切り離された自分の身体を取り戻すセラピー体験記(8)

SEのセラピーの体験記の第二期の8回目。前回は、反動のせいか激しく落ち込んだ話を書きましたが、幸いそちらのほうはすでに落ち着いています。

それよりも、考察面でものすごい進展がありまして、それをどう記事にまとめたらいいのか迷いに迷っていました。あまりに多くのことが一度にわかったもので、整理しきれる自信がないというか。でもためらっていても仕方ないし、ここの体験記はそうした錬成途中の考えを書く場所でもあるので、頑張って書き出してみます。

「サックス博士の片頭痛大全」

まず、前回の最後に書いた、自己免疫疾患などの検査について。幸いにも? 何も問題ありませんでした。検査に何も出なかったことを喜ぶべきなのか、それとも有効な薬物療法が見つからなかったことを悲しむべきなのか。いや、たとえ治療法が見つかったとしてもステロイドなどの身体に負担がかかる治療法なので、ここは何も出なかったことを喜ぶべきでしょう。

しかしながら、検査当日は、はっきり言って、検査結果などもはやどうでもいいくらいに、別のことで興奮していました。関心がまったく別のことに移っていました。病院に通う道中に、サックス博士の片頭痛大全 という本を読んでいて、我が目を疑うほど重大な発見を幾つもしてしまい、頭の整理が追いつかないほどブレイクスルーを経験していたからです。

この本は、わたしの敬愛するオリヴァー・サックスが最初に書いた本なんですが、サックス好きを公言していながら恥ずかしいことにまだ読んでいませんでした。その理由は単純で、わたしが片頭痛にまったく興味がなかったから。

サックスの他の本が、さまざまな不思議な脳神経症状を扱っているのに対し、この本はタイトルからして「片頭痛」一辺倒の本かと思い込んでしまっていて、片頭痛もちでないわたしにはあまり関係なさそうだ、と後回しにしていました。今回手にとったのも、単に、他のサックスの本はあらかた読み尽くしたからにすぎません。

でも、わたしはとんでもない思い違いをしていました。そもそもあのサックスが、ただの片頭痛の本を書くはずなどなかった。さらに、彼の最初の本であるということを意識してしかるべきだった。わたしもそうですが、人が最初に研究したいと思うこと、それは自分が抱えている切実な問題ではないか。つまるところ、サックスの最初の本は膨大な当事者研究だったのです。わたしは彼が片頭痛もちであることは知ってましたが、片頭痛に対する彼の当事者研究の執念を見くびっていました。これほど徹底的かつ、先見的な当事者研究はなかなか他に例がない。

この本は、サックスの数多くの著書のなかでは、ほとんど読まれていない一冊だと思います。けれども、わたしはこの本に言及している人をひとりだけ知っていました。何を隠そう、それはSEの開発者、神経生理学者ピーター・ラヴィーン。ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、こう書いていました。

『レナードの朝』『妻を帽子と間違えた男』『サックス博士の偏頭痛大全』の著者オリバー・サックスは、これらの著作の3分の1を患者たちの切実な発作の描写に費やしています。

偏頭痛は神経系のストレス反応で、トラウマ後の(凍りつき)反応に極めて似ており、しばしばトラウマ反応と関連していますが、サックスが報告するある数学者の毎週の偏頭痛サイクルは非常に興味深いものです。(p46)

ラヴィーンは、サックス博士の片頭痛大全を読んでいて、それがトラウマの凍りつき反応によく似ている、と述べました。わたしは最初この記述を読んだとき、よく意味がわからなかった。ラヴィーンはなぜ片頭痛が凍りつきに似ていると言えるのか説明してくれていない。小児期にトラウマを負った人が片頭痛を抱える確率が非常に高いという研究は承知していたので、片頭痛と凍りつき反応に関係があっても不思議ではない、でもどこがどう似ているといえるのか、そのころのわたしには理解できませんでした。

しかし、こんなときは、ちゃんと原著を読んでみるものです。一次文献にちゃんと当たるようアドバイスをしていたのは、ほかならぬ道程:オリヴァー・サックス自伝ではなかったか。

彼とは患者やその「症状」について一般的な言葉で話し合い、そのあともっと本を読むように勧めたものだ。ジョナサンは、私がよく一次文献(たいてい19世紀の症例記述になる)を推奨することに感銘を受けたそうだ。

彼が言うには、そんな記述を読むように勧める人は医学界にはほかにいなかった。話に出るとしても、時代遅れで、見当はずれで、歴史家以外の人にとっては役に立たないし面白くもない「昔のもの」として片づけられていた。(p228)

わたしが尊敬する別の医師であるヴァン・デア・コークも、19世紀の一次文献であるピエール・ジャネの研究を読みあさったことで知られているけれど、革新的な発見の手がかりは、歴史の中に埋もれてしまっていることが多い。

わたしの持論のひとつは、自分が原因不明の症状に悩まされている場合、その手がかりは「最新の未知の研究にあるのではなく、歴史の中に埋もれてしまった既知の研究にある」というものです。

慢性疲労にせよ他の奇妙な病気にせよ、患者たちは自分の病気が解き明かされることを期待してネット上の最新情報にばかり目を向けますが、それは見当はずれだとわたしは確信している。わたしがこれまで自分の病気を解き明かしてきた唯一の方法は、最新情報を追うことではなく、過去の忘れられていた文献を読みあさることだったから。これだけ長い人間の歴史においては、まだわかっていない未知の情報より、すでにわかっているのに注目されずに埋もれている既知の情報のほうがはるかに多いはず。

今回、サックス博士の片頭痛大全を読んだわたしは、そのことを再確認しました。わたしの病気のすべては、もうすでにサックスが研究していたのだ、ということを知りました。それどころか、さらにその前にはチャールズ・ダーウィンが研究してもいた。

わたしの性格や生い立ち、さらには病状が、オリヴァー・サックスやチャールズ・ダーウィンとよく似通っていることは以前から気づいて親近感をもっていました。二人とも小児期トラウマを抱えていて解離症状を経験していました。わたしの思考スタイルは、この二人の偉大さには到底及ばないとはいえ、よく似ています。さらに、ダーウィンに至っては、わたしと同じ慢性疲労状態にありました。

当然ながら、わたしとよく似た思考パターンのこれらの人たちは、自分の奇妙な病気の当事者研究をしないはずがありませんでした。二人とも、自分の知識を総動員して、我が身の体調不良の謎を解き明かそうとした。今やわたしが知ったのは、ダーウィンとサックスの当事者研究は、ピーター・ラヴィーンの理論と、完全に一直線上にあったということです。みながみな、同じものを研究し、積み重ねてきた上に、SEの理論が構築されたのだ。

とりわけ、SEのセラピーに関わっている人は、この本を間違いなく読むべきだと思います。わたしはこの本を読んでやっと、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマで言わんとしていることの意味がつかめました。どういうことなのか、この記事で少しでもうまく説明できるといいのですが。

原因不明の周期性発熱の謎がついに明らかに

この一連の体験記の最初のほうで、わたしは長年悩んできた、原因不明の周期性発熱について書きました。数ヶ月間隔で40℃もの高熱を出して死にそうになる、という話です。

この発熱はあらゆる点で奇妙でした。まず、風邪やインフルエンザではないこと。咳や鼻水のような症状はなく、高熱と激しい頭痛や腹痛、全身の痛み、嘔吐、失神などの症状だけです。また、高熱が出ても、ほぼ一日で熱が下がること。決して長引きません。さらに、熱が出ているあいだは不意に絶望的な気持ちに襲われるのに、熱が引いてくると、不思議と心地よい夢心地に包まれること。そして最後に、これらの症状は、まるで大地震のように周期を繰り返すことです。一度症状が出たら、しばらく出なくなりますが、いつかまた必ずやってくる。

40℃もの高熱は、膠原病や自己免疫疾患、さらにはウイルス感染などにしばしば見られる。でも、わたしがネット上で調べた限り、このような周期性を持ち、短時間で高熱が下がる病気はなかった。症例がないわけではないものの、原因不明の周期性発熱、あるいはストレス性発熱とされていることがほとんど。

これらの手がかりからわたしは、この症状は、背側迷走神経の反応である、と結論づけました。出ている症状はみな、背側迷走神経が管理している部位の反応に限定されている。わたしはふだん、背側迷走神経によって常にストレスを抑圧している慢性的な解離状態にありますが、その蓄積されたストレスが上限に達したとき、背側迷走神経に抑え込めなくなってしまい、プレート地震のひずみに発散のように、あるいはダムの崩壊のように、劇的な症状が現れるのではないか? そして一度発散されたら、次に蓄積されるまでの間は症状が出ないのではないか? 慢性的な解離による身体的・精神的な麻痺が一時的に解除されてしまうがために、発熱中はふだん麻痺させている激痛や絶望が表面化するのではないか?  そう以前の記事で書きました。

わたしのこの推理は、まったくの憶測だった。知識と論理からすれば、確からしく思えたものの、こんな症状が起こりうるという医学的な説明は見たことがなかった。サックス博士の片頭痛大全に出会うまでは。この本を読んでいて、次のような症例を見つけて目を疑いました。

重い通常型片頭痛は高熱を伴うことがあり、とくに子供でみられる。発熱はまた、周期的な独立症状として生じるとされ、ときには通常型片頭痛の代わりに起こることもある。

私が診ている五、六人の患者は、現在は通常型あるいは典型的片頭痛を患っているが、過去には周期的な神経性の発熱を経験している。(p94)

患者は43歳の技師で、1928年以降断続的に発熱の発作を繰り返し、熱が40度まで上がることもあった。…発熱に先だって前駆症状があり、落ち着きがなくなり、なにかに集中することもできない。体温は急激に上昇するが、12時間以内に平常の温度に戻る。白血球が1万5000個近くにまで増加する。熱が収まると「浄化された」気分になり、とくに調子が良く頭もすっきりした感じがする。(p93-94)

この明確な症例について、発熱型の準偏頭痛には通常型片頭痛に似た秩序があることがわかる。つまり前駆的な「覚醒」と発作後の回復、そして気力の再充実である。(p95)

自分のことが書かれているかのようでした。もうわたしがこれ以上付け加えることはありません。わたしの症状そのままです。

しかし何より驚いたのは、これが片頭痛の一種だとされていることでした。わたしは自分は片頭痛は持っていないと思っていた。トラウマを抱えた人が片頭痛を発症しやすいのは知っていたけれど、自分はそうではないと思っていた。なのに、わたしは「発熱型の準偏頭痛」というものだったのか?

この本は確かに片頭痛についての本です。しかし、ある意味では片頭痛についての本ではないともいえる。サックスはこの本で、医学的に定義された一般的な片頭痛を扱っているわけではありません。この本を読むときは、製薬会社のパンフレットにあるような片頭痛の定義は忘れなければなりません。なんといっても、「片頭痛」という概念から、いきなり頭痛を除外してしまうくらいですから。

まず最初に、「片頭痛」という言葉について考えてみよう。その特徴として定義されているのは、頭の片側に生じる痛みである。

最初に述べておくべきことは、頭痛が片頭痛の唯一の症状ではなく、片頭痛発作に必発の症状でもないことだ。

この先、ありとあらゆる特徴を示す―臨床的、生理学的、薬理学的に―さまざまな種類の片頭痛発作について考えていくが、そこには頭痛が欠けている。(p49)

サックスはこの本で、不適切にも「片頭痛」という名前で呼ばれてしまっている、一連の周期的発作のパターンについて、医学の人工的な定義にとらわれない見地から考察しています。サックスは1200例もの患者を分析して、現代の医学の分類は、物事を細分化しすぎていて、実態からそれていると批判しています。

今世紀に入ってからの片頭痛へのアプローチは、進歩するとともに後退したといえよう。技術や量的な評価方法が進歩した一方、知識の専門家によって、本来は区別することのできないものをむりやり区別して考えてしまうという点での後退である。

知識と技術の真の進歩が、全体的な理解の喪失という真の後退を伴うとは歴史の皮肉であろう。(p44)

サックスが言うには、「片頭痛」という現象を抱える人たちに共通しているのは、頭の片側が痛むというような頭痛ではなく、繰り返す周期性を持った発作のサイクルです。確かに頭の片側が痛むという症状は多くの人に見られますが、それはあくまで頻度の高い症状のひとつにすぎず、頭痛を伴わない人もいます。しかし、頭痛を伴う人も伴わない人も、何度も繰り返す発作のパターンを経験するという点では共通しています。このようなタイプは「準片頭痛」と分類されています。

わたしのような周期性のある発熱発作はそうした準片頭痛の一つですが、ほかにも、周期性のある腹痛発作を抱える人もいます。たとえば次のような症例。

私は16歳の頃、普段はきわめて健康だったにもかかわらず、周期的な腹部の激痛に苦しめられるようになりました。……発作は時を選ばず突然始まりますが、その原因をつきとめることは結局できませんでした。

というのは、消化不良や胃腸の具合が悪いといった前触れがいっさいなかったからです。……痛みは、上腹部に病的なまでの不快感を覚えることで始まります。そして二、三時間の間にどんどん激しくなり、その後収まっていきます。(p91)

この場合、片頭痛に特徴的な頭痛はありません。しかし、発作のパターンとして見れば、片頭痛発作や、わたしのような発熱発作と極めて類似しています。ふだんは問題がないにもかかわらず、突然発作的に痛みが起きて、比較的短時間で引いていく、というのを周期的の繰返すからです。

こうした症例は、当然ながら現代の医学の定義では片頭痛とはみなされませんが、患者としっかり話し合って症状のパターンを聞き取ると、頭痛がないだけで、片頭痛のパターンと極めてよく似ている、とサックスはいいます。

準片頭痛という概念は、あまり好意的に受けいれられてこなかった。たとえばある医師が「腹部型片頭痛」という診断を下そうとすると、同僚たちはそれをいいかげんな診断としてしかみなさない傾向がある。

[しかし]…もし医師が片頭痛患者に焦点をあてて彼らとともに考察を重ねれば、当初の考えがどのようなものだったにせよ、実際に多くの患者が軽度の腹痛、胸痛、発熱などのけいれん性の発作を繰り返すことを認識することになる。それらは、頭痛がないことを別にすればあらゆる片頭痛の条件を満たしているのだ。(p88)

このようなタイプの周期的で繰り返す発作は、頭痛や腹痛、発熱だけではなく、喘息や痙攣として現れることもあります。

発作的な喘息、狭心症、喉頭痙攣などが片頭痛に準ずる症状とは見当違いとも思えるが、臨床観察からは、ときにはそれらが片頭痛の発作に類似していると考えざるを得ないのである。(p102)

確かに発作的な喘息や狭心症、咽頭痙攣が片頭痛に似ているというのは、見当違いに思えてしまうかもしれない。

しかし、スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論について知っている人であれば、そうは思わないでしょう。発熱、腹痛、喘息や咽頭痙攣といったのどの収縮などは、すべて同じ神経系、すなわち背側迷走神経の管理下にあるからです。背側迷走神経が活性化すると、内臓やのどの筋肉の凍りつき、失神といった症状が引き起こされます。

ということは、「片頭痛」として知られているのは、実際には背側迷走神経の発作的な反応パターンの一種ではないか、ということになる。ある人の場合は背側迷走神経の凍りつきが頭痛として、別の人では発熱として、また別の人では腹痛や喘息として起こっているわけです。

そして、身体はトラウマを記録するに書かれているとおり、こうした症状はすべて、トラウマを負った人にやたらと多いことが知られている症状なのです。

明確な原因が見当たらない身体的症状は、トラウマを負った子供にも大人にも広く見られる。

腰や首筋の慢性的な痛み、線維筋痛症、偏頭痛、消化不良、痙攣性結腸/過敏性腸症候群、慢性疲労、喘息などが起こりうる。

トラウマを負った子供は、そうでない子供よりも、喘息を起こす率が50倍も高い。(p164)

ダーウィンとサックスの当事者研究

このような見地からすれば、わたしの抱えてきた症状と、オリヴァー・サックスが抱えてきた片頭痛、さらにはチャールズ・ダーウィンが抱えていた奇怪な症状とは、すべてまったく同じ反応だということに行きつきます。たとえばダーウィンは、慢性疲労の当事者だったことが知られていますが、同時にダーウィン自伝 によると次のような症状を抱えていました。

私たち以上に世間と交渉を絶った隠遁の生活をおくることができた人は少ないであろう。親戚の家をちょっと訪問したり、たまに海岸などに出かけるほか、私たちはどこへも行かなかった。

定住しはじめのうちは、少し社交にも出かけ、少数の友人を迎えたりもした。しかし、私の健康は、ほとんどいつも興奮、ひどい震え、それで起こる嘔吐の発作で悩まされた。そこで私は、長年にわたって宴席をすべてあきらめざるをえなかった。(p143)

ダーウィンは、繰り返す「興奮、ひどい震え、それで起こる嘔吐の発作」を経験していました。サックスの定義からすれば、これは腹痛型の準片頭痛です。ダーウィンは頭痛については書いていませんし、発熱についても書いていません。しかし彼が記した反応は、背側迷走神経の発作そのもの。

聡明で探究心にあふれていたダーウィンは、当然ながら、自身のこの問題の正体を知ろうと努めたでしょう。彼は1872年に「肺-胃神経」についての残した先進的な洞察を残しました。ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するの中で、それがいかに重要な観察だったか記しています。

ダーウィンは、私たちが今なお探究している体と脳のつながりについても書いている。強烈な情動には、心ばかりでなく消化管と心臓もかかわっている。

「心臓と消化管と脳は、人間と動物の両方で情動の表現と管理に関与する重要な神経である『肺胃』神経(今でいう「迷走神経」)を通じて、緊密に連絡を取り合っている。心が激しく興奮すると、内臓の状態にたちまちその影響が出る。したがって、興奮しているときには、体のうちで最重要のこれら二つの器官の間には、相互の作用と反作用が多く起こる」

私は初めてこの一節に出合ったとき、しだいに興奮を深めながら読み返した。(p126)

やはりダーウィンの記述に注目したピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマの中で、ダーウィンが発見した肺-胃神経こそが、のちにスティーヴン・ポージェスによって背側迷走神経と呼ばれることになる神経系だと記しています。

ダーウィンの言う“肺-胃神経”とは、ポージェスのポリウェーガル理論に記述された迷走神経に他ならない。

不動系を支配する原始的な(無髄の)迷走神経は、脳とほとんどの内臓を結ぶ。この巨大な神経はからだの中で二番目に大きい神経であり、その大きさは脊髄に相当する。特に、この神経は主として胃腸系を支配し、摂食、消化、吸収、排泄に影響する。ダーウィンがはっきり認識していたように、心臓と肺にも大きく影響する。(p144)

ダーウィンは、自分の原因不明の症状の正体を突き止めていたのです! 治療法まではわからなかったにしても、彼はその生物学的な専門知識を生かして、自分に起こっている現象が何なのか気づいていました。ダーウィンの身に起きた度重なる発作は肺-胃神経、すなわち背側迷走神経の過活動でした。

ダーウィンの洞察はこれだけでは終わりません。サックス博士の片頭痛大全を読むまでわたしは知らなかったんですが、あの「凍りつき」と「擬態死」の反応について古典的な研究を残したのもまた、動物をつぶさに観察したダーウィンだったのでした。やはり天才か。

闘争-逃走反応は、それが極端な場合には重要なものだが、現実の動物の世界でみられる現象の半分を示しているに過ぎない。他の半分はそれほど劇的ではないが、正反対の反応という点でやはり劇的なのである。その特徴は、威嚇に対して無動を保つことである。

これら対照的な二つの反応について、ダーウィンは積極的な恐れ(恐怖)と消極的な恐れ(畏怖)とを比較検討して古典的な記述を残した。それによれば、積極的な恐怖とは「突然起こって制御の効かない闇雲な逃走」である。

また、受動的な畏怖の特徴は受け身と屈服であり、内臓機能と内分泌腺が活性化した状態(「……大きなあくびを頻発して……死人のように蒼白の顔面……皮膚には汗のしずくが際立つ……体中の筋肉はすべてが弛緩している……やがてすっかり憔悴する……胃腸が機能しなくなり、肛門括約筋が動かなくなって、もはや腸の中身を体に留めておけない……」)で、一般的には、これ伏し、すくみ、くじけた状態である。(p381)

このダーウィンによる受け身反応の解説は、まるで自分の慢性疲労病態を解説しているかに思えます。意識がぼんやりして青白い顔になって胃腸がやられて冷や汗をかく。たぶん自分の症状がここからきているものだと気づいていたんでしょう。

そして、当然ながら、当事者また医師として片頭痛について解説するために、このダーウィンの記述を引き合いに出したサックスもまた、自分の片頭痛発作の原因が、生物学的な受動的反応にあることに気づいていました。彼は、ダーウィンが記した受動的反応について、さらにこう解説を加える。

動物の世界においては、威嚇に対する反応としては急激なものよりも受け身反応のほうが重要であり、そのレパートリーは著しく多彩である。

その特徴は、一般的に分泌が増え内臓が活発になるのとあいまって、無動を保つ(ただし姿勢の制御や意識の覚醒はやや失われる)ことだ。

いくつか例示すれば、恐怖におののく犬(パブロフの「わずかに抑制的なタイプ」の犬ではとくに)は身体をすくませ、嘔吐し、便を失禁する。ハリネズミは、身体を丸めて脅威に対抗する。

スナネズミは筋肉の緊張を突然失ってカタトニーのように硬くなり、オポッサムは失神様無動すなわち「偽死」を装う。馬は驚愕して「凍りつき」、冷や汗を流す。

スカンクは恐怖を感じると凍りついて汗腺に変化が生じ、汗がほとばしる(分泌反応は攻撃的機能と考えられる)。また危険にあったカメレオンは凍りつき、体色を環境に似たものに変えるという独特の反応をみせる。(p381-382)

こうして動物界の凍りつき/擬態死反応の例をざっと見ると、それが人間の解離や慢性疲労にそっくりなことに驚かされます。とりわけ印象的なのは、体色を変えるカメレオンの反応も、動物界の凍りつき/擬態死反応の一種だということです。わたしを含め解離の当事者が子どものころから周囲に同化して無色透明になろうとするのは、心理学的なものではなく、それこそ生物学的な擬態死の一種なのです。いよいよもって、「心の病」などというものは存在せず、人間の言語的左脳が作り出した幻想にすぎず、すべては生物学的基盤に根ざして解釈すべきだという確信が深まります。

「色がない」わたしは自分が描く空想世界の中でだけ虹色でいられる
わたしは「色がない」から「虹色」の空想世界を描き続ける

そして、サックスは、こうした生物学的な例に基づき、片頭痛発作なども、これらの凍りつき/擬態死反応の一種だと説明します。

人間においてもこうした受動的防衛反応のレパートリーはきわめて豊富に備わっているが、身体的あるいは感情的表現という意味では、その多くは逆説的(厳密にはパブロフの言葉で超逆説的)なものである。

比較的急激に反応に分類できるものとしては、睡眠障害や強硬症、神経機能の「凍りつき」や「妨害」、パーキンソン症候群における非常に多彩な「発作」、そして失神を挙げることができる。時間の尺度をやや長くすれば、(ガワーズが記述した)迷走神経発作、そして片頭痛ももちろんこの範疇に入る。

また「気絶」(ヒステリー性人事不省)やもっと長引く抑鬱性カタトニー性意識混濁のような状態も抑制的な防衛反応とみなしてよいだろう。病的催眠(非常に特異なタイプの強硬症)は、動物の冬眠と同じように、長時間続く抑制反応である。(p381-382)

片頭痛、迷走神経発作、ヒステリー(解離)などは、みな同じ生物学的な抑制的な防衛反応、すなわち凍りつき/擬態死の変形だと彼は言う。長引く慢性疲労状態もまた、サックスが述べる次の説明に当てはまるとみなせる。

受動的反応は矛盾した性質をもつ。たとえば睡眠や冬眠は生命を守るための行動だが、同時に他の危険に身を晒すことにもなる。人間にみられる副交感神経優位の抑制状態をアレグザンダーは「自律神経機能の後退」と見事に表現したが、後ろ向きの引きこもりは精神心理学的な拘禁状態を招くことになるのである。

究極の矛盾は、オポッサムの「擬死」にみられるように、死を避けるために死を模倣することである。(p283)

「死を避けるために死を模倣する」というのが、副交感神経(背側迷走神経)優位になる解離や慢性疲労の本質でしょう。極度のストレスに圧迫されたときに、過労死したり精神的に破壊されたりするのを防ぐため、「生ける屍」の擬態死状態になってギリギリ望みをつないでいるわけです。

このサックスの解説を読んで、やっとピーター・ラヴィーンが言っていた、片頭痛は凍りつきの一種、という説明の意味がわかりました。

身体に閉じ込められたトラウマ

しかしまだ解せないのは、擬態死状態の慢性疲労や凍りつき状態の慢性疼痛なら話はわかるのですが、どうして片頭痛や発熱、腹痛、喘息などが、繰り返す周期的な発作として現れるかです。

これについて、サックスは次のような見解を記していました。

周期的あるいは散発的な発作を経験する多くの患者では、こうした発作がまるで内在しているかのようであったり、(生理学的ドラマという皮肉な言葉を借りれば)積もりつもった内面的なストレスや葛藤を行動に移しているかのようである。

私の印象では月経性片頭痛(そして類似の月経性症候群)がまさにこれで、あたかも一ヶ月の間に蓄積したストレスを数日間の発作症状にそっくり凝縮しているかのようである。そして私の観察では、そうした月経性片頭痛を治療した(奪いとった)場合には、数多くの患者が次の月経までの間に散発的に不安を覚えたり神経に障害を起こすのである。

つまり、こうした片頭痛は患者のさまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割を担っているのであり、そのことは診療する側が片頭痛をむやみに駆逐してしまう前に心にとどめておく必要がある。(p391)

繰り返す周期的な片頭痛は、「さまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割を担っている」とサックスは言います。しばらくの期間のストレスをまとめて閉じ込めておいて、一定の周期ごとに発散しているのだと。

これは、わたしが実体験から推理していた仕組みと同じです。プレート型地震のひずみのように、またダムに蓄えられた水のように、背側迷走神経の解離は、ストレスを隔離しておく機能を持っています。しかし限界を超えてしまうと、隔離できなくなり、一気に発散するしかなくなり、それが周期的な発熱発作として表面化しているというのが、わたしの推理でした。サックスの意見もそれと一致しています。

過度に活発であったり、過度に不安がったりするどころか、多くの片頭痛患者はひどく従順で受け身にみえる(強く抑制された激怒や敵意とともに)。また、さまざまな問題やストレスに無関心だったり、それの存在を否定する態度が際立つ患者(ヒステリー症状に類似した「解離性片頭痛」を患う患者)もいる。(p425)

この自己抑制的な性質、そして、自分の抱えているストレスに気づかなくなることこそが、解離の特徴です。解離とはストレスを気づかない場所に隔離する作用なので、慢性的に解離している人ほど、自分はストレスやトラウマは抱えていないと思い込んでしまう。

これは慢性疲労の患者の多くがストレスの関与を否定し、自分の症状は原因不明だと主張する原因でもある。解離によって隔離された葛藤やトラウマはもはや意識されなくなるので、本人の主観的には存在しないも同然。しかし隔離するには膨大なエネルギーを要するので、身体的な負荷がかかり、慢性疲労など身体症状として表出する。

患者の一部(習慣性片頭痛ではおそらくきわめて割合が高い)と医師の多くは、片頭痛が心身症であることを否定し、身体的な病因と薬物治療法を探し求めつづける。(p312)

患者の人格は二分され、一方は現実の状況や感情に対して朗らかだが、もう一方はもっぱら苦痛を感じるために加虐-自虐システムを繰り返す。このような患者は、最も重症のことが多いが、自分自身の内面を探ったり治療を受けることに強く抵抗する。

なぜなら、人格の中の片頭痛部分(片頭痛という少自我)が抑圧と否定という厚い壁によって人格の残りの部分から隔絶されているからである。(p392)

ここで書かれている人格の分離は、解離の理論における「表面的にノーマルな人格」(フロントパート)と「感情的人格」(コンテナキッズ)の分離に相当する。フロントパートは自分のストレスについてまったく意識しておらず、失感情症になっている。すべての情動的苦痛を無意識下のコンテナキッズに押し込めて隔離しているため、意識上はストレスやトラウマなどまったくないと主張するのに、身体的には原因不明の情動的苦痛が現れてしまう。トラウマの傷を無意識下にしまいこんで意識できない状態にあるという点で、これは一種の神経学的な失認症といえます。

このような、ふだんはストレスを無意識下に隔離して、定期的に繰返し発作の形で発散する、という現象について、サックスは幾らか心理学的な見方をしていますが、おそらくこれは心理学ではなく、生物学から説明すべきメカニズムです。その仕組みを生物学的に解き明かしたのが、ほかならぬSEを考案したピーター・ラヴィーンです。

ラヴィーンは、ダーウィンが記録した二種類の生物学的な防衛反応(積極的な闘争/逃走反応、受動的な凍りつき/擬態死)の役割について、さらに詳細に検討し、この二つは別々に起こっているわけではないことに気づきました。まず、交感神経の過剰な活性化は、闘争/逃走を引き起こします。しかしそれが失敗すると、背側迷走神経が活性化して、闘争/逃走反応を途中で“中断”します。

凍りつきや擬態死というのは、闘争/逃走反応が途中で“中断”された状態であり、いわば、闘争/逃走の爆発的なエネルギーを抱え込んで閉じ込めている状態にあるとラヴィーンはいいます。心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの彼の説明を見てみます。

トラウマ症状は、その「引き金となる」事件そのものが引き起こすのではありません。それは、未解決で未放出の凍りついた残余エネルギーから生じるのです。この残余エネルギーは神経系統の中に閉じ込めており、私たちの心身を破壊することがあります。

…さきほどの狩りの場面に戻りましょう。追っ手のチーターから逃れようとしているときにインパラの神経系内部を流れるエネルギーは、時速110キロもの速さで蓄積されています。

チーターが襲いかかった瞬間、インパラは倒れます。外見上インパラは身動きせず死んだように見えますが、内部ではインパラの神経系は今なお時速110キロのスピードで猛回転しています。インパラは完全に静止していますが、その体内で起きていることは、車のアクセルとブレーキを同時に踏むときに起きることに似ています。

…このエネルギーがどれほど強力かを実感するために、パートナーと性交しているところを思い浮かべてください。あなたがもう少しで絶頂に達しようとするとき、突然何か外部の力が働いて強制的にそれを止めてしまいました。その押しとどめられた感覚を百倍すれば、生死にかかわる体験によって喚起されたエネルギーの量に近いものになるでしょう。(p29)

背側迷走神経の働きとは、また解離とは、つまりこのことなのです。ものすごく強力に交感神経のアクセルを踏んでいるとき、「強制的にそれを止めて」凍りつかせ、動作を中断するのが凍りつき/擬態死です。無理やり時間を止めて中断させているだけなので、当然、アクセルはずっと踏まれたままで、闘争/逃走のための激しいエネルギーは体内にとどまりつづけます。

凍りつき/擬態死状態は、死んだような見た目とは裏腹に、とんでもないエネルギーが内在化されたままの状態なので、凍りつき/擬態死が解けるやいなや、その爆発的なエネルギーが放出されるとラヴィーンは言う。

硬直状態に入るときに、私たちがひどく動揺して怯えていれば、硬直から抜け出すときも同じような状態に置かれます。「中へ入ったように、外にも出てくる」というのは、陸軍の移動外科病院(M.A.S.H.)の衛生兵が傷病兵のことを語るときに使う言い回しです。(p121)

ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマの中で、動物や人間が、どのように「中へ入ったように、外にも出てくる」か説明している。

たっぷりと食事を与えられている飼いネコがネズミを捕まえると、ネコの足で抑制されたネズミは動きを止めて動かなくなる。…やがて不動状態から抜け出してきたときには、ネズミは非常に素早く(そして意表をついて)一目散に逃げていくので、ネコさえもびっくりさせることがある。

…不動状態に入るときに激しく脅かされた人は、同じような様子で不動状態から出てくることが多い。「入ったときのように、戻ってくる」というのは、陸軍移動外科病院で、戦争で外傷を負った患者の反応を記述するために使われる表現であった。

兵士が手術にはいるときに怯えていて拘束する必要があった場合、その兵士は麻酔から目覚めたときに、半狂乱で、おそらくは暴力的な失見当状態である可能性が高い。(p76-77)

この場合からも明らかにわかるように、背側迷走神経が引き起こす凍りつき(不動)というのは、はっきり言えば“中断”なのです。猛烈な交感神経性過覚醒のエネルギーを一時的に隔離し、閉じ込めておくことで、闘争/逃走反応を中断するのが凍りつき/擬態死です。あくまで中断しただけなので、ひとたび凍りつきの解離が解除されれば、中断地点から再開され、突如として猛烈な興奮状態に移行します。(この意味では解離は、電源を落とす「シャットダウン」ではなくPCで言うところの中断機能である「スリープ」に例えるべきだと思う)

ラヴィーンがトラウマの治療において、ゆっくり慎重に進める必要があると述べるのは、いきなり解離を解除すれば、このような半狂乱状態から再開されてしまうからです。

この本のタイトルである身体に閉じ込められたトラウマが示しているように、ラヴィーンは、トラウマの身体症状は、すべてこの凍りつきによって体内に隔離され、閉じ込められたままになっている中断された巨大なエネルギーから起こっていると述べています。心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中でもこう書いています。

脅威に反応する際、生き物には戦うか、逃げるか、凍りつくかの選択があります。これらの反応は有機体のひとまとまりの防衛システムに属しています。

逃走反応や戦闘反応が妨げられたとき、有機体は最後の手段である凍りつき反応を起こすため本能的に収縮します。有機体が収縮すると、逃走か戦闘を実施することで解放されたであろうエネルギーは増幅され、神経系の中に閉じ込められてしまいます。(p118)

しばしば奇怪なPTSDの症状は、この「硬直」あるいは「凍りつき」状態に入り、それをくぐり抜けて出ていくというプロセスを完了できないときに発現します。

…この残余エネルギーはただ消えていくものではありません。それは身体に残り、しばしば不安、うつ、心身症、問題行動など広範囲にわたる症状を作り出します。これらの諸症状は、行き場のない未放出のエネルギーを何とか閉じ込める(あるいは囲い込み)ための有機体の対処法なのです。(p28-29)

このようにして、中断状態のまま身体に閉じ込められている膨大なエネルギーは、多種多様な症状となって噴出します。それが片頭痛だったり慢性疲労だったり慢性疼痛だったりするわけです。たまったひずみを放出するサイクル

ダーウィンが述べていた凍りつきについての観察と、サックスが述べていた片頭痛についての考察、そしてラヴィーンの生物学的な見解をすべてひっくるめると、わたしの発熱発作の謎が解けます。というより、わたしの推理の正しさが裏づけられます。

わたしの発熱発作は、中断されたままになっていた残余エネルギーの放出なのです。わたしは慢性的に凍りつく解離傾向を抱えていますから、日々の生活の中で感じるストレスは、すべて身体の中に抑圧され隔離されていきます。しかし、ある時点で、隔離できる分量が限界を迎えると、発熱発作として膨大なエネルギーが放出され、背側迷走神経のひずみがリセットされます。これは、サックスが記している他の形態の発作、頭痛を伴う片頭痛発作にしても、腹痛の発作にしても、喘息の発作についても同じです。

いずれの場合も、一度エネルギーを放出すると、溜め込んでいた残余エネルギーの総量がある程度リセットされるので、しばらくの間は余裕ができることになります。サックスがサックス博士の片頭痛大全で述べているように、それが、発作が周期的になる理由です。

特徴的なのは、周期性片頭痛のきわめて重い発作の後では、それ以降の発作に対する免疫がきく期間があることだ。デュ・ボア・レイモンは次のように記している。

「発作が収まってから一定の期間は、それ以外のときなら確実に発作の原因になるようなことに対して免疫ができたようになる」。(p260-261)

だが、このような免疫は、次第に減ってしまい、それに比例して次の発作が起こる可能性が大きくなるのである。免疫の効果が完全でなくなると、きわめて大きな刺激によって(どこか未熟な)発作が引き起こされることがある。

また、免疫の効果が減るにつれて、ほんのわずかな刺激でも充分に発作の起爆剤になり得るのである。やがて、発作の「時期」がくる(あるいはそれに少し遅れる)と、刺激のあるなしとは無関係に、爆発的な発作が起こる。

基本的に、同様の敏感さと発作への免疫のサイクルは、突発性癲癇や喘息でも多々見られる。サイクルの時間は異なっても、その難治性と突然の終息という性質は、何百分の一秒しかかからない神経刺激の伝達から、一年に一度の落ち葉や脱皮まで、あらゆる生理的サイクルでみられる。(p261)

結局のところ、わたしが推理していたとおり、地震のサイクルと同じ。ある程度ひずみが溜まったら、ちょっとした刺激でも大地震が誘発される可能性が高まる。しかし一度エネルギーを放出すれば、しばらくは次の大地震は起こらない。

わたしが自分の周期性発熱についてネット上の雑多な文献を調べていたとき納得がいかなかったのは、ストレス性の発熱は、ストレスとなる出来事に反応してすぐに起こるとされていたことでした。たとえば子どもの知恵熱のように、テスト前日に高熱を出すなどです。

わたしの高熱発作は、必ずしもストレスの強い時期に集中してはおらず、法則性がみられませんでした。とくに、一度高熱を出したあとは、極めてストレスが強い時期にも発作が起こりませんでした。

この矛盾はすべて、背側迷走神経がもつ、ある程度の分量のストレスを解離して閉じ込めておくという重要な機能を無視していることから起こっています。解離とはトラウマやストレスの苦痛を隔離しておく仕組みですが、このおかげで、ストレスとなる出来事があってもすぐに反応せず、ある程度まとまった量がたまってから放出するというサイクルが作られるのです。

ということは、この発作というのは、解離によって制限されているフラッシュバックなのだろうか。解離が強いおかげでめったに大きなフラッシュバックが起こらないだけで、たまにー耐えかねて身体性フラッシュバックの形で誘発されてしまうということなのか。サックスはトラウマが起こった日に合わせて起こる「記念日片頭痛」についても書いているが(p263)、それは以前にも書いた特定の日に毎年繰り返される周期的なトラウマのフラッシュバックとよく似ている。

幻臭と明るさ過敏

そのほかにも、今回サックス博士の片頭痛大全を読んで、長年の別の重大な疑問も解けました。

サックスは、片頭痛発作には、先だってさまざまな前兆がある、と述べています。わたしがよく知っていたのは、片頭痛もちだったルイス・キャロルが、発作の直前に経験したという不思議の国のアリス症候群でした。

片頭痛の発作に先だって、視覚的な前兆が生じるというのはよく知られていて、サックスも他の本で、自分の体験を書いています。片頭痛発作の前兆として見える摩訶不思議な幻覚は、古今東西の芸術作品にも組み込まれているのではないか、と言われていました。この本でも、片頭痛の当事者が前兆として見えた幻覚を描いた絵がカラーで大量に載せられていますが、とても芸術的かつ魅惑的です。

しかし、ありがたいことにサックスは、この本の中で片頭痛の前兆は視覚的なものだけでないことを紙幅を割いて説明してくれています。一言でいうと、それらは「なにかがおかしいという気持ち」また「定まっていない」感じであり、神経系の多種多様な不安定さです。(p84)

視覚的な幻覚は、不安定さの一例にすぎず、いつもよりまぶしく感じる、音がうるさい、味や匂いが違う、感情がやけに高揚したり落ち込んだりする、服がいつもよりきつい、おなかの感じが何かおかしい、さらには既視感(初めてのことなのに前にもこんなことがあった感じがする)、未視感(いつものことなのに見慣れない感じがする)などなど、前兆として現れる「なにかがおかしい」感覚は実に多様です。

しかし前兆だけ感じて、発作にまではいたらない例が数多くあるせいで、それが発作の前兆だと正しく認知されていないケースが多いようです。

アルヴァレスのように深い洞察力と広い心をもった研究者は、医師としての70年間におよぶ経験から、前兆は一般に考えられている以上に多くみられる症状であり、実際には片頭痛のどんな症状よりもずっと頻繁に起こっていると考えた。この点で、私はアルヴァレスとまったく同じ意見である。(p120)

わたしの場合も、自分のあの症状が、まさか片頭痛(わたしの場合は発熱型の準片頭痛)の前兆として起こっている神経系の乱れだとは思いもよりませんでした。この前書いた「幻臭」です。

嗅覚の幻覚については、何人かの患者が症状を説明してくれた。そのにおいはいつも強くて不快であり、よく嗅ぐはずのにおいなのに特定することができない。そして強迫的な既視感をしばしば伴うところは、海馬発作で起こる症状に似ている。(p141-142)

前兆の最中に、時折嗅覚性幻覚が発生することは、すでに述べたとおりである。そして、片頭痛の発作中には、においが強まり、変質し、耐え難いと感じることもよくある。前兆も片頭痛も、それ以外のときにはにおいが原因と考えられる数多くの症状の、偽あるいは誤った原因となっていることは明らかである。(p271)

これもまさしく、わたしの症状そのままでした。前に書いたように、わたしがときおり感じる幻臭は、何種類かありますが、どれも以前に嗅いだことがあるのに、何のにおいか思い出せないものばかりです。記憶を遡るかぎり、小学校のころにはもう幻臭があったように思います。不快な悪臭や腐敗臭ではなく、なんとも言えない鼻にツンと来る刺激臭です。

しかし、わたしは長年、それが現実のにおいだと信じていました。あまりに強烈なので、化学物質過敏症のにおいではないかと真剣に疑っていました。サックスの言うように、「においが原因と考えられる数多くの症状の、偽あるいは誤った原因」と思い込んでいました。サックスは、片頭痛の前兆としての多種多様な幻覚は、あまりに真に迫っているので、幻覚とはなかなかわからないと書いています。

前兆期の異常な感覚は、夢の感覚とは反対に、患者が完全に目覚めた状態で起こる(夢うつつ、あるいは睡眠中に起こることもあるが)。そして患者の大半は、それが現実ではないと認識するようになる。それにもかかわらず、非常に教養のある患者であっても、前兆の感覚が客観的なものだととらえがちだ。(p144)

わたしの場合、幻臭かもしれないと思ったのはつい数年前です。それまでは本物だと思いこんでいたので、疑うことさえなかったのですが、サックスの別の本で解離性の幻臭について読んだので、もしやと思い、いま強烈なにおいがするか家族に尋ねてみました。結果は、何もにおわないとのことでした。そこで、部屋の中や屋外の揮発性の化学物質によるにおいではないのかどうか、試しに実験してみることにしました。においを感じる日にどこか遠くまで出かけて、それでもにおい続けるか試しました。においは、どこまでもついてまわりました。これではっきりしました。におっているのは、現実の化学物質ではなく、わたしの脳の中なのです。

しかし、それがよもや片頭痛発作の前兆としての神経系の乱れだとは思いもしませんでした。サックスがこの本に詳細な症例を載せてくれていなければ一生気づかなかったでしょう。

これが、以前書いたように、何かしらの過去のフラッシュバックとして生じているのか、それとも単なる神経伝達の乱れとして生じているのかはわかりません。しかし、複数の種類があるものの、毎回同じ臭いであることは間違いないので、何かしら過去の記憶が関係しているような気はします。さっき触れたように、片頭痛発作はフラッシュバックとの類似性があります。

さらに、片頭痛の人は視覚過敏になりますが、次のように書かれていたのは、まさにわたしの姿そのものでした。

このような患者たちの多くは濃い色のサングラスをかけて診察室にやって来るし、「まぶしがり症」についての知識がある人も少なくない。混雑した夏の浜辺や海に降り注ぐ太陽のぎらぎらした光、まぶしい照明がなされて電化製品売場などは、患者がよく発作を起こす場所である。他には、とくに映画やテレビが耐えがたいという患者がいる。(p270-271)

一字一句わたしに当てはまります。わたしは濃い色のサングラスをかけて診察室に行きますし、まぶしがり症(アーレン症候群)についての知識も溜め込みました。自然界は好きですが、海はどうも好きになれません(海の潜るのは好きですが)。電化製品売場には寄り付きません。映画やテレビはそもそも見ません。

そして、わたしのまぶしがり症の知識がささやくところによると、片頭痛の人はそういえば、緑色の波長の光によって症状が和らぐという研究があるのです。

片頭痛は「青色」の光で悪化し、「緑色」の光で苦痛から開放される!? |健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレス/HEALTH PRESS

わたしがやたらと山や森林に行きたがっていて、北海道の森林地帯の中だと元気になる理由の一つはこれではないのだろうか? もしそうなら、わたしは海ではなく、森のある場所に引っ越すべきでしょう。

また、最近わたしが悩まされていた、全身の筋肉の痙攣やぴくつきなどについても納得がいきました。もしやALSなどの神経疾患の前兆なのではないかと不安になっていた時期もあったのですが、ラヴィーンの説明を読んでからは凍りつきの症状の一部なのだと理解できました。サックスが記述した痙攣発作や、ダーウィンが経験した筋肉の痙攣と同じく、身体の中に閉じ込められた過剰なエネルギーによる、アクセルとブレーキを同時に踏んでいる振動なのです。

発達性トラウマ、発熱発作、光過敏、幻臭、筋肉の凍りつき。サックスが残してくれた当事者研究により、なんだか、すべてがつながってきました。やっぱり時を超えて、同じ問題と向き合っているのでしょう。

それしてもひとつ不満を言いたい。わたしはこのサックスの洞察のおかげで何とか自分の身に起こっていることの意味をつかめたけれど、ほとんどの医者たちが、サックスやラヴィーンのような観点から考えようともせず、カテゴリー診断しかできないほど考えが浅いのはどうしてなのか。

このサックスのサックス博士の片頭痛大全はとてもすばらしい本でしたが、訳者あとがきの中で、共訳者の医師が「眼科の外来を訪れる片頭痛患者の症状は、本書の症例と比較すれば軽いものが多い」と述べていて、それは患者としっかりコミュニーケーションができていないがための偏見なのではないか、と感じた。

サックスは奇妙で不可思議な症例をたくさん紹介するが、たまたまサックスのもとに特殊な患者が集まっているわけではない。サックスは他の医者が気にもしないような部分について、患者と深くやりとりするので、患者が抱えている苦悩をより深く描写できているだけなのだ。サックスはこう述べている。

医師は患者に対して支配的であっても独善的であってもならない。また、「私が一番よく知っている」と専門家気取りであってもいけないのだ。患者の訴えに耳を傾け、言外のことを聞き取らなければいけないし、患者が口には出さない望みが何なのかを把握しなければならない。

患者の気質や生活のパターンを直視して対話し、患者がかかえる病気、片頭痛が何を「言っているのか」に耳を傾けなければいけない。そのようにして初めて、治療への道筋が見えてくるのである。(p457)

こうした対応ができている医師が、日本に10人に1人、いや100人に1人でもいるとは思えない。患者は、主な症状はともかく、たとえば前兆の幻覚や解離症状のようなデリケートな症状については、よほど信頼関係が構築されていて、なんでも話して大丈夫と感じている医師にしか話さない。

そうした信頼関係を築くこともなく、たかだか5分か10分の診察を繰り返すだけで、薬を処方しているのだとしたら、ばかげているとしか言いようがない。こんな医療では、サックスがこの本で書いたようなことが初版から50年近くになる今でもまったく知られていないのは当然だし、今後も永久に理解されることはないだろう。

今も昔もトラウマによる摩訶不思議に症状を抱えてきた人たちは理解されなかったけれど、医者が時間をかけてコミュニーケーションすることをやめ、カテゴリー診断や薬の処方だけが一般化した今となっては、もはや理解される望みさえ絶たれたのではないかと思えてしまう。

現代社会の医者とは、医師などと名乗れる権威ある職業ではなく、製薬会社の卸売業者にすぎないのではないだろうか? そういう仕事であれば、人間より機械のアルゴリズムに任せたほうが正確なので、医者なんていらないとさえいえる。人間にしかできないコミュニケーションができて初めて、医者の存在意義が生まれるのではないか? 機械はアルゴリズムによって人間より正確な診断ができるが、生身の人間である医者にしかできないこと、生身の医者の存在意義、それは患者と“人間関係”を築けるということなのだ。

あらゆる医療行為に先立って、患者との間に人間関係を確立し患者と医師が互いに理解しあうというきわめて一般的な方法をとるべくである。もっと言えば患者は医師の話を盲信したり「命令」に従うといった、ただ受け身で従順でいる関係ではなく、本質的な協力関係を築くことが必要なのだ。

片頭痛の「治療」の歴史を端的に言えば、医学の「やり過ぎ」と患者の利用の物語である。患者が医学の助けを求める際にまず心得るべきことは、医師と十分かつ慎重な面談をすることで、医師の専門知識と技能に従うとともに、二人の人間として対話することである。(p454)

自己治療としての発熱発作なのか

最後に考えたいのは、片頭痛発作や発熱発作がさっき書いたように、凍りつきによって隔離されていたエネルギーを放出するためのものであるのなら、それは病的なものではなく、むしろ良いものなのではないか、という点です。

そもそもラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマで書いているように、SEのセラピーの目的は、この凍りついたエネルギーを放出することにあるからです。

しかしこの行為が実行されない場合(闘争か逃走、固まる、からだをひねる、退く、伏せるなど他の防衛的反応のいずれかにかかわらず)、潜在エネルギーは感覚運動系の潜在記憶内に未完の手続き記憶として「蓄えられる」もしくは「保管される」。

…単純化しすぎる危険を承知で言えば、闘争か逃走のために動員されたのとほぼ等しい量のエネルギーが、効果的な動きや振動と震えによって放出されなければならない。(p114)

わたしのような40℃もの熱を出す劇的な発熱発作とは違い、セラピーでは、もっと小刻みに、少しずつ安全に放出することを学んでいくわけですが、どちらにしても未開放のエネルギーをちゃんと放出していることには変わりありません。

もしも、発熱発作によってエネルギーを放出できなければ、40℃の発熱を起こすほどのエネルギーを際限なく溜め込んでいってしまうわけなので、身体全体がボロボロになるでしょう。もしや、そのようにして放出できない人が、トラウマによって自己免疫疾患や膠原病になるのではないでしょうか。わたしがそれらの検査を受けても今のところ異常がなかったのは、発熱発作によって定期的にエネルギーを解放できているおかげでは?

サックス博士の片頭痛大全には片頭痛の専門家の神経学者マクドナルド・クリッチレー(おもしろいことにサードマンなどの解離現象の研究をしている人でもある)によるこんな観察が載せられていました。

幼児期には、片頭痛体質は幼児性湿疹として現われ、患者が少し成長すると、乗り物酔いとして現れる。さらに大きくなると、繰り返し起こる嘔吐だとされる。……はたして片頭痛患者は多かれ少なかれ、消化性潰瘍、心臓疾患、慢性関節リウマチ、あるいは大腸炎を起こしやすいのだろうか?

わたしが臨床で得た印象では、ある種の消極的なつながりがあるようだ。つまり、一生続く片頭痛は、その他のストレス性の障害が結果として進展するのを防いでいるように思えるのだ。(p244)

片頭痛発作を起こす人は、かえって自己免疫疾患になりにくいのではないか、と書かれています。片頭痛が身体に閉じ込められたエネルギーを定期的に放出する手段であるのなら、それには納得がいきます。

サックスはこれにはあまり同意しておらず、片頭痛患者は神経衰弱や低血圧や関節炎になりやすいという別の研究も引用しています。とはいえ、これは慢性疲労のような検査には出ない凍りつき/擬態死反応による衰弱には陥っても、重大な自己免疫疾患や膠原病からは保護されているという意味にとれなくもありません。ある意味、生物として自然なストレスの解離反応が起こっているおかげで、「死を避けるために死を模倣する」言い換えれば「命に関わる重病を避けるために検査に出ない慢性疲労状態に陥る」ことが起こっているのではないでしょうか。(p245)

それを示唆しているように思えるのは、わたし自身の健康極まりない検査結果だけでなく、オリヴァー・サックスとチャールズ・ダーウィンがともにかなり長生きしたことです。どちらも小児期トラウマを抱えていたにもかかわらず、そして愛着障害特有の不安定さや慢性疲労なども抱えていたにもかかわらず、若い時期に破滅的な自己免疫疾患や膠原病などを発症することもなく、普通の人と同程度に長生きできたのは、片頭痛発作や嘔吐発作によって、定期的に身体に閉じ込められたエネルギーを発散できていたからでしょうか?

サックスはこの本の中で自己免疫疾患などが併発したり移行したりした片頭痛患者の例をいくつか載せているので、必ずしもそう言い切れるわけではありませんが、少なくとも片頭痛それ自体は安全であるとも書いています。

私は1200人以上の片頭痛患者を問診し、検査してきたが、片頭痛が残した慢性的な障害を患う人はひとりとしていなかった。患者をさまざまな形で苦しめはするが、片頭痛は基本的に良性で可塑的な疾患であり、すべての患者にそのことを知ってもらうことがたいへん重要なのであった。(p219)

ということは、わたしの40℃の発熱発作もまた良性だということです。わたしがこれまで実感してきたように、1日苦しめば高熱から解放され、心地よい充足感に満たされる、神経系のリセット現象なのです。

引っ越すことを決意した

サックスのこの本を読んで、わたしの決意は固まりました。

北海道に引っ越します。試しに北海道旅行に行ってみたときから、そこが自分の居場所ではないか、と感じてはいましたが、優柔不断なままでした。特に、まともな医療機関を受診するには旭川まで数時間かけて出なければならないような環境で大丈夫なのか、という不安がありました。

しかし自己免疫疾患などの詳細な検査は見事に白であり、CTやMRIもそうでした。これほど体調が悪く、全身の筋肉の凍りつきやら痙攣やらが慢性的に起こっていて、ほぼ死んでいるような状態なのに、生理的には健康というのはまったくおかしな話です。唯一の答えは、この記事で書いたように、「死を避けるために死を模倣している」からだとしか思えません。

サックスはこの本の中でいろいろと専門的な治療法をまとめていますが、最後の最後で結論としてたどりついた答えはあまりにもシンプルで飾り映えのないものでした。

時代、そして土地が変わると、異なる空気が流れるのが医学界である。私たちは現在、片頭痛患者についてやれ注射だやれ手術だと大騒ぎしているが、もしリヴィングやヴィクトリア朝時代の医師たちがそれを聞いたら驚愕するに違いない。逆説的なことに、現在のこの種の騒ぎこそ片頭痛を悪化させるのであり、非常に強力で休むことのない「治療」そのものが、助けを求める患者を改善させるどころか悪化させてしまうのである。

私が見学した最良の片頭痛の専門外来では、患者は不要な動作や言葉なしに、暗くした治療室に連れていかれ、横になって休みながらポット入りの紅茶とアスピリンを何錠か与えられていた。このような簡単でしかも自然な治療の効果は、症状がきわめて重い典型的な発作を患う患者の場合でも、他の診療所で見たものよりもはるかに印象的であった。

そして、患者や発作の大多数にとっての解答は、威力のある薬剤や攻撃的な医療の中にあるのではなく、苦痛と自然に対する鋭敏な感性の中にあるということを確信して、私は帰路についたのであった。それは、自然自体の治癒力(vis medivantrix naturae)についての深い感性であり、自然を愛して、自然に対して差し出がましいことをしない医療である。(p456)

小児期トラウマの当事者であり、片頭痛の当事者でもあり、1200人もの片頭痛患者と接した医師でもあるサックスが、こうした結論にたどりついたのであれば、たぶん真実なのでしょう。

それに、この結論は、ピーター・ラヴィーンの意見とも一致しています。凍りつき/擬態死による仮死状態に必要なのは、薬物治療でも最新の医療設備でもなく、ただ「苦痛と自然に対する鋭敏な感性」であり、自分の身体の内側と、自然界の畏怖とを感じ取り、自然の中で生きる生物がみなやってきた回復のプロセスにただ身を委ねることなのです。

そうするためには、都市を離れて大自然の中に、森林地帯へと引っ越すのは悪くない選択肢でしょう。SEのセラピーでは身体の声を聞き、それに素直に従うようトレーニングされますが、わたしの身体は間違いなく自然の中に帰りたがっていましたから。

つい先日も、家でマインドフルネスの練習をしていたら、ようやく興奮がしずまって、頭が平静になってきたところで、家の前を自動車が通過し、騒音でかき乱されました。ちょうど赤ちゃんをあやしていてようやく泣き止んだのに起こされてまた泣き出したような気分。工事や作業機械の音が朝から鳴り響いていて安眠が妨げられることも。ほとんどの人はこんな状態に慣れっこになって麻痺しているでしょうし、わたしも前はそうでしたが、感覚を使うことを覚えれば覚えるほど、自分がいる環境が生物にとってまともではないと感じるようになってきました。

幸い、いまや人里離れた場所に行っても問題なく仕事を継続できますし、生活必需品もそろう時代です。生活のために都会に出てこなければならなかった一昔前と違い、現代は都会から田舎に移住することが現実的な時代になりました。もちろん引っ越してもSEのセラピーも継続するつもりです。北海道はなぜかSEのセラピストが多いので。

この気づきは、大きな転機になるような気がします。わたしの先を歩んでくれていた、そしてしっかり地図のない世界に道を整えてくれていたダーウィンとサックス、そしてラヴィーンには感謝と尊敬の気持ちが絶えません。

今回の記事はここまで。続きはこちら。


Categories: 5章。2018.08.10