大自然のゆらぎによって凍りついたリズムを回復させる道のり(7)

自然豊かなところで、身体のリズムを取り戻す体験記の7番目。

前回は札幌でSEを受けてみたけれど、セラピストが合わなくて継続を断念した話でした。今回は、最近の近況や考えたことなどを。

自動車学校が終わって

ようやく、4ヶ月半にわたる自動車学校が終わりました。そちらのエピソードは、自動車学校奮闘記自動車学校奮闘記のほうにまとめてあります。

終わってみて感じるのは、やっぱりストレスから解放されたな、ということ。免許を取ったあとも運転は続くのでストレスがかかったままになるかという懸念もありましたが、十分に解放感がありました。やっぱり運転がどうのこうのより、学校や教官のせいだったのだろう。

自動車学校に通うということは、過去に学校に行けなくなったトラウマ経験と再交渉して完了させるという意味合いがありましたが、確かに、いい自信になったとは感じます。

わたしの体調不良の根をたどると、学校のときに症状が表面化したものの、根源はもっと過去にあると思うので、あくまで限定的な完了にすぎないかな、という気はします。

だけど、この4ヶ月間、自分でペース配分しながら高いハードルを小分けにして取り組めたこと、体調不良にも効果的に対処できたこと、人間関係にも柔軟に対応できたことなどは、SEセラピーなどで学んできたことの実践編として申しぶんなかったと思います。

免許を取ってからは、ほぼ毎日、そこそこ運転していますが、意外なことがわかってきました。

どうもわたしは、北海道のあの何もない直線道路が苦手なようです。眠くなってしまうせいか、かえって緊張してしまう。まっすぐな道路って、遠くを見ていると同じ景色の繰り返しで、なんだかクラクラしてしまうんですよね。高速催眠現象か。

夜道とか、町中とか、車庫入れとか、ちょっと狭いところやわかりにくいところのほうが、まだ運転しやすいような気がしています。もちろん、こういうところほど気をつけなければならないのですが、そのおかげで眠くなりにくいのかな。

ぼーっとしてしまう対策として、運転中にガムを噛んでみたところ、少しましにはなりました。直線が苦手なのは、高速催眠現象だけでなく、慣れもあると思うので、経験を重ねていきたいです。

ところで、去年、こちらに引っ越してきてからずっと悩まされているのは、五十肩のような痛み。そんな年齢ではないはずですが、両肩がガチガチになって、腕を上げようとすると痛みがあります。

原因が不明で、自動車の運転の緊張のせいか、サイクリングの姿勢のせいか、夜中に冷え込むせいかのどれかだとは思うんですが、いまだによくわかっていません。

少しずつましになってきた気がするので、どれであるにしろ、車の運転は慣れるし、春になると寒さは和らぐしで、回復はするとは思います。

でも、もっと自分の身体の声を聞いて、それに見合った対応をするという、フェルデンクライス・メソッド的なスキルを身に着けたいなと切実に感じました…。前回のSEセッションは微妙だったけれど、やっぱりボディワークの可能性も模索するべきかなぁ…。

トラウマと今後も向き合うべきか、焦点がしぼれない

さて、こちらに引っ越してきてからのこの5ヶ月ほどの期間に、ずっと悩み続けていることがあります。その答えはまだ出ていません。

それは、わたしは今後、どの程度、「トラウマ」や「解離」という概念と向き合っていくべきか、ということ。

ここ北海道に引っ越してきてから、従来のトラウマやセラピーの在り方に疑問を感じているというのは、前回の記事でも書いたとおりです。

今の体調であれば、低空飛行ながら、もうトラウマや解離について考えることなく、調査することもなく、生活していくことは可能なのではないか、という気がします。

その一方で、わたしは決して回復したわけではなく、単に環境のおかげで、症状を比較的抑えられているだけなので、嵐が凪いでいる今のうちに、もっと対策を調べておくべきではないか、という気もします。

でもその対策というのも、かつてのようにトラウマ医学を調べるべきか、それとも、もっと自然を楽しみ味わう方向にシフトすべきか、その両方をバランスよくやっていくべきか、やはり方向性に悩んでいます。

うちのブログはそれこそ、アーリーアダプターとして、トラウマ関連のあまり一般的でない概念に光を当ててきました。過剰同調性、HSP、手続き記憶、イマジナリーコンパニオン、発達性トラウマ、そして何より「解離」。

わたしは、自分に現れた、さまざまな奇妙な症状を説明してくれるものを探し求めていましたが、わたしがネットを調べたときにはそんなものは(少なくとも日本語文献としては)ほとんど存在しなかった。だから、わたしは、自分で調べた結果を記事に書こうと思った。

でも今や、これらの概念は、ある程度、いろいろな人が注目しつつある。ならば、わたしはこれ以上、この分野にこだわって書き続けるべきだろうか? もうわたしのすべきことは終わったのではないか?

現に、わたしが最近、向こうで書いていた記事の多くは、既存の知識の焼き直し記事ばかりで、それほど新しいことは盛り込んでいませんでした。わたしはもう、次なる段階に、自然科学など新しい分野に進むべきではないか。

かつて慢性疲労症候群から発達障害へ、発達障害からトラウマへ進んだように、トラウマから自然科学へ移行するときが来たのではないか?

でもやっぱりそこは悩むのです。

わたしはもはや、慢性疲労症候群当事者や発達障害当事者としてのアイデンティティは持っていない。でも、トラウマ当事者としては、まだ書かなければならないことがある気がする。わたしにしか書けないことが残っているのではないか、そんな気がする。

そもそもわたしは誰か他人のためにブログを書いていたわけではない。自分の必要性に駆られて書いてきた。そして、まだ必要なこと、解き明かすべき余地が残っているような気がする。

だけど、それを書くためには、またトラウマ関連の文献をさらに読み込んでいかねばならないだろう。ここまで来たのに、またトラウマ関連の文献を読む作業に後戻りするべきなのか? 

わたしにとって今必要なのは、自然科学をもっと学んで視野を広げ、癒やしを得ることではないのか? 

いやむしろ、本を読むより、ずっとできなくなっていた絵を描くことなど、芸術に親しむべきではないか?

どれに取り組めば、いま必要な答えが得られるのか? 何かしないとこれ以上先に進めないことはわかっている。だけど、どこに次の道がある?

堂々めぐりが続きます。もう全然わからない。焦点がしぼれない。

出自は変えられない。民族的誇りを持つということ

けれども、こっちに来てから、ひとつ確かだと感じることがある。それは、自分の出自を変えることはできないということ。

アイヌ民族の子が永久にアイヌ民族であるように、ネイティヴ・アメリカンの子孫が大人になっても民族としての生まれを背負って生き続けているように、わたしもまた、発達性トラウマであることからは逃れられないし、逃れようとすべきでもないのだと。

(これは、先住民族を「障害」と同列に並べようとしているわけではない。そうではなく、発達性トラウマを生きるというのは、神経学的な少数民族であるようなものだ、ということ)

こちらに引っ越してきて新しい人間関係を築いてるわけですが、繰り返し繰り返し何度も何度も、自分は周りとはやっぱり違う、同じにはなれない、と感じさせられるわけです。

最近読んでいたアイヌの本、森と大地の言い伝え で、子どものときからアイヌというだけで迫害されていた、というのと似ている。わたしが感じる疎外感や違和感のようなものは、他と出自が違うせいで起こっている。

それを乗り越えるために、アイヌの子はアイヌであるということに誇りを抱かねばならないのと同じく、わたしもまた、自分の出自を絶えず意識して、自分がサバイバーであるということに誇りを抱かねばならない。

そうでもしないと、他と違うことによる劣等感に押しつぶされそうになります。常に他と違う理由を知り、それに民族的な誇りを持っていなければならない。

そのためにアイヌの子が自分の民族的文化を研究し、それを大事にし続けるのと同じことを、わたしも生涯やり続けねばならない。そのように思うのです。

自分がこの民族であることを忘れ、大衆と同化して生きようとする、そんな道もあるにはある。だけど、それは結局のところうまくいかないのではないか。自分の出自をないがしろにして、仮面の人生を送っても、ずっと疎外感や違和感を抱き続けるだけではないか?

だから、たとえ、自然豊かなところで何か癒やしが得られるとしても、文化また民族としての発達性トラウマの研究を続けるのがわたしの役目ではないか。そうすることが自分の保護ともなるのではないか。

イギリスのEUブレグジット問題に関連して読んだ、この記事は、わたしが今書いているこの話題との共通性があるように思う。

ブレグジットに反対する「エニウェア族」の正体 | 読書 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

簡単に趣旨を説明すると、ブレグジット問題は、日本では、EUから離脱なんて狂気の沙汰だというように報道されがちで、知識階層ほど、これを愚かだと考える向きがある。

でも、そのような「リベラルな知識人」(「エニウェア族」と呼ばれている)にこそ、重要なものが欠けていて、そのせいでブレグジットのような極端な動きが台頭してきたのだという話。イギリスのジャーナリストのThe Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politicsという本に基づいているらしい。

ここで欠けている重要なものとは、自分の民族としてのアイデンティティや帰属意識だとされている。知識人(エニウェア族)は、自由や平等を強調するが、その土台をなす民族意識をないがしろにしてきたために、そのひずみが国家崩壊の危機につながっているのだと。

「エニウェア族」の人々は、高学歴で社会に対する問題意識も高いので、福祉に関心を抱く者は多い。だが、その一方で、福祉の前提条件であるはずのナショナルな連帯意識や共通のアイデンティティを軽視し、ないがしろにする傾向が強い。ナショナルな連帯意識やアイデンティティを強調することはリベラルではないと感じてしまうからであろう。

…EU離脱を問う2016年の国民投票では「エニウェア族」のほとんどが「残留」に投票した。「サムウェア族」は主に「離脱」に投票した。

グッドハートが「エニウェア族」に批判的であるのは、結局のところ、「エニウェア族」の増殖は、安定した自由民主主義社会の存立を脅かす恐れがあるからである。彼は次のように記す。

「社会がうまくいくのは、実際のところ、協調、なじみ深さの愛好、信頼といった習慣的基盤に、そして言語的、歴史的、文化的紐帯に依拠しているからである」(同書21ページ)。

…「エニウェア族」は、自分が享受する自由で安定した秩序自体が、ナショナルな文化や生活様式、ならびにその共有から生じる共通のアイデンティティや連帯意識、相互信頼感を土台にしていることに気づかない。

わたしも、自分の場合にこれは大事なことだと思います。わたしは、基本的に過剰同調性や開放性が強く、何にでもなれる、何にでも同調できるタイプの人間だからこそ、さまざまな分野に入っていくことはできる。

しかしそれは同時に、無色透明であるがゆえに、あらゆる色を取り込んでしまいやすいということなので、破滅の危険をはらんでいる。開放性や同調性というのは、あくまで、自分の核をしっかり持っているときにのみ役立つものであり、核がなければ漂い出て混沌に陥るだけである。

この核というのが、自分が何者であるか、自分のルーツはどこにあるのかを知っている帰属意識ではないか、と思います。わたしは自分が何者であるかを知っているために、やはり自分のルーツである発達性トラウマという民族の調査は続けていかねばならない。

わたしはもはや、自分がもともと調べていた、慢性疲労症候群や発達障害の当事者研究を続けようとは思いません。それらが自分のアイデンティティの一部だとも思っていません。それらは医学界に都合がよく、大衆迎合した概念だと思うから。

これらに共通するのは、環境ではなく個人の責任を問う概念である、ということであり、問題の根が個人の体質や遺伝の側にあると断罪することで、社会や環境側のひずみを野放しにしたまま、病人を作り出している。つまり、社会や医者、製薬会社など、権威者や商業主義の側に好都合な概念だとわたしは思います。

他方、トラウマは違う。個人ではなく環境の側の責を問う概念であるがため、いつの時代も人気がない。フロイトがトラウマの研究を断念して翻意したのもそのせいでした。

フロイトの時代、(および今の時代も)、性的虐待について主張することは、社会の名士たちという環境側の罪を暴くということであり、立場ある医師であった彼はその重荷に耐えられなかった。だからフロイトは、トラウマ症状は、当事者側のファンタジーだと主張するようになった。環境側の責任を個人の側に転嫁したのでした。

トラウマというのは、弱者である当事者ではなく、強者である環境側の責任を問う概念であるために、医学界からも商業界からも抑圧され、無視され、敵意を示されてきたという受難の歴史があります。今でもそうです。

でも、わたしはそこにこそ真実があると思う。発達障害や慢性疲労症候群で苦しんでいる人たちが、個人の側の責任でそうなったとは思えない。本当は、家族や学校、職場、医療や製薬会社の金儲け主義、さらには自然が欠乏した都市など、環境側の問題によってそのような状態に追い込まれたのだとわたしは思う。

それら環境の責任を問うことは、社会を断罪することなので、トラウマという概念は権威者たちに人気は出ない。だからこそ当事者であるサバイバーが、自分で調べ、自分で文化を記録し、自分たちは医学で定義された障害者ではなく、非人道的な環境を生き延びたサバイバーなのだ、ということをもっと自らわきまえ知らねばならないのではないか、と思います。

発達障害や慢性疲労症候群のような概念は、最近ポッと出てきたことからもわかるように、社会にとって、また医療にとって都合のいい概念として作り出されたにすぎないものです。

それに対して、トラウマという概念は、純粋に生物学的であると同時に、人類史のあらゆる時代に存在した文化であり、芸術や哲学の基礎でもある。それこそ製薬会社や医者の金儲け主義が現れる前から存在している、中立的な概念である。(PTSDのような概念は怪しいが、トラウマ自体ははるか昔からある)

わたしがやるべきなのは、トラウマ研究に軸足を起きつつ、サバイバーとしての誇りも失わず、もっと広い文化人類学的、生物学的、自然科学的な観点を加えた結論にたどり着くことではないのだろうか。

わたしは特定の病名を自分のアイデンティティにしてしまうことには、昔から批判的です。たとえば、「自分は慢性疲労症候群患者である」と定義することは、狭い枠内に閉じこもってしまうだけで何の役にもたたないと考えています。

だから、わたしは自分を医学的に定義された「トラウマ患者」と定義したいとはまったく思いません。そうではなく、医学の枠組みを越えて、芸術や自然科学や、他のあらゆる観点をも交えて、自分自身と本腰を入れて向き合うこと、それが、トラウマを本当に理解し、帰属意識を持つということだと考えています。

トラウマについて研究するのは、医学について研究するということではなく、自分について研究し、自分を発見するということなのです。

ですから、これからのわたしにとっては、自らの帰属意識を大切にしつつ、医学を越えてトラウマを考えていくということこそが、もともと多面的なトラウマという現象にアプローチする最適の方法なのではないか。

オリヴァー・サックスが偏頭痛の研究に際して、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) で片頭痛について書いていたのと同じ、このアプローチがこれからも必要なのではないか。

「片頭痛体質」を、なにか単純で特別なもの、均一で数量化できるもの、あるいは最も原初的な遺伝子にまで引き下げることができると、単純に想定することはいかなる説明にもならず、いかなる疑問にも答えることもできない。

…その「なにか」、あるいは体質を定義するために、私たちは本章でみてきた遺伝的研究や統計的研究を検討するだけでなく、はるかに広範囲の分野を横断的に研究する必要がある。(p254)

わたしはこれまでも広範囲に調べてきたつもりだけど、さらにもっと枷を取り払い、もとのトラウマがそうであるように、あらゆる分野について知り、それを結びつけるべきではないのか。

そう思えば、やはりわたしは、この分野をこそ、これからも調べていくべきだという気にもなるのです。

なんだか、今まで悶々と悩んでいましたが、こうして書いてみると、書いているうちに考えが整理されてくるものですね。道程:オリヴァー・サックス自伝に書いてあったとおり。

私は書くという行為によって、というか書くという行為のなかで、自分の考えはこうだと悟るようだ。(p236)

甲田療法再考。また断食に取り組むべきか

最近、またちょっと関心を持っているのが、昔やっていた甲田療法です。もともとわたしのブログは、甲田光雄先生の断食療法が慢性疲労症候群に効くということで、それを実線するために始めたものでした。

当事のわたしは、結局のところ、厳しい断食は継続できず、トラウマとか何やらについて学び始めてからは、極端すぎる療法だったということで、甲田療法とは距離を置いていたのですが、最近、甲田先生はかなり正しいところを突いていたんだなぁと再評価しています。

今思えば甲田先生は先見の明があった。ふりかえってみると、わたしが初めて、「腸内細菌叢」という言葉を目にしたのは、甲田療法のかなり古い本でした。(何度か新装版の出ている断食・少食健康法―宗教・医学一体論 (1980年)だったような気がするが定かでない)。

たとえばパプアニューギニアの人たちがキャッサバばかり食べていても栄養学的に問題ないのは、腸内細菌が必要な栄養素を作り出しているからだと説明されていました。だから、甲田療法のような菜食主義でも問題ないのだと。

この記述を読んで感心したわたしは、そのとき以来、腸内フローラというものに関心を持ったのでした。

甲田先生の観点はちょっと足りない部分もあったけれど、それは1980年に腸内細菌に注目していたことを考えれば致し方ない。むしろその先見性に脱帽するばかり。

また、甲田先生の慢性疲労症候群克服への道では慢性疲労症候群の原因の一端が、日常の身体の動かし方の「クセ」にあるとし、西式健康法と呼ばれる体操によって、それを修正しようとしていたのも、当たらずといえども遠からず。

トラウマ医学方面から、慢性疲労症候群や線維筋痛症は、身体に染み付いた手続き記憶のパターン、甲田先生の言うところの「クセ」によって起こっていることがわかったので、着眼点としては正しかったんです。

ただ、その解消法が間違っていた。甲田先生は、西式運動の厳しい反復運動によって「正しい」身体の動かし方を学習し、矯正できると考えていたけれど、これは手続き記憶の治療にふさわしいやり方ではなかった。

ストイックな反復運動をしたところで、筋肉の凍りつきを悪化させるだけだからです。ある凍りつきのパターンを、別の凍りつきのパターンに移行させるくらいしか効果はなかったのではないか。

甲田先生は、あまたある健康法や体操を調べて、これに行き着いたと述べていましたが、きっとボディワーク的なものは眼中になかったのでしょう。

よもや、アレクサンダー・テクニークやフェルデンクライス・メソッドのように、自分の一挙手一投足に集中して、動きを変えていくことにこそ、「クセ」の解消の手がかりがあるとは思わなかったのでしょう。

断食療法にしても、いいところは突いていたけれど、肉体に過度の負担をかけ、意志の力で感覚の抑制を強いることは、解離や凍りつきを悪化させる悪手だったといえます。厳しいストイックな反復では、凍りつきは解消できない。

食事療法の内容にしても、仏教的慈悲の心から、動物を殺して食べるのをためらい、厳密な菜食主義や生菜食を指導していましたが、これも近年のマイクロバイオームの研究からすると少し微妙な手法でした。

土と内臓 (微生物がつくる世界)や、腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかなどの本によると、マイクロバイオームの研究では、確かに、バレオ系の肉食主義より、マクロビ系の菜食主義のほうが健康的であることはわかっている。だけど本当に健康的なのは、先住民族がしていたような、菜食中心で、たまに肉食もするようなバランスの食生活でした。

甲田先生は、仏教的な宗教哲学を治療に盛り込んでいたけれど、やはり本当に指針とすべきなのは、人間がある時点以降作り出した宗教哲学ではなく、生物学や文化人類学だと思います。自然界のありようを見て、もともと人類が長年適応してきた方法を目指すべきだった。

しかし、甲田療法の中でも根幹をなしている断食療法の部分は、最新のマイクロバイオーム研究とも一致しているように思えるので、だからこそ断食や少食を軸にした治療で多くの人が改善したのでしょう。

自然界の動物も、具合が悪くなったら断食するし、断食の習慣は世界中のさまざまな宗教や、それ以前の文化でも見られるのだから、断食は生物学的にも文化人類学的にも有意義に思われる。

飽食の時代に生きる現代人は、断食に慣れていないし、ときには拒否感も示すけれど、甲田先生が生前指導していたような段階的で無理の少ない断食は、たぶんかなり健康増進に役立つんでしょう。

というわけで、甲田療法について再評価したので、わたしもマイクロバイオームのリセットに役立つかと、断食を再開してみたんですが…。

困ったことに、二日半ほど断食しても、空腹感も何もなく、わたしの内臓がまだ失体感症の麻痺状態にあって解離(切り離)されていることを確認できただけでした。(自分は空腹を感じたことがないと述べた太宰治ばりに)

あのままもっと断食することもできただろうけれど、どうも、身体の状況が脳にフィードバックされていないようなので、身体は空腹に苦しんでいても、脳にはそれが認知されていないのだろうか。

マイクロバイオームの乱れと、胃腸の不調からすると、もっと定期的に断食は取り入れるべきだと思いますが、ボディワークなどと並行させることも必要かもしれません。今後の課題です。

肉食文化についての考え

ところで、そんなことを考えていたころ、アスペルガーの友人から、「人間は肉や魚を食べるために動物を動物がものすごく痛みが伴うような殺し方をして入手して食べている 」から肉食が嫌だというメールをもらったので、この点についてのわたしの長年の考えを返事しておきました。

わたしも肉食文化に対する違和感にはとても共感できます。だから、わたしは病気になって以降、ほぼフィッシュ・ベジタリアン主義です。

有名なアスペルガー女性のテンプル・グランディンも、そこに注目して、動物たちが痛みやストレスを感じないよう屠殺する飼育施設を作ったことで知られています。結局殺すことは変わりないんですが、あらゆる動物は生きるために何かを奪わねばならないことを思えば、ある程度、実際的な解決策とも思えます。

しかし、わたしとしては、食肉文化自体には反対しませんが、現在の大量生産型の飼育施設は気持ち悪いし非人道的だな、と思います。

古代の人々は、動物を食べてはいましたが、自分の手で狩猟していました。ときには、自分で育てた動物を、客をもてなすために屠殺したりしました。そういう生活をしていたので、生命を奪うことの重さ、尊さをよく知っていました。

それが、日本語にもある「いただきます」の精神ですよね。食べるということは、他の動物・植物の尊い生命をいただくということだと知っていたからこそ、感謝の気持ちを忘れなかった。

ネイティヴ・アメリカンとか、アイヌの文化を見てみると、動植物を「生きるために必要以上に獲ってはいけない」(良識ある収穫)という価値観がありました。肉を食べるというのは、自然や神に感謝する宗教的儀式とも結びついていた。毎日好きなだけ肉を食べていたわけではない。

ところが、現代人はそうではない。スーパーやコンビニで、自分で屠殺する痛みを味わわずして、加工された肉を買ってくる。 植物と叡智の守り人にあるように。

私たちが口にするものの多くは地球から無理矢理に奪ったものだ。そういう形で食物を取り上げるのは、農家にとっても、作物にとっても、また侵食されていく土壌にとっても好ましくない。

プラスチックに包まれたミイラのように売買される食べ物を、地球からの贈り物とはもはや認識しにくい。愛がお金で買えないことは誰だって知っている。(p162)

すると、生命は尊いということを感じないし、動物の痛みも想像しないから、感謝の気持ちもなければ、大事にしようという気持ちもない。賞味期限切れになったたくさんの動物の肉が廃棄される。

こんな文化はおかしいと思います。だから、わたしはだれかと食事するときには、感謝しつつ肉を食べることはありますが、基本的にはフィッシュ・ベジタリアンです。

しかしながら、友人は、魚が感じる苦痛についても触れていました。ここはとても議論の多いところで、判断が難しい。

「動物が苦痛を感じる」ことについての痛みの神経科学は、結局、「意識」の神経科学になってきます。

わたしたち人間は、痛みを感じる自分を自覚するという意識を持っていますが、大半の動物は、そこまで高度な意識を持っていないようです。

確かに、神経シグナルとしての痛みは生じるので、傷つけられたら反射的に逃げようとしたり、もがいたりしますが、それは「苦痛」を意識して自覚するからそうしているのではなく、本能的な反射としてそうしています。

たとえば、センサーをもつロボットに、障害物にぶつかったら、後退するようにプログラムしたとします。この場合、ロボットは「苦痛」を感じるから逃げようとするのでしょうか。

それは違います。ロボットには意識がなく、無意識の反応としてプログラムされているにすぎないからです。動物の場合、ロボットのような無意識ではないものの、人間が持つような複雑な自己認識の意識はありません。

だから、動物に感情移入するときには気をつける必要があります。もし「苦痛」を与えるからとして、あらゆる動物を殺したり、植物を伐採したりすることを禁止してしまうなら、それは人間側の独りよがりかもしれません。植物はそこまで知っている (河出文庫)にもこう書かれていました。

じつのところヒトであっても、痛みと苦しみは脳の別の領域で解釈される別の現象だと考えられている。脳画像研究から、痛みの中枢は脳の奥深いところに位置し、脳幹から放射状に広がることが確認されている。

いっぽう、苦しみを感じる場所は前頭前皮質だと科学者たちは考えている。痛みによる苦しみを感じるには高度に複雑な神経構造と前頭皮質への接続が必要なのだとすれば、それは高等な脊椎動物だけに存在すると考えていい。

…この警戒を怠ると、植物のふるまいを擬人化する行為は野放図に広がって、ときにはおかしな事態とまではいかないまでも疑問符のつく事態を招くことがある。2008年には、スイス政府が植物の「尊厳」を守るための倫理委員会を設立するというようなことがあった。脳をもたない植物が、自身の尊厳を心配するとは思えない。(p162)

もちろん、動物や植物の痛みや尊厳に注意を向けることで、わたしたち人間が、より自然界への思いやりを深めるのは有意義なことです。でも度を越えて、動物や植物がそう望んでおり、その代弁者として自然保護に携わっていると考えるとしたら、人間の奔放な想像力によるお仕着せの解釈が入り込んでいます。

現に、自然界は弱肉強食で、食べたり食べられたりすることが一般的だからです。人間が勝手に殺すのは残酷、というルールを作るのは差し出がましいことです。

しかし、自然界ではたとえ弱肉強食のシステムがあっても、動物たちは、 「生きるために必要以上に獲ってはいけない」というルールには従っています。相手を絶滅させたりするほど食べることはありませんし、無駄に殺したりしません。

いろいろ考え方はあるとは思いますが、私は結局のところそこがポイントだと思っているので、自然界のルールに沿って肉を食べるならいいけれど、大量生産されて加工された肉を何も考えずに食べるのは違和感がある、という立場です。魚については悩ましいところですが。

さっき書いたように、マイクロバイオーム(腸内細菌)の研究からすると、基本的には菜食で、たまに肉類を食べるような、先住民族的な食生活が一番健康な腸内細菌を作ると言われています。

現代的な不健康な食生活はもちろん、肉だけ(バレオ)や、野菜だけ(マクロビ)という極端な食事療法は、腸内細菌という観点からみれば、あまり身体によくないようです。昔ながらの自然なやり方が一番いいということです。

動物や植物が可哀想だという敏感な感性を持つのはすごくいいことですが、それを拡大させて過剰な動物愛護に至るのは、自然なことではなく、現代文化特有の自然に対する愛着障害の一種だとわたしは思います。

現代人は、自然や動物とかかわらないこと、人間の手で撹乱しないことを、自然保護だと勘違いする傾向があります。植物と叡智の守り人 の著者の父親はネイティヴ・アメリカンの文化についてこう語っている。

人間が自然のためにしてやれ一番のことは、何もせずに放っておいてやることだと言う人たちがたくさんいる。その通りの場合もあるし、ご先祖様たちもそれはわかっていた。

だがわしたちには同時に、この土地を世話する責任もある。それはつまり、積極的に関与するという意味だということを―自然界は、人間が良い行動をとることが頼りだということを、人は忘れがちだ。

愛しているものを柵の中に押し込めても、愛情や思いやりを示すことにはならない。関わり合いを作らなきゃいけない。この世界が健全でいられるよう、貢献しなけりゃいかんのだ。(p456)

事実、この本では、人間が中程度に自然と関わったときに、(つまりネイティヴ・アメリカンの信条のように、半分以上採りすぎない、を守ったときに)最も自然の多様性が豊かになるケースが報告されています。たとえばテンの狩猟の中でそれを実践しているライオネルという人が出てくる。

昔から伝わる教えには、それが良識ある収穫であるかどうかは、奪うものの代わりに自分が何を差し出すかによって決まる、とある。

ライオネルがこうやってテンの面倒を見た結果、彼の罠にかかるテンが増えるという事実からは逃れようがない。そしてそれらのテンが殺されることもまた事実だ。

…テンはライオネルの手にかかって死ぬだろう。でもそれまでは、ライオネルにも助けられて彼らは元気に暮らすのだ。

知りもしないで私が非難した彼のライフスタイルは、森を護り、湖や川を護る。…良識ある収穫は、奪う者だけでなく、与える者をもまた支えている。(p250)

ネイティヴ・アメリカンのライオネルは、狩猟によって生計を立てている。確かに彼は動物たちを殺す。でも、同時に動物たちに深い愛情と知識を持っており、良識ある収穫を信条としている。それはつまり、動物たちの生態系の中に入って、彼らと同じようにふるまっている、ということ。

自然界の生態系は、食べたり食べられたりすることでサイクルとして循環しているので、過度な感情移入からそのサイクルを断つのは、かえって自然界にとってよくないはずです。むしろ、郷に入っては郷に従えの言葉どおり、自然界には自然界のルールがあり、自然界を人間の倫理観に合わせるのではなく、人間が自然界のルールに合わせなければならない。

自然界は、与えられたぶん(いただいたぶん)お返しをする、というレシプロシティ(ギブ・アンド・テイクの関係)の経済でまわっているので、自分の生命のために必要なぶんは、感謝していただく、そして感謝を行動で示してお返しをする、といった関わり方が、もっとも自然であり、人間にとっても健康的だといえるのではないでしょうか。

今回の記事はここまで。まだ次なるステップを探し求めて模索している最中なので、とりとめのない内容が多いですが、こうして文章化することで何かが見えてくるような手応えもありました。続きを書いたらまたリンク追加します。


Categories: 6章。2019.04.12