SE体験記の11番目です。前回はセラピーの合間に考えたことを書きましたが、今回は7回目のセラピーの内容をメインに書きます。
連番がついに(11)になりました。どこまで続くんだろう、という感じですが、最近みたいに思いついたことを何でも放り込んでいれば、いくらでも続いてしまいそうな感じですね…。
この一連の記事は、個人的なことも書いているので、本当に読みたい人だけに読まれるように、という意図から、あえて読みにくい体裁にしてるんですが、書いている本人にもどこに何を書いたかわからなくなってきました ^_^; もし奇特にも読んでくださっている方がいましたら、内容が錯綜していて申し訳ありません。
闘争/逃走モード
今回は、いきなりセラピーの話から。
今回のセラピー前は、寒暖の差が非常に激しく、かなり疲れがたまっていたように思います。それに加えて前日に辛い喪失感を味わう経験がありました。失感情症なのに喪失感というのも変ですが、前回書いた、外部への情動の反応性が失われているのに、内部への反応性は増している、ということに関係してそうです。わたしはだれか身近な人が死んだりしてもさらっと流してしまいますが、自分の創作世界が欠けるような喪失にはとても心を乱されます。詳しく書きませんが、今回の経験もそれだったということです。
そんな状況の中だったからか、いつも以上に状態が不安定で、朝から頭痛に悩まされていました。頭痛といっても、痛んでいるのは、例のごとく頭ではなく、脳幹がある頭の付け根あたりなのですが、こういう痛みって、なんと表現すればいいんでしょうね?
セラピーに行くころには少し和らいだので、なんとか外出はできましたが、電車では二駅降り過ごすなど、あまり調子が良さそうではありませんでした。結局、10分近く遅れて到着することになってしまいました。
今回のセラピーでは、まず、いつもどおり、音に集中して気持ちを落ち着けることから始めましたが、なぜかいつもより高周波音が気になってしまって、うまく集中できません。この高周波音が気になる、という現象は、ポリヴェーガル理論的に言えば、副交感神経(腹側迷走神経)がうまく機能していないことによるのでしょう。
脳はいかに治癒をもたらすかに書かれているように、スティーヴン・ポージェスはポリヴェーガル理論の中で、腹側迷走神経は、中耳の筋肉、声帯、呼吸筋などを含む、コミュニケーションに関わる領域をコントロールしていることを示しました。
安全を感じると、副交感神経は闘争/逃走反応をオフにする。ポージェスがみごとに示したように、副交感神経系は「社会参加システム」と中耳の筋肉をオンにし、相手の話に聞き入り、コミュニケーションをとって他者とつながりが持てるようにする。(p495)
交感神経系(過覚醒)あるいは背側迷走神経系(低覚醒)が優位になって、この腹側迷走神経系がうまく機能しないと、これら社会参加システムに関わる機能がうまく使えなくなります。声帯や呼吸筋が凍りつくので声や呼吸が乱れるとともに、中耳の筋肉もまたコントロールできなくなり、その結果、特定の周波数に選択的に注意を向けるのが難しくなります。その結果、聞かなくてもいい雑音に意識を向けてしまうのが、いわゆるカクテルパーティー効果がうまく働かない状態です。
カクテルパーティー効果というのは、大勢の人が集まってしゃべるパーティーのような場で、特定の音にだけ注意を向ける聴覚ズーム機能のことですが、自律神経系が不安定でリラックスしていないと、この能力が阻害されます。(従来、この問題は発達障害者に多いとされていましたが、ポリヴェーガル理論からすると、発達障害だから多いのではなく、発達障害者は感覚過敏のため自律神経系が闘争/逃走などのモードになりやすく、副交感神経の機能が子どものときからしっかり育っていないため、聴覚ズームが苦手になる、ということのようです)
わたしがこの日のセラピーのときに、特定の音にうまく意識を集中して心をリラックスさせることができなかったのも、この日はもともと体調が悪く、聴覚ズームに問題を来たしていたからかもしれません。落ち着ききれていない神経が高ぶったままの状態、闘争/逃走モードに近い状態のままになっていると感じていました。
ほんとなら、もう少し神経を落ち着けるよう粘ってみるべきだったのでしょうが、交感神経系がオンだとせっかちになってしまうので、そんな心の余裕さえもてませんでした。少なくとも、背側迷走神経優位で解離しているよりは、交感神経系優位で過覚醒になっているほうがまだましではないか、と思ったので、このままセラピーを始めることにしました。
イメージが第三者視点になること
セラピーでは、まずは前回の続きから始めることにしました。前回の最後は、右手で左肩に触れていたとき、自分の手がだれか他人にもののように感じるという奇妙な逆ラバーバンド錯覚が引き起こされました。では逆方向の手でやってみても、同じようになるのかどうか。
セラピストはまず、段階的に弱い刺激から始めるために(タイトレーション)、実際に触れるのではなく、まずイメージの中でそうしてみるよう勧めました。わたしは言われたとおりイメージしてみましたが、これが非常に困難でした。思い浮かべたその瞬間から、だれか他人の手が肩に触れているのはイメージできるものの、自分の手が触れているとはまったくイメージできないことに気づきました。
わたしは、自分のイメージの傾向として、何かをイメージすると必ず第三者視点になってしまい、主観視点でイメージすることができない、とセラピストに伝えました。わたしとしては、ごく普通のことを言っているつもりなのですが、セラピストはわたしの言っている意味が、いまひとつよくわからないようでした。
わたしはこうした話題について他人と話したことがないのでわからないのですが、イメージが客観視点になってしまう、というのは、わたし個人の独特な体験なのでしょうか。それとも、セラピストへの説明の仕方が悪かっただけで、ほとんどの人も感じる体験なのでしょうか。
わたしは前にも書いたように、よく白昼夢や空想に入る傾向があります。
そのとき、わたしの空想の視点は、十中八九、客観視点、第三者視点です。例えば自分が空を飛んでいるところを想像した場合、主観視点で空を飛んでいるのではなく、空を飛んでいる自分を見ている視点で想像してしまいます。主観視点に変えようとすると相当意志力が必要で、気を抜くとすぐ客観視点に戻ります。
こうした「背後から自分を見ている」という体験は、解離の当事者体験の研究をよく知っている身としては、一種の解離現象として説明したくなります。 解離の構造に書かれているように、解離の当事者は、夢の内容などでも第三者視点で見ていることが多いです。
夢中自己像視とは「夢の中で離れたところが自分自身の姿を見る」という体験であるが、これは解離の構造的理解にとっては重要である。ガベルGabel,S.は夢には解離的側面がみられるといい、たとえば夢の中で自分自身を見るという体験について報告している。
われわれの最近の調査では、健常人の約20%が夢中自己像視を経験したことがあり、約5%がそれを頻発に体験していた。それに対して解離性障害では、患者のほとんどがこの体験をしており、約80%が月に一回以上の頻度で経験していた。(p59)
確かにこの調査では、夢の中で自分を第三者視点で見るという経験は、それほど一般人に多いものではなく、解離の当事者にとりわけ多いようです。ですが、起きているときのイメーシの傾向でいうと、第三者視点でのイメージは解離に特有の体験だとみなしてよいものかどうか、今ひとつ確信が持てません。
たとえば現代のデジタルコンテンツでは、FPS(ファーストパーソンシューティング)と、TPS(サードパーソンシューティング)という分類があります。自分の手だけが見えるような主観で遊ぶのがFPS視点であり、キャラクターが行動しているのを背後から見守る第三者視点がTPSです。
世の中にFPSとTPSのどちらのデジタルコンテンツが多いのかはわかりませんが、個人的にはTPSのほうがよっぽど多い気がしています。主観視点のFPSは、現代のキャラクター重視の商業体勢に向いていません。それにFPSは3D酔いを起こしやすいという問題もあります。FPS視点での酔いを克服するには、VRヘッドセットのような、頭の動きと視線とが完全に連動するものが必要なんじゃないでしょうか。(わたしはFPSでもTPSでも酔わない人ですが)
何が言いたいかというと、デジタルメディアに慣れた現代人にとって、何かをやっている自分の姿を背後から見るというTPS視点の体験はあまりにありふれているので、特に若い世代ほど、イメージの内容がTPS視点になっているのではないか、ということです。
興味深いのは、自撮り(セルフィー)についての研究です。従来の写真はいわば主観視点のFPSだといえますが、自撮りは自分の姿が写っているので第三者視点のTPSです。退屈すれば脳はひらめくによると、写真をどちらの視点で撮るかは、あとで写真を見たとき感じ方にも影響しているそうです。
「自分が写真に写ってるかどうかで、経験のとらえ方に、あきらかな違いがありました」とヘンケル。
自分が写っていると、撮影したときの瞬間からより引き離されているような気がします。まるで自分が何かしているのを外から眺めている観察者になったような感覚。
ところが、自分が映っていないと本来の視点に戻り、自分の目を透して、その場をふたたび経験しました。(p126-127)
これによれば、セルフィー写真を見ているときは、自分を外から眺めているような観察者になった感覚が起こる、とされています。これは解離の体験とよく似ています。というよりも、現代のこうしたTPS視点のコンテンツの急増は、一般人の解離傾向を強めていると思います。
もともとデジタルコンテンツがほとんどなく、自分の姿を見るには鏡を使うか、肖像画を描いてもらうかくらいしかなかった時代は、人々は、第三者視点から自分を客観視するような概念をほとんど持っていませんでした。(だから当時は鏡や水面は特別な魔術的価値を持ったものでした) 自分は自分であり、それこそトラウマを負うなどして自己から分離しない限り、自分を離れたところからイメージするような感覚などほとんど持ちませんでした。
しかし、デジタルコンテンツが普及しはじめて、バーチャルな体験というのが当たり前になると、自分を外から眺める疑似体験をするのが容易になりました。トラウマによる解離、という視点から読み解かなくても、単に普段からTPS視点の娯楽やセルフィーに日常的な触れているせいで、一種の解離に似た思考パターンが発達していく可能性は十分にあると思います。
(これは、従来の発達障害としての意味合いのADHDと、現代のデジタル機器依存の結果起こる不注意症状が類似していることと似ています。時代の変化によって、もともとは病的なものとみなされていた症状と、大勢の人の日常的体験とが近くなってしまい、ときにはどちらのせいで症状が起こっているのか区別しづらくなります)
昔の人の場合、何かをイメージするとき、自分の主観的な体験からイメージを引き出すことのほうが多かったはずです。でも今の時代の若者は、現実世界の経験より、デジタル世界の経験のほうが豊富なことだってあるくらいです。(オンラインゲームに入り浸っている人なんかは完全に逆転しています) わたしも生まれたときからゲーム機がある世代で、アニメや映画などのコンテンツに囲まれてきて育ってきたわけなので、第三者視点でイメージするからといって、それを解離のせいとはみなしにくいように思うわけです。安易になんでもかんでも解離のせい、とするのはよくありません。
周りの人にわざわざ尋ねてみたわけではないのではっきりとしたことは言えませんが、イメージの内容が主観ではなく第三者視点になってしまうというわたしの傾向は、それほど珍しいものじゃないんじゃないかと思います。
エピソード記憶と身体化
しかしながら、この主観視点か第三者視点か、というのは、やっぱり程度の差があります。いくら一般人がデジタルコンテンツのせいで第三者視点に馴染んでるとはいっても、日常生活の中でまで第三者視点になったりはしないはず。しかし解離が強い人は実際にそうなってしまっています。
自分の身体からの解離が著しく、ボディイメージの位置が慢性的にずれている人の場合、自分の姿を四六時中、あやつり人形のような背後から見ているように感じているそうです。わたしの場合はそこまではいかない。しかし前回書いた気ぐるみ型の離隔のように、ちょっと内側に引っ込んだところから見ている、くらいの印象はあります。その結果感じられるのが、世界とのあいだに膜があり、ヴェールがかかっている、というような感覚でしょう。
問題なのは、慢性的に客観視点にある人の場合、どうもエピソード記憶の定着などにも影響が及んでいるようだ、ということです。 私はすでに死んでいるにはこうありました。
体外離脱という錯覚は、エピソード記憶の定着を悪くするのではないか。この実験で確かめたいのはそこだった。情報をエンコードしてエピソード記憶にする能力は(第2章のアランの例で見たように、ナラティブ・セルフにはエピソード記憶が不可欠だ)、身体化がきちんとできているかどうかに左右されるのでは?
答えはイエス。体外離脱中の被験者は、体内滞在の被験者にくらべると、口頭試問のエピソード記憶が弱かったのだ。「記憶は鮮明でなく、時空間の並びがおかしくなっていました」エーションはメールでそう教えてくれた。(p265)
言うまでもなく体外離脱というのは、客観視点が行き過ぎた最たるものですが、「身体化」をスペクトラムとしてとらえると、これは客観視点寄りになりすぎた端に位置した体験です。完全に主観視点で考える人から、イメージの中だけ客観視点になる人、慢性的に客観視点になっている人、そして体外離脱している人までが連続して分布しています。
そして、自分の身体にしっかりつながっているほど体験の記憶はしっかり定着し、自分の身体から解離しているほど体験の記憶があやふやになってしまう、というのは、それほど意外ではないと思います。
この身体とのつながりの度合いが何によって決定されているのかというと身体感覚でしょう。身体感覚がリアルに感じられるほど自分と身体が一体のものとして感じられるので、経験もリアルに記憶されます。しかし解離によって感覚が遮断されると、身体感覚が薄れるため、ボディイメージの位置がずれてしまうとともに、体験もあまり印象に残らなくなってしまいます。
そして、これは、自分の体験を主観視点で感じているか、第三者視点で感じているかの違いでもあります。主観視点で感じているというのは、言い換えれば自分の体験をはっきり自分自身のものと感じているということなので記憶に残りやすいのは当然です。他方、第三者視点で感じているというのは、自分の経験なのに目の前にいる他人のものとして処理しているということなので、記憶に残りにくいのは当然です。
ゲームの場合でもVRヘッドセットで体験するFPS視点のホラーゲームは身体の芯まで凍るような怖さがあるといいます。(たとえば狂気に蝕まれていく画家の体験を描いたホラーのLayers of Fearがものすごく怖いと言われる理由の一つはFPSだからだと思います。わたしはやったことがないですが笑) 他方、TPSのガンアクションはたくさん出ていますが、マシンガンで撃ち抜かれようがプレイヤーがあまり気にせず殺し合いができるのは、第三者視点になっていて自分の経験という意識が薄いせいでしょう。FPSは体験の衝撃を強め、TPSは体験の衝撃を弱める、という傾向があるはずです。
わたしの場合、この体験記でもよく書いているように、エピソード記憶の定着が悪いのは確かです。過去のできごとをこうやってまとめている以上、よく記憶しているかのように思われるかもしれませんが、それは違います。
エピソード記憶の定着のよさ、という話になるとよく勘違いしている人がいますが、体験をよく覚えていて語れるかどうかだけが重要ではありません。さっき引用したところにあったように「時空間の並びがおかしく」なっていないかどうかも大事です。この本では、離人症では記憶の時系列があいまいになる、とも書かれていました。(p175)
記憶の時系列の正確さが重要なのは、人は過去の経験をよく覚えていなくても、創作してしまえるからです。自分は過去の体験をよく覚えていて、エピソード記憶に強い、と感じている人の中には、本当は正確に覚えていないのに、無意識のうちに断片的な記憶から過去のエピソード全体を創作してしまっている人がいるはずです。体外離脱の経験を詳細に語れる人が多いのはそのためだとされています。本当はエピソード記憶としての正確さはあいまいなのに、旺盛な想像力で説明するうちに、すっかり覚えている気になっている、ということです。
繰り返し語るうちに断片がまとまってきて、具体的に想起し、語れるようになる。体外離脱には情動が揺さぶられる劇的な要素があり、それが記憶の欠落を補っているとも考えられる。(p265)
わたしの場合も、今になって自覚していますが、過去の体験をこうして書くとき、じつは小説を書いているときと何ら変わりありません。確かに断片的に覚えているのでそれをつなぎあわせています。しかし、たぶん時系列は正確ではなく、細部も不確かだと思います。
わたしが書いている体験記の多くは、記憶を思いだしているのではなく、断片的な印象に基づいて、過去を創作している、つまり第三者視点で過去の自分を描写する小説を書いているのに近いと思います。この場合、エピソード記憶が強いのではなく、創作や解釈の能力が豊かなだけです。かえって記憶力が弱いからこそ、創作する余地が生まれます。
ということは、わたしの場合、自己イメージが第三者視点になってしまうのと、記憶のあいまいさは密接に関連しているんでしょう。前に書いたように、過去の記憶だけでなく、未来の自分を想像するのが難しいことも、そのせいだとみなせます。
過去の記憶を思い出す、というのは、言ってみれば過去の自分の体験を主観視点でイメージする行為であり、未来の自分を想像するとは、未来の自分の体験を主観視点でイメージする行為なのです。
ところがわたしのように、自分をイメージしようにも主観視点ではなく第三者視点でイメージされてしまうなら、過去や未来の自分をイメージしようにも他人の経験をイメージするようになってしまっている、ということです。自分の過去や未来ならいざしらず、他人の過去のエピソード記憶や未来の姿をイメージしにくいのは当然でしょう。
過去と未来が自分の体験ではなく、他人の体験として想像されていることが、過去と未来を想像しにくくなっている理由なのではないだろうか。それはつまり、普段から、自分の意識が身体から半ば切り離されているがために、体験したエピソードが、自分の体験ではなく、他人の体験として記憶されているからではないか、ということ。
結局は、ここ最近 繰り返し言いまくっている「解離とは自己を非自己にすることで生き延びる反応」、ということに収束します。自分の体験じゃないから記憶に残らないし、想像もしにくい、そして主観視点ではなく第三者視点になってしまう。
もちろん、さっきも書いたように、このわたしの傾向のどの程度までが解離の影響で、どの程度までがデジタルコンテンツなどの時代特有の生育環境による影響なのかはよくわかりませんが。
混乱
なんかセラピーの話からまたも脱線しまくっているようですが、この話を書かねばならないことには理由がありました。じつはこの日のセラピーがまさにそうだったからです。わたしはこの日のセラピーの内容をエピソード記憶としてほとんど定着できていません。SEとは、エピソード記憶としての「経験」を積み重ねるセラピーなので、ちょっとこれは問題です。
前述の自分の肩に手をやってイメージするのがうまくいかなかったので、次は文字通り肩に手をやって感覚を探ることになりました。このときは肩や手には特に何も感じず、足に違和感を感じたような覚えがあります。
それから今度はおなかの感覚に集中してみました。そして前回とは逆の手でおなかに手を当てて感覚を探りましたが、やはり足の凍りつきのような感覚が起こりました。
そのあとセラピストと感想を話し合ったのですが、細部を覚えていません。たしかセラピストは、この日のわたしはいつもと違う様子に感じられた、と言っていたと思います。そして、いつもなら知的に自分の体験を分析しようとするのに、今日はすぐに次の体験に行こうとしたのが不思議に思ったとのことでした。でもわたしはそう言われたとき、すごく奇妙に思った。そんなことを言った覚えはなかったからです。
もう一度聞き直すと、セラピストはわたしが「これはもういいので次にいきたいと思う」と言っていたと教えてくれました。でもやっぱり記憶になかった。そして、その記憶をたどろうとしたとき、瞬間的にフラッシュの光のような閃光が見えて、それ以上考えられなくなってしまった。まるでヒューズが飛んだかのような。わたしは直感的にこの記憶はたどれないと察知したので、確かに今日の自分は何かいつもと違うようだ、と答えました。わたしはセラピストを信頼していて、かなり正確に出来事を記憶してくれていると実感しているので、この意見の食い違いにおいて、おそらくおかしいのはわたしの記憶のほうだと判断しました。
わたしはかなり混乱していました。たまたま最近、気温の変動が激しく、前日にちょっと悲しい出来事もあったせいでいつもとコンデションが違っていただけなのか、それともそれ以外の理由があるのか。
セラピストとしては、セラピーを重ねるうちに、少しわたしの状態が変わってきたのでは?という推測を立てているようです。SEは慎重なセラピーではあるものの、感覚に注意を向けることで、トラウマの断片を呼び起こしてしまい、解離を部分的に解除してしまうことはあります。これもその兆候なのではないか、と思ったようです。
この日のわたしの緊張は、トラウマと身体に書かれているような、今まで凍りついていた防衛反応が溶け始めた兆しだったのでしょうか。
クライエントがおびえている・神経質だ・怒っている・用心深いといった感情表現は、しばしば動きのある防衛や覚醒状態の始まりを示しているのです。(p363)
今まで凍りついていたものが溶けはじめる、というのは、トラウマ治療の道のりでは重要な通過点です。凍りついていた身体が、ふたたび動き始めようとしている兆候だからです。「動きを伴う防衛」を妨げられたことがトラウマになるのであり、それを再び経験して完了させることが、トラウマの終息です。SEでは、慎重に凍りつきを溶かしていくので、ゆっくりではあるものの、必ず経験するはずの現象です。
現にわたしはセラピストに、「もちろん、そのようになっていくことは折りこみ済みなんですよね?」と尋ねました。セラピストは、以前にもそう説明してくれたとおり、わたしの問いを肯定しました。そして、もし解離が溶けはじめているのだとしたら、それを想定して治療計画を組んでいく必要があると言いました。
しかし、わたしとしては、今の時点で判断するのは早計だと感じました。たまたま調子が悪かったのか、それともセラピーを繰り返して変化してきたのかは、さらにセラピーを数ヶ月くらい続けてみた時点で判断しないとわからないのではないか、後になってから振りかえる以外にそれを知る方法はないと思う、と答えました。ここに来てわたしはいつもの冷静さをある程度取り戻していたといえます。セラピストもその受け答えを見て、大丈夫そうだ、と感じてくれました。とはいえ、わたし自身としては、この日はそれ以降も違和感を感じたままでした。
SEの先
その後はちょっと話題を変えて、セラピストがSEの資格をとった経緯などを聞かせてもらいました。今は国内で三年かけて資格を取得できるんですね。(SE™プラクティショナー(SEP)養成トレーニング概要 | SE Japan )
なんだかわたしがSEの資格を取得したがっているみたいな聞き方になってしまいましたが、そういうわけでもなく、ただ興味があっただけでした。もしゆくゆく元気になれたらそういうこともやってみたくなるかもしれませんが、わたしはセラピストに向いているタイプでもないですからね。
わたしが色々考えるのは知的好奇心からであって、だれかを助けたいという思いからではない。去年会った解離の専門家がまさにそういう人で、自分と似たタイプだなぁと思ったんですが、ああいう人って臨床家にはあまり向いてないな、と失礼ながら思いました。作家とか研究者をやっているほうがいきいきとしてるタイプですね。とはいえ、仕事にするでもなく知的好奇心のため、という名目でも、もしいつか回復できるようなことがあれば、SEの専門知識を身に着けてみるのも悪くないとは思います。
前回も書いた自我状態療法とか内的家族システム療法のほうも気になります。SEのセッションを繰り返すうちに、どんどん、そっちが気になっている。もしも、セラピストの言うように、セラピーの影響で解離が薄れているようなことがあるとしたら、そのせいで気になっているのだろうか。
わたしが最終的に向き合わないといけないのは、SEがアプローチしている部分ではない、とは思っているんですよね。SEによる神経系の安定のその先にあるのは、自己同一性の問題であり、わたしは絶対にどこかでそれに向き合わなければならなくなるだろう、と思っています。少なくとも、わたしが一番最初にはっきり意識した解離の兆候はそれだったのだから。そして、わたしがこの分野に足を踏み入れた原点も、その奇妙な体験の意味を知りたいがためだったのだから。
わたしにとって、SEの知識は高校生以来生じた慢性疲労の問題を解き明かす鍵になってくれた。しかし、わたしの解離の兆候が出たのは、高校生のときの慢性疲労がきっかけではなく、明らかに小学校時代の人格多重化だった。まずはじめにそちらがあり、その負荷に耐えられなくなって体調を崩したことを知っている。小学校のときから多重化によって処理してきたストレスが、抱え込めきれなくなった結果現れたのが慢性疲労であると解釈している。ならばいつかは、原点に立ち戻る必要がある。
まだそれについて書くことはできないし、まだ向き合うこともできない。だから、タイトレーションとしてSEに取り組もうと思った。SEで問題を解決するためではなく、SEで耐性領域をまず広げ、それから真の原因へアプローチするために。だからまだ始まったばかりです。どうなるのかはわからないけれど。
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