られてきたのは面接場所である筑波大学東京キャンパスへの地図と、感覚過敏についてのアンケート。
このアンケートがまた尋常ではない量で、1ページあたり50項目ほどの感覚過敏についてのチェックリストが、16ページもの分量続いているというもの。
アンケートの回答が面倒とかそんなことはなく、ただ感覚過敏ってこんなに多種多様だったのか!ということに驚きっぱなしでした。アーレンシンドロームに関わる視覚の過敏だけでなく、前庭感覚や、固有感覚、触覚、聴覚など多岐にわたる内容なのですが、中には聞いたことも想像したこともないような感覚過敏が。
たとえば「歯ブラシが唇に触れると吐きそうになる」とか、「傘をさしていると、腕と傘の区別がつかなくなる」とか「人の姿はいつも一部分だけ浮遊しており完全ではない」とか、本当に色々。
でも、そういえば、ドナ・ウィリアムズの自閉症だったわたしへ や続編のドナの結婚―自閉症だったわたしへ の中で、そうした感覚の問題について書かれていたな―とも。確か、ドナ・ウィリアムズは、色つきレンズと偏光フィルターを組み合わせたメガネをかけて初めて、顔や全身のパーツがつながって見えたんでしたっけ。(※追記 : 偏光フィルターによる明るさ過敏への効果についてはこちらの記事で考察しています)
わたしはADHDだから、それほど極端な感覚異常はなくて、あくまでたいていの人より不安定といったレベルですが、自閉症の傾向がかなり強い人は、わたしが考えもつかないような独特な感覚世界を生きているんだろうなーと認識が深まりました。
ちなみにわたしがアンケートに答えてみたところ、意外にも、特定の感覚過敏・感覚鈍麻に偏りまくっていて、自分の傾向がはっきりわかるという結果に。特に、視覚過敏、聴覚過敏に加えて、触覚過敏が強いことがわかりました。
そういえば、子どものころからタイトな服だと、むずむずしびれるみたいな不快感があって、タートルネックや手袋が気持ち悪くてダメだったのですが、あれも感覚過敏だったんですね。
わたしが体を不意に動かしてしまうのはチック症状だと言われていましたが、実感としては、関節などの不快感を感じるせいで動かしてしまうので、結局のところまばたきと同様、感覚過敏によるものなのでしょう。むずむず脚症候群の人がこらえきれず足を動かしてしまうのと同様です。
そして、このアンケートを家族にもやってもらったところ、程度の差こそあれ、けっこう同じようなところに感覚過敏が偏っていることも明らかに。今まで話題にせず知らなかったようなお互いの感覚過敏がわかって新鮮でした。やっぱり一部は遺伝なのだろうなーと。
そして、視覚の過敏・鈍麻のところに、人の顔が見分けられない、というのもあって、やっぱりわたしの相貌失認と何らかの関係があるんだろう、とも思ったり。
そのあたりのことは、またのちほど検査結果も踏まえて考察してみたいと思います。
▽感覚過敏・感覚鈍麻のアンケート
回答したアンケートは、東京学芸大学の髙橋智研究室によるアスペルガー症候群・高機能自閉症における「感覚の過敏・鈍麻」 の実態と支援に関する実態調査を元に作成されたアンケートだそうです。リンク先のPDFのp299-308に実際の設問が載せられています。
また、それとは別に姫路獨協大学の太田篤志教授によるJSI:日本感覚統合インベントリーという発達障害児を対象にした行動質問用紙も見つけました。公式サイトのJSI-R JSI-3D 日本感覚統合インベントリー からダウンロードできます。
筑波大学東京キャンパスへ
そうこうしているうちに、面談予約の日がやってきて、筑波大学東京キャンパスへ向かうことになりました。
じつは前日まで「東京」キャンパスだと知らなくて、茨城県まで行くつもりでいました(笑) 前日夜にやっとルートを調べる気になって地図を見てみたら、東京だったという。そして当日電車に乗りながら道を調べたという。我ながら、なんて適当で行き当たりばったりなんだ…。
今まで行ったことのないような道をはるばる電車に乗って向かいましたが、幸い駅から近かったので、迷うこともなく、筑波大学東京キャンパスに付きました。
なぜか筑波大学と放送大学の名前が並んでいる合同キャンパス。どっちなのかよくわからないけれど、まあ建物は一つだし、間違いなかろうと思って構内へ。地図の指示に従って、心理・発達教育相談室とやらを探し当てました。
待合室に入って、持ってくるように言われたアンケートなどの資料を提出し、面談を通して研究に協力するという同意用紙にサインして、面談分の費用を支払う。それから時間まで待合室で待機。
色々と本が置いてあって、その中に絵のある人生―見る楽しみ、描く喜び― (岩波新書) という面白そうな本を見つけました。ちょっと中をパラパラ見て、わりとためになりそうだったので、後で探して読もうと思いました。絵描きは不器用なほうがいいと言われているくだりなど意外に思ったり。わたしは前の記事で書いたとおり、やたら不器用ですが、やっぱり絵を描く人には発達でこぼこな人が多いんだろうか。
そのほかアスペルガー症候群だっていいじゃない (ヒューマンケアブックス) という4コママンガ入りのわかりやすい当事者による本も。映像思考とか、突然のスケジュール変更でパニックになるとか、今まである程度知っていたような内容でしたが、やっぱりそう感じるんだーという当事者の日常が垣間見えて面白そうでした。
そんなこんなで時間を潰しているうちに、面談の時間に。
専門家の先生との面接
面接では、まず専門家の先生から聴き取り調査。1回目はじっくり聴き取り調査して、アーレンシンドロームの可能性があれば、2回目の面接でスクリーニング検査、それで確かにアーレンシンドロームらしいとなれば、その次のときにメガネのフィッティングという流れだとか。意外と長期戦になりそう。
とりあえず、まずはこれまでの経緯など色々質問されるので、前回の記事に書いたような内容を整理しながら話しました。小学校のころに、クラスメイトからまばたきが多いと言われたことに始まって、明るさ過敏や読み書きに時間がかかるなど、様々な苦労をしてきた話を切々と。
医療機関の医師の診察ではなくて、あくまでも研究機関による面談なので、専門家の先生もじっくり話を聞いてくださって、初めてじっくり、だれもわかってくれなかったこの苦労について話せて、すっきりした気分になりました。
だいたい今までの医者ときたら、まばたきが多いのはただの癖じゃないですか?とか言う眼科医から始まり、自律神経失調だと決めつけられたり、こっちが目が辛いと訴えてるのに検査結果は異常がないから気のせいだとか考えすぎだとか鼻で笑われたり、もともと目が細いだけだとか言う意味不明な医者もいたり、まともに話を聞いてくれませんでした。
はっきり言って、ほとんどの医者は勉強不足すぎる。かりそめにも目という器官を診る眼科医なら、目の器質的な機能だけじゃなくて神経の認知過程にも精通しておくべきだし、自律神経失調を診る医者なら発達障害のことくらい知っておくべきだし、そもそも検査結果よりもまず目の前の患者の言葉に真剣に向き合うべきでしょう。
そして、もう少し本を読むべき。世界的名著であるオリヴァー・サックスの本を何冊か読むだけで、目の明るさ過敏を訴える患者は何名か出てきますから、それくらい一般教養として知っておくべき。
個人的にべき論は好きではないですが、苦しんでいる患者がただでさえ限りある時間と労力とお金を費やして門を叩く、国家試験によって認められた資格なんだから、これくらいのことはやって当たり前。ボランティアであればこんなことは言いません。プロを名乗ってお金を受け取っているからには、より大きな責任が求められて当然です。
…なんだか熱くなってしまいましたが、わたしみたいな自分で答えにたどり着ける人はまだいいんです。自分ではもうどうしようもなく、医者にすがるしかない状況の人だって大勢いる。そんな人たちを助けられることこそが、医者としてのやりがいだと思うし、その職業を選んだ責任だと思います。医師という肩書きにはそれだけの力と影響力があるんですから。
さて、そんな思い出もちょっと心によみがえりつつ、色々と積もる話を次から次に話していると、専門家の先生が、本日これから、アーレンシンドロームのスクリーニング検査をする時間はありますか?と。
次回じゃなかったの?と思いつつ、わざわざ今からしようというのは、わたしの話を聞いて、そうする価値があると判断されたのかなーと思ったり。それで、すでに40分くらい面談していたところでしたが、時間的に余裕があるので、お願いすることにしました。
スクリーニングのテストを受けてびっくり
スクリーニング検査は、幾つかのステップで成り立ってました。
まずは問診で、視覚機能や読みの困難について、いろいろと尋ねられるので、どれくらいそうしたことがあったかを答えていく。読むところを見失うことがあるか、とか、読んだ後で疲れて休む必要があるか、とか。
次は、何枚かの白い紙に黒インクで印刷された、認知検査の図や文字を見て、見え方を答えていくというステップ。心理学で使われるネイボン図形とかミュラー・リヤー錯視とか、あの系統の何らかの目的をもった図ですね。なんでも、アーレンシンドロームの症状がはっきり出るような図なのだとか。
驚いたのは、それらの図の用紙をパラパラめくっているのを見た最初の段階で、うげげっ、と思うほど気持ち悪くなったこと。真っ白な紙に黒インクで複雑な図が書いてあるだけで、もうこれは直視できない…というくらい圧迫感と気持ち悪さを感じました。
しかも本番は、当然ながら、いつもつけている明るさをカットしているメガネを外して臨むことに。図形を見るだけで、めまいがしてクラクラするレベル。始める前に深呼吸して、水を飲んで気持ちを落ち着かせるわたし。
最初の図は、複雑な格子状の立方体の格子の数を数えるとか。そういえば、この図形、確かアーレンシンドローム: 「色を通して読む」光の感受性障害の理解と対応 にも載ってたけど、あまりにクラクラするから、まともに見ようとさえ思わなかった。
最初指を使って数えかけましたが、指は使っちゃだめで目だけでとのこと。コントラストがギラギラして、どこを見ているのかわからなくなるので、目を限界まで細めて、明るさをしぼって、かろうじて数える。
続いてそれがさらに複雑になった上級者編みたいな図形で同じことをしましたが、真っ直ぐな線だけで構成されている立方体のはずが、線が階段状になってガタガタに見えている。
アーレンシンドローム: 「色を通して読む」光の感受性障害の理解と対応 には、アーレンシンドロームによるディスレクシアの人は、文字がさまざまに歪んて見えているとありましたが、その本を読んだときには、自分はそんなことは一切ないと思っていました。しかしこの検査をやって、自分も歪んで見えていることに衝撃を感じました。
続いて、周辺視野を調べるっぽいテスト。雪の結晶みたいな形に放射線状に色々な文字が書かれている図で、雪の結晶の中心にあたる部分に焦点を合わせたときに、周辺の文字が見えるかどうかを調べるというもの。
わたしはそもそも、中心に焦点を合わせるということに苦労したんですが、うまく集中できて焦点が合うと、なんと周りの文字のうち、一部が消えるんですよね。中心のまわりに放射状に「◯」が並んでいたりするんですが、中心を凝視したときだけそれが幾つか消え去る。よくある視覚の盲点を調べる有名なテスト並に消える。さらにその一段階外に放射状に並んでいる「□」が見えるかと聞かれましたが、それらは存在さえ見えない。
続いて、五線譜のような模様の入った図で、やっぱり中心に焦点を合わせるよう言われてやってみると、周辺視野が消える消える。まっすぐなはずの五線譜や、それに交わる縦線が、歪むことはほぼありませんが、まるで破線になっているみたいにところどころ消える。
そういえば、なんとなく日常生活でもそんな経験はあったのです。パソコンの画面を見ながらキーボードをたたいていると、周辺視野にあるキーボードの形が歪んでいてハッとしたり、会場で並行に並んでいるはずの座席が、周辺視野に入ると並行でなくなったり。
じつは、わたしが時々描いている、周辺視野でパースが歪んでいる下の絵のような構図は、演出上の手法であると説明しつつ、なんとなく普段そう見えることがあるような…という日常の投影でもあります。
そして、ここに来て、衝撃の事実が。わたしは常に目を細めて見ているのが当たり前になりすぎていて、久しく、目を大きく開けて文字を見たりすることがなかったのです。それが、そうしてみるよう言われて、明るさに耐えながら目を見開いてこれらの図を見たら、目を細めて明るさを絞っていたときは違って、文字や図が浮き出たり、残像が入っていたり、うっすら黄みや青みがかかっていたり、異様な感じでした。平面なのに立体視状態になってでこぼこに見えたり。
目が細いなんて言われてきましたが、それもそのはず、目を普通に開けていたら、歪んだりハレーションを起こしたりしてまともに見えないので、無意識のうちに目を細めることが当たり前になって、そんな顔つきになってしまっていたのでした…。
わたしの感受性の強い色を知った
最後のステップでは、英語の文がビシッと並んだページに様々な色のカラーフィルムをかぶせて、どれが見やすいかを比較していくことに。
どうやら、黄色、橙色、赤色のフィルムだと、ギラギラして見にくい。他方、青や緑だとわりと落ち着いて見れる。色の中では青が最善でしたが、一番楽だったのは、うっすら青みかがったグレーでした。
ここまでのところでも薄々と感じていたのですが、どうも、わたしは暖色系統がダメな様子。前回の記事で書いたように、漢方の病院で、黄色一色のビタミンカラーで苦しくなったとき、部屋の中は暖色系の照明でした。
それなのに、わたしは今のところ明るさ対策に、ブルーライトカットのアプリやメガネなどで、暖色系のフィルターを使っているという矛盾。
しかし、そのことはわたし自身薄々と気づいていて、暖色系のメガネやフィルターをかけると、少しましな気がするものの、目の負担はあまり軽減されず、もしかするとベストの色ではないのでは?と思っていたので、今回アーレンシンドロームのスクリーニングで色を調べてもらおうと考えていたのでした。そもそも市販のものだと、色フィルターはブルーライトの暖色系のメガネなどしかないので、それを使わざるを得なかったのです。
それでは暖色系のフィルターを使うのは、わたしにとって、むしろマイナスになっているのだろうか、と専門家の先生に尋ねてみると、暖色系フィルターと何もフィルターをかけていない白黒コントラストが強い素の紙面とを比較して見るようにとアドバイス。すると、素の紙面よりかは、暖色系のほうがまだましでした。
つまり、確かにわたしの実感どおり暖色系のメガネで「少しはまし」に感じるというのは正しかったということになります。ただ、ベストには程遠かったということでしょう。
まずは明るさ過敏があるので、真っ白が一番ダメですが、その次の色過敏となると、黄色やオレンジは刺激が強すぎてダメなのです。それを抑えるには、橙色の補色の青系のフィルムが必要で、さらに明るさ過敏のためには、グレーのフィルムで暗くすればいい、ということになります。確かに筋がとおっている。
そして、目を見開いて文字などを見たときに黄色や青の残像がまざるのは、おそらく黄色に強く反応しすぎているのを脳が補色を作り出して抑えているので青も映るのでしょう。
そうすると、まだ今後のフィッティング待ちですが、「グレー」プラス「青」あたりがメガネの色としては有力候補なんだろうか。
それってあれですね、マクロスのマクシミリアン・ジーナスがかけてるサングラスじゃないですか(笑) あれは天才だから似合うのであって、わたしがかけると笑われそう…(笑)
なぜファンタスは黄色いネコになったのか
ここで、今回明らかになった、わたしにとって感受性の強い色とその補色、つまり橙色と青色について考えると、あら不思議、なんと、わたしの絵の統一カラーとしてよく見られやすい二色ではないですか!
わたしの絵は、色合いを暖色か寒色かに統一することが多く、以前はよく暖色の橙色を基調とした絵を描いていました。
そして最近は、よく寒色の青色を基調とした絵を描いています。
なせわたしの絵でこれらの統一カラーが多いのかという謎は、実は色の感受性と関係していたのです。
けれども、橙色とか黄色はまぶしすぎて苦手だというのに、それを用いた絵が多いというのはおかしくないでしょうか。
一見そう思えますが、どうやら、わたしにとって、橙色とか黄色は、「苦手な色」ではなく「感受性が強い色」なのです。
じつは、不思議なエピソードがあります。わたしの絵に必ず出てくるネコのファンタス(にゃんたす)は、なぜ黄色なのか。
登場人物紹介のページに書いていますが、ファンタスは、黄色くてファンタスティックなので、ファンタスという名前なのです。これは後付け設定ではなく、実話です。
ところが、わたしが身の回りの人に、そう説明しても、意味がよくわからないようなのです。なんで黄色いとファンタスティックなのか、という部分ですね。
わたしにとっては「黄色」イコール「ファンタスティック」なのですが、なぜか他の人にとってはそうとは限らない。今まであまり気にしていませんでしたが、多分、今回明らかになったことがその答えだったのでしょう。
つまり、わたしにとって、黄色は、普通の人より感受性が高すぎる色の波長なので、キラキラと光り輝いて見えるのです。実際に、わたしは黄色が嫌いなわけではなく、ものすごく鮮やかで特別な色に思えます。イラストを暖色系でまとめることが多いのも、そうすると光り輝いて見えるからです。
もともと黄色は最も輝度が明るい色なので、明るく見える人は多いと思いますが、わたしにとっては、真っ白を含め、普通の人以上に明るさ過敏のせいで目がくらむような輝きを伴うので、それらの感受性が高い色で、絵に鮮やかさを加えることが多いのでしょう。そして、鮮やかさではなく神秘的な落ち着きを出したい場合は、真逆の補色である青を基調とした絵を描くのでしょう。
まさか自分の明るさ過敏がこんなところで絵に影響しているとは思いもよりませんでした。やはり、絵というのは、その人個人の唯一無二の感性、突き詰めて言えば、前の記事で取り上げたように、その人だけの脳の認知特性が現れるものなのでしょう。
認知のでこぼこが感性になる
検査を終えての帰り道は、筑波大学前のモニュメントを撮影して遊んだり。
帰路の電車に揺られながら、これまでのことを色々振り返りました。
今のわたしの感性がどのように生み出されたかを考えると不思議な気持ちになります。
わたしは断片的な情報を再構成する文章能力が高いとよく言われますが、それはおそらく、もともと文章をまっすぐ順番に読むのが苦手で、キーワードに頼って理解するからです。文章の流れにとらわれず、大事そうなキーワードを拾うことでしか文章を読めないので、それらを結びつけて理解する能力が鍛えられたのでしょう。行間を読む力ならぬ、単語間を読む力といいますか。
また、わたしが広く全体を俯瞰する傾向が強いのは、周辺視野のスクリーニング検査でわかったように、一点に集中すると周辺視野が弱くて見えなくなるので、あえて一部ではなく全体を広く浅く見るように適応した結果なのでしょう。
自閉症の人は一点に注意を集中させて狭く深く見る視点になりやすいとされますが、わたしは逆にあえて焦点を持たず、注意を分散させておおまかに全体を見るように発達したようです。
同時に、人の顔が印象に残らない相貌失認も、焦点がなく広く全体をぼやーっと見ているので、見えているようでおおまかにしか見えていないということだと思います。
そして絵の場合も、特定の色に感受性が強すぎるせいで、その色を基調とした光り輝く絵と、その補色を用いたほんのりと神秘的に輝く絵とに分化していったようです。
いろいろと認知のでこぼこがあるわたしですが、それらを克服しよう、それに適応しようと無意識のうちに対処してきた結果が、今のわたしの感性であり、才能なのだな、と思いました。
こうして、さまざまなことがわかってとても興味深かったアーレンシンドロームの面談ですが、途中の問診の主観的な回答によると、わたしはアーレンシンドロームとしては、症状は「中程度寄りの重度」、読みの不快感は「中程度」なのだそうです。中程度だからこそ適応してこれたのでしょうが、決して軽くもなかったのだな、と思って驚きました。
前回の記事に書いたように、やはり適応障害を起こさず、ギリギリのところで適応しているような場合でも、決して軽度とは限らないのだなーということですね
今後は、改めて面接を行い、アーレンシンドロームの症状を和らげる、わたしに合ったレンズの色をフィッティングするそうです。それが終わったら、レンズを注文して、届いたら実際にしばらく試してみる必要があるでしょう。
また進展があれば、その後の経過なども記事にしたいなーと思います。本当に稀有な面白い体験をさせてもらいました。
▽続きを書きました