大自然のゆらぎによって凍りついたリズムを回復させる道のり(5)

自然豊かなところで、身体のリズムを取り戻す体験記の5番目。

前回は、最近の心境の変化、わたしはもともと原体験として自然に親しんでいたために、ここに引き寄せられたのではないか、ということを書きました。

今回は、今後のわたしの目指す方向性において、すばらしい手本になってくれると感じた一冊の本について書きたいと思います。

なお、以前ここで書いていた自然界についての体験記(星空を見たりスノーシューで歩いたり)は、別に自分の体調と向き合う関係の話ではなく、芸術的色彩を帯びた内容なので、表のほうに統合しました。

自然界を感じることを教えてくれる教師

こうして自分が求める豊かな自然のなかにやってきたわたしですが、問題なのは、わたしが理想とするような自然との関わり方を教えてくれる教師がいないことです。

SEのセラピーや、他のボディワークは、感覚の使い方をトレーニングする助けにはなります。でも、セラピストたちは自然界の専門家ではありません。

先日までわたしがかかっていたSEのセラピストもそうでした。なぜわたしが自然豊かなところに引っ越すという決定に至ったか、あまりよくわからないようでした。でもピーター・ラヴィーンの理論を突き詰めれば、そこに行き着くと思うんですけれど。

トラウマの専門家も、医療の専門家も、わたしが本当に求めてやまない自然界の専門家ではありません。かといって農家や森林管理官がそうだというわけでもない。農地や森林を資源とみなしているとしたら、自然界についての専門家とはいえないからです。動物園や水族館の飼育員も違う。ただの「作られた」自然に従事している商業体制の一部にすぎないから。

自然をレジャーとして「楽しむ」ことでも、専門知識として「知る」ことでもなく、それを「感じる」ことを教えてくれる人たちはどこにいるのだろう? 今のわたし、そしてこれからのわたしに何よりも必要なのは、まさにそうした人たちであり、自然の言語を理解できる詩人なのに。

わたしの周りには、それを教えてくれる人が誰もいません。トラウマのセラピストも医者も学者も、現代社会のただ中にいる人はもはやだれも、それを教えられないし、それが何なのかすらわからないのではなかろうか。

そんなことを思っていたときに読み始めた一冊の本がありました。はじめは図書館で借りて、なんとなく手にとっただけだったけれど、読み進めていくうちに、目が開かれるような思いに打たれ、これは非常に重要な本で、これからのわたしを導くコンパスになると確信したので、いつでも読めるように購入しました。

それは、植物と叡智の守り人 。ネイティブ・アメリカンの生まれの植物学者、ロビン・ウォール・キマラーによる、科学的であると同時に詩的な、とても美しい本でした。

この本の魅力を伝えるのはとても難しい。わたしにとっては、あらゆる章のあらゆるエピソードが魅力的で、学ぶことだらけなのだけれど、あまりにわたしが自然界からかけ離れて生きてきたせいで、その魅力をうまくまとめられるに至っていないからです。

ちょうど、ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するをはじめて読んだときとよく似ています。あまりに本全体が興味深く、すべての節が重要に思えるために、その本の内容をひとつの書評にまとめるというようなことがなかなかできない。

ヴァン・デア・コークの本は、ここ数年間のわたしのトラウマについての考察を導くインストラクターになったけれど、ロビン・ウォール・キマラーのこの本は、これからのわたしが自然界と親しむ数年間を導いてくれる本になるに違いない。そう思いました。

わたしが自然界とのつながりに目覚めるきっかけになったのは、まずフローレンス・ウィリアムズのNATURE FIX、次いでリチャード・ルーブのあなたの子どもには自然が足りない だったけれども、ロビン・ウォール・キマラーの、植物と叡智の守り人 は前二冊で科学的な理解を得た上での三冊目として位置づけるにふさわしい、すばらしい応用編です。

キマラーは植物学者として科学的かつ論理的な思考も大切にしていますが、それと同じくらい感覚を用いて味わい知ることも大切にしていて、この本ではその2つの観点が絶妙に織り合わさっています。

私は生来、ものごとの関係性、世界をつなぐ糸を探し、ものごとを分断するのではなく結びつけようとする性質(たち)だ。

だが科学は、観察するものを観察の対象から、観察の対象を観察する者から厳格に切り離そうとする。(p63)

私は科学で使われる言語を身につけたー念入りな観察に基づき、小さな部位の一つひとつに名前を与える詳細な語彙。

名前を付け、それを説明するためにはまず、それを見るというところから始めなければならない。そして科学は見る力を磨く。

今では私の第二言語となったこの言語の長所を、私は高く評価している。

けれど、豊かな語彙とものごとを描写する高い能力を備えながらも、そこには何かが欠落しているー自然に耳を傾けるとき、あなたは自分の周りに、そして自分の中に、その何かと同じものが湧き上がるのを感じるのだ。

科学はときに、一つの存在はバラバラの部品に分解してしまう。よそよそしい言葉だ。物体のための言語なのだ。

科学者が使う言葉は、それがどんなに正確であろうと、文法に大きな落ち度がある。何かが欠けている。

その土地がもともと持っている言葉を科学の言葉に翻訳するときに、大切な何かが失われてしまったのだ。(p70-71)

キマラーは、「考える」ことを重視する科学的な見方を保ちながらも、自然界の息吹を「感じる」感性を育み、大切にするとはどういうことかを、自身のさまざまな実体験についての美しいエッセイを通して教えてくれます。

彼女は科学者である以前に、自然界を敏感に感じ取るネイティブ・アメリカンの詩人であり、彼女の体験というレンズを通して自然界を見ると、何もかもがあまりに色鮮やかに、いきいきと見えてきます。

もし、わたしが都会にいるときに彼女のエッセイを読んだのなら、それはただの興味をそそる非日常の物語にすぎなかったでしょう。でも、いまやわたしは読んだことを実践できる環境にいます。まさにちょうどいいときにこの本と出会いました。この本は、自然と触れ合うためのわたしの教科書なのです。

彼女は、自分の自然を楽しむ感性が、いかに子ども時代の体験から形作られたかについて、こう書いています。

私はここに、「聴く」ためにやってくる。

木の根が作るまあるいへこみに積もったやわらかな松葉に抱かれ、ホワイトパインの幹に寄りかかり、頭の中の声が消えれば、周りの音が聞こえてくる。

松葉を渡る風の囁き、岩を滴り落ちる水の音、ゴジュウカラの足音、シマリスが何かを掘っている音、ブナの木の実が落ちる音、耳元の蚊の羽音、そして―私ではない、それを表す言葉を私たちは持たない何かの音。

それは名前のない、私たち以外の存在が奏でる音で、その中にいるとき私たちは決して一人ではない。

母の心臓の鼓動の音に次いで、それは私が最初に耳にした言語だった。

一日中だって聴いていられる。一晩中、夜が明けるまで。(p70)

生まれてすぐに、自然界との愛着関係を結んだのでしょう。母親の言葉のように、自然界の話す言語を聞くことによって。こうして彼女は、自然界の言語を聞いて理解できるネイティブとして育ちました。

この本にはまた、「川に育てられた」り、「野原一面のイチゴに育てられた」りする幼少期の体験について書かれています。(p39)

面白いことに、彼女は科学者としてこんな研究についても触れていました。

近年の研究で、腐葉土の匂いが人間に、ある生理作用をもたらすことがわかった。

マザー・アースの香りを吸い込むと、オキシトシンというホルモンの分泌を刺激するのである。これは、母と子や恋人同士の心のつながりを促進するのと同じ化学物質だ。(p303)

やっぱり親子の愛着関係と、母なる自然との愛着関係が同じものだ、という考え方には、生物学的な根拠があったのです。

逆にいえば、母親に対する愛着障害と同じものが、自然不足によっても生じる。現代の都市部で育つ子どもたちが、ADHDなどの発達障害を抱える理由のひとつは、母なる自然に対する愛着障害にある、とわたしはやはり思います。

最近のニュースで、リチャード・ルーブの「自然欠乏障害」の概念にそって治療を試みている医者がいることを知りました。

雄大な富士山を眺めながらココロとカラダをリフレッシュ 静寂さのなかで、マインドフルネスを体感(中):データ・マックス NETIB-NEWS

自然欠乏症候群についてルーブ氏は、「自然から離れることで、人間が支払う代償として、感覚の収縮、注意力散漫、心身の病気、慢性疲労、衝動的行動、苛立ち、焦燥感などが現れる」と指摘しています。

 では、自然欠乏症候群にはどのような背景があるのでしょうか。人間は数千年、数万年という長きにわたって自然のリズムに従い生きてきた動物で、遺伝子にもその影響が深く刻まれています。太陽や月のリズム、四季の変化、自然素材の食材と衣服での生活。このように人工物がほとんどない生活様式をとってきました。

 しかし、産業革命を経て、近代化を推し進めてきた結果、自然界には存在しない化学物質が生活のなかに溢れてきました。今やどこに行っても電子音が鳴り、電磁波が私たちの周囲を覆っています。とくに東京などの大都会では、その傾向が顕著で、自然欠乏症候群も増加しています。

この医師が述べていることは、わたしがこれまで考えてきたことと一致しています。その治療法として、自然豊かな場所で過ごすプログラムを作り上げていることもすばらしいと思います。

だけど、実際に自然豊かなところに住んでみた今になって、自然欠乏障害の問題は、単に自然とのふれあいが足りない、ということだけではない、ということにも気づいています。単に温泉に浸かるかのように、自然豊かな場所に身を置けばいい、というだけの話ではないのだと。

現代社会において、自然とのつながりが失われたのは事実です。都会においては、自然のリズムが失われてしまいました。

でも失われたのは身近な自然そのものだけではなく、自然との関わり方、自然との関係性という手続き記憶、あるいは愛着体験もまた失われてしまっています。

だから、自然欠乏症害を治療するには、医者が薬物療法を処方するときのように自然を処方する以上のことが必要です。自然は単なる薬物やサプリメントのように服用すればそれだけで良くなるものではなく、自然とのつながりを修復するための絶え間ない努力が必要なのです。

そのためには、単に産業革命前の人たちが経験していたような環境に身を置くだけでなく、産業革命前の人たちの「感じ方」をも取り戻さねばなりません。

その産業革命以前の人々の「感じ方」とはどのようなものなのかを説明してくれているのが、ネイティブ・アメリカンの文化の伝承者であるロビン・ウォール・キマラーの植物と叡智の守り人 なのです。

生命あるものすべてのための文法

わたしがこの本を読んでいて一番感銘を受けたのは、最初のほうにある「生命あるものすべてのための文法」という章でした。今までの考え方の枠組みが根本からひっくり返ったように感じました。

この章では、いまやネイティブの話者が9人しかいなくなってしまった、ネイティブ・アメリカンのポタワトミ語について書かれています。言語の違いは文化や思想の違いに直結します。有名どころでは、過去や未来の概念がないアマゾン先住民のピダハン語を話す人たちは、物語や神話という文化を持ちません。

同じように、ポタワトミ語を話すネイティブ・アメリカンの文化もまた、今日の英語の文化とは全然違う、独特の世界のとらえ方をしていました。

非常に高齢のグランマザー[訳注:年長の女性の中でも尊敬を集める人を呼ぶ敬称。「エルダー」に意味として近い]が、車座の中か歩行器を押してマイクに近づく。

「なくなってしまうのは言葉だけじゃないの」と彼女は言う。「言葉は私たちの文化の心。私たちのものの考え方も、世界観も、その中にあるの。この世界は美しすぎて、英語では説明できないのよ」(p73)

著者のキマラーは、ネイティブ・アメリカンの血筋を引いているものの、その言葉を母語としているわけではありません。かつて宣教師たちが主導した頑迷な再教育のせいで、ネイティブ・アメリカンの言語がひどく弾圧され、絶たれてしまったからです。

だから、キマラーは、英語を母語として成長し、大人になってからポタワトミ語を、自分たちの民族の言語であるにもかかわらず外国語のようにして学びはじめました。

その過程で、彼女はポタワトミ語のあまりの複雑さに投げ出しそうになります。実際には、ポタワトミ語が英語より複雑だというのではなく、あまりに世界観が違いすぎて、「私たちの文化の心」を吸収するのが難しかったのです。(p76)

まず初歩的なところでは、ポタワトミ語には「プリーズ」に相当する言葉がありません。その背後には、英語とポタワトミ語の文化の違いがありますが、現代社会で育った人には、それさえも理解し受け入れるのが困難です。

ポタワトミ語の復活に専心している若い先生、ジャスティン・ニーリーが、「サンキュー」にあたる言葉はいくつかあるけれど、「プリーズ」を意味するポタワトミ語はない、と説明する。

食べ物はもともと分け合うべきもので、特に丁寧な言葉を使う必要はない。ポタワトミの文化では、相手に敬意を持って頼むというのは当然のことなのだ。

だが宣教師たちはこの「プリーズ」という言葉の不在を、野蛮人の無作法の証拠であると解釈した。(p75)

宣教師たちの文化では、ものを頼むことが当たり前ではありませんでした。だから敬意をもって頼む言葉が必要でした。でもネイティブ・アメリカンの文化では、それはごく当たり前のことだったので、特別な語彙は必要ありませんでした。これは文化や世界観の違いなのに、その違いを理解できない宣教師たちは、一方的にポタワトミ語を野蛮だと見なしました。

それと同じようなことをわたしたちもやっていないでしょうか。文明社会のもとにいない昔ながらの暮らしをしている人たちを、勝手に貧しいとか不便だとか遅れているとみなすことによって。わたしが都心からここ道北に引っ越す決定をしたときには、それとなくそんな反応をした人たちもいました。

でも、ポタワトミ語の特殊の文化と世界観は、単に「プリーズ」の有無どころではありません。もっと根本的な違いがあります。

英語というのは、物のことばかり考えている文化にはふさわしい、名詞を中心とした言語だ。英語の語彙のうち動詞は30パーセントにすぎない。

ところがポタワトミ語では70パーセントが動詞である。つまり70パーセントの言葉は動詞活用しなければならず、70パーセントの言葉については時制と格の変化を覚えなくてはならないということなのだ。(p77)

言語の単語の7割が動詞? さすがにそれは日本語を話すわたしたちでさえびっくりします。名詞と動詞の割合が逆転しているというのは、わたしたちの文化では名詞としてとらえているものが、ポタワトミ語では動詞になっている、ということです。たとえばどんなものがあるのか。

頭の中がごちゃごちゃになって、一生懸命になればなるほどそれはひどくなった。ぼやけていく文字の中に、一つの言葉が見えた。

もちろん動詞だ―「土曜日る」。

フン!と私は辞書を投げ出した。いったいいつから「土曜日」が動詞になったのよう?「土曜日」は名詞に決まってる。

再び辞書を手に取って頁をめくると、他にもいろいろな動詞があった―「丘る」「赤る」「長い砂浜る」、そして「入江る」。

「ばかみたい!」と私は頭の中でわめき散らした。

「こんなに複雑にする必要がどこにあるの。どうりで話す人がいなくなるはずよ。こんな言語、面倒くさいし覚えられやしない。それより何より、間違ってるじゃない。入江っていうのは、人の名前か場所を指すに決まってる―名詞よ、動詞じゃない」(p78)

さすがのキマラーも投げ出しそうになりました。「土曜日る」「丘る」「砂浜る」「入江る」。日本語にもありえない単語ばかりです。

でも、そのとき、まさにその瞬間、キマラーは「私たちの文化の心」を理解したました。

そのときである。誓って言うが、頭の中でシナプスがビシッと音を立てて発火したのを感じたのだ。電流が私の腕を通って指先から流れ出し、その言葉が載っている頁が焼け焦げそうなほどだった。

その瞬間、入江の水の匂いがし、岸に水が打ちつけるのが見え、砂浜に打ち寄せ波の音が聞こえた。

入江が名詞なのは、水には生命が宿っていないと考えるからなのだ。入江が名詞だと考えると、それは人間に定義されてしまう。

…だがwiikwegamaa、「入江る」という言葉には、今この瞬間、生きている水がこの岸と岸の間に身を寄せ、シーダー(杉)の根やアイサのヒナたちと会話しようと決めた、という不可思議さが込められている。

…「丘る」「砂浜る」「土曜日る」。何もかもが生命を持っている世界では、それらはみな考えられる動詞なのである。…それこそが、私が森の中で耳にする言語だ。(p79)

これを読みながら、わたしの心にも鮮やかなイメージが浮かび上がってきました。ここ道北に引っ越して来てはじめて体験したあの記憶、空が、風景が、刻一刻と移り変わり、同じ景色が一瞬たりとも続かないあの感覚。空に虹がかかっては10分も経たずに消えていく、寄せては返すような自然のリフレインを。

大自然のゆらぎによって凍りついたリズムを回復させる道のり(1)
自然豊かなところで自分の体調と向き合う記録1

わたしが経験した大自然は、確かに「動詞」でした。「名詞」ではありません!

都会に住む人たちにとって、景色は動詞的ではありません。都会には自然はほんのわずかしかなく、あるのは人工物だけです。言うまでもなくビルは季節が移ろっても変化しません。一年中同じビルのままです。

しかし大自然の中では目に見えるあらゆるものが刻々と移ろい変わります。一瞬たりとも同じ景色はありません。

だから古代の人たちは、72候や24節気を作り出しました。現代社会の都会に生きるわたしたちはかろうじて4つの季節を感じられるだけかもしれない。しかし古代の人たちにとっては、一年は72の季節から成り立っているほど、変化が豊かだったのです。

キマラーは、ポタワトミ語が、「森の中で耳にする言語」だと気づきました。わたしも読んでいて同じことに気づきました。わたしは森の町に引っ越してきましたが、ここでの豊かな自然は、現代の英語でも日本語でもなく、ポタワトミ語の文法にそって絶え間なく動いているのだと。

yaweがいっぱい

ポタワトミ語の最大の特徴は、あらゆるものを「生命があるかないか」で区別することだといいます。

ヨーロッパの言語は名詞に性別を割り当てることが多いが、ポタワトミ語は世界を男性と女性に分けることはしない。

その代わり、名詞と動詞はともに、生命があるかないかのどちらかに分かれている。たとえば人の声を「聞く」のと、飛行機の音を「聞く」のにはまったく違う言葉を使うのだ。(p77)

ポタワトミ語は、あらゆるものを「生命があるかないかのどちらかに」分ける言語です。ということはすなわち、それを話す話者たちは、いま自分が話しているものには生命があるかないかを、直感的に判断できた、ということになります。考えるよりも早く、本能的な生命の有無を感じ取れるのです。

たとえばテーブルのような、生命のないものについては、「それは何ですか?」と訊き、「Dopwen  yewe」と答える。それはテーブルです。

でもリンゴのことは「それは誰ですか?」と尋ねなければならないし、「Mshimin yawe」と答える。その人はリンゴです。(p80)

このとき、リンゴのことを指して使われている代名詞「yawe」はポタワトミ語に特徴的な代名詞で、「彼」でも「彼女」でもなく、「生命ある存在」を指して用いられるそうです。日本語にも英語にもこれに相当する代名詞はありません。生命あるものすべてのための文法を有するポタワトミ語ならではです。

Yawe―あなた、私、彼、彼女、生きた存在を示す言葉。生命と霊魂を宿すものに言及するとき、私たちはyaweという言葉を使わなければならない。

旧約聖書の神ヤハウェ(Yahweh)とアメリカ大陸のyaweが、どちらも敬虔な人々が口にする言葉だとてうのは、どういった言語学的な現象なのだろう?

内に生命を宿す、それこそまさに、この言葉の意味なのではないだろうか―創造主の末裔である、ということが。

ポタワトミ語は、話すたびに、人間が生命ある世界のすべてとつながっているということを思い出させてくれる。(p80)

わたしはこの「yawe」という言葉を知ってから、外の大自然の中にいるとき、ふと目を上げて周囲を眺めてみました。

すると、気づきました。この世界は「yawe」であふれていることに。山肌に生えているあの一つ一つの木々がすべて「yawe」です。地面に落ちている小さなどんぐりや、目に見えない微生物たちもまた。目に見える範囲に人間は一人もいないかもしれない。でもここには「yawe」がこんなにいる。わたしは「yawe」の大群に囲まれている。

一方で、都会やビルの中には、少なくとも肉眼で確認できる「yawe」は数えるほどしかいません。前にわたしが住んでいたところは、人間は大勢いたかもしれない。でも「yawe」はめったにいなかった。生命ある存在がこんなにも少ない都会と、こんなにも多い自然界。これほど違うのであれば、わたしの体調に何かしらの影響が及ぶのも当然ではないかと思えました。

わたしはアンディという男子学生と同じ気持ちになりました。

「ちょっと待って」―この言語学的な特徴についてしきりに考えながら彼は言った。

「それって、英語を話したり英語でものを考えたりするのは、自然をないがしろにしてもいいって言われていることになりませんか?

人間以外は誰にも人格を認めないわけですよね? 色んなものを物扱いしなかったら、世の中は今と違うんじゃないだろうか?」

この概念にひどく感銘を受けたアンディは、目が覚めたみたいな気がすると言った。目を覚ましたというより、思い出したのだと私は思う。

世界が生命に溢れていることは私たちももうわかっているのだけれど、それを表す言語は今にも失われようとしている。(p81)

わたしもまた、ポタワトミ語について、「yawe」という語彙について学んで、何か驚くべき発見をしたような気がしたのだけれど、実際には思い出したんです。

わたしは人間の多い都会の喧騒から逃れて、静かで落ち着いた田舎に引っ越してきたわけではないのだと。わたしは都会とはまったく違う賑やかな場所、「yawe」で満ちあふれた、生命あるものたちがオーケストラを奏でる土地へ引っ越してきたのだと。

生命あるものへの敬意に欠けた世界に住んでいる

あらゆる生命に敬意を表すポタワトミ語に対して、現代の英語や日本語ではそうではありません。

英語には、生命あるものに対する敬意を表すツールがあまりない。英語では、あなたは人間か、さもなければ物である。

英語の文法では、人間以外の存在を「それ」という「物」に矮小化するか、あるいは「彼」また「彼女」という不適切な性別分けをしなければならない。(p80)

英語や日本語では、樹木や草花や虫や微生物は「それ」です。生命あるもののための特別な文法はありません。わたしたちはそのことを当たり前だと思っているけれど、ポタワトミ語のような世界観をもつ人たちからしてみれば、なんとも失礼なことです。

たとえば、エプロンを着けてコンロの前に立っているあなたのおばあちゃんを指して、「それはスープを作っています。それには白髪があります」と言ったら、そんな間違いを面白がるかもしれないが、やはりヒヤッとする。

英語では、家族、いやどんな人のことだろうと、「それ」とは呼ばない。そんなことをしたら大変失礼だ。

「それ」という言葉はその人から自我や家族としてのつながりを奪い、人間を単なる「もの」にしてしまう。

同様にポタワトミ語、そして先住民族の言語のほとんどは、自然界を指すのに家族を指すのと同じ言葉を使う。だって生きているものはすべて家族なのだから。(p79)

自然界を「生命あるもの」「yawe」とみなすか、「それ」「物」と呼ぶかは、わたしたちの世界観を如実に反映します。

「生命あるもの」は、自分と同じ尊厳を持つ家族です。だからネイティブ・アメリカンは自然界を家族同然に大切にします。しかし「それ」であるならば、それは物です。だから現代社会の人たちは、人間以外の「物」をぞんざいに扱います。

木は「その人」ではなく「それ」と言うのだと教えることで、そのメープルの木は「物」になる。自分と木の間に境界を作り、木に対する道徳的責任から自分を解放し、搾取への扉を開くのである。

生きている大地を「それ」と呼ぶことで、大地は「天然資源」になる。メープルの木を「それ」と呼ぶならば、チェーンソーを使うことだってできる。

でもメープルの木が「彼女」ならば、私たちはチェーンソーを使うのをためらう。(p82)

これは、現代の行きすぎた環境保護活動と同じものなのでしょうか? たとえば、植物の尊厳のために伐採を一切禁止するような。魚を痛みから保護しようと漁を禁止するような。生き物はみな家族だからいっさい傷つけないようにという不殺の思想に結びつくんでしょうか。

いいえ、ネイティブ・アメリカンの人たちは、動物は生きるために他の生命を奪う必要があるということを理解していました。注意深い観察によって、自然界の食物連鎖は、無節操な虐殺ではなく、互いが互いを支え合う共生関係であることに気づいていました。

だから、彼らはいつも、良識ある収穫を意識していました。自然界の生命を獲るときには、生命への敬意と感謝を忘れず、必要以上に獲ろうとしないこと、また自然界を世話するという自分たちの責任を果たして、お返しをすることによって。日本語にだって「いただきます」という言葉にそうした考えの名残があります。

ネイティブ・アメリカンの人たちの自然との関わり方は、ひとことで言えば、バランスを保つ、ということでした。

文字通りの親との愛着が不安定になった子どもが人間関係のバランスがとれなくなるように、自然界との愛着が不安定になった現代人もやはり、自然界とのバランスのとれた関係がとれなくなっているのだと思います。

過剰に保護することでも、過剰に搾取することでもなく、生命への敬意がこもった「良識ある収穫」というバランスが。(p224)

そのバランスの欠如、そして生命への敬意の欠如が凝縮されているのが、現代社会の市場であり、その中心となってきた英語をはじめとする主要言語の文法であり、この世界を支えてきた科学という学問なのでしょう。

ネイティブ・アメリカンの文化と科学の両方に通じてきたキマラーが述べているように、科学とは、人間以外を徹底的にモノとみなす学問であり、そこには自然界への敬意や自然界への畏怖などが入り込む余地はありません。

森の中で暮らした子ども時代から大学に移ったとき、知らず知らず私は2つの世界観の間を移動した。

植物が先生であり、共有する責任でお互いにつながっていた、経験に根ざした世界観から、科学という領域へ。

科学者たちが問うのは、「あなたは誰?」ということではなくて「それは何なのか」だった。

植物に向かって「あなたは何を教えてくれるの?」と訊く者などいない。一番重要な問いは「それはどのように機能するか」ということなのだ。(p62)

前々からわたしは、現代の科学や医学の冷たさ、客観主義に徹する人間性の貧しさなどが大嫌いでした。オリヴァー・サックスもそれを「人間を診る医学」ではなく「人形を診る医学」だと評していた。

でも、どうして科学はそんなにも非人間的な学問になってしまったんだろう、と思っていたんですが、その答えをキマラーが明らかにしてくれたように思います。

科学は、より客観的な視点を得ようと努めるあまり、本来は自然と一体であるヒトを自然から切り離してしまったのです。科学という学問は、人類全体に生じた「解離」なのです。

私たちの社会を苦しめる問題の多くは、自然界を愛する心、そして自然界から私たちに送られる愛から、自分たちを切り離してしまったことが原因なのではないだろうか。そうした愛こそ、傷ついた自然界や空虚な心を癒す薬なのに。(p162)

あまりにも自然界から距離がありすぎるのだ。そうやって、ある物の中に宿る生命が見えにくくなってしまったときに、人間と世界の乖離が始まり、自然への畏怖が失われたのかもしれない、と私は考える。(p198)

人間が解離すると、今ここにいる自分から離れて客観的思考だけが残るように、科学は主観的な視点を放棄して、人類を、自然界を客観的に眺めるようになった。

でも人間が解離すると失感情症になるように、科学も主観的な視点を放棄したときに失感情症になった。だから科学という学問には、温かみもなければ思いやりも、生命への敬意さえもない。

ただの死骸を研究するかのように、感情的には死んだ学問になってしまった。科学と医学に従事する専門家から、ごく普通の感性が失われてしまうのも不思議ではない。彼らの学問そのものがそうなのだから。

だからわたしは、もう今までの科学や医学に戻ろうとは思わない。偏狭で視野の狭い精神医学にも脳科学にも二度と戻らない。神経科学者A・R・ルリアが提唱し、オリヴァー・サックスが目指したような「ロマンチックな科学」「物語的な科学」へと舵を取らねばならない。

わたしはもっと人間について、自然界について知りたいけれども、キマラーの言うように、「科学、という知識のありようが、その疑問を解くには偏狭すぎる」。科学と詩の融合、客観的な視点と主観的な視点を融合させた先にこそ、本当の答えがある。(p66)

わたしは、作家であり、同時に科学者だったサックスとまったく同意見だし、詩人であり、同時に植物学者でもあるキマラーの言うとおりだとも思う。キマラーは科学を否定しているわけではない。でもそれだけでは視野が欠けている、と言っているのだ。

知性のみからなる科学という単一文化が、それを補完かる知識の数々からなる複合文化に取って代わられる日がいつか来ることを私は思い描く。すべての人が満足できるように。(p178)

客観的思考によって研究する科学が間違っているわけではないように、人以外の生き物をモノとみなす英語が間違っているというわけではない。ポタワトミ語にポタワトミ語のよさがあるように、英語には英語の利点があります。

でも、科学という視点だけに偏ることがひどく狭量であるように、英語的文化だけの視点は狭量になりかねない。

かつてキリスト教の宣教師たちの傲慢と偏見のもとになされたように、ポタワトミ語を話す人たちが弾圧され、英語を強制されるようなことがあってはいけない。わたしたちにはその両方が必要なのだから。

宣教師たちによるポタワトミ語の弾圧は過去の話ですが、今でも形を変えて同じことが学校で起こっています。「考える」能力だけが訓練され、「感じる」能力は抑圧されるという教育方針によって。

わたしは現代の進学校で教育されてきて、物事を客観的に見る文化を教え込まれて育った人間だし、科学や医学の視点からばかり分析と考察を繰り返してきた人間です。

だから、わたしはもっとポタワトミ語のような文化と世界観を知りたい。客観的な科学、自然界から切り離された理性だけの人類とは対極にある、自然界のただ中で生き、生命に敬意を持ち、畏怖の念を抱く世界観と文化を学びたい。

英語や科学における「人間であることが、生命を持ち、敬意と道徳の対象となる唯一の方法である」と考える狭量な世界観を後にして、ポタワトミ語と詩の中にある「人間以外の生き物が、私たちにとっての教師となり、知識の担い手となり、導き手となり得る」という本来あるべき世界観にそって、自分の考え方を作り直したい。(p82-83)

そのために、キマラーの植物と叡智の守り人 ほどすばらしい本はないと思います。これからしばらくのあいだ、ここ道北で自然との関わり方を学ぶにおいて、この本はわたしの歩みを導くランタンのように道筋を照らしてくれるでしょう。

中規模撹乱仮説

もうひとつの話題として書いておきたいのは、生態系の「中規模撹乱仮説」について。

やはり同じロビン・ウォール・キマラーのコケの自然誌 を読んで知った概念でしたが、これを知ったことで、やっぱりトラウマの問題は生態系の問題の方面から解釈すべきだよね、という確信が強まりました。

では、幼少期のストレスは、どんな場合にも有害なのでしょうか。健全な子ども時代には、まったくストレスのない、おおらかで守られた環境が必要なのでしょうか。

まず、ベースになるのは、小児期トラウマがもたらす病に書かれていた次のような研究。

ニューヨーク州立大学バッファロー校のマーク・D・シーリー准教授(心理学)は、一定のストレスにさらされることが長い目で見れば人を強くするのではないかと考え、逆境の利点について調べている。

…その結果、小児期や思春期に経験した逆境が大きい患者ほど、慢性的な背部痛で診察を受ける回数が多いことが判明した。

そのうちの多くが不安症やうつ病の治療も受けようとしていた。

この発見は他の調査結果と一致していたが、シーリーは驚くべき違いを発見した。

「小児期にまったく逆境を経験していない患者も、多くの逆境を経験している人と病状は変わりませんでした」。

つまり、小児期の逆境に関するアンケート(軽度のストレスも含む)でスコアが0の患者も、子どものころに深刻な逆境を経験した患者と同じように背部痛に苦しみ、不安症やうつ病の治療も受けようとしていたのだ。

一方で、ある程度の逆境はあったものの、それほど多くなかった患者は、成人後の背部痛や不安症、うつ病の確率は最も低かった。(p100)

この研究では、子ども時代にストレスを強く受けた人も、まったく受けなかった人も同様の問題を抱えていました。

アンケート調査による後ろ向き研究なので、回答が記憶の想起に左右されてしまい、あまり正確でない可能性がありますが(一番大きいのは、ストレスがなかったと回答しているのは解離の当事者ではないかという懸念)、とりあえずこの研究の意味するところについては次のように説明されている。

どうやらゴルディロックス領域のようなものが存在するらしい

【訳注 童話『ゴルディロックスと3匹のくま』で、主人公の女の子ゴルディロックスが熱すぎず冷たすぎもしない適温のスープ、ちょうどよい硬さのベッドを見つけることから、最適なレベルを意味する】。

すなわち、小児期や思春期に適度の―多すぎず、かといって少なすぎない―困難を経験すると、対処能力、回復力、そして成人後の慢性的な消耗性の痛みに向き合う力を身につけることができるというのだ。(p100)

要するに、子ども時代のストレスは、多くすぎても少なすぎてもよくなく、ちょうどいいレベルのときに最も健康に寄与するということ。

これだけを読むと、まあストレスってあながち悪いものじゃないよね、というくらいの感想にしかならないんですが、コケの自然誌 を読んでいたとき、まったく同じ現象が、生態系においてみられることを知りました。

ワシントン州の荒磯とキカプー川の岩壁は、中規模撹乱仮説として知られるようになった仮説が生まれる一助となった。

生物の種多様性は、撹乱が稀あるいは頻繁すぎる二極の中間であるときに最も高くなる、というものだ。

生態学者によれば、撹乱が皆無のときには、ジャゴケのような強者が徐々に他の種を侵害し、競争的優位によってそれらを駆逐してしまう。

撹乱が頻繁なところでは、それに耐えられる最も頑健な種しか生き残れない。

だがその両極の間の、撹乱の頻度が中庸なところでは、多様な種の繁茂を可能にするバランスが保たれているらしいのだ。

中規模撹乱仮説は、これ以外にもいろいろな生態系で立証されているー草原、川、珊瑚礁、そして森林。

この仮説が示すパターンが、林野部の現在の火災対策方針の核となっている。

スモーキーベア[米国林野部のマスコットであるクマのキャラクター]が火災をあまりにも熱心に消火しすぎれば撹乱頻度が低くなりすぎ、森は単一化して危険だし、火災の頻度が高すぎればわずかな下生えの植物しか残らないことになる。

だが『三匹のクマ』の物語(うち一匹はスモーキーベアだったに違いない)にある通り、「ちょうどいい」頻度というものがあって、そういうところは多様性に富んでいるのである。

森をモザイク状に焦がす火災が中程度の頻度で起こると、野生生物の生息環境が生まれ、森の健康が保たれるが、火災を抑えてもそうはならないのだ。(p109)

なんと、生態系においても、ストレスのゴルディロックスゾーンが存在していて、環境による侵食が中程度のときに、もっとも健康で多様性に富む生態系が生まれるという。

ということは、さっきの人間のストレスのゴルディロックスゾーンの話は、実際には生態系の問題だったんじゃないのか、と思えてくるわけです。

前々からら何度も書いているように、メイヤーの によると、「トラウマ」や「心の病」とみなされてきたものは、実際にはわたしたちの内部の微生物の生態系(マイクロバイオーム)の撹乱によって起こる生物学的な問題であるとわかってきています。

ということは、わたしたちの身体の中で中規模撹乱が起こるかどうかが、将来的な健康を左右しているのではないか、ということになるでしょう。

子ども時代のストレス、というのは、わたしたちの身体の内部の生態系にとっては、火災や波に相当する環境からの浸食作用です。

ストレスにさらされると、人体の自律神経系が「暑すぎる」過覚醒や「冷たすぎる」低覚醒に陥る。それは人体の内部の生態系にとっては、地球の気候の変動のようなものです。

たまに暑くなり、たまに寒くなるというのは、いわば四季があるということなので、別に悪いことではない。どちらかという生物の種の多様性を促進するでしょう。

しかしずっとストレスにさらされて過覚醒が続いたり、低覚醒に反転し続けたりすると、体内の温暖化や寒冷化に似た状態になり、多様な種はほとんど反映できなくなり、極限環境に適応した特定の種の寡占状態になる。それがマイクロバイオームの多様性の低下であり、成長後の健康問題に直結するんでしょう。

逆に、まったく生態系を撹乱するストレスがない場合も、四季のメリハリのない環境のようになってしまい、特定の種だけが過度に反映し、多様な種はみられなくなってしまう。

こうして、ときどきストレスにさらされるような、過覚醒と低覚醒をほどよく経験し、四季のメリハリがはっきりした環境でのみ、多様なマイクロバイオームの種が反映して、成長後の健康に寄与する。

結局わたしたちの有機体からなる身体というのは、機械じかけの人形ではなく、多種多様な微生物からなる生態系であり、脳科学を学ぶのでも、精神医学を学ぶのでもなく、生態学を、生物学を学ぶことこそが、トラウマや心の病を知るいとぐちなのではないか、とここにきて改めて思いました。

わたしたちの内部の生態系について知るには、外部の生態系について知らねばならず、ロビン・ウォール・キマラーが植物と叡智の守り人 で書いているように、人類より先に現れた世界中の生きものたちこそが、わたしたち人間の教師になるのです。

西欧の伝統では、生き物たには序列があり、もちろんその頂点に人間がいる。人間は進化の頂点にあり、創造主の秘蔵っ子だ。そして植物が序列の一番下にある。

だがネイティブ・アメリカンの考え方では、人間は「創造主が作った年下の兄弟」と呼ばれることが多い。

生きる、ということについては人間は一番経験が浅く、学ぶべきことが一番多い。だから他の生き物たちを先生として、教えを乞わなければならない、と言うのである。(p23)

私は部族のエルダーたちが「スタンディング・ピープル[訳注:木のこと]のところに行きなさい」とか「ビーバー・ピープルと一緒に過ごすといい」というアドバイスをするのを聞いたことがある。

人間以外の生き物が、私たちにとっての教師となり、知識の担い手となり、導き手となり得るということを彼らは言っているのだ。(p83)

今回の記事はここまで。続きはこちら。

大自然のゆらぎによって凍りついたリズムを回復させる道のり(6)
自然豊かなところで自分の体調と向き合う記録6

Categories: 6章。2019.02.08