SEのセラピーを受けに行った記事の4番目。前回の記事は二回目のセラピーについてでしたが、三回目のセラピーもたくさん収穫がありました。
…なのですが、今回も、セラピーの内容ではなく、セラピーの合間に考えたことについての記録です。 三回目のセラピーについては、(5)で書くことになるでしょう。全然書くネタがなくなりそうな気配はないですね。本当はこの数倍書きたいことはあるけれど、体力と時間の制限からこれ以上書けない、という状態です。
今回の(4)では、わたし自身のルーツを改めて探ってみることにします。
薬の使い方を考える
二回目のセラピーを終えてから、ここしばらく気温の寒暖差が激しいこともあり、眠りの質があまりよくありません。朝起きたときに、全身がこわばって凍りついていることが多い。
身体が鎧を着せられたようにガチガチになって目が覚めます。あいまいな記憶を参照してみる限り、季節の変わり目にはよくこの症状が起こっていた気がします。
今までなら、朝起きたときの全身のこわばりと、ひどい疲労感の原因はよくわかっていませんでしたが、筋肉の凍りつき現象の意味を理解してからは対処する方法がわかりました。凍りつきとは、前々回書いたように、交感神経と背側迷走神経の拮抗状態であり、アクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態です。たぶん、明け方の寒暖の変化に身体が敏感に反応して、寝ている状態なのに、交感神経が上がって目覚めたときに、身体がガチガチにこわばっているんでしょう。
それならば、交感神経を下げればいいということ。わたしは寝る前に服用するために交感神経を下げる血圧の薬カタプレスをもらっていますが、それをあえて、起きてすぐ、身体がガチガチに凍りついてしんどいときに飲んでみました。すると、しだいに身体の緊張がほぐれ、心地よい感じになってきました。読みは当たっていたということです。
カタプレスは交感神経を下げて眠気をもたらすので、またうとうとと眠ったりしましたが、結果としてちょうどいい時間に起きることができました。同じような作用を持つインチュニブのほうは眠気が来ないらしいですが、こっちはまだ子どもを対象にしか認可されていないので、残念ながら今はまだ使えません。
また、人が大勢いる場所に行かなければならないときにカタプレスを事前に飲むという方法も、実験的に始めています。今までだと、外出するときは、中枢神経刺激薬で活動性を上げていました。しかし人の多いところにいくと、どっと疲れることが多く、どうやら再トラウマ被害に遭っているのだと気づきました。
詳しくは次回の(5)で書くことになると思いますが、わたしの身体には人間一般に対する恐怖みたいなのが理性とは別に本能的に染み込んでいて、ただ単に大勢の人と同じ空間にいるというだけでひどいストレスを感じてしまうようです。そのとき中枢神経刺激薬を飲んでいたら、覚醒度が上がるぶん、解離が弱まって感覚が鋭敏になっているので、より強い恐怖を神経系が感じやすいのだろう、と思いました。
それなら、あらかじめカタプレスみたいな交感神経を落とす薬で、あえて覚醒度を下げておくほうがいいのではないか。カタプレスだと幾らか眠気も生じるので、わたしの場合はあくまで、だれかの車に同乗して人の多い場所に短時間行く必要があるなど、安全に配慮できる環境でのみ試しています。一人で慣れた場に外出するときは中枢神経刺激薬を少量飲んで、逆に覚醒度を少しだけ上げる方向で調整しています。
この目的ならカタプレスよりインデラルのほうがいいのかもしれませんが、以前飲んだ時は効かなかった気がするんですよね…。
奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころによると、舞台俳優の中には、舞台の上でパニックになってしまうのを防ぐため、β遮断薬のインデラルをあらかじめ服用して交感神経を落とす人がいるそうです。アスリートの場合も効果はありますが、使用が禁じられたとのこと。(p164-165)
ピーター・ラヴィーンがトラウマと記憶で書いているように、こうしたタイプの薬をトラウマ直後に服用することで、過覚醒による記憶の結び付きを防いでPTSDの発症を抑制できるのでは、という研究もあります。
記憶を消そうとするよりも、血圧を下げる薬品で急性のストレスを軽減しようとする薬理学的な方法がある。これらの薬剤の効果は限られているが、事故やレイプで救急治療室(ER)へ運ばれた人々に使用されている。(p221)
また私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 にもこうありました。
全身のベータ受容体に干渉して、エピネフリン(アドレナリン)の影響を打ちけすベータ遮断薬を使った実験からも、興味深い知見が得られている。ベータ遮断薬は、身体の喚起状態の情報が中枢神経系に届くのを阻止するため、不安がやわらぐ。
「喚起状態の合図がなくなったせいで、情動経験の強度が下がるのだ」心理学者ジェイムズ・レアードは著書『フィーリングズー自己の知覚で書いている』(p186)
あらかじめ交感神経が興奮しそうな場所に行く前にベータ遮断薬をうまく使って、「情動経験の強度が下がる」ようにするのは、トラウマの研究からすれば、舞台俳優やアスリートがイップスを予防するのと同じなので、やってみる価値はあるかなと思います。
もうひとつの問題は金縛り。今はあまり出ない時期のようですが、中枢神経刺激薬を最低限しか飲まないようにしたせいで、また増えてくる可能性があります。金縛りのてっとりばやい対処法は、朝方に金縛りのループに襲われたら、その泥のような眠気に屈さず、中枢神経刺激薬を口に含んで一度覚醒させてしまうことだと分かっていましたが、意志の力で無理やりベッドから這い出して目を覚ましても、ループから抜け出せることもわかっています。
この一週間の中に一回金縛りのループに入りかけたときがありましたが、そのときは自分の意志でベッドから這い出してなんとかなりました。頻度にもよるかもしれませんが、中枢神経刺激薬に頼らなくても対処できるようになればと思います。
自分の身体についての知識が増えてきたことで、いくらか臨機応変な対応ができるようになったのは収穫です。本を読んで学んでいた知識と、自分の身体を観察して意味を理解できる気づきとが噛み合ってきたんでしょうか。
ルーツを洗い直す
この一週間は、おもにラヴィーンの子どものトラウマ・セラピーを読んでいたのですが、気になったことがありました。これが、今回の記事の本題。
この本によると、幼少期のベッドやソファからの落下が、思いのほか長期的なトラウマ症状の原因になっていることが多いと書かれていました。
気になったので親に聞いてみると、生後4ヶ月くらいのとき、ベッドから落下したという衝撃的な情報が。そういえば前にも聞いたことはあったんですが、そのときはトラウマの知識など何もなかったので気にも留めていませんでした。
話によると、母親がそのときのことを覚えているのは、それまで寝返りなどしなかったのにいきなり動いてベッドから落下したこと。さらにわたしが泣くことすらせず無反応だったからだそうです。慌てて病院につれていったけど、検査上は何事もなかったとのことでした。
それを聞いてピンと来ました。すでにそのころから解離が出ていたのか、と。
この本では、落下事故についてのところで こう書いてありました。
子どもがショックのサインを見せていたら特に重要です(見開いた目、青ざめた顔、速いまたは浅い呼吸、見当識、過度に感情的または過度に無頓着、または何もなかったようにしていること)。(p107)
特に「何もなかったようにしていること」はうちの親が戸惑ったように極めて不自然です。
このことで思い出したのは、「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からのエピソードでした。
この本に出てくるある子どもたちは、目の前で母親が悲惨な死に方をするのを目撃しましたが、目立った反応を何も示していなかったせいで、トラウマを見逃されました。
救急処置を受けた後、子どもたちは非常に落ち着いた様子だったので、誰も彼らの〈心の傷〉(トラウマ)に気づかなかった。
…精神科医は、時として信じられないほど常識に欠けていることがある。母親が恐ろしい死に方をするのを目撃した兄弟がいる。…診察した医師に常識があれば、事故直後の子どもたちが「適応している」と書いて終わりにすることはできないはずだ。(p194-195)
このときの子どもは、のちに連続放火魔になりました。無差別的な凶悪犯罪を繰り返すのは、幼少期に強烈なトラウマを負った人の末路のひとつです。記憶が解離によって凍結されているのに、身体だけがトラウマを記憶していると、理由もわからない、やり場のない憎悪が常に渦巻いている状態になるからです。
子どもが強烈な経験のあと、泣きわめいたり、怖がったりしていると、親や周りの大人は、よほどショックを受けたのだろう、と思うものです。でも本当は、強烈な反応を示しているよりも、無反応で「何もなかったようにしている」子どものほうがより大きなショックを受けていることに気づかれません。
子どものトラウマ・セラピーでピーター・ラヴィーンとマギー・クラインが書いているように、かえって泣いたり震えたりできている子どもほど、後々トラウマが残りにくいことがわかっています。
研究結果によると、事件や事故のあとむ泣くことや震えることができた子どもは、長い目で見て問題が少なくてすみます。(p54)
ショックを受けたあと「何もなかったようにしていること」は、耐えられないほどの刺激を処理できずフリーズしてしまっている、凍りつきや麻痺といった解離の反応が起こっていることを意味しているので、きちんと反応できている場合よりよっぽど深刻です。
では、わたしの場合、赤ちゃんのころの落下はどれほど深刻だったのか。母親から聞いた範囲では、その落下は普通のベッドほどの高さではなく、数十センチほどの高さだったらしい。また、母は心配してすぐに抱きかかえたとのこと。これは母親の死を目撃した子どもたちに比べればささいに思えるかもしれない。だけど、わたしはそのときまだ歩くことすらできない、寝返りすら初めての生後4ヶ月だったことからすると、そこそこ強いショックだったとは考えられるでしょう。
確かなことは全くわかりません。はっきりしているのはたった一つ、そのときのわたしの反応が、明らかに凍りつきの解離反応だったことだけです。少なくとも、わたしが現在示している解離反応は、生後4ヶ月の時点まではさかのぼれるということ。
身体はトラウマを記録するに載せられているカーレン・ライオンズ=ルースの研究が示しているように、解離傾向を身につけるかどうかは生後2年間ほどの経験に左右されています。
ライオンズ=ルースの研究から、解離は幼少期に学習されることが明らかになった。のちの虐待その他のトラウマでは、若年成人に見られる解離の症状は説明がつかなかったのだ。
虐待やトラウマは、他の多くの問題のおもな原因だったが、慢性的な解離や自分に対する攻撃性の原因ではなかった。(p201)
だから、わたしの解離症状が、生後4ヶ月の時点ですでに生じていたことはなんら驚くことではありません。慢性的な解離症状を示す人はだれだって乳幼児期から解離しているはずです。
でも、この落下のときに解離を身に着けたのかというとそうではなさそう。
わたしはこの事故より前、生まれてから何ヶ月も、ほとんど泣き止まず寝ないため、母がノイローゼになりかけたと聞いています。しかし、母がもう限界だと感じたある時点で泣き止んで寝るようになりました。これは落下の少し前の話です。
赤ちゃんが全然泣き止まず寝てくれない、というのはADHDの赤ちゃんでよく聞かれる話ですが、赤ちゃんが泣き止まないのは感覚過敏だからでしょう。生まれてきてこのかた、圧倒されるような苦痛な感覚刺激にずっとさらされるので、苦痛すぎて泣くことしかできず、寝ることもできません。
うちの主治医たちが研究してきたことによると、その時期に睡眠をとれないことが脳の発達を妨げるので、ADHDや自閉症といった発達障害の傾向を方向づけるようです。つまり、発達障害というのは、もとをたどれば感覚過敏のせいで生じたものだ、ということになります。
発達障害をめぐる喧々諤々の議論が、結局のところ感覚の問題に行きつく、というのは、わたしが詳しく書くまでもなく、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に載せられている認知神経科学者エリザベス・トーレスこの言葉を引用するだけで十分でしょう。
トーレスは自閉症をめぐる現状にいらだちを隠せない。診断基準がよく変わるなかで、逸脱行動を観察し、分類して診断するいまのやりかたはいただけないし、重要なことを見のがしているとトーレスは言う。
自閉症には数々の行動障害が見られるが、すべて身体知覚に根ざしていないことに由来する。原因はそれだけなのだとトーレスは強調する。(p224)
感覚過敏には色々種類があって、自閉症の場合は、感覚の順化(つまり「慣れ」)が生じないことで、毎回最大限の刺激が入ってきてしまうことによるらしい。ボリューム調整ボタンが利かないということ。
わたしの場合は、それとは違ってボリューム調整はできるけど、強く反応してしまうことが問題になっています。これは昔書いたHSPのタイプの感受性の強さだし、もう少しつきつめて言えば、前回書いた「経験する自己」の強さでしょう。普通の人が気づかないようなささいな刺激にも気づいてしまうがために、ほかの人よりも敏感に反応して苦痛を感じてしまうということです。
生後数ヶ月のわたしは、すでにこの敏感さを抱えていた。だから、生まれてきてすぐのころから激しく泣いて寝ることもできなかった。しかし、ある時を境に泣き止んだというのは、神経系が正常に発達して刺激のボリュームが調節されたのかもしれない。
しかしもっと可能性があるのは、耐えられない刺激への対処法として、自分で自分を麻痺させる解離を身に着けた、ということじゃないか、と思います。それまで激しく泣いていたのに「何もなかったように」泣き止んだのと、初めて寝返りを打って落下したとき「何もなかったように」していたのは、どちらも同じ解離が働いていたと解釈できる。
解離傾向というのは、たった一瞬の体験で身につけるものではなく、あくまで逃げることのできない慢性的なストレス下で、だれも助けてくれないときに最後の手段として身につけるものです。赤ちゃんの場合でいえば、まず泣いて親に助けを求めるはず。それが意味がないとわかったときに、最終手段として解離を選択する。
だから、わたしの解離傾向が定まったのは、落下して無反応だった時ではなく、それ以前、感覚過敏に対して泣きわめいても、だれも助けてくれなかった(助けることができなかった)時ではないか、と思うのです。
これは、自閉症(特に女性)の人や、のび太型ADHDの人が、目立ったトラウマがなくても強い解離傾向を持ちやすいことの理由でしょう。親から虐待されたとか以前に、持って生まれた感覚過敏のせいで、生後いきなり逃げられない苦痛にさらされ、自然と解離を身に着けてしまうというわけです。
では、さらにもっとさかのぼることができるか。わたしの感覚過敏はどこから来ているのか。まず、小児期トラウマがもたらす病に書かれているように、胎児期の母親のストレスが関係しているのは間違いない。
このプロセスは出生前から始まることもある。「妊娠中の女性がストレスを受けた場合、珍しいことではありません。
しかし長期にわたって極度のストレスを受けつづけると、母親のHPA軸は闘争・逃走反応を起こしたままの状態となり、赤ん坊は大量のコルチゾールを浴びて育つことになります」とカー・モースは説明する。
「これは胎児の神経系にきわめて大きな影響を与え、神経系機能が敏感になるため、赤ん坊は生まれたときからあらゆるタイプの刺激に弱いか、過度に用心深くなるのです」(p176)
母にこのことを話したらすんなり認めていましたし、客観的に見ても、当時の母が相当なストレスにさらされていたのは間違いないので、わたしが「生まれたときからあらゆるタイプの刺激に弱いか、過度に用心深く」なった原因のひとつはこれでしょう。
しかし、これだけだと説明がつかない。これが原因なら、わたしは家系の中でひとりだけ特殊なはずですが、母もHSP傾向を持っています。
オリヴァー・サックスの父方家系は異常に直感が鋭くてほとんど霊媒師のようだったとか、エリナー・ファージョンの母方家系は代々感受性が強すぎる芸術家だったとか、ダーウィンの父方家系は他の人の考えていることが瞬時にわかる医者だったとか、いわゆる「経験する自己」が強いのは、たいてい遺伝です。だからわたしの感受性の強さが、そちらから来ていることはほぼ確実。
だけど以前どこかで書いたように、わたしは母の特性を三倍に濃縮したようなタイプなので、もともと敏感だったのが胎児期のストレスによってさらに濃縮されたと考えるのが一番しっくり来ます。
解離の家系
最近気になるのは、祖母のことです。まだ知識の浅いころ、わたしは祖母を観察して、アスペルガー症候群か前頭側頭型認知症ではないかと思っていました。同じことを強迫的に繰り返す、周りの人が良かれと思ってアドバイスしたり新しい家電を買ってあげたりしても、それに適応できず、生活の仕方を変えることができない、いつも同じ話題を繰り返し話し、進展や変化というものがない、などの理由からです。
しかし、わたしには、明らかにアスペルガー症候群である友人が男女問わず何人もいるのですが、祖母の雰囲気とはどうも違います。アスペルガー症候群の友人は男女ともに、いわゆる「空気が読めない」言動が目立ちます。本人は得意げなのですが、わたしははたから見ていて友人たちの浮きすぎている言動をいつも心配しています。前頭側頭型認知症の場合もやはり、衝動的で奇抜な振る舞いが目立つはずです。
しかし祖母はというと、そんな傾向はまったくなく、どんな人が相手でも、即座に話題を合わせます。百貨店で隣に座った人であれ、家に来た初対面の人であれ。相手に何の違和感も感じさせないまでに自分を変容させることができる。明らかに無意識のうちにカメレオンのように色を変えて、その場その場をやりすごしているように見える。これはアスペルガー症候群らしくもないし、認知症らしくもありません。
この対人関係における その場限りの柔軟性と、私生活における変化のなさをどう説明すればいいのか。ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するを読んだとき意味がわかりました。そこには解離という言葉を作ったジャネの先進的洞察が引用されていました。
ジャネは、自分の患者に見られるような、記憶の痕跡の分離や孤立を表すために、「解離」という言葉を造った。またこうしたトラウマ記憶を寄せつけずにいるには多大な犠牲を払わざるを得ないことも見て取った。
…「彼らはトラウマ記憶を統合できないため、新たな経験を取り込む能力も失ってしまうらしい。
それは……あたかも彼らの人格がある時点で完全に凝り固まり、新たな要素を加えたり取り込んだりしてそれ以上拡大することができないかのようだ」。
彼らが分離された要素に気づき、過去に起こったものの今はもう終わった出来事としてそれらを一つの物語に統合しないかぎり、個人生活でも職業生活でもしだいに正常に機能できなくなっていくことを、ジャネは予想した。今ではこの現象は現代の研究で十分に裏づけられている。(p297)
母によれば、祖母は祖父(つまり夫)が亡くなるまでは普通の人でした。しかし祖父が亡くなったとき、数年間パニックになり、その後、変化が停止してしまい、一見 自閉症や認知症を思わせるような奇妙な強迫的行動のループにとらわれてしまいました。
祖母の場合、祖父が亡くなったこと自体が問題だったわけではありません。祖母は子ども時代に戦争の恐怖を体験していて、今でもそのときの記憶をテープレコーダーのように繰り返し語ります。明らかに、祖母が解離を身に着けたのは、子ども時代の戦争体験からです。
しかし、その後なんとか生活できていたのは、祖父をはじめ、拠り所となる他者がいたからでしょう。いわゆる愛着理論における「安全基地」となる人がいたからこそ、その存在が嵐の中の船をつなぎとめるいかりのようにして、精神をつなぎとめておく助けになっていました。自分の欠けている部分を補ってくれる他者がいたので、母がまだ子どものころの祖母は「普通の人」だった。
しかし、その拠り所だった祖父が死んだことで、いかりが失われ、過去のトラウマが引き起こす嵐に飲み込まれてしまいました。
その後の祖母が、他の人と会話するときはカメレオンのように同調できるのに、自分の生活においてはまったく変化できなくなったのは、「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からに書かれているこの説明が当てはまると思っています。
また〈MPD〉の患者は、ある種の精神的な欠陥をもっているように思われる。彼らは通常の人のように経験から学ぶということがない。患者が何かをして、そのせいで罰を受けたとする。しかし、その患者はまた同じことをやるのである。
学習効果がなく、その行為と受けた罰の間の因果関係をほんとうには理解しない。たとえばある交代人格は、何度飲みすぎても、そのたびに二日酔いになって驚く。原因と結果が結び付かないのだ。(p46)
文中では「交代人格」という表現が使われていますが、現在の解釈だと交代人格とは、あかの他人ではなく あくまで本人の一部分なので、「人格部分」(パーツ)という表現のほうがいいでしょう。
MPDとは、「多重人格障害」のことですが、この特徴は、メインのオリジナルの人格が、あまりに圧倒され耐えきれないようなストレスに直面したとき、盾として作られた人格部分(パーツ)が表に出てきて入れ替わることです。しかし人格部分は、あくまで、それ専用に生み出されたパーツなので、柔軟性がありません。自分が作られた目的以外のことは何もできません。
おそらく祖母の場合、祖父が亡くなるまで、母が子どものころは統一された祖母自身だったのでしょう。しかし、祖父が亡くなったときに限界を迎え、統一された人格はばらばらになり、盾となる人格部分(パーツ)に日常を任せ、奥に引きこもってしまった。
そのパーツは、とりあえず日常の人間関係を処理するためだけに作られたパーツだった。だから、周囲の人間関係だけは当たり障りなく見事に処理できるのに、それ以上のことは何一つ手につかない。
〈MPD〉の患者は、限られた一種類の活動のためだけに交代人格を作り出す。…〈MPD〉患者の個々の交代人格は、どのような状況でも首尾一貫した行動をする。だから、仕事用の人格は浜辺にいても遊園地にいても、あるいはベッドの中でさえも仕事のことばかり考えている。(p46)
もうちょっとわかりやすく言えば、ひとつに統合された自己がショックでバラバラに砕け散ってしまったので、一部分だけで生活しているということ。本来の統合された人格をひとつの人体に例えるとすれば、解離が起こった後は、手だけ足だけ頭だけになっているようなもの。だから、生活のある部分はまともにこなせるのに、それ以外の部分はまるでできなかったり無頓着だったりする。
祖母は典型的な多重人格のような複雑な解離が起こっているわけではないと思います。だけど、ひどくショッキングな出来事に直面して、人格の一部分だけを切り離して生き延びるという解離を使用しているのは間違いない。
PTSDのようなフラッシュバックや過覚醒に悩まされるでもなく、一見ごく普通の日常を送れているように見える、しかし一部の能力が欠落していて、時間が凍りついているかのような言動を見せる。これはすべて、ジャネが記述していた解離の特徴そのままだからです。
解離傾向が強い人はだれでも、特定のトラウマを経験した時期の記憶をまるごと凍結してしまう、という対処法をやっているはずです。これは前回書いた「経験する自己」が強い人に多いはずです。ある時期の自分が、ひどい苦痛を感じる経験をしたことで、その期間の自分をまるごと切り離してしまうのが解離ですから。
単なる意味記憶やエピソード記憶のようなものじゃなくて、ある時期の身体の反応や動作を含めた手続き記憶という「経験」をまるごと切り離しているので、何かのきっかけで、切り離された記憶が活性化されると、そのときの行動を無意識のうちにまるごと再演してしまいます。
身体はトラウマを記録するによれば、ジャネの患者のイレーヌは、母親を結核で亡くした後、奇妙な行動を示すようになりました。
イレーヌは母親の死の記憶を失っていたのに加え、別の症状も示した。週に何度か、彼女は我を忘れて空のベッドを見つめ、周囲で何が起こっていようとかまわずに、いもしない人物の世話を始めるのだった。彼女は母の死の場面を思い出すことはなく、その代わりに細部に至るまで忠実に再現した。(p296)
イレーヌの場合、耐えられないほど辛かった母親の死の記憶は、そのときの行動の手続き記憶を含めてまるごと切り離され、凍結されていました。彼女の奇妙な強迫的行動は、解離された記憶が無意識のうちに活性化されたものでした。
これは多重人格としての観点で見れば、一種の不完全な人格交代ともいえます。典型的な多重人格ではありませんが、無意識のうちに過去の記憶を抱え持つ別の人格部分に切り替わっている(スイッチングしている)とみなせるからです。結局のところ、解離というのは連続性を持った病態なので、特にはっきり変化がわかるケースが多重人格として有名になっただけで、不完全な人格交代(スイッチング)はもっと多くの人に起こっている。さっきの「私」が、私でない人たちに書かれているように、そんなに珍しい話ではないはず。
この病気が珍しいのは、精神科医がその可能性に心を閉ざしているからだけなのではないかと思った。(p117)
身体はトラウマを記録するにも、「解離がスペクトルの上で生じること」が書かれていました。多重人格は極端な典型例にすぎず、グレーゾーンともなればもっと頻繁に起こっているという意味です。(p464)
この障害は当時、多重人格障害と呼ばれていた。その症状は劇的ではあるものの、解離性同一性障害に見受けられる内部分裂や異なる人格の出現は、幅広い精神生活の領域の極端な例にすぎない。
自分の中に相容れない衝動や部分がいくつもあるという感覚は誰しも抱いているが、トラウマを負い、生き延びるために極端な手段に頼らざるをえなかった人々にはとりわけ顕著なのだ。(p457)
わたしがこれだけ解離傾向が強いのであれば、遺伝的に同じような傾向を示している人が身近にいてもおかしくないわけで、たとえ祖母がそうだったとしてもわたしはまったく驚きません。祖母の人間関係におけるその場限りの柔軟性は、わたしが持っている傾向と同じものに思えます。
私はすでに死んでいるにも解離傾向の一種である離人症についてこう書かれていました。
「離人症は極度の危険とそれにともなう不安からの防衛作用という解釈は避けられないと思われる……生命が脅かされたとき、人間は起きている状況を観察して、確実に危険を取りのぞこうとする。解離は重要な適応機制だが、そのことを際立たせるのが離人症なのだ」
離人症が進化による適応であり、神経生物学的な仕組みとして存在するのだとすれば、そうなる可能性はすべての人に潜んでいることになる。
また離人症になりやすい人、そうでない人がいるのも納得できる。その傾向のことを素因と呼ぼう。「生まれか育ちか」の生まれのほうだ。
もちろん環境(育ち)が果たす役割も大きい。ニコラスのように、虐待によるトラウマが離人症を引き起こすこともあるし、薬物が関わることもある。(p165-166)
わたしと祖母は、表面化している症状はかなり違いますが、どちらも圧倒されるような出来事に対し、解離を使って生き延びた、という点ではたぶん同じなんです。
解離とは、いわば船が沈没しそうなときに、自分(統合されたオリジナル人格)を犠牲にして、一部の人格部分(パーツ)だけを救命ボートで生き延びさせるようなものです。統合されたひとつの人格は失われますが、PTSDのように生活全体が成り立たなくなってしまうようなことはなく、一部だけ無傷で生き残るので、表面的には日常生活を続けることができます。
このときどんな人格部分を解離という救命ボートで生き延びさせるかは、その人が受けたトラウマの内容や、その後の日常生活で必要とされる能力によります。わたしがよく書いていることですが、解離というのは、受けたトラウマを覆い隠すフタなので、どんなトラウマを受けたかによって、対応するフタの形は変わります。それぞれの人が受けるトラウマは違うから、それを覆い隠すための解離の形も人それぞれになります。
ひどい心理的虐待を受けた人は失感情症になって感情が麻痺するし、ひどい暴言を繰り返し聞かされた人は心因性難聴みたいな聴覚の麻痺になるかもしれない。(何度もいうように、これは「心因性」じゃなくて過剰な刺激を遮断するという生物学的な現象ですが)
わたしと祖母は、どちらも強い解離傾向で、何かを封じ込めたんでしょうが、封じ込めたものが違うので、症状も違う。かたや思考が凍結されていて、かたや身体が凍結されている。でも一部の能力がひどく欠落して、凍りついた時間が永遠にループしている点は同じなのです。
「状態」ではなく「変化」
こうして考えてみると、わたしの解離傾向は、母方の家系からの遺伝がベースで、そこへ胎児期の母親のストレスで感覚過敏が生じたことで、かなり早期に身につけたのだろう、ということになります。その他にも、わずか生後半年くらいから、養育者がころころ変わったり、異常な家庭環境だったり、難病の兄弟がいるいわゆるきょうだい児だったりしたので、慢性的な解離が発症しやすい要因は多岐にわたっていました。
わたしは自分自身を観察してみて、こんな奇妙な継ぎ接ぎ(キメラ)のような人間はそうそういないだろうと感じますが、それ相応の事情があって生み出されたのかもしれません。まあそれはそれで人とは違う世界が見えるので、悪くない人生だと思っていますが(笑)
わたしが「それはそれで悪くない」と言ってしまえるのは、明らかに、わたしに備わった慢性的な解離の能力のおかげです。高熱の分析をした時の記事に書いたように、どうもわたしは、この解離のおかげで、全身の激痛とか恐怖のようなものを麻痺させているようですので。
わたしは何が起こってもまるで落ち込みません。これは間違いなく母方の遺伝です。わたしの母も壮絶な体験をしても落ち込まない人ですし、祖母もパニックになることはあれど過去の体験から落ち込んだりはしません。祖母は10年ほど前に胆石の手術をしましたが、相当巨大な胆石だったのに、直前まで大きな痛みを訴えませんでした。今から思えば、日頃から痛みを麻痺させる解離が働いていたのだと思います。
少なくとも母方の系譜は、どんなことがあっても落ち込んだり悲嘆したりすることがない体質です。みんな「何もなかったようにしている」。たぶん解離傾向が強いせいで、心身問わず痛みが軽減されるという自己催眠がかかるんでしょう。
脳科学は人格を変えられるか?に書かれているように、うつ病の人は、現実をリアルに認知しているという傾向(「抑うつリアリズム」と呼ばれる)があります。(p285)
生理学的に言えば、うつ病とPTSDはどちらもストレス反応が強く出ているのに対し、慢性疲労や解離は逆にストレス反応が低下している麻痺状態にあります。
わたしは受け継いだ解離傾向のおかげで、常に麻酔がかかっているようなものですが、そうでない友人たちを見ていると気の毒になります。それまで順調な人生を送っていて、突然ガンなどの病気になって愕然としている人、人生の半ばでうつ病やパニック障害などを発症して追い詰められてしまう人など。
わたしと彼らの違いは、行動経済学の「プロスペクト理論」によって説明できます。いきなり何を言い出すのかと思われそうですが、行動経済学の逆襲に説明されているように、プロスペクト理論には、たとえばこんな意味があります。
人は人生を状態ではなく、変化で考える。人は変化には敏感に反応するが、同じ状態が続くと反応しなくなる。
現状からの変更でも、予想されていたことからの変化でも、それがどのような変化だろうと、私たちは変化に反応してしあわせを感じたり、みじめになったりする。これは大きな発見だった。(p58-59)
言ってみれば、主観的な変化が大きければ大きいほど、喜びや苦痛も大きくなるということ。経済学ではなく健康に当てはめると、健康だから幸せ、病気だから不幸とは限らないということ。
わたしたちの反応は「状態」ではなく「変化」から生じる。たとえ健康な身体でも、ずっと健康なままの人は「同じ状態が続くと反応しなくなる」。健康だからこそできる活動はあるので、結果的に変化を経験して喜びを感じる機会は多いでしょうが、健康それ自体には感謝も感動もしなくなる。
他方、病気の人も、ずっとその状態であれば、「同じ状態が続くと反応しなくなる」。だから生まれつき病気の人が不幸かというと決してそうではない。ある意味わたしみたいな物心ついたころから支離滅裂な人が落ち込まないのはそのせいでしょう。健康とは何かを知らないから反応しようがない。
だから、一番不幸なのは、大人になるまで健康だったのに、突然病気になって叩き落とされる人たちです。プロスペクト理論からすれば、子どものころから全身が麻痺している寝たきりの人よりも、大人になってから足だけ不自由になった人のほうがショックや落ち込みがひどいはず。「状態」という観点からだけ見れば、全身が麻痺している人のほうが重症ですが、「変化」という観点からすると、健康な状態から歩けなくなる人のほうが深刻だからです。
ちなみに「プロスペクト」という言葉には、まったく意味はないそうです。もともとプロスペクト理論は「価値理論」という名前で発表する予定でしたが、その名前だと誤解を招きそうなので、「もしもこの理論が有名になるようなことがあるとすれば、そのとき初めて意味を持つような言葉のほうがいいだろう」と考えて、何の意味もない名前にしたのだとか。自閉症とか慢性疲労症候群みたいな誤解を招きやすい言葉を作った人に少しでもこんな先見の明があればよかったんですが。(p51)
逆境への免疫寛容
わたしの場合は、人生のかなり早く、少なくとも生後4ヶ月の時点ではすでに苦しみをやり過ごすことに慣れてしまっていたようです。そしてその後も、10代の終わりまでに、かなりのショックやストレスにさらされて育った。それによって、アレルギーの免疫寛容みたいなものが起こったとみなせます。
だれでも幼児期のまだ免疫が未発達なころに寄生虫や細菌にさらされると、免疫系は敵味方を見分ける優れた能力を身に着け、大人になってからアレルギーや自己免疫疾患が起こりにくくなります。これが免疫寛容です。たとえば寄生虫なき病によると農家の子どもはアレルギーになりにくいという「農場効果」が早くから確認されていました。
非農家の子どもたちの免疫細胞が排除しようとしたものを、農家の子どもたちのそれは許容したのである。常に微生物と接触してきたことによって、免疫細胞の許容範囲が広がったものと思われる。そして、このことがアレルギー・リスクの低下につながったのだろう。(p152)
衛生革命以降、アレルギーや自己免疫疾患が急増したのは、過度に清潔な環境で育つことで、免疫寛容が獲得されず、大人になったとき、免疫系が何が敵で何が味方かうまく見分けられないからだと言われています。今では体内の微生物生態系(マイクロバイオーム)との関係も含めて、理論が再構築されていますが、言わんとしているのはほぼ同じです。
わたしの場合、幼児期からさまざまなストレスがかかったことで、ある意味、逆境に対する免疫寛容が起こっているんでしょう。本当なら、ストレスに対して起こるはずのパニックや痛みの反応が起こりにくくなっている。
逆に大人になってからショッキングな出来事に初めて直面した人は、この免疫寛容を学習していないから、激しいPTSDや落ち込みのような、アレルギー反応にも似た苦痛を味わうことになる。
細菌に対する免疫寛容と、ストレスに対する麻痺を同等に置いて論じていいのかはわかりませんが、前回書いたように、わたしたちの身体は、肉体的なストレスと心理的ストレスを区別していません。わたしが乳幼児期に感じただろう苦痛は明らかに感覚的なものであり、「心の苦痛」などではありません。ラヴィーンが述べていたように、たとえ体内に入った細菌のような生物学的なストレスでも、危険だと判断されれば、身体は「凍りつき」(解離)という反応で対処しようとします。
興味深いのは、免疫寛容もまた、幼少期に学習しないと獲得できないと言われていること。解離の学習に、生後2年ほどの臨界期があるのと同じです。人生のごく早期に細菌に触れた場合にそれに過敏に反応しなくなるように、人生のごく早期に逆境に置かれた場合、やはり逆境に反応しなくなり麻痺してしまう。どちらも、生まれてすぐの時期に経験することで、神経系が、その状態が「普通」だと学習するんでしょう。
だから、わたしの場合、もし幸運だったことがあるとすれば、物心ついてから初めて逆境を経験したり、成人してから凶悪犯罪に巻き込まれたりしたわけではなく、生まれてすぐからさまざまなトラブルに巻き込まれていたことです。そのおかげで、プロスペクト理論が言うような大きな「変化」を経験せず、最初からほぼ解離して当たり前になっていたので、何が起こってもあまり落ち込まないし、冷静な思考を保てるわけです。
わたしはたぶん、生きていることの本当の喜びや幸福を知らないはずですが、どうせ失われて粉々に砕け散ってしまうのなら、最初から知らないほうがまだ幸せなんじゃないだろうか。
解離が働くのは幸せなこと
わたしは自分とは逆に、解離が働かないためにひどい苦痛を味わっている人たちを大勢見てきました。
わたしの同い年の友人のひとりは、ひどいパニック障害や不安神経症を抱えています。常に愛情の不足に敏感で、だれかに期待しては裏切られることを繰り返し、決して満たされないままでいます。
生い立ちを聞いてみると、わたしよりひどい家庭環境で育ったようでした。しかし、よくよく聞いてみると、幼少期は家庭に問題がなく、小学校ごろからひどい状況に置かれたようでした。乳幼児期の解離を学習できる期間には幸せだったために、解離という保護なしに、ひどい子ども時代を送らねばならなかった、ということだと思います。
もし解離を身に着けていれば、それらの苦しみはすべて麻痺し忘れ去られてしまったはずですが、その保護がなかったせいで、絶え間なく続く不安やうつにさらされることになりました。もちろんわたしは絶え間なく続く解離のせいで強い疲労があるわけですが、友人の状況を見ていると、破壊的な感情的苦痛にさらされるよりは、自分のほうがまだましだと思えます。
別の友人は、強いアスペルガー症候群を抱えていて、ケンブリッジのアスペルガー指数テストで初回40点超えを叩き出したくらい典型的すぎる人ですが、子どものころから複雑骨折並みにトラウマを経験してきて、今ではひどいPTSDです。
生まれたときから感覚過敏だったはずなのに解離を学習していない理由はよくわかりませんが、これがさっき書いた順化が働かないということなんだろうか? 解離とボリューム調整はちょっと違う気がするんだけど。
あるいは男性のアスペルガーだからかもしれません。解離が強いアスペルガーは、ほとんどが女性なので、何かしら性差が関係してそうです。あるいは解離傾向が強くない家系なのかもしれない。
小児期トラウマがもたらす病 によると、女性ホルモンのエストロゲンの影響が強い人は、免疫系の反応が強く、反転して解離を起こしやすいとされていました。反対に男性ホルモンのテストステロンは免疫系を抑制するので、ストレスがかかっても闘争・逃走反応(コルチゾール上昇)の時点で止まって、限界を超えて凍りつき・麻痺に反転する(コルチゾールが低下)までは至らないのかもしれない。(p147-148)
定型発達者の男性ならともかく、自閉症の男性は「超男性脳」と言われるくらいだから、男性ホルモンがかなり優位なんでしょう。だから、アスペルガー症候群で慢性的な解離を起こすのはほとんど女性に限定されている、のかもしれない…。確証はないですが。
彼の場合も、常にパニック状態で生活していて、冷静に考える余裕さえないようなので、客観的に見ていると、とても気の毒になります。やはり解離できるのは、わたしにとって保護なのだ、と思わずにはいられません。
あるいは、何度か書いているように、強烈な線維筋痛症の人たち。人間を襲う言葉を失うような難病は数あれど、想像を絶する苦痛をもたらす病気のひとつは間違いなく線維筋痛症でしょう。身近にも何人か線維筋痛症の人はいますが、わたしが思い出すのは、日本の線維筋痛症研究の第一人者的存在の西岡久寿樹先生が、自分がこの道に進むきっかけになったと語っていた患者のエピソードでしょうか。
NHKのニュースの中で語っていましたが、最初の患者は20歳の女性。あまりの激痛で爪も切れないので、伸び放題の髪や爪、お風呂にも入れない状態で診察室にやってきました。先生は全身麻酔下で爪を切り、身体を洗うなどの処置をしましたが、結局その女性は自殺してしまいました。
わたしには想像もつかないけれど、もしわたしに解離という脳内オピオイドの慢性的な痛み止めが働いていなかったなら、そうなっていたのかもしれない。ほんの乳幼児期の2年ほどの経験の差が、わたしと彼女の症状を分けたのかもしれない。
そのほか、解離が働かない人に共通しているのは、自分は孤独だという寂しさでしょう。さまざまな境遇の人と話してきましたが、わたしのような「寂しさを感じたことがない」、という人は身近にはいませんでした。
わたしは物心ついたころから、いつどこにいても、自分は複数で、だれかがそばにいるという安心感があります。この安心感は、家にいるときも、知らない道を歩いているときも、人里離れた山に登っているときもいつでもついてまわっていますが、冷静になって自分の状況を考えてみると、これほど奇妙な感覚はありません。どう考えても催眠がかかっています。
この安心感が生じたのはいつからか覚えていませんが、少なくとも小学3年生のころ架空の友人がひとりでに現れたときにはすでに複数でした。その後どんどん数が増えていって、巨大な内的世界が誕生しました。近年はかつてほど具体的ではなくなってきましたが、自分は複数いるという根拠のない催眠だけは失われていません。
わたしが本当の孤独や寂しさを感じるのは、たまに見る夢の中だけです。夢の中でわたしは親や友だちからはぐれてたった一人ぼっちになり、ときには大声で泣き出して、恐怖と孤独の中で目を覚ますことがあります。でも起きてしまえば、一人じゃないと感じるのでホッと安心します。
それらの夢の中でわたしは、きっと解離が働いていない人が日常的に経験する寂しさを体験しているのでしょう。夢の中で解離が働かなくなり、潜在的なトラウマを再体験するということはよくあるからです。 脳は奇跡を起こす に出てくるLは、夢の中でだけ解離された感情を感じられました。
興味深いことに、Lがよく見ていた夢も、Lの主な問題は記憶にあったことを暗示している。Lは、なにかわからないけれども、なにかを捜していた。もし見つけたら、それがなにかわかるだろうと言っていたのである。(p282)
最新の脳スキャンで、夢を見ているときには、感情や性的本能、生存本能、攻撃本能などを処理する脳内の部分がひじょうに活発になっていることがわかった。同時に、感情や本能を抑制する前頭前野は、それほど活発に機能していない。
夢を見ているときは、本能が表にでてきて、あまり抑制がかからない状態なのだ。それで、ふだん意識にのぼらない衝動を顕在化することができるのである。(p283)
夢で見ることすべてに何か意味がある、というのは誤りですが、夢は断片的な手続き記憶を活性化するので、その中には未処理のまま凍結されている記憶の断片もあります。ふだん起きているときは強力な前頭前野の抑制機能によって解離されている感情や感覚です。
もし、わたしが夢の中で感じるあの孤独感が、解離の働かない人たちが日常に感じる感情なのだとしたら、パニックになって打ちのめされるのも無理はないと思います。あんな絶望しかない世界をわたしは生きられるとは思いません。わたしの場合は夢から覚めたあとに、夢の中での気分を思い出してぞっとするだけですが、解離が働かない人にとっては、決して覚めることのない日常の世界なんですから。
だから、わたしの唯一の望みは、健康になることでもトラウマを癒やすことでもなく、単に、わたしが死ぬその瞬間まで解離が持続してくれることだけです。わたしがSEに行くことにしたのは前に書いたように、解離の麻痺効果が衰えてきて、過去の影響が表面化しつつあるように思ったからでした。SEを通してトラウマ(アクセル)の影響を弱め、解離(ブレーキ)によってカバーできる範囲に落とし込めたら、健康にならなくてもそれで十分に満足です。健康なんてものを知らないんですから。
サックスが左足をとりもどすまでの中で書いていた嗜眠性脳炎の患者みたいなものです。
私は「覚醒」するまで何十年も病院に収容されている患者たちと、よく話をしたものだ。閉じ込められていると、強く感じているのではないか。無性に外の広い世界に出たいとは思わないのか。そうたずねると、彼らは物静かに「思わない」と答えた。
…今わかったことは、そのような退行が普遍的なものだということだ。それは、いかなる「移動不能状態」、病気、幽閉においても起こりうる、存在の自然な萎縮であり、避けることはできない。そのうえ直接認識されないため、耐えることはできるが、治療することはできないのである。(p192)
これらの人は健康だったころの自分をもう覚えていなかったために、健康な自分を想像することもできなくなり、かつてのような生活に戻りたいと「思わない」ようになりました。閉じ込められた生活に順応してしまったのです。
わたしの場合は、もともとそれを体験したことがないので、彼ら以上に健康な自分になりたいと「思わない」のでしょう。かつて慢性疲労症候群の治療を受けていたとき、わたしはずっと戸惑っていました。もし治療が成功したところで、わたしはいったいどうやって生きていけばいいのだろう? たいていの患者にとっては、健康になるとは、元の自分に戻るということです。わたしの場合、確かに発症前はもっと元気だったとはいえ、もともと何かがおかしかったので、健康だったかと言われるとどうもしっくりきませんでした。
その理由がはっきりしたのは小児期トラウマがもたらす病 を読んだとき。もともと健康でもなんでもなかったのです。最初から普通と違っていたのが、思春期のシナプス刈り込みの時期に表面化しただけだったのです。わたしの運命は生後数年間に決まっていたし、最初からわたしは健康な普通の生活なんて経験したことがなかった。だからわたしは一見、子ども時代健康そうに見えたものの、生きるとは何を意味するのかまったく理解していなかった。ひとたび慢性疲労に陥ったあとも、健康になるとはどういうことなのか、想像することさえできなかった。一度も経験してないんですから。
これは裏を返せば、プロスペクト理論的に言えば、もしも完全に健康になれたら、世界があまりに変わりすぎてびっくりするんでしょうね。かつて知っていたものを取り戻すのではなく、今まで経験したことのないものを味わうという意味で。
しかしながら、中途半端に解離だけが取り除かれたりすると、悪い意味でびっくりすることになるでしょう。それはずっと自分を覆ってきた保護だけが取り除かれて、今まで経験したことのない苦痛と向き合うことを意味しているわけですから。
次回 書くように、セラピストとはその部分をしっかり話し合ってますし、セラピスト側もSEの専門家として解離が保護となっていることはちゃんと認識していて、だからこそとても慎重です。
目的は解離を取り除くことではなく、自分の状態を把握し、柔軟に自分をコントロールしていくスキルを育むこと。それを意識しつつ、これからもセラピーに取り組んでいきたいです。次のセラピーに行くまでに、記憶が失われないうちに三回目のセラピーの出来事を書かないと…。
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