切り離された自分の身体を取り戻すセラピー体験記(3)

前回は、一連の畏怖の念の話題の続きとして、土地への愛着が人を形作るという話を書きました。セラピーの話からずいぶんそれているように思いますが、今後のわたしにとってとても重要な部分だと思うので、この話題についてもう少し書いておきたい。考察ばかり続いているけれど、9回目のセラピーを通して感じたこと、考えたことは、一応今回で一区切りになると思います。

人は植物と同じように土地に「根付く」

前回までの話で、気をつけて書いているつもりが、どうしても自然賛美っぽい方向に偏っていた気がするので、まずそこの軌道修正から。自然の恩恵について考える上で、いちばんまずいのは、科学を否定して原始時代の生活に戻るよう主張したり、極端な環境保護に携わったりするような主義主張に目を曇らされることだと思います。NATURE FIX に書かれているように、そうした主張は平衡を欠いている。

自然を賛美する人たちは洞穴人(とくに男の)を美化しすぎているように思える。たしかに大昔の男たちは筋骨隆々で、獲物を追って草原を駆けまわり、ぱちぱちと音を立てて燃えさかるたき火の灯りで仲間と儀式を行なったのだろう。

でも、いいことばかりではなかったはずだ。狩猟採集民の子どもの死亡率の高さを考えれば、どれほど多くの家族が深い悲しみに暮れていたかがわかる。それに、その日に食べるものさえ事欠いていたに違いない。天候にも苦しめられていたはずだし、縄張り争いもあったはずだ。(p68)

科学を毛嫌いして、原始の生活に戻ろうとするなら、人類がたゆまぬ努力によって克服してきた成果さえ否定してしまう。それは無益な現実逃避でしかない。だから、単に自然が健康にいい、というような桃源郷を求める楽園信仰ではなく、前回書いたヒト対自然の愛着のような、自然との相互作用の中で人がいかに発達していくかを考慮に入れた研究が必要だと思います。必要なのは原始の生活に戻ることではなく、自然の生態系とのつながりを保ちながら、科学的に進歩していくことではないか。

前回も書いたようにヒトが環境の相互関係で形作られていく、という発達と環境をからめた生物学的研究は、今のところ微生物学や衛生仮説の研究が最前線だと思います。これらの領域では、人が幼少期の環境とのふれあいの中で、生物的な免疫寛容を獲得することがわかっている。セラピーの記事で脱線しすぎるのもあれなので詳しくは書かないけれど、現代人に発達障害や自己免疫疾患やアレルギーが増加している理由のひとつは間違いなくここにある。

人間にとって自然が不可欠だということを考えるとき、マイクロバイオームの研究に依拠して思考することは、相反する曖昧な健康療法に振り回されないために必須のことのように思う。

わたしはもともと自分の体調をなんとかするために食事療法から調べ始めて、一時期は特定の厳格な食事スタイルを実践してもいたけれど、数ある食事療法の主張の違いに接して、これらの根底には何か大きな誤解があるに違いないと思うようになりました。

たとえばファストフードの栄養面には大きな問題があるとか、精製された穀物ではなくGI値の低い(血糖値が乱高下しにくい)食べ物を中心にすべきとか、トランス脂肪酸に健康の悪影響があるといったことはどれも間違いないでしょう。けれども過度に肉食や菜食に偏った食事療法は、それぞれの擁護者は一見それが生物として正しい生き方であるかのように仮説を立てているけれど、どちらの立場でもかなり健康に生活できている民族がいるという現実と合わない。同じことは、慢性疲労などの代替療法として注目されている栄養療法にも言える。人間にはこれこれの必須とする栄養素があって、それをサプリメントなどで数値的にバランスよく補充してやればいいという考え方。しかし完璧な栄養バランスの食事を摂っているわけでないのに、健康な人は大勢いる。

これらの健康療法で起こっている問題は、人体を一種の機械とみなしていて、特定の部品や燃料(栄養素)がなければうまく動かないシステムだと誤解していることにあると思う。土と内臓 (微生物がつくる世界) に書かれてるように、わたしたちの体内にいる仲介者、内なる生態系の存在を見逃していることが問題の根にある。

面白いのは、民族特有の食事には、イヌイットのタンパク質が多い食事や、地中海のクレタ島民の脂肪が豊富な食事のような、一見不健康そうなものがあることだ。この逆説への解答は、こうした食事の別の側面にある。(p279)

続く説明を簡単にまとめると、食生活は、内なる生態系との相互作用で考えなければならない、ということ。それぞれの地域のヒトには、それぞれ異なるマイクロバイオームが生息している。わたしたちが食べる食物は、直接消化されて血となり肉となるのではなく、まず体内の微生物たちのエサとなる。そして、その微生物たちがわたしたちの体を作る。

それゆえ、ある地域の人たちは肉ばかり食べても、仲介する微生物たちが必要な栄養素を作り出し、別の地域の人たちは菜食主義でもやはりマイクロバイオームが補う。逆に言えば、自分のマイクロバイオームを考慮していない極端な食事療法は、いかに理論的に正しく思えても、健康に害をなすだけだということ。たとえばイヌイットの人が、肉食は健康に悪いからと言われてマクロビを始めたら、それは明らかに彼らの腸内微生物と合わないので体調を壊すことになるはず。

重要なのは食べる量だけではない。何を食べるかと、私たちの中に何が棲んでいるかも重要なのだ。(p253-254)

私たちの内なる聖所の奥深く、微小な錬金術師たちは大腸を、人間が消化できない複合糖質を発酵させる変成の大釜として使っているのだ。…たとえばパクテロイデス・テタイオタオミクロンは、複合糖質をばらばらにする酵素を260種類以上作る。対照的に、ヒトのゲノムのほんの少ししかコードしていない。私たちは複合糖質を分解する酵素を20ほどしか作れないのだ。(p259)

最近心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までを読んでびっくりしたことですが、自然界における生物の食物連鎖は、体内の微生物によって決定されていることが今日ではわかってきつつあります。たとえば肉食動物が肉を、草食動物が植物を食べるのは、それが体質に合っているからではなく、体内のマイクロバイオームや寄生生物の好みに合っているからであり、極端な話、マイクロバイオームをまるごと入れ替えることができたら、捕食関係が変わってしまうこともありうる。

わたしたち人間が何を食べるかも、人体が何を必要としているかではなく、人体内部にある生態系が何を必要としているかで考えねばならず、その内なる生態系は地域ごとに異なる。

なぜこんなことをわざわざ書いているかというと、これが、前回書いた土地に対する愛着理論を生物学的に説明するひとつの証拠(もちろんこれだけで説明できるわけではない)と思えるためです。

マイクロバイオームの数ある研究の中でも、今ここで重要な意味を持っているのは、さっきの土と内臓の中の次の事実だと思う。

ヒトマイクロバイオームが私たちの免疫機構に欠かせないように、植物の根の内部やまわりに棲む微生物は、植物の防衛機構のために欠かせないものだ。

人間は植物と同じ生物学的防衛戦略に組み込まれている。いずれも特殊化した領域―植物なら根圏、人間なら大腸―に、微生物を呼び寄せる栄養を用意する。これらの部位は、微生物が植物や人間と栄養を交換し協力関係を結ぶ市場として機能する。

本書執筆の準備をしていて偶然見つけた論文の一つに、大腸細胞の粘膜内層の滲出液を餌にする腸内微生物についての記述があった。大腸の滲出液だって? 滲出液は植物界の話じゃないのか? そのときひらめいた。根は腸であり腸は根なのだ!

腸内細菌と土壌細菌の多くが共通して腐生菌[サプロファイト](ギリシャ語でサプロは腐ったもの、ファイトは植物を表わす)の系統にあることは、おそらく偶然の一致ではない。いずれの場所でもそこにいる細菌は、死んだ植物質を分解することに特化しているのだ。

植物の根を、根圏も何もかも一緒に裏返しにしたとすれば、それが消化管に似ていることに気づくだろう。この二つは多くの点で平行宇宙だ。土壌、根、根圏をまとめた生命活動とプロセスは、腸の粘膜内部と関連する免疫組織と鏡写しだ。腸はヒトにとっての根圏、私たちの体の中で、ある目的のために受け入れた微生物がとてつもなく豊富な場所だ。消化管の細胞が腸内微生物と相互作用し、根細胞は土壌微生物と取引する。人間と植物界は共通する主題を持つ―微生物との活発な伝達と交流だ。(p309)

植物の根とわたしたちの腸は、不可解なほど類似した構造になっている。植物は根のまわりに細菌を住まわせ、土の中の腐敗物から栄養を吸収する仲介者にしている。腸は柔毛の隙間に細菌を住まわせ、入ってきたものを発酵させて栄養を吸収している。動物とは、根を裏返して袋状にすることで、動きまわれるようになった植物と言えなくもない。それはつまり、植物が特定の土地に「根付く」ように、動物も特定の土地の生態系に組み込まれるという意味で「根付く」ことを意味している。

地域によって土壌が違うため、植物の根圏には地域ごとに異なる微生物相が作られる。そのため、植物が吸収できる栄養素はそれぞれ異なる。だから、植物は、元いた土壌とあまりに異なる土壌では健康に生きるのが難しい。たとえ栄養バランスが完璧な肥料を与えられたとしても! (現代のサプリメント式の栄養療法が陥っている間違いは、農業におけるリービッヒの最小律が引き起こしてきた問題と等しい。完璧な栄養バランスの肥料で作物を育てていたはずが、土地はどんどんやせ細っていく)

動物も生まれ育った環境を、自分の体の中にある腸内の「根圏」に内在化する。腸内のマイクロバイオームの生態系は、生まれ育った土地やそこでの食生活に応じて形作られていく。マイクロバイオームが形作られる時期は、愛着が形成される時期と一致しているのは非常に興味深い。こうして人を含めた動物もまた植物と同様に、特定の土地に「根付く」。

しかしマイクロバイオームに関する非常に多くの研究が示しているとおり、現代人のマイクロバイオームは撹乱され、貧相になり、内なる生態系が破壊されている。それゆえに、必要な免疫機構が獲得されず、さまざまな病気への脆弱性が生じていると微生物学者たちは述べている。これは、自然の土壌と接することのない都市生活や、抗生物質の乱用、あまりに無秩序な食生活などのために、現代人が特定の土地に「根付く」ことがなくなったからだとみなせる。言うなれば、都市で暮らすようになった人間は、土壌の生態系から切り放されて、ハイドロボールの詰まった室内のプランターで育てられている観葉植物に似ている。

マイクロバイオームの研究をたくさん調べてきて、わたしがずっと思っているのは、ラヴィーンやヴァン・デア・コークが述べているトラウマの問題と、微生物学者たちの言っているマイクロバイオームの撹乱の問題は、おそらく同じもののことを言っているのではないか、ということ。トラウマによって増加する疾患と、マイクロバイオームの撹乱によって増加する疾患の種類が、あまりに似過ぎている。発達障害、肥満、喘息、アレルギー、自己免疫疾患、慢性疲労といった現代において増加している病気は、幼少期のトラウマによってもマイクロバイオームの撹乱によっても増加することが確認されている。

そして愛着とマイクロバイオームが形成される時期が同じであること、愛着が手続き記憶の問題であるのと同様に、マイクロバイオームが失われると条件反射が失われること、愛着が人格の基礎となるように、動物レベルにおいてマイクロバイオームを入れ替えると性格特性まで入れ替わること、愛着もマイクロバイオームも母から子へ受け継がれること、PTSD患者では腸内細菌の乱れが確認されていること、そして極めつけはラヴィーンやヴァン・デア・コークが、トラウマは内臓で経験されると述べていて、解離反応を伝える迷走神経が腸と脳を結んでいることなど、直接の証拠はないものの、間接的な証拠はかなり多い。

こうした類似性に気づいている研究者は絶対にいるので、いずれ近いうちに、トラウマの研究は、マイクロバイオームの研究と交わると思う。(もうどこかで研究されていてわたしが知らないだけかもしれない) あらゆる医学的研究はマイクロバイオームの研究から再構築されるべきだと思う。いずれにしても、マイクロバイオームの研究は、動物が生まれ育った土地との特別な結びつきを育み、それが将来の健康を左右することを確証しているので、今のところヒト対自然の愛着理論の生物学的根拠を求めるとしたら、これを抜きには語れない。

健常な解離現象の謎

とはいえ、マイクロバイオームの研究だけでは、前回書いたようなヒト対自然の愛着の効果をすべて説明しきることができない。どうしても脳神経科学の側の研究で考えないと理解できない部分がある。それがここ最近何度も書いている畏怖の念や畏敬の念といった感覚の抗PTSD効果。

人間は、自然の中にいると、健全な意味での不思議な解離現象を頻繁に経験する。そして、そうした解離現象にこそ、トラウマ反応をリセットする効果がある。前回も参考にしたあなたの子どもには自然が足りない から引用すると、たとえばこんな話があった。

本書の執筆に向けた調査をしている時、多くの大人たちは畏怖の念とともに、自然は子供だった自分の精神の発達に大きな役割を演じたか、そしてそれは年齢ともにますます深まっていったと雄弁に語ってくれた。(p323)

ウイリアム・ブレイクやウイリアム・ワーズワースなどの、幻視者的な資質を持った詩人たちは、子供たちを精神的に自然へと結びつけた。子供のころ、ブレイクは預言者エゼキエルが木の上に座っているのを見たと周囲に告げた(そのため親からひどく叩かれた)。彼はまた木の枝の上に天使がいっぱいいて、歌っていたとも言った。ワーズワースは子供時代に自然の中で信じられない経験をしたことを『雲海不滅の頌』に記している。

牧場も森も小川も
土も、目に入るものすべてが
夢のような栄光と新鮮さの
天空の光を装っているように
私には見えたのだ(p324-325)

これらをオカルトやスピリチュアルの神秘現象だと言ってしまうことは簡単だけれど、解離の研究に接してきた人ならみんな知っているように、これらは神秘現象ではありえない。間違いなく現実の現象であり、頻繁に起こっている。解離を研究する人は、こうした現象と真っ向から向き合い、科学的に説明できなければ先に進むことができない。

日本人にとってこうした話で一番馴染み深いのはとなりのトトロだったり宮沢賢治の詩だったりするかもしれない。わたし自身も経験してきたことなので確証できるけれども、これらは比喩でも感傷に満ちた子ども時代の回想でもなく、現実の神経学的な体験で間違いない。(となりのトトロの発達心理学的考察についてはおさなごころを科学する: 進化する幼児観を、宮沢賢治の解離方面からの解説については解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理を参照)

NATURE FIXに書いてあるように、海外にもそういう話はたくさんある。

その昔、フィンランドには小さな森の妖精が棲み、けたたましい音を立てたり森に無礼を働いたりする人間に呪いをかけていた。呪いをかけられた者は「メトサンペイット」に遭う。翻訳すれば「森隠し」といったところだろうか。突然、自分がどこにいるのかわからなくなり、方角の感覚も失う。見慣れたものはどこにもない。ある種の激しい陶酔状態におちいり、幻覚が見え、超常現象を体験する。(p178)

極限状況下でサードマン体験などの幻視や幻聴、また臨死体験や体外離脱が起こるのもそう。それらはすべて実験室である程度再現されていることから、現実の神経学的基礎をもった現象だとわかる。しかし、単に感覚統合が乱れるからそうなるだけでなく、解離が防衛機制であるという性質からすれば、そうした体験がトラウマから保護し回復させるきっかけとなるので、人間の本能にプログラミングされているのだろう。

だから、子ども時代に自然の中で育った子どもが、現代の都市生活で育った子どもよりも、となりのトトロのような解離体験をしやすいことは、病的なものであるどころか、たぶんトラウマに対する耐性を強化し、レジリエンスを与える健常な解離現象なのだと思う。前述のメトサンペイットもそう。

「メトサンペイットが悪いものとはかぎらない」と彼は説明する。長身で細身、すべすべとした肌の持ち主のレッパネンは、緑色のウールのセーターを着て、幹が途中から横に湾曲した松の木のそばに立っている。

「メトサンペイットは、美に埋没することでもある。自由という感覚、自然との一体感、歓喜を味わうという意味もあるだろうね。この詩は、そうしたものを表現しているんだよ」ということは、メトサンペイットは森林浴の一種というるのかもしれない。(p179)

以前のセラピー体験記の考察で書いたように、こうした状態のときは、脳の島皮質が活性化して、自分が世界とひとつであるという高揚感や幸福感が生じると言われている。これは病的解離において、島皮質の活動が極端に低下するのとは、真逆の現象。脳の島皮質は内部と外部の感覚を統合し、予測エラーを処理していると言われる。

脳は予測エラーの量によって、「自己」と「非自己」を区別しているらしい。予測と一致していれば自分の体であり、一致していなければ、他人の体だとみなすということ。病的解離においては、脳の予測と感覚が一致せず、予測エラーが大量に生じるので、自分の体でさえ自分のものではなく、まったく異質で阻害されているように感じる。そして慢性的な不安感が引き起こされる。しかしメトサンペイットのような健常な解離現象の場合は、脳の予測があらゆる感覚と一致しているため、世界そのものが自己の一部であるかのように感じられ、何もかもわかったという恍惚感が生じる。

このことからしても、健常な解離現象が、病的な解離をリセットする役割を持っていることがうかがえる。メトサンペイットや臨死体験のような、畏怖の念をともなう健常な解離を経験すると、トラウマの病的解離で活動低下している島皮質が、まったく正反対の方向に振れて、不安や恐怖ではなく恍惚とした喜びに満たされる。

(PTSDでも島皮質が活性化しているけれど、PTSDでは島皮質と同時に危険を知らせる扁桃体が活性化しているので危険で我を忘れるのに対し、健常な解離では島皮質と同時に報酬系などが活性化して心地よさや驚きで我を忘れるのではないかと思う。ある意味PTSDと解離の両方の良い部分の特徴を持った現象?)

自然の中で育った人たちが、成長過程の中でこうした経験をすることを考えると、ある意味、わたしたちは本来、そうした体験をしながら自然と愛着を結び、成長していくようにできているということになる。子ども時代に(そしてできるならば大人になってからも)、自然の中で恍惚や畏怖の念をともなう健常な解離現象を経験することで、トラウマに対する免疫が育つといえる。(これは今のところマイクロバイオームの視点からは説明しようがないが、さっきの脳科学的な視点からすればいずれ説明できるようになるのかもしれない。いわば健常な解離とは、自分の体内の生態系、また体外の生態系すべてが協調して一体になって機能していると感じられる瞬間なのだ)

こうした健常な解離現象が、もともとは人間の発達に組み込まれた必要不可欠なプロセスだっったという可能性を示唆しているのが、オリヴァー・サックスが見てしまう人びと:幻覚の脳科学 の中で触れている有名なジュリアン・ジェインズの説。

しかし、逆のことを問うべきなのかもしれない―なぜ大半の人には声が聞こえないのか、と。ジュリアン・ジェインズは1976年の話題作『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』のなかで、少し前まで、あらゆる人間に声が聞こえていたという仮説を立てた。自分の脳の右半球から発せられるのに、まるで外から聞こえているように(左半球)によって知覚され、神々からの直接的なメッセージとしてとらえられたというのだ。(p85)

ジュリアン・ジェインズは、文明が発展する以前の人たちは、日常的に神の声としての幻聴を聞いていたのではないか、という一見とっぴな説を立てた。そんなばかなと思ってしまうけれど、自然の中で健全な解離現象が起こるという証拠を調べれば調べるほど、本当にそうだったのではないか、と思えてくる。

今でも一部の子どもがイマジナリーフレンドという形で空想の友だちと出会うが、もともとは一部のみならずすべての子供がそういう感覚を持ち、ことによっては大人になってからもそれを保持しているのが普通だったのではないかと。だから古代の人たちはもっと神や精霊の存在を身近に感じていて、そこから一種の安心感を得ていたのではないかと。

確かに自然の中で育ち、自然と愛着関係を育んだような人たちは、ウィリアム・ブレイクやワーズワース、さらにはとなりのトトロのような形で、自然の声を聞いたり、見えないものが見えたりする。いや逆にそうした幻覚が「母なる自然」が語りかけてくる声のように感じられからこそ、愛着が育まれるというべきか。そして当然そうした感覚は、自然に対して畏怖の念を感じるときのベースになる。現代人が自然界に対して畏怖の念を感じられないのは、幻聴や幻視レベルに真に迫る自然の語りかけを聴くことができないから、なのかもしれない。

あなたの子どもには自然が足りない によると、こういう話は、わたしが言い出すまでもなく、かのカール・ユングがすでに言っていたらしい。

もちろん、そのような発想をセンチメンタルなたわごとだとみなす人もいる。無心論者だったジークムント・フロイトは、そのような神秘主義は、子宮の中での「海洋的体験」への退行だと考えた。エドワード・ホフマンは『無垢の幻視―子供の精神的、霊的体験』の中で、「フロイトは子供時代を最も低次元で動物的な衝動が強い時と見た」と記している。フロイトの見解によれば、子供とは自己満足のために近親相姦的な欲求に押されて本能的に動く生き物なのだ。木の枝の上に翼の生えた天使たちを見るには十分ではないが。

カール・ユングはフロイトの最も知的に親密な友人だったが、1913年に袂を分かち、東洋哲学、神秘主義、妖精物語等に影響を受けた人間の心理についての新しい説を発表した。ユングは人間の後半生は幼児期の空想的な経験に近づいていくと考えた。(p324-325)

トラウマと身体に書かれているように、解離を否定したフロイトと違って、ユングは解離の擁護者だった。だから、同じように解離について調べてきたわたしも結局ユングと同じテーマに直面することになってしまったのだろう。(ユングはHSPの概念の祖でもあるし)

ユングはポスト・トラウマのストレスにおいて決定的な問題は心理的解離であるという点でマクドゥガル(McDougall,1926)やマイヤーズ(Myers,1940)と同意見だった。彼はトラウマ性の記憶は心の解離を生むと主張した。

すなわち「それは意志のコントロールを離れ、それゆえ、心的自動性(psychical autonomy)という性質を持つに至る」。「治療者の支持と理解は患者の気づきの度合いを増し、意識の上で自動的に解離したトラウマ性の記憶を再び意識的なコントロールの下に置くことを可能にする」(p367)

ただユングはこうした健常な解離現象とは何か、すっきりと説明することができなかったようだし、わたしも今ひとつまだわかっていない。あまりにも医学や心理学ではネガティブ感情が注目されすぎていたため、ポジティブな感情の機能となると、近年のポジティブ心理学でしか研究されていなくて歴史が浅いし、その中でもとりわけ不可解な畏怖の念のような感情は、本当にごく最近やっと科学的な解明が始まったのといえる。逆に言えばそろそろ、ちらほらとそういう研究が出てきているから解明が遠いわけではなさそうだともいえる。

健全な解離と病的な解離の考察

自然の中で健全な解離現象が引き起こされる理由は、今のところはまだすっきり説明できない。すでに手がかりとなる研究はされている可能性は高いが、たぶんわたし自身の脳科学的な知識が足りないんだと思う。ここでは今のわたしが思いつくものをいくつか挙げておく。(今までもよくそういうことはあった。断片的なパズルのピースしか手元になくて、それをとりあえずまとめておけば、後になってそれらを統一してくれる理論が見つかって、あるべきところにおさまるということが)

古代の人々が健常な解離現象を日常的に体験していて、となりのトトロの舞台のような自然の中にいることが鍵を握っているとすれば、おそらく健常な解離も病的な解離と同様、特定の環境刺激によって引き起こされるものだと思う。

この二種類の解離はどちらも背側迷走神経のブレーキと関係しているが、たぶん効果が正反対だ。ひどく苦痛で圧倒されるような感覚に遭遇した場合はガクッ急ブレーキがかかって病的解離になる(島皮質の活動が低下して刺激がシャットダウンされる)のに対し、逆にえもいわれぬ快感に圧倒されるような感覚に遭遇した場合は、ブレーキが完全に解除されて健常な解離が起こる(島皮質の活動が活性化して刺激に完全に身を委ねる)のだとみなせる。圧倒されるような刺激に対して、刺激をシャットダウンするのが病的解離なのに対し、逆に完全に刺激に対して門を開くのが健常な解離だと考えることができる。

それはたとえば、愛情に満ちた性的快感のときに起こるし、自然界の中での畏怖の念によっても起こる。あなたの子どもには自然が足りないによると、現代において、しばしば性的快感に関連して使われることがある「エクスタシー」という語には、もともと次のような意味がある、というのは興味深い。

チョーラは、より最近の研究では「我を忘れる(エクスタティック)場所」について探っている。この場合の「エクスタティック」というのは、ギリシア語本来の意味である。現在は「エクスタシー」といえば喜びとか恍惚という意味で使われているが、古代ギリシアで使われていた「エク・スタティス」の意味は「際立った」とか「自分自身の外側に立つ」だった。

こうした喜びや恐れ、あるいはその両方を伴うエクスタティックな瞬間、すなわちチョーラの饒舌な表現に従えば、「私たちの生涯にわたってエネルギーを放射しつづける、体内に埋もれた光り輝く宝石」と呼ぶべき瞬間は、人格形成期に、しかも自然の中において、最も頻繁に経験される。(p103-104)

古代ギリシア以前の人々(自然の中で日常的に幻聴を聞いていたと思われる人々)は、現代人が性的快感などのときに感じる、背側迷走神経が快感で圧倒されるような体験を、もっと頻繁に自然の中で、メトサンペイットのようなかたちで経験していた可能性がある。(とすれば、現代文化にポルノや性的倒錯が蔓延しているのは、現代人が自然から切り離された反作用なのかもしれない。本来自然の中でもっと穏やかに頻繁に感じていたはずの「エク・スタティス」がなくなってしまったせいで、その埋め合わせとしてポルノや性産業の「エクスタシー」にはまり込んでしまったのではないだろうか)。

この前セラピストに聞いたところによると、スティーヴン・ポージェスが最近、ポリヴェーガル理論を少し改定して、健全な背側迷走神経の働きというのを付け加えていたらしく、そのあたりの文献が邦訳されるのが待たれる。おそらく、それは、身体に閉じ込められたトラウマでラヴィーンが指摘しているのと同じものだと思う。動物がふるえによってトラウマ反応をリセットすること、人間が畏怖の念によってやはりトラウマをリセットすること、さらには性的快感がおそらくは背側迷走神経の反応で処理されていることなど。背側迷走神経系の病的解離をリセットするための、同じ背側迷走神経系の健常な解離というものが存在しているのはかなり確かだと思う。(p20)

ラヴィーンはこの本の中で、書ききれなかった話を続編の「記憶、トラウマ、そして身体」と「トラウマとスピリチュアリティ」という本で書く、と最後に宣言していて、前者のほうはもう翻訳されている。たぶん後者のほうの本が書かれて翻訳されたら、ここに書いた疑問にも役立つ情報が記されているんじゃなかろうか。(p421)

自然の中であれば、健常な解離現象が生じるのに、人工的な環境ではそれが生じないことを示す研究は、あなたの子どもには自然が足りないによると、現代の心理学の研究の中にも見出される。

この分野において初期の理論付けを行なったのは、ケンブリッジに住む建築家であるサイモン・ニコルソンだった。彼は、20世紀英国の最も卓越した芸術家であるベン・ニコルソンとバーバラ・ヘップワースの息子だ。…ニコルソンの「ばらばらな部品」説は多くの景観設計者や子供の遊びの専門家によって取り入れられた理論である。彼自身の要約によればこの理論は、「いかなる環境においても、創意工夫と創造性の程度、そして発見の可能性は、その環境の中に含まれている“変数”の数と種類に比例する」というものだ。(p94)

自然界と人工的環境では、そこに含まれる刺激の種類と数がぜんぜん違う。だから子どもの遊び方までぜんぜん違ってくる。

スウェーデンで行なわれた研究によって明らかになったのだが、アスファルトの遊び場で遊ぶ子供たちは、何度も中断をさしはさんだ、細切れな遊び方をする。その一方で、より自然に近い遊び場で遊ぶ子供たちは、一つの長大な物語を織り上げる遊びに何日もふけりつづけ、次々に物語の意味を創っては組み合わせ、その物語を完成させるのである。

…スウェーデン、オーストラリア、カナダ、そして米国で、緑の多い遊び場をもつ学校と人工的な遊び場のある学校の子供たちを調べたところ、子供たちは緑の遊び場でのほうがずっと創造的な遊びをすることがわかった。これらの研究の一つでは、より自然が多い学校の校庭では、子供たちは男の子も女の子も平等なかたちで一緒に遊ぶことのできる、より空想的なごっこ遊びをした。

他の研究では、子供たちが驚きや畏怖の念を感じるより高い能力を示したことが報告されている。…子供たちはより空想的な遊びをするようになり、彼らの上下関係は、身体的能力よりも言葉を使う能力や創造性や創意工夫によって決まるようになった。(p96)

自然豊かな環境で遊んだほうが、より長時間遊んだこと、より空想的になり、驚きや畏怖の念を感じたことは、フロー状態や空想の友だちのような、健常な解離現象が生じていたことを示唆している。人工的な環境では、健常な解離現象が生じない(むしろたぶん病的な解離現象が生じやすくなる)のに対し、自然豊かな環境はとなりのトトロ式の健常な解離を誘発させる。

これはつまり、脳科学的に言えば、自然豊かな環境は背側迷走神経の健常な反応パターンを手続き記憶としてプログラミングするのに対し、人工的な環境はそれができないということになる。そのため、その後の人生において、自然豊かな環境で育った子供は病的な解離を起こしにくくなり、人工的な環境で育った子供はトラウマへの耐性が脆弱になるのではないか、といえる。この子どものころの健常の解離の経験(手続き記憶)こそが、のちのち病的な解離から回復するときに自然の恩恵を活用できるかどうかを左右するレジリエンスではないのだろうか。

自然の中の環境刺激は、ニコルソンのいう「ばらばらな部品」の性質をもっていて変数が多いというのは確かだけれど、それだけでなく、おそらく「揺らぎ」または「ランダム性」が極めて重要な意味を持っているはず。

人工的な環境での刺激は、たいてい均一であるか、同じパターンを繰り返すものばかり。数学的にいうと、人工的な環境の中の刺激は、循環少数的なもの(0.56565656…)が多い。等間隔で、同じ刺激を繰り返すようなもの。それに対し、自然界の刺激に組み込まれている数列は、フィボナッチ数の黄金比や円周率に代表されるようにどこまでも予測できないパターンが続く無理数(1.618033988…)が多い。

人間の右脳はパターン発見能力に秀でているため、おそらく子どもはパターンのある単調な刺激と、パターンのないランダム性をもった刺激とを瞬時に区別できるのではないか?と推測する。そして、パターンのある単調な刺激ばかりの人工的な遊び場ではすぐに飽きて遊びを中断するのに対し、パターンのないランダム性刺激からなる自然の遊び場ではいつまでも飽きずに没頭できるのではないか。

おもしろいことに、おさなごころを科学する: 進化する幼児観には、イマジナリーフレンドをもつ子どもはランダムな刺激に対して、「生き物らしさ」を見いだすという研究があった。

筆者らの研究では、幾何学図形二つ(大きい三角と小さい三角)が動く様子を幼児に示し、それらの図形に生物学的特徴(例 自動的に動くか)や心理学的特徴(例、喜ぶか)を帰属させるかを検討しました。…空想の友達を持つ幼児は、持たない幼児よりも、ランダムに動く図形に対して、生物学的な特徴を帰属させやすかったのです。これら3つの研究結果を考慮すると、空想の友達を持つ幼児は、持たない幼児よりも、人間や人間以外の生物を含めた行為者らしさを、ランダムな刺激の中に読み取る可能性が高いことを示唆しています。(p259)

おそらく、ウィリアム・ワーズワースやウィリアム・ブレイクのような人たちが、そしてとなりのトトロのサツキとメイが、子どものころに自然の中で、幻聴や幻視を伴うような神秘的体験をするのは、この研究から説明できる。人工的環境ではパターンのある刺激ばかりなので、子どもはそこに「行為者らしさ」、言い方を変えると「だれかがいる」という感覚を持たない。しかし、自然の中ではランダムな刺激が多いので「だれかがいる」と錯覚しやすい。これは一種の解離現象とみなせる。(解離性障害において、「だれかがいる」と錯覚してしまう気配過敏が頻繁に見られる。柴山先生はこの特徴を解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理という本のタイトルにしてしまっているくらいだ)

このランダム性を持つ刺激に対して、「行為者らしさ」、背後にだれかいるのではないか、という感覚を持つのは何も子どもだけではない。数学者は、自然界のいたるところに、フィボナッチ数の黄金比や円周率、素数の並びが組み込まれていることを不思議に思っている。研究者によっては、そうした無限のランダム性に魅了されて、背後に神がいると感じる人もいる。決まった周期のないランダム性は、単純なパターンに比べるとはるかに複雑で予測できないので、予測できない振る舞いをする他者が背後にいる、という感覚をわたしたちにもたらすのだろう。

今引用した研究の中で、予測できない刺激に生物学的特徴を感じるひとつの例として「自動的に動く」という表現がつかわれていたのは興味深い。こちらの意思に関係なく、自動的に、おのずから、ひとりでに動くようなものに、わたしたち生き物らしさを感じやすい。ただの図形でも、それがパターンによらずランダム性をもってひとりでに自由に動いているように見えれば、意思をもった生き物のように見えてくる。

そして、人間はそうした生き物らしさを、自然界に対して昔から見出してきた、というのが、言語学における中動態の研究だ。中動態については、解離の研究とのオーバーラップがあるので過去に何度か取り上げてきた。

中動態は、自然界に特徴的な「おのずからなる」という現象を示すために発達したとされる言語の形態。たとえば日本語では「見える」「思われる」などがそれにあたる。「私は風景を見る」ではなく「私には風景が見える」という書き方をすると、自分の意思で風景を見ているのではなく、風景がおのずと目に飛び込んでくるような印象を受ける。そして、この中動態の表現は、そもそも日本語における「自然」という言葉が「おのずからしかり」とという漢字で構成されているように、自然の刺激に対して頻繁に用いられてきた。

芸術の中動態―受容/制作の基層によると、中動態という概念は、それ自体が生き物として魂を持っているかのように生き生きとしていることを意味している。

最後に注目しておきたいことは、本章で取り上げた中動態で表される事態が、いずれも「生き生きした lebendig」出来事として経験されるということである。…カッシーラによれば、ヤーコブ・グリムjakob GRIMMは

真の本来的な中動態は一般に、内的な魂や身体において生きいきとlebendig生起していることを表示するためにつくられた。

と述べているという。(p135)

言語における中動態の表現はもともと、古代の人たちが自然のランダム性を観察するなかで、あたかも自然が自ら意思を持って生きているかのような人格性を見いだして、その特徴を表現するために使ってきた語彙だとみなせる。

そして近年、この「中動態」が言語学から失われ、語彙としては存在していはいるものの、その意義を見過ごされるようになってしまったのは、人間が自然から切り離されたことと時を同じくしているように思える。まだ人間が自然とつながっていた時期には、「中動態」の持つ、おのずからなるという概念が当たり前のように、何の疑問も抱かれずに使われていたのに対し、自然から切り離されてしまうにつれ、人々の概念から「中動態」が消え、よく知られた「受動態」と「能動態」のみへと収束してしまった。

自然の中のランダム性刺激があふれる環境からは、人手によらずして何が生じるという感覚を日常的に感じられるのに、人工的な環境で暮らすようになって自然から遠ざかったせいで、パターンのある単調な刺激ばかりにさらされるようになってその感覚を失ってしまったからではないだろうか。

これは、人類が文明化するにともなって、信仰心が薄れ、無神論が増加していったこととも連動しているように思える。もともと人類は、幼少期に自然の中で育つなかで、ランダム性刺激の中に「だれかいる」という感覚を抱き、神や精霊のようなものとみなしてきた。だから、ジェインズが言うように、古代の人たちは神の声を聞くことができた。

しかし自然の環境から切り離され、人工的な環境で住むようになると、単調なパターンの刺激しか身の回りにないので、逆に「だれもいない」と感じるようになった。その体験がそのまま「神はいない」「神は死んだ」「妖精や悪魔はおとぎ話の中のもの」といった思考につながっているということではないだろうか。

(こういった研究は認知科学者パスカル・ボイヤーの神はなぜいるのか?で考察されているが、人間がランダム性刺激の中に人格を持った存在を見いだすという事実と、神はいるのかいないのか、という問題は別であることはわきまえておく必要がある。確かに人間は自然の中にアミニズムとしての神をたくさん見出してきたかもしれないが、だからといって神の概念のおこりは人の錯覚だったのかというとそこまでは言い切れない)

ここまでの話をまとめるとこうなる。人は幼い頃に自然の中で過ごすことで、ランダム性刺激によって「だれかがいる」という感覚を伴う健常な解離反応を経験しやすい。そうした健常な解離は自然の中で発揮される空想的な遊びやフロー状態、幻覚などの神秘体験、畏怖の念などとして経験される。健常な解離では、島皮質が活性化し、予測エラーがほとんどなくなるため、人は自然と一体化したような恍惚感を感じる。その体験が手続き記憶として記憶され、病的な解離とは正反対の背側迷走神経の反応パターンが育まれることで、のちのちのトラウマ体験に対する免疫が作られる。これがヒト対自然の愛着の脳科学的な説明ではないか。

ヨブ記

この、自然の中に「だれかいる」という感覚は、心理学的な意味では、母なる自然に親しむ中で、父なる神のような人格的存在を見いだすという形で愛着を育むものとなるかもしれない。自然のもとで育った人が、辛いことがあっても自然の中に行って包まれるような安心感や、畏怖の念を感じることができるのは、生物学的・脳科学的な基礎があるとはいえ、少なくとも個人の認識のレベルでは、こうした霊的な愛着関係だとみなされやすいのではないかと思う。

ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマの中で、身体で感じることの例として、旧約聖書のヨブ記の物語に再三言及しているけれども、この物語は、たしかに今考えたような観点から考察すると非常に興味深い。(p336,414,418)

この物語を要約してみるとこうなる。主人公であるヨブは、ある日突然、ひどい災難に見舞われ、子どもたちをすべて失い、財産も無くし、重病に冒される。そこに友だちがやってくるが、あれこれと苦しみの原因を的外れに推測するだけで何の慰めにもならない。しかし最後に神が直接ヨブに語りかけ、自然界の驚くべき驚異を見せる。するとヨブは畏怖の念を抱き、病気から回復して祝福される。

これは現代のトラウマ当事者の問題に対するメタファーになりうるように思う。ヨブの苦しみの原因をあれこれと説明しようとした友人たちの努力は彼に何の効果ももたらさなかった。しかし神と自然の驚異を見せられると、彼は自分がなぜ苦しみに遭ったのかまったく説明してもらえないらもかかわらず、胸を打たれて変化を遂げてしまった。

つまり、本で知識を集めたり、カウンセリングを受けたりして、自分の苦しみの原因を、理知的にあれこれと探っても、何一つ問題は解決しない。そのいっぽうで、大自然の中で畏怖の念を感じるような経験をすれば、自分の苦しみの原因が何一つわからなくても回復してしまえる可能性がある。問題の原因は認知のレベルにあるわけではないので、言葉で理由を考えても回復できない。しかし大自然の中で畏怖の念を感じ、いわば「神を見る」かのような体験をすれば、生物学的に背側迷走神経がリセットされるので、自分の抱えていた問題がちっぽけなもののように思え、すっかり回復してしまうことがありうる。だからラヴィーンはこう書いている。

体現化の本質は、本能を拒絶することにではなく、本能を十全に味わい、それと同時に、根源的な生のエネルギーを利用して、徐々に微妙な質的体験を促進していくことにある。「ヨブ記」には「私は、私の肉から神を見るのだから」とある。(p336)

またユダヤ教の家庭で育ったオリヴァー・サックスも、左足をとりもどすまでの中で事故の身体的トラウマで足の感覚がなくなるという絶望的な解離状態から回復したときに、やはりこのヨブ記から引用しているのは偶然ではないのだろう。

私はすぐに、神がヨブにたずねられたことを思いだした。「私が地のもとを基えた時、どこにいたか? だれが度量を定めたか?」私は畏敬の念をもって、この私が「ここにいて」「地のもとの基えられし時を見た」のだと思った。

さらに、ガタガタとゆれる映画の画面のような足の変化を見て、私はプランクとアインシュタインのことを考えた。量子論と相対性理論の出所がおなじだなんてことがあるのだろうか。私は世界の誕生、「ビッグバン」の直後、10^-45秒のうちに、「プランク以前の時」を経験していたようなものだ。宇宙科学者が論じている「想像もできないような時間」である。

…私はこの驚異の出来事に酔いしれていた。「これこそ、一生のうちでもっともすばらしい出来事だ。このすばらしい瞬間をけっしてわすれてはいけない。これを自分だけの秘密にしておくことなどできない」ふたたびヨブ記の一節が心にうかんできた。「どうか、私のことばが書きとめられるように。どうか、私のことばが書物にしるされるように」私は自分の経験を語らなければならないと思った。(p171-172)

またしても畏敬の念! オリヴァー・サックスのような脳科学者でさえ、解離症状の回復のときに、ヨブが感じたような畏怖の念の体験が鍵を握っていたと述べている。むろんサックスはここでは自然界の風景ではなく、自分の身体の内部の感覚の神秘に対して畏敬の念を感じたわけで、たぶんそれはSEのセラピールームで起こるものと似ているんだろうけど、ひとたびブレーカーが落ちて断線していた神経が畏怖の念によって復旧するのは同じ。

ここではもう引用しないけれど、HSPのエレイン・アーロンの本も、最後は畏怖の念についての話題で終わる。トラウマの解離状態から回復するには、あるいは感受性豊かな人が、健康を維持するには、どうしても畏怖の念という感情が不可欠であるかに思える。(エレイン・アーロンは敏感すぎてすぐ「恋」に動揺してしまうあなたへ。のP291でやはりヨブ記に言及している)

ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマの中で、ユングの次のような言葉を引用している。

ユングは続けて次のように述べている。「感覚の中心的部分は、宗教的出会いに最も敏感な、精神の原始的領域である。信念や理性だけでは魂が揺さぶられることはない。感じることなくしては、宗教的意義はただの空虚な知的運動になってしまうのだ。これは、最も生き生きとしたスピリチュアルな瞬間が、感動的である理由だ」。

宗教的経験の本質は、生き生きとした力―命ある出会いの中のスピリット(spiritus)を感じる行為である。私のクライアントが自らの内側から溢れる活力を経験したとき、彼らが宗教的畏怖の側面にも遭遇していたことは驚くことではなかった。(p413)

しかし、だからといって、わたしはトラウマからの回復には「スピリチュアルな」体験が必要だとは決して言わない。こうした体験をただスピリチュアルな属性に帰してしまうことは、思考の放棄だと思う。最初のほうで書いたように、解離を調べる人は、必ずこの問題と真正面から向き合わないといけない。

確かに個人のレベルでは、畏怖の念をスピリチュアルな体験だと思っていようが霊的啓発だと思っていようが間違いなく益は得られる。しかし解離を研究したいのであれば(わたしは専門家ではなくただの物好きな個人にすぎないが)、いかにスピリチュアルな体験であるように思えることでも、それに神経学的な裏付けを与えていかなければいけない。畏怖の念とはいったい何なのか、わたしは身体で経験したいと同時に、頭でも知りたい。人間性と科学の融合、それこそわたしが尊敬するオリヴァー・サックスが生涯をかけてやったことなのだから。

感覚をフル活用できる場所がないと意味がない

というわけで、3回にわたって書いてきた畏怖の念についての考察は、これでちょっと一段落のつもりです。細部の参考文献は書きすぎると話の流れが阻害されるのでかなりはしょりましたが、考えたことの大枠はメモできたかな。そのうちちゃんとした記事に整理しなおせたらいいんですけどね。

こうやって考えたことを一言でまとめると、どうやら、病的な解離というのは圧倒されるような不快な感覚を全部遮断する反応なのに対し、健常な解離というのは圧倒されるような快感を全部受け入れる反応だろう、ということです。

ということは、そもそも安心してすべての感覚に身を委ねられる環境がなければ、健常な解離を経験できない、ということになります。それがために、単に自然があればいいのではなく、自然との愛着関係が不可欠なんです。たとえばコンゴのような国は確かに自然豊かかもしれない。でもあまりに残虐な紛争がはびこりすぎて、人々は自然に対する愛着を築けていない。安心して自然の感覚にすべて身を委ねることができないので、自然の癒やし効果も利用できず、トラウマがはびこることになってしまいます。

だとすると、都市生活を続けたままSEのセラピーを受けるのもこれと似たようなものなんです。SEのセラピーによって、麻痺していたはずの感じる能力をよみがえらせることはできる。しかし、鋭敏になった感覚を現代社会の都市でフルに使用できるかというとそれはできるはずがない。もし現代社会で五感をフル活用したら、電車や自動車の音、無機質な都市の景観、化学物質のにおいなどに圧倒されてしまう。だからせっかくSEで感覚をとぎすませても、都市で生活していくうちにまた過剰な感覚から身を守るために解離していってしまう。

まず(1)SEで感覚を感じる能力を訓練すること、次に(2)その培った感受性をフル活用できるよう環境で、五感を使って世界を味わい、健全な解離に身を委ねること この二つがトラウマの病的解離からの回復にはおそらく不可欠です。

今のままだと、(1)しか達成できない。あなたの子どもには自然が足りないに書かれているこの話のように、感覚を全身で感じるには、都市は刺激が多すぎる。

ここ何週間も、カルロスは植物や動物を熱心に観察し、それらをノートにスケッチしていた。他の学生たちと一緒に、ヤマネコが獲物に忍び寄るのに見入ったり、平安をかき乱されたガラガラヘビが巣の中で突然たてる衝撃音に聞き入ったり、自然の奏でる高尚な「音楽」に耳を傾けたりした。カルロスは言う。

「ここへ来ると、息ができるんだ。ここでは音が聞こえるからね。町では騒音がありすぎて、何も聞こえない。町では、何もかもあけすけに見えるけれど、ここでは近づけば近づくほど、ものがよく見えてくるんだ」(p77)

感覚を目覚めさせても、都市にいる限り、また解離していくことになる。必ずしも未開の地に引っ越す必要はないけれど、せっかく目覚めさせた五感をフル活用できる場がなければ、SEのセラピーには半分しか意味がないことになってしまう。それでは自然界のもつトラウマからの回復作用を活用できないので、おそらくは本当の意味で回復することはできない。たとえ都市に住むとしても、サックスが頻繁に泳ぎに行ったり山登りやジャングルに出かけたように、せめて定期的に「息ができる」場所に通って五感を活用し、驚きや畏怖の念に身を委ねないかぎり、安心して身を委ねる感覚とは何かつかむことができない。

わたしの家の近くにも大きな公園があるのでそこに通ってもみたんですが、一番深い林のようなところでさえ、木立のすきまから表の自動車道が見え、交通騒音が響きわたっています。これでは耳を澄ますことができない。夜の公園に行ってみると、こんどはレーザー光線のような街灯の光があちこちから差し込み、昼間よりまぶしいといった始末です。(光害に配慮している海外の都市では、街灯も間接照明だったり、足元だけをうまく照らすよう工夫されているらしいが、日本ではそんな環境意識はどこにもない。今年4月に西表石垣国立公園が日本初の星空保護区に認定されたので、もう少し認識が高まればいいのだけれど)

だから、前回も書いたように、セラピールームの中だけで治療を進めるわけにはいかないと思うのです。何か五感をフル活用できる場所を見つけなければならない。今や世界中探しても人工的な光害や騒音のない場所はほとんどないので、完全にノイズのないところを見つけるのは無理でしょうが、せめて少しでもよりよい場所を見つけたい。今後はそれがセラピーと平衡して進めるべき課題になりそうです。

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Categories: 5章。2018.06.12