SEのセラピー体験記の第二期の6番目。前回は、学習された不使用の研究などを参考に、自分の感覚が萎縮していることを考えました。今回は…
前回の流れで、道北まで行ってきました。
いや、広い世界を経験せねば、と言い出して、そのまま道北に行くとか、単純すぎるんですが、想像力が萎縮しているのか、それくらいしかまともに思いつかなかったもので(笑)
というわけで、今回は、なぜいきなり旅行に行ってきたのか、そして、初めて日本の最北のほうまで行って、広い自然を満喫してきたなかで感じたことを書きます。
どうして道北まで行くことにしたのか
前回の記事を書いたころ、non24のあおりで早朝に起きた日があり、なぜか居ても立ってもいられない気持ちで、家の近くにリラックスして自然を感じられる場所があるかどうか、試しに探してみようと思いたちました。
家の近くの緑地から、地元の大きな公園まで、自転車で回ってみましたが、どこへ行っても自動車や工事の騒音が響き渡り、早朝なのに人も大勢いて、リラックスするには程遠いことを実感しました。
やはり前回書いたような、感覚をオープンにして感じ取れるような環境は、いまわたしが暮らしている身近な場所にはないんだと感じました。わたしが本当に回復し、切り離された身体を取り戻すには、まず麻痺した五感を取り戻せるようになることが不可欠。しかし、ここではそれが実践できない、と痛感しました。
もちろん、都市を離れて、自然の多いところで転地療養すれば回復するかもしれないといった単純な話ではない。しかし、ここ最近書いているように、近年の環境心理学によると、とりわけ感覚が敏感な人たちは、異質な感覚刺激にさらされると、自分でも気づかないうちにADHDのような振る舞いを見せることがわかっています。逆にそうした人が、自然の中に行くと落ち着きを取り戻すことも示されている。
またNATURE FIX にあるとおり、むかしから、トラウマを負った人たちは本能的に自然豊かな場所を目指してきたのも事実です。
アメリカでは昔から、傷は負った兵士は荒野に向かうと言われているけれど、それも不思議ではない。アイダホ、モンタナ、アラスカといった州の辺境の森林は、退役軍人の移住地として有名だ。とくにヴェトナム戦争後、都会では自分たちの心情がまったく理解されないと感じた多くの帰還兵が、こうした辺境の地で大きな安らぎを得た。
このように数々の逸話が明確な証拠になっているにもかかわらず、退役軍人省も大半の心理学者も、自然の癒やし効果を認めていない。現在、軍人の支援を目的とした回復プログラムを実施しているのは、民間の寄付で活動している退役軍人たちだ。(p291)
研究によってすでにわかっていますが、帰還兵の脳と児童虐待のサバイバーの脳は驚くほど類似しています。トラウマの種類が違えど、それに対する生物的な反応は同じなので、今や、戦争によるトラウマと、他のトラウマを区別する理由はありません。
戦争の帰還兵たちは、たとえ医学の研究の裏づけがあるでもなく、医者たちが自然よりも都会の最新医学のほうが効果的だと喧伝しようとも、本能的な直感を通して、今の自分たちにはもっと自然の多い場所に行くことが必要だと知っていました。この日のわたしも、ひしひしとそれを感じているので、居ても立ってもいられなくなったのでした。
さらに言えば、今のわたしは、SEを学んできたおかげで、なぜ自然が必要なのか、その理由を科学的に説明することができます。ラヴィーンが心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで述べているように。
現代社会では私たちがこうした力強い能力を発揮する機会はほとんどありません。今日、私たちの生存は、身体的に反応できる能力よりも思考する能力にますます依存するようになっています。
その結果、私たちのほとんどは自然で本能的な自己-特に、見下すのではなく誇りを持って「動物」と呼ぶべき部分―から切り離されてきました。自分たちをとどう見なそうと、最も基本的な意味では、私たちは文字通りヒト科の動物なのです。
現在の私たちが直面する根源的な課題は比較的速いペースで起こっていますが、私たちの神経系が変化するスピードはそれよりもずっと遅いのです。自己の自然な部分とより深くつながっている人々が、トラウマに関してはうまく切り抜けることが多いのは偶然ではありません。(p53)
わたしがこれまで調べてきたこと、学んできたことは、国内外の資料の別なく、これと同じ方向性を示唆しています。最初に触れた不登校の研究も、神経系の過負荷に関するポリヴェーガル理論も、行動経済学の「経験する自己」の研究も、さっき挙げたADHDやHSPの研究も、睡眠障害の研究も。芸術家たちの伝記も。
いずれの研究でも共通しているのは、感受性の強い人やトラウマを抱えた人(「経験する自己」の強い人)は、人工的な作り出された異質な刺激が多すぎる環境では神経系の不適応を起こして多種多様な不調を抱えること、現代社会はそうした人にますます配慮しなくなっていること、そしてそのような人は、自然環境の多い場所に行って、五感をフル活用できるようになると復調することです。
そして、振り返ってみれば、わたし自身のこれまでの経験も、それを裏づけていることに気づきました。そういえば子どものころ、わたしは特に運動が好きだったわけでもないのに、釣りに連れて行ってもらった田舎の名もない山に登りたがったことがありました。山頂まで登って見つけた、人気のないしめやかな神社のこもれびは、心穏やかな印象とともに、子どものころの数少ない思い出のひとつとして、記憶に残っています。
不登校になったあとも、精神的に追いつめられて気が狂いそうになっていたとき、真夜中に家を飛び出して雨の中河川敷をさまよい歩いたことがありました。そのとき乱れていた気持ちが落ち着いたのはなぜだったのか。あるいは慢性疲労で身動きが取れない体調なのにモンゴルに旅行して、無理を言って大岩にまで登ったこともありました。沖縄に旅行したときにも、強行的にシュノーケリングを楽しんだりしました。
今まで、わたしは、自分のこうした経験は、単に新奇探求性によるものだと思っていました。たとえ体調が悪くても、自分の興味のあること、楽しいことならば無理やりにでもやってしまえるという傾向だと。しかし、それは間違っていたに違いない。こうした自然に触れる活動をしているとき、わたしは無意識のうちに本当に元気になっていたはず。前述のADHDと自然についての研究では不注意優勢型の子は実際に自然の中にいくと活動量が増加することがわかっているけれども、それと同じだったのでは? なぜか自然の中に行くと心穏やかになることを感じ取っていた退役軍人たちと同じく、理由もわからずに元気になっていたに違いない。
動物行動学の研究から明らかなのは、動物は自然から切り離された環境で継続的にストレスにさらされたときにのみ、トラウマ(神経系の凍りつき)に陥るということ、自然とつながった環境であれば、感覚を解放することによって、たとえトラウマ的な体験をしても凍りつきから脱することができるということ。
自然は、ほとんどすべての生き物に、危険に対してほぼ同じ神経系の反応を与えています。しかし、すべての種の中で、長期的なトラウマ後遺症にしょっちゅう悩まされる生き物はただひとつ―人類だけです。
他の動物が同様の症状に苦しむのを観察できる唯一の機会は、家畜化されたり、管理された実験室の中で継続的にストレスにさらされたりした場合のみです。こうしたケースでは動物たちも急性、慢性のトラウマ反応を示すようになります。(p103)
知ること、感情や感覚を感じることで、私たちの注意は癒しが始まる場所に向けられます。自然が私たちを忘れたのではなく、私たちが自然を忘れてしまったのです。トラウマを受けた人の神経系は損なわれているのではありません。それはいわば映画の静止画面のように凍りついているだけです。(p104)
ラヴィーンはさらに、「動物と環境は一体であり、刺激と反応の間に区別はありません」と書いている。トラウマ反応というのは、パブロフの犬的な、環境刺激による条件反射なので、トラウマを負った人にとって、自分がいまどんな環境にいるか、はとりわけ大きな意味を持つはず。
確かに、SEの訓練をすれば、ある程度はトラウマ解消ができるようになるだろうけれど、だからといって環境は変える必要がない、ということはありえないと思う。NATURE FIX の中で書かれている心理学者ハロルド・サールズが1960年に述べた言葉のように、環境の影響力を無視することはできない。
「人間と違って、環境は人格形成にさほど影響を及ぼさないという説があるが、そんなことはまったくない。環境は人間の心理を構成するもっとも重要な要素のひとつだ……自然という生きとし生けるものが支配していた世界、あるいは自然がすぐそばにあった世界から、人類はつい数十年前に移住を始めた。そして科学技術が支配する世界で暮らすようになった。はかりしれないパワーはあるが、生命など皆無な世界に」(p220)
「どんな」治療を受けるか、だけでなく、「どこで」治療を受けるか、ということは、まったく見過ごされやすい。都会で先進的な医学治療を受けるのが最善だ、と無批判に信じ込んでいる人は、医療関係者にも患者にも多い。
でもわたしは、一人の絵描きとして、それは違うと断言できる。昔から芸術家たちは、自分の創作には環境が大きな役割を果たすことを知っていた。心理学者チクセントミハイは、創造性は個人の才能より「場」に左右されると述べている。感受性の強い人は、環境の要素を鏡のように反映するので、どんな環境に身を置くかによって、何を成し遂げられるかが変化する。だからこそ、トーベ・ヤンソンにしてもヘンリー・デイヴィッド・ソローにしても、「どこで」創作するかをあれほど重視していたのだ。
だから、前にも書いたように、わたしには(1)SEのセラピーで感覚を感じ取る訓練をする だけでなく、(2)その感覚を最大限に使えるような環境に行く必要があるのではないか、と思ったわけです。
(※裏を返せば、芸術家とは対照的に、医者や研究職に就く人たちは、生来的に環境に影響されにくい性格のために、自然の影響を過小評価してしまうといえる。環境の影響に鈍感な人が医者などの職に就きやすい、というのは、Rod and frame testと呼ばれる心理検査によって確かめられている。
このテストでは、視覚的な刺激を通して、「場」に影響されやすいかどうかを判定でき、参加者は「場独立」(FI)タイプと「場依存」(FD)タイプに分けられる。そしてこちらの資料に書かれているとおり、周囲の影響を受けにくいFIタイプの人のほうが科学者や医者になりやすいことがわかっている。
FIとFDの一般的人格に関して、FIは「冷たい、他人と距離を保とうとする、個人主義的」などという印象を与えることが多いのに対して、FDは「暖かい、思いやりがある、他人と積極的に交わる」と思われることが多い。
さらにWitkinらは、FIとFDの差は職業選択にも現われるとしている。FIは典型的には科学、数学、医療関係に従事することが多いが、FDはより対人接触の多いソーシャルワーカー、神父、社会学系の教師、営業・広報担当者などを選択することが多いという(Witkinetal.,1977,p.44)。
場独立型の人が医師になりやすいというこの事実は、医療分野では、人材選定の段階から、環境要素を軽視するバイアスがかかっているということを示唆している。前述のように、医療において自然の癒やし効果が度外視されていて、まともに研究さえされていないのは、医療関係者の大半が環境に対して鈍感な「場独立」型であり、そもそも環境の影響を研究することに関心を持たないからなのだろう。これと似た学問構造のいびつさは、行動経済学が登場するまで、環境の心理的影響を度外視した非現実的な学問を研究していて疑問すら抱かなかった経済学にも見られる)
でも、本当に、自然の多いところに行くことで、いまのわたしの症状が改善するのだろうか。本当に、わたしには環境を変えることが必要なのか。早朝から身近な公園を自転車でまわり、どこにもリラックスできる場所がないことを痛感したわたしは、その疑問に答えを出す必要に駆られました。
どうやったら、その答えを知れるのか。それは簡単です。実際に自分の身体で実験してみればいい。SEを学んでわたしが知ったのは、経験(エクスペリエンス)に勝る教師はないということ。実際に経験する以外に答えを知る方法などありません。
わたしは学生時代に修学旅行で北海道に行ったことがありました。札幌周辺をまわっただけでしたが、飛行機から見下ろした北海道の広さは感動的でした。思い返せば、北海道旅行は、わたしの学生時代の数少ない良い思い出のひとつとして残っています。トラウマは環境に対する条件づけであることからすれば、いい思い出が残っている場所に行ったほうが効果はあるでしょう。
今のわたしなら、SEのセラピーを通して、感覚を使う方法をいくらか学んだので、実際にそこへ行ってみさえすれば、本当にその環境がリラックスできるものなのかどうか、それとも自然の中に行っても身体が凍りついたままなのか、自分の感覚(フェルトセンス)をじっくり観察することで、効果を判別することができるはずです。
ちょっとネットで調べてみた限りでは、札幌はかなり都会で、わたしが求める自然には及ばない印象を受けました。自分に自然が必要かどうかを知るには、自然と都市の境界上ではなく、自然の只中へと飛びこまねばならない。決定的に広い場所へ行かねばならない。それでわたしは、はじめて日本の最果て、道北まで行ってみることにしました。
「そうだ。今からすぐに出かけよう」
勢いで旅行の計画を立てたものの、出発の日時が近づくにつれて、やっぱり不安な気持ちになりました。ここ最近のわたしは、ほとんど家から出られないほど体調が悪く、一日中ぐったりしているのに、長時間の旅行に耐えられるのでしょうか。家を9時に出て、電車、飛行機、バスを乗り継いで、10時間近く、はじめての土地を旅行しなければならない。
でも、わたしはオリヴァー・サックスの左足をとりもどすまでを読んで「行けないかもしれない」という消極的な気持ちそのものが、前回書いた「想像力の萎縮」によるものだと知っていました。サックスは入院してリハビリ中に直面したある出来事について、こう書いていた。
ちょうどそのとき、友人から電話がかかってきた。W・H・オーデンの没後一周年記念礼拝が、ウェストミンスター寺院であるが、来られるかという。私はオーデンが大好きで崇拝していたから、もちろん行きたかった。それに、最後の敬意を表するのは義務だとも思った。しかし悩んだすえに、恐怖にまけてしまった。
…翌朝様子をみにきた理学療法士は、テーブルの上にある、オーデンについての原稿の校正に目をとめ、こう言った。「ウェストミンスターの儀式はほんとうに感動的だったそうですね。すっかり話してください。もちろん出席なさったのでしょう?」
私はぎくりとした。頭の中がパニックだった。「それが」つかえながら私は答えた。「行けなかったんです」
「どうして?」彼女は聞いた。
「誘われたし、行きたかったんだが。とても考えられないことだった。それに考えるべきではないと思ったので」
「考えられないことですって?」彼女は興奮して言った。「考えるべきではないですって? もちろん行くことはできたはずです。行くべきだったのです。いったいどうしてやめたのです。なぜ行ってはいけないのですか?」
ほんとうだ。なんてことだ。彼女の言うとおりだ。だれに止められたというのだ。なにが私を行かせなかったのだろう。「考えるべきではないこと」だって? なんという戯言だ。「なぜだめなのです?」と彼女に言われたとき、大きな障壁が消えさった。もっとも、自分ではそれを障壁とは思っていなかったのだ。ただ「考えるべきではないこと」にすぎなかった。私は行くことを「禁止された」のだろうか? それとも「想像力が抑制された」のだろうか?(p225)
わたしはサックスと似たような状況にありました。わたしは自分がもっと広い世界に出ていきべきことを知っていた。自然が癒やしになることを知っていた。不登校の子どもが沖縄の民泊に行くことで回復したという三池輝久先生の研究を読んでいたし、ワーズワースやベアトリクス・ポターが都市を後にして湖水地方に向かったことも知っていた。トラウマの回復には畏怖の念が必要なこともわかっていた。だから、自然の多いところに行きたいと思った。
経済的に行けないわけでも、体力的に絶対不可能というわけでもないはず。だけど、本当にそんなところに行ってもよいのだろうか、という困惑を感じた。病人であるわたしが、引きこもりであるわたしが、そんな大それたことをしても良いのだろうか、本当にできるのだろうか、という無意識の障壁を感じた。
おそらく、ここで踏みとどまってやめてしまう人は非常に多いと思います。ちょうど、狭いオリの中で繰り返し電気ショックを浴びせられた犬たちが学習性無力感に陥って、自分からは決してオリから出なくなってしまうように、また誘拐され虐待された人が、ストックホルム症候群に陥って、逃げ出せるときも逃げ出せなくなってしまうように。
感覚的に制限された範囲を超える行動をとれなくなってしまうことは、生物的な凍りつき/擬態死反応にともなう想像力の萎縮の典型的な症状だからです。このせいで、慢性疲労症候群や引きこもり状態になった人は、場合によっては死ぬまで、萎縮した感覚という自分のオリの中から出られなくなってしまう。
わたしにとって幸いだったのは、自分がまさにその状態にいる、と気づけたことでした。サックスが、想像力の萎縮についての自分の経験を残しておいてくれたおかげで、わたしは自分の取るべき行動にあらかじめ気づけました。制限を感じるのは、萎縮した感覚のせいで想像したりイメージしたりできなくなっているからであり、決して身体的、経済的に行動できないわけではない、ということを思い起こさせてくれました。
どちらにせよ、彼女のことばによって私は解放され、こう言った。
「そうだ。今からすぐに出かけよう」
「そう、そうなさい。そうすべきです。いまがチャンスです」彼女は答えた。
私は何も考えず、大股でいそいで門をでると、丘をのぼりハイゲイトまで行った。すばらしい。なんて嬉しいんだ。はじめて外を歩く。こんなふうに歩いてみるまで、この瞬間まで、外へ出ることなど想像もできなかった。自分はホームに収容されている病人だと思っていたから、それ以外は想像できない。重大な一歩をふみだすことができなかったのだ。
広い世界へ、外へふみだすためには、彼女の「なぜ行かないのですか」ということばが必要だったのである。(p226)
わたしも、「今からすぐに出かけ」なければならないと思った。今こそ、オリの外に出るときではないのか? 自分の意志で、広い世界へ出るべきではないのか? わたしは物理的に出られないわけではなく、もうすでにオリの扉は開いているのでは? あまりにずっと長いこと閉じ込められていたせいで、自分はこれ以上遠くに行けないと信じ込んでいるだけではないのか? 電柱にロープでずっとつながれていたイヌが、ロープを外されてもその範囲より遠くに行けなくなってしまうのと同じなのでは?
わたしはサックスの経験を通して、自分に必要なのは、怯えて尻込みすることではなく、行動することだと知りました。そして、このわたしの行動はきっと、トラウマの凍りつきと闘ってきた数多なる先人たちがすでに通ってきた道に違いないことも。
ハイゲイトヒルを登りきったところに、小さな喫茶店をみつけると、私はためらわずに、お茶をのみにはいった。
「やりましたね」ウェイトレスが言った。「とうとうここまで来ましたね」
「私をご存じですか」私はおどろいてたずねた。
「どなたかは存じませんが、事情はわかります。外へでかけようと決心がつくまで、ホームのなかで座っているのでしょう? ところが、行きたいという思いがとつぜん爆発して、急な坂をのぼりハイゲイトまで、この店まで来ることができるのでしょう。外ではじめて食事をするためにね」
「そう。ほんとうにおっしゃるとおりです」私は言った。
それから、この「保釈」を祝おうと、お茶だけではなく豪華な食事もたのんだ。
「みなさん同じことをなさいます」ウェイトレスは言明した。
「みなさん」だって? 今までいったい何を気にしていたのだろう? 私は先にここを訪れた患者たちと同じことをしたのだ。うれしいことではないか。疎外された特別な存在なんかじゃない。これでふつうの生活にもどることができた。ほかの人たちにまじって、「世の中」の一員となったのだ。(p226)
わたしが今からやろうとしているのも、まさにこれではないのだろうか。わたしは、凍りつきからの「保釈」を求めて、広い世界に踏み出そうとしているのでは? 自分は「疎外された特別な存在」だと卑下して、悲劇のヒロイン症候群のように振るまって、もうこの世のどこにも居場所はないと思っていたけれども、それこそがラヴィーンがよく述べている、自分の内部でトラウマ反応が維持されるという現象なのではないか? ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマの中でこう書いていた。
トラウマを受けた人は、不動状態から抜け出ようとするたびに繰り返し自分自身に怯えることになる。「恐怖で増強された不動状態」は自己の内側で維持されるのである。
…トラウマを受けた人は文字通り囚われの身となり、自分の内側に続いて起こる生理学的反応とそうした反応そのものや情動に対する恐怖によって、繰り返し脅かされ拘束される。(p82)
きっとわたしより先に凍りつきと闘った人たちもそうだったのだろう。行動しようとするたびに、自分は行動できないと感じる。行動することに伴う、感覚を感じることへの恐れにさらされる。そのせいで、自分から電気ショックのオリの中に、誘拐犯の家の中に、収容された病人ホームの中にとどまり、みすみす逃げる機会を逸してしまう。しかしあるとき突如として、自分はもうつながれてはいないこと、逃げようと思えば、ここから逃げ出せるのではないか、と「気づく」のだ。
アメリカの退役軍人たちは都市では自分たちは理解されないと感じたとき、荒野を目指して移住し、そこで安楽を得た。わたしがやろうとしていることは、国や時代は違えど、「先にここを訪れた患者たちと同じことを」しようとしているのではないだろうか。いや、もっと言えば、世界中あらゆる場所、あらゆる時代のサバイバーたちが、回復するために本能的直感に導かれてやったのと同じことをやろうとしているのではないか。
わたしは、自身の体験を通して背中を後押ししてくれたオリヴァー・サックスに感謝しました。わたしはこれまで、数多くの本を読み、大勢の魅力的な著者たちと出会ってきましたが、やっぱりオリヴァー・サックスは特別です。サックスの生きざまは、わたしの役割モデルであり、迷ったときの道しるべです。
都市と自然の感覚を比較する
道北を目指すにあたり、まずたどり着く必要があったのは、旭川空港でした。旭川空港までは電車や飛行機を乗り継いで、かなりの距離を移動しなければなりません。
ここ数年のわたしは、ただ座っているだけでも、凍りつき反応の痛みや身体の内部の異物感などに苦しめられ、衰弱してしまう傾向にありましたが、これほど長い旅ができるようになったのは、ひとえに最近のSEのセラピーで習得したリラックス技術のおかげでした。
今回の旅行は、安全な場所のテクニックなくしては決して成り立ちませんでした。電車の人混みや騒音、まぶしさに対処できるよう、サングラスやイヤープラグはフル装備で行きましたが、ただ座っているだけでも感じる全身の苦痛や衰弱を切り抜けるために、安全な場所のテクニックを多用しました。出発までに繰り返し練習していたおかげか、期待していた以上の効果があり、道中で神経系の過負荷に圧倒されずに移動することができました。
学生時代のわたしは、修学旅行のときに飛行機から見下ろした北海道の広い大地に感動したものですが、残念ながら、今回は曇り。小雨が降っていて何も見えませんでした。今回の滞在中は、最終日を除いて、ずっと曇りか雨でした。一番冷え込んだ日は最高気温が9度くらいで、現地の人に聞いたところによると、北海道でもこの時期にこれほど寒いのは珍しいとか。気候的にはあまり恵まれない旅行でしたが、そのころ本州では豪雨だったので、まだましだったのかもしれません。
旭川空港に着いた日の気温は28度くらい、どんよりとした空で雨も降っていて、あまり北海道らしさは感じられず。空港からバスで旭川駅へと向かいます。バスの中から風景を眺めると、あたり一面、畑ばかりで周囲は山に囲まれていました。このあたりは上川盆地と呼ばれていて、四方八方山に囲まれた、夏は暑く冬は寒い地方として有名なのだとか。
しばらくバスに揺られていると突如として街らしい風景が見えてきて旭川市街へ。駅に着く頃ころにはすっかり都会の風景で、ふだん住んでいるところとあまり変わらない。ここまで来ると、はっきり体調の悪化が感じられました。これほど短い時間で自然の多い場所と都市部とを移動したことがありませんでしたが、確かに都市部だとしんどくなることは確かなようです。
都会に来ると調子が悪くなる、なんて言うと、人工物を毛嫌いするあまり起こる気のせい(ノセボ効果)だろう、などと鈍感な人たちから非難されてしまうわけですが、そんな簡単なものではないでしょう。まずプラセボ効果とノセボ効果は、はっきり脳血流などに変化が認められる現実の身体反応だとわかっているので「気のせい」では片付けられません。
わたしは、都市部で症状が悪化する原因はトラウマと同様の条件付け反応だと思っていますが、「病は気から」を科学する という本には、プラセボと条件付けが別のプロセスで生じる異なる反応であることが解説されていました。ざっくり言うと、プラセボやノセボは短期的なもので時間が経つと効果が見られなくなるのに対し、条件付け反応はもっと強固で、ずっと効果が持続するとのこと。だから、プラセボと条件付けを使って、薬の効果を高める「プラセボ制御による薬剤減量」といった手法が研究されている。
条件反射を利用して薬をプラセボと置き換えることを、プラセボ制御による薬剤減量(PCDR)と呼び、副作用が軽くなるだけでなく、医療費を何十億ドルも削減することができる(2007年、ADHD薬にかかった費用は米国だけで推定53億ドル)。(p104)
プラセボと条件付けを使えば薬の効果を高められ、ADHDとか免疫疾患にも効果があることがわかっている以上、「都市で症状が悪化するのはプラセボ/ノセボだから病気じゃなくて思い込み」といった批判はまったく的外れです。
それに加えて、もともと感受性の強い人やトラウマを抱えた人などは、NATURE FIX に書かれているように扁桃体が興奮しやすくなっていて、小さな刺激に敏感になっているので、都市部の大きな騒音や、めまぐるしい視覚的光景、人ごみなどで、無意識のうちに圧倒されてしまい体調が悪化するのは間違いない。
PTSDを発症すると、扁桃体の活動が極端に激しくなり、その状態が固定される。通常運転に戻せなくなり、本物の脅威と、自分が勝手に脅威と思い込んでいるものの区別がつかなくなる。だからPTSDに苦しむ帰還兵たちは故郷に戻ったあとも、たとえ安全な場所にいようと運転や買い物や騒音に耐えられなくなるのだ。(p282)
トラウマを負った人は、身体に閉じ込められたトラウマに書かれているように小さな刺激には敏感になり、より大きな刺激には鈍感になるというパターンを示す。これは小さい刺激にはPTSD的な過敏さが生じ、大きな刺激には麻痺してしまう解離が起こるからだと思われる。(だからトラウマ患者は薬物療法に対しても、少量だとよく効き量が多くなると鈍麻して効かなくなる傾向をみせる)
逆説段階、または長引くストレスに対するパブロフの第二の反応において、動物たちは条件づけられた反応の逆戻りを示す。何かが脳内で起こり、イヌたちは強い刺激に対するよりも、弱い刺激に対して活発に応答するようになる。これはトラウマを受けない限り、普通には起こらないようなことである。
ベトナム帰還兵が、最前線にいるわけでもないのに、遠くの車が放つバックファイヤーの音で身をかがめるのは、この段階の障害を示している。もう一つの例は、通り過ぎる影一つ一つに激しくおびえながらも、場末の飲み屋に集まってくるレイプ被害者である。(p291-292)
わたしが都市で過ごしているときにも、この種の小さな刺激に対する過敏さと、大きな刺激(たとえば絶え間なく続いている慢性的な騒音)に対する麻痺が同時に起こり、それが感覚の正常性を取り戻すことを妨げているのではないか、と思います。
いずれにしても、旭川市の都市部と郊外を短時間で行き来した中で感じた体調の変化は、都市部に行くと、感覚が麻痺して凍りつきや疲労感が強くなる、ということでした。
この短時間の環境の違いによる体調の変化の観察は、ふだんSEのセラピーでやっている実験とよく似ています。ソマティックなセラピーでは、セラピールームの中で環境をさまざまに変えて、自分の身体の感覚の変化を知ることで、気づきを深めるからです。旅行中にわたしが気づいたさまざまな体調の変化も、SEのセラピーを通して自分を観察する訓練を積んできたからこそ気づけたものであり、セラピーで練習していなければ、ささいな変化はスルーしてしまっていたでしょう。
耳栓もサングラスもいらない場所
旭川駅からは、快速「なよろ」に乗って、さらに北へ向かいます。快速列車なんていうから、都会の感覚で10両編成もあるような特急を思い浮かべていたら、なんとホームで待っていたのは、たった二両編成のワンマン列車。そもそも電車ではなくディーゼル気動車でした。一瞬、本当にこれで合っているのか?と思ったけれど、確かに定刻通り、北へ向かって出発してくれました。二両編成で座席はほぼ満員。車内は北海道らしからぬ熱気でうんざりするような暑さでしたが、出発してしまえば、窓から吹き込む風がさわやかでした。
はじめのうちは旭川市内の代わり映えしない都会の風景でしたが、数駅も行くと郊外に出て、ひたすら山と森と畑が続く風景になりました。長旅でかなり疲れていたわたしは、窓際でぼっーと小雨混じりの風景を眺め、どこまでも続く北海道の山並みを見つめていました。通り過ぎた車庫には赤い雪かき車が置かれていたり、線路脇にカルビーのポテトチップス工場が立っていたり、改札もなければ駅員もいないバス停のような駅があったり。ちらほらと見える住宅地のデザインも、煙突や二重の玄関が目立つ寒冷地仕様です。
しばらく聞いたこともない駅名が続き、まだ着かないのか不安になってきたころ、士別市に停車。羊の町として町興ししている地域らしく、ホームは羊の絵で装飾されていました。飛行機の中で読んだ冊子でちょうど士別市のことが特集されていたので、ようやく目的地の手前まで来たことがわかりました。先日読んだ羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季 を思い出して、ちょっとはワーズワースの歩みに近づけたのだろうか、なんて思いました。
北に行けばもっと景色が変わってくるのか、と思っていましたが、どこまで行けども同じような風景の山並みばかりに思えました。これも一種のフラクタルでしょうか。とはいえ、都会の場合はどこまで行っても同じような町並みが続いていたわけですから、人工物と自然の比率がまったく逆転したフラクタルなのですが。
そしてついに目的地である名寄駅に。北海道最北の地とまでは行きませんが、日本地図全体でみればほぼ北の端っこ。冬場は-30℃を記録する極寒の地で、光害にほとんど汚染されていない星空が見える天文台もあるらしい。(今回は残念ながらくもりだったのでわからなかったんですが) ちょっと足を伸ばせば、流氷が流れ着くオホーツクにも出られる。
名寄市はそれなりに都会なので、わたしの求める自然豊かな風景とは違っていました。わたしが泊まる場所は、さらにそこからバスでもう少し行った自然豊かな隣町です。バスに乗っているうちに、少し日も暮れ始め、畑の多い上名寄に入り、さらに何条も続くバス停を越えた先に、森に囲まれた小さな町がありました。
ここまで来ると、もう耳栓は必要ありませんでした。町の真ん中を通る道路脇は騒音がうるさく感じましたが、少し住宅地に入ると、もうほとんど騒音はなく、ただ風や鳥、虫の声だけが響いているのどかな町でした。不思議なことに、ここまでどうしても必要だと感じていたサングラスさえ、外しても不快感がほとんどありませんでした。感覚の総量が減れば、視覚的な苦痛も軽減される、ということなのでしょうか。
宿泊場所に到着すると、とてもゆったりした広い家の中でくつろぐことができ、ちょっと嬉しくなりました。ふだん住んでいる都会の家と比べると、間取りが少しずつ広く感じます。たとえばバスルームやトイレ、洗面所なども、都会の規格と比べるとひとまわり広い。それだけで感覚が変化したような開放感を感じました。おそらくは、ふだん生活している部屋の間取りの広さも、感覚の鈍麻には関わっているんだと思います。前回引用したサックスの説明にあったように、狭い病院の部屋や収容所に長時間入っていると、立体感の感覚が失われるといった感覚の萎縮が生じますから。
その夜は曇りでしたが、幸い雨は振っていなかったので、町を散歩に出かけることにしました。というか、自転車を借りて、町を一周探検してきたほどでした。あれだけ長旅をしてきたのに、なんでこんなに元気なんでしょう? 自分でもまったく理由がわかりません。ここに着いてすぐはかなり疲れていたのに、自然の中を散歩しているうちに、なぜか体力が回復してくるのです。
この体験は、わたしにとってまったく意外でした。想定していませんでした。しかし次回書くと思いますが、わたしは滞在中に何度も同じことを経験しました。最初は疲れていてげんなりしているのに、森の中を散歩したり自転車で走ったりしているうちに回復していく、という奇妙な体験です。別の日には15キロ近く自転車で走り回ったほどです。
このとき思い出したのは、あなたの子どもには自然が足りないに出てくる、ADHDの子どもが自然の中を散策しているうちに、まるで中枢神経刺激薬であるリタリンを服用したかのように集中力が回復して元気になるという研究でした。
さて、こんな木登り時代こそ遠い過去のものとなったが、私は今も、あの少年のころの何もしなくていい日々と、あの木の梢から見た広大な風景のいまだ失われぬ価値についてよく考える。森は私に、抗鬱剤リタリンのような作用をもたらした。自然は私を鎮め、私に注目してくれただけでなく、私の感覚を刺激してもくれたのである。(p25)
多くの親は、たとえ確たる証拠はなくても、いつもは多動気味の子供が山歩きや何か自然を楽しむ活動をしているときには、その行動に大きな変化が起きることに気づく。
「息子はまだリタリンの世話になっていますが、屋外ではずっと静かになります。ですから、私たちは山へ引っ越すことを真剣に考えているんです」と、ある母親が言った。彼はただ体をもっと動かすことが必要なのだろうか。「いいえ、それはスポーツでやっています。自然の中にいると、息子を鎮めてくれる何かがあるようなんです」とその母親は言う。(p113)
この分野の最も重要な研究のいくつかを行なっているのが、イリノイ大学の人間・環境調査研究室である。アンドレア・フェイバー・テイラー、フランシス・クオ、そしてウィリアム・C・サリバンが行なった研究から、緑の野外スペースは子供たちの創造的な遊びを促し、大人と積極的に交流させ、注意欠陥障害の症状を和らげることがわかった。
子供の周囲に緑が多ければ多いほど、ADDの症状は緩和された。一方、テレビ鑑賞のような屋内での遊びや、屋外でも舗装された場所のように緑のない環境での遊びは、症状を悪化させた。(p116)
わたしはこれまで、注意散漫と慢性疲労対策としてリタリンと同成分のコンサータを飲んでましたが(無理やり覚醒させるせいか体の負担がきつくてやめた)、もしかすると、自然の中にいるだけでそれと同等の効果が得られて、しかも副作用がないとでもいうのでしょうか。
夜、宿泊場所の裏手を歩いていてびっくりしたのは、本当の闇を目の当たりにしたことでした。一応町中なので、街灯は立っていますが、都会に比べると、その本数は少なめです、建物の影になっている原っぱは電灯の死角になっていて、目をこらしても、足元に何があるかを見分けることができませんでした。これこそ、かつては世界中を取り巻いていたにもかかわらず、今や絶滅危惧種となっている「漆黒の闇」なのでしょうか。わたしははじめて、夜の戸外の道を、恐る恐る手探りで、いや足探りで歩いてみる、という経験をしました。
遠くの山々から、何か得体の知れぬ聞いたこともないような鳥の鳴き声がこだましてきました。ずっと遠くに聞こえたかと思いきや、次の瞬間、耳元のすぐ横で聞こえたような気がして、わたしは思わず身をかわそうとしました。でも鳥はずっと遠くにいて、全然近づいてはいませんでした。もともとそういう効果を持つ鳴き声の鳥なのでしょうか。それとも、わたしの感覚が都市生活で萎縮しているせいで、音の距離感をつかむ能力がにぶっているのでしょうか。
町中だというのに、あちこちからさまざまな虫や鳥やカエルの鳴き声が聞こえてきて、ちょっとした合唱のようでした。不思議にも、自動車の騒音などと違って、こうした音は耳障りになりません。
脳はいかに治癒をもたらすかによれば、低周波音は自然界においては捕食者を連想させるため、絶え間ない自動車や工事の音は闘争/逃走反応を刺激してしまい、慢性的になると感覚を麻痺させて凍りつきを引き起こすという。(p495) 他方、NATURE FIX によると、たとえば川の流れる音などは、たとえ自動車の騒音と同じ音量(デシペル)でも、通行人はうるさいと感じないらしい。(p141)
本当に、自然豊かなところに行けば、わたしの状況は変わるのか、当然メリットだけでなくデメリットも大きいだろうから、差し引きとしてはどうなのか。旅行から帰ってきた今も、わたしはその答えは出せていません。
でも、あの日、わたしが行った場所には、まぎれもなく、わたしが経験したことのないような世界が広がっていました。いままで一度も、五感を使って味わったことのないような世界でした。その日のわたしは、最北の地まできた疲労感も忘れて、子供に返ったかのように無心になって、夜の町を探検していたのでした。
記憶が呼び覚まされる
ところで、ファスト&スロー(下) にこんな研究がありました。
高等教育の影響について調べたある大規模調査では、若い頃に自分で設定した目標が生涯にわたって影響をおよぼす、という驚くべき結果が得られた。データは、1976年に一流大学に入学したおよそ12000人を対象に、1995~97年に行なわれたパネル調査から抽出された。(p301)
子どものときからの興味や対象って、自分でも思っている以上に、何十年後もの人生に関わってきたりするんですね。思い返せば、わたしは小学生のころ、一番最初になりたいと言ったのは「絵描き」だった。友だちと星のカービィのゲームを遊んでて、コピー能力のひとつのペイントカービィが好きだったり。
そのあと中学生になってからは推理小説に凝りだして、小説家になりたいと思った。「人生の修繕人」が悩みを解決するという心理カウンセラーっぽい小説シリーズも書いていた。結局わたしは高等教育には進学できなかったけど、もし行くなら森林学科とかがいいかもなーと考えていた時期もあった。
わたしの人生は紆余曲折を経てぜんぜん違う方向ばかりに突き進んできた気もしていたけれど、こうして振り返ってみると、小学校ごろから興味のあったことに今も打ちこんでいるだけなんだなーって思います。趣味で絵を描きながら、自分の人生を修繕しようと悪戦苦闘していて、ブログで推理小説かぶれの心理学の記事を書いて、こうして今は北海道の森林地帯まで足を運んでいるのだから。
北海道まで来てみて、驚いたことのひとつは、こうやって、すっかり忘れていたような過去の記憶が解放されることが何度かあったことです。それも最近気にしていたトラウマ的記憶のほうではなく、もっと穏やかで、心地よい記憶の数々が。自然の中で、長いこと使っていない感覚が呼び覚まされることで、それとつながっていた記憶もよみがえってくるということなんでしょう。これもまた、オリヴァー・サックスがタングステンおじさんで書いていたこの話を思い出す。
1997年の暮れのことだ。私が少年時代に化学の夢中になったのを知っていたロアルド・ホフマンから、変わった小包が届いた。…小包を開けたときに、金属棒が床に落ちてコーンという音を響かせた。その手触りと音で、すぐに何なのかわった(「焼結したタングステンの音だ」とおじがよく言っていた。「こんな音はほかにない」)。
この音は、マルセル・プルースト風に記憶を呼び覚まし、すぐさまタングステンおじさんが脳裏に浮かんだ。…私は、タングステンおじさんについてちょっとした短編が書けそうだと思った。
ところが、思い出は次々にわいてきて、タングステンおじさんだけでなく、少年時代のいろいろな出来事が記憶によみがえった。多くは、50年ものあいだ忘れていたものだ。初めに1ページだけ書きつけた思い出は、四年がかりの大規模な発掘作業を経て、ついには200万語以上にまでふくれ上がった。(p451)
サックスも、わたしと同様、過去のことをすぐ忘れてしまうたちだったようだけど、彼の記憶は失われたわけではなく、思い出せなくなっていただけだった。子ども時代に聞いたタングステンの音を聞いたことが呼び水となって、凍りついていた感覚記憶は溶け出し、忘れていたはずの思い出がよみがえってきた。(その中には疎開体験のころのトラウマ的な時期の思い出も含まれていたのだが)
有名なマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」や、サックスのこの体験の中で、匂いや音などの感覚が、記憶を呼び戻すきっかけになっているのは偶然ではないのだろう。長年使っていなかった感覚、前回書いたことと絡めて言えば「学習された不使用」によって使われなくなっていた感覚を再び使ったとき、それと紐付けられていた記憶もまた引き出される。
ということは、逆にいえば、わたしみたいな解離の当事者が過去の記憶を思い出せないのは、感覚遮断によって、特定の感覚が麻痺してしまった結果だともいえる。感覚が凍りついて麻痺するということは、その感覚と関係した記憶をイメージできなくなる、ということなのだ。
前回書いたように、トラウマを負った人は、感覚が切り離された結果、その感覚を使った行為がイメージできなくなる「想像力の萎縮」に陥る。近年の記憶についての研究は、ラヴィーンが、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで書いているように、過去の記憶とはできごとの正確な記録ではなく、想像つまり再構築されたイメージである、ということを明らかにした。
この意外な新事実は、記憶の本質に関するさまざまな推測や考察をうながしました。エーデルマン、ローゼンフィールド、アーセンらによる画期的な研究は、記憶に対する別の見方を与えてくれます。記憶は厳密な記録装置ではないという考えは、私たちの従来の概念を完全にひっくり返します。(p236)
ほとんどの記憶は、実際に起きたことの連続的で理路整然とした記憶ではないということを忘れないでください。記憶は、自分の体験の要素をきちんと整理された全体へと組み立てるプロセスなのです。(p240)
前にも書いたけれど、近年の脳科学は、過去の記憶の回想と、未来の自分の想像は、どちらも同じ海馬の能力に依存していることを明らかにしている。つまり、過去を思い出すというのは、一種の想像であり、手持ちの情報を使って未来をイメージするか過去をイメージするかの違いしかない、ということ。過去の記憶を思い出すことが「想像」という行為の一種なのだとすれば、当然、前回書いた「想像力の萎縮」の影響を受けることになる。
解離性障害において、これまで、感覚の切り離しと、記憶喪失とは、まったく別の現象であるかに思われてきたかもしれない。わたしも感覚の切り離しと、記憶の切り離しを別種の切り離しであるかのように書いた覚えがある。しかし、たぶん、感覚の切り離しと記憶の切り離しは、同一の現象の別の側面にすぎないのだろう。
「学習された不使用」によって感覚が麻痺してしまい、切り離されてしまうと、その感覚を使ってイメージする能力がなくなってしまうので、「想像力の萎縮」が起こる。結果、その感覚が関係している過去をイメージする能力がなくなってしまう。それが、記憶の喪失として認知されているのではないか、ということになる。
感覚が切り離されれば、それに関わる記憶は回想できなくなるし、逆に感覚を取り戻すことができれば、それに関わる記憶もまたイメージできるようになり、記憶が戻ってくる。プルーストやサックスは、特定の感覚が甦ったことで、それに関連した記憶もまたすべてよみがえってきたのだから。
とすると、解離の当事者が感覚鈍麻に陥るのは、トラウマに関連した特定の感覚を使わないことによって、それに紐付けされている記憶もイメージしないようにするという適応なのだろう。わたしの場合、都市部では騒音などが苦痛なので感覚を使うことができず麻痺させていたため、そうした感覚に伴うさまざまな記憶が想像できなくなっていた。しかし北海道まで来て、やっと感覚をオープンにできたおかげで長年使っていなかった感覚に伴う記憶を想起できるようになりはじめていたのだと思う。
残念ながら、わたしは自然の中にいても、五感をフル活用できるほどには自由になれず、まだ自分の感覚をどう使えばいいのかわかりかねていたし、短期間で旅行から帰ってきてしまったので、過去を思い出すプロセスは途中で停止してしまったのだけれど。
しかしそれでも、ひとつ感じたのは、「ここでなら記憶を思い出しても構わないだろう」ということ。解離された感覚を取り戻すなら、それと紐付けられているトラウマ的な記憶まで蘇らされてしまう可能性がある。都会のセラピールームでそんなことになったら、わたしは耐えられないかもしれない。都会ではどこにも逃げ場がないから。
けれども、北海道まできて、日本列島の北の最果て付近までやってきたとき、自然に囲まれた場所で、わたしは「ここでなら大丈夫だろう」と感じた。たとえ過去の記憶が呼び覚まされてしまおうが、広大な自然に囲まれたこの場所でなら、わたしは逃げることのできる場所がある。
パニックになってドアを開けて外に飛び出したら、猛スピードで車が駆け回っている無機質なコンクリートジャングルの都市と違って、ここでなら、たとえパニックになって飛び出しても、すべてを包み込んで心穏やかにさせてくれる大自然がある。もしかすると、たまにいる都会で飛び込み自殺をしてしまうような人は、ドアを開けて飛び出したところが、都市ではなくこんな雄大な大自然だったら、心落ち着けて穏やかになれたのかもしれない、そんなふうに思いました。
旅行先で気づいたこと
以下、そのほかに旅行先で気づいたことのメモ。
本当なら時系列順に記録を書きたかったんですが、リアルタイムではちょっとしたメモしか残しておらず、旅行から帰ってきて記憶があいまいになってきているので、時系列を無視した断片的なエピソードとして残しておきます。
■人の多さによる違い
滞在地は、中心部の商店街こそ車がときどき通るものの、少し住宅街に入れば、もう車が通ることもほとんどなく、畑や森に囲まれた小ぢんまりとした町でした。ほとんど外で人を見ることがなく、とても静かです。ふだん都会でどこもかしこも人だらけなのとは大違いでした。
愛着障害は前に書いたように相手によって条件反射的にモード切り替えのスイッチングを起こしてしまうなど、人間アレルギー的な側面があるので、人が少ないというのはそれだけで安定性を保てる要素になります。わたしの場合は、SEのセラピーを通して、近くに人がいるだけで緊張することがわかっているので、なおさら人がいないことの価値は大きい。
都会はあまりに人が多すぎて、住居さえも密集しているので、常に人に見られている、パーソナルスペースが侵害されていると感じてしまうことも慢性的なストレスにつながっているんだと思います。
■騒音の聞こえ方
同じ一台の自動車が通る騒音でも、町の中央部の舗装された道路や建物のさなかですれ違うときと、町の外れの森林の近くで自動車とすれ違うときとでは、まったく音量が異なるように感じました。前者の場合は耐えがたい大きさで耳栓が必要でしたが、後者は耳栓なしで耐えられる大きさでした。
当たり前の話ですが、まわりの環境によって音の聞こえ方は変化することに気づきました。周囲がコンクリートだと反響して大きく聞こえますが、周囲が森林だと音が吸収されて耐えやすくなるのだろうか、と思いました。先ほどちらっと言及したNATURE FIX の中のこのエピソードを思い出します。
ホンの説明によれば、川の音が反響することで、人々の交通騒音の受けとめ方が変化したという。たしかに車の音は聞こえるけれど、あまり気にならない。その場所の交通騒音はひどく、65デシベル以上あるが、水の音も同じくらい大きいのだ。
「この川は音が最大限に響くように設計されているんです」と、ホンは言う。「気持ちのいい音だから、みなさん、水の流れがうるさいとは思わない。こうした水の音をもっとも心地よく感じるという調査結果もあります」(p141)
音がうるさく感じるかどうかは、騒音源だけの問題ではなく、その場所の反響性を含めた環境側の問題でもある、というのは考えてみれば当たり前のことなのに、なぜか見過ごされがちだと思う。
都会ではどこもかしこも舗装された道路や建物で覆われているので、環境による音の聞こえ方の違いに気づく機会はほとんどないけれど、今回の滞在先ではすご近くに森があるおかげで、聞こえ方の変化に気づくことができました。
とりわけ、名寄川にかかる橋の上で一休みしたときは、まさにこのエピソードのごとく、まったく川の本流の音は不快ではなく、ずっと聞いていたと思うほどに心地よいものでした。
■虫に対する警戒心
都会育ちの例に漏れず、わたしも虫が苦手なほうですが、ここに滞在しているときは、虫がまわりにいてもほとんど気になりませんでした。ほとんどの虫のサイズが小さかったこともあるでしょうが、それ以上に環境の影響が大きいと感じました。
同じ虫でも、草花の中など自然のなかにいるのを見たときと、家の中や舗装された道路の上にいるのを見たときとでは、まったく自分の警戒度が異なることに気づきました。「動物と環境は一体」だというラヴィーンの言葉を引用しましたが、どうも人間の脳の認知もそれにのっとっているように思います。
おそらくわたしたちは対象物だけを見ているわけではなく、背景も込みで評価しているので、動物であれ虫であれ、自然のさなかにいるのを見るときと、人工物の中にいるのを見るときとでは警戒度が異なるように思います。(たぶんこれは個人差があり、ロッドアンドフレームテストで「場依存」の視覚認知傾向を示す人に強いはず)
都会育ちの子が虫が苦手になりやすいのは、単に日頃から触れ合っていないからではなく、人工物を背景にした虫を見る機会が多いことも関係しているのではないでしょうか。そういえば、わたしも子供のころ、ダンゴムシなどを平気で触っていましたが、それは土いじりをしているときでした。
■自然豊かな国でも自然と触れ合えない
旅行中とても驚いたのは、本当にどこまで行っても森だらけで未開発の自然があふれていることでした。都会で育ったせいで、日本は自然の少ない国だと思いこんでいましたが、地域によってはこれほど野性的な自然が残っているんですね。都会だと人工物99 : 自然1の比率ですが、ここではまったくの逆で、自然99 : 人工物1でした。
そういえばNATURE FIX で、冒頭からいきなり日本の森林セラピーの宮崎良文教授らの研究が出てきて、アメリカ人である著者からすれば、日本は環境意識の高い国だと思われていることが意外でした。日本には「カロウシ」とか「ツウキンジゴク」といった言葉があるけれど、そのぶん「シンリンヨク」などの自然セラピーに対する認識も高いんだよと。もしわたしがアメリカ人で、この本だけを読んだら、日本という国にあこがれてしまいそう。
「どうして日本人はこれほど自然について考えているんでしょう?」と、エイを食べようとしている宮崎教授に、わたしは尋ねた。
「アメリカ人は自然について考えないんですか?」と、逆に問い返された。
わたしは考え込んだ。「考えている人もいますが、考えていない人もいます」そう応じたものの、本音を言えば、考えていない人のほうが圧倒的に多いはずだった。その証拠に、アメリカ人が戸外ですごす時間や公園に足を運ぶ回数は減少の一途をたどっている。(p40)
どこの国の話?? そう思わずにはいられませんでした。わたしの身の回りだと、そんなに自然のことを考えているような日本人は絶滅危惧種なんですか! 外国人から見た、ただの日本贔屓じゃないのか?
しかし、このたび、北海道の大自然の中で過ごしてみて考えが変わりました。確かに、日本は森林の国であり、いまだに森林地帯は非常に豊富なんです。東京や大阪でも、都会から2-3時間くらい車を走らせれば、ほとんど人が住んでいないような山や森に行くことができる。本当に開発されてコンクリートジャングル化している場所は都市部だけだったのだ。
でも、都市部にほぼすべての人口が集中していて、もはやだれも山間部に足を運ばないせいで、本当は自然豊かであるにもかかわらず、自然など存在しないかのようになってしまっている。都市に住むほとんどの人は、何年も何十年も、自然豊かな場所に足を運ぶことさえしなくなっている。あなたの子どもには自然が足りないにあったこのエピソードを思い出します。
彼女によれば、人々は名前を知らないものには価値を認めない。「植物の名前を知るたびに何か新しいものに出合ったような感じがする、と言った生徒がいたわ。名前をつけるということは、その存在を知ることなのよ」(p60)
たしかにわたしは、この旅行中、自分が何も知らないことを痛感しました。わたしは大自然のただなかにいて、おびただしい種類の木々や草花、虫たちに囲まれていた。だけど、そのほんの1割たりとも、名前で呼ぶことができなかった。なんと無知なのだろう。なぜこれほど自然から切り離されて生きてきたのだろう。
自分の感情や記憶を言葉にできないせいで、あたかもそれ自体なかったかのように認知されてしまうというのがトラウマの「解離」だ。たとえトラウマの痕跡がすぐそこにあろうと、名前を知らなければ、人はそれが何なのかわからない。解離が起こっている人、失感情症の人は、自分がトラウマを抱えていることを否定・否認して、トラウマの影響など何もないと言い張ることが多い。名前をしらなければ存在しないも同じ、だということだ。
では、自然が身近にあるにもかかわらず、その名前を知らないせいで、自然の存在すら認知できないようになっている現代人もまた、一種の「解離」に陥っているということではないだろうか。ラヴィーンの言う、自然から切り離された人類とは、自然から解離された人類でもあるのだ。
本来、人間は巨大な生態系の中で生きていて、自然と共生関係にあり、多大な恩恵を受けてきたはずなのに、そこから切り離されてしまった結果、癒やしのためのリソースを活用できなくなってしまった。本当は、自分の肉体の内部にある臓器だけでなく、自分の肉体の外側にある自然界もまた、一種の臓器のようにして健康に不可欠な働きをしているというのに。ヒトを含めた動物すべては、環境から切り離しても正常に稼働するように作られてはいない。「動物と環境は一体」なのだから。
センス・オブ・ワンダー
旅行のさなか、町のバスターミナルに寄ったとき、待合室の棚にレイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーが置いてあるのを見つけました。沈黙の春で有名なカーソンが最後に書き始めたものの、志半ばで未完成のまま終わった本だそうです。そのためほんの五分くらいで読める分量でしかありません。
けれども興味深かったのは、カーソンが最後に行き着いたテーマがセンス・オブ・ワンダー、すなわち畏敬の念だったことでした。わたしが今回の旅でやってみたかったことのすべてが、この一冊の短い本の中に凝縮されていました。
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。(p23)
わたしが今回の旅行で求めていたこと、知りたかったこと、体験したかったことがまさにそれでした。
旅行の最終日、町役場の人に連れられて、山の上にある、町を一望できる展望台に登ったとき、わたしはまさにその感覚の一端を体験しました。その日は旅行の日程のなかで唯一晴れた日でしたが、展望台は昨日までの雨でぬかるんでいました。雨ざらしになっていた螺旋状の階段を登っていくと、よろけそうになるほど激しい風にあおられました。それでも顔をしかめながら最上部までたどりつき、目を上げて景色を眺めたとき、驚きました。
そのときの風景の写真は撮るには撮ったのですが、ここには載せません。じかに自分の目で見た景色と、写真に映っていた景色があまりに違うからです。写真では本物の感動が伝わらないなんてよく言われますが、本当にそうでした。ただ感動を伝えられない、という生易しいものではなく、まったく別物であると感じました。あとで写真を見たとき、わたしが見たあの景色とはまったく別の場所で撮った陳腐な何かのように思えました。
わたしが展望台から眺めた景色は、これまで見たことのない鮮やかな色合いに満ちていました。いま思えばあれば、わたしが夢の中でだけ見たことがある色でした。遠くの山稜が、浅葱色とか瓶覗色といった和名を思い出させる、とても繊細なグラデーションを描いていました。絵を描くときに、遠くにある山ほど青みを加える空気遠近法を使いますが、実物の青みのグラデーションは、こんなにも鮮やかなのだと愕然としました。びっくりするあまり現実感が失われ、立体的な風景ではなく平面的な絵画を見ているかのような錯覚を覚えました。
夢の中ほどに感受性が高まった結果、刺激が圧倒的すぎて健全な意味で解離が起こったのではないでしょうか。そうだとすれば、あの感覚は畏怖の念、センス・オブ・ワンダーのかけらだったのではないか、と思えます。
わたしが何回か前に引用したあの言葉、レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダー で書き、あなたの子どもには自然が足りないでも引用されていたこの言葉を思い出しました。
わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。(p24)
確かに「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではありませんでした。ただ写真を見て「知る」ような体験は、「感じる」体験とは比べ物になりません。正直なところ、旅行から帰ってきて都会の自宅でこの記事を書いているのを後悔しています。リアルタイムの感動が損なわれてしまったばかりか、体調がまた悪くなってしまい、思うように書き進めるのが難しいので。
今回は「感じる」ことを目的としたソマティックな旅行のつもりだったので、あえてPCのたぐいは持っていかず、写真もごく最低限しか撮らなかったんですが、せめてキーボードは持っていったほうがよかったかもしれませんね。旅行しながらいつも感想をメモしていたオリヴァー・サックスがオアハカ日誌にこう書いていたように。
わたしはなぜ日誌を書くのだろう? わからない。頭を整理し、感じたことを文章の形にまとめ、自叙伝や小説のように思い起こしたり創作したりするのではなく、“リアルタイム”でこの作業をすることがいちばんの目的なのかもしれない。(p 9)
この記事は旅行記ではないので、旅行の感想を事細かまで書くようなことはせず、セラピーと関連する気づきをメインに書いてきました。旅行で感じたこと、味わったことの半分も書けた気はしませんが、長くなってしまったので、この辺で終わりにしておきます。
今回の感想が、断片的すぎるとか、まとまりに欠けている、といったところがあるとすれば、それはわたしが何も知らないことの表れです。自分がよく知らない、理解できていないことについては、整理して書くことができないからです。今回の旅行を通じて、わたしは自分がこれまで狭い世界に閉じこもっていたこと、何も知らなかったことをまざまざと痛感しました。わたしにはもっとこれから、五感を使って味わい知らねばならないことがたくさんあるのです。
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