切り離された自分の身体を取り戻すセラピー体験記(7)

自分の身体を取り戻すためのセラピーの体験記の7回目。前回は大自然のさなかに旅行に行った、即席の自然セラピーのような体験について書きました。

今回はその続きを書こうかと思っていたんですが、同じ内容を別々の記事に前後編に分けて書くのが好きじゃないので、けっきょく、後編に書くつもりだった内容は、前回の記事に追加してしまいました。

今回は、話はそちらの話いったん置いといて、近況を中心に書きたいと思います。

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11回目のセラピー

旅行から帰ってきてから、とても困った状態に陥っていました。とにかく身体がしんどい。ひたすら寝ようとしても睡眠が断続的で、起きたら体中ガチガチに凍りついていて痛い。理由もわからず、あまりに追い詰められた気持ちになって発狂しそう。

ここ数週間、いろいろ更新が滞っていたのはそのせいです。まともに思考できる状態ではありませんでした。厭世観と虚無感に満たされて、真剣に死ぬ方法を算段しはじめていたくらいです。もう何をやってもムダだし、生きていてもしょうがないと感じました。ああそうか芥川龍之介とかヴァージニア・ウルフはだから死ぬことにしたんだな、とか。

幸いだったのは、わたしの希死念慮は解離の虚無感によるもので、衝動性によるものではなかったことか。確かに最初は追い詰められて発狂しそうな感情に襲われましたが、わたしの場合、そうなると勝手にシャットダウンして麻痺状態に反転するので、衝動的に自殺したりするようなことはなく、基本的には茫然自失で過ごしていました。死ぬような元気さえなかったとも言う。

自分でもなぜこれほど絶望的な状態に陥ったのかはよくわかりません。たぶんそうだろうと思うのは、北海道で過ごした環境があまりにもすばらしくて、自宅に戻ってきたときに都会の刺激の多さに圧倒されたのではないか、ということ。以前、遮光メガネを使うようになってから、余計に光に敏感になって苦しんだときと似ています。ざっくり言うと、良い環境を知ったせいで、今まで辛抱できていた刺激に耐えられなくなってしまった、ということでしょう。

しかしながら、ここ数日、ようやっと少しましになってきて平常心を取り戻しつつあります。回復の兆候は、眠りの時間が心地よくなってきたことに現れました。絶望的状態のときは、睡眠が断続的ですぐ全身がこわばって目覚めていましたが、ここ数日は、ぐっすり寝て寝覚めが幸せで夢もたくさん見る睡眠が戻ってきました。たぶん交換神経の過剰な活性化が取れてきたということでしょう。眠りが幸せであればわたしは生きていけます。

11回目のセラピーは、こうした一連の交感神経の過覚醒の時期の真っただ中でした。包み隠さずに言うと、セラピストが何を言っているのかよくわからず、セラピーの記憶もはっきり残らないほどひどく混乱したものでした。

セラピストは、わたしの交感神経の興奮が強すぎるのを見て取って、今までのセラピーは刺激が強すぎたと思うので、もっと刺激を小さくして短いセッションを繰り返そうと提案してくれました。

セラピストが言うには、今のわたしは、ブレーキを使うことは学んだものの、背側迷走神経の急ブレーキであるため、感じすぎるか、シャットダウンするかの二極になりやすいということ。これは前にわたしが前々回の体験記のなかで書いていたことと意見が一致しています。要するに、わたしは自動車でいえば、フットブレーキなしで、アクセルと急ブレーキだけで運転しているような状態にある。

それでセラピストは、今までよりも小刻みなペンデュレーションを練習することによって、つまり短い時間で軽い刺激と軽いリラックスを繰り返すことで、フットブレーキを使うトレーニングをしていこう、と提案してくれたわけです。

でも、わたしには、その意味するところがよくわからない。セラピストは小さなペンデュレーションを繰り返せば腹側迷走神経が活性化してくると言っていますが、わたしは納得がいかない。

わたしの認識ではこうです。わたしがアクセルと急ブレーキだけに偏ってしまうのは、条件反射的に解離の急ブレーキ(背側迷走神経)を使ってしまう傾向があるから。たとえば肩に手を置くと、すぐに手が自分のものではないという感覚が引き起こされましたが、あれはその動作と解離とが条件反射として紐付けられているからです。だから、たとえ小刻みなペンデュレーションをしたところで、同じ手法を使っているかぎり、同じ背側迷走神経の反応が引き起こされるだけで、腹側迷走神経の活性化にはつながらないのではないか?

そう言うと、セラピストは、じゃあそれとは別の方法で、たとえば音に耳を傾けるなどの方法を使ってリラックスに努めてみるのはどうか、と提案してくれましたが、それは今までもやってきたことだし、いまさら役立つとは思えない。

ためしに一回セッションしてみましたが、何か得るものがあったようにも感じませんでした。わたしが交感神経の活性化に陥っていたからかもしれませんが、セラピーのときに何に焦点を向ければいいのか、皆目見当がつきませんでした。

SEのセラピーとは習慣を身につけるものであって、今は腹側迷走神経というフットブレーキの習慣を身につけようとしているわけですが、わたしにはそれが何なのか、よくわかりません。そもそもそんなブレーキがわたしには搭載されているのか? それを意識して使ったことも、使えたこともないので、セラピーのときに何をどうすればいいのかが、まったくイメージできませんでした。

セラピストは、腹側迷走神経のブレーキを使ったことがないなんてことはありえないので、セッションを繰り返すうちに強化されると言ってくれるんですが、何を目指して取り組めばいいのかからして分からないのです。いつも使っている解離のブレーキ以外に興奮をしずめる方法があるといきなり言われても、どうしていいか想像すらできない。

セラピストは、背側迷走神経や腹側迷走神経についてわかりやすく説明した本があるから読んでみてはどうかと書名を教えてくれて、帰ってからネットで調べてみましたが、どうにもその本を買う気にまではなれませんでした。わたしがいま陥っている問題は、神経の機能について知らないことから来ているわけではないはずだ、という漠然とした思いがあったからだと思います。わたしに足りないのは知識ではなく、経験としてのイメージでした。

結局、その日のセラピーは、あたかも初回のセラピーに逆戻りしたかのようでした。あの一番はじめのセラピー、まだ右も左もわからず、セラピストの言っていることに共感できなかったあの日のセラピーのように。

疑念と厭世観の闇

セラピーを終えたあとも、わたしはずっと疑念と猜疑心と不安と混乱の嵐にもまれていました。ただセラピーに対してだけそう感じたわけではありません。わたしがこれまで信じてきたあらゆること、自分の生き方、信念、周囲の人、家族、そして将来の希望にいたるまで、ありとあらゆるものを疑い、何一つ信じられなくなりました。その結果としての、絶望、厭世観、虚無感、そしてもう死んでしまってもいいかもしれないというあきらめでした。人生など理性的に考えれば何の価値もない。どうせ何ひとつ確かなものなどないし、いつかは苦しみの末に死ぬだけなのだから。どうやったら、できるだけ苦しまずに自然に死ねるだろうかとぐるぐる考えていました。

しかし、真っ暗な闇の深淵で、わたしはふと気づきました。これらの著しい疑念、何も信じられないという感情は、果たしてわたしの自由意思によるものなのか?

わたしは主観的には、確かに自分の意思で考え抜いた結果として絶望したかのように感じていました。しかしわたしの知識はささやいていた。これは違う。何も信じられなくさせているのは、わたしの自由意思ではなく、わたしの病的な脳機能のほうなのだ、と。

私はすでに死んでいるに書かれていた島皮質の研究、そしてだいぶ前の体験記に書いた自分の考察を思い出しました。てんかんの恍惚発作では、自分はすべてを理解したような高揚感と確信が生じるのに対し、離人症や慢性不安では、何一つ確かなものなどないという疑念とざわめきが生じます。これらは、どちらも、本人の主観では自分の意思で確信したり不安になったりしているように感じられますが、実際には脳の島皮質をはじめとする予測システムの活動が亢進しているか低下しているかの違いなのです。

思い出したのは、末期患者の死の受容の研究をしたエリザベス・キューブラー・ロスの話。彼女は、献身的に患者たちを世話し希望のメッセージを伝え続けましたが、晩年、脳梗塞に倒れたあと、神を呪うようになり、神はヒトラーのようだとか、愛なんてうんざりだとか言うようになったとか。

この豹変は、他人の死を看取るときは聖人のようであっても、いざ自分が死ぬとなると人は醜くなってしまうものだ、というように解釈されがちです。いざロス自身が死という現実に直面してみたら、現実はそれまで主張してきた理想どおりにはいかなかったのだと。

しかしわたしは違うと思う。このとき彼女は、以前と異なる脳機能を抱えていた。そのため、無意識のうちに思考そのものが変質してしまっていたのだ。前に考えたように、ただ単に島皮質の活動が亢進したり低下したりするだけで(実際には島皮質だけでなくもっと色々と関連しているだろうけれどここは単純化しておく)、人はわけもなく確信に満たされたり、疑念にさいなまれたりします。これは、世の中に信じやすい人と疑いぶかい人がいる理由でもある。もともと確信に関わる脳の活動が高めな人はすぐに信じやすいし、低めな人は疑ってかかりやすい。

島皮質の活動が過剰に活性化しているPTSD患者はちょっとした刺激を脅威だと「確信」するし、逆に島皮質の活動が低下している解離の患者は自分の記憶についてさえ「疑う」。確信や疑念は、このように無意識の脳の活動から生まれるのに、ほとんどの人はこれを自分の意思による決定と錯覚してしまう。

たとえば自分の科学的仮説を確信している科学者や、神は確かにいると確信している宗教家は、自分では十分な証拠があるから確信していると思っているかもしれない。でも、彼らが信ずるに足るとみなしている証拠を他の人に提示したところで、それに納得する人はほとんどいない。確信を生み出しているのは、実際には確固たる不動の証拠ではなく、その人たちの活動亢進ぎみの島皮質による証拠の過大評価だから。

逆に、わたしみたいな何でも疑ってかかる不可知論者は、自分は理性的で客観的だから何でも鵜呑みにせず疑ってかかるのだと考えているかもしれない。わたしも以前はそう思っていて、自分の慎重な態度に ある種の優越感を抱いていた。でも実際には、疑り深いのは脳の解離的な傾向の現れであり、おそらくは確信の度合いに関わる脳のシステムが慢性的に低めで活動していることによるのです。

わたしたちは自分は自由意思で判断していると信じたいがために、こういう結論は受け入れがたく感じるかもしれない。でも、てんかんの恍惚発作やPTSD、境界性パーソナリティ障害などで確信度が強くなり、不安障害や解離では確信度が低下するという事実は、信じやすさは理性的な判断よりも、その人の脳の活動状態に左右されやすいことを示していると思う。

ではわたしはどうか。このときのわたしは、北海道に旅行に行ったあの1週間が、遠いむかしの夢だったかのように感じていました。本当にわたしは旅行に行ったのだろうか、と疑うほどに。明らかにわたしは過覚醒から反転した解離状態に陥っていました。わたしの虚無感や猜疑心は、根拠のある正当なものではなく、お決まりの離人症の一部だということに気づきました。ほどよく解離してるくらいだと現実の辛さが薄れてくれていいんですが、完全にシャットダウン状態になってしまうと生きる意欲すら消えてしまうんですね。

では、脳の活動を活性化させることができれば、わたしの思考は変化するのか。旅行中、中枢神経刺激薬がなくても活動できていたせいで、帰ってきてからほとんど薬を服用していなかったことに気づきました。わりと久々にモディオダールを半錠飲んでみると、案の定だいぶ積極的な思考に戻りました。よくよく考えてみれば、自殺する人たちだって、よく考えた末に死を選ぶわけではなく、脳機能の異常のせいで絶望して死ぬしかないという視野狭窄に陥るんでした。わたしが死にたいと感じたのも明らかに自分の意思ではないはずです。生物にはもともと生きたいという衝動が組み込まれているので、たとえ強制収容所に入れられても大半の人は自殺しない。

しかし原因が単に脳の活動低下にあるとわかって、わたしが本質的にこの世界に絶望しきったわけではないことに気づけたのはよかったものの、薬に頼らないと解離の離人状態から復帰できないのは問題です。

旅行中に薬が要らなかったのは、たぶん前回の記事で書いたように、自然はリタリン(中枢神経刺激薬の代表)の代わりをするからです。カプラン夫妻の注意回復理論に基づけば、自然の多い環境では、脳が過剰な刺激に圧倒されなくなるため過覚醒にならないし、過覚醒の結果 反転して活動低下してしまうようなこともなくなるからなんでしょう。わたしが薬に頼らずとも離人症に陥らずに生きられるようになるには、やはり環境の抜本的な改革が必要な気がします。

「意識と自己」を読む

これで悩みは一つ片付いたけれど、しかしまだ問題は山積みです。そのひとつはセラピーに関すること。セラピーが行き詰まった理由はなんだったのか。次からわたしはどうすればいいのか。

その答えは、セラピストが紹介してくれた本ではなく、今わたしが取り組んでいる難解な本、あのアントニオ・ダマシオの意識と自己からもたらされました。なんでこの本を読もうと思ったのかは、いまさら説明するほどのことではないかもしれません。ソマティック心理学に関わる人にとっては誰でも名前を聞いたことのある必携の本だからです。ヴァン・デア・コークもピーター・ラヴィーンも、パット・オグデンも、この界隈の専門家たちがそれぞれの著書の中で必ずダマシオの研究を引用している。たとえば身体はトラウマを記録するでヴァン・デア・コークは言う。

彼の著書のうち、『無意識の脳 自己意識の脳ー身体と情動と感情の神秘』は私にとって最も重要な本で、それを読んだときには目を開かれる思いだった。(p155)

タイトルは違うけれど、いまわたしが読んでいる本の旧版です。彼をして「私にとって最も重要な本」とまで言わしめる、そんな稀有な本をいまさらながら読んでいたのでした。(ダマシオの著書のレパートリーの中で最も重要なのか、これまで読んできた本全体で最も重要なのかは、この言い方だとよくわからないが、重要であることに変わりはない)

でも、言い訳するわけじゃないけれど、有名な本である=みんながちゃんと読んでいる本ではないと思う。ぶっちゃけこんな難解な本、ちゃんと読んでいるセラピストなんてほとんどいないでしょう。 わたしはそれなりにたくさん本を読んできた人だけど、ジェラルド・エーデルマンの神経ダーウィニズムの本を読んだとき並に苦戦しました。(ダマシオはこの本でエーデルマンの研究に再三再四言及しているので同じたぐいの本ではある)。なんというか、自分の読解力のたりなさを痛感する本ですね。IQの次元がかなり上の人が書いてるのがよくわかる本です。読んだ結果、また過去の自分の誤りに多数気づいたので、どうやって過去記事を修正するか頭を悩ませているところです…。

内容は、簡単にまとめると、わたしたちの意識というものは、身体から生じてるという「ソマティック・マーカー仮説」の本。(ソマティック・マーカーについてはラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマのp364で言及している) わかりやすく噛み砕いてくれている訳者さんの解説から引用しておく。

アントニオ・R・ダマシオ博士の魅力は、何といっても「身体」を重視する脳科学者であることだ。

実際、彼の名を有名にしたソマティック・マーカー仮説も、そしてそれを生み出したユニークな「情動と感情」の理論も、身体と脳のダイナミックな相互作用をもとにしている。

「首から上だけ」を論じる、いわば「身体なき脳科学」が幅をきかせている今日、彼の脳研究のアプローチはとても新鮮に映る。(p436)

ダマシオの研究は、これまで脳一辺倒だったトラウマ研究に新しい視点、身体という視点をもたらした。その点で、とても残念でがっかりしたことなんだけど、解離の岡野憲一郎先生が、つい先日、ブログにこんなことを書いてました

私は思うのだが、トラウマが身体に刻印される、というのはやはり正確ではない。トラウマは脳に刻印される。それが身体症状につながるのだ。

唖然としましたが、そういえば、岡野先生は前からそういう考え方だったなーとがっくりしました。わたしは岡野先生を尊敬しているし、そもそもポリヴェーガル理論を知ったのも岡野先生のおかげなので感謝しているんですが、これではまさしく「首から上だけ」の「身体なき脳科学」ですね。続くブログを読んでいたら、まだヴァン・デア・コークの「身体はトラウマを記録する」を読んでさえいなかったらしい…。岡野先生はとても柔軟な思考の方なので、一年後とかにはまたご意見が変わってるかもしれません。

もっとも確かに岡野先生の言うことにも一理あって、身体がトラウマを記録するといっても、実際に記録しているのは、身体を表象する脳マップです。脳は、身体の状態を信号として刻一刻と受け取り、それをマッピングした独自の表象を作り上げていて、わたしたちはその脳マップにより身体を感じています。たとえばわたしたちが手足の痛みや疲労を感じる場合も、内臓の不調を感じる場合も、実際に感覚を感じているのは身体ではなく脳に作られた表象のほうです。(これは手足を切断されても手足の痛みなどの感覚を感じる幻肢痛からわかる)

しかしだからといって、結局は脳の問題だと言ってしまうのは早計で、人間の本質に即していません。たとえばダマシオはこの本で、一貫して、「脳」という言葉の代わりに「有機体」という言葉を使っている。(この「有機体」という言葉は、ラヴィーンも心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで多用していて、読んだ当時意図がよくわからなかったが、ダマシオの研究に基づいた表現だったとわかってやっと納得できた)

三つ目の類似は、認知科学と神経科学において「有機体」という概念が著しく欠如してることだ。心はいくぶん不確かな関係で脳と結びついたままだったし、また脳は複雑な生物の一部として見られるのではなく、一貫して身体から切り離されていた。(p57)

ダマシオが「脳は」とか「身体は」という言葉よりも、「有機体は」という言葉を多用しています。それは、脳と身体は分けて扱えるものではなく「身体と脳からなるある有機体」というパッケージで考えなければ意識の問題は語れないという信念による。(p368)

ダマシオの理論によれば、意識とはそもそも身体の恒常性を維持するシステムであり、いわゆるホメオスタシスとして知られているものとほぼ同じ概念を扱っているという。そして、身体の恒常性を維持するシステムということになれば、人間や動物どころか、単細胞生物にも備わっているので、必ずしも脳は必須ではないことになる。意識はもともと身体による身体のためのものなのだ。(p184-190)

もちろんダマシオは、もっと高度な形態の恒常性の維持システムとして、中核意識や拡張意識というものを想定している。中核意識とは赤ちゃんや動物も持っている「今・ここ」の認識で、拡張意識は、未来や過去、さらには自分を認識できるより優れた意識のこと。そうした高度な意識になると、当然、脳が必要になってくるわけだけど、なら脳だけで十分なのか、というとそうはならない。(p266)

というのは、意識を形成するのに必須の材料は、身体の感覚を通して供給されるから。意識とは身体の恒常性を維持するためのシステムなので、まず外界の影響による身体の変化を刻一刻とモニタリングしなくてはいけない。身体の内外に無数に存在する感覚器官はそのための情報収集センサーとして人体に備わっている。身体のセンサーからの情報入力がなければ、意識なんてものは存在しない、とダマシオは考える。まず身体の内外から感覚刺激の入力があり、それに基づいて情動が生まれ、感情が生成され、そして意識が生まれるので、身体抜きの意識というものはありえない。

さて、ここで一つの興味深い証拠を考えてみよう。人間一人ひとりに一つずつの身体がある。この単純な関係をこれまで考えたことがない人もいるかもしれないが、あるのは、一人の人間と一つの身体、そして、一つの心と一つの身体。これは第一原理である。

身体をもたない人間に出会った者はいない。二つ以上の身体をもつ一人の人間に出会った者もいない。シャム双生児もそうではない。そういうことは起こらない。二人以上の人間が宿る身体に出会ったとか、そういう話を耳にしたとかは、あるかもしれない。多重人格障害(最近では「解離性同一性障害」と呼ばれている)として知られる病状がそれだ。しかし、それでさえ、この第一原理に少しも反していない。なぜなら、それぞれの一瞬を考えれば、複数のアイデンティティのうちのたった一つが、一つの身体を使って思考し、行動しているからだ。

…なぜ、一つの身体に二人とか三人の人間がいないのか。いれば生物組織が節約できるのに。なぜ、偉大な知的能力と想像力をもつ人間が、二つまたは三つの身体に宿らないのか。宿ればおもしろいのに。なぜ、身体のない人間や、幽霊や精霊のように重さもない色もない創造物がいないのか。いれば空間の節約になるのに。

単純な事実は、こういった創造物はいまのところ存在しないし、過去に存在したことを示すものもない、ということであり、またその合理的な理由は、一人の人間を定義する一つの心は一つの身体を必要とし、一つの人間の身体は必然的に一つの心を生み出す、ということ。(p191-193)

夢がないように思えるかもしれないけれど、わたしはダマシオの言っていることは真実だと思う。世の中のフィクション作品には、身体を抜きにした意識、幽霊とか思念体とか精霊のようなものが氾濫している。アニメのキャラクターは肉体が死んでも霊となって残された人たちに関わるし、ヒーローは無限の「心の力」なるもので肉体の限界を超えて奇跡を起こす。でも、現実をよく観察すればわかるようにそんなものはありえない。肉体が滅びた死者が、生きているわたしたちに影響を及ぼすことはできない。もし干渉できるならホロコースト犠牲者の霊魂はすぐにヒトラーやヒムラーを殺して同族を救っただろう。心の力で肉体の限界を超えることもできないから映画と違ってこの世では奇跡は起こらない。

わたしたちが知っていることと言えば、身体が滅びれば意識も滅びるということ。死んで肉体を失った人には何の力もないということ。ゆえにダマシオの言うように、意識はひとつの身体から生まれる。例外はない。このことは、すでに神経科学のさまざまな証拠から裏づけられていて、ダマシオはこの本の中で多数の例を挙げている。たとえば、身体の一部が損なわれれば、意識の一部が欠けていく。最も興味深い例はALS患者についてのもので、なぜホーキング博士があれほど驚異的な知性を発揮できたかの一端を物語っているのかもしれない。

この悲劇的な病の注目すべき側面、しかしこれまで無視されてきた側面は、人間的な自由の状態からほとんど完全に機械的な監禁状態へと追い込まれ、しかも完全に意識がありながら、患者たちはこの恐ろしい状況に対して、まわりが予想するような苦悩や動揺をいっさい経験していないことだ。

患者たちは、悲しみからうれしさまで、かなり幅の広い感情がある。しかし、いまでは本に記されている患者たちの説明から判断すると、彼らは過去に経験していない不思議な静寂さを経験している可能性がある。

…こうした状況下では、通常ならある情動を誘発するはずの心的プロセスが、第二章の終わりで論じた「身体ループ」をとおして情動を誘発することができなくなっている。その脳は、情動実現のための劇場としての身体を奪われている。…その結果、内部環境状態のうちのいくつかは、静寂で調和的であると知覚されるのではないかと思う。(p379-380)

ALSは感覚をすべて保ったまま動けなくなることから悲劇的で恐ろしい病とみなされている。実際に拷問のような病なのは間違いない。だけど、身体とのつながりが一部絶たれると内受容信号が減少するので、苦痛に関係する意識も一部失われるようだ。わたしは昔、閉じ込め症候群の患者が「自分は幸せであり、生きていることがうれしい」という意思を伝えたというニュースを見て理由がまったく理解できなかったんだけど、このダマシオの説明には驚かされた。何事にも理由はあるものなのだと。

ダマシオはこうした例を、すでに動物実験で実証されたものを含めたくさん挙げている。ゆえに、脳だけを意識やトラウマの座とする視点は、現代の神経科学に照らせば中途半端だと思う。身体という視点、さらには脳と身体は不可分の統合体であるとする「有機体」という視点がなければ、全身疾患たるトラウマを解明することはできない。

それに、身体を表象するのは結局は脳ではないか、という意見さえも最近の腸脳相関やマイクロバイオームの研究を見る限り、完全に時代遅れでしょう。

まず 腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかに書かれているように、消化管は「第二の脳」として、「脳との結合を欠いたまま…独立して機能する」ことが確かめられている。もちろん独立して機能する能力はあるとはいえ、実際には第一の脳と緊密に連携しているので切り離すことはできないが、ここで言いたいのは、内臓は脳の傀儡のようなものではなく、対等の重要性を持っているということ。(p46,65)

そして細菌が人をつくる に書かれているように、マウスの腸内細菌を入れ替えるだけで、不安感やストレス耐性が入れ替わるんですから、脳だけでなく腸ないしはそこに生息する細菌群集もトラウマを何かしら記憶しているのは確かです。(p102)

必要なのは情動を知ること

話がかなりそれてしまったけど、今のわたしの状況にとって、この本が有益だったのは、わたしがどこで行き詰まっていたかを教えてくれたからです。

セラピストの言うことがよくわからなくて、セラピーで何をやったらいいかまったく想像がつかなくて困っていましたが、わたしに足りなかったのは、SEの基本に立ち返ることだと気付かされました。

さっき書いたように、ダマシオによると、意識には2つの階層があります。赤ちゃんや動物でも持っている、今この瞬間を描き出す「中核意識」と、過去や未来の自分も想像でき、より人間らしく創造的にふるまえる「拡張意識」。この二つの相互関係を解説する論理の見事さはこの本の白眉ですが、今はそこまで踏み込まずに、より本能的で「今ここ」しか認識できないのが中核意識、もっと理知的で未来や過去を認識できるのが拡張意識、というくらいに考えておきます。

中核意識の段階では、わたしたちは刺激を受けると情動や感情で応じます。より高度な拡張意識を使用できるようになれば、わたしたちは理知的に自己吟味できるようになります。でも、問題はわたしたち人間は拡張意識の高度な自己認識に慣れすぎて、それより下にあるはずの無意識の情動や感情を感じられなくなっていること。

この本を読んでいて、はっと目に止まったのは、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するのp156で引用し、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマのp183で引用している、この文章。ついに原文にあたることができました。

われわれはときおり、事実を見いだすためにではなく事実を隠すために心を使う。

われわれは心の一部を衝立(ついたて)として使い、心の別の一部がよそで進行していることを感知しないようにしている。この隠蔽はかならずしも意図的ではないが、意図的であろうとなかろうと、衝立が事実を隠していることは確かである。

この衝立がもっとも効果的に隠しているものの一つがわれわれ自身の身体、身体の中身である。この衝立は、命の流れである身体の内部状態を、部分的に心から排除している。情動と感情のあいまいさ、捉えどころのなさ、実体のなさは、たぶんこの事実の現れであり、われわれが身体の表象をどのように遮っているかを、あるいは非身体的な対象や事象にもとづく心的イメージがどれほど現実の身体を遮断しているかを、示唆している。(p44)

ちょっとした感動の出会いですね。探していたあのフレーズ! そして今のわたしには、この文章の意味がわかる。わたしたちの意識というのは、身体の内部からの感覚(体性感覚、内受容感覚)から生み出されている。身体の内部からの感覚が情動を生み出し、情動は感情を生み出し、やがて意識が作られてそれに気づく。(ダマシオが意識とは「認識の感情」、つまり感情の一種なのだと分類しているのは興味深い。p406) でもわたしたちが意識できるのはそのプロセスのほんの一部にすぎず、身体の無意識の情動や感情をほとんど自覚できていない。それは衝立(ついたて)に遮られている。

しかしSEは、この無意識の情動、ラヴィーンの言葉を借りればフェルトセンスに気づくためのセラピーとして考案された。近頃のわたしは、背側迷走神経やら腹側迷走神経やら難しく考えすぎていたせいで思考から抜け落ちていましたが、SEの基本はこのフェルトセンスに気づいて、「事実を隠すために心を使う」衝立(ついたて)の裏側を見れるようになるトレーニングなのです。

わたしたちは、自分の感情や思考を自覚しているかもしれない。でもそれに先立つ無意識の身体の反応、すなわちフェルトセンスには気づいていない。この無意識の情動に気づくことができれば、身体が何をしたいのか察知することができる。身体の欲求を満たせるようになる。

どうやって腹側迷走神経のブレーキを働かせられるか、などとトップダウンで考えているから意味がわからなかったんです。身体が求めていることにボトムアップで気づき、その要求に応じれば、それがおのずと腹側迷走神経をオンにするはずなので、頭であれこれ考える必要などなかったのです。やり方は身体が教えてくれるでしょう。

意識は言語、記憶、理性、注意、ワーキング・メモリといった他の認知機能で単純に説明されることがよくある。そうした機能は拡張意識の最上層が正常に機能するには必要だが、中核意識にそれらが必要でないことが神経疾患の患者の研究からわかっている。

したがって意識の理論は、単に、言語、記憶、理性を使えば脳と心の中で進行していることをトップダウン的に解釈、構築することが可能になるというような理論であっては「ならない」。(p30)

わたしは確かにこれまで、フェルトセンスを感じる訓練はしてきた。でも、まだそこが甘かったので、特に「今この瞬間」の情動をうまく意識できないでいた。実際、それは最近の数回のセラピーの中で課題として自覚していたことでした。「今この瞬間」にとどまって身体の情動を意識しようとすると、つい思考や解釈が入ってしまう問題がありました。あるいは身体の情動をうまく言葉に変換できないという困難もあった。

これはダマシオ風に言えば、中核意識の段階にとどまれず、拡張意識にシフトして考えてしまうという問題です。別の言い方をすれば、トップダウンの思考が強すぎて、「今ここ」にとどまるボトムアップ的なマインドフルネスが弱いということでもある。

こうした気づきを通して、今のわたしがやるべきなのは、セラピストが提案してくれたように、短いセッションの中で、「今ここ」の中核意識にとどまるトレーニングを積むことなのだと認識できました。理性的な解釈や思考をはさまずに、ただ身体の声に耳を傾けて情動を見きわめる訓練が足りなかったのだと。

まあ、ダマシオも書いているように、これを目指すということは、大自然の中で感じていた、より本能的な感覚を取り戻すということなので、これまで考えてきたアプローチに立ち戻るというだけなんですけどね。離人症が一時的に強まって疑念が強まったのと、セラピストの言葉にとらわれて脱線したのとで、自分の行くべき道を見失っていたんです。

心の中に存在するものに関してこのように視点をそらすことには、犠牲も伴う。いわゆる「自己」の本源や本質をわれわれが感じ取れなくなってしまうことだ。

この衝立が取り除かれれば、人間の心に許されている理解の範囲で、個々の生命の表象の中に「自己」の起源を感じ取れるのではないかと思う。この衝立がなかった昔、すなわち電子メディアやジェット機や活字が登場するはるか以前、まだ帝国や都市国家も登場していない、環境がかなり単純だったころには、もっと容易にバランスの取れた視点を手にできたと思う。

…彼らは、今日われわれが感じ取っている以上に、自分自身について感じ取ることができたと思う。今日われわれが心と呼んでいるものを、息と血を意味するためにも使われた「プシュケ」という言葉で言い表した古代人の知恵に、私は驚嘆する。(p45-46)

だから、結局のところ、わたしは前回までやってきた路線を信じるべきだし、自然の中で感覚を感じ取るということは間違っていなかった、ということになるでしょう。わたしに足りないのは、身体の自然な情動と、それに付随してしまう思考とを分離(アンカップリング)して、より純粋な身体の声を知るためのトレーニングでした。

今さらすぎる話ですが、ダマシオも言っているように、知識は経験の代わりになりません。わたしはまた頭でっかちに考えて、身体の体験をないがしろにしてしまい、路頭に迷うという失敗をしでかすところだった。

哲学者フランク・ジャクソンは、かつてこの問題についてある物語を書いた。それはいまでは哲学の世界ですっかり有名になり、この問題に関する議論でよく引き合いに出される。

それは、典型的な神経科学者「メアリー」についての話だ。彼女はずっと白と黒だけの囲われた環境で育ち、いっさい色というものを経験していない。ただし彼女は、色の視覚の神経生理学について、知られている事実をことごとく知っている。

ある日メアリーはその無色の部屋から実世界へと出ていき、はじめて色を経験する。それは彼女にとってまったく新しい驚くべき経験である。

この話の最初の伝統的なポイント、それは、神経生理学についてのメアリーの並はずれた知識も、彼女に少しも色の経験をもたらしはしなかったということ。(p398)

▽「感覚」「情動」「感情」「理性」についてのメモ
いつもに増してややこしい話を書いておく。これまでのところ、わたしはあまりわかりにくい書き方をしたくなかったので、「感覚」という言葉をあまり厳密に使ってこなかった。しかし、ダマシオは具体的に区別された用語を用いている。

感覚・・・意識がなくても生じる。有機体の生化学的な変化。たとえば意識がない患者に画像を見せた場合でも脳の活動は変化する。

情動・・・意識がなければ生じない。感覚によって誘発される生理的反応。外から第三者が観察できる身体の動き。

感情・・・意識がなければ生じない。情動に続いて起こる、外からは観察できない心の中の私秘的な反応。

理性・・・意識がなければ生じない。この段階ではじめて、自分が感情を抱いていることを認知し、理性的な判断ができる。

たとえば、熱いものに触った場合、まず自動的に痛みの「感覚」が生じ、脳が自動的に反応し、反射的に手を引っ込めるかもしれない。ここまでは無意識の反応であり、昏睡状態の人でも生じうる。アメフラシのような自己の意識がない生物にも見られる有機体の機能である。

次いでその痛みの「感覚」は、逃走/闘争などの身体の動きや生理的パターンを生じさせる。このときの身体の反応が「情動」であり、意識のある動物以上でのみ起こるが、まだ自覚はしていない。情動には意識が必須であり、意識のない状態の人間や動物は、感覚は感じても情動は生じない。

情動は続いて内なる「感情」を生み出す。たとえば痛みの情動のせいで辛いみじめな気持ちになるかもしれない。しかしわたしたちは自分の感情をすべて自覚しているとは限らない。この無自覚の情動と感情がいわゆる「フェルトセンス」であり、衝立(ついたて)によって隠されているせいでほとんどの人が気づいていないものである。

さらに次のプロセスとして、意識が感情に気づいたとき、「理性」が生じる。こうしてはじめて、自分が熱いものに触って痛い思いをしたことを認知できる。しかしどんな人の場合でも、気づくことができているのは、この一連の生理的プロセスのほんの一部にすぎない。

ダマシオの理論に厳密に基づけば、SEのセラピーの目的は、「感覚」に気づくことではないということになる。感覚はそもそも無意識の自動的な生化学的反応にすぎないので、純粋な意味での生の感覚というものには気づくことはできない。(p198)。

そうではなく、感覚によって条件反射的に引き起こされる「情動」や「感情」のフェルトセンスに気づくことはできる。この無意識の衝立の裏側で起こっている過程に気づくことができれば、反応を修正していくことができる。感覚そのものは無意識の有機体の反応なので変えられないが、フェルトセンスのほうは、ひとたび気づくことができれば変えていくことができる。

ここらへんは、前々からもっと正確に書く必要があるのは自覚していたけれど、「情動」や「フェルトセンス」という用語が普通の人にはあまりにわかりにくいと思ったので、あえてすっとばしていた。ラヴィーンもヴァン・デア・コークも、フェルトセンスを「内なる身体感覚」と表現しているので間違いではないのだけれど、彼らの本には、ダマシオの理論を前提とした表現がよく出てくるので、知っておくに越したことはない。

この本の訳者解説でも書かれているが、ダマシオは「情動」をはじめとするこれらの言葉を独自の意味で使っているため、前知識がないと非常にわかりにくい。

著者ダマシオ博士の言う情動と感情は、われわれがふつうに考えている前述のような情動と感情とはかなり違う。…著者の言う「情動」をごく手短にまとめればつぎのようになる。

動物や人間のような「有機体」が何かを見る、触る、聞く、想像する、などをすると、なにがしかの心の評価的プロセスによって「身体的変化」が生じる。…心臓が高なったり、顔が紅潮したり蒼白になったり、腸管の一部が収縮したり、口や目のまわりの筋肉が緩んだり緊張したり、と、身体のさまざまな部位にさまざまな変化が起こる。

…一方、こうした情動的身体状態は神経信号や化学信号によって有機体の脳に即座に、しかも連続的に報告され、それに対応する心的パターン(イメージ)が脳内に生成される。この状態が、著者ダマシオ博士の言う「感情」(の状態)である。

しかし、それが有機体の脳の中に形成されること―すなわち有機体が感情を持つ人―と、有機体が「感情を感じること」(feeling a feeling)とはちがうというのが、情動と感情に関する著者の議論の重要なポイントである。(p439-440)

要するに、感覚入力があると、動物や人は身体の第三者から見える反応としての情動と、心の中の第三者からは見えない反応としての感情を抱くが、ほとんどは意識されていない。しかしそれらこそが身体の用いる言語であり、身体がわたしたちに訴えている声なので、セラピーを通して、情動と感情を意識する、つまり感じとって初めて、身体が癒やしのために何を必要としているかに気づくことができる、というわけだ。

自己免疫疾患の検査

ところで、わたしは、このダマシオの意識と自己を、病院への道中で読んでいました。いつもの病院ではなく、リウマチなどの自己免疫疾患の検査ができる病院に行く道中です。

先日、わたしの文章を読んでご親切にもメッセージをくださった方がいて、自己免疫疾患の可能性についてアドバイスをいただきました。それとは別に、旅行中に手指関節の痛みが出て、しかも以前に出た場所と左右対称だったことから、リウマチの初期徴候かもしれないと懸念したので、この機会にしっかり検査してもらうことにしました。ここのところ、光線過敏のせいで日光に当たった場所にすぐに蕁麻疹やらがてきめんに出るのも気にかかる。

いくつかの本からトラウマと自己免疫疾患の深いつながりを知っているので、何かしら検査に引っかかったとしてもまったく驚きません。むしろ検査に出ないとしても、自己免疫反応が起こってないはずはないと思っています。そもそもわたしの理解からすると、解離というのは、生物学的には、自分の身体の一部を非自己だと認識させるシステムだと思っているので、非自己というタグを貼られた部分を免疫系が異物視するのは当然の成り行きでしょう。

自己免疫疾患は、トラウマの後遺症であると同時に、細菌群集の問題でもあることがはっきりしています。やはり環境に対する感覚過敏や自然からの切り離しが原因だと思うので、もし発見されたとしても、今までどおりの方針でやっていくだけです。

そういえば、とても嬉しいニュースがひとつありました。なんと、驚いたことに、8/21に、意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源というオリヴァー・サックスの新刊が出ます! サックス先生の本は、未翻訳の本はもうないとばかり思っていたので、思いもよらぬプレゼントです。しかも、今わたしが読んでいる「意識」の話題ですしね。サックスはジェラルド・エーデルマンの神経ダーウィニズムに傾倒していたので、おそらくダマシオのソマティック・マーカー仮説にも関わる考察を読めるのではないか、とわくわくしています。サックスがもうこの世にいないことを思うと残念でなりませんが、最後の著書は楽しみです。

最近読んでいる別の本は、雨の自然誌というもので、このサイトとも関係する話題があったので、先日記事にまとめました。いまは絵がまったく描けない状態ですが、こんな形でも、芸術との関わりをかろうじて保っていきたいですね。

前に本当の夜をさがしてを読んだとき、医学系の本よりも、こうした自然科学や文化など広範囲から考察した環境心理学的な本のほうが学ぶところが多くて面白いと感じました。医学の本はあまりに視点が狭いので、本質をとらえそこなっている気がします。さっきの「身体なき脳科学」にしても、専門的に細分化すればするほど、かえって真実から遠のいてしまいがちですしね。

考えてみれば、トラウマを治すためにトラウマに注目しすぎるのは、視野狭窄のトンネリングを起こすのでよくないんでしょう。たとえば毒親の影響を克服したい人たちが毒親についての本を読めば読むほど流砂に足をとられるように。病気を治したい人がそれについて詳しくなればなるほど「プロの患者」へと変貌していくように。

ここのところ、視野を広げる経験を積むたびに、いかに自分が何も知らず、無知のまま語っているかを痛感するので、限られた体力と知力の中ながら、もっと広い世界に目を向けていきたいです。わたしの持論は「真実にたどりつくのは専門家ではなく博物学者である」というものなので、特定の分野ばかり掘り下げるのではなく、もっと広い興味を持ちたいですね。

いまのわたしはわりと積極的ですが、わたしのことだから、また必ず解離のシャットダウンに陥って、厭世観と虚無におぼれる日が来ると思います。そんなとき、今日書いたようなことを思い出して、這い上がるきっかけをつかめればいいな、と思いつつ、今回はここまで。

続きはこちら。

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Categories: 5章。2018.07.30