前回の第8回はサックス先生の片頭痛の本から得た気づきについて書きました。そろそろ次のセラピーなのですが、それまでの間の出来事をまとめておいたほうがいいかなと思い、9回目を書くことにしました。
今回はおもに、日常生活の中でのボディワークのトレーニングが、ある本をきっかけに大きく前進したことについて。そして主治医と話したことのメモなど。
もくじ
トラウマをヨーガで克服する
まずはこの本。トラウマをヨーガで克服する 。タイトルがごく普通のエクササイズ本みたいなのでノーマークだったんですが、よくよく見てみると、ヴァン・デア・コークの本で参考文献として引用されていて、彼のトラウマ・センターでやっているヨーガの本だと気づき、急いで読むことにしました。
読んでみていきなり驚いたのは、SEのピーター・ラヴィーンが序文を書いていること。ラヴィーンとヴァン・デア・コークが二人してまえがき書いている大事な本だったのにまだ読んでいなかったとは! ほかにも多分こんな本が埋もれているのかもしれません。
他のやたら詳しいボディワークの本に比べると、ほんの200ページほどしかない薄めの本。しかも解説がとてもわかりやすい。雰囲気的に、身体はトラウマを記録するのヨーガ特集用別冊のような感じで、あの本と同じくらいわかりやすい書き方で、ボディワークの要点が徹底解説されています。
今まで、トラウマ用ボディワークの一番わかりやすい本としては、ほかに何もなかったので泣く泣くパット・オグデンのトラウマと身体をいろんな人に勧めていたんですが、あの本はよく整理されている反面、ものすごく専門的かつ価格も高いので困っていました。今後は間違いなくトラウマをヨーガで克服する をオススメするでしょう。手頃でわかりやすくて非常によい。
肝心のSEの開発者のラヴィーンの本はというと、博物学的な本としては他に比べようがないほど面白すぎて大好きなんですが、セラピストの本としては博識すぎて、たぶん読んでいる人にうまく伝わらない本です(笑) だから、トラウマ治療用ボディワークがやりたい人には、わたしはラヴィーンの本ではなく、今からはトラウマをヨーガで克服する を一番にお勧めしたい。
この本を読んでみた印象は、SEにヨーガを足してとっつきやすくしたもの、という感じ。
SEをやってて困ったのが、セラピストの経験に左右されやすいことです。次に何をやるべきかが明瞭ではなく、そのときそのときのクライエントの様子をセラピストが読み取って、次にしたほうがいいエクササイズを提案していく。しかしそれがゆえにセラピストの引き出しの量にセラピー内容が左右されやすく、自由すぎるかゆえにカオスになりやすい。
それに対して、この本のやり方のように、SEのやり方にヨーガのポーズを組み入れると、次にやることがわからなくても、とりあえずヨーガのこの姿勢をやってみましょう、と続けることができる。そしてヨーガのカリキュラムに沿って進めていくうちに、セラピストとクライエントの双方に気づきが促進され、やることが見えてくる。
ちょうど、最近書いたこの記事の内容そのものですね。
自由すぎるとかえって混乱して、ある程度、制約や枠組みがあったほうが創造性が刺激されるという。ボディワークの場合は、SEだけだと自由すぎるので、ヨーガのポーズという“枠組み”を取り入れたほうがわかりやすくなって、上の記事でいうところの「資源配分モデル」によって、取り組むべき方向性が明確になる。
前々回の記事で書いたように、わたしはちょうど、今のセラピーではこの行き詰まりを感じていたところでした。次に何をやるべきかがはっきりしなくて、焦点が定まらない。
(実はこれは、楽器の演奏をトレーニングしていて壁に直面したときの感覚ととてもよく似ていたことに気づいた。楽器の演奏を練習していると、ある時点で次に何を練習したら上達するのかがわからなくなってしまう。とりわけ自己流だと、ある程度弾けるようになった段階まで来ると、次のステップに進むために何をしていいのかがわからなくなってしまうのだ。当然ながら楽器の練習とSEのトレーニングはどちらも手続き記憶に関わる身体トレーニングなので、同じ壁に直面することは容易に想像できる)
このとき、わたしにとって打開策となったのし、記事に書いたとおり、ダマシオの本を読んで、身体の情動(フェルトセンス)の重要さを思い返したことでした。ボディワークはすべて、無意識の衝立(ついたて)の後ろに隠された身体の感じ(フェルトセンス)に気づき、それを導きにできるようになることを目的としている。
だから、次に何をやったらいいのかわからないというのは、この身体の声を聞くという基本中に基本ができていないことを意味している。身体の声を聞ければ、次に何をすべきかは、身体が教えてくれるのだから。
とはいえ、フェルトセンスの気づく基本的なトレーニングに立ち戻ればいい、ということまでは気づいたんだですが、では具体的にどうやってそれをトレーニングするか、というと、まだうまくイメージできないでいた。
そこへ転がり込んできたヨーガの本。この本はヨーガのポーズを参考に、気づきのためのトレーニングが、とても具体的にたくさん書かれている。試しにいろいろとやってみたら、とてもしっくり来て、今後しばらくはヨーガの姿勢を軸にして、気づきを見つけていけばいいのではないか? という方向づけが得られました。
グラウンディング
まず課題だったのは、これまでの方法に代わる、リラックスのための手段を見つけけることでした。
前回のセラピーのところで書いていたように、わたしがここ数ヶ月のセラピーで培ったリラックスのための技法は、肩に手を当てるというセルフタッチでしたが、これは、どうやら解離的な反応で神経の興奮を鎮めていたことがわかったので、代替手段が必要になりました。
パニックになりそうなときには強力な急ブレーキであることには変わりないけれど、ふだん「今ここ」にとどまる点ではあまり役に立たない。もっと穏やかな形で落ち着けるフットブレーキが必要だ。
これについては、実は旅行中に、すでにグラウンディングを実践して、ある程度手ごたえは得ていました。グラウンディングとは、解離の対処としてたぶん最も有名であろうやり方ですね。足と地面のつながりを意識して、体がふわふわするような感覚をつなぎとめるという。日本の医療業界ではほとんどボディワークは無視されていますが、なぜかグラウンディングだけは知られています。
だから、かなり初期からグラウンディングは試していたんだけど、今ひとつ効果を実感できない。だからわたしの場合、肩に手を当てるというような(わたし個人にとって)強力なツールのほうに頼りがちでした。しかし旅行中に、車やバスに乗っているときに具合が悪かったので、グラウンディングも合わせて取り入れることにしたところ、少し役立つように感じられました。
(車やバスで調子が悪いというのは、迷走神経の働きが悪い人にはよくあることだと、サックス博士の片頭痛大全を読んでわかった。乗り物酔いやアトピー、吐き気などは片頭痛体質の人に見られやすい幼少期の特徴だとされている。(p244)ただしサックスはこれは統計にすぎず、個人個人を見ると当てはまらない人もいると述べている)
グラウンディングを習得していく上で重要なヒントとなったのは、やはりパット・オグデンのトラウマと身体の詳細な説明でした。この本ではグラウンディングでは「接地面」を意識するように言われている。以前のわたしは、他の本のあいまいな説明を読んで、どちらかというと「足」を意識していたように思える。
この違いは重要で、グラウンディングのとき「足」を意識してしまうと、足の筋肉に力が入って足の凍りつきを悪化させてしまっていました。そうではなく、足の裏と地面の「接地面」を意識する。あるいは、足ではなく「地面そのもの」を意識するとよいかもしれない。そうすると、足の筋肉ではなく、足の裏の皮膚感覚(体性感覚の一種)が刺激される。体性感覚は島皮質で自己意識に変換されるので、「接地面」を意識するグラウンディングによって「今ここ」の意識が強化される。
わたしにとってこれは非常に大きな気づきであると同時に、なかなか困難なことでした。すぐに足そのものに力を入れてしまう癖があったので、本来のグラウンディングがなかなかできなかったからです。
なぜ「足」ではなく「接地面」や「地面そのもの」を意識したほうがよかったのか。おそらくわたしの場合、「足」に注意を向けると、足の内部の筋骨格系の自己受容感覚に注意を向けることになって、それが引き金となって足の凍りつき反応が誘発されていたのだと思う。簡単に言えば、足そのものの感覚に意識を向けるという行為は、わたしにとってはトラウマの凍りつき反応を生じさせるトリガーとなっていたのでした。
これは、わたしだけの現象ではなく、それほど珍しいものではない気がします。足の緊張はトラウマと身体によれば『中断された「逃走」反応を示している可能性』があります。慢性的なトラウマを負った人は、みな必ず逃げ場がない状況でストレス負荷をかけられるという経験(逃避不能ショック)をしています。だから、足に凍りつきが生じるのはかなり普遍的なことではないかと思います。
しかし、国内の多くの医療関係者はグラウンディングについては知っていても、凍りつき反応の機序などは知らないせいで、こうした細かな理解ができていない。
以前、マインドフルネスを教えている人の中には、マインドフルネスとは何かを理解しないまま、ただのリラックス法のように教えている人がいるのではないか?と書きましたが、おそらくグラウンディングも同じ気がします。日本の医療業界ではなぜかグラウンディングはよく用いられていますが、それらの医者が書いている説明を読むに、わたしに誤解させるような表現だったことからして、医者自身が意味を正しく理解していないのではないか、と思います。
だから、本当の意味でマインドフルネスやグラウンディングを身につけるには、ボディワークや体性感覚の理論を理解しないままに書かれている日本の医療業界の取ってつけたような解説ではなく、しっかりボディワークを実践しているトラウマと身体などの解説を読むことが不可欠だと思うのです。
その点で、トラウマをヨーガで克服するも非常に助けになりました。日本の医療本で出てくるグラウンディングの解説はわずか数行ですまされていることが多いのに対し、この本では全編通して「今ここ」に意識を向けるとはどういうことかが書かれているので、言ってみれば全編通してグラウンディングに役立つ理論が具体的かつ科学的に展開されている。
この本で勧められているグラウンディングは、山のポース(ただの立位または胡座や正座)で接地面を意識する、という極めてシンプルなものだけど、これを実践しているうちに、やっとグラウンディングをモノにできた手ごたえがありました。
わたしの場合、たとえばこうした文章を書いているだけでも、すぐに神経が興奮して、体がガチガチに凍りついてしまい、体への負担を忘れて作業を続けていることがよくあります。
そんなとき、ちょっとだけ立ち上がって、ただまっすぐ立つだけの山のポーズをして、足の接地面に意識を向ける。それも一瞬ではなく、だいたい10秒くらい意識しつづけると、地面に根を張ってアースしているかのように緊張が放出されて、体の凍りつきが解けていきます。
この感覚を初めてつかめたとき、これだ、グラウンディングとはこういうものなのだ! という感動がありました。今では、肩に手を置く方法と同じく、比較的自由に使うことができるツールの一つになりました。わたしはやっと、念願のフットブレーキを手に入れたのです。
手でグラウンディングする
しかし、わたしの場合、どうしてもやっぱり足によるグラウンディングは効果が薄めなのはいなめません。もともとトラウマ反応がかなり強力に刻み込まれているのが足なので、足を使ったテクニックは、いささか不安定さが残ります。神経が強く興奮しているときにグラウンディングしようとすると、集中するのに苦労することが少なくありません。
この「集中するのに苦労する」というのは、足の接地面のなまの感覚(フェルトセンス)に集中していたつもりが、すぐに意識がさまよって、足が地面についているという架空のイメージにすりかわってしまっているという問題でした。ずっと前に書いた、身体の部位に注意を向けようとすると、第三者視点のイメージに置き換わってしまうという問題です。
今になって、この現象が何を意味するのか、理解することができました。これは非常に大きな、そして今後に役立つ気づきだと思うので、未来の自分が読み返したときはっきりわかるように強調しておきます。ここは大事です。
身体のどこかに注意を向けたとき、感覚そのものに集中することがなぜかできず、気づいたら心的なイメージに置き換わっているという現象は、身体のその部分にトラウマ記憶が刻まれていて、そこを意識しようとすると解離するからです。
たとえば、わたしの場合、足でグラウンディングしようとすると、しばしば足が地面と接地しているという本物の感覚を身体で感じる代わりに、頭の中でグラウンディングしている自分というイメージを作ってしまい、グラウンディングしている「気になっている」だけの状態に流されることがあります。いつのまにか、「身体で感じる」ことが、「身体で感じている自分をイメージする空想」に置き換わってしまいます。(ややこし書き方ですが笑)
これは、過去のトラウマの解離反応の名残りです。たとえば、足を殴打された子どもは、文字通りの肉体としての足を感じる代わりに、だれか別の人が足を叩かれているとイメージします。性的虐待をされている子どもは、自分が虐待されているのを感じる代わりに、別のだれかが虐待されているというイメージに置き換えることで苦痛を和らげます。小児期トラウマがもたらす病に書かれているように、これが解離という現象の本質です。
たとえば、身体的虐待を受けた場合は前頭前皮質および島皮質に萎縮が見られた。「島皮質は身体帰属感や個人の主体性と関わりがあります」とブラムバーグ。
「この発見は、身体的虐待を受けた子どもがしばしば訴える解離症状がこの部位の萎縮に関連している可能性を示しています」。
子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。
そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)
だから、ボディワークにおいて、身体のどこかのフェルトセンスを意識しようとすると、なぜか注意がそれて、身体そのものを感じる代わりに、感じている自分を第三者視点でイメージしてしまう、という現象が置きた場合、それはトラウマの再演としての解離反応です。
しかし、ここで一番注意しないといけないのは、この反応を引き起こした場合も、身体がリラックスしてしまえる、という点です。そもそも解離というのは急ブレーキなので、解離を意図的に完璧に引き起こすことができれば、過覚醒の興奮は鎮まり、身体は弛緩して擬態死状態に持ち込んでしまえるわけです。
わたしの場合、足を意識した場合は、確かに第三者視点のイメージは現れたものの、封じられているトラウマ反応が強いせいが、擬態死の一歩手前の凍りつきまでしか解離が起こらず、とくにリラックスできませんでした。
しかし、それに対して肩に手を当てるという方法は、肩に当てている手が別人の手のように感じるという明らかな第三者視点イメージを伴っていて、強力に自分をリラックスさせるツールとして活用することができました。どんなに過覚醒で興奮していても、この方法で解離反応を引き起こせば、擬態死状態になって、現実の苦痛から逃れられるという反応です。
これは、とても便利だし、たぶん今後も状況によって使っていくと思いますが、自律神経の興奮を解離という急ブレーキで抑えているものなので、「今ここ」にとどまれないという問題が起こる。過覚醒を低覚醒に下げることはできるが、ジェットコースターみたいに振り回されるという。
だから、もっと穏やかなブレーキ、「今ここ」にとどまるためのブレーキが必要なんだけど、それを見つける上で、ここに書いたポイントが非常に役立つことに気づいてしまった。
ヨーガの本を読んでいて、いろいろなポーズを試しているうちに、とくに役立つと感じたのは、「太陽の息」ポーズで、手を意識することでした。このとき、手のひらを広げながら、指を取り巻いている空気や空間を感じ取るよう意識する。
じつはこれは足でグラウンディングすることの手バージョンと言っていい。足で地面という空間とのつながりを感じるように、手を通して空間とのつながりを感じているだけ。
(実体を取り巻く空間を意識すると、実体をより強く意識するのに役立つ、というのは、書道のときに墨で書いた字そのものではなくまわりの余白を意識するようにと指導されるのに似ている。いわゆる図と地の反転効果である)
わたしの場合、手でこのエクササイズをやってみると、はっきりと手のを取り巻く空気の感覚を感じ取ることができました。そして、最も重要な点として、このとき手で感じる代わりに第三者視点のイメージにすり替わる、という現象は起きませんでした。ただ「今ここ」の感覚に意識を集中できました。
ここにおいてわたしは気づいた。
そうか、ボディワークにおいて、身体のとある部位(わたしの場合は足など)に注意を向けたとき、そこの感覚をじっくり感じることができず、第三者視点のイメージにいつのまにか注意がそれてしまうのは、その部分の感覚を感じることに耐えられず解離が起こるからだった。
ということは逆に、ボディワークで身体のどこか(わたしの場合は手のひら)に注意を向けたとき、第三者視点イメージにすり替わることなく、ずっとそのまま“なま”の感覚に集中していられる部位は、トラウマ記憶が封じられておらず、それゆえに解離を引き起こすこともないので、「今ここ」にとどまる助けにできる場所なのだと。
だから、ある場所に注意を向けたとき、第三者視点イメージがわいてくるか、それともじっくりそこの感覚だけに集中できるか、そのどちらの反応が生じるか観察することで、その部位が急ブレーキとしての解離を引き起こす場所なのか、それとも「今ここ」にとどまる助けになる穏やかなブレーキとして使える部位なのか判別できる、ということです。
そこに耐えられない感覚が封じられていれば、架空のイメージを誘発することで「今ここ」から逃避する解離が起こるのに対し、安全な場所であれば、その場所の感覚をそのまま感じ続けることができて、「今ここ」にとどまれるということになります。
わたしにとっては、足によるグラウンディングも、工夫すれば解離反応を極力引き起こさずに使えるようにはなりましたが、それよりは、手を用いて「今ここ」にグラウンディング(というよりはアンカリングと言うべきか)するほうが、よほどやりやすいことに気づきました。
もちろん身体のどこにトラウマ記憶が封じられているかは、それぞれの人の体験によって異なるので、これはあくまでわたしの場合です。大事なのは、グラウンディングとは足だけでするものではなく、空間に自分をつなぎとめる方法はもっとたくさんあるということ。
そのためには、手を使って、いわば空気に根を張ってもいいわけです。わたしは、手を使ってグラウンディングするとき、あたかも指と指のあいだの空気が土のように感じられて、指が「今ここ」の空間に力強く根を張っているように感じられます。
(わたしの場合、この手のひらによるアンカリングの経験をしたあと、よくよく思い返してみると、腕は凍りつきが強いが、手のひらは凍りつきがあまり見られないことに気づいた。昔から、手はちょっと不器用だったが、指を使った繊細な活動は得意だった。これは、腕の部分は凍りつきによって筋肉が緊張しているが、指先の部分はそうした凍りつきがなくスムーズに動いているということを示唆していたのだった。だから腕はわたしにとって危険かもしれないが、手の指は安全である)
センタリング
ヨーガの本を読んで、もうひとつ役に立ったテクニックはセンタリングでした。センタリングとは体の〈中心〉を意識するエクササイズです。
センタリングについて初めて知ったのは、たぶんトラウマと身体からだと思います。グラウンディングに比べて、こちらのテクニックはあまり有名でない気がする。
この本で何度も繰り替し言われているのは、トラウマ患者は、身体の周辺部の筋肉と、中心部の筋肉がうまく同調していないということ。
幼少時のネグレクトや虐待の結果として、トラウマを生き延びた人は、「四六時中人々と一緒にすごすことを望むか、逆に完全に自分を孤立させるでしょう」。
前者の相互調整パターンは、調整のために周辺部により依存し、身体の中心部や自分自身とのつながりが欠乏しています。後者の自律調整の戦略は中心部に偏った信頼をおいており、他の人に手を伸ばしたり、個人的な境界線を設定したり、対象や周囲にいる人に近づいたり離れたりする能力の欠乏を伴います。(p310)
身体の中心部は、胸郭に備わっている筋肉と、骨盤と、背骨を結合している小さな筋肉から構成されていて、身体を起こしておく役割をもっています。…力強い中心部は、身体的心理的な安定をもたらします。「センタリングしている」と感じ、内的統制感を強くします。(p384)
中心部に内在する筋肉は、ときに「内在(being)」の筋肉とみなされ、その周囲にあってより外部にある筋肉は「行動(doing)」の筋肉とみなされます。(p385)
トラウマ当事者は、中心部の筋肉と周辺部の筋肉がうまく同調していないので、中心部を意識して動かすセンタリングに取り組まねばならないと。
このような中心部と周辺部の筋肉のアンバランスが現れた例として挙げられているのが、この体験記のずっと過去でも引用した覚えがある、メアリーという女性の傾向。
メアリーは、姿勢はよいのですが、身体、特に首、腕、肩が固まっています。顎と旨は上がっています。
しかし、首はまったく動いていませんでした。歩くときに腕は硬直したままで、座ったときには胸の前で腕を組む習慣をもっていました。胴の厚みに比べて、脚はひょろ長く、膝は硬直していました。結果的に彼女の動きはとても重く、未分化で、優雅さとなめらかさを欠いていました。手足が動くとき、脊柱と胴は固さを残したままでした。
メアリーには緊張し硬直することを通して自分を安定化させる傾向があり、脚によってよく支えられた統合した身体からはほど遠いものでした。彼女はまるで「生きているふりをしている」(going through the motions of living)ような感覚に困っていると言いました。(p310)
これはわたし自身の状態にとても近いので、自分には周辺部と中心部の筋肉のアンバランスがあることは早くから自覚していたものの、この本の説明ではわかりづらく、どう対処すればいいのか理解できませんでした。
とはいえ、この本によると、よくわからないのは当然のことだともされています。
こういった身体的な傾向を、多くの場合人は「普通」と感じています。克服すべきアンバランスを抱えていて、痛みを感じるほどに極端な場合にのみ気づくのです。(p386)
わたしも自分の身体の中心部の筋肉と周辺部の筋肉のアンバランスがわかるようでわからなかったため、具体的なセンタリングの方法まで至ることができないでいました。この本ではいろいろな方法が書かれているものの、説明の仕方が妙にわかりづらく、イメージがわきませんでした。
そのためセンタリングは、ずっと課題として棚上げ状態にあったわけですが、トラウマをヨーガで克服するのおかげで一足飛びに理解が進んで、実践的に取り組めるようになりました。こちらの本はセンタリングのためのエクササイズがいろいろ載せられていますが、どれも具体的で取り組みやすい。
たとえば、「山のポーズ」の胡座の姿勢で、上半身をゆっくりと円を描くように回転させ、その中心を意識する。中心部がわかったら、そこに意識を保ったまま、回転を弱めてもとに戻るとか。
またそもそもの「センタリング」という言葉の意味が説明されていたおかげで、やっとこの語の意味するところがわかってきた気がします。
ここでひとつ注意しておきたい大切なことがある。それは、トラウマ・センシティブ・ヨーガではおおむね、バランスという言葉をやめてセンタリングという言葉を使うようにしていることだ。
「バランスをとる」と言うと、〈失敗〉(しっかりと保てるか、ぐらついて倒れるか)という意味が含まれるが、「センタリング」と言えば、それはより内的な探究を意味することになるので、失敗というニュアンスが少なくなる。
実を言えば、われわれがセンタリングの訓練をするときには、事実上、バランスを崩すことを手がかりにしているのである。
どういうことかと言うと、「われわれがふらつくと、そのたびに腹筋が自然に動いて、姿勢をまっすぐに戻してくれる」のである。われわれは“ふらつく”ことによって、自分自身の〈中心〉についてい大いに学ぶことができるのだ。(p153)
要するに、Wii Fitでバランストレーニングするようなことを、ボディワークとしての内的感覚に気づくという目的にすり替えて実践してみればいいのだということでした。Wii Fitの場合は身体のバランスを維持しながらテレビ画面のフィードバックデータに注意を向けて「成功」や「失敗」に一喜一憂していたわけだけど、センタリングの場合はそのときに身体の内側に現れる中心の感覚に気づく必要がある。
バランストレーニングは、ただの身体トレーニングと化していたので、身体的な気づきは特になかったけれど、そのときに内側に意識を向けるようにすれば、センタリングのトレーニングに変貌します。
あるいは、電車に乗って立っているときもそう。揺れる電車の中でただバランスを保とうとしているだけではヒラメ筋の筋トレなどにしかならないけれど、揺られながら内的感覚に注意を向け、中心を意識するようにすれば、それはセンタリングをトレーニングできる時間に早変わりする。
これは、ただ身体を鍛えるジムのトレーニングでは気づきは得られないけれど、そのとき内側に意識を向けるようにすればボディワークになるのと同じです。
身体を機械的に鍛えるのと、身体を動かしながら内的感覚に意識を向けるのとで全然得るものが違います。たとえ同じトレーニングをしていても、二流、三流のアスリートは、身体を機械的に鍛えているだけなので怪我しやすいのに対し、一流のアスリートは内的気づきを意識しているので、より身体の動きが繊細になっていき、怪我をしにくくなります。
バランストレーニングと言われるものの場合にもそれは当てはまり、ただ無理やりバランスを固定しようとしているうちは機械的な運動にすぎませんが、体勢の変化に伴う中心の動きに気づくことを目的とすれば、繊細な感覚を鍛えるボディワークに変化するということです。
この点で、最近読んだ貴乃花の現役時代の稽古の方法は、まさしくセンタリングのトレーニングそのものですね。これは見習いたい。
貴乃花親方と村田諒太の対談全文。強さ、身体感覚を極限まで求めて。 – ボクシング – Number Web – ナンバー
基本は四股と鉄砲と摺り足です。これはちゃんとやればやるほど大変で、逆にこれさえ苦しんで毎日やっていれば、どうにかなっちゃう。精神的にも鍛えられる。同じことの繰り返しなんですが、やればやるほど軸がブレてきちゃうんです。それを寸分の狂いもないようにやっていくには、自分の感覚を鍛えるしかない。
…軸がブレると、相撲でも簡単に押されるし、倒されるし、はたかれる。ですから、ブレないように腰でくっついていく。それが四股、摺り足、鉄砲の基本なんです。
実際にセンタリングを意識するトレーニングをやってみて気づいたのは、わたしはどうも常に中心部が固まっているせいで、周辺部の筋肉で自立していることが多い、ということ。
あたかもこれは、外骨格で自立している虫に似ている。常に周辺部の筋肉が凍りついているせいで、ガチガチに鎧のようになった周辺部の筋肉によって外骨格的に自立していて、中心部の筋肉をうまく使うことができていない。
そして、身体の周辺部がガチガチに凍りついてそれで自立している状態では、同時に先ほどのグラウンディングの感覚も失われていることに気づいた。
わたしのイメージでは、ゴムボールに例えるのがわかりやすく思った。わたしの過緊張状態は、内部にパンパンに空気を入れたゴムボールのようなものだと思う。そのときゴムボールの表面が外骨格のように固くなり、その表面部だけで自立している。ゴムボールの空気がパンパンになると、地面との接地面積は減ってしまい、あちこちに転がっていって不安定になる。
同じように、内部の緊張のせいで凍りついているときのわたしも、周辺部の筋肉が鎧のように固くなって、地面から浮き上がるかのように接地面の感覚が失われていしまい、不安定になっている。
他方、空気をほとんど入れていないゴムボールは、ボールの表面は柔らかくなり、へなへなっとヘタれて地面との接地面が増える。この状態では(ボールとしては役に立たないが) 安定感が増して、転がったりしないのは言うまでもない。
センタリングとグラウンディングを意識するというのもこれと同じで、中心部の緊張がほぐれて、周辺部の凍りつきが溶ければ、結果的に鎧のように張っていた身体の表面の筋肉が柔らかくなり、それと同時に、接地面をより強く意識することができ、浮き足だった不安定さがなくなって、ゆったり構えることができるのだ。
センタリングに関しては、グラウンディングと違ってまだ自分のものにしたとは言いがたいので、もう少し意識的に練習して身につける必要があります。
自然の中で五感を使って「気づく」
前回の記事で書いたように、わたしは今、引っ越す方向で物事を進めていますが、今この時期にこうした気づきをたくさん得られたのは幸運でした。
何度も書いているように、たとえ自然の多いところに引っ越したとしてもそれだけで効果があるなどとは思っていません。自然の多いところに住んでいても感覚が麻痺していて、何一つ恩恵を受けられない人は大勢います。レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダー で書いているように。
わたしはそのとき、もしこのながめが一世紀に一回か、あるいは人間の一生のうちにたった一回しか見られないものだとしたら、この小さな岬は見物人であふれてしまうだろうと考えていました。
けれども、実際には、同じような光景は毎年何十回も見ることができます。そして、そこに住む人々は頭上の美しさを気にもとめません。見ようと思えばほとんど毎晩見ることもできるために、おそらくは一度も見ることがないのです。(p30-31)
かつてある人がわたしに、モリツグミの声を一度もきいたことがないといったことがあります。けれども、その人の庭では、春がくるといつも、モリツグミが鈴をふるような声で歌っているのをわたしは知っています。(p38)
本当に自然がもたらす癒やし効果の恩恵を受けたいなら、自分の感覚をつかいこなして注意を向ける方法を知っていなければならず、それはボディワークの訓練でやっていることと非常に近い「今ここ」に身を置くスキルなのです。
子どもといっしょに自然を探検するということは、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性にみがきをかけるということです。それは、しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらくこと、つまり、あなたの目、耳、鼻、指先のつかいかたをもう一度学び直すことなのです。
わたしたちの多くは、まわりの世界のほとんどを視覚を通して認識しています。しかし、目にはしてはいながら、ほんとうには見ていないことも多いのです。見すごしていた美しさに目をひらくひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。
「もしこれが、いままでに一度も見たことがなかったものだとしたら? もしこれを二度とふたたび見ることができないとしたら?」と(p28)
やっていることは、「今ここ」の外受容性の感覚に気づけるようになるか、「今ここ」の内受容性の感覚に気づけるようになるか、それだけの違いでしかない。これらはどちらも、繊細な感受性によってのみ実践できる表裏一体のスキルです。
だから、ただ引っ越しについて考えるだけでなく、引き続きボディワークを通して、内なる感覚への感受性を育むことはどうしても必要で、それができるか否かが、環境を変える取り組みを成功させるための鍵なのです。
引っ越すことを決めてからも、わたしは何度も、身近な自然のなかで、自分の判断が正しいのかどうかを確かめようとしてきました。
ある暑い日は、いつも通っている車道沿いのルートを通る代わりに、ほんの小さな川沿いの並木道を通ってみました。以前の感覚が完全に麻痺しているときのわたしは、道を変えようが何とも思いませんでしたが、感覚を使えるようになった今は、川沿いのルートのほうが身体がいくらかリラックスしているのをはっきり感じました。こんなわずかな自然だけでも違うというのなら、やっぱり北海道で感じた心地よさは本物だったのだ、と感じました。
別の涼しい日には、病院に行く途中の並木通りでも同じように感じました。この病院に通い始めたときは、ただ「木がたくさんあるな」くらいにしか感じてしませんでした。並木道を歩いたところでリラックスするなんてことはまったくなかった。
しかし、この日は、すでにヨーガを通して「今ここ」のスキルに目覚めたわたし。ただ並木道を歩くだけでなく、歩きながら、感覚をオープンにして感じるようにしてみました。すると、今までこの道を歩いていたときは決してわからなかった鳥の声や虫の音、木洩れ日の美しさに気づいて、病院に向かう道の途中で歩きながらリラックスできてしまいました。
まさしくレイチェル・カーソンの言う通りでした。わたしは幾度となくその道を歩いていた。しかし、何も見ていなかったし感じてもいなかった。SEのセラピー、そしてヨーガのスキルによって感覚を使うことを学んだことでようやく、見ていないものが見えるようになり、聞こえていなかった音から癒やしを得られるようになったのだと。
もうひとつ面白い体験は、前回書いた自己免疫疾患の検査の病院の帰りに、住宅地を歩いていたとき、ふと自分の隣に大きな犬がいて飛び上がらんばかりにびっくりしたことです。よく見てみると、陶製の犬の置物だったんですが、あまりに近くにあったせいで、心底驚きました。
あそこまで鳥肌が立つほど驚いたのは久しぶりだったんですが、興味深いのは、鳥肌が立って驚いてゾクッときた1秒か2秒ほどの瞬間、わたしの身体から、凍りつきや慢性疲労や重だるさのような症状が消失したことです。ものすごく短いあいだでしたが、確かに消えていました。その瞬間だけ、わたしは「生ける屍」から、「生きている身体」に戻っていました。
この経験は、わたしが最近ずっと書いていた、解離の凍りつきからの回復には、「震え」や「畏怖の念」という作用が必要なのだというラヴィーンの洞察の正しさを裏づけてくれていました。震えや畏怖の念は背側迷走神経を揺り動かす生物学的現象ですが、確かにそれは背側迷走神経の凍りつきを溶かすのです。
陶製の犬の置物で驚いて震えたくらいでは、永続的な効果は何もありませんでしたが、おそらくSEのセラピーを続けたり、大自然の中で五感を使ったりしていくうちに、体内に閉じ込められたトラウマのエネルギーが解放されるときには、これと類似した震え、または畏怖の念を感じるのだろう、と実感できた貴重な体験でした。
喜ぶべきは、わたしの身体が、こうしたさまざまな感覚を認知できるようになっているということです。川沿いや並木道の癒やし効果であれ、心底びっくりしたときの凍りつきの解けた瞬間であれ、以前なら、まったく気づけなかった感覚に今は気づけます。これならば、きっと次のステップに進んでも大丈夫でしょう。
主治医との話
そういったことを考えているさなかに主治医との診察があり、ありがたいことに、わたしの計画と考えに対して、多大なる理解と共感を示してくれました。
今のところ身の回りに引っ越しに反対するような人は一人もおらず、みなわたしにとってこの選択はプラスになると考えてくれているようです。もちろん、たとえそうであっても、これから慎重に候補を選んでいく必要はあります。
主治医の話で興味深かったのは、小児科医というものは、自分の症状についてうまく伝えられない子どもを診るがゆえに、身体が語るメッセージを読み取らねばならないということ。だからわたしの話の意味がわかると言ってくれました。
問題は、わたしたちはみな、大人になるにしたがって、身体に語らせる代わりに、言葉によって事実無根のストーリーを創作するようになっていくことです。分離脳研究がはっきり実証したように、わたしたちの言語脳は、事実とは違う都合のよい話をいくらでも創作します。そのせいで、本来の身体が伝えているメッセージが読み取れなくなり、多くの人は「原因不明」の疾患を抱えてドクターショッピングするようになってしまいます。
人間の創作好きな言語脳の作品のうち最大のものは、「心」という得体の知れない概念です。子どもはこのような言語脳による創作をしないので、子どもには精神疾患というものはありません。症状はすべて身体に現れます。(子どもの「うつ病」が精神症状ではなく身体に現れることはよく知られている)。
しかし成長とともに言語的左脳が発達していくと、身体のメッセージを勝手に解釈して、「心」の問題だとみなすようになってしまい、こうして精神疾患という存在しないはずのカテゴリが生み出されます。
はっきり言ってしまえば、神経科学の発見からすれば、「精神疾患」や「こころの病」などというものは、すべて身体の症状を言語的左脳によって解釈して生まれた架空の病態だということになるでしょう。本当は苦しんでいるのは身体であるはずなのに、なまじ大人になって言語的解釈能力が発達したせいで、身体に表れている苦痛を心という何かの問題だと解釈してしまうわけです。
わたしの主治医の場合は、もともと小児科医として、言葉による訴えではなく、身体そのものに現れるメッセージを読みとることに長けていたために、大半の医者よりも、上辺だけの言葉の解釈にまどわされにくい本質を見る目がありました。
そのような医者に恵まれたおかげで、わたしは自分の症状を、ただ「こころの問題」とみなす落とし穴にはまらずにすみました。言葉に幻惑されてしまう大勢の人たちが誤って「精神疾患」と呼んでいるものの本質は、まず身体にあるということ、つまり心の症状の前にまず身体の症状が先立って存在しているということを見て取れました。心の問題とは、まず身体的な問題であり、わたしたちは人間である以前にまず動物なのだという生理学的に正しい認識を持てました。
今のわたしは、率直に言えば、「心」などという概念を医学の世界に持ち込むべきではない、とさえ考えています。神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史に数理物理学者ピエール=シモン・ラプラスのこの有名なエピソードがあります。
ニュートンやデカルトと違って、ラプラスは神を信じていなかった。彼が『天体力学』をナポレオン・ボナパルトに贈呈すると、神についての言及がいっさいないと聞いていたナポレオンは、彼にこう指摘した。
「聞いたところでは、そなたはこの巨大な本で宇宙の仕組みを記しているが、宇宙の創造者についてはいっさい触れていないというではないか」。するとラプラスは、「そのような仮説は不要だったからです」と即答した。(p178)
わたしは包み隠さず言えば、この有名なエピソードのごとく、「医学において“心”などという仮説は不要だからです」と言いたいと思っています。とはいえ、この有名なラプラスのエピソードは、歴史として振り返ると尊大な過ちであったことが証明されているので、同じ轍を踏まないために自重してはいます(笑)。(ラプラスは神なしですべてを機械的に決定・予測できると予言したが、神の存在はともかくとしてラプラスの予言は的外れであるとわかったため、決定論の代わりに確率論が台頭した)
しかしそれでも、「心」などという概念を持ち込んでいるがために、医学が似非科学に成り下がっていることはいなめない事実です。「それは心の問題です」「心因性です」「気のせいや思い込みです」などという、科学者としてありえないファンタジックな物言いをする医者たちのせいでどれほどの患者が痛めつけられ、苦痛を背負い込まされてきたことか。
神経科学においては、エーデルマンやダマシオらが唱えてきたように、心なるものの起源は身体にあることがすでに膨大な証拠からわかっているので、心などというファンタジーを空想するひまがあったら、その土台である身体の問題に対して真剣に向き合う努力をすべきなのです。
理論的な側面を話すべきかどうか
主治医がひとつ気にしていたのは、患者の抱えている問題がトラウマの凍りつきなどから起こっている場合、それを患者に対して説明しにくく感じる、ということでした。
わたしの意見では、理論的な話は患者が知りたいと思うのでなければ説明する必要はないし、そもそも回復するためにまったく必須ではない、と思っています。これだけあれこれと考察してきたわたしが言うのも変かもしれませんが、理論的な話は当事者を惑わして、身体の「気づき」から注意をそらしかねないので、わたしがブログに書いているようなことは、臨床の現場ではほぼ不要だと思っています。
結局のところ、治療に必要なのは、なぜこのような病気になってしまっているのか、という理論ではなく、「今ここ」の身体感覚に注意を向ける訓練です。ヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンらの患者に対する向き合い方を見ても、診察室で理論を詳しく患者に説明しているようには思われず、ただ実践的なワークを指導することに集中しているように見えます。
この前、わたしが混乱して方向性を見失った原因も、体験記で書いたように、セラピストから、背側迷走神経やら腹側迷走神経やら、いろいろな理論的な側面を説明されたせいで、身体を観察して「気づき」に従うという一番重要なことから注意をそらされたせいでした、(誤解を招かないように補足しておくと、セラピストは説明する前にそうした解釈を述べてもいいかちゃんと尋ねてくれている)
わたし個人の体験から言えば、いっそのことボディワークにおいては理論の説明などなしに身体の観察だけに焦点を当てたほうがうまくいくと思うのです。
それを裏づけているのは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーなどでラヴィーンが書いている、ボディワークの源流はシャーマン的医療にあるという説明です。古来さまざまな文化のシャーマンによる治療は、当然ながら医学的な理論など何もなかったにもかかわらず、ただ儀式だけでトラウマを治療していました。実践さえあれば、理論など必要ない強力な証拠です。
シャーマン的な手法では、身体に戻ってくるよう霊に呼びかけるのは呪術医でした。ソマティック・エクスペリエンスでは、失われた、あるいはばらばらになった自分の本質を再統合することによってあなたの癒しを導くのはあなた自身です。
この課題を達成するためには、再び全体になりたいという強い欲求を持つ必要があります。この欲求は、魂が身体に再びつながるための錨のような役割を果たします。(p74)
また、数回前に書いた、旧約聖書のヨブ記の物語も、この点で強力な指針になると思っています。そのとき書いたように、わたしが読んできた本のなかでピーター・ラヴィーン、オリヴァー・サックス、エレイン・アーロンなどの名だたる専門家たちがヨブ記に言及しているので、この古代の書には重要な知恵があると思えるのですが、しっかり読み解いてみると、確かにトラウマ治療において大事なポイントをすべて押さえているように思われます。
ヨブ記のストーリーは、ヨブという人があるとき悪魔の策略により、一日のうちに財産をすべて失くし、子どもたちが全員死に、あまつさえ病気を発症するという、尋常ならざるトラウマ的な極限状況で幕を開けます。
そこへまずやってきたのは三人の友人たちですが、彼らはヨブの惨状の原因をいろいろと探り、これこれの生き方をしていたせいで病気になったのだとか、ここを改めれば神の恩寵が回復されるだろうなどと解釈や分析を試みます。しかしどれもあまりに的外れで傷心のヨブには耐えがたいものだったので、彼は友人たちに激怒します。
やがて別の友がやってきて、ヨブを元気づけます。やがて神が自ら話しはじめ、自然界の壮大な現象を次から次へと語りはじめます。すると、それらの現象に注意を向けることで、ヨブは畏怖の念に打たれ、神によって回復させられる、というハッピーエンドを迎えます。
一見したところ、このストーリーはちぐはぐに思えるため、文学や神学の批評家たちから酷評されてきました。一番意味不明なのは、最後の神の対応で、ヨブの問題の原因を明らかにする代わりに、なぜか自然界の驚異の話ばかりして、何も理由がわからないまま話が終わってしまいます。
しかし、前回このヨブ記を分析したときに触れたとおり、この対応は、この物語を神学や文学の物語としてではなく、トラウマ治療の物語としてみた場合、信じがたいほど適切ですばらしい対応です。
物語のはじめにヨブは重大なトラウマを抱え、凍りつき状態ななります、体中に、自己免疫性の反応とおぼしき病気の症状がたくさん現れて、ひどく悲惨な状態になります。
そこへ現れる友人たちは、いわば精神分析医たちです。病気の原因を彼の「心」に求めてあれこれと自説を振りかざしますが、何一つ助けになりません。
やがて神が語りだしますが、神の治療アプローチは、トラウマの原因を分析することは完全に脇に置いて、ヨブに「今ここ」の感覚に集中させること、ただそれだけに終始しています。さまざまな驚異的な自然現象に目を向けさせ、「今ここ」を五感で感じ取るよう仕向け、最終的にヨブは「畏怖の念」また「身震い」を経験し、病気から回復します。
過去の体験記で書いたようにラヴィーンやオグデンは、トラウマからの回復においてはこの畏怖の念や身震いといった感覚が非常に重要であり、この作用を通じて神経系の凍りつきがリセットされると述べています。いつもラヴィーンの本からばかり引用しているので、今回はパット・オグデンのトラウマと身体から該当部を引用しておきましょう。
トラウマ的記憶に関して取り組むとき、クライエントは頻繁に無意識の震えや身ぶるいを体験します。そのことは「私たちの中でサバイバルのために生成される膨大なエネルギー」の放電とみなしてもいいでしょう。(p358)
凍りつきとは、前回書いたように、闘争/逃走反応が無理やり「中断」させられた状態なので、そこから回復するときには必ず、未開放の中断されたエネルギーの解放として、身震いのような現象が起きるのです。これは動物においても観察されています。
このヨブの物語はトラウマ治療のためのすばらしい知恵を秘めているのに、これまで神学や文学方面からしか研究されてこなかったせいで、その知恵に気づかれなかったんでしょう。ラヴィーンが心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで述べるように、トラウマの研究とは、まさしく人類のさまざまな文化すべてをつなぐものです。(興味深いことにラヴィーンは、よく有名なメデューサ退治の物語について、トラウマの凍りつき克服のエッセンスが散りばめられた物語だと評価している)
私は、トラウマという主題と、その自然科学、哲学、神話学、芸術との複雑な関係に尽きることなく魅了されてきた。
…トラウマは伝統的に、心理学的、医学的な心の病と考えられてきた。現在の心理療法と医療は、身体と心の関連についてリップサービスはするものの、トラウマの癒やしにおける心身の深いつながりについてはおそろしく過小評価している。
世界のほとんどの伝統的癒しの手法を哲学的にも実践的にも支えてきた心身の完全な統合は、現代社会が理解するトラウマ治療からは悲しいほど欠落している。(P2-3)
そしてこの物語の知恵を現代の医療に当てはめるとすれば、精神分析医たちがするような原因さがしはまったく不要であり、ときに有害だということ、またトラウマの医学的・科学的メカニズムについての理論的説明も、治療には特に必須ではない、ということになるでしょう。必要なのは「今ここ」に感覚を研ぎ澄ますこと、ただそれだけなのです。
そもそも自然界の動物たちは、トラウマ的な場面に遭遇したとしても、何ら医学的・科学的説明などなしに、大自然のただ中で凍りつき/擬態死から復帰していく、という事実からしてもこれは理にかなっています。人間の場合も、わたしみたいな知的好奇心に駆られた人や、疑い深くてなかなか納得しない人にとってのみ細かな理論が必要なだけで、回復のために説明は必須ではないはずです。
すべての人が身体的な気づきを得られるのか
主治医が気にしていた別の点は、こうした身体的な気づきを治療に導入する方法は、果たしてすべての人にとって役立つのかどうか、ということ。
ボディワークの専門家たちは誰でも実践できると言うけれども、わたし自身の個人的な考えを言えば、いまのところ、かなり懐疑的です。
ボディワークという身体の気づきを重視する医療分野が、今に至るまでこれほど主流医学から無視されてきたことには、それなりの理由があると思います。率はっきり言うと、人類のごく一部の感受性の強い人たちにしか、身体的な気づきを深めるボディワークによる治療はできないのではないか、という疑いを強く持っています。
これは、慢性疲労症候群の当事者、および専門家たちが抱えている問題から特にそう言えます。慢性疲労症候群という病気がほとんどの場合、長期間ストレスにさらされたことによって生じる生物学的な凍りつき/擬態死反応であることは、もう明らかな事実と言っていいと思います。脳画像研究なども、このような病気の背後に体性感覚への気づきの低下、つまり解離があることを裏づけている。
しかし、この病気の当事者と専門家のほとんどすべてが、自分(患者)が解離したり失感情症になって麻痺したりしていることに、まったく気づいていないし、気づこうともしない。自分たちの病気の原因はいまだ明らかになっていなウイルスのようなものにあると信じ切っている。自分の身体の声を聞くという概念が、そもそもまったく存在していない。
このようなことは、神経科学ではさほど珍しい事例ではなく、自分が問題を抱えていることに気づけないので治療を求めないという解離症状はよく起こります。たとえば視野の半分が欠けているにもかかわらず、それに気づけなくなる「半側空間無視」とか、目が見えているのにそれに気づけず自分は盲目だと思い込む「盲視」とか、逆に視力を失っているのに目が見えていると主張する「アントン症候群」とか、自分が病気を抱えていることを認知できなくなる「病態失認」とか。
さらにはわたしが抱えている「相貌失認」もそうで、実はこれは意識と自己 によれば、無意識下の感覚認知では顔がわかっているのに、意識の上では見分けられなくなってしまう現象なのだそう。
顔失認(第五章で述べたエミリーのような患者)に、患者の親族や友人の顔写真とともに患者が会ったこともない人々の顔写真をランダムな順番で提示し、同時に患者の皮膚電気伝導をポリグラフで記録すると、ある劇的な乖離が起きているのがわかる。
患者の意識的な心には、どの顔も同じように認識不可能である。友人、親族、まったく見ず知らずの者、そのどの顔も患者の心に同じ空白状態を生み、彼らがだれかを知らしめるようなものは何も心に浮かばない。
にもかかわらず、友人や親族の顔は事実上どの顔も、それが提示されると明確な皮膚電気伝導反応が起きたが、見ず知らずの顔の場合はそれが起きなかった。こうした反応を患者自身は少しも気づいていない。さらに、皮膚電気伝導反応の強さは、もっとも身近な親族に対して大きくなる。(p389)
ここに挙げたような病気はどれも同じような神経学的な解離で、決して心理学的な思い込みではないことに注意が必要です。
ダマシオの理論でいえば、わたしたちの身体は無意識のうちに感覚を処理し、そこから情動、感情、そして認知が生まれていました。
1.感覚(無意識下の処理)→2.情動(無意識下の身体の動き)→3.感情(無意識下のイメージ)→4.認知(やっとここで情動と感情を意識できるようになる)
ところが、神経学的な解離症状が起こると、1-3の無意識下のプロセスと、4の認知のプロセスが断絶されてしまう。そのため、どれだけ本人が頑張っても、意識的な認知の上では、感覚や情動や感情を認識できなくなってしまう。解離症状の中でも特に有名な「失感情症」もこうした障害の一種で、感情や情動を認知できなくなってしまうために起こります。
(ここで言う「失感情症」とは、神経科学的に正確には「情動失認」と呼ぶべきでないかと思う。当事者たちは感情を失っているのではなく、感情に先立つ身体の反応、つまり「情動」が認知できなくなっているせいで、結果として身体の声が聞けなくなり、情動の次に生まれる感情も認知しにくくなっているから)
主治医とも話したけれど、慢性疲労症候群の人のほとんどが、このような失感情症(情動失認)のような解離を起こしているため、自分の身体の状態に気づけなくなっている。ほぼすべての人が、トラウマをヨーガで克服する に書かれている以下の状態にあるといっていい。
センターに来る多くのクライエントは、無意識のうちに呼吸をこらえ、絶えず筋肉を緊張させている。
ところが、その緊張感や不快感に全く気づいていない。そのために、彼らの体の生理機能とフェルト・エモーション(身体感覚レベルの情動)が同調しなくなっている。
…なかには食べることを忘れる人もいる。食べ物を求め続けなければならないという、体の自然で律動的にメッセージが遮断されているからである。
どれだけ睡眠をとっても疲労感が抜けない人、夜中に何度も目が覚める人、眠ることのできない人もいる。(p83-84)
われわれが取り組んでいるクライアントたちには、その体の中で起こっていることと、彼らが行なっている〈選択〉との間に、しばしば途方もないズレがある。
彼らは選択肢の全くない、さまざまな不快状態に閉じ込められていると感じているために、体との回線が切れているのである。
彼らはしばしば「自分たちの体がこの先どうなっていくのか」について、恒常的な無関心を決め込んでいる。「気分を良くするために私にできることなど何もないのに、なんでわざわざ?」というわけである。(p163)
まだSEをやっていないころのわたしもこういう状態でした。幹線沿いのルートを歩こうが、自然の多い並木道を歩こうが、環境による身体の変化の情動を何ひとつ認知できないので、「気分を良くするために私にできることなど何もないのに、なんでわざわざ?」の状態でした。
だから、このような解離が起こって、自分の身体の情動を認知できなくなっている人たちには、それに「気づく」ためのボディワークの訓練が必要だということになるわけです。ところが、ここで最大の問題にぶち当たる。
こういう状態にある人の多くは、あまりに完璧に解離してしまっているため、自分が解離していることに気づかない。身体の情動は完全に切り離されて麻痺しているので、当人はまったく意識できず、存在しないも同じに思っている。そんな状態にある人に、あなたは情動認知の問題を抱えており、ボディワークが必要だと気づかせることは、(わたし個人の意見として言えば)ほぼ不可能だと思う。
慢性疲労症候群の人が抱える失感情症(情動失認)と、神経科学的な病態失認の状態などは同じ解離症状なので、慢性疲労症候群の人に自分の抱えている真の問題を気づかせようとするのは、 ダマシオが書いているこの例に近い。
私の患者D・Jは完全に左半身が麻痺していたが、私が彼女に左腕について尋ねると、彼女はいつも、上々よ、たぶんいっとき具合が悪かったが、いまはもう悪くない、と答えた。
そこで私が彼女に左腕を動かしてほしいと頼むと、彼女は左腕を探す。そして活力のない腕を前にして、彼女は、私が「本当に」「それ」に動いてもらいたいと思っているか、と尋ねる。どうしても、と頼むと、そのときはじめて彼女は「どうもそれだけでは大したことはしないみたい」と認める。そしてかならず、それから良いほうの腕で悪いほうの腕を動かし、自明のことを言う。「私の右手を使えば、それを動かすことができる」
このように、身体の感覚システムをとおして自動的に、迅速に、そして内的に欠陥を感じ取れないというのはまさに驚きだが、繰り返し直視してもその欠陥について学習できないというのは、はるかに驚きだ。
徐々にではあるが、患者によってはその欠陥を繰り返し直視したことを想起し、そのように「外的に」得られた情報に頼りながら、かつてはそういう問題をかかえて「いた」ことがある、と言う。もちろん彼らはいまでもその問題をかかえているのだが。
病態失認の患者は右半球に、具体的には、島皮質、頭頂領域におけるブロードマン地図の3野、1野、2野、それに外側溝の奥にある、やはり頭頂領域のS2野を包含する領域に損傷がある。(p279)
この病態失認の女性は、自分の麻痺を認識できない以外の点ではまったく正常にコミュニケーションできます。決して頭がおかしいとかではなく、ただ認知の神経学的な解離のせいで、自分の身体の現実を感じることができないだけです。その原因は体性感覚皮質の機能損傷にある。
そして、慢性疲労症候群の人たちもまったく同じ状態にある、とわたしは思っています。彼らは身体の情動や感情を『「外的に」得られた情報に頼』ることでしか認知できない。繊細なフェルトセンスとして発せられている「からだの声」を聞くことができない。慢性的な痛みや疲労は感じていながら、その背景にある身体の過緊張などに表れている情動に気づくことができない。たとえそれを指摘されても、そんなものはないと涼しい顔で言うだけで、認知できない。
ある程度、解離や凍りつきなどの情報を仕入れる柔軟性のある人は、『かつてはそういう問題をかかえて「いた」ことがある』と認めるようになるかもしれない。しかし、今は身体はもう凍りついていないし、身体的なストレスはないのに、ただ疲労や痛みが出ていると言うようになる。結局、いつまで経っても自分の身体の真の状態に気づけないので、ボディワークへの関心も示さない。だから、身体はトラウマを記録するに書かれているように永久に検査や身体疾患の診断を求めてドクターショッピングを繰り返し続ける。
失感情症について私に教えてくれた人の一人が、精神科医のヘンリー・クリスタルで、重度のトラウマを理解しようと、1000人以上のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)サバイバーを診た人だ。
自身も強制収容所生活を生き延びたクリスタルは、患者の多くが職業人生では成功しているとはいえ、個人的な人間関係はわびしく、よそよそしいものであることを発見した。
感情を抑え込むことで世事は処理できたものの、それには代償が伴った。彼らはかつて圧倒的だった情動を抑えることを学んだのだが、その結果、自分が何を感じているのか、もはや気づくことがなくなった。セラピーに関心のある人はほとんどいなかった。(p166)
失感情症の人は、自分の身体的感覚と情動の関係に気づくことを学ばないかぎり、回復できない。
色覚異常の人が、灰色の色合いを区別できるようにならないかぎり、色のある世界に入れないのと同じことだ。ヘンリー・クリスタルの患者たちと同じで、彼らはたいてい、それを学ぶことに乗り気ではない。
彼らの大半は、さまざまな医師を訪ね、癒えることのない病気を治療し続けるほうが、過去の魔物たちに立ち向かう、つらい課題をこなすよりもましだという、無意識の決定を下してしまったように見える。(p167)
こういう人たちには、わたしのような人がいくらこうした研究についてプログに書こうと、あるいはたとえ権威ある専門医が情動の麻痺を指摘したとしても、まったく無駄なことです。
自分の認知の上では存在しない問題をだれかに指摘されたても、果たして素直に信じる人がいるでしょうか。「あなたには見えないかもしれないけれど、あなたの背後には幽霊がいるよ」と言っているも同じで、たわごとにしか聞こえません。しまいには怒り出すかもしれません。
慢性疲労症候群の当事者が抱えている本当の問題は、慢性疲労ではなく身体失認や失感情症といった解離症状なのですが、それを気づかせることは、わたしの意見では不可能です。
ただし、慢性疲労症候群の中にも少数ながら、島皮質の活動が先天的に高い人(おそらく本来のHSPの概念に近いが、昨今のHSPブームのせいで安易にそういえなくなってしまった)がいて、そういう人たちは、ドクターショッピングを繰り返すうちに、慢性疲労症候群の専門医が言っていることは何かが欠けている、と気づく。わたしや主治医がそうだったように。感受性の強い人たちは、たとえ解離が起こって麻痺しても、ダマシオが言うところの衝立(ついたて)の後ろに隠された感情や情動に気づくだけの鋭さをかろうじて保っている。
おそらくそれができるのは、解離の症状が失感情症止まりではなく、その一歩先の離人症にまで至るからだと思う。感受性の強い人はその強い感受性を抑え込むためにより強い解離が起こりがちなので、解離症状の強さゆえにかえって解離に気づきやすくなる。これは、さっき引用したトラウマと身体のこの指摘と同じ。
こういった身体的な傾向を、多くの場合人は「普通」と感じています。克服すべきアンバランスを抱えていて、痛みを感じるほどに極端な場合にのみ気づくのです。(p386)
ここで言われているのは、身体的な解離(凍りつき)症状のことなのだけど、情動の解離についても同じことがいえる。ほどほどに解離している人たちは自分が解離していることにどうやっても気づけないが、ある一定以上に解離が強い人は、「痛みを感じるほどに極端」な凍りつきだったり、生活に支障をきたすほどの離人症だったりを経験するので、そのうちに解離についての本を読むなどして、これは自分のことを言っている、と気づくことができる。
調べていくうちに、解離とは自分が気づいていた極端な症状だけでない、ということも悟る。今まで自分は意識していなかったけれども、情動認知が麻痺する失感情症や、気づかないほど慢性的な身体の凍りつきなどが起こっている、ということにもやがて気づく。こうしてボディワークに取り組みはじめることになる。言うまでもなくこれはわたしの経験のことを言っている。
このような人たちも、やはり最初は、身体失認や失感情症状態にあるので、他の慢性疲労症候群当事者と同じく、自分の真の問題に気づいていないが、何かがおかしいという直感を手がかりにして、少しずつボディワークなどにより気づきを深めていくうちに、やがて麻痺していて気づけなくなっていた情動や感情にアクセスすることが可能になる。こうしてはじめて回復への道が開かれる。
しかし何度も言うように、わたしの意見では、このようなことができるのは、おそらく先天的に島皮質などの体性感覚皮質の活動が強い人だけではないか、という疑念がずっとあります。このような人たちは、(生まれつき?)身体の内的感覚に「気づく」という概念を少しでも持ち合わせているので、それを手がかりに回復していけるが、その概念すらない人たちは、どれだけ指摘されても、どれだけボディワークを勧められても、永久に気づけないのではないか? とわたしは思ってしまいます。
現にわたしの友人の慢性疲労症候群の患者たちがそうで、わたしが調べていることに何の興味も示さないばかりか、たとえ解離や凍りつきやボディワークという概念を説明したとしても、まったく理解できないように思えます。これは、さっきダマシオが書いていた病態失認の女性や、盲視またアントン症候群などの例と同じ現象だとわたしは思っています。身体に気づくという概念さえ存在せず、想像すらできないがために、ボディワークに関心を持つことなどできないのだ。
これらの人たちは、病気の治療とは「薬を飲む」ことや「手術をする」こと以外にはない、と考えている。身体の動きを通して脳の神経可塑性を引き出すなどという取り組みに効果があるなどと考えていない。病気とは外から侵襲的に治すものであり、内から組み換えていけるという概念もない。それはおそらく、内側から感じるという体性感覚の感受性の弱さを意味している。
このような人でも、長い年月をかければ気づけるようになるのでしょうか。そんなふうには思えません。わたしが見る限り、年月が過ぎるとともに、どんどん逆方向に凝り固まっていき、より「気づけなく」なっていくように思える。
逆に、わたし自身の過去を振り返ってみると、最初の時点から違和感を感じていました。その違和感があったからこそノーマン・ドイジの本でフェルデンクライスの物語に出会ったとき、感銘を受けました。それが二年前、ボディワークの概念との出会いでした。
だから、「気づける」人は最初から直感的に答えがわかっていて、やがて答えにたどりつくのだ、と思っています。まったく「気づけない」人が、どこかで「気づける」人になるとはわたしには思えない。人は変われると信じたいけれど、事実は「三つ子の魂百まで」のほうが正しいように思える。
気のおけない友人同士でさえこのありさまなのだとしたら、わたしがブログでここに書いたようなことを指摘したからといって、また専門家が書籍などで啓発したところで、世の中にいる「気づけない」人たちは永久に自分の問題を自覚できないのではないでしょうか? そう思ってしまうのは、わたしが悲観的、厭世的すぎるからなのだろうか?
さっき書かれていたように、自分の情動に気づけるよう失感情症の人を助ける、というこの問題は「色覚異常の人が、灰色の色合いを区別できるようにならないかぎり、色のある世界に入れない」のとてもよく似ている。そもそも色覚異常だと一生気づけない人たち、あるいは気づいても、正常な色を経験したことがないせいで、それが何なのか一生わからない人たちが大勢いるはず。気づけるようになる人たちよりも、一生気づけない人たちのほうが、おそらく多い。
主治医は、慢性疲労症候群という病態に対する、こうした理解を医療者として発信していかねばならない、とは言ってくれてはいるけれど、果たしてそれに意味があるのだろうか、とわたしは思わざるを得ない。
いや、もちろん、わたしも本当にそれがうまくいけばいいとは思っているものの、それが成功するとはほとんど思えないのが正直なところ。もちろん、権威ある立場の人が発信していけば、少しは感化される人もいるでしょうから、こうしたわたしの悲観的すぎる見方が杞憂であればいいんですが。
VRやニューロフィードバック
もしも希望があるとしたら、それはボディワークではなく、VRやニューロフィードバックを用いた取り組みだとわたしは思っています。VRやニューロフィードバックは、ボディワークがやっている「気づき」の訓練を増幅してより「気づきやすく」することができる。
だから、ボディワークに取り組んでも永久に自分の感覚に気づけないような人たちでも、こうした科学的方法で気づきを増幅してやれば、感受性を育てられるのかも? しれない。
たとえば、ほとんどの人は離人症のような極端な解離現象を経験しないせいで解離とは何かを理解できないと書いたが、VRを用いて、ラバーバンド錯覚のような形で、体外離脱のような解離現象の感覚を普通の人でも体験できるようになる方法が開発されている。VRはたとえば空を飛んでいる迫真の映像を見ながら、身体では別の感覚を感じるというような、感覚の不一致を容易に作り出せるので、だれにでも強い解離の感覚を誘発できる。このあたりの研究は、私はすでに死んでいるを参照。もしかしたら、こうした増幅された体験をきっかけに、感受性の高くない人でもボディワーク的な気づきを得られる方法が見つかるかもしれない。
とはいえ、もしそうした方法を開発するとしても、開発者自身がボディワークの達人としての経験を積み、その上でVRなどのデジタル機器の最新の知識も備えていなければなりません。これは非常にハードルが高い。
しかし、少なくとも、ノーマン・ドイジの本では、ニューロフィードバックはフェルデンクライス・メソッドと同じことをやっていると指摘されていたし、ヴァン・デア・コークもニューロフィードバックに注目している。ラマチャンドランやパスカル=レオーネはVRを用いた慢性疼痛などの治療に取り組んでいた。時代はボディワークの気づきをデジタルによって増幅し、より適応範囲を広げる方向に向かっているように思えます。
とはいえ、たとえVRやニューロフィードバックを用いて脳の可塑性を引き出しても、あくまで病気の治療としての部分に役立つだけで、その人たち自身が、日常生活のあらゆる場面で活用できる感受性を育てられるかというと、そこはやはり不可能だと思うんですけれど。それらは、いわば目の見えない人がメガネで見えるようになるようなものにすぎないからです。それでも、病気の治療さえできれば、医療としては成功なんでしょうけれどね。
今回の記事はここまで。次回は12回目のセラピーについて書きます。続きはこちら。