SE体験記の五番目。前回の(4)はSEとは全然関係ない自分の話ばかりでしたが、今回は3回目のセラピーの内容を書こうと思います。
今までのシリーズは全5回ほどにまとまっていましたが、今回はもっと長く続きそうな予感ですね。わたしのやる気と体力が持てばの話ですが。
パニックになりかけるがならない
三回目のセラピーに行く道すがら。駅まで行って気づいたのは、前回までどんなルートで通ったのかまったく記憶にないことでした。幸い、目的地の駅は覚えていたので、たぶんこんなルートだろうな、と思って行ってみる。
ところが、途中、電車の中でまたもや時間がワープして、自分が知らないところにいるような感覚に襲われる。もしかしたら駅を降り過ごしたんじゃないだろうか。立ち上がって車内の路線図を見てみると、まだひとつ前の駅だったのでホッとしました。しかし、この時点で、待てよ、このルート、もしかしたら初めて来る場所なんだろうか、と思い始める。
乗り換え駅に着いてみると、見覚えがなさそうな景色。とりあえず目的の路線へ向かうがやっぱり来たことがない駅だ。なのに、時間のほうはかなりギリギリで切羽詰まっている。乗り換えきっぷを買う券売機の前で、本当にこれで合っているのか路線図を確かめる。だけど、自分が今どこにいるのかがわからない!
このとき、わたしにしては珍しく、頭に血が上って我を忘れかけました。頭が真っ白になって、まわりを見回す。でも、いったい何をすればいいのかわからない。どこを見ればいいのかもわからない。
だけど、もう一人の自分がささやきます。落ち着いたら大丈夫だ。落ち着いて考えれば切り抜けられる。だから冷静になるんだ。
本当に頭が真っ白になっているとき、理性を引き戻すのは普段思うよりはるかに意志力が要るものです。でも、わたしは無理やりにでも意識を引き戻して、今やるべきことを考え、集中力を取り戻すことができた。まず今自分がどこにいるのかを、周囲の情報を総合して判断。次にやるべきことを理性的に組み立てて、ひとつひとつ解決していく。こうして無事に判断力を取り戻して、目的地へと向かうことができました。
たかが電車の駅でパニックになりかけるとは、わたしにしては信じられないことです。ここ数日、急に暑くなってきて体調が乱れているせいなのか、中枢神経刺激薬をちょびっとしか飲んでないせいなのか、はたまた最近進行している体調の悪化のせいなのか、それともセラピーに通い始めたことが影響しているのか。はっきり言ってなぜなのかわかりません。
わたしの身に起こったのは、急に焦ったせいで交感神経が興奮して、頭がフリーズしかかったということ。ここで圧倒されてしまい、扁桃体が感じる恐怖が前頭前野の抑制機能に競り勝ってしまうと、パニック状態になります。わたしみたいな解離の抑制機能が強い人はパニックが起こりにくいはずなんですが、やっぱりなぜか抑制機能が弱まっているようです。
そういえば、超強力な解離の持ち主で、過去の壮絶な体験を封じ込めていた私の中のわたしたちのオルガ・トゥルヒーヨが、自分の過去と向き合わざるを得なかったのも、30歳ごろにパニック発作が出始めたからだった。わたしもそうなってしまうんだろうか。
駅で突然自分がいるところがわからなくなる、という体験は私の脳で起こったことの著者がレビー小体型認知症の経験談として書いていたことと近いけど、たぶんそちらではないでしょう。(レビー小体型認知症と解離は年齢層は違うものの妙に症状は似ているので、原因は違うとしても、脳の中で起こっているメカニズムの一部が重複しているような気はしますが)
だけど、幸いだったのは、少なくとも、今のわたしはまだ、パニックになりかけても、自分を取り戻せるだけの抑制機能を持ち合わせていたこと。伊達に解離が強いわけではない。それに、こんな経験をしたのは初めてではありません。
パニックになりかけた瞬間に思い出したのは、高熱で気を失った後、ふと気づいたら知らない場所にいる感覚と似ているということ。どちらも意識が一瞬途切れて見当識障害に陥るという点では同じです。高熱で見当識障害になったとき、やっぱり一瞬焦って自分がどこにいるか混乱しますが、毎回冷静になって情報を統合すればなんとかなるのを経験していました。
学生時代のテストでも、やたらと難しい問題に当たると、解けなくてパニックになりかけますが、そこで冷静さを失ったら負けなのを知っていた。幾度となく、理性的な思考を引き戻して冷静さを取り戻す成功体験を積み上げてきた。親指をざっくり切断しかけたとき、一瞬頭がまっしろになりかけたけど、すぐ冷静さを取り戻して何食わぬ顔で病院に行ったこともあった。
近年だと、とあるゲームの30周年記念コンサートに行ったとき(まだ数年前は行ける体力があったんですが)、時間ギリギリだというのに乗る電車を間違えてしまって、頭がまっしろになりかけたけど、冷静にルートを判断して、開演2分前に滑り込んだことも。それとか、リアル脱出ゲームで、時間切れまであと10分の時点でほとんど問題が解けなくて絶体絶命に追い詰められたけど、最後まで集中力を保って、残り1分でクリアしたこともあった。もっと元気なら趣味にしていたに違いない。
どれも大した経験ではないけれど、経験を手がかりに芋づる式に振り返ってみた感じでは、わたしはやっぱりパニックになりかけるけどならない人みたいなので、今回の経験も、結果的にパニックにならなかったことを記憶しておくべきなのかもしれません。感受性が強いから、わりとささいなことでも圧倒されるけど、そこから復旧する力もある。アクセルもブレーキも両方強い人なんだきっと。
今回も、セラピーに遅れかけはしましたが、ぴったりの時刻に着きました。30周年記念コンサートならともかく、どうして今回あんなに焦って我を忘れかけたのかだけは謎ですが。駅のルートがわからなかったとか、時間が切羽詰まっていたとかいうことよりも、単に意識が飛び飛びになって見当識障害に陥ったことが原因のような気はします。前々回に書いたような、時間が飛ぶ現象が最近増えていて、外出時にも起こってしまったせいではないかと。
境界のセラピー
ぎりぎり間に合った三回目のセラピー。まずは前回からの変化などを尋ねられましたが、やっぱり訊かれても思い出せません。こうやって感想を残したりしているはずなんだけど、何を書いたかは思い出せない。具体的に質問されれば記憶がつながることもあるんですが、やはり記憶想起の問題がある様子。やっぱり過去の出来事の記憶を問われるより、今現在リアルタイムで自分を分析していることのほうが答えやすいですね。
今回のセラピーでは、まず場所を変えてみるのはどうか、と提案されました。今までと椅子の位置やセラピストのいる位置を変えて、反応の変化を調べてみましょう、とのこと。
まず椅子の位置については、わたしは試しに、窓に背を向ける位置を選択。まぶしくないほうが集中できるかと思ったんですが、もともと適度な明るさに調節されている部屋なので、主観的にはそれほど変化がない気はしました。
すると、セラピストはわたしの変化を観察するためにわたしの左斜め前に座りました。しかしいつもの場所に比べて狭かったので、なんとなく近い。わたしから1.5mくらいの場所でしょうか。そのとき、ふと、なんだか身体に強い不快感を感じました。だけど、セラピストとの位置の近さのせいか、別の要因かはわからなかったので、ひとまず観察してみることにしました。
それから、前回までのような腰に片手を当てて、内面の感覚に集中するワークが始まりました。ところが、最初の時点から、左足がズキズキ痛みはじめる。いざ内面の感覚に集中すると、全身がぞわぞわして、ひどい不快感に襲われる。セラピストに伝えると、それでは繊細な感覚に集中できないので、一度目を開けて落ち着きましょう、と外部の感覚へ注意を誘導されました。
セラピストは、今までと違うこの感覚に、何が関係していると思うか尋ねてきました。場所、明るさ、座っている椅子の座り心地、そしてセラピストの位置など。わたしは迷わず、セラピストの位置ではないか、と答えました。そして、セラピストが最初に位置を決めた時点で、すでに予兆があったことを話しました。もちろん、セラピストを信頼していないとか不安に思っているというわけではないこと、理性的にはわかっていても、感覚として生じていることを付け加えました。
セラピストは意図を汲んでくれて、今回はいつものセラピーより、バウンディングのワークをやってみるのがいいかもしれない、と提案してくれました。バウンディング(bounding)とはすなわち「境界」のことです。他人との距離感が身体にどのような変化をもたらすかを調べることになりました。
まずは、廊下を使って、セラピストが遠くに離れていくときの身体の変化を観察しました。すると、セラピストが離れていくのと比例して身体のこわばりが楽になり、セラピストが一番遠くに行くと、自然と大きく息を吐いて、張り詰めていたものが和らぐのを感じました。しかし、セラピストが再度近づいてくると、緊張が戻ってきました。
この経験を通して、トラウマと身体に書かれていたエピソードを思い出しました。
セラピストとの間の距離を自分でコントロールする体験をして、なぜセーターが自分を脅かしたのかがわかったことで[※注 この日セラピストが来ていたセーターが加害者の服装に似ていた]、ジェニファーは再び身体感覚を感じられると報告し、凍りつきに関連する身体の緊張が大変な苦痛であることに初めて気づきました。
…ジェニファーは凍りつき反応は、自分にとって個人的な境界線が必要だと伝える身体からのコミュニケーションであったと理解したのです。(p231-232)
思えば、わたしがエレベーターに乗るのが大嫌いな理由や、学校の教室のような人がひしめいている部屋が極端に苦手な理由はここにあるのかもしれません。
エスカレーターに乗ったり、地下街を歩いたりすることにはさほど抵抗がないことからすれば、おそらく、〈逃げ場のない密閉された空間で、他人が近くにいること〉に強い緊張を感じるんでしょう。
わたしは、身体はトラウマを記録するの中で、ヴァンデアコークがとった次の行動が印象に残っているんですが、それは自分もそうした配慮を必要とする人間だからなのかもしれません。
アニーは足をひきずって診療室に入ってくると、立ち尽くした。息をしているかどうかもわからぬほどで、凍りついた鳥のようだった。まず落ち着かせてあげてからでないと、何もできないのは明らかだった。
私はアニーとドアの間をふさがないようにしながら、二メートル足らずの距離にまで近づき、少し深く呼吸をするように促した。(p435)
「アニーとドアの間をふさがないようにしながら」。この一文がとりわけ印象的でした。
目をえぐり出したいむずむず感の謎
それから、わたしは強い目の違和感が起こっていることを話しました。わたしは普段から、他の人と近い距離で会話していると、しばしば、眼球にぞわぞわと不快感が起こり、焦点が合わなくなって、目をえぐり出したいような不快感が起こります。そんなとき、近くの物に焦点が合わないので、遠くの物をぼんやり見ているほうが楽です。今まさにそんな状態にありました。
この現象は、だれか他人と会話するときに起こりやすいとはいえ、他のストレスのかかる作業、たとえば読書などでも起こります。いずれの場合も、しっかり集中することができれば、違和感を感じにくくなります。
必ずしも目に限定されるわけではなく、首すじをはじめ、今回のように体中の内側に言葉では表現しにくい不快感(たぶんむずむず脚症候群の患者が訴える感覚と似ている)が起こりますが、目の症状がひときわ強いのは確かです。
わたしは、全身至るところに異常があるとはいえ、特に目にさまざまな症状が集中しています。極度の明るさ過敏、奇妙な不快感、眼球の重だるさや痛み、焦点が合いにくくなる、相貌失認…etc
どうして目の不快感が強いのか。はっきり言ってよくわかりませんが、トラウマ関係の症状は、目に影響しやすいのは確かでしょう。ラヴィーンがトラウマと記憶に書いているように、トラウマの記憶の名残は、目の動きに残されやすい。
目の動きは、定位反応の重要な要素である。大きな音であれ、足音や森の中で枝が折れるようなほんのわずかな音であれ、何かが聞こえると、われわれの目は、音のする場所を突き止めようとする。
私は、縦、横、丸と指を動かしながら、レイの目が、凍りついたり、驚愕したり、または「焦点が合わなくなる」場所を探した。
…彼の目の反応を観察していくと、左象限の5度から10度にかけての位置で固定されていることがわかった。爆発は左側からのものだった可能性がさらに高まった。私は、レイの目が凍りつくか「焦点が合わなくなる」ところで指の動きを止めた。これは、それぞれ収縮と解離の反応である。(p147-148)
わたしたちは通常、目を通して外部の情報のほとんど(7割とも8割とも言われる)を得ています。
ダニエル・カーネマンが、ファスト&スローの中で、心理学的な実験に、目の瞳孔の変化を取り入れているのはとても興味深いところです。目の瞳孔の変化を観察すれば、心的状態がはっきりわかるといいます。
研究者になって間もない頃、1年ほどミシガン大学で、客員研究員として催眠を研究していた。そして何かおもしろいテーマがないか漁っているうちに、サイエンティフィック・アメリカン誌に掲載された心理学者エッカード・ヘスの論文の中に、「瞳孔は魂の鏡だ」と書かれているのが目に留まったのである。(p49)
ヘスの発見のうち、とくに私の興味を引いたものが一つあった。それは、瞳孔が知的努力を示すバロメーターになる、という指摘である。(p50)
カーネマンはそれ以降、瞳孔を観察することで、実験の参加者の興味の変化や集中の度合いを計測できるようになりました。本人が申告するよりも早く、正確に、心境の変化を言い当てることができるほどでした。目は口ほどに物を言う、いえ口以上に物を言う、というわけです。ラヴィーンのエピソードが示していたように、トラウマを負った人の場合、口が何も語れない場合には、目は口には語れない情報を語りだすことがあります。
さらに脳はいかに治癒をもたらすかに書かれているように、目から得た情報は、わたしたちの脳の変化を導いてもいます。
ヘンシュが述べるように、基本的に「目は脳に可塑的になるタイミングを指示している」のである。
脳の神経可塑性が、視覚刺激に反応して生じる目の変化によっても働きかけられることを示すこの発見は、「脳と心の活動は、身体と切り離しては理解し得ない」という、われわれが提起する核心的な原理の証明にあたって、強力な証拠となる。(p345)
わたしたちはどうやら、目から得た情報に反応して脳を最適化しているようです。それならば、トラウマがもたらす脳の変化のほとんどが、目と視覚を通して引き起こされている可能性は高いでしょう。事実、トラウマによって視覚野が萎縮して、視覚認知能力が損なわれることもわかっていますから。
だからこそ、人間はレム睡眠中の眼球運動を通して記憶を処理するし、EMDRやブレインスポッティング(BSP)みたいな、目に動きを通してトラウマを再処理する治療法があるんだと思います。
目の見えない人の場合は少し事情は違いますが、そうした人も視覚野が聴覚や触覚に割り当てられることがわかっているので、いわば手や耳を通して「見ている」ことになります。
目の見えない人がトラウマを負った場合、たとえばその人にとって目の役割を担っていて、視覚野とつながっている手が、さっきラヴィーンが書いていたような「凍りつく」とか「焦点が合わない」動作を示し、トラウマの存在を雄弁に語るのかもしれません。
目の動きはまた、解離の症状そのものと密接に関係しているかもしれません。たとえば「私」が、私でない人たちの中であるDIDの当事者は、人格交代のときに目の上に痛みが生じると述べています。
誰かが待ちきれなくて無理に出ようとすると額の上の方に痛みのような感覚が生じ、それは移動して目の痛みとなる。この感覚は偏頭痛の軽いものに似ている。身体ををコントロールしている人格は、誰かが無理に出ようとするとこの痛みを感じる。(p171)
この当事者が語っている痛みの場所は、たぶんわたしがよくズキズキしている場所と同じです。眼球の上の隙間の当たりに、さっき書いたようなゾワゾワする不快感とか、偏頭痛ほどではないズキズキした痛みがよく起こります。
ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピー の中で、これは解離と関係する凍りつき反応の特徴のひとつだと述べています。
『レナードの朝』『妻を帽子とまちがえた男』『サックス博士の偏頭痛大全』の著者オリバー・サックスは、これらの著作の3分の1を患者たちの切実な発作の描写に費やしています。
偏頭痛は神経系のストレス反応で、トラウマ後の〈凍りつき〉反応に極めて似ており、しばしばトラウマ反応と関連していますが、サックスが報告するある数学者の毎週の偏頭痛サイクルは非常に興味深いものです。(p46)
また解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中には、人格交代のとき、一瞬眠り込むような目の動きが生じるという観察も書かれていました。
解離性同一性障害の患者の多くは、人格交代の際に、目を開けたまま無動状態となり動かなくなる。
次にダラリと力が抜け、眠り込んだかと思うと、再び目を開ける。その時には人格が交代している。(p200)
言い換えると、まず目の焦点が合わなくなって凍りついたようになり、その後一瞬眠って変化するということでしょう。人格交代に先立って偏頭痛や目の焦点が合わなくなるなどの凍りつき反応が起こるのは、ふだん表に出ている人格が凍りついて限界を迎えてしまったとき、別の人格が代役を務めているということでしょう。
ダニエル・カーネマンの心理学の研究から言うと、目の焦点が合わなくなるのは、知的努力をやめてしまった状態だとみなせます。凍りつき状態とは、放心して、あらゆる努力をやめてしまった状態。それが虚空を見つめるようなうつろな目となって現れる。そのままだと意識を消失してしまうので、DIDの人の場合、別人格が代役に出てくることで対処している、ということです。
だから、目の動きと解離の反応には本質的なつながりがある。わたしの場合も、目にさまざまな嫌な症状が出るときは、たぶん背側迷走神経のブレーキが活性化して、凍りつきを起こしているときなのです。
わたしの目の気持ち悪いゾワゾワ感は、たぶんむずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群)に似ていると書きましたが、興味深いことに、ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマの中で、迷走神経の凍りつきがレストレスレッグス症候群と誤診されていた女性の例を挙げています。(p187)
彼女は夜中に腹痛や足のむずむず感に悩まされていましたが、実際には、それは逃げ出したい衝動や怒りを、背側迷走神経のブレーキによって抑えつけていたことによって起こっていました。本当は動きたい身体を、無理やり静止させていたことが、むずむず感の原因でした。
これと似たことが肩の筋肉に起こったヴィンスという人の例も書かれていました。消防士だった彼は、ある時衝撃的な事故現場に出くわしました。事故にあった車の中で、幼い子供の頭がエアバッグで切断されていたのです。
「その子を見るまでは大丈夫だったのです……そういうことをするのには慣れていますから、危険なことをするのは……でもその男の子を見たとき、自分の中のある部分は腕を引き戻してその場から逃げたがっていたのです……吐き気がして……それでもう一方の自分がただそこに残ってなすべきことをした……ときに、自分がしなければならないことをするのが難しいことがありますね」(p234)
このとき、彼の腕は、生存者を救いたいという理性的判断(ブレーキ)と、おぞましい恐怖から逃れたいという本能的判断(アクセル)とのあいだで身動きがとれなくなり、凍りつきました。そして腕は動かせなくなり、慢性疼痛に至りました。
と、ここまで書いたところで。
いま、わたしはこれを書きながらリアルタイムで気づきました。わたしの目や身体の奇妙な不快感、ゾワゾワしたむずむず感もこれと同じものではないかと。
身体は闘いたい、逃げ出したいというアクセルを踏んでいるのに、背側迷走神経で無理やり固定し、ブレーキをかけているときに、このむずむず感が起こっているのではないでしょうか。わたしはずっと前から気づいていましたが、目のむずむず感が起こるとき、必ず反射的に目を背けたくなる感覚が伴います。(10代のころの日記には、この感覚をうまく表現する言葉がないので、「目背感」という造語で記しているくらいです。目を背けたい感覚、という意味です)
目を別の方向にそらしたいのに、無理にコントロールして視線を固定しようとしていることで、アクセルとブレーキが同時にかかっている。すると、あたかも車のアイドリング状態の震えみたいなものが生じて、それが気持ちの悪いむずむず感として認識されているのではないでしょうか。
わたしの場合、中枢神経刺激薬を飲んだら、このむずむず感がマシになるのも体験していました。それは、中枢神経刺激薬がブレーキを強化するからでしょう。衝動的に動きたい、逃げ出したい、目を背けたい、と感じているアクセルに対し、ブレーキを強化して抑え込むことで、症状を感じにくくしていたわけです。
(※以前の記事で中枢神経刺激薬はアクセルを強化すると書いていましたが間違いです。中枢神経刺激薬は前頭前野のブレーキを強化することで、アクセルを踏み込んでも耐えられる耐性領域を拡大することで動きやすくしています。だから、動ける範囲は増えますが、背側迷走神経のブレーキに負荷をかけていることになります。以前の記事は修正しておきました)
わたしが目のむずむず感を強く感じるのは、おもにだれかと会話するとき、そして本を読むときです。どちらの場合も、耐えられないほど不快で目を背けたいという過去の経験の名残なのでしょう。本のほうは、学校での体験かもしれない。人間の顔のほうは…まだこれから解き明かしていく必要がありそうです。今まではあまり意識していませんでしたが、目の不快感が生じる相手と生じない相手がいる可能性があるかも。もしかすると特定の性別や年齢、顔の特徴に反応しているのかもしれません。
わたしは何から目を背けたかったのだろうか。そしてなぜ背けられなかったのだろうか。
フロー状態と島皮質
ところで、わたしのこの目を背けたい不快感や、それに類する全身のぞわぞわした奇妙な感覚というのは、完全に集中して没頭しているときには気にならなくなります。
集中していると奇妙な症状が和らぐ、というのは、解離の特徴なのかもしれません。たとえば 私はすでに死んでいるの中に、離人症についてこんなエピソードがありました。
「それは、病気への対応策で唯一効果があるものでした」とメドフォードは振りかえる。「コートを走りまわり、ゲームの流れに没頭しているあいだは[離人症が]出ないんです。テニスをやめれば元どおりなんですが、それでも本人には大発見でした。病気が絶対普遍ではなく変えられるものだとわかったからです」
ニコラスもドラムを叩いているあいだは症状が和らぐが、それも一時的でしかないという。気分がいいと思った瞬間、病気が戻ってくるのだ。「矛盾してるよ。気分がよくなったと気づいたら症状が出てくるんだ」(p188-189)
わたしの場合も、目の症状だけでなく、身体のさまざまな症状がやはりこのルールに従っています。
この話を読んで思ったのは、オリヴァー・サックスがよく書いているトゥレットの当事者たちとも似ているということ。トゥレットの人たちは、ふだんひどいチックによる衝動的で不適切な行動に悩まされています。しかし、何かに集中しているときは、その不随意運動がぱったり出なくなります。
だから火星の人類学者に書かれているように、トゥレットのプロドラマーばかりか、トゥレットの外科医が何人もいます。チック症状に悩まされる人が外科手術をやるなんてとんでもないと思われそうですが、一度手術に集中してしまえば、彼らは並の外科医よりはるかに優秀なのです。
トゥレットと離人症は、症状こそ違っているとはいえ、意識しているときは奇妙な症状が起こるのに、無意識に集中している状態(いわゆる「フロー」状態)では症状が出ない、という点で一致しています。ふだんは脳にノイズが走っていてリズムが乱れているのに、集中しているときだけ完璧なリズムに戻る、ということなのか。
このときリズムを刻むのに関わっているのは、おそらくドーパミン関連の経路なのでしょう。トゥレットにしても解離にしても、初回に書いたパーキンソン病やADHDにしても、無意識のうちに集中しているときだけ正常なリズムが刻める疾患はたいていドーパミンと関係しているように思えます。
初回のセラピーのときに書いたように、これは能動でも受動でもない状態、中動的な状態の特徴ともいえます。能動的な認知(意識して思考する)のときはもちろん、受動的な反応(感覚による条件反射)でもやっぱり症状は起こります。でも、そのどちらでもない状態、能動的でもなく受動的でもなく、中動的な状態(意識するでもなく何かに促されるでもなく集中し没頭している状態)では症状が起こらなくなります。
ちなみに、 芸術の中動態―受容/制作の基層という本では、言語学における中動態という概念と離人症の関連性が論じられています。哲学的な内容に偏っているので、トラウマ医学を知っている人が改めて考察したほうがよさそうな内容ですが。
なぜ、能動と受動が一体化している、無意識に集中できている中動的な状態、つまりフロー状態で、目の奇妙な症状や、離人症の症状が消失するのかについては、さっき引用した私はすでに死んでいるに重要な手がかりがあります。
この本によれば、「時間が遅くなる、周囲への自覚が過剰になる、すべての本質を了解した確信がある」という特徴を持つてんかんの恍惚発作のときに島皮質の前部が過剰に活性化していることが確かめられているそうです。そして、それと似た特徴を持つフロー状態でも、やはり島皮質が活発になっているのではないか、と推測されている。(p282,290)
前に書いたように、島皮質は、今この瞬間の感覚を味わう「経験する自己」の強さに関係している場所です。感受性の強いHSPの人は、この島皮質が活発であることが研究によって確認されてますし、逆に解離状態の人では、離人症も含めて島皮質の活動が低下していることがわかっています。
もともと島皮質の強い人は、「経験する自己」が鮮明なせいで、衝撃的な体験をした場合、ふつう以上の負荷がかかり、自己防衛のために島皮質の活動を自ら低下させてしまう、それがHSPの人が解離しやすい理由ではないかと書きました。ブレーカーが落ちやすいということ。
しかし、我を忘れて集中しているフロー状態では、島皮質の活動が強くなることからすると、わたしみたいな解離している人でも、何かに集中しているときは、島皮質が活性化して、解離が和らぐ、ということを意味している。離人症だけでなく目の不快感も解離から来ているものなら、島皮質が活性化すれば、気にならなくなるのは当然ですよね。
この本によると、島皮質はさまざまな感覚を統合する役割を果たしています。
痛みと温度の研究をきっかけに島皮質に注目したクレイグは、自己意識の理解にも島皮質が欠かせないと考えている。怒りから性欲、飢え、乾きに至るすべての感覚で、前部島皮質と前帯状皮質の活動が高まることは、すでに多くの研究が示している。
クレイグはこうした研究も踏まえて、説得力にあふれる仮説を立てたー人間の全感覚の責任は前部島皮質にある。前部島皮質は、身体の生理学的状態を主観的に自覚するための神経基質であり、外部刺激、内部刺激、活動動機の表象が起きている状態を、前部島皮質が統合しているのだと。(p286)
完全に集中しきったフロー状態や、スポーツ選手のゾーン状態、てんかんの恍惚発作などでは、この感覚を統合する島皮質の活動が飛躍的に高まるので、感覚のエラーがなくなり、自分は世界と一体となったという気持ちになります。逆に慢性的な不安や集中困難を抱える人では、島皮質の感覚統合がうまくいっていないらしい。
2006年、マーティン・ポーラスとマリー・スタインの二人は、慢性不安は前部島皮質が機能不全を起こし、通常より予測エラーが増えることが原因だとする説を発表した。
それと正反対のことが起きているのが恍惚発作かもしれないとピカールは考える。前部島皮質に電気の嵐が発生して誤作動を起こし、予測エラーがほとんど、あるいはまったく出なくなった状態だ。そのため世界に問題は何ひとつなく、すべてが理解できるという絶対的な確信感が生じるのである。(p292)
フロー状態のときは、「すべてが自動で行われるようになると、ある意味自我はなくなる」、つまり「自己と世界の境界が消えて一体化する」感覚を覚えます。
わたしたちはどうやら、島皮質の感覚統合の際の予測エラーの量で自他を区別しているようです。予測エラーが少なければ「自分」の行動だとわかりますし、逆に多ければ「他人」の行動に思えます。
島皮質が過剰に働いて、予測エラーがなくなれば、すべてが自分の行動の一部のように思えるので、完全にコントロールされたフロー状態やスポーツ選手のゾーンが引き起こされます。自分と世界の区別がなくなるので、能動や受動といった区別がなくなります。これが「中動」的な状態になるということ。もちろん、いつもそうだと自他の区別がつかなくて大変なことになるので、島皮質の活動は適度が望ましいんでしょう。たまにフロー状態を経験できるくらいが理想。
逆に、解離状態や離人症では、島皮質の活動が低下するので、感覚をうまく統合できなくなり、自分は世界から阻害されていると感じます。これはフロー状態の対極であり、チクセントミハイは「心理的エントロピー」と呼んでいました。身体感覚もうまく統合できなくなるのでエラーやノイズがたくさん入り込み、「身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめきを覚えます」。(p292)
つまり、わたしの目や全身のざわざわ、むずむずするような不快感は、何らかのトリガーや過剰な刺激によって島皮質の活動が低下して起こる、「心理的エントロピー」状態の解離症状のひとつではないか、ということになります。だからこそ、集中しきってフロー状態になれば、島皮質が活性化して解離が解除され、不快感も気にならなくなるというわけです。
むろん、関係している場所が島皮質だけ、ということは絶対にないので、ここで書いたのはあくまで単純化した話です。
身体性フラッシュバック
話が脱線しましたが、セラピーの続きに戻ります。さっき書いたように、わたしは「境界」のセラピーを通して、自分の身体が、明らかにセラピストとの距離に反応していることを知りました。それは空間的な位置関係と言ってもいい。
距離の近さに比例してわたしの身体に起こっていた症状は、おもに左足の痛み、目の奥や全身のゾワゾワする不快感などでした。このうち、ゾワゾワする不快感については、すでに書いたとおり、本当はそこから逃げたり目を背けたりしたいのに、その場にとどまっていることからくるものだろうと思います。
左足の痛みについてはどうか。この痛みは二年ほど前から顕在化したものです。昔から足には違和感があり、10代のころには、足が自分のものでないかのような夢を頻繁に見ました。
オリヴァー・サックスが、左足の大怪我で、左足の神経が解離状態になって、自分の足が自分のものではないかのように思える一過性の身体同一性障害(BIID)になったときに見た夢を 左足をとりもどすまでに書いていますが、それとよく似ています。
ひどくグロテスクでふしぎな、見たこともないような夢だった。…夢というより、変化のない生理的現象が繰り返しおこっているようだった。すべて足の夢だった。足ー足にして足にあらざるものの夢。
夢のなかではギプスはなかまで石膏がつまっているか、足そのものがチョークか石膏、大理石などの無機質でできていた。…ギプスの内側が完全に中空のこともよくあった。チョークのような外側の殻はあるが、中はからだ。足が霧でできていることもあった。霧でできていても動かず固定したままだ。最悪だったのは、足がまっ黒な影だったときだ。ありえないことだが、「無」でできた足というわけだ。
どの夢も、背景や場面に目立たない変化はあるものの、いつも同じだった。中心にあるのは、固定した、実態のない、虚空の何かである。(p107-108)
サックスによれば、こうした夢は、手足が切断された患者たちなどがよく見る「神経学的な要因によるもの」だそうです。でも、わたしはこのエピソードを読んだとき、これが10代のころから見ていた奇妙な夢、足が石化するように動かなくなって歩けなくなりその場に倒れ込むという、幾度となく限りなく繰り返されてきた悪夢と同じものだと気づきました。
わたしの場合は、足を切断するような大怪我を負ったことはない。しかし同じ症状が出ている。それは、文字通り足の大怪我を負ったわけではなくても、何か足の感覚を解離させなければならないほどの恐怖を経験したからでしょう。
わたしの足の違和感は、左足のほうが強いとはいえ、右足のほうにも似た症状が出ています。そしてこの症状は、寝転んでいるときや座っているときに強くなる。特に数年前からは、左足の筋肉をわしづかみにされてねじられるような奇怪な感覚もあります。勝手に足の筋肉がピクついたり、鎧のように固まったりもする。(このせいで一時はALSなどの神経疾患の前兆ではないかと疑ったほどです)
しかし、今回みたいに、座っているときの他の人との距離感で足の痛みが変動する、というのは初めての気づきでした。近くに人がいること、足がひねられること、寝転んでいること、などが関係する強烈な体験が過去に何かあったということでしょう。でもこれ以上は憶測しないでおきましょう。わたしもわからないので。過去の断片的な身体記憶から何が起こったかを推理するのは、虚偽記憶に陥りやすいので危険です。
わたしのこの症状は、いわゆる「身体性フラッシュバック」と呼ばれるものです。フラッシュバックというと、突然トラウマの映像が頭をよぎるような現象だと思われがちですが、正確には違います。
フラッシュバックするのは、右脳に保存された断片的な記憶であり、それが視覚的なものだとは限りません。身体はトラウマを記録するに書かれているように、わたしたちの右脳は、空間に散らばるさまざまな要素を断片的に記憶しています。
右脳は音や声、触感、匂い、それらが喚起する情動の記憶を保存する。また過去に見聞きした声や目鼻立ち、仕草、場所に自動的に反応する。
右脳が思い起こすことは、直感的な事実、すなわち物事の実際のありようのように感じられる。(p82)
この右脳に保存された断片的な記憶が、何らかのトリガーとなる刺激によって自動的に再生されてしまうのがフラッシュバックです。
ちょっとした匂いや印象などを手がかりに、それと結びついたさまざまな断片が条件反射として呼び起こされます。人間の感覚の中で最も優勢なのは視覚なので、視覚の断片的な記憶がフラッシュバックしやすいのは当然です。でも、幻聴のような聴覚性フラッシュバックが起こることもありますし、わたしの場合の左足がねじられるような感覚や、目を背けたくなるような反射のような、身体性フラッシュバックもあります。
ラヴィーンはトラウマと記憶でこう書いています。
楽しい記憶、あるいは厄介な記憶でさえも、通常は理路整然とした物語として整理され、思い出すことができるのに対して、「トラウマの記憶」は、感覚や感情、イメージ、匂い、味、思考などの意味不明な断片として沸き起こってくる。
たとえば、自動車事故による火災から生還した人は、ガソリンスタンドで給油中にガソリンの匂いを嗅いだときに、突然胸がドキドキしはじめ、激しい恐怖および逃げ出したい衝動に襲われる。
これらの混乱した断片は、整理された物語として出てくるのではない。個人の意思にかかわりなく、断片的な侵入的イメージや、身体症状として突然「再現」され、「再体験」される。(p18)
いつだったか杉山登志郎先生の本で、親に首を絞められる虐待を受けた女の子が、その話題になると、うっすら首に手の跡が浮かび上がってくる、といった話を読んだ記憶があります。そのときは、著者の杉山先生自身がフラッシュバックと感覚記憶の性質についてよく理解していなかったらしいこともあり、わたしとしてはなぜそんなことが起きるのだろう、と不思議でした。
しかし今となっては意味がわかります。首を締められると肌が赤くなるのは、身体の筋肉や組織が直接反応しているからではありません。そのとき身体から脳にフィードバックが送られ、脳が緊急事態だと判断して身体に炎症性物質が送られます。脳は、そのときの対応と、攻撃された場所とを、手続き記憶としての脳の地図に保存します。
初回の記事に書いたように、脳に身体の感覚地図がある、という研究は今や幻肢痛や拒食症、線維筋痛症、離人症などの研究にはなくてはならない概念です。これらの病気はいずれも、文字通りの肉体としての身体に異常がないのに、脳が作り出す身体の感覚地図のほうに異常が起こることで、存在しないはずの強烈な感覚を感じ続ける病気だからです。
わたしの友人のある女性は、がんの外科手術のあと、すでに傷は完全にふさがっているのに、手術した部分が痛むと訴えていました。医者のほうは手術はうまくいったのだからと門前払いでしたが、痛みが身体の組織ではなく、脳の身体地図によって引き起こされているという知識を、外科医が少しでも持っていればそんな対応にはならなかったでしょう。身体(ハード)が治っても脳(ソフト)がそれを覚えている限り、身体症状は起こり続けるのです。
過去に首を締められた話をするだけで、今まさに首が絞められているいるかのように肌が赤くなったり息苦しさを感じたりするというさっきの話も、そのときの身体の反応が脳の感覚地図に保存されていて、何かのトリガーによってその身体記憶が活性化されることで起こる、身体性フラッシュバックだとみなせば、不思議なものではありません。
ラヴィーンもトラウマと記憶の中で、似たような例について書いていました。
一連の動きをしていると、突然ペドロの首と肩が痙攣した。そして休息に入ると、ペドロは足に穏やかな震えを感じた。これが「放出」である。また、両肩の上から、不快でひどく焼け付くような熱が出ていくと彼は言った。
後から母親が教えてくれたが、この「身体の記憶」は、子供の頃の三回目の落下による裂傷の位置と一致するそうだ。(p89)
この裂傷ははるか過去のものであり、傷跡は残れど、肉体そのものはすでに完治していました。しかし、そのときの痛みや感覚は、脳の感覚地図に保存されていたので、怪我が治った後も同じ場所に痛みが起こりました。
わたしの場合も、セラピーのときの何らかの刺激がトリガーとなって、過去に経験した身体の記憶の断片が呼び覚まされ、左足の痛みなどの身体性フラッシュバックが起こったとみなせます。
空間をつかさどる脳
わたしの症状の変動には、セラピストの空間的位置も関係していたのでしょうか。たとえば、セラピストが左斜め前に座ったことと、左足の症状が強く想起されたことは関係しているのでしょうか。
このまま会話を続けるか、それとも座る場所を変えるか訊かれたので、わたしはいつもの場所に戻ることにしました。このままの場所で会話を続けたら、この全身の不快感が条件付けされてしまうと思ったからです。この嫌な感覚が、セラピストやセラピールームと結び付けられて記憶されてしまったら、セラピーを続けることに無意識の抵抗が起こってしまうかもしれません。
わたしとセラピストがいつもの場所に戻ると、一瞬にして、左足の痛みは和らぎました。悪夢から覚めたように印象ががらりと変わり、わたしは瞬時にすっかり落ち着きました。今から思えば、セラピストとの距離のような要素以外にも、何かあの空間そのものに、過去の記憶を無意識に想起させる要素が含まれていたのかもしれません。
わたしは以前マインドフルネスをやってるとき、身の毛もよだつような恐ろしい感覚を伴う、どこかの「廊下」の視覚的なフラッシュバックを体験したことがあります。その場面と似ていたのでしょうか。何か、目を背けたいほど不快なものがそこにあったのでしょうか。いや、憶測はやめておこう。
わたしが今回の体験を通して思い出したのは、トラウマと身体に載せられていたこのエピソード。
大学2年生のラッセルは、クリスマス休暇に実家に帰ろうと思っていましたが、父親の顔を見なければならないことが心配になり気になって仕方なくなりました。父親は子ども時代にくり返し彼を殴っていたのです。
セラピストはラッセルに、立って、セラピーのオフィスにあるものの中から父親をあらわすものを選ぶようにいいました。ラッセルが対象物を選んだときに、セラピストは実験してみようといい、最初はその対象を避けるようにして、次にゆっくりと向きを変え対象に向き合い、身体の内で何がおきるか気づくように言いました。
ラッセルの動きはぎくしゃくしだしました。背骨はたわみ、身体の上部はねじれて、あらぬ方向を向きました。向きを変えて、「父」に顔を合わせようとしていたのに、です。彼の動きは無力な、打ち負かされた姿勢の典型でした。(p320)
これも一種の境界のセラピーです。身近なだれかを物に見立てて、その空間的な位置関係から、身体にどんな反応が起こるかを観察します。
わたしがずっと、背中のねじれや首が片方だけまわらない症状を抱えているのも、こうしたアプローチから理由がわかるのかもしれません。一時期頻繁に寝違えることがありましたが、首だけでなく背中まで寝違えるせいで、立って歩けないこともありました。
この空間のセラピーは身体はトラウマを記録するの中に出てくるアルバート・ペッソによるセラピーにも取り入れられていました。ヴァン・デア・コークは、自分がクライエントとなってペッソのセラピーを体験したときのことをこう書いています。
役を演じる人が他にいなかったため、ペッソはまず、物か家具を選んで父親に見立てるようにと言った。
私は大きな黒い革のソファを選び出して、自分の正面からやや左寄り、二メートル半ほど離れた所に立てて置いてくれるようにペッソに頼んだ。次に母親も部屋に招き入れたいかと訊かれたので、私は立てたソファとほぼ同じ高さの、どっしりした電気スタンドを選んだ。
セッションが進むにつれて、空間が私の人生で重要な人々で埋まっていった。親友はごく小さなティッシュボックスで私の右に、妻は小さなクッションで親友の隣に、二人の子供はやはり小さな二つのクッションだ。(p496-497)
さっきのラッセルの話とよく似ています。こちらのほうが、父親だけでなく、さまざまな人物を物に見立てているので、より本格的で、一種の舞台劇のようになっています。それもそのはず、ペッソはもともとダンサー出身でした。
しばらくすると私は、自分の内面の風景を投影したこの場面を眺め渡した。両親を表す二つのやたらに大きく暗い威嚇的な物と、妻や子供や友人たちを表すちっぽけな物の数々。
私は愕然とした。自分が幼かったころの厳格なカルヴァン主義の両親という内面のイメージを、私は再現していたのだ。胸が締めつけられた。声はなおさらひきつっていたに違いない。
空間を司る脳が暴露したものは否定のしようがなかった。このストラクチャーによって、私は内面に秘められた自分の世界の地図を視覚化することができたのだ。(p497)
この三次元的な劇の舞台を作ったとき、彼は「空間を司る脳」つまり、右脳の感覚記憶に残されているトラウマの断片を目の当たりにしました。さっき書いたとおり、右脳は一連の出来事(ストーリー)ではなく、断片的な感覚を記憶しているからです。それが無意識のうちに再生されてしまうのがフラッシュバックでした。
私は強く興味をそそられた。人は脳の右半球で空間的関係を処理しており、私たちが行なった神経画像研究でも、トラウマの痕跡が、おもに右脳にあることがわかっていた。
気遣いや非難、無関心はみな、おおむね表情、声の調子、身体的な動きで伝わる。最近の研究によると、人のコミュニケーションの最大九割が、非言語的な機能が優位な右脳の領域で起こるという。(p495)
ヴァン・デア・コークは、右脳の記憶を投影した舞台を眺めて、自分にとって、いかに両親の存在が重圧だったか気づきました。そこへ、ペッソはさらにひとひねり加えます。
自分がたった今明らかにしたものについてペッソに話すと、ペッソはうなずいてから、私の物の見え方を変えてもいいかと尋ねた。
…するとペッソは、私とソファと電気スタンドの間に自分の体をすかさず割り込ませて、私の視線から二つを隠した。
私は即座に体の中で強い解放感を味わった。胸の締めつけが緩み、呼吸が楽になった。ペッソの下で学ぼうと決めたのは、この瞬間だった。(p497)
ちょうど、さっきのラッセルとは逆のことが起こりました。ラッセルは「父」と向き合ったとき、身体がぎくしゃくして凍りつきましたが、ヴァン・デア・コークの場合は、「父」と「母」を視界から遮られた瞬間、身体の凍りつきが解けるのを実感しました。
わたしは今回の境界のセラピーを通して、以前から興味をもっていたこうした手法が自分に合っているのかもしれない、と感じました。セラピストに提案してみると、次回からそうした手法も取り入れてみるといいかもしれない、と言ってくれました。
言葉の錬金術
今回のセラピーでは、必要以上の負担がかかって症状が悪化しないよう、これ以上の感覚の探索は行わないことになりました。わたしも、これには異論なく同意しました。身体に現れていた症状はそれほど苦しいものでした。
SEの考えからいうと、ここで無理に焦ってセラピーを続けることは逆効果です。前に書いたように、少ない刺激にとどめなければ、耐性領域を突き抜けてしまい、解離が引き起こされてしまうだけだからです。わたしはもう自分が耐性領域の内側にいないことを認識していました。
セラピストの説明によれば、解離とは自己の断片がバラバラになってしまう状態をいいます。わたしは10代のころ、最初に慢性疲労状態になった日、思考がバラバラに砕け散ったように感じました。ちょうど、積み上げたブロックをひとつずつ順番に抜いて、バランスが崩れると一瞬で崩壊するゲーム(ジェンガ)みたいに。
最近小児期トラウマがもたらす病を読んで知りましたが、この直感的な比喩は、恐ろしいほど正しかったようです。わたしはその時期、思春期のシナプスの刈り込みが脳内で起こっていたので、まさに、シナプスという積み木を一本ずつ抜いていっている状態にありました。それが、ある日ついにパランスを保てなくなって、バラバラに崩壊してしまったのです。そのときは、この現象が「解離」だなんて知るよしもありませんでした。
セラピストが言うには、SEではこの断片を気づきを通してくっつけていきますが、急いで断片同士をくっつけるわけにはいきません。解離とは逆に、特定のパーツが別のパーツと癒着してしまっているのがPTSDですが、混ぜ合わせて復元しようとしたパーツに、意図せぬPTSD記憶がくっついていて、混ぜ合わせた衝撃で表面化してしまうことがあるからです。だから、ゆっくり少しずつくっつけなければならないのだと。
その説明を聞いて、それが「タイトレーション」と呼ばれるものですね、と言うとセラピストはそのとおりとうなずきました。前に書いたように、タイトレーションとは、反応性のある二種類の薬品を混ぜるときに爆発しないよう一滴ずつ交互に混ぜていくという化学用語ですが、ラヴィーンはそれをセラピーに当てはめて、慎重さが必要だと説いていました。
そのあと、セラピストと幾つかの話題について話しましたが、詳細はもう覚えていません。当日ならともかく、もう4日ほど経っているので、記憶があいまいです。当日の帰りの電車でさらっとメモしたことから、思い出せる範囲で書いておきます。
まず、ラヴィーンの子どものトラウマ・セラピー を読んだ感想を訊かれたので、とてもわかりやすい内容だったが、他の本からの知識がある今だからわかる内容で、初期に読んでいたらごく普通のことが書かれているようにしか思わなかっただろうと言いました。すると、セラピストも、初期のころのラヴィーンの本は、わざとわかりにくく書いているのかと思っていたとか。まだ説明がこなれてなかったということなのか。あるいは一般向けを意識しすぎたか。
本の中で興味深ったのは、「感覚の身体地図」というワークでした。これは主に幼い子供を対象にしたものですが、模造紙に寝転がって、身体の等身大の枠線を書き、自分の身体に感じる感覚や感情を色とりどりに書き込んでいく、というものです。 (p87,238)
わたし自身、10代のころ、感覚を紙にうつしとる絵画セラピーを一日体験しただけで多大な影響を受けたので、たぶんこの手法はわたし向きでしょう。自分の身体の感覚を等身大の地図にマッピングするなんて想像しただけでわくわくします。近々やってみたいと思います。
そのほか、何度か引き合いに出している身体はトラウマを記録するのどこが印象に残っているかを訊かれました。そのとき話したのはこんな流れだったと思います。
わたしはもともと慢性疲労症候群として治療を受けていました。慢性疲労症候群の患者たちの間では、「心の問題」を扱うのは一種のタブーと化していて、わたしも精神医学にはほとんど目を向けていませんでした。しかし主治医のグループの研究から多様な視点を得られたことや、主治医に愛着障害を指摘されたことなどから、しだいにトラウマ、そして解離の問題に目を向け始めます。
それでも、トラウマの研究は、あまり自分にはしっくりこないと思っていました。愛着障害や多くのトラウマの本に書かれているような「毒親」への恨みはわたしには全然なかったからです。よくも悪くも親への執着心が希薄でした。心の傷のようなものも自覚できませんでした。
今読んでいる私はすでに死んでいるのトビラにこんな言葉がかかげられているんですが、まさにこれが当事のわたしの心境でした。
「手ばなして自由になれ」とかいうけど、誰が何を手ばなすのかと考えこんでしまう人たちに捧げる。(p3)
毒親への恨みを手放して心の傷を癒やそう、なんて言われても、わたしは、誰が何を手ばなすのかと考えこんでしまうだけでした。だから、10代のころカウンセラーに悩みを訊かれても、何一つ語ることが出てきませんでした。
でも、そんなわたしに、トラウマとは何か、本当の意味で教えてくれた衝撃的な本がヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するでした。この本ははっきり、本当のトラウマは語ろうとしても言葉にすることができず、原因不明の行動や症状となって再演されること、幼少期のトラウマの当事者の多くが過去を記憶していないことを説明していました。
わたしは気づきました。今まで読んでいたトラウマ関係の本は、実際にトラウマを経験したわけではない医療関係者目線だったり、成長してからトラウマを負ったPTSD当事者目線の本だったんだと。幼少期のトラウマの被害者は、これまで精神医学から見逃されていて、ありとあらゆる奇々怪々な症状のために、さまざまな原因不明の疾患として放置されていたのだと。だから、ヴァン・デア・コークは「発達性トラウマ障害」という新たな概念を作らねばならなかった。
わたしはヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するを通して、本当のトラウマ医学を知り、ジャネが提唱した解離の概念の本来の意味を知り、ソマティック心理学の世界についても知りました。だから、この本は、わたしにわたしが何者であるかを教えてくれた最初の本でした。
セラピストは、わたしの話にじっくり耳を傾けてくれて、SEの回復過程の話をしてくれました。はじめは、自分の身体に何が起こっているかもわからず、原因不明の症状に振り回される無秩序なカオス状態にある。それが身体のわずかな変化に気づけるようになれば、原因不明の症状ではなく、何かしらのトリガーによって引き起こされている理由のある症状だとわかる。そうすれば自分の反応をコントロールできるようになってくる。最終的には身体そのものが、自分で反応をコントロールできるようになる、とのことでした。
わたしはまだ、カオス状態を抜け出しかかっている段階にすぎませんが、はたして少しでもコントロールできるようになるのだろうか…。セラピストは、三回目のセラピーにして、これほど気づきがあることを喜んでくれていましたが、わたしは今ひとつ希望が持てません。セラピストからすれば、わたしみたいなクライエントは例外的なんだろうと思いますが、わたしからしたら、自分がいかにハッタリで成り立っているかをよく知っているからです。
わたしは、自分が何者かを一言で表現するとすれば「錬金術士」だと思っています。さまざまな事象を結びあわせて、他の人が作れないものを瞬く間に創造できる。でも、わたしが生み出しているものは、いつも上辺だけの偽物であり、純金は決して作れません。これだけたくさんの言葉を弄していても、すべて上滑りして真実にたどりつけない、それがわたしの錬金術です。今回は果たしてうまくいくのか、それともこれまでと同じく、何かがわかった「ふり」をしているだけで終わるのか。わたしは自分を信用していません。
ふと思い出したことがありました。学生のころ、国語の授業のとき、先生が前の人から順に「◯◯観」という単語を挙げていくよう言いました。わたしは一番うしろの席だった。みんな悩みながら一人一人答えていったけど、みんなが何を言ったのかはまったく覚えていません。わたしが最初に思いついた答えは、結局わたしの順番がまわってくるまで誰も言わなかった。わたしの答えは「厭世観」でした。初めて知ったときに心に刺さった言葉。そしていまだにどこか惹かれる美しい言葉。
わたしはずっと厭世的です。でも何もしないというわけにもいかない。どうせダメだろうと思ってはいても、最善を尽くすのが防衛的悲観主義者の特徴です。たとえ上滑りしているだけにしても、不毛な水掛け論を繰り返している人たちよりはまだましなのかもしれないし。
だから、今後も、期待はせずにセラピーは続けていくつもりです。たとえ真実に至れないとしても、答えを見つけられないとしても、何かに気づくというのはそれだけで面白いことですから。
続きはこちら。