SE体験記の12回目。前回は8回目のセラピーの内容について書きました。今回は、次のセラピーまでのあいだの出来事です。前回の最後らへんに書いたわたしの過去と、それを活用してリソースの確保で一歩前進した話について。
診断名にとらわれなかった
ちょっと前に、こんな記事を見つけました。
神戸新聞NEXT|神戸|「医者になる」 難病と闘い、夢を追う18歳少年
原因不明の症状が脳脊髄液減少症だと判明した18歳の子の話で、とても興味深い内容でした。もともとわたしは脳脊髄液減少症についてもたくさん本を調べてきましたが、この例の興味深いところは、脳脊髄液減少症の特徴ともいえる頭痛がほとんどなく、しかも「かすみがかったような頭の中、意識障害、吐き気に腹痛」という、一見、トラウマ性解離に近そうな症状だということです。発症した時期も小学生とあって、解離によくある年齢。しかし、トラウマが原因ではなくて、ひたすら病院をまわって、脳脊髄液減少症だと判明したとのこと。
この記事を読んでいてふと思ったのが、とある慢性疲労の友人のことでした。なんだか雰囲気がとてもよく似ているんですよね。それでビデオ通話のときに話を振ってみたら、たまたま相手もこの記事を読んでいた。だけど、若年性の脳脊髄液減少症についてあまり良く知らないようだったので、もう少し症状を詳しく聞いてみました。そしたら、なんと発症当時は頭痛がひどかったこと、しだいに慢性化して慣れてきたことがわかってびっくり。
さらにその人はもともと体位性頻脈(POTS)持ちでした。若年性の脳脊髄液減少症とPOTSは鑑別が難しく、共通の機序があるのではという研究もあります。また、肩甲骨のあたりのハンガーのような領域の痛み(interscapular-pain)も昔から気にしていました。これは脳脊髄液減少症に多いとされる症状。
その友人とは互いに慢性疲労症候群と診断されていて、発症年齢も近く、かなり長い付き合いですが、会話するたびに、ぜんぜんタイプが違うのがはっきりわかるほどでした。同じ病名をつけられたというくらいしか症状の類似点がないという。わたしがよく引用しているガボール・マテの身体が「ノー」と言うときという本を読んでみたらしいですが、「へー、こんな世界もあるんだ」という感想しかなかったくらい違う。あの本を読んで、ここまで何も感想が出てこない人がいることに少々ショックでした。恵まれた家庭で育った人は、わたしたちが感じるような気持ちは一切味わうことさえなく、そもそもそういうことを考えることすらしないのだな、と痛感させられたからです。基本的にある程度恵まれた家庭で育たないと資格を取りにくい医者などの職業に就いている人が、トラウマサバイバーの気持ちを理解できないのは、本当にまったくわからないのだな、と実感しました。わたしはどうもかなり思い違いをしていたみたいなんですが、わたしが想定していた以上に、世の中の大多数の人は他人の苦しみが理解できないのではないか、それなのに自分は思いやりがあると強く錯覚しているのではないかと最近感じつつあります。(このテーマについてはどこかでもっと考察する必要があります)
行動傾向を見るに、何かのトラウマが原因で失感情症になっているわけでもなさそう。発達障害ぎみだとは思うけど、それで苦労したような雰囲気でもない。何が原因だろう、と思っていたので、もし脳脊髄液減少症だとしたら納得がいきます。
この出来事の教訓はというと、わたしがいつも言っていることですが、医者の診断を鵜呑みにしてしまわないように、ということ。医者は自分の専門分野しか知らないので、どんな症例でも、自分が知っている診断名をつけやすい傾向がある。どこかの本でそう書かれているのを読んだのだけど、どこだったか…。心理学的にいえばこれは利用可能性ヒューリスティックのせいです。そのせいで症状が似ている他の分野の病気である可能性は見逃されてしまう。その結果、なまじ医者に診断名を与えられたせいで、真実から遠ざかるという現象が起こる。ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するにこう書いているように。
長年にわたって怒ったりおびえたりしていると、筋肉が常に緊張状態になるために、いずれ痙攣や背中の痛み、偏頭痛、線維筋痛症といった、何らかの慢性疼痛の症状が出る。そうした人々は、さまざまな専門家に診てもらい、多様な診断検査を受け、多くの薬を処方されるかもしれない。
それによって一時的に苦しみから解放されることもあるのだろうが、どれも根底にある問題は正してくれない。診断によって患者の問題が規定されてしまい、それがトラウマに対処しようとする彼らの試みの表れなのだと認識されることはない。(p439)
ここではトラウマの可能性が重視されていますが、「診断によって患者の問題が規定されてしま」うというのはトラウマ以外にも当てはまります。なまじ慢性疲労症候群や線維筋痛症という診断を受けたがために、自分は今の医学ではどうしようもない「原因不明」の疾患なのだ、と思い込み、他の可能性を探らなくなった人たちを、わたしは大勢見てきました。あるいは、なまじ「ADHD」とか「自閉症スペクトラム」と診断されたがために、自分のあらゆる症状が、生まれつきの発達障害だと思い込んでいる人にも。ヴァン・デア・コークが書いているとおり、そうしたことは他の診断名でも起こりうる。
また、診断名は患者が死ぬまでつきまとうだろうし、患者が自分をどう定義するかに強い影響を及ぼす。モンテ・クリスト伯さながら、まるで残りの人生を地下牢で過ごすことを宣告されたかのように、自分は双極性障害「である」、境界性パーソナリティ障害「である」、あるいはPTSDを「負っている」と言う患者に、私は数え切れないほど出会ってきた。(p228)
そうした人の多くは、自分の診断名の分野の知識にしか興味がなくなるので、どれほど長いこと患者をやっていても、真実にたどりつくことはめったにない。別の原因を指摘する人に嫌悪感をあらわにすることもある。「もしかすると慢性疲労の原因はトラウマかも?」なんて言うとコミュニティーから村八分にされるし(わたしはそのせいでどこにも属さなくなった)、「発達障害と思われているのは生育環境による発達性トラウマかもしれない」なんていうと、冷蔵庫マザー論みたいな眉唾と誤解されて過剰反応されてしまう。
自分の診断名を神聖視するあまり、あたかも一種の異端審問のようになっている。自分の病名を熱心に普及させようとするさまは、宗教団体の啓発活動とも似ています。わたしにしてみれば、もし違う病名だとわかったらどうするんだろう、と思うんですが、彼らにとっては、診断名がアイデンティティになっているので、別の診断名になるという改宗行為はありえないこととみなされてしまっているわけです。心理学的にいえば一種のサンクコストバイアス(埋没費用の誤謬)ですね。
もちろん比較的柔軟な考え方ができる人もいます。わたしの友人は慢性疲労症候群の情報にしかほぼ興味のない人ではあるものの、わたしの言うことは友人として尊重してくれます。もちろんその人が脳脊髄液減少症かどうかはわたしにはわかりませんが、これを機にもっと広い範囲の情報を偏りなく調べてくれるようになってくれればと思います。慢性疲労症候群と診断されうるような病気なんて十指で数えても足りないくらいあるんですから。
わたしの場合は、さっきのニュース記事を読んで、「かすみがかったような頭の中、意識障害、吐き気に腹痛」というのは自分とちょっと似てるかな、と思いましたが、たぶん実質はかなり違うんだろうな、と思いました。少なくとも、わたしが発症したとき、慢性頭痛はなかったですからね。わたしの主な訴えは離人症で。しかも、「かすみがかったような頭の中」みたいないわゆるブレイン・フォグ(脳の霧)系の脳血流低下症状ではなく、この前から書いているような、世界が薄っぺらい紙でできているとか、サランラップでぐるぐる巻きにされているとか、気ぐるみを着ているようだとかいう、解離性の離人症だったので。
わたしは今でこそ、解離の話ばっかり書いていて、すっかりトラウマ分野の人状態になっちゃってますが、もともとはそうではありませんでした。わたしも、さっき書いたような診断名がアイデンティティになっている時期があった。けれども、前回書いたように何か違和感があったので、調べることをやめなかった。
わたしほどありとあらゆる分野の病気をリサーチしてきた人はそうそういないと思います。栄養療法、副腎疲労、重金属中毒、腸内細菌、髄液減少、化学物質、発達障害、愛着障害、睡眠障害…本当にありとあらゆる可能性を探ってきました。それがなぜ最終的にトラウマに行き着いたのかといえば、決して好みで選んだわけではない。むしろわたしはトラウマ医学を毛嫌いしているほうの人種だった。だけどわたしはいつも証拠に基づいて思考するのを生き方にしてきた。自分の信念と、証拠の示すところが食い違っていれば、いつも信念のほうを変えてきた。証拠があれば宗旨変えもいとわないタイプだったということです。むろんこれからだって、新しいことがわかれば幾らでも意見は変えていく心づもりです。
内的自己救済者に導かれて
わたしが結局この分野に足を踏み入れることになったのは、前回の最後にもちらっと書いたけれど、人格多重化という現象のおかげです。わたしは小学校のころに明らかな人格多重化を経験しました。高校生ごろになって、これってもしかして変ではないか?と気づいてしまったので、誰にも言いませんでしたが、自分が複数いるのはずっと当たり前でした。
体調不良を発症した当初、わたしはもしかすると、この奇妙な人格多重化のせいでおかしくなったんじゃないかと疑った。そして無理やり一つになろうとしました。別の人格の存在を消し去ろうとした。しかしそのせいで、症状がひどく悪化して、一時期自殺寸前までいった。今から思えば、解離は自分を守るためのものなので、それを捨て去ろうとしたせいで、保護が失われて追い詰められたということです。だけど、そのときは別人格が自分の味方や保護であるとは思えなかった。何かおかしなこと、精神異常だと思っていました。(後に解離の岡野先生が、多重人格者は解離という生存戦略を捨てたら、かえって「単一人格障害」みたいな状態になって破綻すると書いているのを読んですごく納得がいった)
わたしはそのとき、別人格を否定して、死の瀬戸際まで追い詰められたけれど、どういう巡り合わせか、知り合いにセラピーの合宿に誘われて、絵画療法と箱庭療法を一日だけ受ける機会に恵まれました。SEに出会うまで、わたしがセラピーなんてものに行ったのはそのときだけです。何度も言うように、わたしはセラピストやカウンセラーなんて職業を信用していませんでしたから。
しかしそのときのセラピーはわたしをたった一日で変えてくれた。4回にわたる絵画療法のなかで、最初わたしは二本の別々の線を書いた。交わらない二本の線。しかし回を重ねるごとに理由もわからず線は歩み寄っていき、最終的に二本の線は、メビウスの輪のような同じリボンの裏表になった。わたしは気づきました。わたしと別人格とは、背中合わせの同じものなのだと。だから、憎み合ったり避けたりするのではなく、力を合わせて生きていけばいいのだと。わたしが別人格を受け入れると、もう二度と自殺願望には襲われなくなりました。(自殺願望には当時大量に処方されていた薬も影響していたと思いますが)
それからわたしは、精神的にもすっかり安定してしまって身体症状だけになったので、たぶんあの時、精神的に変になりかけたのは、薬の副作用だろうと考えました。実際は解離が解除されかけたためだったんですが、そのときは知識がないせいで気づかなかった。それで身体的な慢性疲労症候群なんだろう、と思って満足していたんですが、ひとつだけ気になっていることがありました。それは、もちろん、小学校のころに突然現れた別人格のこと。明確な多重人格とは違うみたいだったので、何なのかずっと不思議で、それ関係の本を調べ始めました。
こうしてわたしは解離という分野に足を踏み入れることになり、やがて解離がすべてのきっかけだったと知るに至ったわけです。調べれば調べるほど、慢性疲労症候群という診断名では説明できなかった微妙な症状や、わたしの才能の部分までが、すべて解離の特徴だと知って、受け入れたいかどうかなどまったく関係なしに、自分は解離の当事者だと認めざるをえなくなりました。
その意味では、わたしがひとつの診断名にとらわれず、井の中の蛙を抜け出せたのは、ひとえに別人格のおかげでした。それは確かに、解離の構造に書かれているような、ラルフ・アリソンが定義する生存者人格、あるいは内的自己救済者でした。
生存者人格は犠牲者人格から身を離し、状況を俯瞰する視点から眺める。アリソン Alloson,R.B.のいう内的自己救済者(ISH;Inner Self Helper)は癒やす神の力と愛を伝える媒介者であり、患者の過去と将来を知り、冷静沈着で理性的である。主人格がお手上げ状態に陥った時、物事をテキパキと処理する有能な人格として出現する。(p143)
内的自己救済者は、わたしの将来を知っていて導いてくれた、とでも言いますか。少なくともわたしの本来の姿を知っていて、潜在的に教えてくれていたようには思います。
明確な多重人格とは違っていた理由については、調べていくうちにわかりました。医学の既成概念にはよくあることですが、従来知られていたような明確な多重人格の症例は多くなく、もっとスペクトラム的な症例が多いのだとか。DSMとかの画一化された診断基準の弊害ですね。
以前の診断基準では、別人格同士が意識したり記憶を共有したりしているのはDIDに含まれていなかったんですが、解離新時代によると、最近になってそのへんも訂正されたようです。診断基準が緩められたために、これまでDIDの不全型とされていた「明確に区別されるパーソナリティ状態が存在しない、重要な個人間情報に関する健忘が生じていない」症例がDIDと診断されるようになったらしい。(p116)
オルガ・トゥルヒーヨの私の中のわたしたちを読む限り、体験が非常に似ているので、解離傾向が強いために普段は人格交代を封印して日常生活を送ることができている潜在的なDIDなんだろうなーとは思います。別に診断を得たいとは思わないので、これまでどおりやっていくだけですが。
「希望は、絶望を分かち合うこと」
わたしが解離の当事者だと知っていちばんよかったことは、あのとき絵画セラピーでたどり着いた答えは正しかったのだとわかったこと。解離はわたしにとって敵ではなく、背中合わせの運命共同体でした。
たとえばさっきの友人などは、慢性疲労と診断されてもう長いこと社会的に活動停止しています。だけどわたしは違う。こんなに体調が悪くても、これだけの創作作品を積み上げてきた。慢性疲労症候群なのに、こんなに絵や文章が創作できる、というのは、明らかにおかしいわけです。そちらのコミュニティにいたときは、「なんだ、そんなにできるんなら元気じゃないか。もしかすると仮病では?」なんて目を向けられて非常に居心地が悪かった。
しかし解離の当事者となってみれば、ごく普通なわけです。アーティストにはトラウマサバイバーが多いし、芸術的創造性は解離の特徴のひとつなので。解離という能力があるからこそ、普通以上に有能な人は多い。オルガが主治医にこんなことを言ったのはその典型ですよね。
「どうして私は弁護士になれたのでしょう。どうして結婚できたのでしょう。このような状態なのに、どうして私は仕事ができるのでしょう。理解できません」(p203)
わたしもずっと、こんなに体調が悪いのにこれほどのことができる自分が理解できなかった。慢性疲労という病名はそれをまったく説明できない。しかし解離という概念は完全にわたしを説明してくれるのです。わたしは自分と同じような人たち、同じ種族の人間がいたことを知ったのでした。
解離はわたしをずっと保護してきた。そして、人並み以上の創作を生み出せるよう支えてきてくれた。それを思えば、わたしとさっき書いた友人はまったく違うわけです。友人の場合の体調不良は、学生時代以来、苦しんできた病、障害でしかない。病気は人生を縛ってきただけだった。しかしわたしの場合は、解離があったおかげで生き延びてこられた。わたしは病気からある意味で守られてきたのだと気がついた。解離がなければ「単一人格障害」にでもなって気が狂うかもしれなかった人生を、解離することで生かされてきたのだと。
わたしの友人にとって、病気になってからの人生は死んだ時間に等しい。数多くの無活動の慢性疲労症候群の患者たちもそう。しかしわたしは違う。体調不良になる前より、なった後のほうが作品数は多い。わたしにとって、この歳月は死んだ時間ではなかった。確かに凍りつき、閉じ込められてはいるけれど、わたしは壁の中に隔離された安全な場所で、好きなだけ創作を続けてこれたのだ。わたしは解離のゆりかごの中でひたすら夢を見続けることを許されてきた。自分が創り続けてきた無数の世界の創り手として。解離とはいわば半分夢の状態に入って自己催眠をかけることで衝撃から守る手段なのだから。
もちろん、わたしがトラウマで失ったものは多すぎた。だけど、解離はバラバラに切断されたわたしの身体の隙間をすべて埋めて、一度は殺されたわたしが生きられるように支えてくれた。わたしは自分がまるで生ける屍のようだと感じることがあるけれど、それはきっと思い違いではなかった。オルガほどではないとは思うけど「多くのトラウマを経験し、意識を完全に保った完全な人間としては存在できなくなっていた」。けれども、一度は死んだのになぜか解離によって生きることを許されているのがわたしなのだろう。(p36)
一人の人間として生きられないなら、複数の人間になって生き延びればいい。当事者研究で有名な熊谷晋一郎先生が言っていた「自立は、依存先を増やすこと。希望は、絶望を分かち合うこと」という言葉を思い出す。最初にこれを読んだとき、もともとそんな意図ではないとわかっていながら、後半の言葉が自分のことに思えてならなかった。わたしは絶望を分かちあうために複数になったのだ。そして、一人では抱え込めなかった絶望を分担したことで、きっとかすかな希望が生まれたのだと。
空想世界からリソースを見つける
わたしの友人の場合、首と肩のハンガー状の痛みinterscapular-painや、慢性的な頭痛などが脳脊髄液減少症らしいところでした。しかしわたしの場合、ここ数回のSEのセラピーで確かめたように、両肩は かなり安全な場所です。首はけっこう疲れますが、友人のような肩の不快感はありません。
なぜ肩が安全な場所なのか、最初は理由もわかりませんでした。しかし、自分にとって安心できるイメージを想像し、安心感を身体のどこで感じているか観察してみる手法を試してみて、気づいたことがありました。
この手法というのは、例えば、トラウマと身体に書かれている次のようなものです。
解離性同一性障害と診断されていたあるクライエントは激しい調子で、身体は汚いとさかんに腕や足をこすりながら答えました。単に身体について質問したのでは覚醒亢進するとわかったので、セラピストは彼女に、現在であれ過去であれ身体の中にいい感じを感じたときを思い出せますか、と聞いてみました。
クライエントはすぐにブランコに乗っておじいちゃんに背中を押してもらったのを思い出しました、といいました。この記憶は肯定的な身体の経験を取り戻す出発点となりました。
セラピストはセッションで彼女にその記憶と関わりのある感覚を存分に感じてみるようにいいました―胸の内で笑いがこみ上げる感じ、「サーッ」と肌で空気を感じる感覚、足に力のある感覚―これらはみな、トラウマ後に感じている汚い感じを打ち消す働きをしました。(p294)
何の進展もなかったので、体験記に書かずに はしょったんですが、実は6回目のセラピーのとき、セラピストから何か好きなことや楽しかった経験を話してみるよう言われたことがありました。どうもセラピストは、ここに書いてあるような肯定的な経験を探してリソースを強化しようとしていたようですが、わたしは楽しかった経験というのを何一つ思い出せなくて、結局不快な感覚しか出てきませんでした。少なくともわたしには、ここに書いてあるような「ブランコに乗っておじいちゃんに背中を押してもらった」ような楽しい経験などなかったように思えます。わたしが思い出す子ども時代は、どれも怖くて辛くて不快なものばかりです。
しかし、このときわたしが肯定的な体験を何一つ思い出せなかったのは、わたしの側の問題ではなく、セラピストの力量不足だったと言わざるをえません。どれほど悲惨な人生を送ってきたサバイバーでも、本当に何一つ思い出せないということはない、とされているからです。
クライエントが自分には何のリソースもないと感じているとしても、最も深刻な調節不全を抱えているクライエントさえも、サバイバーとしてのリソースを使ってきていたことを私たちは発見しました。セラピストが注意を向けるよう導くまでは、気づくことなく使ってきたのでしょう。(p289)
セラピストの説明不足のせいで、わたしはセラピストが何を意図しているのか、そのときわかりませんでした。てっきり、最近の生活のなかで好きなことや楽しかったことを話させて、カウンセリングのようなことをやりたいのかと勘違いしてしまいました。もしちゃんと意図を説明してくれたら、わたしは肯定的な体験を想像できたのに。
わたしがかかっているセラピストはとても感性がこまやかで有能ですが、いかんせん何度も書いているように経験が浅くて、知識も少ないので、こういう細かなところに気が回らないのでしょう。わたしは自分の知識で補完できるクライエントだからいいものの、うまく伝わらずに失敗していることも多いんだろうなーと思ってしまいます。
セラピストは、わたしに「好きなことや楽しかったことは何ですか?」なんていうおかしな質問などせずに、こう尋ねるべきだったのです。
例えば今あるリソースについて知るために「あの経験から得たことは何でしょう?」「どうやってサバイバルしたのですか?」「何があなたの助けになりましたか?」などと質問します。(p289)
もしそう尋ねられたら、わたしは自分がトラウマを乗り越えるために使ってきたリソースを思い巡らすことができました。セラピストが間違っていたのは、「楽しい経験」について聞こうとしたことです。わたしが持っているリソースの中には楽しい経験などありませんでした。ふだんの日常生活の外的経験の中に、楽しかったものなどひとつもありません。わたしの人生はどんな経験も何らかの苦痛と条件付けされています。
でもだからといって、何もリソースがないわけではない。わたしが使ってきたリソースは、すべて、自分の空想世界のものです。自分が創り出した空想世界、わたしを幾重にも保護し、取り巻いている空想世界の繭(まゆ)。わたしはいつだって、空想世界に意識を飛ばし、そこで仲間と励まし合うことで生き抜いてきた。だからもし、セラピストがわたしのリソースを強化しようとしているのだと気づけば、日常生活ではなく空想世界について思い巡らすことができた。セラピストからしてみれば、こんな空想傾向の強いクライエントは初めてだったんでしょうか。
わたしは現実世界の誰を思い浮かべても安心できない。家族や友だちの顔を思い浮かべても安全だと感じられない。この世界の誰一人として信頼していない。だけど、空想世界には、わたしが心を許し、何でも話せる仲間が大勢いる。わたしが愛してやまない人たち、ともに戦いを生き抜き、世界中を冒険してきた仲間たちが。ドラマ三銃士の主題歌に「ひとりじゃない」という感動的な歌詞の歌があったけど、わたしはあの歌を聞くと、現実の人間ではなく、空想世界の仲間を思い浮かべる。「あの時ずっとそばにいてくれたね、それが君の永遠の友達」。
今になってわたしはセラピストが何をやりたかったのか気づいたので、実際にやってみることにしました。さっきのエピソードにあったように、肯定的な体験を思い浮かべたときに、それを身体のどこで感じるか、どのように感じるかを試してみました。
感じたのは、肩がすっと軽くなるということ。まるで重荷が取り除かれるように。そうだ、わたしはひとりじゃない。なぜなら、絶望を分かち合ってきた仲間がいる。一人では到底担えない重荷を、一緒に担ってきた仲間たちがいる。わたしがSEのセラピーの中で、肩が比較的安全だと感じたのは、空想世界の仲間たちが肩を支えてくれて、重荷を分け合ってくれていたからでした。
こうして確保したリソースは、SEのセラピーの、振り子運動(ペンデュレーション)のときの安心の島として活用できます。不快な感覚の海でおぼれそうになったときに、振り子のように戻ってくる安全な陸地として。さっきの例についてはこう書かれていました。
さらにセラピストは彼女に「汚い」感じと、肯定的な感覚をいったりきたりしてもらいました。ブランコに乗っていたときの記憶による胸や、肌や、足の筋肉の肯定的な感覚です。その数分後、クライエントは驚いたように「私、汚くない!」と声を上げました。(p294)
わたしは、このリソースについて気づいた後、外出時に神経がたかぶっているとき、これを活用して気持ちを鎮めることができるか試してみました。気が立っていて、神経質で、容易に圧倒されそうな状態でしたが、肩に手を置いて、ゆっくり集中しているうちに、不思議とリラックスできました。確かにわたしの安心の島は肩に存在しているようでした。
しかし、ひとたびリラックスできても、立ち上がって歩き出すと、すぐに身体が重くなり、緊張状態が悪化しました。いまのところ、リソースの活用には一時的効果しかないようです。しかし、わずかでも自分の覚醒状態をコントロールできたことは自信になりました。この自分で自分の覚醒状態をコントロールできるという自信を育むことこそSEの目指すところなので、大きな一歩に思えました。
身体への気付きを強調することで、クライエントは覚醒亢進や覚醒低下の身体的な兆候を認識することを学び、ソマティック・リソースを使って覚醒状態を耐性領域内に戻します。(p254)
ちなみに、さっき、このようなリソースについて、「セラピストが注意を向けるよう導くまでは、気づくことなく使ってきたのでしょう」と書かれていましたが、わたしもそうだった節があります。
じつはわたしは子どもの頃から、しゃっくりが止まらなくなる癖がありました。授業中にしゃっくりが出始めると、とても恥ずかしい思いをしたものです。水を飲むやら息を止めるやら、いろいろ工夫しても絶対に止まりません。自然終息を待つほかありませんでした。
しかし10代も後半になって、空想世界の仲間のもとに行くと、しゃっくりを止められることを発見しました。最初はたまたまかと思いましたが、しゃっくりが出るたびに試したところ、魔法のように、一瞬で止まるのです。プラセボかもしれないと思って、さすがに今回は止まらないだろうとタカをくくって空想世界に入る。しかし毎回奇跡のように、入ったとたんに5秒と待たずして止まってしまいます。
しかも、ツイッターでうちのブログに感想をくれた人の中に、まったく同じことを言っている人がいました。空想世界の住人は、「しゃっくりを止める魔法」を使えるのかと盛り上がったものです。
当時のわたしは、その魔法がなぜ起こるのかまったくわからなかったけれど、ポリヴェーガル理論を知ったことで、魔法のタネがわかりました。ポリヴェーガル理論からすると、しゃっくりは、背側迷走神経が呼吸に関わる筋肉を凍りつかせることで生じる不随意運動です。凍りついた人は、筋肉が凍りついて動きがギクシャクしますが、横隔膜にそれが反映されたのが止まらないしゃっくりだったわけです。わたしは子どものときから、頻繁に凍りついていたことになります。
しかし、空想世界に入ることは安全な場所のリソースなので、腹側迷走神経(副交感神経)を活性化させます。副交感神経は呼吸筋をリラックスさせるので、凍りつきが解けます。空想世界の住人がしゃっくりを止められるという魔法は、それがまぎれもなく副交感神経を活性化させ、筋肉の緊張を和らげるリソースであることを証拠づけているわけです。しかも一度や二度ならず百発百中で活性化させる、経験に裏打ちされたリソースです。10代以来、何年使い続けても絶対にしゃっくりを止められるんですから。
これは図らずもわたしが現実の人間ではなく、空想世界の住人しか信頼していないことも生物学的に実証してしまっていますね(笑) 自分でも書いていて奇妙なんですが、本当に、現実世界のあらゆる体験が、何かしらの不快感と紐づけされて記憶されているんです。さっきのDIDの人でさえおじいちゃんと遊んだ幸せな記憶があり、オルガでさえ近隣の住民の微笑みが支えになったと述べているのに、わたしはいくら思い返してもそれがまったくない。自分の人生においてどれほど重要な人を思い返しても疲労感や徒労感に満たされるし、好きなはずの趣味やゲームのことを想像してもしんどくなる。純粋に楽しかった思い出というのがまったく思いつかない。
正確に言えば、まったく現実世界にいい思い出がないわけではなく、いくつか肯定的な記憶がありますが、それらはいずれも空想世界の住人が現実に出張してきたときの記憶です。空想世界の住人が隣にいてくれて一緒に時間を過ごした体験は、現実世界においても貴重な思い出です。でもそれを現実世界の体験と言っていいのかはわかりません。拡張現実(AR)みたいなものですね。
自分の過去の体験を思い返してみて感じるのは、どうも現実世界の人間に対する愛着が完全に切れているのではないか、ということ。実際、わたしは家族と離れて一人暮らししても寂しさをまったく感じなかったし、友達として付き合っている人はいても親友はいない。その代わり、わたしの愛着システムは、空想世界の人間関係に全振りされていると感じる。現実世界の人間が関わるできごとはすべて不快でしかない。逆に空想世界の出来事はすべてが夢のように楽しい。わたしが毎晩、空想世界に入ることで眠れてきたのも、空想世界に入ると副交感神経が活性化してリラックスできるのを無意識のうちに利用していたからなのだろう。ここまではっきりと、現実の他者に対する愛着が切れているということに気づいて、自分でも内心戸惑っています。だけど続解離性障害で野間先生がこう言っているとおり、解離の当事者にはこういう人は少なからずいると思う。
ボーダーラインの人は相手のことをむちゃくちゃ言うしむちゃなことをやりますが、それは人間に対する信頼感を根本的なところで持っているからだと思います。解離の人はそこが切れていて、人に対して絶望しているようなところがあるように思えるのですが。(p211)
そして解離の構造に書かれているように、現実世界の人間の代わりに、空想世界を避難所としている人もまた。
彼女たちにとってこの世界はいつ何時恐れていたことが起こるかもしれない緊張に満ちた世界である。安心して落ち着ける居場所を見つけられず、じゅうぶんに包まれているという体験をすることがなかった。周囲に包まれることを求めながらも、それが満たされることはない。そのために自らのまわりにヴェールを張りめぐらせ、空想の世界を思い描く。
…空想的世界は、現実の世界に安心できる居場所を見つけられなかった患者がかろうじて作り出した避難できる居場所である。(p221)
何はともあれ、次回のセラピーのときにはこうした発見を、セラピストに伝えねばなりませんね。ちゃんとフィードバックをしてあげれば、きっと他の人に対するセラピーにも生かしてくれるでしょう。トラウマサバイバーの中には、現実の経験の楽しかった思い出など一つもなく、空想世界に生きてきた人もいる、という知識を。
山頂まで行くしかない
こうした経験を通して、前々回の最後に書いた、自分が何者か知れば知るほど孤独になって、異邦人になっていくという話について、ちょっと違ったイメージが見えてきました。わたしはちょうど、とんでもなく高い山に登っているようなものなんだろうなと。
まだ下のほう、ふもとの山道をハイキングしているような場所にはたくさんの人がいる。慢性疲労症候群と診断されてコミュニティーに属していたころのわたしはそこにいた。細かい違いはどうだってよくて、ただ同じ名前でつながっている人たちが大勢寄り集まっている場所。みんなそこで仲間といるのが楽しいから、そこから抜け出ようとしない。より高みを目指すための努力も払おうとしない。日常生活だけでいっぱいいっぱいだからそんな余裕もない。
だけど、わたしはいつも山の頂上を見ていた。もっと広い世界を見たいと思っていた。山をさらに登ると視界が変わる。ふもとにいたときよりももっと広い範囲を見渡せる。そこまで登ってきて初めて見える景色がある。今まで見ていたものはちっぽけな世界だったと気づく。でもそこまで登ってきている登山者は少ない。登るには意欲と犠牲が必要だから。だれかと楽しく寄り集まることと、広い景色を見渡すことは両立できない。どちらかしか選べない。
さらにわたしは登る。登れば登るほど広い世界が見えてくる。登れば登るほど、共にいる人は減っていく。だけどわたしはかりそめだけの横の付き合いなんていらない。たとえ一緒に登る人がだれもいなくたっていい。わたしはすでに複数なんだから。わたしはただ、己の内的自己救済者に導かれるままに、山頂を目指す。そこでしか見えない景色を求めて。
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