切り離された自分の身体を取り戻すセラピー体験記(12)

前回は、北海道旅行と、最近読んだ本についていろいろ書きました。今回はその続きを書きたいと思います。おもにわたしの慢性疲労状態の説明と、自然豊かな中で考えた考察について。

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慢性疲労症候群の説明テンプレート

前回、今回と北海道に滞在して、すでに向こうに知り合いが大勢できました。おかげで、地震の停電で被災したときも、不自由なく支えてもらうことができ、ありがたい限りでした。

向こうで知り合った人たちに移住したいという計画について話すと、当然、体調も悪いのになぜこんな豪雪地帯に? という反応になります。そんなとき、何度も繰り返し自分の状況を説明するうちに、次のようなテンプレートが役立つことがわかってきました。

わたしの病気は、慢性疲労症候群と診断されているんですが、学生時代にある日突然動けなくなったんです。

今でも日付まで覚えています。それまでも、かなり無理のある生活をしていたんですが、その10/16日、テスト前だったんですけれど、朝、目が覚めたら、身体が重くて動かせなくて。周りの世界がバラバラになったような異様な感覚で、まったく変わってしまったんです。

あえて「トラウマ」とは説明しないことにしています。トラウマという表現は心的外傷との誤解を招いてしまうので、慢性ストレスなどの表現のほうが適切。

それにしても、いま思えば、発症した日の、あのバラバラになったような感覚こそが「解離」でした。わたしはそのときの感覚を言い表すのによく、積み木をバランスよく積み上げていくゲーム「ジェンガ」が突然崩壊すするような感じ、という比喩表現を使っていたのだけど、小児期トラウマがもたらす病で、まったく同じ表現が使われていたことにびっくりしました。(ゲームの名前は違うのだが)

私の子どもが小さいころ、「エレファント」というゲームをやったことがある。象の背中にブロックを積みあげてタワーを作る遊びだ。ブロックを慎重に置かないと、タワーがぐらぐら揺れ、崩れてしまう。

予測不能なストレスを受けた子どもは、言ってみれば、この不安定な荷物を背負った象のようだ。(p96)

まさにあの日、不安定な土台に据えられて崩壊寸前だったわたしの心身は統合を失い、解離という形でバラバラになってしまったのだ。

…が、このあたりはややこしくなるので、わたしの胸にとどめておくにとどめ、他人に説明するときは話しません。説明するときに大事なのは、「トラウマ」や「解離」といった専門用語を使わず、だれでもわかる言葉で話すことです。

最近の研究によると、慢性疲労症候群は動物で言うところの仮死状態みたいなものだという専門家がいるんですよ。たとえば、森でクマに襲われた動物は、パタッと動かなくなって死んだふりの仮死状態になったりしますよね。

人間の場合も、あまりに極限状態に追い込まれたら身体が死んでいるかのような仮死状態になる。それが慢性疲労症候群だと言われているんです。

そう説明すると、地元の人はすぐ意味をつかんでくれる。なんといっても、日常的にクマが身の回りに出没する地域なので、理解が速い。

こう説明すると、たいてい、じゃあ君は学校でそれくらい極限状態にまで追い込まれていたんだね、と言われるので、少し身の上話をします。

恥ずかしながら、健康管理みたいなことをまったく知らなかったので…。進学校に通ってたんですが、ものすごく忙しくて、睡眠時間を削りまくってたんですよ。

朝、朝刊の音がするころにやっと寝て、数時間だけ寝て、学校に行くような。自分の能力をはるかに超えた無理をしていたから、身体が極限状態になってパタッといっちゃったんですね。

たとえば、戦争みたいな極限体験でも、たとえば湾岸戦争症候群とか、慢性疲労症候群と似たような状態になることが知られているんですよ。

これは誇張ではなく完全に事実です。当時はイチローが海外で活躍していたころで、わたしもファンだったので、毎朝、朝刊が入ったときにイチローの成績を確認して励みにしていたものでした(笑) 

当時は昼寝を含めて、実質4-5時間しか睡眠時間をとれていませんでしたが、これは今となっては表現が古い「四当五落」と呼ばれていた風習を思うと、わたしだけではなかったと思います。わざわざ戦争を比較に出しているけれど、「受験戦争」と呼ばれるのは伊達ではない。

わたしの学校は、授業で先生に当てられて質問に答えられなかったら授業中ずっと立たされて晒し者にされることがよくあったので、わたしみたいな怖がりの生徒は、ひたすらありとあらゆる範囲を予習して備えておくしかありませんでした。恥をかかせることで生徒を追い込むというスタイルだったので、慢性ストレスやトラウマが生じるのは必然だったともいえる。

ただし、それでもわたしが学年トップを争っていた同級生はストレートで京大理学部に行ったし、不登校になった生徒はわたし含め数人だけでした。だから、学校でのストレスだけでなく、生まれる前からの環境や、幼少期の愛着の不安定さなどが関係していることは事実ですが、そこを話に含めるとややこしくなるので省いておく。

かえって「労働災害のハインリッヒの法則」を引き合いに出して、本当はみんなとんでもないストレスを抱えているのに、炭鉱のカナリアみたいな敏感な子どもが、氷山の一角として極限状態に追い込まれて慢性疲労症候群になってしまう、と説明するほうがわかってもらいやすい。

わたしが今回会った人の中には、北海道で生まれ育って、その後、大阪の学校に行って、周囲のあまりに学業中心の姿勢についていけなかったという人もいて、わたしの話に深く共感してくださいました。(わたしの行った進学校の名前も知っていた笑)

動物の場合は、たとえクマに襲われたとしても、ふつうはすぐに仮死状態から復帰できますよね。でも、実は実験室とか、動物園のオリの中みたいな人工的な環境でひどいストレスを受けると、ずっと仮死状態から戻らなくなってしまうことがわかっているんです。

慢性疲労症候群になって戻らなくなってしまう人間の場合も、この動物たちと似ていて、仮死状態から回復するには自然の中でいろいろな環境のゆらぎを感じ取って生きている感じを味わう必要があるみたいなんです。

でも都会の人工的な環境だと24時間ずっと明るかったり、ずっと同じクーラーの効いた部屋にいたりしてゆらぎがないから、危険が去ったことを身体がわからなくて仮死状態から回復できなくなってしまい、慢性疲労症候群から回復しなくなってしまう。

こう説明すると、ああ、だから自然の多いところに来たいのね、という話になる。細かい細部の説明は省いているので、文章にすると論理の飛躍を感じてしまうけれど、向こうの人たちには感覚でわかってしまうようで、「あーなんとなくわかる」と言われることが多かった。

この説明は、おもにトラウマ医学の動物実験をもとにしていますが、慢性疲労症候群の疲労医学の研究ともオーバーラップしています。疲労から回復するには、自然界の中で感じる、いわゆる1/fのゆらぎが必要だという話は、梶本修身先生の本でも言われていたし、エコナビスタシステムにも取り入れられていました。(このあたりの疲労研究はわたしはあまり信用していなくて話半分なのだけど)

だから、慢性疲労症候群という病気は、産業革命以前の文明化が進む前の社会にはほとんどなくて、比較的最近になって増加している病気なんですよ。とくに先進国に多くて。

わたしの主治医は小児科なので、慢性疲労症候群で不登校になった子どもを診ているんですが、沖縄の離島とか、外国とかに移住すると回復するという話がけっこうあって、もっと自然を感じられる環境のほうがいいみたいなんです。

戦争みたいな極限状態で慢性疲労になる人もいますが、外国では退役軍人を対象にして、荒々しい自然のところに行って生きている感じをとりもどすセラピーが行なわれていたりするそうなんです。

こう話すと、「そういうことなら、ここはうってつけですよ」と言われる。わたしが、風光明媚な環境で療養したいと思っているわけではなく、荒々しい自然と触れることで生きている感じを取り戻したい、ということを理解してもらえます。

わたしが移住してきたいと言うと、たいていの人は、ここは病人が療養するような気楽な環境じゃないのに…、と感じるようだけど、こうやって説明した後は、わたしの意図を理解して、共感してくれるようになります。ふだんそうした自然に揉まれているせいか、わたしの言いたいことが感覚的にわかるらしい。

(とくにトラウマがパブロフの条件付けであるという説明と、慢性疲労症候群が動物のタヌキ寝入りの仮死状態であるという説明は、ほとんどの人がすぐに理解しやすいらしい。どちらもよく知っている現象であり、今までつかみどころのないと思っていた概念が途端に身近になるからだ)

こうやって説明すれば、専門知識のない普通の人でもわかるようなメカニズムなのに、いまだに慢性疲労症候群が原因不明だと言われるのは、医学が細分化してややこしくしてしまったことによる理解の退化でしょう。

オリヴァー・サックスがサックス博士の片頭痛大全で述べているように

今世紀に入ってからの片頭痛へのアプローチは、進歩するとともに後退したといえよう。技術や量的な評価方法が進歩した一方、知識の専門家によって、本来は区別することのできないものをむりやり区別して考えてしまうという点での後退である。

知識と技術の真の進歩が、全体的な理解の喪失という真の後退を伴うとは歴史の皮肉であろう。(p44)

あるいはまた、レナードの朝でもこう述べているように。

病を理解するためには、純粋に機械的あるいは化学的にとらえるだけでは充分でなく、同様に生物学的あるいは形而上学的に、つまり病のなりたちや枠組みといった意味合いで考えるべきなのである。

…こうした概念は目新しいものではなく、古典的な医学においてははっきりと理解されていた。ところが、現代の医学では反対に、技術的、機械的アプローチのみが強調されている。

もちろんそれらによって医学は進歩したが、知的には後退し、患者の要望や感情には適切な注意が払われていない。(p23)

とくにトラウマや不登校や慢性疲労症候群について言えば、動物行動学のような観察からわかる普遍的な事実で説明すれば簡単なのに、わけのわからない医学用語で修飾して意味不明になっているのが現状だと思います。

三池先生の研究の上に

こうしたわたしの自分の体調についての説明は、SEなどトラウマ医学の説明で補強してはいますが、コンセプトとしては三池先生の不登校の慢性疲労症候群の研究に基づいています。

たとえば三池先生のフクロウ症候群を克服する―不登校児の生体リズム障害 に次のように書かれていた。

しばらく温泉にでも行ってのんびりとした気持ちになることです。あるいは料理学校にでも行って自活の準備をするか、海外に出かけていってフーテンでもするか、そんなようなことを考えてみて下さい。

フクロウ症候群[※子どもの慢性疲労症候群、学校過労死状態の初期の通称]は、あなたの生きるためのエネルギーが一度ガクンと低下した状態を意味します。いわば生命の炎が半分消えかかった状態を意味します。

もしあなたが野生の草原に住む動物であるとしたらとっくにライオンに食われてしまっていることでしょう。そのような目に遭ったことを脳が覚えています。草原に戻っていくことに知らず知らずのうちの恐怖感があってもおかしくないのです。徐々に時間をかけてその恐怖心を取り除き、ゆっくりと体力を回復する時間が必要です。あせりは再発を誘います。…自然と親しむことは最高です。(p182)

フクロウ症候群の若者たちがアメリカやニュージーランドなどでホームステイして外国の学校に通うようになると、つまり留学すると、みるみるうちにはつらつと元気になっていくのは、まるでマジックをみているように不思議な現象です。どこがどうちがうのでしょうか。彼らの答えは「日本の空気は重たい」というのです。(p127)

ある日、娘が私にいったことを思いだします。

「お父さん、日本の大人たちはわき目もふらず山の頂上に登ることを子どもたちに教えるけれど、登ってしまったらそんなに長いこと頂上に立っているわけにはいかないのだから、慌てて登った人は、まわりの景色など見もしないで、またまっすぐおりてきてしまうよ。

お父さんやお母さんみたいに『ほらここに花が咲いているよ。ほら小川が流れているよ。蝶が飛んでいるよ』って育てられたら、なかなか頂上に行きつかないけれど、おりるときには景色や、花や、風や、いろんなものが楽しめて豊かだよね」。(p200)

また三池先生は、以前のニュースで次のように述べていた。

「民泊に効果期待」 不登校研究の三池名誉教授 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

「生きる力が落ちている不登校の子どもたちに『自然』の力が大きく影響を及ぼすのではないか。

温暖な気候、豊かな自然、民泊体験で一般家庭に温かく迎えられて支えてもらえる人がいるなどの要素が、伊江島には詰まっている。生きる力を取り戻せる有効性がある場所になる」

これらの説明には、わたしが考察してきたことのエッセンスがすべて詰まっています。

まず、不登校の慢性疲労症候群状態が「生きる力」の減退だとする説明は、当初三池先生の論文を読んでいたころはなんとも抽象的だと思っていたけれど、今となっては意味がよくわかる。慢性疲労症候群は動物の凍りつき・擬態死であることを思えば、半分死んでいる状態というのは、科学的に適切な表現だった。

また、外国でホームステイすると改善するという話は、前回書いた条件付けの研究と一致しています。おそらく、フクロウ症候群の子たちがホームステイした地域は、必ずしも自然豊かなところではないでしょうが、日本の環境とまったく異なっていて、学校で形成された条件付けを誘発しない、という点では共通しています。

日本にいれば、かつて条件付けされたトラウマ記憶が身体性フラッシュバックとしてよみがえり、慢性疲労の擬態死や、なんとなく感じる空気の重さとして呼び覚まされることになります。しかし、条件付けが成立していないまっさらな土地に行けば、そうしたトラウマ性反応が誘発されないので、いちからやり直すことが可能になります。だからわたしはいわゆる「日本の田舎」ではなく道北にまで行くのだと前回書きました。

宮古島のような自然の多い環境が推奨されているのは、ここで考察してきたことからすれば言わずもがなです。これも前回書いたように、トラウマや慢性疲労症候群、概日リズム睡眠障害などは、すべて自然界からの脱同調(すなわち解離、切り離し)だと思われるので、ふたたび自然界の中で生体リズム(睡眠だけでなく、あらゆるリズム)を統合しなければならない。

最後に『ほらここに花が咲いているよ。ほら小川が流れているよ。蝶が飛んでいるよ』という生き方、つまり、立ち止まって「今ここ」の感覚を経験するということは、わたしがここ半年取り組んできたSEで学ぶマインドフルネスそのものです。不登校、慢性疲労症候群、トラウマはすべて、「今ここ」から解離する(切り離される)ことと関係している。

この三池先生の言葉が暗に示唆しているように、SEのセラピーなどで「今ここ」に注意を向けるマインドフルネスを学んだとしても、それは自然豊かなところでなければ役立てるのは難しい。

この体験記で何度も書いているように、都会で感覚を鋭敏にしたところで、車の騒音や人混み、24時間の照明灯、排気ガスの臭いなどに敏感になってしまうだけであり、再び自分を守るために感覚を麻痺させ、解離状態へと戻っていくのは避けられないからです。

(SEで学ぶのは基本的に内的感覚(フェルトセンス)に対する感受性だが、内的感覚を感じるのと外的感覚を感じるのは表裏一体なのでどちらかだけというわけにはいかないことはやってみるとわかる)

わたしの当事者研究は、三池先生の小児慢性疲労症候群の研究から始まりましたが、その後オリヴァー・サックスやピーター・ラヴィーンの革新的な洞察によりいっそう理解が深まった後で、最終的に三池先生の研究に戻ってきました。はじめはただ直感的に三池先生の研究が正しいと感じたけれど、今となっては理論的にも間違いなく正しいと思っています。

数年前に一度だけお会いでき、著書について感謝を伝えることができたけれど、今でも先見の明のある方だと尊敬しています。

腸脳相関はすでに配線されているので手遅れか?

わたしが自分の体調を説明するテンプレートはだいたいこんな感じですが、これはあくまで単純化した説明にすぎず、正確な説明ではありません。

まず、慢性疲労症候群が回復しない根本原因は、都会に住んでいるからではない。もしそうなら、慢性疲労症候群という病気は、1980年代にCDCが注目するよりもっと早く、産業革命後すぐからもっと広く認知されていたはずです。

先進国の都市化と、慢性疲労症候群の出現の時期にはギャップがあります。今になって、つまり都市化から100年も経ってようやくこの病気が表面化してきたのは、都市環境そのものが原因ではなく、都市環境で数世代過ごしたことによるマイクロバイオームの変化が影響しているからだと思います。数世代かけて健康なマイクロバイオームの組成が失われてしまった結果、人間は、自己免疫疾患や自閉症、トラウマ、さらには慢性疲労症候群などに脆弱になってしまった。

だから、本当は、わたしが北海道の自然豊かなところに引っ越したところで、劇的に改善することはありえない。前回引用した腸と脳にも書かれていたように、受け継いだマイクロバイオームと幼少期のストレスによって脳-腸-マイクロバイオームの配線がすでに決定されてしまっている。だから根本的なところはもはや修正できない。

これまで見てきたように、ストレスは神経の発達に影響を及ぼす主要因の一つであり、幼少期に経験した逆境が脳腸相関を変える、少なくとも2つの経路がある。

一つはストレス反応システムと脳腸相関のエピジェネティックな変化であり、もうひとつはストレスが引き起こすマイクロバイオータとその産生物の変化、さらにはそれによる脳への影響である。

これは次のことを意味する。この2つのは快適な疾病の進行過程に、持続する治療効果を及ぼしたいのなら、介入は早期から行なわなければならない。全面的に症状が進行した成人後に診察を受けると、ほとんどの治療は対症療法的で、一時的なものに留まり、持続する治療効果を得ることが困難になる。(p133)

この本によるとマイクロバイオームは生態系としての安定状態にとどまるので、幼少期に健康なマイクロバイオームが育った人は健康なまま安定し、不健康なマイクロバイオームを育ててしまった人は不健康なまま安定してしまうことがわかっている。(これは、どんなにタバコを吸いまくっても80や90歳まで元気はつらつな人がいる一方、どれだけ健康に気をつけていても病気のデパート状態になる人がいることの理由だろう)

マイクロバイオームは一つの生態系なのだから、生態学の観点から考えてみるとよい。…UCLAの同僚で生態学者のダニエル・プルムスタインに生態系の健康とは何かを尋ねたところ、自然の生態系には、いくつかの安定状態があることを教えてくれた。

つまり、いかなる生態系も複数の安定状態を示すのだ。人体内の微生物の生態系では、健康に結びつく安定状態と、疾病をもたらす安定状態の二通りがある。(p172)

残念ながら、生後の3年間で確立された腸内微生物の多様性は向上させるより低下させるほうが簡単らしい。たとえば、何歳のころであれ、抗生物質の服用によって腸内微生物の多様性を低下させることは比較的簡単なのに対し、いくつかの研究によれば、多様性のレベルを向上させ、疾病からの回復力や健康を改善することは困難である。

どれほどプロバイオティクス食品を摂取しても、いくらザワークラウトやキムチを食べても、いかなる食事療法を実践しようとも、腸内微生物の基本的な構成と多様性は、比較的安定を保ったままであるのだ。(p176)

要するに、幼少期の環境やトラウマなどにより不健康なマイクロバイオームとそれに対応する脳とが配線されてしまったなら、もうそれを変えることはほぼ不可能だということ。

(病気知らずの健康な人は、自分が健康でいられる理由について、さまざまに自慢したり他の人にアドバイスしたりするけれど、大半は遺伝や3歳までの生育環境で決まっているので当てにしないほうがよい。また腸内フローラを改善するなどと宣伝する健康食品もただの商業主義の眉唾ものなので期待するべきではない)

しかし、脳には可塑性があり、すでに形成された経路以外の代替プロセスを再配線することができます。たとえば盲目になった人は視覚野を触覚を担当するために再配線できる。脳卒中になった人も、すでに死滅した経路を迂回する別の経路を再配線できる。だから、根本部分の障害そのものは取り除けなくても、環境や行動を変えれば、使われていなかった別の機能を活性化させることができます。

そして、脳を再配線するのは、脳はいかに治癒をもたらすかに説明されているように身体を通して入力される刺激によります。感覚器官はいわば脳を彫刻するノミの役割を果たします。

身体はニューロンに満ち、内臓だけでもその数は一億に達する。脳が身体から切り離され、頭蓋内に閉じ込められているのは、解剖学の教科書のなかだけにすぎない。

機能的な観点から言えば、脳はつねに身体に結びつき、感覚器官を介して外界と通じている。

ニューロプラスティシャンたちは、身体から脳に至るこの経路を利用して治癒を促す術を学んできた。

たとえば、脳の損傷のゆえに足を使えなくなった脳卒中の患者は、足を動かすことで、傷ついた脳における休眠中の神経回路の覚醒を図れるかもしれない。

脳の治療において、身体と心はパートナーとなる。このようなアプローチはきわめて自然かつ非侵襲的であり、副作用はめったに見られない。(p20)

わたしたちの五感(さらに内受容や固有感覚を含めた六感)は、脳をリアルタイムで形づくって変化させつづけています。だから、わたしたちは、自分がどんな環境にいるか常に意識していなければならない。

たとえば、興味深いことに退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すによると、こんな話がありました。

スイスのチューリッヒ大学とチューリッヒ工科大学で研究にあたるアルコ・ゴーシュのグループは、こうしたデータを活用して、デジタル機器の使用と脳の活動の関係を調べることにしました。

従来型の「ダムフォン(スマートじゃない携帯電話)」との比較で、スマホ利用者の脳の各部位について電気的な活動を測定したところ、親指と人差し指の先端につながる大脳皮質の活動が、スマホの利用時間に比例して増えていることがあきらかになりました。

これは当然だと思うかもしれないけれど、ゴーシュは2015年に『カレント・バイオロジー』誌に研究成果を発表し、「変化の大きさにひじょうに驚いた」と述べています。

…「タッチスクリーン式のスマホを使う人と使わない人とでは、指先に指令を与える脳の部分はちがった処理をしている」とゴーシュはロイター通信に語っています。

このことはプロのフレンチホルン奏者や外科医にも当てはまり、彼らの脳波を調べると、指の動きと連動する部分がほかの人に比べて発達しています。(p94-95)

たかが毎日スマホを使うだけで、脳の構造や脳波が明らかなレベルで変化するのなら、絶えず騒音があり、朝晩 満員電車にもまれ、自然から隔絶された都市で年がら年中過ごしているような環境が脳に何の問題も及ぼさない、と考えることなどできません。

多くの人、特に比較的若い世代の人たちや、都市で生まれ育った人たちは、感覚が麻痺しているため、自分たちの居住環境を普通だと思っています。(深海で生まれ育った深海魚は、どれほど過酷でも自分たちの居住環境が異質だなどと思わないだろう) 

たとえば、ほとんどの人は、自分の住んでいるところの騒音はたいしたことないと思っている。しかしNATURE FIXに書かれているように、それは多分感覚が麻痺してしまっているからで、実際に測定してみれば健康に有害なレベルだとわかるはず。

健康への影響はどれも深刻なものばかりだ。こうした研究結果がほとんど知られていないことに、わたしは心底驚いた。

それに、少なくともワシントンDCでは、航路が不動産価格にまったく影響を及ぼしていないように見えることも意外だった。

こうした論文を読んだあと、わたしは携帯電話にデジタル騒音計のアプリを入れた。家のなかや外を駆けまわって騒音を測っているわたしを見て、子どもたちはおもしろがっている。こうして計測した結果は、高血圧の発症や学習の遅れなどに関する研究で引きあいにだされていた騒音レベルと同程度だった。(p127)

アメリカ国立公園局のカート・フリストラップの言葉を思い出した。町中の音を改善しないかぎり、人間は貴重な聴覚の一部を失うかもしれない。

フリストラップは、一日中イヤホンをつけてすごしていると「学習性難聴」になると警告した。現代人はイヤホンをつけ、現実を閉め出し、自分だけのサウンドスケープに埋没している。その代償は、耳を研ぎ澄ます方法を忘れることだ。聴覚を通じて気持ちを元気にする機会をふいにしているのだ。(p142)

生物は、慢性的にさらされる刺激に対して馴化と呼ばれる反応を起こし、感覚が麻痺し、反応しなくなります。しかしそれに慣れてしまったからといって、健康面で問題が生じなくなるわけではない。

たとえある種の騒音が気にならなくなったとしても、それは脳がその音にほとんど反応を示さなくなったということではない。

…複数の興味深い研究によれば、航空機や列車や車の騒音が聞こえる場所で祖賢者に心電図をつけたまま眠ってもらったところ、睡眠時にも覚醒時にも交感神経系が騒音に大きく反応し、心拍数、血圧、呼吸数が上昇した。

この実験を三週間続けたある研究では、被験者は騒音に慣れたことを示す生理学的徴候をいっさい見せなかった。同様の実験を数年にわたって続けたある研究では、騒音により生理機能は悪化の一途をたどるとわかった。(p122)

感覚は麻痺しても、悪影響はなくならない、というのは、他の分野の研究でもよくあることです。たとえば、睡眠不足の生活を長年過ごしていると、感覚が麻痺して眠気を感じなくなりますが、睡眠不足の害はきっちり身体に現れます。

第62回 眠くない寝不足「潜在的睡眠不足」の怖さ | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

前に書いたように、アントニオ・ダマシオの意識の研究によると、意識が気づくかにかかわりなく、感覚は無意識下で処理されています。たとえば植物状態の人に顔写真を見せると、意識ではそれに気づくことはなくても、脳の視覚処理領域は活性化します。つまり自分で気づいているかどうかにかかわらず、刺激は脳や身体に影響を及ぼしている、ということ。

(専門的にいえば感覚は無意識の原自己のレベルで処理されるが、それを認知して気づく能力は拡張意識に依存している。ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するの中で解離とは「知っていると同時に知らないこと」だと表現していたが、「解離」とは、無意識の身体は感覚に気づいているのに、意識的にはそれに気づけなくなるという現象だ。つまりここで書いている気づけなくなる感覚の麻痺は解離の一種であり、都会に住んでいる人たちは程度の差こそあれ知らず知らずのうちに解離に陥っているというピーター・ラヴィーンの指摘と一致している)

騒音の場合もそれと同じで、騒音に気づいていてもいなくても、騒音があれば無意識で脳は影響を受けます。子どものころから都市に育ってきた人は騒音や大気汚染などに鈍感になり、それらを不快に感じる能力がなくなりますが、健康面ではきっちり害を刈り取ります。ただ警告アラームが麻痺してしまっていて気づかないだけ。

わたしの場合、数年前にアーレンシンドロームのテスト(実質わたしにとって最初のソマティックなセラピー)を受けるまで、感覚が麻痺してしまっていましたが、自分の極度の光過敏に気づいた(言い換えれば解離のマスクが解除された)ことによって、音に対する敏感さも気づけるようになりました。いったん気づいてみると、自分の住んでいる環境の騒音は明らかにうるさすぎたので、外出時はカスタムイヤープラグを持ち歩くようになりました。

その敏感な聴力を使って測定したところでは、本州の都市はもちろん、北海道の都市部も音がうるさすぎました。道北まで行き、しかも小さな町のさらに郊外にまで行くと、ようやく耳栓なしでいられる環境が見つかりました。本来、人間はこれくらい静かなところにいるべきなのに、あまりに騒音が一般的になりすぎたせいで、たいていの人は自分にとって有害なものに気づけなくなっているんでしょう。

ほかにも、都会のひどく狭い集合住宅や、満員電車などの場合も同じことがいえます。人間の場合で想像しにくいなら、野生のネズミをずっと騒音のある狭い実験室で生活させたらどうなるか想像してみればいい。

詩人、神経科学者、川下りをしたグループのように、ときにすはもっと長期間、大自然のなかにどっぷり浸かるのも大切だ。…本来、わたしたちは多様な自然を存分に満喫し、そこから活力を得る必要がある。とはいえ、はたして巨大都市の居住者にそんなことが可能なのだろうか?

…シンガポールの南洋理工大学の霊長類学者マイケル・ガマートは、シンガポールは国を挙げて人体実験を行なっているようなものだと指摘する。

「まだ全容はあきらかになっていませんが、ストレスが増えているに違いない。自覚しないまま、自分で自分を家畜化しているのですから」とガマートは指摘する。(p323)

そうした、感覚が麻痺してしまっているがゆえに無自覚で受けいれてしまっている環境を根本から変えてしまえば脳そのものが変化していくだろう、と予測するのはもっともに思える。だから、たとえわたしの腸脳相関が幼少期にすでに配線されているにしても、環境を大きく変えることには、ある程度効果があると考えるのは理にかなっています。

また、少なくとも前回書いたような、条件反射としてのトラウマ反応や、自律神経系の耐性領域の狭さからくる過覚醒や低覚醒のシャットダウンは、自然豊かな環境に引っ越せばかなり軽減されるはず。耐性領域の狭さ自体はあまり変わらなくても、刺激の総量が減るために、相対的に耐性領域内にとどまりやすくなり、コントロールを失って凍りつくような場面が減るということ。

だから、腸脳相関そのものが変わらなくても、健康状態が底上げされて改善される見込みは十分あるでしょう。

もっとも、環境がもたらす効果は、常にメリット・デメリットのパッケージであって、良い効果だけが及ぶという保証はどこにもない。もしかしたら、都市生活をすることによって脳がメリットを得ている部分もあるのかもしれず、自然の多い場所に身を置くことで被るデメリットもあるのかもしれない。

この部分はまったく不透明だけど、これまでこの体験記で調査してきたSEの研究などに期待をかけたいところです。たとえ都市で生まれ育ったとしても、わたしの身体は、地球上に生きてきた動物としての能力を遺伝的に保存しており、自然豊かな場所に行くことでエピジェネティクス的な遺伝子のオンオフの変化が生じるということ、そしてそこで解放される機能こそが、トラウマの凍りつき・擬態死状態から回復するために必要なものである、ということを。

自然豊かなところでも改善しない場合

これまで体験記でずっと調査してきたように、わたしの現時点での手持ちの知識の範囲では、多くの科学的な証拠が、自然豊かな場所に行くことを支持していると思えます。しかし、それが本当にふさわしい選択なのかは、(不可知論者のわたしらしく)十分な自信が持てない。

まず、自然豊かな場所に行くことでトラウマや慢性疲労から回復した例がある一方、回復しなかった例もわたしは知っている。そのような例は、おそらく次の3つの理由が関係している。

(1)トラウマやストレスと関係ないまったく別の病気だった場合
まず、まったく異なるタイプの進行性の病気などが背後にある場合、あまり改善は期待できないかもしれない。たとえば進行性のガンがある場合、田舎に行くことでかえって必要な医療手段を受けられず、悪化の一途をたどるかもしれない。

そうした別の病気がないかどうかは、こちらにいるうちに検査などを通して検討を重ねてきたし、状況証拠からしてもまったく別の病態だということはありえないようには思うが、マイクロバイオームの件をはじめ、未知のメカニズムがからんでいる可能性は常に念頭に置いておくべきだと思う。

ただ、そうは言っても、たとえどんな病気がからんでいたとしても、自律神経系のメカニズムや耐性領域の問題は共通しているので、ある程度恩恵を受けられるとは思う。ガンにしても都会にいるより自然豊かなところのほうが進行が遅いだろうし、自己免疫疾患や外傷性脳損傷のような特殊な問題があったとしても、それに伴う耐性領域の狭さの問題には自然豊かな環境が役立つはずだ。

ただ、都会で育った人は幼少期に免疫寛容が獲得されていないため、本来なら問題ないはずの自然のなかの刺激に対してアレルギーなど過剰な反応を起こす可能性が高いのは懸念点として気をつけておきたいところ。

(2)あまり自然豊かな環境ではなかった場合
わりと多いケースだと思うのが、自分では自然豊かな場所に行ったつもりが、じつは大して自然豊かでもない環境だったので効果がないというタイプ。

わたしが今住んでいる場所は、都市にもかかわらず、家のまわりに畑や大きな公園が点在していて、それなりに緑の多い環境だと感じていた。だから、公園に散歩に行けば、自然を感じられると当初は考えていた。

ところが、SEのセラピーを受けて感覚を使えるようになってから公園に行ってみると、周囲の道路の騒音や街灯の明るさといった刺激があまりに多くて、まともに感覚を使える場所ではないとわかった。

それで北海道に行ってみたが、こんど引っ越し予定の田舎の町に行くまで耳栓を外せなかった。その辺境の町ですら、町の中心部の道路付近はうるさすぎたので、かなり森のほうまでいかないと耳栓を外せなかった。面白いことに、感覚を研ぎ澄ますことによって、町の中でも、どのあたりまでなら大丈夫でどのあたりからは危険か、といった感覚的な境界線を引くことができる。

たとえば、両方の場所の住所をグーグルマップで検索して、「航空写真」モードにして、同じ縮尺(できれば画面下のものさしが500m単位になるくらい)で比較してみると心底驚いた。わたしが住んでいた地域は、緑が多いと思っていたのに、航空写真で見ると、9割が人工物だった。他方、北海道のその町は、同じ縮尺の航空写真で見ると、9割が森だった。まったく正反対だった。

(以下の写真はわたしが実際に調べた住所ではなく、似た例としてスクショしたもの)

自分の考え、それも都会人の認知で、「自然が多い」と感じるのはまったくあてにならない。基準が麻痺しているので、正しく評価などできない。

それに対して、わたしのソマティックな身体感覚のほうは、都会の大きな公園(航空写真で見ればひどくちっぽけな公園)ではリラックスできず、北海道の辺境の森林地帯ではリラックスできたことからして、歪んだ認知とは裏腹に、まともに機能していたようだ。

(たとえ意識的な認知の上では麻痺しても、無意識下では感覚を感じ取っているという、さっき書いた騒音や睡眠不足やダマシオの研究を思い出してほしい。わたしたちの認知は麻痺しても身体は正確に環境に反応する)

(3)感覚を感じ取る能力が麻痺している
上の(2)とも関係するが、身体感覚(フェルトセンス)を感じ取る能力が麻痺しているなら、自分の必要な自然がどの程度のものなのかを判別することすらできず、自然の多いところがいいと聞いて行ってみたが意味がなかった、ということになりやすい。

自然の多いところに行っても、感覚が麻痺しているなら十分に恩恵は受けられない。前述のように、都市で生活してきた人の大半は、多かれ少なかれ、感覚が麻痺する解離が起こっている。

たとえば、ずっと騒音が当たり前の都市で暮らしている「代償は、耳を研ぎ澄ます方法を忘れる」ことだった。感覚が使えなくなってしまう、つまり切り離されて(解離して)しまう。

(2)のところに書いたように、たとえ気づく能力が麻痺している解離状態にあるとしても、無意識の身体は感覚に反応するので、確かにそれなりに自然に恩恵は受けられるはず。

しかし、このような解離が生じていると、たとえ自然が自分の身体によい影響を及ぼしたとしても、それに気づくすべがなくなってしまう。たとえばわたしはSEを始めるよりずっと前から、自然豊かなところに行ったときには自然の恩恵を受けていたはずだが、それに気づくことはなかった。

(わたしはずっと、慢性疲労症候群に対する自然の効果については否定派であり、友人の慢性疲労症候群患者が沖縄に数ヶ月休養に行ったら体調がよくなるという話を、完全にプラセボだと決めつけて鼻で笑っていたほどだった。わたしは慢性疲労症候群がトラウマと関係しているという話も、トラウマは精神的なものであるという誤った理解から頭ごなしに退けていた。しかし、専門的な知識が増えたことによって、また自分の感覚に耳を傾ける訓練を受けたことによって、これら2つの誤った態度を改めた)

しかし、SEなどの知識を得て、実際に自分の身体感覚に耳を傾けられるようになってみた今となっては、過去の自分の体験に違った意味を付することができる。

過去に若狭湾や西表島やモンゴルなどに旅行したとき、たしかに理由は不明ながら、それなりに元気に活動していた状況証拠がある。(たとえばモンゴルの郊外に行ったときは、健康な同行者たちではなく、すでに慢性疲労症候群を発症していたわたしが、なぜか亀岩に登ろうと言い出して、誰よりもそれを楽しんでいた)。またわたしの描く絵をみれば一目瞭然なように、わたしの心の風景、安心できる場所の理想像はいつも決まって自然豊かな情景だ。

こうして知識を得た今振り返ってみると、わたしの認知は確かに麻痺しきっていて、自然など健康に役立たないと考えていたのに、わたしの身体は間違いなく自然豊かな環境に反応し、よい影響を受けていたことがわかる。しかしわたしの認知はそれに気づいていなかったせいで、今に至るまで、自然豊かな場所に引っ越そうなどとは思いもしなかったわけだ。

これは、以前に書いたように、人間と自然の関係は、親子の愛着関係に似ているというあなたの子どもには自然が足りないのリチャード・ルーブの指摘に照らしてみるとわかりやすい。

たとえどれほどよい両親がいても、(子どものころ疎開していた、入院していたなどの理由で)不幸にも愛着関係を築けていなかったら、良い両親がいることの価値を理解できなくなってしまう。良い両親のおかげで確かに健康な暮らしができていても、両親にまったく感謝しない場合もあるだろう。

幸福な親子関係は、ただ良い親がいるだけでは成り立たず、子供の側に、親の愛を感じ取る神経学的機能(専門的に言えば、オキシトシン受容体や腹側迷走神経の働き)が育っていなければならない。

同様に、ただ豊かな自然があるだけではその恩恵を受けられず、わたしたちの側に自然の環境刺激を感じ取れる感性、たとえば鳥のさえずりや川のせせらぎを敏感に感知できるような能力が育っていなければならない。

そうでなければ、前に書いたレイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーの言葉のように、どれほど美しい星空でも「見ようと思えばほとんど毎晩見ることもできるために、おそらくは一度も見ることがない」かもしれない。(p31)

だから、ここで書いたことをまとめれば、自然の多いところに行っても病気に対して効果がないと言う人は、まったく異なるメカニズムの問題を抱えているケースもあるものの、大概はその程度の自然では足りないのに自然豊かだと思い込んでいるか、あるいは感覚が麻痺(解離)していて、感じ取る訓練から始めなければならないかのどちらかである、といえる。

また、以前に自然対ヒトの愛着関係について書いたときに触れたけれども、たとえば森で紛争を経験したような地域の人たちにはこの理屈は当てはまらない。その人たちの場合は、自然とトラウマ記憶が条件付けによって結びつき、いわば自然が虐待的な親のようになっているようなものなので、よほど違う環境に行かない限り自然の恩恵は受けられないかもしれない。

神は細部に宿らない

今回の滞在中は前回とは違って天候に恵まれたので、その後も毎日、あちこち探検し、自然豊かな環境を楽しみました。前回もそうでしたが、今回も日によっては、おそらく10km以上自転車でうろうろしていたと思います。

サイクリングに出かけ、森林や田園地帯をのんびりと走りながらガラナを飲むのひとときは、これが「経験する自己」の幸せか、と思うほど心地よいものでした。

(もちろんガラナはコーラと似たようなもので身体によい飲み物ではないから、控えなければならないのだけど、どうしてもたまには飲みたくなってしまう…。

腸と脳を読んでいたところ、小児期トラウマを経験させたラットでは、「脂肪分や糖分を多量に含むドリンク」などの「気晴らし食品」に依存するという結果が報告されていてびっくりした。

小児期トラウマを抱えるとラットであれ人間であれ情動調節の問題、つまり耐性領域の狭さによるコントロール障害を抱えるが、気晴らし食品は強い情動を抑えて、耐性領域にとどまるのを助けるらしい。

その結果、ストレスの度合いとコルチゾールの血中濃度が低い女性ほど、ストレスを受けたときに気晴らし食品を口にする習慣があると報告するケースが多く、また肥満度が高いことがわかった。これは、彼らが立てた仮説や、動物実験の結果と一致する。

他の説明も可能ではあるが、トミヤマらの説明によれば、ストレスを受けたときにつねに気晴らし食品を口にする女性は、ストレスに対抗する生理的な反応が鈍いということになる。(p238)

わたしの場合、肥満しているわけではないものの(肥満するかどうかはマイクロバイオームの構成による)、どうしてもストレスを感じると気晴らし食品を食べたいという欲求が強いことは自覚していたが、これは生理学的に理由のある現象だったということになる。

コルチゾール濃度が低いというのは、慢性疲労症候群の主要な特徴(うつ病と慢性疲労症候群は異なる病態だと言われる根拠のひとつ)であり、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するで説明しているように慢性トラウマや解離の特徴でもある。コルチゾールはストレス反応に終止符を打つためのホルモンでなので、それが低下するということは、慢性トラウマのもとでは終わらないストレス反応が生じていることを意味する。

たとえ自然豊かなところで気持ち良さを満喫したといっても、ついガラナを飲みたくなるというのは、悲しいことながら、わたしの神経系のプログラミングは変わっていないということの証拠のひとつだということだ。ともあれ、そんな短期間で変化するはずもないのだが。

しかしながらたとえそうであっても、このとき感じたような、ただそこにいることの幸せな感じ、つまり「経験する自己」の今ここの感覚における幸福感は、都会で気晴らし食品を食べたりしても到底得られないものだった)

別の日には、手入れされた森の中を少し散策して、キノコなどの植生を観察してみました。いろんな形のキノコがあるけれど、どういう名前なのか、まったくわからない。写真を撮っておいたところ、あとでツリガネタケ、カンバタケ、カワリハツなどだと教えてもらえました。聞いたこともない名前ばかり。まだまだ世界には知るべきことがいっぱいあります。

森の中で、ふと頭上を見上げると、樹冠の重なり合いが描き出すフラクタルな景色に思わずくらっと来て圧倒されそうになりました。これが森の国フィンランドで言われる森の美に圧倒されて我を忘れる体験「メトサンペイット」なのかなーと感じました。

まあわたしの場合はまだ感覚が解離されているので、圧倒されるまではいかないんですが、あれを繰り返していれば、そのうち正常な迷走神経の感受性を取り戻せるかもしれません。

また、今回の滞在中は、胃腸の凍りつきのほうはあまり改善しなかったんですが、森の中に30分くらいいると空腹感を少し感じられました。わたしと同じく小児期トラウマがあった太宰治が、自分は空腹という感覚がわからないと述べていたように、おそらく腸と脳をつなぐ迷走神経の感受性低下(解離)から来ている失体感症があるんでしょうが、自然の中にずっといることでそうした解離が解除される可能性があるように思えました。

いよいよ自宅に帰る最後の日は、交通手段の連絡が乏しいので、乗り換えのたびに1時間から2時間ほど待つことになりました。町外れの自然公園のなかに腰掛けて、ぼーとあたりを見つめて、虫の行動などを観察しながら、ふとダーウィンのこの言葉について考えていました。(脳のなかの天使から引用)。

創造という問題は深すぎて、人知の及ばないものだと感じています。犬がニュートンの精神を推論するのと同じようなものかもしれません。自分に何ができると願い、信じるかは各人にまかせようではありませんか。(p409)

私は、ほかの人たちのように明白には、またそう願うべきほどには、神の設計や慈悲がいたるところにあるという証拠を見ることができません。私には、世界にあまりに多くの不幸があるように思えます。

慈悲深い全能の神が、生きているイモムシの体内で彼らを養うというはっきりとした意図をもって、故意にヒメバチ[寄生バチ]を創造されたとはとても思えないのです。あるいは、ネズミをもてあそぶべくネコを創造されたとは……。

その一方で、このすばらしい宇宙を、とくに人間の本性を、すべて荒々しい力の結果とみなし、そう結論づけて満足することもできません。(p409)

このダーウィンの言葉は、わたしがこれまでずっと考えてきた宗教観に非常に近い内容です。わたしもこの宇宙全体を見るとき、これらがすべて何のプログラミングもなしに立ち現れたとは思えない。しかし、たとえば自然界の捕食作用などをみると、慈悲深い神の設計とは受け入れにくいものが多い。

ダーウィンは寄生バチに言及していますが、そのほかにも奇怪で残酷な生物界の現象はいろいろと観察されている。一般的な捕食にはじまり、さまざまな生物で観察される共食い、生まれると同時に母親を食い尽くす虫とか、アリをゾンビ化させる冬虫夏草とか。とくに寄生生物の分野には、おぞましい例がたくさんみられる。だから、「自然界を見れば、どこもかしこも神の愛があふれている」、といった意見にはわたしは同意できない。

しかしふとこの日の感じたのは、これは神の「愛」がどうのこうの、といった問題ではないのではないか、ということ。

ダーウィンは知らなかったけれども、今やわたしたちの身体の内部でも、マクロファージが細胞を食らうような(おそらくはグロテスクな)光景が日夜限りなく繰り広げられていることが知られている。また、ダーウィンは寄生生物の奇怪な生存戦略に嫌悪感を感じたが、そもそもわたしたちは自分の細胞の総数をはるかに上回る多様な腸内細菌叢によって寄生されている生き物だと今ではわかっている。

こうしてミクロの世界では、わたしたちの内部でさえ、捕食と寄生が繰り返されているわけだけれど、わたしたち人間は、それを残酷だとか愛がないとかいって戸惑うことはない。どれほど感受性豊かな人でもミクロの細胞や細菌を擬人化して感情移入したりはしないから。

そういえば、身体はトラウマを記録するにも書かれているように、「今日多くの科学者が、ダーウィンは動物を擬人化していると非難」しているけれども、この場合も、ダーウィンは不必要な擬人化によって困惑していたように思う。(前回も少し触れたが、ダーウィンはとても感受性豊かな人であり、それゆえに解離しやすく慢性疲労症候群になってしまったのだろう)

わたしたち人間がミクロの世界の捕食や寄生に対して嫌悪感を持たず、それらを精巧な相互作用だとみなすのであれば、ましてやはるかマクロな神の立場からすれば、感情基盤を持たない昆虫の動態などを擬人化しているはずはなく、そこに慈愛を反映させるはずもないだろう。

ダーウィンは旧来の伝統的なキリスト教の世界で育ったがために、人間の見地から人間的な「神」なるものを想定し、それがいるのか、いないのか、自己問答を繰り返し、独り相撲を取っていたように思える。ダーウィンは動物や虫を擬人化してしまっていたように「神」をも擬人化してしまっていた。

ダーウィンは、人が神について考えるのは、「犬がニュートンの精神を推論するのと同じようなもの」だと述べてはいるが、犬と人間の関係ではあまりに似通いすぎている。人が犬を容易に擬人化できるように、人は神を容易に擬人化して、自分と同等の考え方をする者としてイメージしてしまう。

しかしもしこの世界を設計した神がいるなら、せめて「腸内細菌がニュートンの精神を推論するのと同じようなもの」だと言うべきであり、実際には、その表現でさえも適切でないほどの次元の隔たりがあるのではないか?

わたしがいつも思っているのは、この世界はマインクラフトの内部だということ。もし、マインクラフトの内部のデータにすぎないキャラクターが意識をもったとして、その人物がマインクラフトを作った設計者を把握するのは可能なのだろうか。

マインクラフトの内部の世界は、すべてその世界の設計者が定めたプログラミングの法則に縛られている。たとえマインクラフトの内部の人物が意識を持つとしても、意識は肉体(つまりマインクラフト内のデータ)から生じている以上、プログラミングが想定している範囲を超えて思考することはできない。ダマシオの理論が示しているように、わたしたちの思考も肉体という素材を上回ることはできない。想像の翼は無限だというのは幻想である。

一方、マインクラフトの製作者は自分が作ったプログラミングの範囲をはるかに超えた別の世界に生きている。ちょうどゲームとしてのマインクラフトの内部の世界のプログラムが、わたしたちの現実世界のプログラムとはまったく異なっていて、ゲームの内部の世界の法則から、ゲームの外部の世界を推測することが不可能なように。

ゲームの内部の情報しかなければ、外部の世界は想像できないというか、まったく思考の指一本さえ触れることはできないほど、次元が違いすぎる。それこそ、腸内細菌が、ニュートンとは何者か想像することすらできず、そうするための概念からして存在しないように。

しかし、わたしたちの身の回りの世界は、全体としての機能を見れば、異様な精巧に統合されていて、破綻がみられない。ダーウィンが言うように、人間目線で細部に注目すれば、「世界にあまりに多くの不幸があるように思え」る一方で、この世界全体を(わたしたちに可能な範囲のマクロな視点で)観察すれば、「このすばらしい宇宙を、とくに人間の本性を、すべて荒々しい力の結果とみなし、そう結論づけて満足することもでき」ないと感じる。

というより、この世界全体の構造を見れば、背後に高度な(という言葉では表現できないほど高度な)プログラミングがあることは否定できないように思う。 神は数学者か?に書かれているように、慈悲深い神がいるかどうかではなく、数学的なプログラマーとしての神がいるかを議論している数学者たちのなかに、そうした「神」を信じる人が少なくないのは、わたしとしても理にかなったことに思える。

(この世界に周到なプログラミングが存在するのは、果てしない偶然の結果だという人も少なからずいる。マルチバース理論や人間原理的宇宙論によれば、数え尽くせない量の失敗した宇宙があった中で、たまたまわたしたちは成功し安定した宇宙にいるにすぎない、ということになる。しかしもし多元世界があるなら、この世界の法則はもっと複雑化している可能性が高いだろうし、そもそも無限の試行回数をこなしたとしても、完全に0%の成功確率の事象であれば、どれほど繰り返しても、単なる偶然からは周到なプログラミングは生まれないと思う)

そもそも、わたしがトラウマ治療をしようとしているのも、このような「神」や背後のプログラミングなくしてはありえないことで、根底を貫く揺るぎない法則があるからこそ、そこに期待をかけることができる。

SEの開発者であるピーター・ラヴィーンはダーウィン的進化論の信奉者であり、徹底的に理論を重んじる科学者だが、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で次のようにも書いている。

正直に言うと、私がこれまでに立ち会った癒しの奇跡の数々は、否定しがたいより高次の叡智と秩序の表れそのものなのです。宇宙に秩序をもたらす本質的な自然の叡智が存在するといったほうがいいかもしれません。

それはどんな個人の歴史よりもはるかに強力なものです。有機体はこうした法則に従い、想像可能な最もおぞましい体験の中さえも通り抜けていきます。もし宇宙に神や叡智や虎がいなければ、こんなことがどうして起こり得るのでしょう。

トラウマ反応を克服した人はしばしば、その後の自分の生活には動物的な側面とスピリチュアルな側面の両方が存在すると話します。彼らはより自然になり、健全な自己主張や喜びを表現することへの抵抗が少なくなります。

彼らは自分が動物であるという体験に共感しやすくなると同時に、自分がさらに人間らしくなったと感じます。トラウマが変容するとき、癒しが与えてくれる贈り物のひとつは、命に対する子どものような畏敬の念です。(p246)

脳科学的な研究で示されているように、スピリチュアルな宗教体験によって活性化する脳の部位とトラウマ性解離に関係している脳の部位は同一のもの。(頭頂・側頭接合部や島皮質など)。また、宗教的畏怖の念に関係しているのも、解離に関係しているのも迷走神経系ということでやはり同じ。

解離とは、これらの感受性が低下する現象なので、必然的に解離が悪化すると、(わたしがそうであるように)不可知論的な傾向が強くなり、何一つ確かなものはないという疑いが強くなる。

対して、解離とは逆の位置にある島皮質の活性状態にある人たちは、なんでもすぐに信じる傾向に陥り、証拠がないのに神を信じ、盲信しやすい。(盲目的で熱心な宗教家にはゴッホがそうだったように側頭葉てんかんや偏頭痛などの恍惚発作がみられやすい)

ずっと以前にも引用した覚えがあるけれども、私はすでに死んでいるによると、島皮質による感覚統合の度合いによって、わたしたちの認識は次のように変化する。

2006年、マーティン・ポーラスとマリー・スタインの二人は、慢性不安は前部島皮質が機能不全を起こし、通常より予測エラーが増えることが原因だとする説を発表した。

それと正反対のことが起きているのが恍惚発作かもしれないとピカールは考える。前部島皮質に電気の嵐が発生して誤作動を起こし、予測エラーがほとんど、あるいはまったく出なくなった状態だ。そのため世界に問題は何ひとつなく、すべてが理解できるという絶対的な確信感が生じるのである。

この前部島皮質説はかなり有効だとアニル・セスは言う。「現象学的に考えると、恍惚発作は慢性不安の対極です。恍惚発作ではすべてが完璧であり、平穏な確信に満ちているのに対し、慢性不安は身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめきを覚えるのです」(p292)

トラウマ治療というのは、島皮質の活性が低下した解離のシャットダウンを解除して、島皮質を活性化させることなので、トラウマから回復するにつれ、そして様々な身体症状から回復するにつれ、「あらゆることに不穏なざわめきを覚える」状態から「世界に問題は何ひとつなく、すべてが理解できるという絶対的な確信感」に近い状態まで変容することになる。

言い換えれば、トラウマ性解離とは、統合されたこの世界全体から切り離された孤独な状態、何もうまくいかない惨めな状態であり、トラウマからの癒やしとは、その統合された全体と一体となるような、人によっては神に癒やされたとか、神と一体になったとかいう感覚を伴う経験だということになる。

脳機能のメカニズムからすれば、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマで述べるように、トラウマ治療によって「現存する発達プロセスや訓練の一部として、人間を偉大な存在へと引き寄せ、しばしば神や魂や霊に関連する数多くの経験に触れさせる」ような変化を経験するというのは容易に想像できる。(p422)

もっともその背後には、感覚を統合する島皮質の活性化があるので、これは正確にはスピリチュアルな体験ではなく感覚の統合状態の変化にすぎないのだが、統合されるとはつまりそういうことなのだろう。

この切り離されてバラバラになった解離状態は神からの断絶を、世界とひとつになった統合状態は神との一致を意味するというのは、おそらく古来から人類社会とあらゆる宗教の根底を流れる法則性だと思う。

基本的に人は神を信じるとき、何かの細部をとことんまで調べつくして確信するわけではない。神を信じる人のほとんどは何らかのきっかけで、ただ「神はいる」という確信に満たされる。あるいはトランス的な儀式や集まって歌を歌うことなども信仰を強める。これらはいずれも島皮質の活性化をもたらし、コミュニティ全体ひいては自然界すべてとの一体感を強めるものだ。

他方、無神論が登場・浸透してきた時期、ダーウィンの進化論が登場した時期などは、すべて、産業革命後の都市化の時期、つまり人間が自然界から切り離されて、解離傾向が強くなり始めた時期と一致する。そして近年、慢性疲労症候群や自閉症、小児期トラウマなど、強い解離傾向を特色とする病気が増えるとともに、いっそう先進国の無神論化は加速しているように思う。少なくとも、宗教が以前のように敬われている国はほとんどない。

つまり、人間が自然界と一体であるかのような、ひとつに統合された全体を感じ取る感覚を失い、細部に分断され、細切れに切り離された解離傾向を強めるとともに、宗教や畏敬の念は衰退してきたということになる。

ということはおそらく、「神は細部に宿る」という昔ながらの格言は正しくないのだ。昔から、科学者などが神の存在を証明しようとするとき、自然界の細部はこうこう素晴らしく設計されているので、この世界を創造した神がいるのです、というような論法がされてきたため、反論する人たちはこの考え方を批判するようになった。まだ科学的にわかっていない細部を神のおかげだと解釈しているだけにすぎないと。

しかし、古代の人たちは、だれも細部をわざわざ調べて神を信じようなどとしておらず、みなただ感覚的に神はいると漠然と感じ取っていたのだ。むしろ、科学が細分化し、人々が自然界の全体を見ることができなくなればなるほど、つまり細部の研究が進むほど、世界は無味乾燥な断片に切り離され、人々は神を信じなくなっていった。

だから、本当は「神は細部に宿る」ではなく、「神は全体に宿る」なのだと思う。ダーウィンの言葉がはっきりと示唆してるとおり、自然界の細部(たとえば寄生バチの習性など)を調べれば調べるほど、神がいるという感覚に疑問がさしはさまれるが、この宇宙の見事に統合された性質を全体としてみると、偶然とは思えない、という結論に達する。

これは、わたしの絵を描く趣味からしても妥当性のある考え方に思える。何かの絵を見るとき、細部をいくら拡大しても、この絵には間違いなく作者がいるなどという確信は深まらないが、絵の全体をひと目に収め、その均整の取れた全体像を見れば、作者がいることは一目瞭然だからだ。細部だけが描き込まれた不釣り合いな絵は盲目的な偶然の産物かもしれないが、全体が見事に調和した絵は意図的に創作されたものではないだろうか。

わたしとしても、自然界全体をできるだけ広い見地から俯瞰するとき、ダーウィンと同様、人知をはるかに超えたプログラミングのようなものを感じる。もちろんこの世界のシステムは自己組織化によって成り立っているが、その極めて高度な自己組織化の根底にあるプログラムを入力したのは誰なのか、ということに科学者は答えていない。

少なくとも、人間のレベルでとらえられるような、神話で描かれるような世俗的な「神」は存在しない。言い換えれば、わたしたちと同じ次元の世界の中に住む「神」はいない。けれども、作られた世界の外側となると話は別だ。わたしたちは作られた箱庭の中にいるので、その法則性の外部にいる何者かを認識したり定義したりすることについては、人知をはるかに超えている、と言わざるを得ない。

…と、そんなことを北海道から帰宅する最後の日、待ち時間にぼーっと地面の虫の動きを眺めていて思ったのでした。そうこうしているうちにバスの時間になって、名残惜しくも滞在地を後にすることになりました。三度目に来るときは、ぜひとも一時的な旅行者ではなく移住者としてやってきたいと思いながら。

旭川でもまたしばらく待ち時間があったので、旭川駅の裏の自然公園でゆったりと過ごしていました。さすがに都市のまっただ中の公園なので、騒音などはいくらか気になりますが、ビルなどがほとんど視界に入らない雄大な景色はすばらしいですね。

帰りは、待ち時間も含めて、12時間ほどの旅でした。自宅につくころには、足もくたくたでした。向こうにいるときは、あれほど歩きまわってもほとんど問題なかったのに、前回の旅行の際も今回の旅行の際も、旅行から帰ってきた日は足を痛めてしまいました。

揺り戻し、そして引っ越し

こちらに帰宅してからは、2ヶ月前と同じく、ひどい揺り戻しに悩まされました。ここしばらく更新がとどこおっていたのはそのためで、再びこちらの環境に慣れるまで、前回と同じく2から3週間を要しました。

ここ数年、足の筋肉がひきつって線維筋痛症様の痛みが現れることに悩まされていましたが、帰ってきてからは腕にも同様の痛みが出て、本格的に線維筋痛症らしくなりました。慢性疲労だけなら、死んだような擬態死状態になるだけですが、痛みが伴うと、おちおち寝ていることもできず、死にたいという切迫感に襲われます。

線維筋痛症の人は痛みをまぎらわすために活動的になりますが、根底に慢性疲労があるとエネルギーが枯渇しているので動くこともできず、疲れ果てて眠りたいのに痛くて苦しいという、ダブルバインド状態になります。

慢性疲労症候群から線維筋痛症に移行するというのは、完全に背側迷走神経優位の擬態死状態から、背側迷走神経と交感神経が綱引きをする凍りつき状態に移行しているということなので、感受性が回復したことに裏返しだといえます。

北海道で自分の感覚を鋭敏化させて自然を感じ取っていた状態のまま、スイッチ切り替えができずにこちらに帰ってきたせいで、雑多な刺激を一身に受けてしまうんでしょう。こちらの環境に慣れて、また適度に解離した擬態死状態に移行するまでにニ、三週間かかったということです。

前回帰宅したときは、ひどい体調不良や虚無感に襲われて気が狂いそうでしたが、今回も似たような感じでした。もし身体が慣れてくれなければ本当に気が狂うでしょう。だからやっぱり「解離」という現象は保護作用なのです。自分では到底耐えられない慢性ストレスのなかで気が狂わないために、解離によって麻痺するようになっているんでしょう。

幸い、今回は、前回の経験があるので、比較的うまく対処できました。いずれは過ぎ去る嵐であり、解離の効果が元にもどるまでの辛抱だとわかっていたので、ひたすら寝たりゲームしたりして何とかしのぎました。はっきり言って、寝たりゲームしたりするにしても、無理やり頑張らないと何も手につかないくらいの恐慌でしたが、何とか耐え抜けてよかったです。自分の身に起こっていることを科学的に理解しているかどうかは本当に大切です。

そして、この数週間のあいだ、わたしが恐慌を来たして悶え苦しんでいるあいだに、嬉しいことに、旅行中に手配していた住宅に当選し、引越し先の住所が決定しました。晴れて来月には北海道に引っ越すことになりそうです。

「嬉しいことに」とは書いたものの、半分は不安でいっぱいです。ここまで徹底的に考察してきたつもりではあるけれど、最近読んでいた知ってるつもり――無知の科学という本にさんざん書かれていたように、人間の「わかった」はまったく当てにならず、わかったつもりが盛大に間違っていることなんてざらだからです。

だけど、それでも、たとえ間違っていたにしても、動いてみないことには、実験してみないことには何も始まりません。もしこの一手が間違いだったとしても、必ずたくさんの身体的な経験、ソマティックなエクスペリエンスは得られます。その経験値なくしてはレベルアップできないし、レベルアップしないことにはわからないことはたくさんある。だからいまは、この新しい経験に向けて、積極的にアプローチしていきたいです。

次回は引っ越し前の最後のSEセラピーや、主治医の診察、またオプトメトリーの検査について書くつもりです。

前回の記事で、次回に書きたいと言っていた夢と島皮質の理解の訂正の話はまだ考えがまとまっていないので、どこか別の記事で書くかも。書きたいことがまた大量にたまっているのに、体力がなく、下書きの記事ばかり増えて困ったことに。このあたりの混乱をいつか解消できたらいいんですが一生無理だろうか。

続きはこちら。

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Categories: 5章。2018.09.30