切り離された自分の身体を取り戻すセラピー体験記(2)

SEのセラピーを受けに行った体験談の第二期の二回目。前回は、9回目のセラピーの内容と、そこから感じたこと、考えたことを書きました。SEの本来の意味は「身体的な経験」であり、現代人がトラウマに脆弱になったのは、自然界の中での身体的経験から切り離されたからだ、という話でした。しかし長くなりすぎて全部は書ききれなかったので、今回その続きを書きます。というわけでセラピーそのものの話ではなく考察回です。

本能を失った副作用

前回の話を簡単に復習すると、SEは、動物はトラウマを負っても回復するのに、なぜ人間(特に現代人)は回復できないのか、というラヴィーンの疑問から生み出されました。自然界の動物は、生きる中でトラウマ的な危険に遭遇するものの、自然の中での本能的な行動を通してトラウマ反応をリセットしている。でも人間は自然界から切り離され、身体的経験がほとんどなくなってしまったので、それができなくなった、ということでした。前回の記事の要点は、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマの中で書いているこの言葉に集約されます。

不運にも、動物の友達とは違って、人間はストレス下にあると、過去に釘づけにされる傾向がある。過去の後悔に打ちひしがれ、未来に起こることを恐れたりする。それによって、今とのつながりを失ってさまよう。

こうした現在の瞬間に生きることの欠如を、現代病だと呼ぶ人さえいる。これは、私たちが本能的な動物的本性とのつながりを失ったことの副作用のように思える。(p285)

現代人は、理性や知識に重きを置くあまり、またインターネットやバーチャル体験などに没頭するあまり、自然の中でじっさいに身体を使って経験することをないがしろにしてきました。そうして動物的本性を失ったことの「副作用」として、動物が利用してきたトラウマからの回復手段を利用できなくなってしまったとラヴィーンは言う。

それはたとえば、大自然の中でリラックスして副交感神経系が活性化することや、畏怖の念を感じるような衝撃によって、背側迷走神経の凍りつきがリセットされることなど、動物としてのヒトに元々備わっているはずの本能的な手続き反応を利用できなくなったということ。それゆえ現代人はトラウマに対して脆弱になってしまったので、もう一度「身体で経験する」方法をいちから学ばねばならない。その方法がSEなのだと、ラヴィーンは説明している。

このこと自体は、一年前に身体に閉じ込められたトラウマを最初に読んだときにある程度把握していたので、じつは前回書いた内容というのは、わたしがこれまでどこかで書いてきた内容を焼き直したものにすぎないんですが、この記事で書くのは、今までどこにも書いたことがない話です。

というのも、最近、あなたの子どもには自然が足りない を読んでいて、ああそうだったのか!というAha!体験があって、そこで今まで断片化していた知識がひとつにまとまる瞬間を経験しました。この本はジャーナリストのリチャード・ルーブという人が書いたかなり有名な本で、原題は「Last Child in the Woods: Saving Our Children from Nature-Deficit Disorder」、日本だと悲しいことにAmazonで2件しかレビューがついてないほど注目されていませんが、原書は380件ものレビューがついて平均の星が4.5という、かなり有名で幅広い影響を与えた本です。

(この本に限らず、身体はトラウマを記録するなど国外で高評価を得て広く読まれている名著が日本ではあまり読まれないままスルーされるのはなぜなんだろう?と思う。日本でレビューがたくさんついている本は自己啓発的で内容が薄っぺらいライトな本が多い印象。統計をとったわけじゃないので単なる思い込みかもしれないが、昨年あったような、薄っぺらい医療系アフィリエイト記事が量産されてGoogleが規制をかけるといった事態は日本でしか起こっていない。何かおかしい)

わたしが最近読んだ本でも、三冊くらいで立て続けにこのあなたの子どもには自然が足りない に言及されていたので、ある意味、自然と健康のつながりを考える人たちにとってはバイブル的テキストになっているのかな、と思って読んでみました。Amazonを見ればわかるように絶版状態で超プレミア化しているので図書館で借りることに。そのおかげで今の今まで読んでなかったわけです。

読む前は、邦訳タイトルのせいで、自己啓発寄りのフランクな本なのかと思ってましたが、実際にはわたしが好きなタイプの、しっかり学問的研究に裏打ちされつつも、芸術的感性がミックスされた本で、あれだけ広く読まれているのも納得でした。

本の主旨は、ピーター・ラヴィーンの本とほぼ同じです。自然の中での身体的経験がなくなって、表面的な知識ばかり重視されるようになったせいで、自然界が持つ恩恵を人々が受けられなくなっていると。ラヴィーンのほうはトラウマ医学や動物行動学からそれを説明していますが、ルーブは環境心理学や発達心理学から説明しています。だから両方読むと視野が広がります。しかし、その中でも特にびっくりしたのはこの話でした。

ヒト対自然の愛着理論

心理学者のマーサ・ファレル・エリクソンらはここ25年間というもの、彼らが「愛着理論」と呼ぶ子供の生態学的な発達モデルを枠組みにして、親と子供の相互作用についての長期研究を行なっている。

…私はエリクソンに、愛着不足の結果としての反応や症状と同じものが、土地への愛着の貧しさからも起こるのではないかと指摘した。…愛着理論によれば、親子の深い結びつきは、心理的にも、生物学的にも、心の問題としても複雑なプロセスを経て形成される。この結びつきなしには子供は精神的なよりどころを得ることができず、後にあらゆる心の病理に対してもろくなる。

私は、同じようなプロセスが大人を土地に結びつけ、自分がその土地に属し、自分の人生に意味があるという感覚を抱かせることがあるのだと思う。自分が暮らす土地への深い愛着がなければ大人も精神的なよりどころを失ってしまうのだ。(p173)

ここでは愛着理論が、自然との結びつきにも当てはまる、と書かれています。もしわたしがルーブの本だけしか読んでなかったらここはさらっと流しただろうけど。トラウマ医学を知っている今ならそうはいかない。

もともと愛着理論は心理学や精神医学の分野だったかもしれないけれど、今や生物学的な現象だとわかっている。幼いころに親との関わりの中で身体的に経験したことが、手続き記憶となって記録される。生後2年ほどはまだ左脳が発達していなくてヒトは感覚記憶だけの生き物なので、愛着は認知や心の現象ではありえない。その時期の幼児は動物的本能によって生きているので、愛着は生物学的現象ということになる。

そして、この愛着がうまく形成されないと、その後の人生でトラウマに対して脆弱になる。乳幼児期の身体的経験によって、生理的な自己調節のパターンを学習していなければ、トラウマによって闘争/逃走や凍りつきが起こったとき、元のあるべきパターンに自己調節し直すことができない、というわけです。

トラウマ医学では、この愛着の効果は、もっぱら養育者との「ヒト対ヒト」の関係で考えられていて、わたしもそれ以上のことは考えていなかった。それがルーブの本で、「ヒト対自然」にも当てはまると言われて初めて、目からウロコが落ちたわけです。そうか、そう考えればいろいろな事象がすっきり説明できるぞと。

従来考えていたように「ヒト対ヒト」の愛着がしっかり形成されなければ、トラウマに対して脆弱になるのであれば、自然界から切り離された現代人がトラウマに対して脆弱になっているというラヴィーンの主張は、つまり「ヒト対自然」の愛着が形成されていないことに由来しているのではないか。

愛着とは、生物学的にいえば、生後2年ほどの間(特にこの時期が重要なのは確かだけれどその後の子ども時代の経験によっても形作られていく)に、手続き的に学習されたパターンであり、のちの人生で出会うことになる外的刺激に対する反応の型、パターンの基礎となるものです。その時期に親との関係で学んだ対人関係のパターンが、大人になってからの対人関係のパターンの基礎になり、やはりその時期に親の世話によって学んだ生理的調節のパターンが、その後の人生における自己調節のパターンの基礎になります。ここまでは今までどおり。

しかしわたしたちを取り巻く外的環境というのは他者だけではないはず。わたしたちは他の人間からだけでなく、環境そのものから、さまざまな刺激を受ける。ということは、生後2年ほどのあいだに環境を通して受けた刺激が、大人になったあと環境刺激に対してどう反応するかのパターンの基礎になるのではないか。子ども時代に環境からの刺激とうまく付き合うことを学んだなら、後の人生でも環境の癒やし効果をうまく活用できるが、そうでなかった子どもは、自然とつながる方法がわからなくなってしまい、それがトラウマへの脆弱性につながっているのでは?

ヒト対ヒトの愛着と、ヒト対自然の愛着は、比喩的に似ているというのではなく、たぶん大人になってから自分を取り巻く刺激にどう反応するかを決めるベースとなる生理的パターン、という意味ではまったく同じなんです。その証拠に、これまで愛着理論で観察されてきた現象は、そのままヒト対自然の愛着においても起こる。

たとえば、ヒト対ヒトの愛着の場合、幼少期の愛着関係が不安定だと、その後の人間関係に支障がでる。たとえば他人を過度に理想化するか嫌うかの両極端になり、境界性パーソナリティ障害になりやすい。ヒト対自然の愛着でも同じことが起こる。

自然から隔絶してしまった子供たちは、自然を理想化するか、あるいは恐怖を抱くかのどちらかになるが、これは困ったことである。もっともこれは一枚のコインの裏表である―というのは、人は知らないものに対して恐怖感を覚えるか、さもなくばロマンティシズムで飾りたてるかのどちらかであるからだ。(p151)

中には感情のスイッチを切って解離してしまう子もいる。それもやっぱりヒト対自然の愛着の中で同じように生じる。

ソーベルによれば、まったくの反対になるケースもあるのだ。「学校で環境破壊の例を詰めこみすぎると、生徒の関心が離れていくきっかけを心に植えつけてしまうこともあります。子供たちに、地球の問題に目を開かせ、責任感を抱かせようとするあまり、かえってそっぽを向かせてしまうのです」

自然とじかに触れ合った体験をもたない子供たちは、「自然」と聞いて喜びや驚きではなく、恐怖や終末的イメージを連想するようになるわけだ。ソーベルは、なぜ子供の心が離れていくのかについて、こんなたとえを持ち出した。肉体的、性的な虐待を受けた子供は、自分自身を痛みから切り離すことを覚える。つまり、感情のスイッチを切ってしまうのだ。(p152)

そして虐待された子は、恐れを抱いたりパニックを起こしたりするようにもなる。

ラシード・サラフディンは高校の校長先生で、私の学区で週一回野外授業をしてくれているのだが、自然を怖れることの悪影響を目のあたりにしている。「自然に交わるときに怖がったり、パニックに陥ったりする子供たちが多すぎます。この子たちは自然と直接に接することができないのです」と彼は言う。(p160)

ちなみにこの例は、東ヨーロッパやアフリカ、中東の子供たちだという。子どものころから森や山で戦争に巻き込まれてきたので、自然イコール危険なものと条件付けされているらしい。虐待によって、人間イコール危険なものと条件付けされてしまう子どもとよく似ています。

自然の癒やし効果の恩恵を、単に自然には癒やし効果がある、とみなすのではなく、自然との愛着関係によるもの、とみなすなら、どうして中南米やコンゴのように自然豊かでもトラウマだらけの地域があるのか、という疑問を説明できる。必要なのは、自然がそこにあることではなく、自然との愛着が育まれることであり、愛着が育まれず自然イコール恐怖とみなされていれば、自然の癒やし効果は利用できない。たとえ親がいても、愛着が不安定なら親に助けを求められないのと同じ。

この自然イコール危険なものという条件付けは、何も戦争の土地の子どもたちだけの話ではないことに注意する必要がある。たとえば、リチャード・ルーブの本にも言及している本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかにはこんな記述があった。

『都会の屋外にあらわれる性差』という論文で、著者のジェニファー・K・ウェズリーとエミリー・ガーダーは、「公共の空間、とりわけ手つかずの自然が残る場所や、都市近郊エリアにおける性差の構造が、どのように女性の弱さや、そうした場所への恐怖もしくは『恐怖の分布図』を特徴づけるのか」を調査した。

そこで判明したのは、「私的な空間で女性が受ける暴力の数は、公的な場での数をはるかに上回っている」こと、そして「レイプや暴力など性的虐待の圧倒的多数は密室で行われている」ということだった。

「茂みの陰や奥まった場所ならどこでもレイプに格好な環境になりえるという恐怖から、数えきれないほど多くの女性が、大自然のもつ癒しの効用を利用できないでいるようだ。アメリカ文化の影響下で育ったすべての女性は、こうした恐怖を、赤ずきんちゃんと悪いオオカミの物語を通じて植えつけられてきたのだろう」。(p112)

この本でも指摘されているけれど、自然は危険だという誤った認知が、ニュースを通じて急速に広がっている。本当は、屋内で起きる凶悪犯罪のほうがはるかに多いのに、マスメディアはこぞって自然の中で起きたまれな事件を報道する。(つい今日もワニに女性が喰われたというニュースが報道されていて人目を引いていたが、当然ながら、都市で人が引き起こしているにもかかわらず報道されない事件のほうがはるかに多い) 

統計としては本当は危険度が高くないのに、センセーショナルに報道されすぎて一般民衆が危険だと思い込んで恐怖を抱くというのは、飛行機事故やテロ行為の場合と同じであり(自動車事故による死亡数のほうがはるかに多い)、行動経済学では「利用可能性カスケード」(あまりに多く報道されるために大衆が危険だと思い込み、国の政策方針にまでのしあがる現象)と呼ばれている。本当は夜道は暗いほうが犯罪が少ない(明るいと犯罪者が獲物を見つけやすくなる)のに、人々の恐怖からどんどん街灯を増やす政策が認可されるのも同じ。

この問題はあなたの子どもには自然が足りないの中でも何度も扱われていて、あまりに自然イコール危険というイメージが刷り込まれるため、親たちは子どもを外で遊ばせなくなってしまう(子取り鬼症候群)。そして子どもたちはまったく自然と触れ合う経験がないまま、自然は怖いものだという先入観だけを抱くようになる。それゆえ「大自然のもつ癒しの効用を利用できないでいる」。むろん危険がないわけではないけれど、自然の中で五感を使う経験を積まなければ、結果として動物的本能による危険察知能力が育まれなくなるため、より危険に対して脆弱になってしまう。

「母なる自然」は比喩ではなく生物学的現実

では幸いにも、うまく愛着を獲得できた人はどうなのか。ヒト対ヒトの愛着の場合、安定型の愛着にめぐまれた子どもは、安心できる親のイメージを内在化して、いつでも呼び出せるようになる。そのおかげで、自分を生理的に調節できるようになり、親から離れても安心感を保ち続け、独立していけるようになる。これもやはり、ヒト対自然の愛着でもみられる。

ADHDの子供を診ていて、自分もときどき軽い鬱の状態になると言う、ある精神医学者はこう語る。「私はミシガンで育って、しょっちゅうフライフィッシングをしていました。子供時代の私には、それが心を静める方法でした。だから、気分が落ち込んだと感じると、自己催眠をかけて、あのころの思い出を引き出すのです」

彼はそれを「記憶の牧場」と呼ぶ。彼はADHDには現在処方されている薬物を適切に使うべきだと確信しているが、その一方で自然セラピーがもう一つの療法になるかもしれないと考えてもいる。(p120)

この医師がやっている自己調節の方法は、そのまま愛着理論の安全基地の役割と瓜二つというか、同じもののように思えます。別の若者も、子ども時代に自然の中でキャンプした思い出について「今もときどきこの世界から逃げ出したくなったときには、想像と思い出を通って自然の中に入り込むんです」と言っている。(ちなみにこのADHDの医師のエピソードは、わたしの主治医が前に話してくれた体験と非常によく似ている気がする)(p256)

何より注目に値するのは、それがADHDに効果があるということ。従来のヒト対ヒトの愛着が損なわれた子どもは、ADHDと酷似した症状を見せることがわかっている。今まで、これは、脳機能の「先天的な」発達障害としてのADHDと、「後天的な」発達異常としての愛着障害がよく似ている、と言われていた。しかし実はそうではなのでは?

従来ADHDとみなされていた症状というのは、実際には、そのほとんどがヒト対自然の愛着障害だったのではないだろうか。

自然セラピーがADHDの症状を緩和させることが真実だとすると、その逆も言えるかもしれない。つまり、ADHDは自然との接触を欠くことで悪化させられた一連の症状なのではないだろうか。

薬物療法の恩恵を受けている子供たちはたしかに少なくないかもしれないが、本当の障害は、子供たちの中にあるというよりは、むしろ人工的な環境で暮らすことを余儀なくされていることにある。(p120)

ヒト対ヒトの愛着が損なわれれば安全基地が機能しないので常に闘争/逃走モードのままになって多動症になる。同様に、ヒト対自然の愛着が損なわれた結果、自然が持つ安全基地としての機能が働かないために多動症になっているのが「ADHD」と呼ばれている症候群なのではないか。つまり、遺伝的な発達障害としてのADHDなんてものは初めから存在せず、どちらも愛着、ひいては幼少期の手続き記憶の問題だったのではないか?

ADHDが作られた病だなんて言うと陰謀論扱いされるので、誤解なきようことわっておくと、わたしもADHDの原因は遺伝を含む多因子疾患だと思っています。しかし完全に遺伝のみで起こる発達障害としてのADHDの存在はかなり疑っています。もともと遺伝的な敏感さがある子が、家庭環境であれ、人工的な環境であれ、あるいは食品添加物や睡眠不足などであれ、なんらかの過剰なストレスにさらされた結果、常に闘争/逃走や解離が起こっているのがADHDであると考えて間違いないと思っています。(このあたりはNATURE FIX ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたか の二冊の本を読んで確信した。…が実を言えばトキソプラズマの潜伏感染によってADHD様症状が出ているケースも多そうなので、そう単純ではない) この本で書かれているように、そう思っている人はほかにもいる。

私たちの脳は、5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできているのですよ」と、家族向けセラピストであり、ベストセラーとなった『よい息子』と『少年の不思議』の著者であるマイケル・グリアンは言う。

「神経学的には、人類は今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれていません。ただし脳は強くて融通が利くため、70から80パーセントの子供はかなりうまく順応しています。でも、残りの子供たちにはそれができません。彼らを自然の中へ連れ出すと、状況を変えることができます。ただ、私たちはそのことを事例として知ってはいますが、証明できるまでには至っていません」。(p113)

日本ではなぜか「ADHDは脳の発達障害」だと信じ込んでいる人が多すぎるけれど、ADHDの本場アメリカだと、もっとさまざまな原因の研究が多方面で進んでいるので、日本みたいに単に生まれつきの脳の問題だと思っている専門家や当事者はほとんどいないのでは?と思う。そしてこの本にも大量の研究が引用されているけれど、ADHDの子が自然環境の中に行くと症状が収まり(自然はリタリンのように自己コントロール能力を回復させる作用をもたらすという)、都市に帰ると悪化することを示す研究はたくさんある。ADHDという概念が学校教育の出現と同時に現れたという話とも一致している。

日本ではよく、ADHDの子はじっと座っていることが苦手で、身体を動かしているほうが好きだから学校に合わないだけ、と説明されるけど、それは間違っていると思う。確かに身体を動かすことで症状が軽減されるのはあるはずだけど、たとえばこのエピソードが言っているように本質はそこではないはず。

「息子はまだリタリンの世話になっていますが、屋外ではずっと静かになります。ですから、私たちは山に引っ越すことを真剣に考えているんです」と、ある母親が言った。彼はただ体をもっと動かすことが必要なのだろうか。「いいえそれはスポーツでやっています。自然の中にいると、息子を静めてくれる何かがあるような気がするんです」とその母親は言う。(p113)

もともと敏感な体質の子は、愛着が不安定になりやすく、ADHD症状を示しやすい。それと同じことが、自然との関係の中でも起こっているのではないか、ということになる。都市生活が一般化して、幼少期に自然の中で過ごすことがほとんどなくなり、ヒト対自然の愛着を育めなないと、自然と関わるための幼少期の手続き的経験がないので、自然に組み込まれているリラックス効果を活用できなくなる。それが、常に闘争/逃走状態のADHD症状になってしまう主な理由ではないだろうか。

昔から「母なる自然」という言葉が使われてきたけれど、これは単なる比喩ではなく直観的に正しい表現だったのではないか。動物は、ある意味、文字どおりの親に育てられると同時に、母なる自然にも育てられる。そして自己調節の方法を、親の世話だけでなく、自然の中での体験からも学ぶ。

わたしたちも、ヒトである以前に自然界の中で生きる動物なので、その両者の経験が必要なのではないか。だから、ヒト対ヒトの愛着が損なわれれば多動や不注意になってストレスにも脆弱になるのと同じように、ヒト対自然の愛着が損なわれてもやはり多動や不注意になってトラウマに対して脆弱になるのではないだろうか。

まだしっかり頭の中で整理できたわけじゃないので、うまく説明できているかはわからないけれど、今までの医学は、ヒト対ヒトの親子のつながりなどには注目してきたのに、ヒト対自然のつながりはほとんど考慮してこなかったことが問題です。

たとえば疲労学会などでは、自然の木材でできた部屋とか自然の環境音にリラックス効果があるといった研究があるけれど、そうではなくて、発達心理学としての研究がなされてこなかったということ。自然は単なる癒やし効果をもつ環境なのではなく、自然との関わりの中で、ちょうど親子の関わりのようにして、子どもの脳が発達し形作られていく過程について研究されていない。

「愛着理論の観念から子供と自然の関係を考えることは興味深いアイディアです」とエリクソンは言う。彼女はさらにこう続けた。

「子供たちの自然の世界での経験は、子供の発達研究ではほとんど見過ごされてきたようです。しかし、子供たちの幼児期の自然体験を調べ、それらが子供がその後も自然の中で満足感を得たり自然への尊敬を育むことにどのように影響を与えるのかについて追跡調査すれば、興味深い結果が得られるでしょう。なぜなら、満足感と尊敬は、親子の愛着理論の研究の中心となる概念だからです」(p173-174)

大人になってから自然の癒やし効果を利用すればいいとかそういう話ではなく、子どものころから自然と親しみ、自然の中で身体的経験を積むことによって形成される愛着という形の手続き記憶が、本来、人間をトラウマから保護することに関係しているのではないか。だから、自然が切り離された人間はトラウマに対して脆弱になっているのではないか、という研究が必要だと思う。(一応、マイクロバイオームや衛生仮説の研究はそれに近い内容ではある)

人間は、親によって形作られるだけでなく、自然によって、土地によって、環境によって形作られて、トラウマに対する免疫を獲得するという視点が必要なんじゃないだろうか。

何年も前からコミュニティ・カレッジの教師をしている彼女は、たくさんの学生をここに連れてきた。彼らの多くにとって、こんなふうに自然に触れるのは初めての経験だった。彼女はそのような学生を今まで体験したことのない自然に触れさせるため、ここへ連れてきて教えたのだ。人間が土地を形作るよりも土地が人間を形作るほうが多いが、それはそこに形作ってくれる土地がある限りの話なのよ、と。(p58)

言ってみれば、トラウマを負っている人には、カウンセリングルーム内のセラピーだけでなく、自然界に対する愛着障害の問題の対処も必要なのではないか、自然セラピーというのは、いわば知らず知らずのうちにそういうことをやっている治療だったのではないか、ということです。

母なる自然から切り離された孤児

そうすると、いわば、現代の子どもたちのほとんどは、母なる自然に抱かれた子ども時代を過ごしたことのない孤児だということになる。(何度も言うようにこれは比喩でも詩的な表現でもない)

ふつう子どもは、母親に優しく世話される子ども時代を過ごし、そのときの温かな経験が、基本的安心感を形作る。わたしみたいな人は、ひたすら動いていないと自分の価値を実感できないけれど、普通の人の場合は、ただのんびりと毎日を過ごしても落ち込んだりしないのは、基本的安心感が根づいているから。

しかしそれと同じことが、母なる自然のもとで子ども時代を過ごさなかった孤児たちにも起こり得るのではないか。この本では、「スーパーチャイルド症候群」という言葉が出てきます。これは現代社会の忙しい生活のせいで「無邪気に過ごす子供時代がなくなって」しまったために、いつも追いつめられている子どものことを言う。(p136,141)

本当なら、子どもは何の心配もなく、無邪気に自然の中で駆け回って大きくなっていくもの。無心になって蝉取りをしたり森の中を探検したりするもの。だけど今の子どもたちは、そうした体験をする時間もないほど、学業や習い事に追われている。

これは、わたしたちの社会において、自然の中で遊ぶということが、「レジャー」や「暇つぶし」「余暇の楽しみ方」と見なされていることによる。つまり、削ってもかまわない無駄な時間、あるいは贅沢品とみなされているということ。そのため、より価値があると見なされている勉強や習い事が優先され、子どもたちは自然の中で無邪気に遊ぶ時間を奪われる。しかし、本当に自然の中で遊ぶ時間は、ただのムダなのだろうか? (p130)

実は、子供たちの健康に自然が必要であることを新しい証拠をもって例証するのがますます重要になっているのは、右のような、無理もない風潮あってのことである。つまり、私たちはこう考えてみるべきだと思うのだ ―「自然の中にいる時間は、レジャーのための時間ではない。それは子供の健康にとって絶対に必要な投資なのだ」(p136)

現代人は、良かれと思って、子どもの将来にとって大事な教育を優先しようとして自然の中で遊ぶような「レジャー」や「贅沢品」を犠牲にしている。ところがその犠牲にしている、一見ムダに思える時間こそが、本当は母なる自然と子どもが愛着を築くための唯一無二の時間であり、それが将来ストレスやトラウマを経験したときに自分を癒せるかどうかのカギを握っているというわけだ。

この観点は、睡眠を犠牲にしてきた風潮と極めて酷似している。ほとんどの人は、睡眠とはムダな時間だと思っていて(「惰眠をむさぼる」というような言葉からそれがわかる)、世の中では少しでも睡眠時間を減らそうとして、短時間睡眠メソッドなどの本が人気を集めている。しかし睡眠を減らすとストレスやトラウマに極端に脆弱になることは科学的に証明された事実なので、人々は生産性をあげようとして、実際には一番大事なものを削ってしまっているということになる。

睡眠も、自然の中で過ごす時間も、一見ムダに思えるかもしれないけれど、じつは一番削ってはいけない部分なのだ、というところがまったく共通している。あるいは食事だってそう。これらの共通点はいずれも、動物としてのヒトが本能的に必要としている諸要素であり、学校の勉強や習い事のような理知的また文明的な活動のほうが大事だと錯覚して、本能的に必須のものを削ることで、わたしたちは破綻していっているということになる。むろん理知的な教育が要らないというわけではなく、まず身体の本能的必要を満たしてからでないと、思考を十分に活用する身体的健康が確保できないということ。

そのあおりを最も受けているのが子どもたちであり、わたし自身の経験から言っても、これらの本能的に必須のものが奪われてしまっているために、子どもはスーパーチャイルド症候群とでもいうべき過労状態になって、自らを癒すことができずに追いつめられ、不登校やさまざまな病気になってしまう。

睡眠や自然とのつながりが失われたためにストレスやトラウマに脆弱になった子どもたちが、スケジュールを大量に詰め込まれ過労状態になって、闘争/逃走反応、そして凍りつき/擬態死反応へと変化していった結果が不登校だというわけです。

(ここで書いているようなことは、わたしの精神的な意味での恩師ともいえる、不登校研究の三池輝久先生が、過去のいろいろな本で書いていたことを言い換えたにすぎない。三池先生は、不登校で慢性疲労症候群になる子どもが、睡眠や自然とのふれあいなどが足りなくなって「無邪気に過ごす子供時代がなくなって」、追いつめられ過労死状態になっていると正しく気づいていた。今のわたしは、かつて三池先生の本で読んだことを、トラウマ医学などの分野から裏付けを取っていっているだけともいえる。

三池先生は当時、不登校の症状として起立性調節障害のような闘争/逃走反応の過敏な状態しかほとんど注目されていなかった時代に、本格的に不登校になった子どもはその先のまったく別の死んだような状態になる、と凍りつき/擬態死反応もポリヴェーガル理論も知らなかったにも関わらず正しく指摘していた。まわりの医者からは懐疑の目をもって見られていたようだけれど、実に先見の明のある観察だった。ほかにも三池先生の着眼点は今になってやっと科学的に理由付けできるようになったものが大量にあって、そんなに早くからここに気づいていたのかと驚くことばかりで、わたしは心から尊敬している)

「あまりにもちがう」

最近読んでいた羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季に、幼いころに自然との愛着を培うとはどういうことなのかが、よくわかるこんな言葉が載せられていました。(ちなみにこの本も米Amazonで767件ものレビューがついて星4.6のベストセラーである)

私の祖父は夕焼けのような「美しいもの」を好んだ。しかし、それを描写するときにはたいて説明的な言葉を使い、抽象的かつ感傷的な言葉を避けた。彼は周囲の景観をたしかな情熱を持って愛したが、祖父と自然との関係は、旅行先でのつかの間の恋というよりも、長期にわたるタフな結婚生活という感じだった。

天候や季節に関係なく、祖父の仕事は常にその土地と結びついていたものだった。たとえばちょっとした春の夕焼けも、祖父には大きな意味を持つものだった。これまで六ヶ月のあいだ、風、雪、雨に耐えてくたのだから、「美しい」の一言で言い表せる景色ではなかった。

つまり光景そのものは見るからに美しいものでも、その美しさは機能的な意味合いに満ち満ちたものだったのだ。春の夕焼けは、冬の終わり、あるいは好天が続く季節が来たことを示唆するものだった。(p107)

これこそが母なる自然(この場合は妻なる自然か)と本物の愛着関係を結んだ人の感覚です。自然に触れたことのない現代人は、自然を極端に理想化するか、恐れたり避けたりするかしかできない。教科書で読んだ表面的な知識や、写真で見た風景は知っていても、実体験がないので、表面的にしかわかっていない。しかし自然と共に生き、生活してきた人は、本当の意味での愛着関係、強固な絆を結んで、いわば「信頼」している。現代人が、たまに水族館やハイキングに行って、自然好きを名乗るのとはまったく次元が違う。たまに会いに行く愛人ではなく、共に住む家族でなければ愛着は芽生えない。

そして、そのような母なる自然との愛着関係を結んだ者にだけ感じられる感覚がある。

湖水地方の山で働くことほどすばらしいことはない。もちろん、凍えるほどに寒い日や土砂降りの雨でなければの話だが(しかしそんなときでさえ、窓ガラスに護られた現代生活では経験することのできない活き活きとした感覚が芽生えてくる)。

永遠の時が広がる山は、人間にぞくぞくするような喜びを与えてくれる。私がとりわけ好きなのは、自分よりも大きな何かに包まれているという感覚だ。自分以外の手や眼を透して、時間の深さに遡っていく感覚だ。山で働くことは、山を征服することではない。山はヒトを謙虚にさせ、人間の尊大さや勘ちがいを一瞬のうちに根こそぎにする。(p372)

これこそが「畏怖の念」であり、人間をトラウマの凍りつき反応から引き戻す感覚、「現代生活では経験することのできない活き活きとした感覚」を呼び覚まし、凍りつきと擬態死によって死んだ身体を、生ける者の地に引き戻してくれる感覚、太古の昔から、動物たちを守ってきた感覚なのだ。

そして、彼が言うように、この感覚は、「自分よりも大きな何かに包まれているという感覚」を伴う。これは自分は母なる自然に包まれているという感覚だろう。だから、自然との愛着と、畏怖の念という感覚は根源的につながっているものであるに違いない。逆に言えば、自然の中でトラウマをリセットしてくれる畏怖の念という感覚を日々味わうことができるのは、幼いころから母なる自然と愛着を結んだ人だけの特権なのだ。

現代社会が、子どもたちから自然の中で遊ぶ時間を奪った結果、実際に奪われたのは、ムダな時間やレジャーの時間どころではなく、母なる自然との愛着関係であり、トラウマを負ったときに神経系をリセットしてくれる畏怖の念を感じるための神経学的基礎が奪われてしまっているのだ。

だから現代の子どもたちは、自然に対して恐怖や疎遠さを感じるばかりか、畏怖の念のような「自分よりも大きな何かに包まれているという感覚」がもたらす安心感を感じたことがなく、そうした感覚があるということすら知らずに育ち、結果として、トラウマを負ったときに、凍りつき/擬態死からよみがえることのできないまま、永遠に生ける屍のまま取り残されてしまう。

この本の著者が13歳のときに学校で同級生や教師と比べて「自分たちがちがうのだと気がついた」こと(p9)、また「現代社会というものはいつも、私の望む人生を奪おうとしているかのように思えた」(p130)ことは、わたしが今ここに書いてきた問題を、逆の立場から、対岸から見ればどう見えるのかを物語っている。

わたしは現代社会の中から、現代社会で生まれ育ち、自然との愛着も、畏怖の念も感じたことのない者としてこの記事を書いている。しかし彼はまったく逆の立場、大自然の中で生まれ育ち、自然との強固な愛着を結び、日常的に畏怖の念を感じる立場からこの本を書いている。

その立場から見れば、わたしのような現代社会に浸りきった人間は、「自分たちとちがう」ように見える。それはたぶん、安定型の愛着に恵まれて育った人が、孤児院の孤児たちを見て、自分とは「あまりにもちがう」と感じるのと同じなはず。わたしたち現代人は、自分では気づいていないかもしれないが、母なる自然から切り離され、現代社会という名の孤児院に詰め込まれているも同じなのだ。

そして大自然の中で育った人にとっては、わざわざこんな記事を弄してあれこれ説明するまでもなく、身体的経験をないがしろにして知識だけを詰め込もうとする現代社会は、「私の望む人生を奪おうとしている」脅威に思えるのだ。

(誤解を招かないために書いておくけれども、この本の著者はオックスフォード大学を卒業して現代社会の生活というものをしっかり経験した上でそう言っている。またこの本の冒頭では、もともと自然のもとで育った子どもたちが学校の教室に入れられるといかにストレスで荒れるかが実体験から非常に鮮明に描写されている。そうした子が自然の中では落ち着き、都市では多動になるという傾向は事実であるように思う。しかし現代社会では最初から都市で育つせいでそうした変化を観察する機会がなく、ADHDという生まれつきの固定化した障害であるかのように見えてしまっている可能性がある)

セラピールームの外でするべきこと

こういう観点から考えてみると、わたしは、自分にはもっとセラピールームの外でやるべきことがあるように思います。もちろん、セラピーを通して、身体的な経験を活用する方法を学ぶことは、とても大切。幼少期に自然の中で身体を使って感じるとはどういうことなのか学べなかったからこそ、大人になってからそれを学ばねばならない。愛着を結べなかった孤児にはトラウマのためのワークは必要です。

でも、ラヴィーンの本やルーブの本を読む限り、トラウマの問題というのは、セラピールームの中だけで解決していくもののようにはどうしても思えないわけです。根源にあるのは、ラヴィーンがさっき書いていたように、「私たちが本能的な動物的本性とのつながりを失ったことの副作用」としてトラウマに対して弱くなっていることであり、自然との関わりの中で引き出されていたはずの回復力を利用できないことにあるのではないか、という気がします。

最大の問題は、トラウマによって解離したことではなく、それよりも先に生じていた解離、つまり自然界から切り離された社会に生まれ育ったことから来ているのでは?と思えるわけです。この世界はフラクタル構造ですが、わたしという一人の人間の体内で起こっている解離だけでなく、わたし自身が地球の生態系から切り離されている解離のゆえに、本来あるべき回復力が働いていないのではないか、とも感じます。改めてあなたの子どもには自然が足りない から引用すると、

自然環境の喪失や、手の届くころにある自然からの乖離といった傾向が、人の健康や子供の成長に重大な影響を与えると考える研究者の数は増えつつある。(p62)

ローザックは、『診断・統計マニュアル』の定義では、「『分離不安症』は『自宅や自分自身が愛着を感じている人から離れることへの極端な不安』である。しかし、この不安な時代にあって、自然界からの分離ほどに一般的に分離はない。今こそ、精神の健康を環境に基礎を置いて定義づけしなければならない」と主張する。(p63-64)

ラヴィーンは、著者の中で何度も繰り返し、わたしたちはヒトである以前に動物であることを思い出させています。だから精神や心といったつかみどころのないレベルではなく、本能や感覚といった動物的なレベルで問題に取り組まなければならないと。しかし動物としての本能を取り戻すということは、自然とのつながりを取り戻すこと抜きでは語れないと思います。切り離された自分の身体を取り戻したいなら、そもそも自分そのものが、大自然の生態系という、より大きな身体から切り離された肢体のひとつであることに向き合わなければならないのではないか。

だから、セラピールームで自分の感覚を感じ取ることを教えてもらったとて、ただ日常生活に戻って普段の生活の中でそれを実践しているだけでは、おのずと限界が見えるのではないか、と思います。自分の感覚を感じ取ることを学んだら、自然の中でそれを実践してはじめて、前回書いたような自然の中に組み込まれた回復のための手段を引き出すことができるはず。かの沈黙の春を書いたレイチェル・カーソンはこう述べていたらしい。

子供を自然の世界に紹介する時、知ることは感じることの半分も重要ではない。 (p179)

それなくしては、つまりセラピールームの中で身体的経験に注意を向けるだけでは、セラピーとしてのSEには取り組めても、ラヴィーンが本来想定していたSomatic Experienceという言葉が表す目的の、ほんの半分も味わうことができないのではないか、そう感じました。

前回も書いたように、わたしは今の社会で学問領域が細分化されていることが、問題の解決から人を遠ざけていると思っています。ある意味それは学問上の解離とも言える。学問の区分というのは人が後付けで勝手に考えて切り離したものであって、わたしたちを取り巻く現実の世界にはどこにも境界線のようなものは引かれておらず、あらゆる物事が空間的な連続性をもってつながっています。

そうであれば、その連続性をもった空間で生じる現実の問題が、たとえばトラウマが、医学などという、人間が勝手に切り出した狭いこじんまりとした学問領域の中だけで解決できるはずがないんです。ラヴィーンがトラウマを個人のレベルではなく、人や動物が生きる環境との相互作用として考察している以上、そして芸術や哲学や宗教をも区別なく、博物学的知識を総動員して論じている以上、もはやトラウマは、病院やセラピールームの中の、ヒト対ヒトの関係だけで語れるようなものではないと思うのです。

じゃあどうすればいいのか、というと、まだなんにも答えは出てないんですけどね。ただ、ひとつ言えるのは、わたしはこれまでもずっと、たとえ自分のそれまでの信念と食い違っていたとしても、証拠が指し示す方向に向かって進んできました。前にも書いたように、その結果たとえ自分が元いたコミュニティの人たちと疎遠になろうが、村八分にされようが、わたしは人と異なる決定をするのをためらわなかった。

なんせ、このネット時代に、科学的な研究をじっくり考慮した結果、より創造性が高まる選択だと確信してSNSをやめたくらいですからね。だから、わたしには時代に逆行すると思えるいかなる選択でも、それが正しいと思えば選びとる用意がある。一度すべてを失った以上、もはや何にも執着がないので、あとは正しいと思うことを実践するやり方を考えるだけです。問題はわたし自身に体力にあまりになくて重力に縛られていることです。この第二期のシリーズが終わるころには、そんなわたしでも、ちょっとでも具体的な行動へと進める方法が見つかっていればいいのですが。

最後に近況をひとつだけ。今日、友だちが来たので、たぶん1年ぶりくらいに楽器を弾きました。ずっと体調が思わしくなく、楽器にも触っていなかったんですが、リクエストに答えて、普通に前のように弾くことができました。

改めて身体に閉じ込められたトラウマの中にあるフロイトのこの言葉を思い出しましたよ。「こころは忘れてしまう。でもからだは忘れない―ありがたいことに」(p186)

だけど、わたしは、かえって楽器を弾きながら、自分の手続き記憶がいかに強固で、ずっと使ってなくてもまったく色褪せず、過去のやり方をそっくりそのまま覚えていることにぞっとしていました。わたしの身体が過去のトラウマをずっと記憶したままなのもこのせいなのだから。そして、この強固な手続き記憶をリセットしてくれるはずの本能的機能は、まだ今のわたしからは遠く離れたところにあって手がとどかないのです。いったいどうすればいいのだろう。その答えを見つけ、実践することはわたしにはかなうのだろうか。

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Categories: 5章。2018.06.10