地図にない世界を探検しにいったセラピー体験記(1)

わたしがSomatic Experiencing(SE)について知ったのは去年のこと。

日本にも少数ながらセラピストがいることは知っていて、興味は持ってましたが、慎重でなかなか一歩を踏み出せない性格なもので、まずはソマティックフェスタでボディワークを体験してみることから始めました。

ネックになっていたのは、セラピストの質がピンキリなこと。優秀な治療実績のあるセラピストのところなら行きたいとは思っていましたが、ここ日本ではそんな人はなかなか見つかりません。

去年、解離の専門家のところに受診したとき、治療することに伴うリスクを指摘されたのも気になる点でした。過去を封印したまま安定しているのであれば、そちらのほうがいいのではないか、という意見でした。

でも、ここのとこ体調の悪化が著しく、もうまともな日常生活を送れなくなっているので、四の五の言ってられなくなりました。大好きな絵も描けないし、ほぼ引きこもり生活で、死期が近いんじゃないかと真剣に思うほど、ずるずる悪化しています。セラピーに通えるとしたら、今がギリギリ最後のライン。

というわけで、腹をくくって、ついにSEに通うことにしました。今回からの一連の記事では、書ける範囲でセラピーの内容を記録していこうと思います。

なぜSEか

まず、なぜ日本ではあまり知名度もないSEを選んだのか、という話を。

端的に言うと、これ以外の選択肢がもうなさそう、と思ったからです。学生時代以来、思いつく限り、ありとあらゆる治療をためしてきましたが、何もかもうまくいかず。今はかろうじてモディオダールが効いているので、無理やり目を覚まして日常生活を続けている状態です。

ここ二年ほど調べていてたどりついた結論は、自分の経験している症状が、たぶん遺伝的なHSPの上に、小児期からの慢性的なトラウマ経験がのっかったものだ、ということ。

片っ端から本を読んできましたが、転機になったのは、ピーター・ラヴィーンの本を読んだことでした。これまでどうやっても説明できなかった、医者にも家族にも理解してもらえなかった奇々怪々な原因不明の症状の数々が、ポリヴェーガル理論によって生物学的に説明できることを知りました。

そのラヴィーンが開発したのがSE。訳せば「身体の経験」という治療法でした。

ジークムント・フロイト以来脈々と続く従来のカウンセリング形式の心理療法は、わたしも10代のころに受けましたが、何の効果もありませんでした。SEはそれとは違って、「ボディワーク」という系譜に属する治療法です。言葉を用いたセラピーではなく、ヴィルヘルム・ライヒ以降ほそぼそと受け継がれてきた身体感覚を使ったセラピー。

このあたりの歴史については、去年、ソマティックフェスタに行ってきた感想で詳しく書いたので割愛します。

ソマティックフェスタでハコミセラピーをやってみた

フロイト流の精神療法は、これまでたいした科学的根拠もなく幅を利かせてきましたが、近年の脳科学とか神経科学の発展によって、それとは異なるボディワーク系のセラピーが見直されてきています。有名なのがマインドフルネスですね。

マインドフルネスの考え方は、もちろんSEにも組み込まれていますが、あまたあるボディワークの流派の中でSEが異なっているのは、神経科学の知識を持つトラウマ専門家により、トラウマに特化したボディワークとして最適化され、しっかりした科学的裏づけで固めてあることです。

これまでの心理療法の問題点をしっかり認識した上で構築されているので、カウンセリングなどが無効な複雑な症状を抱える人に対しては、少なくとも現時点では、最も洗練されたアプローチだと思います。

日本だと知名度が低いので、怪しげに思えるかもしれませんが、ラヴィーンはNASAの医療コンサルタントも務めた人物ですし、わたしが調べた限りでは信頼できる学問だと感じました。

こうやって書くと、いいことずくめに思えてしまいますが、そううまくはいかないのが悲しいところ。高度にまとめられた学問だけに、セラピストの質が追いついていないような気がします。

SE Japanから認定を受けたセラピストのリストを見て、それぞれのウェブサイトに飛んでみたんですが、とても専門家が書いたとは思えないような文章ばかり。特に多いのが、スピリチュアル系に偏って、直感でセラピーをやっているような人たち。感覚を用いた治療法とは言っても、理論はきっちり科学的に固めてあることがSEの魅力なはずなんですが。もちろん理論に偏りすぎていても頭でっかちになるのでバランスが重要です。

セラピーには費用がかかるしリスクも伴うので、最低限の条件として、文章に知性が感じられるセラピストでないと通う気になれません。かなり熟慮して、比較検討した結果、最良とまではいかないものの、比較的まともそうなところが見つかったので、そこに行ってみることにしました。(あくまで個人の判断だから、この記事にはセラピストを特定できるような内容は書きませんのであしからず)。

SE以外の選択肢もいろいろと検討してはいましたが、調べれば調べるほど、SEがよさそうだという結論に帰ってきました。トラウマ治療法は、症状ごとに適したものがあって、だれに何が適しているかは色々です。たとえば過去の記憶がフラッシュバックするようなアスペルガーの人だったらEMDRがいいと思います。でも、じっくり考えるHSP系の人の場合は、SEがしっくりくる気がします。

日本のHSPの専門家の長沼先生の子どもの敏感さに困ったら読む本では、数あるボディワークの中で唯一SEだけがちらっと出ていますし、最近読んだ小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策でも、線維筋痛症を抱えるHSPの人が、SEで回復していった事例が出ていましたし。

ジョージアは家族から「気にしすぎ」とか「神経質な子」と呼ばれていた。そう決めつけることで、両親は自分たちの家庭が普通で、おかしいのはジョージアのほうだと思わせた。

「でも、たしかに家の中には不穏な空気が流れていました。結局、私は自分を守るためにスイッチを切ることを覚えました。たとえアンテナをたたむことはできなくても」とジョージアは語る。

「10歳になるころには、言われたとおりに振る舞えるようになっていました。毎日、できるかぎり透明人間になろうと努力していたんです」(p116-117)

最初、ジョージアはマインドフルネス瞑想を始め、かなりの効果を得たが、体と感情をつなぎ直すために1対1のガイダンスが必要だと感じてソマティック・エクスペリエンスを始め、週に1回、1年以上SEのセラピストのもとに通いつづけた。(p260)

一番自分と似ているタイプに思えたジョージアが、数ある治療法の中からSEを選んでいたのは偶然ではないのだろうな、と思います。

ジョージアが1年間週1回セラピーに通った、という記述を見て、(もちろん個人差はあるとはいえ)長期戦を覚悟しました。もしセラピーに一回一万円かかるとしたら、一年間で50万円もかかることになってしまう。

だけど、もうわたしは、他にやれそうなことは全部試したし、今の流れだと、遠からずもっと重い病気になるか、若くして死ぬのは目に見えている。ここ数年、元々悪い体調がさらに急激に悪化していますが、この本を読んで、それが破滅へのカウントダウンだったと知りました。お金を持って死ぬことはできないし、どうせジリ貧なら、やってみたかったことにお金を使ってもいいじゃない。

覚悟は決まりました。あとは、信頼に足るセラピストかどうか、それだけです。

初めてのSEへ。中動的体験を求めて

初回予約の日は雨でした。通い続けることを意識して、自宅から比較的近い場所のセラピストを選んだつもりでしたが、雨降りの日には遠く感じるものです。今の体調なら、ギリギリ通えるかどうかの距離、といったところです。このまま体調が悪化すれば一年後は無理かもしれません。理想はわたしの住んでいる町にセラピストがいれば…と思いましたが、このあたりには誰一人いませんでした。

地図を頼りにたどり着いたところは…お世辞にも洗練されているとは言えない、町の片隅でした。プライミング効果から言えば、あまり良くない先入観は避けられないロケーション。けれども、事前のメールのやりとりはとても丁寧で好感が持てましたし、日本でSEのセラピストが置かれている不遇さもわかるので、できるだけ偏見を持たないよう務めました。

本当の名医や専門家はあまり見栄えのしない場所に住んでいることが多い、なんていう記述はどこで読んだんだっけ。そっちの出典は思い出せませんが、代わりに思い出したのは、視覚はよみがえる 三次元のクオリアの著者のスーザン・バリーが書いていた話。

2001年11月、ルッジェーロ医師の診療所をはじめて訪れる道すがら、わたしは、ほかの目医者がまだ試みていないどんな治療があるのだろう、と首をかしげた。考えてみれば、自分は高名な超一流の眼科外科医の手術を受けている。

…新しい目医者を受診することへの不安は、診療所に足を踏み入れても解消しなかった。すっきりと整頓されてはいるが、質素で飾り気がない部屋だー高度医療センターという雰囲気はどこにもない。

しかし、やがてわたしは、診療所の地味な見かけには、そこで実施される治療の並はずれたすばらしさがまったく反映されていないことを知る。(p92)

診療所が質素だったのは、ルッジェーロ医師が医学の主流派ではなく、検眼医(オプトメトリスト)だったからかもしれません。SEと似たような立ち位置です。

スーザンは、あまりいい先入観を持ちませんでしたが、治療を受けて見方が変わりました。わたしもそうなる可能性があるのでしょうか。それともただの希望的観測にすぎないのか。スーザン同様、足を踏み入れてもなお解消しない不安感とともに、ドアを開けました。

出迎えてくれたセラピストは、メールでのやり取りから予想されたように、とても感じのいい方でした。部屋の中は、狭いながらも心地よい空間にまとめられていました。一対一のセラピーは初めてなので不安でしたが、あまり緊張しないよう配慮してくれている印象でした。リラックスできる雰囲気を整えてから、うまく話題を振ってくれるので、居心地の悪さは感じません。さすがセラピストだけあってコミュニケーションを心得ています。

わたしはもともとコミュニケーションが苦手なタイプではありませんが、最近はドーパミンが低レベルなのか、自発的に言いたいことが出てこないことがよくあります。でも、的確な質問をされると、言葉が出てきます。

ちょうど、ドーパミンが枯渇しているパーキンソン病とか嗜眠性脳炎の人が、自分からボールを投げることはできないのに、ボールを投げられると反射的にキャッチできるのと似ています。自分から歩き出そうとすると足がすくむのに、目の前に階段が置かれると自然に登れてしまう現象もしかり。ドーパミンが抑制されると、動作の開始シグナルを送れないので、トップダウンの能動的な行動が難しくなります。しかしだれかが動きのきっかけをくれれば、ボトムアップの受動的な行動が引き出されるので、できないはずのことができます。

これは金縛り(睡眠麻痺)とも似ています。自分で体を動かそうと頑張っても、固縮状態なので身動きひとつとれません。しかし、(わたしはやってもらったことがないのでわかりませんが)、金縛り中にだれかに触れてもらえると解けると聞いたことがあります。

この二つの例は、どちらもいわゆる「機能的な麻痺」の話です。物理的に神経が断絶しているわけでないのに身体が麻痺している人たちは、身体そのものが悪いのではありません。動作を開始するドーパミンのシグナルを脳から身体に送れないために、自分の意志で動くことができなくなっています。わたしたちは寝ている間はみんなそれが起こります。寝ながら動いてしまうと危険ですから。その状態で目が覚めると動けないので、金縛りだと感じられるわけです。

同じことは、いろんな病気で起こっています。自分の意志で言葉をうまく出せない、自分で感情を表せない、自分から身体を動かすのが難しい。そして、わたしみたいな、過去の体験のせいでエネルギーが「凍りつき」を起こしている人もそうです。頭ではこうしたいと思っているのにどうしてもできない、無意識にならできる時もあるのに。それは脳が能動的なシグナルを送れなくなっているからです。

オリヴァー・サックスは、大怪我の後、回復したはずの左足が麻痺したまま動かせなくなったときのことを左足をとりもどすまで (サックス・コレクション) にまとめていて、これを「概念の喪失」と呼びました。自分の意志で身体にシグナルを送れず、凍りつきや麻痺が起こっているとき、主観的には、身体を動かす方法を忘れてしまい、想像すらできない、概念からして失ってしまったように感じられます。

こうした人たちを回復させるには、もっと身体を動かすようにとか、運動するように、さらには感情を感じるように、なんて指示してもムダです。そのやり方さえ想像できないんですから。(医者が引きこもり状態の患者に運動するように口うるさくアドバイスしても、たいていムダなのはこのせいです)

唯一できるのは、まだ生きている経路を使うこと。自分でやろう、という能動的な信号を送る経路は麻痺していますが、いつのまにかできていた、という受動的な経路は生きています。パーキンソン病の人みたいに、自分の意志で動き出せなくても、外からの刺激によって動作を引き出してもらえたら、できないはずのことができる。サックスの主治医がこう説明していたように。

「私の犬にもおこったことなんです。可愛いヨークシャーテリアの雌なんですが、足を折ってしまいましたね。私が接骨してやり、完全に治ったというのに、三本の足しか使わないんです。

ずっと使わなかったせいで折れた足の使い方を忘れてしまったのです。二ヶ月それがつづきました。どうしてもちゃんと歩こうとしない。

それでボグナーまでつれていって、犬をだいて海へ入ったんです。できるだけ沖までつれて行き、海に投げこんで、泳いで戻ってこさせたのです。

犬は左右の足を均等につかって力強く水をかいてもどってきました。そして、海からあがると浜辺をすばやく走ったんです。足を四本ぜんぶつかって。

あなたの場合も同じ療法なのです。予期せぬ出来事を体験させ内在する力を自然にひきだす。それがどういうわけか自然な行動を喚起するのです」(p237)

トラウマを抱えた人に起こっているのはこれと同じです。足を折るという衝撃的な出来事を経験した犬が、足を動かすという概念を忘れてしまうように、何かの衝撃的な出来事を経験した人は概念を失ってしまいます。

SE開発者のピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ の中で、そのことをパブロフのとある研究から説明していました。レニングラードの洪水で生死に関わる恐怖を味わい、神経に過負荷がかかった犬たちは、それまでの条件付けを忘れ、概念を喪失してしまいました。

パブロフは…動物たちが「反射」または目的のための本能を失ってしまったことに気づいた。何をどうすればいいかまったくわからなくなってしまったのである。(p293)

これはきっと、あまりに衝撃的な経験から脳を守るための防衛なんでしょう。動物も人間も、耐えられないほどの衝撃を受けると、脳から身体にシグナルを送る経路を自分で切り離す(解離させる)ことで衝撃から身を守ります。

でも、そのままだと、衝撃的な体験が終わった後も、経路が切り離されたままになっているので、身体が麻痺したり凍りついたりしてしまう。それを治療できる唯一の方法が、「予期せぬ出来事を体験させ内在する力を自然にひきだす」こと、別の言い方をすれば、能動的な経路ではなく、受動的な経路で忘れてしまった概念を思い出させてあげることです。

これが、SEの意図するところです。だから、こちらの受動的な反応を引き出すのが上手なセラピストは、わたしに向いているのかもしれません。

もうちょっと正確に言っておくと、「受動的」というのは適切な表現ではない気がします。言語学からすれば、「受動的」ではなく「中動的」、つまり、自分の意志でやるのでも(能動)、他人から強制されるのでもない(受動)、自然に流れるようなプロセスで身体を動かせるようにすること(中動)こそが、SEの目指すところでしょう。

効果が実感できない対話セラピー

セラピストにまず尋ねられたのは、現在に至るまでの体調や、SEにたどり着いた経緯など。

過去に何があったのか、という点はまったく聞かれませんでした。 小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策にも書かれていましたが、トラウマ療法でありながら、過去について話さなくても構わない、というのは、SEの特徴のひとつです。

トラウマの経験の具体的な内容については話さなくても構わないが、体がストレスを抑える仕組みを学び、身体の感覚に注意を向け、どのような感情、考え、イメージが生じるのかを観察する。

そしてゆっくりと、安全な環境でトラウマの原因となった苦痛の一部を経験し、蓄積されたエネルギーを放出して神経系のバランスを取り戻す。すると、回を重ねるうちに最も厄介な感情が安全な状態で表に出てくる。(p259)

もちろん、セラピーを繰り返すうちに過去の経験に踏み込んでいくことはあるかもしれませんが、一般的なカウンセリングのように根掘り葉掘り聞かれたり、暴露療法のようにトラウマを詳しく語って再体験したりすることはありません。後で書くように「安全」であることはSEを語る上で欠かせない要素です。

次いで、SEの簡単な説明がありました。わたしは事前にピーター・ラヴィーンの本のほとんどを読んでいたので、理解が早かったと思います。まったく初期知識がないと、かなりわかりにくいかもしれません。前知識もなく、わざわざSEを受けに来る物好きはそうそういないでしょうが。

シンプルに言えば、自律神経には過覚醒モードと低覚醒モード、そしてその中間に位置する、心地よくリラックスしたモードの3つがあります。通常、健康な人は自律神経にしなやかさがあるので、中間の安定した領域にとどまることができますが、トラウマを負った人はそれができません。ちょっとした刺激でも、すぐに上に突き抜けて過覚醒になってしまい、限界を超えた反動で今度は低覚醒に反転します。

例えて言えば、すぐにアクセルを目一杯踏み込んでしまい、それを制御するために急ブレーキをかけてしまう、ということです。わたしみたいな人は、アクセルを踏み込みすぎた状態でブレーキをかけつづけているので、事実上エンスト状態に陥っているということ。

SEでは、自分が今この瞬間に、3つのモードのどれにいるか気づけるよう訓練し、アクセルとブレーキを適切にコントロールする方法を学びます。

治療にあたっての注意点として説明されたのは、治療ではブレーキを徐々に緩めていくため、一時的にアクセル優位になってしまう人がいる、ということ。安全に配慮されたセラピーですが、何が起こるかはわかりません。でも、わたしはそれを覚悟の上でここに来ました。

最初の数十分はまず、おもに対話を中心に身体の感覚に気づくよう促されました。SEの基本は、外部の感覚と、内部の感覚に交互に注意を向けて、行ったりきたりすることです。たとえば、イスに座りながら、足や身体をどう感じるか尋ねられ、内部の感覚を探ります。次いで、部屋の中にあるものを何か3つ挙げるよう言われ、外部の感覚を探ります。

しかし、しばらく対話でやりとりしてみても、わたしには、何か上っ面の言葉でごまかされているようにしか思えませんでした。自宅で1人でいるときでもできるような単純なことを、もっともらしい説明でごまかされているかのような。集中できなくなって眠気やだるさがわいてきました。

ぼんやりして眠いことを伝えると、手に刺激を与える、おもしろい触り心地のおもちゃをたくさん出してきてくれました。解離状態になっているので、適度な刺激を与えることで注意を引き戻すというわけです。わたしもピーター・ラヴィーンの本を読んで、本のアドバイスをもとに、自宅のイスをバランスボールに替えた話をしてみました。

お互いにラヴィーンの本を知っているので、話が噛み合うのはありがたいことでした。何も知らない医者のほとんどは、従来の自律神経理論を鵜呑みにして、交感神経の興奮だけしか問題にしません。交感神経優位で過緊張や過覚醒の状態にあるか、それとも副交感神経優位でリラックスしているか、その二つしか頭にありません。わたしのように、過覚醒が反転して低覚醒に陥るケースをまったく理解していないので、症状をうまく伝えることさえできません。

今回のセラピストは、しっかりその点の知識があったので、いま自分がどんな状態にあるか、建設的なやりとりができました。

しかし、わたしが望んでいたのは、そんなやりとりではありませんでした。

わたしがここに来たのは、体調の不安を聞いてもらったり、ありきたりなアドバイスをもらったりするためではありません。気持ちを聞いてもらうのは普段のやりとりで十分ですし、知識を学ぶのも本で間に合います。バランスボールの導入のように、自分なりに実践することだってできます。

子どものトラウマ・セラピーの中でラヴィーンはSEについて、「これを読むだけでは習得できません。感覚は体験されなくてはならないのです」と述べていました。(p32)

わたしが求めていたのは、経験でしか学べないものを得ることでした。ダイビングの講師と海の話題で盛り上がるのではなく、一緒に海に潜ってみること。レストランに行って延々とメニューを見てしゃべるのではなく、実際に料理を味わうこと。“Somatic knowledge”(身体的な知識)を学ぶために高いお金を払ったのではなく、“Somatic Experiencing”(身体的な経験)を得るために、わたしはここに来たのです。

もしかすると、知識はそれなりにあるものの、治療経験の乏しい、実践力に欠けるセラピストなのではないか。

期待はずれだったかもしれない。はっきりそう思いました。

しかし、幸運だったことが二つ。

ひとつめは、セラピストが とても話しやすい雰囲気を保ってくれていたことです。何も効果を感じられないし、意味があるとは思えない、という気持ちを率直に伝えることができました。

もし話しにくい雰囲気のセラピストなら、わたしははっきり言えなかったはずです。今まで医者に不満を感じることは数知れないほどありましたが、不満を伝えられないまま失意のうちに立ち去ることばかりでしたから。わたしの口下手というより、この医者は聞く耳を持たない、あるいは言ってもムダだ、とはっきりわかるからです。自分の思い通りにならない患者に対して医者がいらだっているのを、わたしは敏感に察知できます。不快感が態度に出たり、めんどくさそうにしたり、言い繕って煙に巻いたりします。わたしは何も言わずに空気を読んで立ち去ります。もし不満を口にすれば、医者は余計に気分を害するだけでしょう。昔から言われているように、豚に真珠を投げ与えるのは愚かですから。いや、愚かな医者と比較してしまうのは豚に失礼か。

けれども、今回のセラピストには、不思議とそうは感じませんでした。率直に意見を伝えることができて、わたし自身が驚いたほどでした。それだけリラックスできる雰囲気づくりが上手だった、ということでしょうか。

もうひとつ幸運だったのは、わたしがある程度SEの知識を持っていて、まだSEの可能性を見限るのは早い、と感じていたことでした。この相手には何を言ってもムダだろう、と感じるときとは違って、セラピストの手法がまだわたしに最適化されていないせいで効果を実感できないのではないか、と考えました。それで、別のアプローチを試してくれるようお願いしました。

振り子運動(ペンデュレーション)

そこでセラピストが試してくれたのは、セルフタッチによるセラピーでした。

まず腰のあたり、腎臓の位置に自分の手をあてるよう促されます。目を閉じ、セラピストの言葉に促されるままに、内面の感覚に集中します。セラピストが、今どのように感じるか尋ねてくるので、自分の感覚をリアルタイムで観察して言葉で表現します。不思議なことに、そのとき感じたのは、心地よさでした。先ほどまでの不快でどろどろした眠さではなく、暖かく包まれてまどろむような。

続いて、目を開けて、先ほどまでと同じように、目に入ったものを3つ挙げるよう促されました。ふと観葉植物に目が行きましたが、さっきとは見え方が変化していることに気づきました。さっきまでは部屋の中のものがすべてぼんやりして、見たものの詳細がまったく印象に残らなかったのに、今回は、無意識のうちに葉っぱの色のグラデーションの美しさに注目していたからです。

もともとSEの知識があったわたしは、セラピストに説明されるまでもなく、自分が経験したことの意味をつかみました。わたしはさっきまで、(背側)迷走神経優位の低覚醒状態にあり、ぼんやりして解離状態にありました。すべてをあきらめて、心ここにあらずの状態でした。

しかし、セルフタッチで身体に手を当てながら、セラピストの言葉にそってじっくり内面を観察したとき、一時的に副交感神経優位のリラックス状態に入ることができました。これが心地よいまどろみの正体でした。

そして、目を開けて外部に注目したとき、適切なレベルで交感神経系が働き始め、脳の機能が活性化しました。その結果、見たものの詳細が、しっかりと注意に残りました。まず副交感神経系が機能して安心感を感じている状態でないと、視覚はしっかり機能しません。(このことからすると、どうもわたしが相貌失認なのは、常に頭が解離状態で視界がぼーっとしているからなんでしょう)

わたしが自分の経験を言葉にして説明すると、セラピストは我が意を得たりと喜んでくれました。そして、これがSEの代表的な手法である「振り子運動」(ペンデュレーション:pendulation)であることを説明してくれました。

本来人間を含めた生物には、感覚の振り子のような変動リズムが備わっています。そのおかげで、たとえ一時的に大きなショックを受けても不快な状態が一生続くようなことはなく、健全な状態に戻ってくることができます。

ところが、トラウマを負った人ではこの自然な振り子のリズムが失われて停止しているため、危機が去っても、体の反応がもとに戻らなくなり、無限に続くかのように慢性化してしまいます。ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマで書いているように、振り子の自然なリズムを取り戻させる必要があります。

ペンデュレーションとは、収縮と拡大・開放という体験された両極間で拍動する内在的リズムのことである。

この内側のリズミカルな流れにアクセスすることを学ぶと、「無限の」情動的苦痛が対処可能で有限なものとして感じられ始める。

これにより、恐怖と無力感から好奇心と探求へと態度が変化するようになる。(p414)

身体はトラウマを記録するの中に書かれていたように、SEのセラピーの基本的な手法はこの振り子運動を取り戻させることです。

混乱と緘黙症は、セラピーの場面でよく見られる。物語の細部を話すように無理強いし続けると、患者が圧倒されてしまうことは予期できる。

そのため私たちは、トラウマへの取り組みを(友人のピーター・リヴァインの表現を借りれば)「振り子のように行ったり来たりさせる」ことを学んだ。

物語の細部に直面するのを避けるわけではないが、片足の爪先を安全なかたちで水にそっと浸けてみて、それからまた引き上げるように、患者に教える。そうやって、しだいに真実に近づいていく。(p402)

SEの振り子運動(ペンデュレーション)では、内部の感覚と外部の感覚、あるいは安全な感覚とトラウマの感覚を振り子のように行ったり来たりすることで、徐々に深い感覚へと身体を慣らしていきます。

そうすることで、感覚に圧倒されて、ジェットコースターのように過覚醒や低覚醒になっていたのが改善されていきます。自律神経のゆとり(「耐性領域」と呼ばれる)が広がり、圧倒されにくくなるからです。この徐々に感覚を経験していくプロセスは「再交渉」と呼ばれます。

対照的に、トラウマ治療として主流の暴露療法の場合、こうした漸進的な手順を踏まず、衝撃的な経験を「再体験」させます。その結果、クライアントは圧倒されて何も感じなくなります。

これは、ちょっとずつ水に慣らすか、いきなり海に飛び込むかに似ています。どちらも結果は同じじゃないかと思えるかもしれませんが、まったく違います。最終的に水に入るのは同じでも、そこまでに経験するものが異なっているからです。

この点をわかりやすく説明しているのは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線にあったこの話でしょう。ここで引用されているのは身体療法家として名高いフェルデンクライスの言葉ですが、ピーター・ラヴィーンはもともとフェルデンクライスのボディワークもSEの参考にしています。

鉄の棒を持っているときには、ハエがそこに止まったのか、そこから飛び立ったのかの違いを感じることはできない。しかし持っているのが羽なら、その違いを感じられるはずだ。(p269)

暴露療法の「再体験」は、衝撃で感覚が麻痺するので「鉄の棒を持っているときには、ハエがそこに止まったのか、そこから飛び立ったのかの違いを感じることはできない」のと同じ状態になります。感覚を鉄のように無反応にしてしまい、トラウマに対して反応しないようにすることで“治療”したとみなします。

反対に、SEの「再交渉」は、振り子運動によって頻繁に小さな感覚を行き来することで、微小な感覚の違いを見分ける感受性を養います。感覚を硬い鉄のように麻痺させるのとは真逆で、柔らかい羽のように柔軟にしていきます。

もっと大ざっぱに言ってしまうと、嵐の中で今にも折れかかっている樹木に対し、いっそ折れそうな幹を叩き割ってしまおうという外科手術的発想が暴露療法の「再体験」であり、逆に幹の柔軟さを取り戻させて嵐の終わりまで自力で切り抜けられるよう助けようというリハビリ的発想がSEの「再交渉」だということです。

かたや感覚が麻痺して鈍感になり、かたや繊細な感覚が養われます。正反対ですよね。

地道、堅実、安全。それがSE

SEは、微細な変化に気づく能力を養う、という目的のため、できるだけ少ない刺激から始めるようです。わたしが最初、SEのセラピーの効果を何一つ感じられなかったのは、セラピストがとても慎重で、最小限の刺激から始めたからでした。わかりやすく言えば、振り子の運動があまりに小さすぎて、わたしがそれに気づけなかった、ということです。

しかし、セルフタッチという手法で、もう少し強く揺さぶってみたことで、わたしは自分の内なる感覚が振り子のように動いていることに初めて気づけました。

振り子運動を通して、徐々に内なる感覚に気づく感受性を向上させ、自分で自分をコントロールできるという自信をつけてから、トラウマの深いところへと、少しずつ少しずつ踏み入っていくのがSEの目指すところです。もう一度、身体はトラウマを記録するから引用します。

患者はトラウマそのものの徹底した探究に入る前に、セラピストの力を借りながら、トラウマを負ったときに自分を圧倒した感覚と情動への安全なアクセスを助けてくれるような内部の資源を蓄積する。

ピーター・リヴァインはこの過程を「振り子運動」(ペンデュレーション)と呼ぶ。

内的感覚へのアクセスと、トラウマ記憶へのアクセスの間を、ゆっくりと行ったり来たりするのだ。この方法によって患者は、耐性領域を徐々に拡げられるようになる。(p356)

SEでは振り子運動によって少しずつ柔軟な感性を養い、感覚負荷に対して折れずに耐えられる範囲(耐性領域)を広げていきます。「トラウマそのものの徹底した探究に入る前に」、じっくり準備を整えて安全性を確保します。

要するに、ちょっとずつ安全に慎重に進むので、ものすごく時間がかかる、ということです。自分で体験してみて、ジョージアが1年間週1回もSEのセラピストのもとに通いつづけた、という話に合点がいきました。SEとは、少しずつ少しずつソマティックなエクスペリエンス(つまり「身体の経験」)を積み上げていく堅実な手法なのです。

他の療法のような、劇的な変化は基本的にありません。ピーター・ラヴィーン自身が、SEはカタルシスを伴う劇的な手法とは対極にあると書いていました。大きな変化が感じられる、ということは、それだけ衝撃が大きいということです。SEは大きな変化がなく、とても地道ですが、そのぶんしっかり続ければ、効果と安全性は保証されている、ということなのでしょう。

ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマの中で、SEのトラウマの扱い方を、化学実験の「タイトレーション」(titration)に例えていました。タイトレーションというのは、危険な薬品同士を混ぜ合わせるとき、爆発しないよう、一滴ずつ交互に混ぜていく方法のことをいいます。SEでは、いわば実験室を爆破してしまうようなカタルシスが起きない反面、振り子運動によって一滴ずつ安全に処理を進めることができます。(p103)

SEはHSPの人に向いているのでは? と書きましたが、感受性の強い人でないと、こうしたわずかな変化をなかなか経験できず見逃してしまい、序盤のわたしがそうだったように何の効果もない、と思ってしまうかもしれません。

経験を積んだセラピストなら、どんな人が相手でも、それなりの気づきを得られるようサポートできるのかもしれませんが、いかんせん日本だとそこまで大勢を治療したことのあるSEセラピストはほとんどいないはず。そうなると、効果を実感できるかどうかはある程度クライアント側の感受性に左右されてしまうので、なかなかSEが普及しないのもやむを得ないのかもしれません。

ラヴィーンの本だと子ども対象にセラピーやってたりもしますし、言葉ではなく感覚から治療するという意味では、従来のカウンセリングよりも子ども向けなのかもしれません。大人になると、頭でややこしく考えてしまうから、かえって意味がわかりにくくなってしまうんでしょう。その点、HSPの人は感性が子どものときのままだったりするので、比較的SEが向いてるんじゃないかと思います。

身体の地図をマッピングする

さて、その後、もう一度、今度は、首筋に手を当てて、内部の経験を探るセルフタッチをやってみることになりました。

腰のときと同じようにやってみましたが、今度は、手を当てて目を閉じると、強い不快感が充満していて、まったくリラックスできません。今回も目を開けて、見えるものを3つ挙げるよう言われましたが、視界がぼんやりしていて、何も鮮明に見えませんでした。

一回目と二回目のセルフタッチで別の反応が引き出されたことで、自分の感覚について、より理解が深まりました。一回目の場所(腰)は、手を当てることで比較的リラックスした感覚を引き出せましたが、二回目の場所(首筋)はただ不快感だけでした。これはこの二箇所に、異なる身体経験が記憶されていることを示しているのでしょうか。もっと内的経験を探っていかないとそれはわかりません。

SEはあたかも、自分の身体の地図をなくして露頭に迷った人が、感覚を手がかりに身体の中を探索していくようなものです。未知なる大陸を求める冒険者のように、身体の状態をマッピングしていく手法を学ぶトレーニングです。最新の神経科学によると、これは比喩的な意味ではないようです。脳は常にわたしたちの身体の位置や状態をマッピングしていますが、トラウマを負った人はその機能がうまく働かなくなっているようだからです。子どものトラウマ・セラピー―自信・喜び・回復力を育むためのガイドブックにピーター・ラヴィーンがこう書いているように。

神経学者として有名なアントニオ・ダマシオは、生存するために私たちの脳には感情の身体地図があることを発見しました。

つまり、恐怖の感情を例にあげると、わたしたちが恐怖の体験をすると、様々な身体の部分に特有の身体感覚として現れるような神経回路が脳の中にできるのです。

何か見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりすることが恐怖ならば、以前経験した危険と似たような身体感覚が起こります。(p22)

わたしたちの脳の“地図”は、身体の位置情報と状態、パターンなどに関する記憶によって構成されているようで、本来は、現実の状態が変われば、それに合わせて地図もリアルタイム書き換えられていきます。

ところが、現実の身体や置かれた状況が変化したのに、脳の“地図”が過去の状態のままになっていて症状が続くのがトラウマ反応です。原因不明の慢性疼痛や慢性疲労もそう。さらには、身体がないはずの場所に身体の存在を感じる幻肢や体外離脱、浮遊感などもこの脳の地図の位置や状態の情報が更新できていないために起こるもの。ときどきグーグルマップなどで地図の更新ができていなくて、本来建物がないはずのところに昔の建物情報が残ってたりするのと、同じ現象が起こってるということですね。SEは故障した脳の“地図”の自動更新機能を手動で復帰させることを目指す方法なのです。

ところで、この二回のセルフタッチを通して気になることが。セラピストが腰と首筋を選んだのは理由がありました。腰は腎臓の位置、首の付根は脳幹の位置であり、どちらも低覚醒の人で活性化しているブレーキ、つまり解離を引き起こす原因である背側迷走神経と関わりが深いのだとか。

わたしは実は、若い頃からこの二箇所に強い神経痛があります。痛みというよりは、雑巾をしぼられているかのような、ねじられたりひねられたりしているような言葉で形容しがたい不快感です。

腰のほうは、中学校のときからひどく痛んでいて、歩くことも辛かったのでMRIで調べてもらったこともあります。首の付け根は、いまだに時々ひどく痛みます。便宜上「頭痛」と呼ぶしかないのですが、いわゆる代表的な頭痛三種に当てはまらず、どう表現していいか困っていました。痛みだしたら、丸一日寝ないとおさまりません。

この位置が、解離を引き起こす背側迷走神経と密接に関係しているのは偶然なのでしょうか。もしかすると、交感神経を抑制するために、常に背側迷走神経のブレーキをフル稼働させているので、その神経系の経路が痛んでいるのではないでしょうか。考えてみれば、わたしの体中、痛むところ、不快感の強いところは背側迷走神経の通り道ばかりです。

初回セラピーを終えて

こうして、初回のセラピーは終わりました。初回のため説明時間などもあったので、全体で90分くらいだったように思います。

途中で全身が重だるくて、眠くぼんやりしていたことが嘘のように、終わるころにはある程度リラックスしていました。元気とまではいきませんが、帰る道すがらの体力は十分ありそうでした。

中盤までは、今回のセラピー選びも失敗だったか…という無念と落胆で満たされていて、もう二度と来ないだろう、とほぼ決めていました。しかし驚くべきことに、その後の経験を経て翻意し、とりあえず二週間後に次回予約を取りました。

帰り道、今日の経験をじっくり考えてみました。

セラピーは地味でした。劇的な効果はありませんでした。少しリラックスできた感覚も、帰りの混み合った電車に乗っているうちに消えてしまい、いつもの調子に戻りました。しかし、確かにセラピーを通して、本を読むだけでは得がたい「経験」をすることができました。SEとはどんな手法なのか、はじめて知識と経験が一致した気がしました。

前半の対話によって身体に意識を向けようとするセラピーがまったく意味をなさず、後半の自分の手を通して身体に意識を向けるセラピーが効果的だったのは、身体に閉じ込められたトラウマのこの言葉を思い出させました。

「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。

実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。

したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)

対話による働きかけが意味をなさず、身体による働きかけが役立ったというのは、わたしがSEに向いていることを意味しているのでしょうか。

セラピストの方が興味深いことを言っていました。セルフタッチを試みたとき、ここまで良い反応が帰ってくるとは予想していなかった、とのことでした。もしかすると、わたしは普通の人以上に、対話を用いたカウンセリングへの反応が鈍く、身体を使ったボディワークには反応しやすいのではないでしょうか。

過去を振り返ってみても、だれかとの話し合いで心が動かされた記憶はほとんどありませんが、10代のころにただ一日限り受けた絵画セラピーと箱庭セラピーで得た気づきが未だに心の支えになっています。先日のソマティックフェスタでハコミセラピー体験をやったときも、足に手を添えてもらって感覚を観察したとき、予想だにせぬ反応がありました。

わたしの場合、ひといちばい文章を書いてきたこともあって、左脳の言語中枢の働きが人並み外れて強いのではないかと思います。言葉は理性と完全に結びついてしまっていて、感情が入り込むすきがありません。文章で感情を表現するときも、最適な言葉を選んで編集せずにはいられません。この記事の文体にしても、もっと素を出した砕けた書き方にするつもりで書き始めたのに、意識しないうちに、すぐに堅苦しい客観的すぎる文体に戻ってしまいます…。

でも逆に、身体感覚のほうは、感情との結び付きが強く過敏なのかもしれません。敏感な右脳の身体記憶から注意をそらすために、左脳の言語中枢が発達したのかもしれません。そうすると、普通の人以上に、ボディワークから得られるものは多いはずです。今まで100万の言葉を弄しても、ずっと上滑りして本質をつかめなかった何かが、たった一つの身体の経験から解きほぐせる可能性もあるでしょう。

子どものトラウマ・セラピーによると、カール・ユングはかつてこう述べたらしい。

「しばしば手は、知性が奮闘してもだめだった難問の解き方を知っている」(p83)

わたしがSEに向いているのは確からしい、ということになれば、残る問題は、今回のセラピストのもとに通い続けるかどうか、それだけです。セラピスト選びは重要なので、じっくり考える必要があります。

初回のセラピーを振り返って思ったのは、懸念点もしっかり話し合える居心地のよい雰囲気だったことです。わたしのようなタイプを扱った経験はあまりないように感じられましたが、ここ日本で経験豊富なSEセラピストを探すのはかなり難しいでしょう。

それに、どんなセラピストも最初から経験豊富なわけではありません。むしろ経験豊富で人気のあるセラピストは、ちょうど去年受診した解離の専門家がそうだったように、患者一人ひとりにしっかり対応するだけの時間とリソースがままならない傾向があるはずです。

たとえ現時点ではまだ経験が豊富でないセラピストであっても、観察力や気配り、向上心のある人なら、クライアントとのセッションを繰り返すうちに技術を向上させ、対応の幅を拡げていってくれるはずです。

たった一時間そこら話しただけで答えを出すのは早計なので、もう一度行ってみたときの反応で決めようと思います。去年の解離の先生にしても、初回は好印象だったのに、二回目はすっかり前回の話を忘れていたのがネックでしたから。試しにセラピストにひとつお願いをしておいたので、それを覚えてくれているかどうか見てみたいです。

もし二回目も納得のいく内容になれば、その場で長期のセラピーを申し込むつもりです。ダメそうなら、またあてどなくさまようしかないですね。願わくば、この記事のシリーズが長く続くことを祈って、初回のSEの感想を閉じたいと思います。

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Categories: 4章。2018.03.09