新天地に引っ越してから、1ヶ月がすぎ、そろそろ近況をまとめておいたほうがいいかなと思い、6番目のシリーズを書くことにしました。
とりあえず記事のタイトルは「大自然のゆらぎによって凍りついたリズムを回復させる道のり」にしてみました。タイトルの意味については記事内で説明します。
いつもどおり、基本的には自分のための備忘録であり、だれかが読むことを想定していないので、難しい説明や 個人的な内容が多いです。
もくじ
体調が変化しすぎて戸惑う
引っ越してきてから一ヶ月。さまざまなことがありました。
こちらに来てからのわたしの状況を簡単に説明すると。
- 薬をまったく飲まなくてよくなりました。朝から元気です。
- 概日リズム睡眠障害が治りました。
- 食が細かったのが、けっこう食べるようになりました。
- 毎日自転車で5キロ以上走っています。-8℃の雪の中をスノータイヤで走ることも。走れば走るほど元気になるので、家に帰るタイミングを自分でしっかり見極めないと延々と外にいそうです。
- 自動車学校に通っています。以前、不登校になった直後に、リハビリになると言われ、免許を取ろうとしたことがありますが、一回行っただけで通えなくなり払い戻ししてもらったことがあります。そのときからすると、明らかに体調が変わったことがうかがえます。
- それでも病気が治ったわけではなく、都市や室内では体調が悪化します。とくに自動車学校は、通えてはいるものの環境が悪いため、かなり負担になっています。薬は日常生活ではまったく使っていませんが、自動車学校のときだけ、フリーズを防ぐためにカタプレスを用いて交感神経の活性を下げています。
こうしたかなりの変化を経験して不思議なのは、この変化はどれくらい一般的なものなのか、という点。理論上は、わたしが経験しているこうしたかなりの変化は、同じような体調問題を抱えている人に共通して起こるはずです。
以前のシリーズの冒頭で説明したようなリチャード・ルーブの自然欠乏障害の概念や、ピーター・ラヴィーンの動物的本能についての説明は、トラウマとは自然界とのつながりからの断絶ではないかという視点をもたらしてくれました。しかし、あくまで「理論上は」です。
都会であれだけ苦労している人たちの体調不良が、本当に自然豊かな森の中に引っ越してこれほど良くなるものなのか? 実践できる人が非常に少ないがために見過ごされているだけなのか? それともわたしの場合が特殊だっただけなのか?
少なくとも、プラセボではないと言える理由は、以前にも考察したように、理論上、想定できる変化だけが起こっていて、想定外の体調改善は見られないというところにあります。
リチャード・ルーブがあなたの子どもには自然が足りない の中で自然はリタリンの代わりをすると何度も書いていますが、わたしに起こる変化も、リタリンを飲んだときの変化にそっくりであり、逆に言えばリタリンで改善されない症状は変わりません。
リタリンやコンサータで改善されるのは、朝起きられる、体力がつき元気に動ける、頭が働く、集中力が増す、といった部分であり、胃腸の凍りつきや不具合のようなものは治らず、病気そのものが治った感覚はありません。
同様にこちらに滞在していると、リタリンやコンサータなしで、それと同等の効果が得られます。しかし薬で無理やり活動させている場合と違って副作用がなく、休薬日を設ける必要がない(というか「休薬」状態になる日がない)ので、毎日良好なコンディションを保つことができます。(今日は記事を書きたいからコンサータを飲んでちょっと無理しようなどと考えなくてもよい)
しかし、普通の人に比べて体力がないことは変わりませんし、胃腸の不調も変わりません。人と会話するときの恐れのような感覚や、騒音などに対する敏感さはそのままです。都会に出たり室内に居続けると調子が悪くなります。つまり治ったわけではありません。
環境が変わったことで条件付けがリセットされていること、人工的刺激による負担が減ったこと、自然界の刺激によって腹側迷走神経が活性化して耐性領域にとどまりやすくなっていることなど、あくまでこれまで考えてきたトラウマ理論やポリヴェーガル理論によって説明できる範囲の変化だけしか起こっていません。
ずっと慢性疲労の引きこもり状態にあったわたしからすれば、またそのわたしを見てきた周りの人たちからすれば、確かに劇的な変化ではあるものの、既存の理論から想定できる以上の変化は起こっていないといえます。
もしかしたら、わたしは人一倍感受性が強く、環境が変わったことによる良い影響を受けやすいのかもしれません。しかしトラウマ当事者はおしなべて環境からの影響を強く受けやすく、過剰同調性になってしまう人が多いので、そんな珍しいことではないでしょう。
トラウマと身体に書かれているように、トラウマ障害とは、大きな刺激に対しては鈍感になる(解離して麻痺する)と同時に、小さな刺激に対しては過敏になる(PTSDの警戒状態)ことが特徴なのですから。
すぐ近くにある通常以上の大きな音にほとんど反応しない人がいる一方で、遠くの車の音にもおびえ圧倒される人がいるかもしれません。
McFarlane.Weber,Clarkが気づいたことには、トラウマをもった人の多くは、トラウマのない被験者が気がつき反応した刺激を心に留めません。…しかしそのとき彼らは、一見無害な刺激に対して、異常に高い覚醒状態で反応しました。(p46)
トラウマ当事者であるということはすなわち、都市生活における人間関係や騒音、においなどの刺激に対して敏感になることを意味しており、そうであればそれらの環境が一変すれば、やはり何かしら敏感に反応するという意味であるように、わたしには思えます。
ということはやっぱり、わたしの変化はそんな特殊なことではなく、あまりに現代人にとって都会が一般的になりすぎたせいで、単に自然の多いところに移転するという選択肢を思いつく人や実践できる人が少ないだけなのだろうか?
理論的にはたくさんの人に当てはまりそうな気がするのですが、自分自身のケース以外に身近な例を知らないのでなんともいえません。自分でも変化が大きすぎて、困惑しているほどです。わたしが今まで闘ってきた問題は何だったのか。それは発達性トラウマ障害だったのだろうか。それとも自然欠乏だったのだろうか…? それとも、やっぱり自然欠乏とトラウマ障害は裏表関係にあり、自然な環境が失われることで、現代人はトラウマに対して脆弱になっているのか?
「恐怖のない不動状態」
前回書いたような、環境によって凍りつき/擬態死反応の程度が大きく変化することを示すサックスのレナードの朝の記録は、この最後の考え方を裏づけているように感じます。
ポージェスもまたポリヴェーガル理論入門の中でこう書いていました。
子供たちや学生たちが合図を出し始めたら、どう反応しますか? 私は、彼らの心理学的状態について一歩引いて考えることを学びました。
彼らが食事をしていなかったら? 十分睡眠をとっていなかったら? 家庭内で大きな問題を抱えていたら? 様々な出来事や文脈の中で、安全と社会的交流を支持する神経回路を採用する彼らの能力が抑制されていたら、良い交流を持つことはとても困難になります。
こういう状況では、お互いに関わったり、表現したり、理解したりする能力が限定されてしまうのです。
これは、実は私たちの文化全体の問題でもあります。社会交流システムを支持する神経回路へのアクセスを阻害する傾向があるのです。
私たちの文化では、どんなに働いても十分ではない、どんなに成功しても十分ではない、どんなに貯金しても十分ではない、そして、すべていつ消え去ってもおかしくないということが明示されています。
「私たちは危険な時期に危険な場所に生きているのだ」、と社会が私たちに明確に告げているのです。私たちが安全を必要とすることをもっと尊重していたら、人類はどうなっていただろうと、つねに疑問を感じています。(p243)
ここでポージェスは、わたしたちの現代社会が、「私たちは危険な時期に危険な場所に生きているのだ」というメッセージを常に伝えているために、社会的交流をつかさどる腹側迷走神経が慢性的に抑制されてしまう、言い換えれば、都会にいるだけで闘争/逃走モードや凍りつき/擬態死モードになってしまうことを述べています。
ポージェスは自然豊かな環境の価値については述べていませんが、わたしが今住んでいるところは、家のカギをかけないで外出しても大丈夫なくらい安全で、買い物のときも自転車にカギをかけないでも置いておけます。(まあ最近は外部から来る人も多いので一応カギはかけますが)。
自動車や人の通行はまばらで、道路も広く、交通はとても安全です。とくに暗くなってから外出すれば、ほとんど車が走っていないので、本当に自由に町中を走りまわれます。都会の道路は無理ですが、ここでならわたしでも自動車を運転できるかもと思えました。
都会の喧騒から切り離されているので、イライラした人を見かけることもありません。逆にみんなのびのびしていて、時間に余裕を感じています。満員電車なんてものはありません。地元のお店でほとんどのものはそろうので、商業主義の宣伝にさらされることもありません。
灯油代などは高いですが、家賃は都会にいたときの1/10程度です。しかも都会にいたときより、断熱や収納の作りがよっぽどしっかりした住宅に住めているので、「どんなに働いても十分ではない、どんなに成功しても十分ではない、どんなに貯金しても十分ではない、そして、すべていつ消え去ってもおかしくない」という気持ちに追い立てられることはありません。都会で犯罪や災害が起こっても、ここはのんびりしています。
もちろん自然界の脅威は軽くみて良いものではなく、真冬は-30℃まで下がったり、ホワイトアウトしたりするようなところですが、犯罪と違って、自然界には悪意はないので、気をつけこそすれ、常に怯えるわけではありません。
むしろ、そうした日は、えも言われぬほど美しい。NATURE FIX に書かれているように、この恐ろしくも美しい大自然こそが、畏怖の念を起こさせ、迷走神経を活性化させるものなのです。
1757年、28歳のバーグは『崇高と美の観念の起源』を出版し、啓蒙思想の中心的人物となった。世俗主義者だったバークは、アイルランドの自然のなかを歩きまわり、もっと適切な表現がありそうな気もするが、「心が動かされた」と綴った。
感受性が強く、芝居がかったものが好きなバークは絵になる美しい景色よりも、やや暗い景色に心惹かれた。なかでも不安をかきたてられる景色が好きで、ぞっとするようなものであればなおいい。
「自然界の偉大で崇高なものが生みだす情念は、もしもこれらの原因が最も強力に作用する場合には驚愕となる。驚愕とは或る程度の戦慄を混じえつつ魂のすべての動きが停止するような状態を言う」と、バークはこの著書に記した。そして、流れの激しい大きな滝、激しい嵐、暗い木立といった風景を愛した。(p261)
実際、わたしはこちらに引っ越してきてから、美しい光景に見惚れることはあれど、畏怖の念ほどのものを感じることは最初のうちはありませんでした。しかし雪の降りしきる夜中にスノータイヤ自転車で町中を走っていて、だれもいない道路に吹きすさぶ雪が街灯で照らされているのを見たとき、ふと大自然の脅威の中に、今自分ひとりがいるのだと感じ、これが畏怖の念だろうか、と実感しました。もちろん町中なので、遭難したりする危険はないのですが。
畏怖の念とは、恐れと美が一体になったもの、あるいは、恐ろしげではあるものの恐怖はない状態といえるのかもしれません。ポージェスがポリヴェーガル理論入門で書いている「恐怖のない不動状態」とは、本来まさにこうした状況で感じるものではないのでしょうか。
社会の目的の一つは、恐怖のない不動状態に入れることだと言いたいのです。この表現は、はじめは耳慣れないかもしれません。しかし、考えてみてください。恐怖のない不動状態は、セラピーの真の目的地ではないでしょうか?
自分のクライアントが、がんじがらめになっており、不安で防衛的なままなのは困るでしょう。クライアントが静かに座り、恐れることなく受け入れられ、他者から抱きしめられ、またその人を抱きしめ、身体的にも心地よく、人間関係において相互交流を持つことができたら、それはとても望ましいでしょう。(p230)
ポージェスが想定している「恐怖のない不動状態」とは、あくまで人間の他者との関係のなかで、抱きしめられるような安心感を感じることで生まれるものですが、以前に書いたように、ヒト対ヒトの愛着は、ヒト対自然にも当てはまるのです。
畏怖の念はあたかも自分より強大で畏敬の気持ちを抱かせる母なる自然に抱かれているような感覚であり、恐ろしさの中にも安心感があります。NATURE FIX のあとがきで訳者の栗木さつきさんがこう書いていました。
山の稜線で眼下に雲海を望んだとき、水平線に沈みゆく燃えるような太陽を見たとき、古代からただどっしりと存在する巨岩を目の当りにしたとき……。
そんなときに「畏敬の念」を覚え、なにか大きなものに包まれているような気がして、自分の存在が取るに足らないものに思えたという経験がある方も多いだろう。(p162)
それは昔の人たちにとっては、人ではなく神に抱かれるような心地であったのかもしれない。それは犯罪や命の危機のもとで経験する凍りつき/擬死としての不動状態ではなく、もっと安全で神秘的な不動状態。本来ヒトも動物もきっと、自然界のなかで「恐怖のない不動状態」を感じていたのだとわたしは思います。
その日は帰ってからとても体調がよく、ぐっすり眠ることができました。確かに畏怖の念がわたしの迷走神経を正常化させているようでした。まあすぐにもとに戻ってしまうのですが、たぶんこうした経験を繰り返し、何度も迷走神経が刺激されるうちに徐々に腸と脳のパイプラインが復旧していくのでしょう。すなわち、たった一回のソマティックな経験によってではなく、何度もペンデュレーションを繰り返すことによって。
自然のリフレインー揺らぎを回復させる力
こちらに引っ越してきて感動するのは、毎日毎日、刻一刻と景色が移り変わっていて、ひとつとして同じ瞬間がないこと。
たとえば、引っ越してくる日に汽車の中から虹を目撃しました。その後もわずか一週間のうちに何度も虹がかかる。二重の虹も初めて見ました。
だけど、虹が出たのが見えたら、すぐにカメラを取りに戻ってシャッターを切らないと写真に収めることはできない。
もちろん退屈すれば脳はひらめく によると、カメラで撮るという行為はマインドフルネス、つまり「今この瞬間」をじっくり風景を味わうという大事なプロセスを妨げるので(いわゆる「写真撮影による記憶の損傷効果」p125)、カメラで撮らずにただ感じるのも大事なんですが、せっかくなら、味わった後に写真も撮って、遠くの知り合いに見せてあげたい気もするので(笑)
しかしどんな風景でも、見つけた瞬間に撮らないと、すぐにかき消えて、次の瞬間には別の景色が広がっている。天気もころころと変化して、晴れているのに雪が降っていたりする。天気予報はあまりあてにならず、晴れでも曇りでも雪でもぜんぶ当たるっちゃ当たる。それだけ次から次に景色が変化します。
この虹がたくさん見えた時期も、雪が降り始めると見えなくなってしまいました。実はこれは、昔の人が作った「七十二候」(5日ごとの季節の変化を示したもの)にちゃんと記されている。
七十二候によると、11/22が「虹蔵不見」(にじかくれてみえず)で虹が見えなくなるころ。つまりそれ以前は虹がよく見えるということを表している。この記事を書いている12/6は「閉塞成冬」(そらさむくふゆとなる)でようやく冬の入り口です。もうすっかり雪景色だけど、地元の人たちは氷点下になったくらいでは秋と冬の境目だと言っているのでこれもその通り。
そしてそろそろ次は「熊蟄穴」(くまあなにこもる)ですが、うちは近くの山にヒグマが出る地方なので身近です。また虹が見られるようになるのは来年4月の「虹始見」(にじはじめてあらわる)。ちょうど見えなくなってから半年後。この地域は半年間雪が降っているのでちょうどそのころ雪解けだそうです。
地球温暖化のせいで、気候が変化しているとは言われるけれど、ここだと、ほぼ昔の人たちが肌身で季節の変化を感じたとおりのことが日々起こっている。毎日外を出歩いて、景色をじかに見て、肌で変化を感じていると、本当に5日ごとくらいに一変するのがわかります。
この変化を見て感じたのは、レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダー で書いていたこの表現。
鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い霧のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な神秘がかくされています。
自然がくりかえすリフレイン―夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ―のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。(p50-51)
「自然がくりかえすリフレイン」。それは一日、一ヶ月また一年の周期でめぐる変化であり、人間も動物もはるか昔からその変化を感じ取って身体の機能を同調させてきました。それぞれの人の概日リズムや、概月リズム(生理周期や、わたしの非24時間睡眠の周期や過去の発熱発作の周期など)はその最たるもの。
さらにはまだあまり研究は進んでいないものの、概年リズムも存在していると言われています。(前に書いたように、一年周期でトラウマ症状が出たり、サックスの言う「記念日片頭痛」を起こしたりする人がいる)
昔の人は、寄せては返す波のような自然の移り変わりを肌身で感じていた。だからその規則正しい変化を「七十二候」や「二十四節気」というかたちでまとめた。毎年毎年、自然は同じリフレインを非常にこまやかに繰り返すことをよく知っていたから。
ところが、現代の都市では、「七十二候」や「二十四節気」などを感じられることはまずない。せいぜい春夏秋冬と梅雨の変化くらいかもしれない。人工的な物に覆われて自然がなくなった都市では、当然ながら、人工物は季節とともに変化しない。一年中同じまま、経年劣化していくだけで存在している。すると、周囲の環境から、リフレイン、つまりゆらぎが失われる。
その結果として現れるのが、都市で生活する人たちに見られる概日リズム、概月リズムの混乱であり、睡眠障害や朝起きられないといった問題。都市に住む人たちは、自分はもともと朝起きが苦手だとか、低血圧だからだとか考えているけれど、それはおそらく正しくない。都市生活が一般的になる前はそんな人はいなかったんですから。
体質的に弱い人、言い換えれば、感受性が強いために都市環境によって悪い影響を受けやすい人はもちろんいるでしょうが、一番の問題は自然のリフレインがなくなった、メリハリのない環境に住んでいるせいです。自然のリフレインがちゃんと保たれている場所に行けば、概日リズム睡眠障害のような文明病は消失して、低血圧の人でも朝起きられるようになる。それを身をもって実感しています。
トラウマによる凍りつきとは、自然なゆらぎがなくなって自律神経機能が停止し、硬直してしまうこと。だから以前に書いたように、モード切替ができなくなってしまう。その現れのひとつが、朝起きられないことや夜なかなか寝付けないことです。
そうしたゆらぎの停止を治療する方法は、SEのセラピーでなされている自律神経系のペンデュレーション(振り子運動)によってゆらぎを徐々に回復させることですが、自然豊かな環境に身をおいていれば、環境のゆらぎに同調するため、おのずとペンデュレーションできるわけです。
寄せては返す自然界のリフレインを日々感じ取るということは、自分の感覚にゆらぎを与えているということであり、セラピストなしの天然のセラピーといえるでしょう。
前々から書いているように、生物ははるか昔から、それこそ人類の誕生以前から、捕食関係などからくるトラウマに直面していた。ポージェスがポリヴェーガル理論入門で指摘しているように、自律神経の凍りつき/擬死反応は、人類よりはるか昔の爬虫類たちが備えていたものです。
「不動」、「徐脈」、「無呼吸」は、哺乳類が誕生するずっと前の、太古の脊椎動物において発達した防衛機制だったのです。…「不動状態」、「擬死」あるいは「死んだふり」は、爬虫類やその他の脊椎動物にとっては適応的な行動でした。(p40)
しかし爬虫類たちは、たとえトラウマによって凍りつくことがあっても、そのまま停止したままになることはなく、引きこもりにも慢性疲労症候群にもならなかった。ペンデュレーションを施してくれるSEセラピストなどは存在していないのに。
彼らが凍りつきから復帰できたのは、自然界のゆらぎが天然のセラピストとなって、彼らの神経をゆさぶり、凍りついたままにならないようリズムを回復させる力を持っていたからでしょう。トラウマとは環境から自分を切り離して防衛することですが、危機がされば、それとは逆のこと、つまり環境と同調することによって凍りつきから復帰できるシステムが、生物にはもともと組み込まれていると考えるのは至極当たり前ではなかろうか。
前回書いたように、ヴァン・デア・コークは、トラウマとは環境のリズムからの切り離しであり、正常なリズムを刻めるようにすることが治療であると言っているんですから。
▽写真いろいろ
二重の虹。引っ越してきたころは虹のバーゲンセールでそこかしこに出ていた。
引っ越したころはまだ秋で紅葉が美しかった。森の中を散策するとキノコがたくさん生えている。
夕焼けも壮大。
雪が降ると景色が一変する。家から歩いて一分の雪原。
家から自転車で5分の川。
朝起きると家の窓(二重窓の隙間)にこんなアーティスティックな結晶が。すぐ写真を撮らないとなくなる。
近くの池の氷が比較的暖かい日に割れていた。もしかすると、ずっと昔にステンドグラスを思いついた人はこういう自然界のデザインから着想を得たのだろうか。
自転車で10分ほどのところにある気温計。-10℃付近でも風がなければあまり寒く感じない不思議。
概日リズム睡眠障害の回復
最初に書いたように、体調の大きな変化のひとつは、学生のころからずっと概日リズム睡眠障害で、基本的には非24時間型、良くて睡眠相後退型だったのが、こちらに来てから見事に回復して症状が消失してしまったということ。旅行に来たときも回復していたので、もしやとは思ってはいましたが、1ヶ月経過しても治ったままなので、たぶん回復したのでしょう。
確かに、概日リズム睡眠障害は24時間化した都市の弊害であり、非24時間型の睡眠障害でもアウトドア生活をすれば治るという記事は読んだことはあります。知識としては理解していました。
しかし、引っ越しただけであれほど根深い悩みが実際に解決してしまうと狐につままれたような気分になります。あんなに悩んでいたのはいったいなんだったのか?
こちらに来てからの睡眠リズムは、だいたい23時か0時ごろに眠たくて寝てしまい、朝8時か9時に起きています。
以前はぜんぜん寝付けなかったので寝る時は睡眠導入のためのカタプレスが必須で、朝起きるときも起きられないのでモディオダールのような中枢神経刺激薬が必須でした。しかし、こちらに来てからは薬いらずです。要するに、自律神経のスイッチのモード切り替え能力がかなり正常になっている印象です。
「自然欠乏障害」の説明だと、都会にいる人たちが不眠症になって睡眠薬を飲んだり、ADHDになってリタリンを服用したりするのは、都市生活で自律神経に負荷がかかっているのに無理やり薬で順応させている、ということになりますが、わたしの場合がまさにそうだったとしか思えません。
自律神経のモード切替がうまくいかないのは、過剰な負荷がかかって「凍りつき」(フリーズ)状態にあるせいだとみなせます。
夜寝る時の睡眠薬は背側迷走神経でフリーズした状態を、無理やり副交感神経のリラックス状態に持っていく行為、中枢神経刺激薬で目を覚ますのは、やはりフリーズして起きられない状態を、無理やり交感神経を活性化させて覚醒させる行為です。
どちらもチェンジレバーがフリーズ(自動車でいうところのP)に入っているのに、さびついて動かなくなってしまい、無理やり薬で油を指してニュートラル(N)やドライブ(D)に持っていっているようなものです。
(面白いことに大阪市大の疲労研究によれば、疲労や老化は活性酸素による細胞のサビつきだと言われている。疲れの原因は脳の疲労 ミトコンドリアが「さびる」|ヘルスUP|NIKKEI STYLE )
しかし、自然の多い環境に来ると、環境由来のストレスによる自律神経機能のモード切替のサビつきが解消されるので、薬に頼らなくても、自力で切り替えられるようになる、ということでしょうか。それが夜寝れるし朝起きられるということ。また中枢神経刺激薬を服用せずとも日中元気でいられるということ。
概日リズム睡眠障害および小児慢性疲労症候群の専門医である主治医にこの変化を話したところ、十分想定内の変化だったようでした。
睡眠相後退症候群の不登校の子が、都会から自然の多い田舎の病院に入院してくると、すぐに睡眠リズムは変化してしまうらしい。変化が速いのでこれは光療法の効果ではなく、条件付けの変化などによると思われるとのこと。
より症状の重い非24時間型の場合、リズムが改善されないことがあるが、さらに田舎の病院に行くと改善したという事例を少ないながらも経験しているのだとか。
わたしの場合、概日リズム睡眠障害は回復したのに、睡眠時間の長さ(ほぼ10時間睡眠)や起きたときから続く胃腸の不快感は改善していませんが、それもまた想定内のことらしい。
概日リズム睡眠障害で入院してきた子は、すぐに睡眠リズムは変化するものの、睡眠時間の長さは変化せず、一ヶ月くらい経ったあたりでようやく睡眠時間の長さと胃腸症状とが「同時に」解決されることが多いという。理由はまだわかっていないけれども、おそらく腸内細菌の変化のようなものと関係しているのでは?とのことでした。
前回書いたように、エムラン・メイヤーの腸と脳によると、原因不明の胃腸の不具合というのは、腸と脳をつなぐ迷走神経が麻痺して、腸で生じている情動が脳に伝わっていない(感情に変化していない)解離状態のせいで起こっていると考えられます。
ポリヴェーガル理論入門に書かれているように、ポリヴェーガル理論によれば、背側迷走神経の凍りつき/擬態死状態は、交感神経が抑制された状態であり、睡眠時間が長くなって寝たきりに近くなると同時に、胃腸のさまざまな不快症状も現れます。
トラウマ歴のあるクライアントを扱う臨床家たちは、彼らの多くが消化、特に胃部不快感や便秘などの問題を抱えていると言います。ポリヴェーガル理論では、横隔膜下迷走神経回路の機能不全は、この神経回路が防衛に使われるため、恒常性を維持する役割が阻害されるからだとしています。(p171)
ということは、自然の多い環境などで腹側迷走神経が活性化すれば(NATURE FIX には自然に対する畏怖の念が迷走神経を活性化させていくという仮説がある)、背側迷走神経による凍りつきが解消されると同時に、腸脳相関が回復するということになります。
睡眠の長さが解消されると同時に、胃腸障害が回復するというのは、ポリヴェーガル理論からすると十分説明しうる変化に思えます。両者は同じ背側迷走神経の凍りつきによる症状とみなせるからです。
わたしの場合、主治医と話した引っ越し後一ヶ月の段階では、このような変化は起こっておらず、もともと症状がもっと重いので時間がかかるかもしれない、と言われました。
その後さらに2週間ほど経過してみた今では、少しずつ胃腸の状態がよくなっている感じがします。まだ睡眠時間は長いですが、日々の大自然の中のソマティックな体験によって徐々に迷走神経が活性化し、腸脳相関が回復していくのかもしれません。
さっき書いたように、こんこんと降る雪の中をサイクリングしたりしていると、不意に感動を覚えることが多々あり、「あっ、いま迷走神経が刺激されている」と感じることがよくあります。前々回書いたPoNSのような電気刺激装置を使わなくとも、大自然の中に身をおくことは、迷走神経に微弱な刺激を継続的に送る効果があるんでしょう。
興味深いことに、さっきポージェスは、背側迷走神経の機能について、「不動」、「徐脈」、「無呼吸」は、哺乳類が誕生するずっと前の、太古の脊椎動物において発達した防衛機制だったのです」と書いていました。トラウマの凍りつき症状には「無呼吸」つまり無意識のうちに息を止めてしまうことが含まれています。危険を感じるとわたしたちは息をひそめます。
わたしたちの現代社会では無意識にこの状態に陥る傾向があるらしく、たとえば退屈すれば脳はひらめく には電子メールを送るときに人々が内容を気にして呼吸を止める「電子メール無呼吸症候群」がみられると書かれていました。
「電子メール無呼吸症候群」という言葉を生みだしたテクノロジーライターのリンダ・ストーンによれば、「メールをしているときに、一時的に呼吸が止まったり、浅くなったりすること」だそう。
みなさんもこの感覚はわかかるのでは? 私たちはメールをチェックしたり、ページを読みこんだりするときに、よく息を止めています(もちろん肩には力を入れっぱなし)。
パンによると、息を止めるのは進化の過程で身についた不安の表れとのこと。「大昔の人間はトラに狙われていると気づくと、ぜったいに音を立てないように息をひそめないといけなかった」(p105-106)
それに対して、NATURE FIX には大自然の中のセラピーに参加したトラウマ当事者の次のような記述が。
「まさか自力で川下りができるなんてね。アドレナリンが出まくって、もうくたくた」そう言うと、ヨガのインストラクターから教わったという言葉を教えてくれた。
「不安ってね、息をとめて興奮しているだけのことなんだって」どうやら川下りをしているうちに、呼吸をすることを思いだしたらしい。(p284)
またあなたの子どもには自然が足りない にも自然の中で呼吸が回復することについての、こんなエピソードがある。
「ここへ来ると、息ができるんだ。ここでは音が聞こえるからね。町では騒音がありすぎて、何も聞こえない。町では、何もかもあけすけに見えるけれど、ここでは近づけば近づくほど、ものがよく見えてくるんだ」(p77)
わたしも引っ越してきてから、自動車学校などで凍りつきが悪化したあとに自然のなかをサイクリングしていると、ふと息をすることを思いだす瞬間があります。こうしてパソコンに向かって記事を書いているとやはり集中して無呼吸になってしまいますが、部屋着のままコートを羽織って家の外に一歩出れば自然の中なので、呼吸をすることを思い出せる。これは頭で意識してどうにかなるものではなく、身体が呼吸を思い出すという生理的変化だと思っています。
無呼吸は、睡眠障害の一種としても知られていますが、こちらに来てから、中途覚醒が減りました。もしかすると、都会の騒音がずっと鳴っている環境では、夜寝ていても、警戒して息を止めていたんでしょうか? 今住んでいるところは、道路沿いで長距離トラックなどがよく通るものの、断熱材が詰まった家だから家の中まで騒音は聞こえません。そのおかげで、息をひそめずに安心して寝られるのかもしれない。
デカルトの教義に支配された現代社会
最初のほうで、わたしに起こったこうした変化が他の人にも見られるものなのかどうか、つまり、わたし個人の特殊な事例なのか、それとも自然豊かな場所に転地する選択肢を取れる人が少ないだけでもっと普遍的な反応なのか、どちらかわからない、と書きましたが、少なくとも主治医の意見からすると、後者だと思います。
わたしの主治医は小児の慢性疲労症候群の専門医ですから、少なくとも小児期発症のタイプはわたしと似た反応を示す可能性が高そう。成人期発症の慢性疲労症候群やPTSDなどが同じ反応を示すかどうかは、わたしにはよくわかりません。
しかし、NATURE FIX に載せられている戦争トラウマに対する自然セラピーの例などからすると、少なくとも効果のある人はいるのではないか、と思います。何度も書いているように、本当に自然の多いところ(観光地ではなくいわゆる「ド田舎」)に長期間滞在したり移住したりするという選択肢を取れない人が多いだけで、もし試すことができれば、効果を実感できる人が潜在的にはかなり多いのではないかな、と思いました。
ポージェスが『「私たちは危険な時期に危険な場所に生きているのだ」、と社会が私たちに明確に告げているのです。私たちが安全を必要とすることをもっと尊重していたら、人類はどうなっていただろうと、つねに疑問を感じています』と書いていたように、もしも都市にいてドクターショッピングを繰り返している人が、安心して生活できる自然豊かなところで療養するという選択肢が身近にあれば、いったいどの程度の効果が見られるのだろう、と疑問を感じます。
自然の効果を過大評価するわけではなく、純粋にどの程度効果があるのか、わたしは気になるわけです。最大の問題は、効くか効かないか以前に、そうしたことを試す機会がない人があまりに多すぎること、そして製薬会社などの儲けにならないせいで、また医者や研究者たち自身が都会出身で自然と触れ合った経験がないせいで、そもそもまともな研究さえも行われていないことにあるからです。
この点でわたしの主治医は子供時代に自然豊かな環境で育った人なので、大半の医者とは違う観点を持っていました。医者や専門家も含め、大半の人たちが自然から切り離されて育った「自然に対する愛着障害」状態にあるため、自然の益など考えもせず薬物療法を過信していますが、主治医のように自然と正常な愛着関係を結んでいる人に診てもらえたのは、わたしにとって非常に幸運だったといえます。
ほとんどの場合、自然から切り離されて久しく、動物的本能を失ってしまった現代人にとっては、「自然には薬物療法よりも効果があるかもしれない」、というアイデア自体がばからしく思えてしまい、最初から選択肢に上らないことが多いからです。
デカルトの教義のもとに高等教育を受け、文明の旗手としての自負をもっている現代の知識人たちにとっては、自分が本質的には動物であり、自然の中に生きていたころと何ら変わらない遺伝子を受け継いでいるという生物学的事実は、いわば不都合な真実であり、向き合いたくないテーマなのでしょう。
でも、ヒトは動物を超えた霊長類であるという概念は哲学者たちが作り出したファンタジーであり、生物学的現実とは乖離した非科学的概念です。ポージェスがポリヴェーガル理論入門で述べているように、そうした人は高等教育を通して動物を卒業して賢人になったつもりかもしれませんが、身体の仕組みは依然として動物と同じなのです。
私が言いたいのは、私たちの教育制度の目的は何なのか、ということです。例えば、私たちの教育制度の目的は、子供たちにより多くの情報を与えて教育することなのでしょうか?
それとも人々がより良い相互交流ができ、気分が良くなるように互いに調整しあうことができるようにすることなのでしょうか?
結局、デカルト哲学に戻るのです。そこでは思考中心に生き、認知能力を拡大し、認知をもとに定義された「賢人」になることが望ましいと考えられてきました。
しかし、より「賢く」なったにも関わらず、私たちは心地よくあるために身体が欲していることについては、文字通り無知であるわけです。(p229)
確かに人間は「考える」生き物ですが、生き物の本分はもともと「感じる」ことです。人間は「考える」ことができるからといって、「感じる」ことを卒業してよいわけではありません。
アントニオ・ダマシオが実験が示したとおり、感情を抜きにした理性は的外れになります。理性もまた感情から生まれ、感情は身体の内臓感覚から生まれるからです。内臓感覚を感じる能力が退化すれば、理性的な思考もまた退化し、的外れになっていきます。
本来は、デカルトが説いた「考える」能力を育てる前に、まず「感じる」能力を育てる必要があります。動物としての本分である「感じる」力を養ったあとにこそ、人間らしい「考える」能力をまっとうに成長させることができます。
人間の脳の仕組みは階層的であり、原始的な脳幹と大脳辺縁系の“上に”人間の特色である大脳新皮質があるからです。まず脳幹、次いで大脳辺縁系が正常に働いた場合にのみ、最上層の理性的な大脳新皮質が機能します。それなのに、デカルト式教育は、大脳新皮質だけを訓練しようとします。それでは本当の人間らしさが発揮されません。
まず人間は、3歳ごろまでに、脳幹で行われる自律神経のコントロール機能を学ぶようにできています。これが愛着として知られる自己調節能力です。生まれてすぐのころに、親の世話のリズム、また自然の環境の中のリズムを自分の中にコピーすることによって、自律神経を自己調節できるようになります。これがあらゆる脳の機能の基礎となる土台部分です。
次いで幼少期を通じて、大脳辺縁系の感情の調節が発達していきます。子ども時代にバランスよく育てられた子どもは、ポジティブな感情を味わうことを学び、怒りや悲しみなどのネガティブな感情を適切な仕方で表現することも学びます。
その上で、ようやく大脳新皮質の出番になります。自律神経や感情をコントロールする能力を身に着けてはじめて、その上に理性的に考える力が培われます。そのような子どもは、思う存分創造性を発揮できるでしょう。
ところが現代社会の教育では、大脳新皮質を訓練する知識の詰め込みがほとんどであり、その下の自律神経や感情のコントロールという土台は無視されます。社会の構造からして、常に危険にさらされるため、土台部分がうまく形成されないことがほとんどです。土台が形成されていないのに学校社会に放り込まれると、自律神経や感情を調節できないせいで破綻してしまい、わたしみたいに不登校になることもあるでしょう。
学校では子供たちをまるで学習する機械のように扱っています。また、学校教育の成功は、その機械にどの情報をプログラミングできたか、ということで判定されます。
一人一人が内臓状態を調節することの大切さは顧みられていません。実はこれは学習を促進し、社会的行動を望ましいものへと導く前提条件であり、神経生理学的基盤であり、人としての必須の能力なのです。
ところが、内臓状態を調整する力を育むことは、学校のカリキュラムには取り入れられていません。(p227)
この脳幹や大脳辺縁系における調節能力は、「前提条件であり、神経生理学的基盤」にもかかわらず、それを子ども時代に育めないまま学校に放り込まれる子が少なくありません。その理由のなかにはもちろん家庭崩壊などによる愛着障害もあるでしょうが、それよりもなによりも、自然から切り離された危険を喚起させる人工的な社会環境で子育てが行われていることがあるとわたしは考えます。
しかし現在の教育システムでは、その点がすっぽりと忘れ去られています。合唱したり、オーケストラで楽器を演奏したり、休み時間に身体を使って友達と遊んだりすることで、子供たちは協働調整するすべを集団行動から学びます。
ここでは、有髄の迷走神経経路を使って、社会交流システムが活発に働いています。それでこそ、神経系が健全に発達し、前向きになっていけるというのに、今の子供たちは、神経系が発達してく機会を逃し、ずっと教室に座らされているのです。
私たちは神経系の発達を促す機会を、勉強の邪魔になると誤解しています。たしかに子供たちは多くの情報を得ますが、せっかく得ても情報は効果的に処理されず、反抗的な行動が現れてきます。これが現在の教育システムと人類の発展についての、私の率直な意見です。
こうしてみると、幼児期体験に問題があると、様々な弊害が生じるというリスクについても考えておかなくてはなりません。幼児期体験についても、神経的、発達的、訓練的な視点から考えていかなくてはなりません。例えば、行動や生理学的状態を調整する神経回路を子供のときに使っておかないと、それらの神経回路はうまく育ちません。(p112)
わたしが住んでいる町には、子育てのために本州から良い環境を求めて移住してくる家族も多いですが、正常な判断能力をもった親であれば、子育てにふさわしい環境がどんなものかくらいわかるはずです。動物でさえ子育てする場所を選ぶんですから。
しかし都会で生まれ育った人はそれ以外の環境を経験したことがないせいで、都会の騒音や人混みの中で子どもを育てるリスクにまったく無頓着になってしまいます。常に自動車の騒音が聞こえ、24時間明るい場所で子育てしても、赤ちゃんは何ら害を受けないと思い込んでしまいます。文明社会の偏った教育のせいですっかり動物的本能から切り離され、自分が動物であることを忘れているからです。
柔軟性はいずれ回復するのだろうか?
ここまで、わたしが経験したよい変化ばかり書いてきましたが、病状が根本的に改善されたわけではないことは、自分でよく承知しています。
ちょうどかつてリタリンを飲んだとき、薬が効いているあいだだけ症状が軽快したのと、まったく同じことが、「自然のリタリン」によっても起こっています。(あなたの子どもには自然が足りない のp115の表現)
いまのところ、自然の効果はわたしにとっては対処療法であり、家の中や都市部にいると消耗していきます。他方、自然の中をサイクリング(スノータイヤやスパイクタイヤでもスピードを出すと危ないのでサイクリングというより「ポタリング」)していると、回復してきます。
自動車学校に行くと、とくに消耗します。わたしはもともとのトラウマ経験が学校とかなり条件付けられているので、教室のような場所に入るだけで凍りつきが悪化します。教官と1対1のレッスンなどは吐き気がします。しかも、非常に環境が悪く、たばこの匂いやそれを打ち消す芳香剤が充満していて、職員にあいさつしても返事がまったく帰ってこないくらい態度が劣悪です。田舎の悪いところが凝縮されているような学校でストレスだらけです。
はじめのころ、技能教習のときに、緊張感が最高潮に達して、一瞬解離して意識が飛んでしまい、無意識のうちに操作してしまう失敗をしでかしたので、これは危険だと感じ、次から自動車学校に行く前にカタプレスを飲んで、マスクも二重にかけることにしました。
カタプレスを服用したのは、舞台俳優などが頭が真っ白になるのを防ぐために、演技前にβ遮断薬を服用するのと同じ原理です。(一応、β遮断薬はトラウマの条件付け形成を防ぐのではという研究もある)。
ポージェスはポリヴェーガル理論入門でこうした使い方に言及していますが、あまり薬で自己調節するのは望ましくないので緊急時限定の手段ですね。さすがに自動車学校で運転中にSEの技法でリラックスを試みるのはわたしの今のレベルでは無理でしたので。引っ越し後に薬に頼っているのはここだけです。
短期と長期の薬物の使用については重要な違いがあります。私たちは、緊急時に薬物を使用することはよく知っています。しかし私たちの社会では、緊急時に薬を使うことの効用を、そのまま習慣的な薬の使用にも当てはめてしまっています。
不安や、人前での講演、あるいはエレベーターに乗ったりすることへの対処方法として、β遮断薬を服用している人がいます。β遮断薬は、交感神経系の働きの一部を遮断し、可動化と過覚醒を可能とする適応的防衛反応を働かないようにさせます。
しかし不安は、可動化と過覚醒を促進する同じ神経状態から生まれます。交感神経が活性化して防衛状態が引き起こされてしまうために経験できなかったことも、β遮断薬を服用し、交感神経の作用を一部抑制すれば体験することができるようになります。
ほとんどの場合、神経系の重要な適応的部分の機能を遮断する恐れがあることを考慮することなく、薬物が処方されています。一旦、β遮断薬を服用したら、交感神経系の一部の働きが遮断されます。
この薬は広く一般的に使用されていますが、これによる健康と行動への長期的な影響はどのようなものになるのでしょうか?(p157-158)
カタプレスβ遮断薬とはちょっと違うので、夜に飲むとリラックスして眠気が生じますが、自動車学校のときだと、過緊張状態からほどよく覚醒度を落とすので、眠くなることなく、かえって集中できるようになりました。情動の過敏な反応を抑えてくれるので、冷静に対応できるようになります。
幸いなことに?自動車学校があるのは、わたしが住んでいる田舎の町ではなく、もともと好きではない都会のほうなので、どれほど自動車学校が嫌でも、今住んでいるところに対して負の条件付けが形成されることはないと思います。むしろ帰ってきてから“解毒”がてら町の中をポタリングするのが楽しみなくらいで。
リチャード・ルーブによると、住んでいる場所に対する「土地への愛着」を育むのが大事ということですが、その点ではわたしは今の町に旅行で来て一目惚れして以降、ずっと大好きですし、毎日散歩したりポタリングしたりすればするほど、この町の自然が好きになっています。
自動車学校以外でも、相変わらず都会に出かけたり、ショックなことがあったり、無理をしたりすると凍りつきが起こるので、自分の体調が治ったわけではないことは重々承知しています。あくまで環境がよくなっただけです。わたしの神経系は、オリヴァー・サックスが道程:オリヴァー・サックス自伝の中で書いている嗜眠性脳炎の後遺症の状態に近いように感じます。
突然、予測不能な反応の変化が起き、Lドーパに対して極端に過敏になる。この薬を試すたびに異なる反応を示す患者もいる。私は用量を慎重に量って変えようとしたが、それも効果がない。
…通常の回復力やゆとりをなくしたように思える脳システムに対処するとき、純粋な医学的アプローチや薬物療法ではどうしようもない限界がわかるのだ。(p218)
わたしの自律神経系は、「通常の回復力やゆとりをなくしたように思え」ます。外部からの刺激に敏感に反応し、通常のホメオスタシスが働いていないからです。
ホメオスタシスという観点から
まだ記事にまとめてはいませんが、このホメオスタシスに関する部分が、トラウマ症状の根幹ではないか?といま考えています。
アントニオ・ダマシオが意識と自己 で述べるところによると、(最初に聞くとかなり意外なのですが)ホメオスタシスは、生物学的には「意識」や「自己」と重なる概念です。
というのは、生物は外界の環境にさらされても自己調節して自分の体内環境を一定に保つことにより、「個」を保つことができるからです。そして意識とは、このホメオスタシスを維持するためのシステムだとダマシオは論じます。
「ホメオスタシス」とは、生物(有機体)の安定した内部状態を維持するための、調整のとれた、そしてほとんど自動化された生理的反応である。
つまり、ホメオスタシスとは、体温、体内の酸素濃度、身体のペーハー(pH)などを自動的に調節することである。…私は本書で、ホメオスタシスが意識の生物学の一つの鍵であることを提示する。(p56)
われわれが考えうるどんな種類の自己であれ、つねに一つの考え方がその中心にある。
それは、時間的にひじょうに穏やかに変化するが、なぜか同じままとどまっているように見える、境界で仕切られた一つの個体、という考え方である。
…自己という概念の背後には単一個体という概念がある。またこの単一個体という概念の背後には安定性がある。(p181-183)
意識が有益なのは、それによってホメオスタシスを実現する新しい手段がもたらされるからだ。(p392)
トラウマ当事者は、脳幹や視床下部の機能に問題を抱えていますが、それらはまさにホメオスタシスを制御している部分です。
トラウマ当事者は、わたしがまさにそうであるように、自律神経系や覚醒度の自己調節の困難を抱えます。それと同時に、「意識」や「自己」の問題を抱えます。解離性障害になると自己が薄れたり(離人症)、自己の統合が失われたり(解離性同一性障害)します。
これらはかたや自律神経症状、かたや心理学的症状だとみなされてきましたが、そうではなかったわけです。これらは同じ問題のことを言っています。
ダマシオによると、自己調節能力が損なわれることはつまり、環境から独立した「個」を保つためのホメオスタシスが阻害されるということだからです。
トラウマ当事者は、外的環境が変化したとき、あたかも変温動物の体温やカメレオンの体色のように自分の身体の内部環境まで釣られて変化します。過剰同調性や解離性同一性障害の人はとくに、外的環境に合わせて意識状態や覚醒度が変化し、別人格のようなモードに切り替わります。
これは、言い換えれば、体内環境を一定に保つホメオスタシス、すなわち外的環境から独立した「個」を保つシステムが働いておらず、外的環境に釣られて内部の「個」が変化してしまう状態です。
外的環境によって人格が変化するというのは心理学的・精神医学的問題などではなく、人格というものは身体から生じているというダマシオの神経科学からすれば、身体の内部環境がころころと変化してしまうという意味だからです。
さっき引用したポージェスの文でも「トラウマ歴のあるクライアント…の多くが消化、特に胃部不快感や便秘などの問題を抱えている」ことについて、「横隔膜下迷走神経回路…が防衛に使われるため、恒常性を維持する役割が阻害されるからだ」とされていました。トラウマとは「恒常性」つまりホメオスタシスが阻害されることです。
ということは、トラウマ当事者が抱える受動的に周囲の環境に合わせて奇怪に変容する多彩な心理学的・精神医学的症状(文化によって変化するので文化結合症候群とも呼ばれる)は、すべて、生物学的に解釈すればホメオスタシスの異常とみなされるものであり、その原因化は脳幹や視床下部の自己調節能力の低下なのです。
ポージェスは、ポリヴェーガル理論入門で、このような本質的には生物学的問題であるものを、早計に心理学的・精神医学的問題とみなしがちな、わたしたちの社会の傾向を「エセ道徳のベニヤ板」と呼んでいました。
医療の世界では、トラウマ・サヴァイヴァーの症状に対して、例えば失神などの反応が起きると、心理学的な問題だと捉えます。しかしこれは実は生理学的な反射なのです。(p209)
私たちは、どんな行動にも動機があると考え、その行動について良いか悪いかを評価する世界に住んでいるようです。行動が良いか悪いか評価し、生理学的および行動学的状態を調整している適応機能については理解しようとしない、この社会の傾向性を、私は「エセ道徳のベニヤ板」と呼んでいます。(p241)
わたしたちの社会、そして精神医学は、生物学的な問題を個人の性格や、さらには道徳の問題へとすり替えてきました。本来は社会の側に生物学的な不備があるのに、個人の精神に問題があるように見せかけることによって、社会を存続させるためのスケープゴートを作り出してきたのが、精神医学という学問なのです。
「最善を尽くす」本能が働かなくなる
「トラウマ障害の多彩な心理学的症状は、生物学的なホメオスタシスの異常として解釈されるべきである」という考え方は、今後わたしが物事を考えるにあたり、非常に重要なキーポイントになるのではと思います。
たとえば、オリヴァー・サックスは、レナードの朝の中でおもしろいことを書いています。
ホメオスタシスとは、一定の条件下で可能な(あるいは両立し得る)最適条件を手に入れることであり、手短に言えば「最善を尽くす」ことだ。
人間生活のあらゆる場面、つまり分子や細胞のレベルから社会的・文化的活動の段階まで、ホメオスタシスは広く機能しているのである。
…こうした働きは、ストレスを与えられたすべての生物に見られ、私たちがほとんど知らないような深さや複雑さを持っている。(p458)
サックスは、ホメオスタシスを「最善を尽くす」能力だと表現しています。これはとても示唆的です。
なぜなら、ホメオスタシスが低下したトラウマ当事者は例外なく、「最善を尽くす」のが苦手だからです。ベストを尽くす、とは自分の持ちうる力を最大限発揮すると同時に、限界を超えてまでは無理しないことを言います。しかし、トラウマ当事者は、限度がわからず、やりすぎてしまうことがよくあります。身体が悲鳴を上げていても気づくことができません。
今わたしもずっと昔からやりすぎる傾向があるし、今でも体調がどんな場面でも良いわけではないから、うまく限界を見きわめてバランスをとるのが大変です。慢性疲労症候群の場合、この傾向は「プッシュ-クラッシュ・サイクル」(やりすぎては寝込むことを繰り返す)と呼ばれており、海外の当事者の間では有名です。
従来なら、こうした傾向は、心理学的に「完璧主義」や「強迫的」な性格だと解釈されていた。でも心理学的な説明はもはや正しくありません。完璧主義だから、強迫的だからやりすぎる、というのは表面的な解釈にすぎません。
実際には、その背後にはホメオスタシス能力の低下、つまり「最善を尽くす」ための生物学的能力の低下が存在していると考えるべきです。
自然界の動物は、やりすぎることは決してありません。自然界の動物は、みな限度を本能的に知っています。食べ過ぎることもなく、過労死することもない。考える力はないのに、感覚的に限度をわきまえている。これは生物にはもともと「最善を尽くす」ための能力であるホメオスタシスが組み込まれているからです。
ところが、トラウマを負った人は摂食障害になって食べ過ぎたり食べなさすぎたり、仕事に打ち込んで過労死したり慢性疲労症候群になったりする。なぜか本能的に限度を感じることができなくなっている。これは完璧主義や強迫性などという心理学的な性格ではなく、ホメオスタシスの不調とみるべきではないでしょうか?
おそらく子どものころの経験の中で、自身のホメオスタシスを無視して活動するよう求められてきたためでしょう。本当なら動物の身体は、危機に瀕するとホメオスタシスが破綻し、痛みや疲れ、発熱などでアラームを発します。動物はそれによって限度を超えたことを感知し、ホメオスタシスを保てるような安全な環境へと移動します。
ところがそれが許されない環境で育った人は、ホメオスタシスが破綻して、アラームが鳴り響いても、逃げられないのでアラームを無視するしかない。するとホメオスタシスが働かないまま凍りついてしまう。その結果が、あたかも自分の限度を認識できない「完璧主義」や「強迫性」の性格のように見える、というだけ。もともとそうだったわけでもなければ、そういう性格なのでもない。
心理学的な傾向と思えるものは、すべて生物の内部環境の反映であり、その人の内部環境に異常が起こっているから、ふつうと違う行動を取っているとみなすべきです。性格のせいにするという心理学的・精神医学的な解釈は、科学的に正しくないばかりか、問題を当人の人格に帰しているという点でひどい誤りです。
ポージェスがポリヴェーガル理論入門で指摘しているように、わたしたちの文化では、たとえ子ども時代に具体的なトラウマに遭っていない人でも、こうした身体的なアラームを無視して、ホメオスタシスに従わない傾向が訓練されています。デカルト的な教育によって、身体が悲鳴を上げてもそれを無視して制御するのが美徳とされるからです。
しかしデカルト哲学をもとに作られた文化では、良い人間であるためには、「良い脳」、さらに言えば「賢い脳」が潜在的な能力を十分に発揮できるように、内臓感覚は抑圧されるか、拒絶されなければなりません。
もしかすると現代の肉体的および精神的な疾患は、デカルトの格言に忠実でありすぎた結果かもしれません。身体の反応に注意を払わず、内臓感覚を無視することで、長年にわたり、脳と身体の双方向の神経のフィードバックループを抑制してしまったために、心身の疾患が発生したいるのではないでしょうか。(p224)
自然界の動物は、自分の限度を本能的に感じられるのですから、人間が本来同じようにできないはずはありません。もし限度が感じられないのであれば、それは本人の完璧主義的性格ではなく、限度を感じる脳のシステムが、抑制されているせいです。
それを回復させる方法はもちろん、再び限度を感じられるようになること、あるいは「最善を尽くす」とはどういうことなのかを本能的に感じられるようにすることです。SEのセラピーでやっていたのは、まさにこのホメオスタシスを回復させることだった、とみなすことができます。あるいはわたしが今自然界のなかでやっていることもまた。
わたしが前にかかっていた慢性疲労症候群の病院では、「疲労度計」のように疲労などのレベルを数値化して計測しようという研究が盛んでした。無自覚の疲労を計測できるようになれば、過労死なども未然に防げると。
最初はわたしもこうしたコンセプトに期待していましたが、今ではこれは本来なすべきことと真逆の路線なのではないか、と思っています。自然界の動物たちは機械で疲労をモニタリングする必要などないのですから、目指すべきは、機械がなければ疲労を感知できないような社会ではなく、みなが自分の内臓感覚を感じられるよう、ソマティックなセルフモニタリングの技術を教えることのできる社会ではないのでしょうか。
もし外部機器がなければ自分の体調を知ることができない、という考え方が普及してしまえば、わたしたち人類は、今よりもさらに自分の内部環境を感じ取ることから疎遠になり、身体から切り離され、個を保つホメオスタシス能力を失っていってしまうのではないか、と思えます。
疲労度計のような取り組みが無意味だとは思いませんし、本当に自覚できなくなって麻痺している人に危険を警告するのには役立ちますが、ではそのような人はそれからずっと疲労度計を使い続ければいい、というのではないでしょう。あくまで内臓感覚を感じ取り、機器無しで自己調節していけるよう継続的にサポートできてはじめて、機器は意味をもつのではないか、と今は思っています。
あのころの洞察はもう書けないけれど
これから自分がどこに向かい、どのような変化を遂げていくのか、また何を考え、何を書くことになるのか、今はまったくわかりません。
わたしの考察内容は、その時々の状況で大きく変わってきました。
関西に住んでいたころは、発達障害を取り巻く都会の喧々諤々の議論や、慢性疲労症候群の盛んな啓発運動などに興味を持っていました。そのころ自分はADHDや発達障害だと思っていました。わたしの住んでいた環境が、そういう文化だったからです。(慢性疲労症候群の研究の中心地が近かったですし)
しかし関東の都心部に引っ越して、より都市化された環境に住むようになると、症状が悪化し、自分の奇妙な状態を、より具体的に仔細に自己観察できるようになりました。ある意味、自分を客観視できる解離が悪化したおかげです。
すると、これまで受け入れてきた発達障害や慢性疲労症候群の概念では説明がつかないことに気づきました。次第に、そうした概念は、なにか根底に歪んだバイアスがかかっている社会現象の一種(社会的ミーム)ではないか、と思うようになり、距離を置くようになりました。
答えを探し求めたわたしは、HSPや発達性トラウマの研究に行き当たりました。当時のインターネットではこれらの概念はまだほとんど注目されていませんでした。
当時書いた、発達性トラウマ、過剰同調性、無秩序型愛着などの記事は、ぜんぶわたしの不可解な状態を説明するためにまとめたものでしたが、あれはあの時期のわたしにしか書けない記事だったな、としみじみ思います。その意味では、関東で暮らしてよかったです。次から次に洞察がつながり、自分が抱えていてる問題の全体像が見えてくるのは、どんな推理小説よりも劇的でした。
しかし、今となっては、もう二度とそこには帰らない、というか帰れないと思います。再度環境が変化したことで、わたしが感じていた違和感とは、自然界から、そして動物的本能から切り離された結果としての生物学的な問題だと気づいたからです。それは自然と触れ合う環境に身をおいてはじめて気づけることでした。
発達性トラウマ関連の記事は、人工的な都市に囲まれた環境だったからこそ書けたものであり、その意味で同じような環境で暮らしている人たちにとって理解しやすかったかもしれません。(あの当時あたりからブログのアクセス数が増えてしまい、ひっそりやっていきたい身としてはたいへん困ったことになっていました)
一方で、いま書いている内容は、あくまで自然と触れ合う環境の中だからこそ、書けるものだと感じています。都会に住んでいる人には理解しにくい内容にシフトしていくでしょう。でも、今のわたしはこの路線が正しいと思っています。やがてまたいつか環境が変わったら、方向転換するのかもしれませんが。
きっとあのころは書いていたような洞察は、今のわたしにはもう書けません。当時の考え方が間違っていたわけではなく、たぶんあの環境ではあの考え方が最適だったのでしょう。
しかしもうその環境にいないので、同じ考え方はできません。わたしはその時々の自分だからこそ書けることを大切にしたいから、いつもこうやって記録を残すことにしている。「今」だから書けるもの、いや「今」だからしか書けないものはどんな時にも存在していて、後になってから書こうとしてももう書けなくなってしまう。その意味では過去に書いた考察もすべて大事な道のりです。
たしかに過去の書いたものの中には、知識不足から間違ったことを放置しているのは多々あるけれど、それはきっと今書いている文章にもあるから仕方ない。完全に正しいことなど書ける人はいない。オリヴァー・サックスでさえレナードの朝の1990年の改訂のときにこう書いていた。
本書の中には私自身がもはや同意しないような考えもあるが、それらをそのまま残すことによって、このような本が生まれるこれまでの経緯を明らかにしておきたいと考える。
同様に、1990年版が将来どのように考えられ、修正されるかは誰にもわからないのだ。私は今日でもパーキンソン患者と接するときには驚きを感じ、無限ともいえる病状の表面に触れたにすぎないとの思いを新たにする。そしてまったく違う見方ができるのではないか、とも感じるのである。(p27)
これからのわたしはまた別の新たな方面を模索し、博物学者だったオリヴァー・サックスのような足跡をたどることになるでしょう。サックスは専門的な本をたくさん書いていますが、面白いことに同じテーマの本を二度書くことはなく、常に話題が変化し続けました。
これからわたしはさらに自然界の中で回復していくのか。それともこの状態のまま停滞するのか。あるいはかつてコンサータを飲んでいたときのように、どこかで症状の揺り戻しのようなものが生じてしまうのか。時間が経ってみないとわかりません。
少なくとも引っ越してきてわかった一つのことは、わたしの症状は、従来の医学の範疇で説明できる程度の問題ではなかったということです。環境が変化したことでこれほど劇的に変わってしまうのは、ある程度想定していたとはいえ、やっぱり不可解でした。
かつてのわたしは、なぜ自分の症状はこれほど奇妙なのか、という疑問の答えを探って発達性トラウマにたどりつきました。当時はそれらの奇妙な症状は永続する不変のものとしてとらえていました。子ども時代に身体に刻まれたトラウマ、手続き記憶の痕跡は、地層に埋められた化石のように、そう簡単には消えないという観点でした。
しかし、自然界の中で劇的に変わってしまった今、これからのわたしは、なぜこれほど環境に反応するのか、という新たな疑問の理由を探さねばならなくなりまのした。その手がかりとなるのがリチャード・ループの自然欠乏障害の概念だったり、ポリヴェーガル理論だったり、ダマシオの意識とホメオスタシスの研究だったり、というのが現状です。
身体に刻まれていたトラウマとは、都会で感じていたような不変の化石のようなものではなく、「通常の回復力やゆとりをなくした」パターンなのではないか。それゆえ、都会のような一定した負荷のかかる環境ではずっと奇妙な症状に悩まされるし、今住んでいるところのような自然界の変動の大きなゆらぎのある環境では、良くも悪くも影響を強く受けるのではないか、と。
いったい自分自身の考察がどこへ向かっていくのか、どの程度のペースで記事を書くのか、といったことはどれもまったく不透明ですが、また新たな道のりを歩んでいきたいと思います。SEのセラピーはまた受けに行きたいけど札幌まで数時間かけて出ないといけないので、とりあえず自動車免許をとって、雪解けしたころになりそうです。
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