北海道への引っ越しを挟んでのセラピー体験記第二期14回目。前回は、東京でのセラピーの総括や、新しくプリズム入りメガネを購入したことなどを書きました。
今回の14回目では、まずわたしの眼球運動障害について、またプリズム入りメガネに変えたことの感想、そしてそれに関連して、おそらくは眼球運動異常と迷走神経の凍りつき/麻痺反応が関連しているということなどを書きたいと思います。考えていたことを前部書ききれなかったので、次回の最終回の記事との前後編のような関係になる予定です。
ここ一週間ほど引っ越しでバタバタしているだけでなく、環境が変化した恩恵か、以前では考えられないほど活発に動いているので、記事内容が遅れていますが、今回と次回の内容は、引っ越し前の今月(10月)はじめごろの考察です。
もくじ
外斜位についてのこれまでの経緯
まず、前回の最後に書いていた外斜視対策のプリズム入りメガネの感想について。
外斜視については、過去の体験記のどこかに書いていたような気がしていたんですが、検索した感じではどうも書き忘れていたようなので、その経緯の説明から。
もともとアーレンシンドロームの光過敏でフィッティングして、遮光レンズのメガネを作ることにしたんですが、オプトメトリー(検眼学)を専門とするメガネ屋さんでレンズを加工してもらったところ、両眼視機能検査も受けてみるように言われました。
検査したところ、光過敏とは別に、「外斜位」、「疑似老眼」、そしていくらか「近視」があることが発覚。メガネなしでも0.8から1.0ぐらいの視力はあるので、ふだんは問題なく感じていましたし、通常の眼科検診でも異常はないんですが、オプトメトリーの検査を受ければ、こうした異常が見つかるケースはよくあります。このなかで特に問題となるのは、「外斜位」。
外見上からでもわかりやすい斜視と違って、「斜位」は、パット見は問題なさそうに見えてしまう眼球運動障害です。 発達障害の子どもの視知覚認識問題への対処法で説明されているとおり、自分の眼筋で無理やり視線をあわせることができてしまうタイプの斜視。
斜視以外にも両眼視に問題が起こることがあります。目が内側や外側、時には上を向きがちなものの、自分で両眼の視線をそろえることができる状態を、斜位と呼びます。
片眼を隠した場合、隠された眼が内側に向く(内斜位)、外側に向く(外斜位)、上また下に向く(上下斜位)などがあります。これらの斜位の程度が強く不快感がある場合は問題になります。(p29)
説明されているように、斜位がある人は、片目を隠していったん視線を遮ってみると、左右の視線がずれて、隠されたほうの目があさっての方向を向くのが観察されます。説明としては、こちらのページが非常にわかりやすいのでおすすめ。
眼位・眼球運動・両眼視機能について / ビジョンケア[Hattori Opticians inc. メガネの服部]
本当は視線がそろっていないにもかかわらず、眼筋で無理に視線をあわせているわけなので、当然、目が疲れます。わたしは昔から眼精疲労が強く、ドライアイやら軽い遠視やら光過敏を疑っていましたが、最終的には、おそらく外斜位がかなり大きなウェイトを占めていたのだという結論に今のところ至っています。(まだ未知の原因があるかもしれませんが)
外斜位はうまく両目を協調運動させられない輻輳(ふくそう)不全と関係していますが、スーザン・バリーの視覚はよみがえる 三次元のクオリアに書かれているように、輻輳不全の結果として、あたかもADHDやディスレクシアなど発達障害のような行動異常がみられる場合があります。
何年ものあいだ医者の診断や学校の検査で見過ごされてきたあとで、ミシェルはようやく、エリックの問題が輻輳不全と呼ばれる視覚障害から生じていることを知った。
さほど珍しい事例ではないのに、難読症と誤診されることがよくある障害だ。エリックは遠くを見るときにはちゃんと目を動かせるが、近くを見るときには動かせない。対象物が顔に近づくと、立体視を放棄してしまう。…しかも、当の子どもはたいてい、自分に視覚上の問題があることに気づいていない。
…当然の話だが、文章を読むのが人より大変であることに気づいておらず、結果として学校の成績が悪くなると、エリックのように行動上の問題を生じる場合がある。(p70-71)
わたしのADHDっぽさや部分的な難読症も、かなりこの輻輳不全から来ていたようです。おそらく、ここ日本では検眼学が普及していないがため、視覚機能障害でありながら、発達障害と誤診されている例が非常に多いと思われる。
そういえば、わたしは昔、ステレオグラム(二つの画像を両目それぞれで見ることで立体的に見えるもの)をやってみたとき、左右の画像を右目と左目で別々に見る平衡立体視はラクラクとできたのに、左右の画像をそれぞれ逆側の目でクロスして見る交差立体視はできませんでした。いまだに交差立体視はできないのに対し、平衡立体視のほうは、やっているととても目が楽で疲れが取れるような気がします。
この理由については、オプトメトリーに出会うまであまり考えてみることもなくただの個人差だと考えていたんですが、じつはすごく重要なことだった。わたしは外斜視の輻輳不全(つまり目が外側に寄りがちで内側に寄せにくい)のため寄り目ができないだけでなく、対象に焦点をあわせるのすら眼筋を使って常に疲労していた。
だから、対象に焦点をあわせる必要のない、両目それぞれでまっすぐ前方を見つめる無限遠方向の平衡視をやっているときは、眼筋を使わないでいいので、目がとてもリラックスする感覚があった、ということでしょう。
こうした自分の身体の繊細な感覚を意識して、なぜある状況では緊張し、なぜ別の状況ではリラックスするのか、その理由を探し求めることが大切ですね。何事にも理由はあるものです。
しかし、二年前の時点では、フィッティングされたプリズム入りメガネを試着しても、ごく短時間だったので、それほど見え方が変わるようには思えませんでした。そのときはアーレンシンドロームの遮光レンズに頭が行っていたので、メガネ屋さんとも話をして、とりあえずまずは光過敏に対処する、ということになりました。その時点では、自分に外斜位があることは認識していながらも、それほど大きな問題だとは思っていませんでした。
しかし今回、北海道の遠方に引っ越すということで、後顧の憂いのないように、外斜位への対応も済ませてしまおう、と考えて、プリズム入りメガネを作ることにしました。
光過敏についてわかってきたこと
メガネ屋さんが言うには、前回にメガネを作ったときから2年が経過し、その間に、(もしかするとわたしのブログの効果もあってか?笑)アーレンシンドロームの症例がかなり増えたそうで、新たにわかってきた事実があるとのこと。
二年前の時点では、アーレンシンドロームの人になぜか外斜位の人が多い、ということまではわかっていたんですが、フィッティングを繰り返すうち、プリズム入りメガネで外斜位を補正すると、光過敏のほうの問題も劇的に軽減される例が多いことが明らかになったようです。
わかってきたことを箇条書きすると、
- アーレンシンドロームには(二年前のわたしの直観的な推理どおり)2タイプいるらしい。
- 1つ目のタイプは、外斜位を合併している光過敏で、外斜位のほうをプリズム入りメガネで補正すると、なぜか光過敏がかなり和らぎ、色の薄い色つきレンズで事足りるようになるとのこと。おそらくこちらはHSPタイプで、ADHDと誤診されやすい。
- 2つ目のタイプは、自閉スペクトラム症タイプで、光過敏以外に、さまざまな感覚統合障害をあわせ持っている。こちらはコミュニケーションの時点からすでに問題を抱えており、プリズム入りメガネなどでほとんど軽減されず、遮光レンズを使うしかないとのこと。
- この2種類のタイプは、昔わたしが書いたように、感覚過敏の原因からして違うと思われる。HSPタイプは、感覚のフィルターの目が細かいことに例えられ、自閉スペクトラム症タイプは、感覚のフィルターが決壊してやぶれていることに例えられる。(ただし、今のわたしの意見としては、HSPと自閉スペクトラム症という分け方、特に「発達障害」という商業化された概念には大いに疑問を感じる。両者が異なるのは明らかだが、おそらく「発達障害」のような旧来の医学的概念は、問題の本質を取り違えているような気がする)
- 1つ目のタイプは、外斜位を合併している光過敏で、外斜位のほうをプリズム入りメガネで補正すると、なぜか光過敏がかなり和らぎ、色の薄い色つきレンズで事足りるようになるとのこと。おそらくこちらはHSPタイプで、ADHDと誤診されやすい。
- 前者の外斜位を合併している光過敏のタイプは、年齢が若ければ若いほどプリズム入りメガネへの反応がよく、必要な色付きレンズの色も薄くなりやすい。これは、脳の可塑性が関連しているためであろう。若い時期のほうが、脳の可塑性が高く、新しい目の使い方を柔軟に習得しやすい。
- おそらく、HSPは敏感また繊細、空気を読みすぎると言われることからわかるように「脳の可塑性が強すぎる人たち」であり、自閉症は融通が利かない、こだわりが強い、変化を嫌うという特徴からわかるように「脳の可塑性が弱い人たち」なので、HSPタイプのほうが反応性がよいのは不思議ではない。
- この脳の可塑性の違いは、感覚処理の違いから来ているように思える。感覚に適度に敏感な人たち(HSP)は、小さな刺激を感じ取る島皮質の活性が強くなりやすく、小さな刺激も感知できるように発達していく。他方、あまりに刺激が強い人たち(自閉症)は、神経系をシャットダウンして感覚を麻痺させることで対処する。
- 13回目の体験記でも引用したが、脳はいかに治癒をもたらすかにはモーシェ・フェルデンクライスの次のような言葉が載せられている。
「鉄の棒を持っているときには、ハエがそこに止まったのか、そこから飛び立ったのかの違いを感じることはできない。しかし持っているのが羽なら、その違いを感じられるはずだ。それと同じことは、聴覚、視覚、嗅覚、味覚、温度に対する感覚など、あらゆる感覚に当てはまる」。- HSPの人たちは、小さな刺激に繰り返しさらされるがために神経系が敏感に発達するのに対し、自閉症の人たちは、あまりに大きな刺激にさらされるために常時シャットダウン状態になるのではないだろうか。かたや柔らかい繊細な羽根に近く、かたや衝撃がガンガン響く鉄の棒に近い。
- 言い換えれば、HSPの人たちは繰り返される小さな刺激に警戒するようになり「闘争・逃走反応」を起こしやすくなり、時折、「凍りつき」を起こす。しかし自閉症の人たちは、限度を超えた刺激にさらされるせいで、常時「凍りつき・麻痺」に陥るのではないか。彼らはコミュニケーション不全を抱えているのではなく、あまりに大きな刺激に耐えられないがため、外界をそして自らの感受性をシャットダウンしてしまっているのだ。その結果として、刺激に柔軟に反応できなくなり、脳の可塑性を引き出すこともできない。
- HSPの人たちは、小さな刺激に繰り返しさらされるがために神経系が敏感に発達するのに対し、自閉症の人たちは、あまりに大きな刺激にさらされるために常時シャットダウン状態になるのではないだろうか。かたや柔らかい繊細な羽根に近く、かたや衝撃がガンガン響く鉄の棒に近い。
- おそらく、HSPは敏感また繊細、空気を読みすぎると言われることからわかるように「脳の可塑性が強すぎる人たち」であり、自閉症は融通が利かない、こだわりが強い、変化を嫌うという特徴からわかるように「脳の可塑性が弱い人たち」なので、HSPタイプのほうが反応性がよいのは不思議ではない。
- ちなみにわたしはというと、かなり脳の可塑性の強いタイプだと思っている。絵であれ音楽であれ、新しい概念であれ、昔からやたらと呑み込みが早いと言われる。可塑性が強いというのは、言い換えれば、良くも悪くも環境要素に強く反応しやすく、環境という“指”によっていとも簡単に脳がこねられて組み替えられてしまうことを意味する。
- そのせいで、刺激の多い劣悪な環境(都会など)にいると、そのあおりをもろに受けてしまうが、望ましい環境に行けば、すぐにその恩恵を吸収し始めると思われる。わたしのこの特性が、移転を決意した理由のひとつといえる。だからおそらく、プリズム入りメガネに適応するのも早いし、色の濃いメガネも、わりとすぐに必要なくなるはずだ。
- そのせいで、刺激の多い劣悪な環境(都会など)にいると、そのあおりをもろに受けてしまうが、望ましい環境に行けば、すぐにその恩恵を吸収し始めると思われる。わたしのこの特性が、移転を決意した理由のひとつといえる。だからおそらく、プリズム入りメガネに適応するのも早いし、色の濃いメガネも、わりとすぐに必要なくなるはずだ。
- なぜ、外斜位(つまり眼球運動)を補正してやれば、光過敏という色の認知が変化するのか、確かな理由はわかっていない。ひとつ考えられる仮説を挙げておく。とりわけHSPの過敏性の場合、問題は感覚器の反応ではなく「情動」の強さにある。(これについては、7回目の体験記で、神経科学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説から説明した)。情動の強さは、身体にかかる負担で変化する。疲れているときや眠いときはもちろん強い情動にさらされやすい。(だから睡眠不足の子どもや虐待されている子どもは、情動に敏感になって過敏に反応してしまうのでADHDのように見える)。わたしの場合のようなHSPの光過敏が、実際には光そのものの過敏性から来ているわけではなく、目に負担がかかっているがためにささいな刺激を脅威とみなしてしまい、より強い情動が生まれることによるのだとすれば、プリズム入りメガネで目の負担が減れば、全体的な過敏性が低下し、光にも敏感な反応しなくなるというのは、それほど変なことではない。
- ただし、この説だと、前回の最後に書いたような、プリズム入りメガネをかけた瞬間に、色認知が変化しているように思われる点については十分に説明できないように思う。一瞬にして緊張がほぐれ、強い情動が和らぐのだろうか? それとももっと複雑な理由が関係していて、例えば左右の目の像を合成する経路の負担が減れば、明るさを感知する回路の負担も減る、というような現象が起こってるのだろうか? このあたりについては、今後も知識が増えればわかるようになるかもしれない。
以上が、メガネ屋さんと話しあったこと、およびそこから推測したことのメモです。わたしは脳の視覚処理については詳しくないので、たいした考察はできませんが。
このようなわけで、どうもアーレンシンドロームと診断された人の場合、両眼視機能検査で斜位が見つかれば、光過敏そのものに対処するより、両眼視機能異常に対処したほうがいいぞ、ということがわかってきたとのことでした。
そこで、わたしもそうなることを期待して、今までのレンズ色より格段に薄い色つきの、プリズム入りで、偏光レンズのメガネを作ってみることに。
まず改めて両眼視機能検査を受けて、プリズムの強度をフィッティングしてもらい、それをかけて店内や前の道路を歩いてみました。すると、いつもと凹凸の見え方が変わるため、思わず足を踏み出すのが怖く感じたり。けれども、使っているうちに慣れるだろう、との感触もありました。メガネ屋さんによれば、最初は情報量が増えるので疲れるかもしれないとのこと。
偏光レンズについては、例えばTALEXのいわゆる“抗疲労レンズ”などがあり、乱反射をカットすることで視界を見やすく、目の疲れを軽減することが知られています。二年前に話を聞いた時点では、アーレンシンドロームの当事者は効果を実感できない人が多い、とのことでわたしもそうだったんですが、今回はプリズム入りメガネを試すとのことで健常者の見え方に近くなるのかもしれないと考えて、試しに偏光レンズを入れてもらうことにしました。
レンズの色は何種類か作って、マグネット式で重ねられるタイプにしました。もともとの薄めのグレーのレンズの上に、もう少し濃いグレーのレンズ、あるいは、雪道用のコントラストを強化する赤みがかったレンズを重ね装着できるような仕様に。(後で北海道に引っ越してから使ってみたけれど、背景が白っぽい日は本当によく見える。雪国の人たちに特に評判いいらしい)
価格はわりと張りましたが、こういう常に使うものについてはお金をかける主義なので(笑) 疲れを軽減するものに投資すれば、創造性や体力が向上するので、より仕事がはかどってコスト回収できるという考え方です。
プリズムメガネの感想―遠くを見る人
注文から二週間くらい経って完成品が届きました。
届いたプリズム入りメガネを装着してみたところ、まず見え方が不思議の国のアリスすぎてびっくり。床が斜めに傾いて見えたり、平面なはずのテーブルの中央が(相対性理論の重力場の図のように)ぼこっと凹んで見えたり。特に、近くのものを見ていると、奇妙なゆがみが強く感じられました。
しかし一方で、遠くの景色を見ると、今までよりもすっきりと見える感覚があり、いつもの色の濃い遮光レンズでもないのに、明るさが気にならなく感じました。驚いたのは、窓の外の道路向かいに生えている並木など、かなり遠めの風景が、しっかり立体的に見えること。基本的に人の両目の間隔からすれば、立体的に浮き出て見えるのは近くの身の回りだけで、窓の外の向こうの風景などとなれば平面的に見えるものだと思いこんでいたんですが、本来はもっと立体的なんですね。
以前の記事でも引用しましたが、オリヴァー・サックスが心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界 のなかで次のように書いていたのを思い出しました。
平面に3次元の幻影をつくりだそうとする写真家や映画カメラマンは、よりよい構図で画像を構成するために、意図的に自分の両眼視と立体視を捨てて、視界を片目と一枚のレンズに制限する必要がある。
2004年、ハーバード大学の神経生物学者、マーガレット・リヴィングストンとベヴィル・コンウェイは、《ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン》誌への投稿で、レンブラントの自画像を調べた結果、この画家は外斜視がひどくて立体視覚がなかったが、「一部の画家にとって、立体視ができないことは障害ではない―そして財産でさえある―かもしれない」と提唱した。
その後、ほかの芸術家の写真を検討して、デ・クーニング、ジョーンズ、ステラ、ピカソ、コールダー、シャガール、ホッパー、ホーマーなど、やはり重度の斜視で、おそらく立体視障害があった人がかなりいるようだと述べている。(p168)
空間の風景を平面のキャンバスに表象できる画家たちは、立体視に無意識の困難を抱えていたのではないか、とするこの説明。わたしの場合も、子どものころから立体視が苦手なことがかえって、2次元的な創作をやりやすくしていたのでしょうか。一方で、包丁を扱うのが苦手だったり、図工でわりと不器用だったりしたのは、平面を扱うのは得意なのに対し立体は認知しにくかったためでしょうか。
別の記事で書いたように、どうやら脳の処理においても、線(二次元)を重視するか、面(立体)を重視するかといった機能は競合しているようで、どちらかが得意だと、もう一方は苦手になりやすいようです。
上記の画家たちの中にはピカソをはじめ、現代なら発達障害とくくられるような人たちがそこそこいるわけですが、この場合も、視覚認知の特徴が、彼らの発達障害らしさを生み出していたのかもしれません。おそらく「発達障害」と言われているものの原因はかなり多様であり、本来は原因も症状も違うものをごった煮にして一括りにしてしまっている雑な概念であるように思えます。
プリズム入りメガネの見え方は、5分か10分ほどもかけていればすぐに慣れてきて、ちょうど友人を駅まで送る用事があったので試してみることに。外に出て遠くを見ていれば、室内で感じたような歪みもまったく生じず、むしろ並木道などの景色が立体的で、見やすく感じました。そのまま自転車に乗っても何ら問題はなく、かえって以前のような濃い色の遮光レンズをかけなくても明るさが気にならないことに驚きました。
室内での奇妙な歪みについても、その日のうちに違和感はなくなり、部屋の中を見通しやすくなったように感じました。驚いたのは、シンクがとても立体的で、深みが感じられたことです。今までもっと浅いイメージだったのが、すっぽり奥行きが増して見えました。わたしの場合、まったく立体視ができないわけではないものの、(ニンテンドー3DSの3Dボリュームを調節するかのように)他の人たちよりも浅い深度で見えていたらしく、プリズム入りメガネをかけてようやく、奥行きがはっきりわかったのでした。
視覚はよみがえる 三次元のクオリアにはこんな記述がありました。
わたしは自分の視覚の使いかたを意識しだしてから、人々を、“近くを見る人”と“遠くを見る人”に分けるようになった。
いまはかなり安定した視覚を保っているとはいえ、わたしはまだ近くを見る人だ。すぐ目の前の空間については認識力がきわめて高く、そこを秩序正しく整えようとする。
同僚のひとり、タラ・フィッツパトリックは、わたしとは正反対のやり方で物を見る。タラは外斜視で、“遠くを見る人”だ。遠くを見るときのほうがくつろいだ気分になれる。おかげで、運転手に道を指示するのがとてもうまい。どの方角が北なのかつねに把握している。だが、1メートルほど離れた対象物を見きわめるのは苦手で、しょっちゅう歩道の縁石につまずいている。(p119)
わたしは外斜位なので、間違いなく“遠くを見る人”です。
わたしはよくテーブルの角に頭をぶつけたり、椅子の足にけつまずいたり、球技が苦手でボールを受けそこねたりしていましたが、それは、いわゆる発達障害の「発達性協調運動障害」(DCD)のようなものではなく、見えている奥行き深度のずれによるものだったのでしょう。(不器用さのほうは、すべて奥行き深度では片付けられず、おそらく凍りつき症状によるぎこちなさからも来ているでしょうが)
わたしだけでなく、立体視力を持たない友人たちも似たような状況にある。これらの友人の多くはダンスやアイススケートが好きだと言うが、球技への情熱を語る人はほとんどいない。
実のところ、両眼視に障害を抱える人たちは、動く対象を注視してそれに反応するよりも、自分が空間を動きまわるようすを体で感じる活動を楽しむ傾向がある。現に、わたしが好んでやった運動は水泳とシュノーケリングだが、これもまた、自分が水にくるまれているのを肌で感じ、体が動いているという感覚を強烈に得られるものだ。(p171)
わたしが遊んだり見たりするのが好きなスポーツも、身体的なバランス感覚に関わるものばかりです。水泳しかり、ボルダリングにしても自転車にしてもバランスボールにしてもしかり。球技にはまったく興味がありません(笑) みんなが高校野球とかサッカーに夢中な理由が子どものころからまったくわからず困っていたんですが、動いているボールを目で追えないからだったのでは? おそらくそれと同様の理由で、自分が動きまわるマリオなどのアクションゲームは好きなのに、動いているものを狙撃するFPSやTPS、さらにはぷよぷよのような高速パズルゲームはかなり苦手です。
北海道に引っ越すことにしたのも、今思えば“遠くを見る人”だったからかもしれません。ここは雄大な景色のおかげで遠くを見る機会が多いですし、道路や家の中の間隔もとても広いので近くを見る必要があまりありません。しかもスキーや雪かきのような体全体を使う運動が中心ですから。
メガネ屋さんにあらかじめ言われていた、情報量の増加による目の疲れについては、特にこれといった症状はありませんでした。逆にメガネを外すと、目に違和感があり、おそらく焦点を合わすために余分に目の筋肉を使わねばならないことからくる重だるさのようなものを感じたため、なるだけメガネをかけている状態でいました。
問題となったのは、今回は偏光レンズでメガネを作ったため、PCやタブレット端末のディスプレイによっては画面にノイズが入って見にくくなってしまうこと。ディスプレイの種類とスリットの方向によるようですが、残念ながら、うちのディスプレイは見にくいものが多く、別途PC使用時のために、偏光レンズの入っていないプリズム入りメガネを作ることにしました。
そこで現状報告ともう一つのメガネの作成のために、もう一度引っ越し前にメガネ屋さんを訪ねる。
メガネ屋さんが説明してくれたところによると、今回作ったわたしのプリズム入りメガネは、最初ということもあり、あまりプリズムは強くしていないそうです。学会でも、プリズムを強くしてすべてメガネのほうで補正するか、ビジョントレーニング(視能訓練)で目の使い方を訓練するかは、どちらがよいのか意見がわかれているらしい。その人の年齢や過敏性、適応力なども加味して決めているそうです。
わたしの場合は、チック症状などから、もともとかなり神経系に負担がかかっていると推察され、視能訓練だけで解決するのは難しい、と思われたため、プリズム入りメガネを勧めたとのことでした。しかしできれば、視能訓練も併用して、眼球運動の訓練をしたほうがいいとのこと。
視能訓練のやり方については、オプトメトリーの本によく書いてある「ブロック紐」など、身近な道具を使ったやり方ですね。確か発達障害の子どもの視知覚認識問題への対処法や視覚はよみがえる 三次元のクオリアにも書いてあったはず。
立体視のできない人というのは、あたかも自己流でタイピングを覚えた人のようなもので、正式な使い方ができていない。だから、日用品を活用して眼球運動のトレーニングをすることで、正しい目の使い方、タッチタイピングのような、より効果的な方法に矯正していく必要がある。しかし、ここで気になるのは、画家たちの多くは“立体視をできないこと”がかえって有利に働いていたと思われること。
どんな障害であれ、メリットとデメリットのパッケージですから、安易に「正しいやり方」などというものがあると見なすべきではないでしょう。自分にとってより「自然なやり方」はあっても、おそらく万人にとって「正しいやり方」などいうものはないのです。ボディーワークの祖ともいえるマサイアス・アレクサンダーが気づいたように。
外傷性脳損傷と両眼視機能異常
しかし、わたしはここまでのところで腑に落ちない部分があります。
メガネ屋さんの説明および、ここまでのわたしの理解からすれば、この眼球運動障害は、子どものころからの脳のクセのようなものと思えます。眼球運動の特殊な使いかたが脳に配線されていて、プリズム入りメガネで補ったり、視能訓練などで時間をかけて修正していったりするものだと。
しかし…
ノーマン・ドイジによる脳はいかに治癒をもたらすかは、さっきのスーザン・バリーによる視覚はよみがえる 三次元のクオリアが引き合いに出されていることからわかるように、検眼学や両眼視機能異常にも理解が明るい本です。
あまり知られてはいないが、自然視覚療法の関連分野に、行動検眼(behavioral optometry)というものがある。この分野100年近くにわたり、視覚を訓練可能な技能の集まりとして理解してきた。
そしてその考え方は、神経可塑性の概念に基づいている。神経生物学者スーザン・バリー博士は、斜視のために50年間立体視ができなかった。前述のとおり、斜視は複視を引き起こし、それに対処するために脳が一方の目からの入力を遮断するため、そちらの目に対する視覚皮質はいかなる刺激も受け取らなくなる。
ところで立体視には、ごくわずかに異なる角度で視野を精査するために両目からの入力が必要とされる。バリーは、行動検眼医が提供する神経可塑的な訓練を受け、視覚皮質を再び目覚めさせて視野を再調整し、50歳を迎えてついに立体視を経験できるようになった。これについては、ぜひ彼女の著書『視覚はよみがえる―三次元のクオリア』を参照されたい。(p344)
こうしてスーザン・バリーの本を紹介した上で、この本では、両眼視機能の異常を抱え、立体視が困難で、プリズム入りメガネを処方されていた、ある症例が出てきます。それは外傷性脳損傷の患者たち。
まず、48歳の看護師ジェリ・レイクは、6年前の雪の日に自転車で仕事場に通う途中に交通事故に遭い、頭部(頭頂葉や後頭葉あたり)を打撲し、以来、さまざまな後遺症に悩まされるようになりました。
彼女は小さな音にも敏感になり、ナイフやフォークや皿の立てる音に驚いてしまい。食事をすることさえ困難になる。さらに悪いことに、一度でも物音に驚くと、過剰反応は留まるところを知らなかった。「誰かが少しでも物音を立てると、みんなは私をなだめなければならなくなりました。私はひきつり、抑えきれずにすすり泣いてしまうようになり、眠る以外にはそれを止める方法はなかったのです」。
光にも過敏になった彼女は、暗い部屋にこもらなければならなかった。それはあたかも、彼女の脳が音、動き、光、あらゆる種類の混乱を濾過できなくなったかのようで、それを無理に正そうとするとひどい頭痛に襲われた。この状況では、並行作業を行なうなどもってのほかだった。(p385)
言うまでもなく、このような音過敏、光過敏はわたしともよく似ています。ただしこのジェリの場合は、明らかに後天性のものです。
さらに彼女は、平衡感覚や、両眼視機能にも異常を抱えるようになりました。
彼女は歩行中、地面の状況を感じ取ることができなくなった。だからたとえば、坂を歩いているとき、家族は「上り」「下り」などと叫んで、転倒しないよう注意させる必要があった。
絨毯の模様や活字は動いて見えた。両目の輻輳(対象をとらえる際に両目が連動すること)を司るシステムが機能不全に陥ったために、目の焦点を合わせられず複視が生じた(外傷性視野症候と呼ばれる)。複視の矯正のために用いられるプリズム・メガネを処方されたが、依然として目の焦点を合わせることはできなかった。(p386)
ジェリのこうした症状は、アーレンシンドロームやディスレクシアの子どもの症状にもよく似ています。前述のような輻輳不全も見られます。注目したいのは、これらが生まれつきの発達障害としてではなく、外傷性脳損傷のあとに、40代になってから突然生じたことです。つまり、脳のどこかの回路に問題が生じれば、一瞬にしてこれらの症状が現れうるということ。
では、これらの症状は、彼女の診断名どおり「脳損傷」による不可逆的な問題だったのか。ある神経心理士はそうだと言いました。「あなたは大脳右半球に恒久的な損傷を受け、前頭葉の実行機能はひどい状態にあります」と。
つまり脳の修理はあきらめて障害と折り合っていくよう、つまり自己の限界にうまく対処しつつ、障害の「埋め合わせをする」よう諭されていたのだ。…次の数ヶ月間、彼女は何人もの医師に「あなたの症状は恒久的なものです」と言われ続けた。(p386-387)
そのころジェリは、まったく同じような症状を抱える医療技師のキャシーという女性と出会います。
キャシーは頭部を打ってむち打ち症になり、記憶喪失に陥る。そしてジェリ同様、外傷性脳損傷と診断された。事故直後に複数の症状が発現し、時間の経過とともに減退することがなかったのだ。
激しい頭痛を覚え、過度の睡眠をとり、光が苦痛に感じられるようになったために日中でも目を閉じていなければならず、持っているものを落としてしまい、歩行に難を感じ、運動協調性と平衡感覚に問題を抱え、話すのが困難になり、空間内での自分の位置や地面の傾斜を把握できなくなった。
また記憶障害になり、作りかけの料理を焦がしてしまうようになった。立体視を失って「すべてが平坦に見え」複視が生じた。「メガネにワセリンを塗られたかのように、あたり一面がぼやけて見えました。」読むことも、集中することも、テレビを観ることすらできなくなった。「私の脳は、あらゆるものごとについていけなくなったのです」(p398)
ここ日本だと、間違いなく「脳脊髄液減少症」の診断を受け、ブラッドパッチ治療になりそうな症例ですね。けれども、彼女がこれらの症状から回復した方法はブラッドパッチや髄液の補充ではなく、もっと意外な方法でした。それは神経可塑性の研究の先駆者であるポール・バキリタ博士が創設したウィスコンシン大学の研究チーム(マディソンチーム)による治療法でした。
PoNSで迷走神経を刺激する
マディソンチームは、舌を電気的に刺激して、脳幹にパルスを送る、PoNSという装置の治療効果を研究していました。(Helius Medical Technologies – The PoNS Device)
ユーリ、ミッチ、カートは、この装置をPoNSと呼ぶ。PoNSとは、「ポータブル神経調整刺激器(Portable Neuromodulation Stimulator)」の略だが、(神経可塑的な脳を刺激し、ニューロンの発火の様態を矯正するのでそう呼ばれる)、この装置の主要な治療対象の一つである脳幹の組織、橋[きょう](ponの名称にもちなんでいる。(p355)
この装置は、いわゆる経頭蓋電気刺激装置など、電気刺激で脳を活性化させる装置の一種ですが、脳により効果的に電気パルスを送るために、口の中に含んで、脳に直結する舌を通して刺激するかたちを取っているそうです。痛みがあるような治療法ではなく、チューインガムを含むような感覚だとか。
日本では、ちらほらと経頭蓋電気刺激や経頭蓋磁気刺激の装置は導入されてきたものの、やたらと高価でほとんど普及していないくらいですから、残念ながらPoNSが今後使えるようになる可能性はかなり低そうです。だから、ここでPoNSについて取り上げたのは、この装置自体がすごいという意味ではない。わたしが気になったのは、PoNSを使ったときのジェリやキャシーの反応です。
やがて20分が経過し、「そこまで」というメンバーの声が彼女の耳に聴こえてきた。彼女は装置を口から出す。すると、平衡感覚の問題はなく、ほぼ正常な足取りで歩くことができたのだ。
…しかし彼女は、ひどく混乱した表情を見せた。「こんなに早く変われるものなのだろうか?」「五年半も続いた障害なのに、こんなに早く解消されるものなのだろうか?」これらの疑問は、時間が経つにつれ、ほんとうに解消したという確信に変わっていく。「外に出て走りたい!」と彼女は叫ぶ。実際、2日後には、ランニングマシンを使って走っていた。
…その朝目覚めたとき、彼女はまず窓の外に目をやった。「私は思わず叫んでいました。…突然奥行きを見る能力を取り戻した私は、自分の視野がいかに平坦だったかに気づきました。それまでは湖の絵を見ているようなものでしたが、3D映画も顔負けの立体視が可能になったのです。そして人の顔も見分けられるようになりました」。
これらの変化のほとんどは、最初の48時間のうちに起こっている。こうして彼女は、2日も経たないうちにプリズムメガネを不要に感じていた。(p396)
にわかには信じがたい反応です。彼女は「脳損傷」でもう不可逆の障害を負っていたと思われていて、一生プリズム入りメガネにお世話になるかと思われていたのに、PoNSで刺激したところ、たちまち両眼視機能異常は解消されて、プリズム入りメガネが不要になったのです。(むろん揺り戻しはあり継続的フォローアップは必要とした)
どうしてこんなことが起こるのか。これだけ読むと劇的な医療効果を謳うプロモーションのようにも思えてしまいますが、PoNSがどこをどう刺激しているのかを知ると考えが変わります。それどころか、わたし自身にも関わる内容だとわかってくる。(わたしも最近この本を読み返してようやく気づいた)
脳幹は、呼吸、覚醒、血圧や体温の調節など、もっとも基本的な身体機能を司る皮質下の組織である。また、神経ハイウェイの主要な経路でもあり、脳から身体へ、身体から脳へ送られるほぼすべての神経信号がここを経由する。
脳神経は、目の動きや焦点、表情、顔面の動きや感覚、声帯筋、嚥下、味覚、聴覚、平衡感覚など、私たちが頭部と連動させている、ほとんどの運動および感覚機能の調節に関わっている。
そして消化をコントロールしたり、自律神経系や闘争/逃走反応の調節をサポートしたりする。さらには、これから見るように、身体を損傷や感染から守る免疫系の、いくつかの機能の調節も担っているのである。(p353)
舌の感覚受容体の端を発し、脳幹の平衡感覚を処理するニューロンに「スパイク」を送り出した電気刺激は、脳幹で止まるわけではない。明らかに脳幹の平衡感覚系のニューロンは、脳幹にある他の多くの組織やその他の脳領域にスパイクを送り、それらすべてを活性化する。
これらの領域には、睡眠、気分、感覚を調節する領域も含まれる。この仮説は、脳全体をスキャンしながら被験者に装置を使わせることでその正しさが証明された。脳のほとんどが活性化したのである。(p373)
したがって、脳幹とその介在ニューロンを治療の対象にすることは、身体の大部分を支配するホメオスタシス調節システムに働きかける一つの方法だと言える。
…脳幹は、大規模な自律神経系(闘争/逃走反応の交感神経系と、興奮を鎮める副交感神経系)を制御する働きを持つ。したがって、心拍数、血圧、呼吸は脳幹で自己調節されている。また、脳幹は、消化管や消化作用を調節する迷走神経を宿す。…昼間の覚醒度が上がる理由は、迷走神経とRASに対する影響によって説明できるようだ。(p411)
簡単に要約すれば、PoNSの作用領域は、脳幹、自律神経系、および脳幹と内臓をつなく迷走神経系だということです。脳幹は以前に紹介したアントニオ・ダマシオの研究が示しているように、わたしたちの意識(自己)感覚の中枢であり、意識の主要な機能である身体のホメオスタシスを制御している箇所です。
そして、この体験記ではさんざん繰り返し書いてきたことですが、神経学者スティーブン・ポージェスのポリヴェーガル理論によれば、脳幹と内臓をつなぐ迷走神経系こそが、トラウマ時の「凍りつき/麻痺反応」を引き起こすシャットダウン装置です。(11月にポージェスの著書の待望の邦訳ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」 が出版される)
ここに、なぜジェリやキャシーの恒久的な「脳損傷」と思われた症状が、一瞬にして改善したのかを理解する鍵があります。つまり、彼女たちの奇怪極まりない種々の症状、すなわち、身体の感覚処理がばらばらに崩壊したかのような症状は、「脳損傷」によるものではなく、脳による「抑制」、言い換えれば凍りつき/麻痺というシャットダウンによる症状だったということです。
彼女たちの感覚統合機能や両眼視機能は、損傷して失われたわけではなく、一時的に抑制がかかってシャットダウンされていたにすぎないのです。だからシャットダウンしている迷走神経を刺激してやることによって、失われたかに見えた機能をたちどころに回復しました。(この迷走神経機能の劇的な回復という特徴は、次回の最終回でもまた扱うことになる)
このような瞬時の回復は、トラウマによって凍りつき/麻痺に陥った患者にはよく見られるものです。
いわゆる外傷性脳損傷とトラウマ障害との境目は明確ではありません。外傷性脳損傷(とくに異常がはっきりと観察されない軽度外傷性脳損傷)は、脳損傷ではなく、トラウマの衝撃による手続き記憶性の問題である場合が多いのではないかと思います。
対するトラウマは、かつてはフロイト以降の精神分析学者のせいで「心の傷」だと誤解されていましたが、今では脳科学的に実態のある脳や身体の機能障害だとわかっています。心が有機体から生まれている以上、心理学的な説明は医学的に許容できません。
昔は、トラウマというと心的外傷を指しましたが、今のトラウマ医学の定義では、虐待であれ医療措置であれ交通事故であれ、生命の危機を感じさせるショックはみな一様にトラウマであり、同じ闘争/逃走反応、および凍りつき/麻痺反応を引き起こします。
それゆえ、かつてトラウマだと思われていたものは、おそらくは(脳脊髄液の循環の変化も含む)脳機能障害であり、かつて脳損傷だと思われていたものはトラウマ記憶の病理を含んでいます。両者に明確な線引きはできません。
ジェリとキャシーの場合、有機体が強烈な衝撃(トラウマ)にさらされたことにより、脳幹や迷走神経系のシャットダウンが働いて、健全な機能が切り離され(解離)されたんでしょう。迷走神経は、命の危機に瀕したとき、生体の機能を麻痺させ「死んだふり」の仮死状態にします。身体の機能は、事故以来、麻痺状態にありました。しかし、迷走神経に働きかけるPoNSによって、再び正常な感覚処理がいわば「息を吹き返した」のです。
ということは、おそらくこのPoNSは、(もし試す機会があれば)、やはりトラウマによる麻痺状態になっているわたしの身体にも効くでしょう。ノーマン・ドイジによれば、PoNSの効果は、リタリンなどの中枢神経刺激薬に似ている(ただしリタリンのような副作用はない)そうなので、リタリンが効いたわたしにも効くでしょう。(p357,364)
さらに、NATURE FIXによれば、自然の中でトラウマ症状が軽くなる抗PTSD効果も、迷走神経が刺激されるからだろう、とされていました。わたしは大自然の中にいると、はっきりとリタリン様の効果を感じますが(事実、都会ではモディオダールなしではやっていけなかったのに、北海道に引っ越してきてからはまったく神経刺激薬を飲まないでも活動的でいられる)、大自然のもとで迷走神経を刺激されて元気になるのであれば、同じような経路で作用するPoNSも効くでしょう。試せないのが残念でなりません。
凍りつき症状の一部ではないのか?
わたしの症状の大部分が迷走神経による凍りつき/麻痺症状(解離)なのは、はっきりしています。これは両手で数え尽くせないほどの状況証拠、たとえば症状だけでなく、文学や絵画の才能などによってさえ示唆されている(詳しくは、ライフヒストリーの3章で書いている)ので疑いようがない。
とすれば、わたしの両眼視機能異常もまた、じつは子どものころからの脳のくせのようなもの、発達障害的なものではなく、トラウマを負った時点以来生じた解離症状の一種ではないのか、と当然考える余地があるわけです。現に、わたしは本格的に慢性疲労症候群を発症して崩壊するに先立つこと数ヶ月の時期に、目の焦点が合わず、ひどい失読症(難読症)が現れはじめたことを覚えています。
そして、わたしと同じ解離の当事者であるオルガ・トゥルヒーヨは、私の中のわたしたちの中で、わたしが経験していたのとまったく同じ症状について書いています。
私は読むことがとても困難だった。記事を書くのに必要な調査が私にはむずかしかった。頭の中のあらゆる考えに気が散り、単語の意味を十分理解できるだけ集中できなかった。
…目の焦点が合わなくなるのを感じ、頭の中はいつものぼんやりした感覚になったが、なんとか答えられた。
「ときどき読んでいることが理解できないことがあります。すとんと腑に落ちないのです」(p135)
彼女は、解離の症状として、繰り返し、「目の焦点が合わなくなること」を挙げています。これはまったく不思議ではありません。解離する、つまり敵に襲われて凍りつき/擬態死状態になるときの生物の一般的反応は、目がうつろになり、視界がぼやけて気が遠くなることです。子ども虐待についての漫画凍りついた瞳 (YOU漫画文庫)のタイトルがそれをよく物語っています。さらに、「白目をむいて泡を吹いて倒れる」という昔ながらの表現が示唆しているとおり、凍りつき/麻痺で擬態死状態になると、眼球運動の異常が起こります。(これについての例は次回また書くことになるでしょう)
つまり、わたしの場合、眼球運動症状は、明らかに、背側迷走神経の凍りつきによって起こる解離の特徴の一部です。そうであるなら、これは発達障害のようなものとは限らないわけですから、単にビジョントレーニング(視能訓練)によって改善されるべきものとは異なっている可能性があります。(もっともわたしの場合に原因が複数からんでいる可能性は否定できませんが)
もちろん、ビジョントレーニングによって、かつての目の使い方を思い出すことはあるでしょう。しかしその場合は、新しい使い方を学ぶわけではなく、かつての手続き記憶を目覚めさせていくこと、ボディーワークに近い手法だといえます。
(実際に、脳はいかに治癒をもたらすかには、眼球運動が「凍りついて」、眼球のマイクロサッケードができなくなったたけに視力が極端に低下した例が出てくる。その人の場合、モーシェ・フェルデンクライスとウィリアム・ベイツによって開発されたボディーワーク的なビジョントレーニングによって改善した)
もしかすると、ジェリやキャシーのように、最初から正常な眼球運動はできていたのかもしれません。訓練によって身につけなくとも、はじめは正常な眼球運動ができたはずです。ところが、危機的状況にさらされ、抑制装置が働いて凍りついた結果、その機能が失われてしまった。
これは、古典的な解離の転換性障害について考えればよくわかるはずです。昔ながらの精神科で扱われていた解離性障害のなかには、これまで普通にできたはずの運動が突然不可能になる転換性障害という症状が知られていた。たとえば、昨日まで歩けていた人が、トラウマをきっかけにまったく立てず車椅子になる。また暴言を聞かされて育った人がいわゆる心因性難聴になるといった例。
これらは精神科ではあろうことか「心因性」という馬鹿げた解釈がなされていたので心の問題が身体に転換された障害だとみなされていましたが、今のトラウマ医学ではそうとはみなされない。心因性ではなく、感覚負荷を超えた刺激を与えられた結果、生体のシャットダウン装置が働いて、健全な機能を抑制することで、身を守ろうとしている反応です。(パブロフが実験で示した超限界段階)
この危機的状況での抑制は、身体のあらゆる部分に起こる。どのようなトラウマを受けたかによって、つまりどこが過負荷にさらされたかによって、シャットダウンされる機能も変化する。
例えば、以前に書いたように、子どものころに、衝撃的な光景にさらされれば、視覚機能が鈍麻して、「見ない」ように適応する。わたしが人の顔を見分けられない相貌失認なのも、おそらくはそのせいと思われる。
そのとき考察したように、眼球運動障害も、おそらくは凍りつき症状と関連して起こっているように思えます。目の自然な調節機能が「凍りついて」しまったので、正常な眼球運動ができなくなってしまったのではないか。生まれつきではなく、何かしらの後天的な経験によって。
リンクするために過去記事を検索して、やっと思い出しましたが、今回書いたことは、前に上の記事で書いていたことの焼き直しだったんですね(笑) 何か新しいことを思いついたつもりでここまで書いてきましたが、オリヴァー・サックスが意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源で書いていたこの言葉を思い出しました。
同様に、私は似たようなテーマでよく講演をするが、良かれ悪しかれ、自分が前回言ったことを正確には思い出せない。以前のメモに(というか、1時間前の講演のために作ったメモでさえ)目を通すのも嫌いだ。前に何を言ったか意識的な記憶がないので、毎回改めて自分のテーマを見つけ、それはたいがい自分にとってまったく新しいものに思える。
…自分の古いノートを見返すと、そこに略述されている考えの多くは何年も忘れられ、そのあと新しいものとして復活し、改変されていることに気づく。そのような忘却は誰にでも起こっているのではないだろうか。そしてとくに、物書きや絵描きや作曲家にはよくあるかもしれない。
創造するためには、記憶とアイデアを再び生み出して、新たな背景や視点で見られるように、そのような忘却が必要とも言える。(p112)
結局は何度も知らず知らずのうちに同じテーマに戻ってきて、その都度少しずつ考察を深めていくことになるのです。
あらゆる探求の終わりに我々は出発点に戻る
さて、今回は眼球運動障害の話に始まり、プリズム入りメガネの感想を書き、迷走神経系との関連性について考えてきましたが、次回が、この一連の体験記の最終回となります。
セラピーそのものは前回の時点でいったん終了しているので、ここで体験記をくぎるのは、順当なところと思います。
最終回に何を書こうかと思いましたが、今回の14回目に書きたかったけれども長くなりすぎて書ききれなかった話題について書きます。次回の記事は、今回の話題の後編のようなもので、引越す前に考えていたことの続きです。引っ越してからの出来事は、また新しいシリーズで書きたいですし、ちょうどいいかも。
次回、最終回で考察するのは、わたしが尊敬しているオリヴァー・サックスの著書の中で最も有名な、そして最も膨大で600ページ以上にも上る原点にして頂点、レナードの朝 です。
レナードの朝は、脳炎後遺症によるパーキンソン症候群の患者たちについての本で、一見トラウマのセラピーをテーマにしたこの一連の体験記とは関係が薄そうに見えます。
しかし、第八回で取り上げたサックス博士の片頭痛大全 がトラウマ障害の凍りつきと密接な関連性を持っていたように、レナードの朝 もよくよく読んでみれば、トラウマを理解する上で欠かせない情報が収められていることに気づきます。
おそらく、わたしの今の理解では、サックスの数ある本のうち、どの本よりも、ポリヴェーガル理論とのつながりが深く「凍りつき/麻痺反応」の特色を知る上で極めて重要な一冊であると考えています。
わたしにとって、自分について知るための導き手となってくれた科学者や専門家、作家は大勢いますが、かつても書いたとおり、オリヴァー・サックスはそのいずれとも比較にならないほどの啓発をわたしに与えてくれました。これら一連の体験記の最後に、わたしの考察の原点であるサックスに、そしてそのサックスの原点でもあるレナードの朝 の朝に触れるのはふさわしく感じます。
できるだけ早く書いて引越し後の話題に移りたいけれど、また長文になりそうだから、いつ書き上げられるか…(苦笑)。
ひとまずサックスがこの本の中で引用しているT.S.エリオットの次の言葉を引いて、最終回へとつなげたいと思います。
そしてあらゆる探求の終わりに
我々は出発点に戻り
ようやくその場所のことを知る
―T・S・エリオット(p467)
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