地図にない世界を探検しにいったセラピー体験記(9)

SEの体験記の9番目…のはずなんですが、なぜかゲームの感想です。なんかものすごく脱線した記事なので、どこに置いとくべきか迷ったけど、ちょうど前回のSE体験記の話題と似ている内容だったので、いっそ体験記の一部にしてしまえ、というひどく短絡的な発想になりました。 番外編みたいなものだということにしておこう。

ゲームというのは、いくつかのハードで配信されている「The Sexy Brutale」(セクシーブルテイル)という推理アドベンチャーのこと。最近プレイしたんですが、トラウマや解離という点で、非常に興味深いストーリーとシステム構成でした。

といっても、このゲームは、表向き医学用語は何も出てこない、ただの推理アドベンチャー。だから不謹慎なところは何もないです。わたしも推理物のゲームだと思って購入したし、実際、そういうゲームとして遊べる普通に面白いゲームです。ただ最後までプレイすると、壮大な謎が明らかになっていき、実はトラウマの概念と真剣に向き合ってるストーリーだったという話。

印象に残ったところ

開発者がトラウマの知識ありきで作ったのか、それともリアルさを追求するうちに自然にそうなったのかはわかりませんが、PTSDによって生じる重篤な解離状態の人の心の状態を、これほど的確に表現できている作品は、媒体を問わず他に知りません。

他の創作物のように、トラウマを軽く扱っているということはなく、真相が明らかになると、これでもかというほど重い現実を突きつけられました。それでいて、解離からの回復過程をゲームとして成立させている異色の作品でした。前回のSE体験記で、SEというのは、イシスとオシリスの伝説みたいに、バラバラになった身体を統合し、思いだしていく過程なのだ、と書きましたが、それを体現しているゲームだった。

どのあたりがトラウマや解離と関係しているのか、という感想を書くには、ストーリーの核心に触れないといけないので、この記事はネタバレありきで書きます。もしこの体験記を読んでいて、しかもゲーム好きだというような稀有な人がいたら、続きは読まずに、公式サイトなどの内容紹介に飛んでプレイしてみたほうが面白いと思います。ゲームのプレイも一種のエクスペリエンス(経験)だし。…というのはこじつけすぎか(笑)

The Sexy Brutale(セクシー・ブルテイル) – 日本一 Indie Spirits(インディースピリッツ)|日本一ソフトウェア

ゲームの概要

このゲームは、タイムループ型の推理アドベンチャー。謎の館「セクシーブルテイル」で、招待客が次々と惨殺されていくので、時間を巻き戻してそれを阻止し、真相を暴き出すことが目的。タイトルに「セクシー」と入ってますが、そうした要素はないです(笑)。殺人事件なので「ブルテイル」(残忍な)要素は、そこそこありますが、昔ながらのデフォルメされたキャラのグラフィックなので、見た目の気持ち悪さはありませんでした。

ただテキストやストーリー、効果音などはかなり生々しく、繊細な人は気持ち悪くなってしまうかもしれない。わたしはもともとそういう推理小説を読み慣れていたので、大丈夫でしたが…。

館で起こる殺人事件は猟奇的なものが多めですが、最後までプレイすると、解離やトラウマの知識からすれば納得のいく描写でした。むしろ、何の理由もなく殺人事件を描く小説や漫画より、よほど現実的だと思いました。

プレイヤーは、主人公「ラフカディオ・ブーン」となって、謎の血まみれの少女(といってもグラフィックでは赤い女性にすぎない)に導かれつつ、館の中で起こる殺人事件を調査し、タイムループを駆使しつつ、犯行を未然に防ぐことを目指します。タイムループで殺人事件を防ぐというと、ご都合主義や、人の命を軽く扱っているように感じられるかもしれませんが、最後までプレイすると、ここもまたもっともな理由があるのが面白いところ。

主人公が助けることになる被害者は8人。主人公の姿は他の人の目に見えないので、屋敷の中を気づかれずに動きまわり、ドアの覗き窓から中を観察したり、聞き耳を立てて盗聴したりしつつ、事件の全貌を探っていきます。聞き耳を立てると、一定範囲内の人物の足音や声がわかるので、意外な場所で意外なやり取りがなされているのに気づきます。ときには、そこに部屋などないと思っていた空間から声が聞こえ、隠し部屋があるとわかることもあります。

館では、同時に複数の出来事が複雑に絡み合って進行しているので、一回だけでは事件の全貌をつかめません。あっという間に時間がすぎてしまうので、何度もタイムループしながら、殺人事件を阻止する方法を探すことになります。

登場人物たちは、主人公を含め、被害者たちも、殺人者である屋敷の使用人たちも、みな仮面をつけています。主人公の姿は、他の登場人物からは見えませんが、同じ部屋の中で誰かと出くわすと仮面が燃え上がるので、他の登場人物がいる部屋にとどまることはできません。誰かがいる部屋は外から観察し、部屋に誰か入ってきたらそこから逃げ出す必要があります。

登場人物と同じ部屋の中にいられない、ということは、殺人事件を阻止するには、部屋に踏み込んで食い止める以外の方法が必要だということになります。殺人に使われる銃にあらかじめ空砲を仕込んでおいたり、事件が起こる前に被害者が部屋から出るよう仕向けたりと実に様々。一筋縄ではいかず、さまざまな角度からの情報収集が必要になります。

BGMも非常に凝っていて、とてもおしゃれで独特の雰囲気づくりに貢献しています。館の中でいま起こっていることに合わせてメロディのテンポや曲調が変化し、事件の音もまた、メロディの一部として組み込まれているという仕掛けもあります。

ストーリーを進めるにつれ、最初は洒落たメロディだと思っていたのが、ところどころ聞こえていた効果音の数々の意味がわかるようになり、それが聞こえるたびに戦慄が走るようになるという怖さがあります。

だけど恐怖と美は紙一重の感覚と言われるように、恐ろしいながらも美しくまとまったゲームであり、それがタイトルの「セクシー」とか「ブルテイル」とかの意味なのかもしれない、と思いました。

行方不明の侯爵の謎

ここからは、さらにネタバレ色が濃くなってしまうので、なんとなく読んできた人も、ゲームをプレイしてみたいと思ったら、引き返してくださいね。あるいはネタバレ部分を飛ばして、「SEを学べるゲームがあってもいいじゃない」まで飛んでほしい。

このゲームのストーリーの中でずっと謎なのは、主人公と被害者たちを招待した館のあるじである侯爵ルーカス・ボンズの姿がどこにもない、ということです。みんなルーカスを探していますが、一向に姿を見せず、謎が謎を呼びます。コリン・デクスターの「キドリントンから消えた娘」だったか、ミステリで最も興味を惹く謎は行方不明の人間だと読んだ覚えがありますが、確かにそのとおり。

館のあちこちで起こる殺人事件を指示している黒幕はいまだ現れない侯爵なのか、それとも侯爵はすでに死んでいるのか。殺人事件を阻止しつづける中、その答えが徐々に明らかになっていきます。

物語の終盤、すべての殺人事件を阻止した後に開かれるのは、屋敷の地下に通ずるエレベーター。地下には、意味ありげで象徴的な部屋がたくさんあり、これまで探索してきた部屋とは明らかに異なっています。

殺人事件が起こっていた屋敷の地上部分は、少々突飛な生き物がいたりはしますが、現実ばなれした奇妙な部屋はなく、リアルに存在しそうな屋敷でした。ところが屋敷の地下は、それまでと打って変わって、異世界に通じているかのような部屋や、「ゆめにっき」の世界のような意味深な物が配置された部屋、さらには謎の人物が横たわっている手術室などがあります。

ここにきて初めて、もしかするとこの屋敷は現実に存在する建物などではなく、虚構のファンタジーなのではないか、という疑念が生じはじめます。

そして、さまざまな謎を解いて、地下の最深部に到達すると、そこに待っていたのは、謎の金色の仮面の男、そして、生きたまま奇怪な装置に磔にされて、館の中の殺人事件を繰り返し繰り返し目撃させられているやせ細った老人でした。その、地下の最深部に閉じ込められ、いつ終わるともしれない悪夢を永久に味わわされていた老人こそ、館の主人、侯爵ルーカス・ボンズだった。

重篤なトラウマから回復していく物語

ここからストーリーが劇的に展開して、事件の真相が明らかになっていきます。

この館で起こっていたのは、現実の文字通りの事件ではありませんでした。館にいる招待客たちは、現実に存在していた人々ですが、彼らはすでに亡くなっている故人でした。

かつて、現実世界で巨額の富を得て、セクシーブルテイルという酒池肉林のカジノ館を作り上げたギャンブラー ルーカス・ボンズは、最愛の妻エレノアが身ごもったことをきっかけに、もっと簡素でつつましい生活をしたいと望むようになります。館を維持するための費用も限界となり、ルーカスは妻との新生活のために最後のギャンブルを企てます。それは、自分の館に火を放って、得た保険金で幸せな生活を送るという犯罪でした。

彼は安全をはかって爆弾にタイマーをセットしていましたが、何かの手違いで、予期しない時間に爆発してしまい、招待客たちは全員焼死し、妻と生まれるはずだった子どもも死んでしまいます。

それなのに、彼一人だけが重症を追って生き延びることになりました。さらに回復したあとは、追い打ちをかけるように詐欺の罪を問われ、何年も刑務所で服役することになりました。

自分が故意に犯した過ちのせいで、大事な親友たち、そして愛する妻と子まで死に至らしめてしまったという、悔やんでも悔やみきれない恐ろしい記憶にとらわれたルーカスは、その後数十年も、トラウマ記憶に悩まされます。そのルーカスの心の中の世界が、このゲームの舞台、猟奇殺人が延々と繰り返される虚構の館「セクシーブルテイル」だったのでした。

たかがゲームとあなどるなかれ、このあたりのストーリーは非常に綿密に練られていて、演出もとても重々しいもので考えさせられます。昨今のゲームやアニメ、映画の中には、謎めいた設定だけを断片的にプレイヤーに見せて、ろくな説明もせず、想像で補ってほしいと言わんばかりの作りのものが多いですが、このゲームは最後まで遊べば全体像が理解できるようになっています。

クリアした時点でも、全容は明らかですが、さらにクリア後に閲覧できる「秘密」のパンフレットの中で、それぞれの登場人物が表していたものや、背景設定などが詳しく解説されているので、消化不良で終わることはありません。それらを読んではっきりわかるのは、このゲームは、何十年も癒やされないトラウマの苦悩から抜け出す物語だということです。

作中で「トラウマ」とか「PTSD」「解離」という単語が出てくることはなく、あくまで叙述的な物語作品としてのイメージを保っているのはとても好感が持てます。それでいて、ゲーム内容は、トラウマを追った人の心の状態を、かなり忠実に再現しているのがリアルです。

解離によって切り分けられた心

このゲームでは、すべての登場人物が仮面をつけていました。これは最初は、謎の館という舞台設定に応じた演出かと思っていましたが、そうではありませんでした。

仮面は「ペルソナ」、つまり人格を表しています。館の登場人物は、すべて、主人公も招待客も、使用人たちも、侯爵ルーカスの心の一面「ペルソナ」であることが最後に明かされます。

主人公が、他の登場人物と出くわすと仮面が燃え上がってしまい、同じ部屋の中にいることはできない、という設定は、ただのゲームを面白くするシステムかと思っていましたが、解離の観点からすると興味深い部分です。

解離においては、ある人格が表面に出ているときは、別の人格は表に出られない、というニューロンネットワークの競合が起こります。つまり、違う人格部屋にいるとき、主人公が同じ部屋に入れない(入ったとしても退出するまで時間が止まる)のは、人格同士が競合しているからだとみなせます。

ゲームの中の登場人物は、すべてルーカスのペルソナの一面であるにも関わらず、互いが考えていることを知らず、記憶も共有していません。だから、主人公は、他の人たちを観察して、何が起こっているのか知る必要があります。DIDの人も、記憶障壁のため他の人格と記憶を共有していないことがしばしば。

主人公がドアの覗き窓から他の人格の行動を観察する、というゲームシステムは、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論に書かれていたこの体験談をほうふつとさせます。

自分がごろごろと寝ていると、背中越しにドアやカーテンの隙間から自分を見ている自分の視線を感じる。

周りの見え方はまるでその場所に立った時と同じです。

ドアの向こうから心配そうにうしろから自分を見ている。(p224)

DIDの人たちは、気づかないうちに奇妙なことが起こるので、日記をつけたり、他の人格の行動を観察したりして、何が起きているのか全体像を知らなければ回復に向かえません。

このゲームの舞台となる屋敷が膨大な数の部屋に区切られているのは、解離によって区切られた頭の中を表しているということもできます。私の中のわたしたちにこう書かれていたみたいに、DIDの人はよく自分の頭の中を区切られた部屋に例えますから。

私の場合、悲劇的な暴力を受けた子ども時代を耐えるために、DIDを発症した。…そしてまるで映画の場面を編集するように、私はその体験を独自の小さな部屋に押しこめ、ドアに鍵をかけた。

最初のうちはすべての出来事を私の意識の中の部屋の一つに収納した。しかし暴力が激しく、ひどくなると、どんなに遠くからでも、そのすべては観察できなくなった。

そこで、私の潜在意識は体験を細分化し、経験の部分的要素を凍結する部屋に入れていった。一つは匂い、もう一つは父親の顔の表情、さらにその後感じるようになった孤独や絶望、というように。各部屋には鍵をかけた。

鍵のかかったドアに向こうにしまいこまれたものに合致する類似の暴力、苦痛、表情、感覚、場所を体験するまで、そのドアが開かれることはなかった。(p17)

細かく仕切られた屋敷の巨大な空間は、 身体に閉じ込められたトラウマ に書かれた「トラウマの迷宮」という表現が端的に物語っているように、トラウマを抱えた人の迷路のような頭の中を適切に表しているようにも思いました。(p95)

このゲームでは、物語が進むにつれ、今まで入れなかった部屋に入れるようになり、行動範囲が広がっていきます。それは、ゲームの仕様としてはもっともですが、解離の観点からしても理にかなっています。

重篤な解離状態にある人は、最初は限られた記憶しか持っておらず、何が起こっているのかもわかりません。しかし、回復するにつれ、徐々に解離が解除されて、今までアクセスできなかった記憶を行き巡れるようになります。さっきの本でもその過程が書かれていました。

サマー医師は、私が成長過程で受けた虐待の実態を思い出そうとしているのであり、そして私の思いや考えは解離によって時間をかけて凍結された記憶であると、再度説明してくれた。

記憶のあるべき場所、つまり過去に記憶をおさめるために、私に何が起こったのか、明確な絵になるようにつなぎあわせようとしていた。痛みは起こったことに対する身体的な記憶であるとサマー医師は説明した。(p203)

このゲームでは、後半、地下室に入ったあたりから、非現実的な部屋が増え始めるので、一種のSFストーリーかと思ったのですが、実際には、記憶の奥深くに封印されているトラウマの中核にアクセスしていたのでした。それらの部屋に置かれているものがぞっとするほどリアルで、それが過去の記憶の断片だと気づいたときには身震いしました。

さっき書いたBGMの中のさまざまな断片的な効果音の意味が、ゲームを進めると明らかになってくるというのも解離っぽい演出。セラピーを進め、記憶を統合していくうちに、バラバラに散らばっていた原因不明の症状の意味がわかってくる、というのと似ています。

 永久にループするトラウマの時間

何度も何度もタイムループする世界という設定も、解離から考えると興味深い。タイムループ型の創作は今では珍しくないですが、なぜタイムループするのかという理由づけは大抵SFチッなことが多い。

だけど、このゲームの場合、タイムループの原因はトラウマだと説明できます。トラウマを負った人は文字通り、終わりなく繰り返すトラウマの瞬間に悩まされるものですから。トラウマとは、凍りついた時間の障害であり、すでに過ぎ去ったはずのトラウマの瞬間を、延々と再体験しつづける現象です。トラウマを抱えた人にとっては、ファンタジーやSFの設定を持ち出さなくても、タイムループしつづける世界、というのは現実そのもの。

前回書いたように、おそらくはトラウマへの適応としての側面もあるんでしょうが、過去や未来をイメージする能力がなくなってしまい、永久に「今」を繰り返すようになってしまう。身体に閉じ込められたトラウマ の中でピーター・ラヴィーンはこう書いていました。

人生が短縮した感覚、言葉を失うほどの絶望の感覚は、深刻なトラウマの中心的な性質である。この人は過去の恐ろしい痕跡の中にすっかり閉じ込められてしまっていて、過去とは違う未来を想像することができないのである。(p205)

の中でヴァン・デア・コークも述べているように、「今」が永久にループしてしまうことにはちゃんと脳科学的な理由があるみたいです。

脳の前側(スキャン画像では上側)に見られる二か所の白い領域は、左右の背外側前頭前皮質だ。この領域が作動しなくなると、人は時間の感覚を失い、過去、現在、未来の感覚がないまま、今の瞬間に閉じ込められてしまう。(p115)

トラウマは、「これが永遠に続く」という究極の体験と言える。(p116)

このゲームでは、無限に続く時間の中で凄惨な殺人事件が館の各所で延々と繰り返されます。推理物として見れば、話の都合で頻発しているだけともとれます。不自然なほど殺人事件が起こるので、探偵が疫病神だと言われたりするのは推理物のお約束ですよね。

だけど、これもやはり解離の観点からすれば、意味が通じます。このゲームをやっていて思い出したのは、解離の構造に書かれている次の実体験。

[人格の一人である] エリの恐怖は壮絶なもので、最近彼女と会ったとき、彼女はバラバラの死体だらけの薄暗い家に住んでいました。

私が(背後空間に)引っ込んでいる時、たまにこのバラバラ死体だらけの部屋に迷い込みます。人間の血だらけのパーツだけが落ちている身の毛もよだつような暗い光景です。血の匂いが忘れられません。

彼女は家の外に出ると透明で周りには見えないそうで、その家しか居場所がないんです。バラバラ死体の家の中で誰ともコミュニケーションをとれないので、本当にひとりぼっちです。

…家の中では、感触はハッキリしていて、ドロっとした生温かい血の固まりが降って来たり、ぐちゃぐちゃになった頭が転がってきたり……あそこは恐怖のかたまりです。

…気持ちの悪いお話ですみません。ただ、彼女は酷い場所に住んでいて、あんな場所ではまともな思考回路は働きません。(p223)

この体験をしていた女性は、虐待のサバイバーでした。文字通りこんな惨殺された死体の中を歩いた経験があるわけではないけれど、過去のトラウマ記憶のイメージは、そのようなものとして再生されていました。彼女は解離によってトラウマ記憶を隔離しているので、表に出ているメインの人格はある程度平穏を約束されている。しかし、裏でトラウマ記憶を受け持っている人格は永久に凄惨なトラウマの時間に閉じ込められている。トラウマのせいで慢性的な症状を抱えている人の場合もこれと同じで、自分の身体の一部が、永久にトラウマの瞬間の痛みや恐怖を再体験し続けていると解釈できる。

こうした実体験をフィクションのゲームと比較するのはあまりに不謹慎かもしれませんが、地下室に閉じ込められたルーカスが見せつけられていた、屋敷の中で次々に起こる残忍な殺人事件の数々とよく似ているな、と思いました。ルーカスも、過去に友人たちが虐殺されるのを見たわけではありませんが、トラウマの痛みから作られたイメージは、次々に自分の分身たちによって友人たちが殺されていく光景でした。

さすがにゲームでは、デフォルメされたグラフィックなので恐怖は緩和されていますが、ゲーム中のテキストだけでいえば、引用した体験談と同じほど生々しい印象がありました。これを現実に体験するトラウマサバイバーの苦痛と恐怖は想像を絶するものです。

さまざまな役割を持つ人格たち

それぞれの登場人物はみな、ルーカスの人格部分の一面ですが、おのおの異なる役割を持っています。

まず、招待客たちや使用人たちは、現実世界では火事で亡くなっているので、もう存在しません。彼らは、ルーカスの心の中に取り込まれた人格(ペルソナ)としてだけ生き続けています。

さまざまに現れる人格は、「取り入れ」という防衛機制によって、外部の他人の人格を模して作られることがあります。

金色の仮面を身につけた、殺人事件の黒幕とも言える人物は、文字通り「黒幕人格」と呼ぶタイプの人格だといえます。こちらの説明によると、黒幕人格とは、「怒りを抱えている人格部分」ないしは「破壊性を備えている人格部分」であり、「その素性が不明であることが非常に多い」とされている。

このゲームにおける金色の仮面の男は、まさにそうした存在でした。ゲームのクリア後に解禁される秘密のパンフレットによれば、彼は「ルーカスが決して許したくない自分の恐ろしい分身」。

一方、主人公のラフカディオを助け導く血まみれの少女は、それとは対極にある存在でした。彼女は、慈愛に満ちた妻エレノアを取り込んだ人格であり、一貫して主人公を助けます。こちらは解離の構造に書かれている内的自己救済者(ISH)とよく似ています。

生存者人格は犠牲者人格から身を離し、状況を俯瞰する視点から眺める。

アリソン Alloson,R.B.のいう内的自己救済者(ISH;Inner Self Helper)は癒やす神の力と愛を伝える媒介者であり、患者の過去と将来を知り、冷静沈着で理性的である。主人格がお手上げ状態に陥った時、物事をテキパキと処理する有能な人格として出現する。(p143)

ISHは、無限の愛情を持ち、その人の心の中で起きているすべてのことを知っていると言われますが、血まみれの少女も、最初から館の中で起こっているすべてのことを知り、黄金の仮面の男の正体も、主人公の正体も知っていました。

単なるフィクションのストーリーとして見れば、この血まみれの少女のような意味ありげなポジションのキャラクターは隠された意図を持っていたり、裏切ったりすることが多いものです。信頼できる味方だと思っていた人物が最後に裏切るとか、実は黒幕だったとかいうのはありがち。

だけど、このゲームの血まみれの少女は、そうしたフィクションにありがちな裏のある振る舞いはしません。最後まで一貫して主人公の味方であるというのは、非常にISHらしいところでした。

解離状態にある人は、ときどき、自分が理想とする人物の人格を取り入れ、辛い経験を乗り越えていく支えにすることがあります。

主人公であるラフカディオ・ブーンは、クリア後の秘密のパンフレットの説明によると、元はルーカスと同じギャンブラーであり、後に生き方を改め、信仰の道に入った人物でした。ルーカスは、生前のラフカディオと親友になり、「導き手や師匠のような存在」とみなしていたそうです。そして、トラウマのループから抜け出すために、自分が憧れていたラフカディオの姿を借りていた、ということになっています。

最後に、地下室の奥深くに封印されていたルーカス本人がいます。彼は、ありのままの自分、つまりトラウマの治療において「セルフ」(自分そのもの)と呼ばれている人格です。身体はトラウマを記録するに書かれているように、トラウマの治療においては、最初はどこにいるのかわからなくなってしまっている、心の奥深くに解離された「セルフ」を見つけ出し、自分を取り戻させることが目的になる。

トラウマサバイバーの表面に現れた防衛的な部分の下には、無疵の本質、すなわち、自信と好奇心に満ちたおだやかな「セルフ」、生存を確保しようとする中で現れ出たさまざまなプロテクターたちのおかげで破壊を免れてきた「セルフ」が存在する。

こうしたプロテクターが、分離しても大丈夫だと確信できさえすれば、「セルフ」は自ずから姿を現し、各部分は回復の過程に加わることができる。(p468)

当初は、まったくの行方不明で姿が見えず、殺人事件をすべて解決した後になって、ようやく所在が判明し、地下室の奥深くに閉じ込められているさまは、まさにこのセルフ(自分そのもの)の定義どおりでした。

地下深くでルーカス本人が、隔離され、磔にされていたさまは、この中で引用されていた、マリオン・ウッドマンの次の言葉も思い出させます。

地下室に、屋根裏部屋に、ゴミ箱の中に、入っていきなさい。そこで尊いものを見つけなさい。食べ物も水も与えられていない獣を見つけなさい。それは、あなただ!

この顧みられずに、追放され、注意を向けてもらいたがっている獣は、あなたの自己の一部だ。(p377)

リアルな葛藤を突きつけられる結末

なんか、この記事の説明だけ読むと、たぶん、わたしが無理やりこじつけてるように感じられちゃいそうですね(笑) そういうところがあるのは否定しませんが、実際にプレイしてみると、解離の知識がある人なら、かなり当てはまっていると感じられるはず。

製作者が、解離の知識を持っていて、意図してそうしたのかはわかりません。海外では国によっては日本よりトラウマセラピーが一般的なので、ある程度知識のある人が関わっていれば、こうした物語が作られそうな気はします。けれども、そうした背景知識がなくても、トラウマを題材に綿密にプロットを構成すれば、リアルな物語に仕上がるとは思います。

かえって、医学の知識がないほうが、人間が後づけで考えた理論に惑わされず真実を突けるものです。世界各地の伝承や物語の中には、トラウマや解離の本質を見事に表現したものがたくさんあります。それに医者より作家のほうが、抵抗なく解離の概念を受けとめてたりするものです。複数の人格があるとか、ショックで記憶が失われるとか、辛すぎる記憶は思い出せなくなるとか、医者は疑ってかかりますが、創作物では定番すぎるネタですし。

考えてみれば精神医学だって、現実の人間を観察して作り上げられた二次創作のようなものです。精神科医は偉そうに心の問題を論じますが、脳科学的に検証されていない理論なんか、ほとんどただの言葉遊びですからね。わたしは精神医学が創作より勝っていると思ったことはないです。

しっかり人間を観察して忠実に物語を作れば、医学用語など使わずとも、トラウマの実態を描くことは可能だし、かえって文学などの創作のほうが、派閥主義やしがらみにとらわれていないぶん、人間のありのままの姿を描写できていると思う。トラウマの本質を知りたいなら、医者が書いた本を10冊読むより、アルベール・カミュの「異邦人」だとか、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んだほうが、よっぽど実際の苦悩がわかるんじゃないだろうか。

今回のゲームも、娯楽作品ではあるけど、トラウマを負った人の心の状態について、とことんリアルな表現がされていると思いました。当然のように、エンディングでもご都合主義的な展開はありません。

ルーカスは、かつての妻エレノアを取り込んだ救済者人格と、かつての親友ラフカディオの姿を借りた主人格によって、延々と続くトラウマのタイムループからついに解放されますが、最後にプレイヤーは辛い二択を突きつけられます。

このタイムループを終わらせて、すべてを失った後の現実世界と向き合うか、それとも、また時間を巻き戻して、死んだはずの友たちが偽りの命で生き、殺され続ける狂気の世界にとどまるかの二択です。

勇気をもって、タイムループを終わらせる決定をすれば、エンディングが始まります。

そこで描かれるのは、何十年ものトラウマから解放された老人ルーカスの姿。彼は、かつて妻と過ごした幸せな家の跡に作られた灰色の墓地に、独りぼっちで立ち尽くしています。

トラウマから解放されても、失った時間も、死んだ人たちも戻ってきません。あるのは辛い現実だけ。しかし、少なくとも、ようやく「セルフ」(自分そのもの)を取り戻したルーカスは、何十年も目を背けていた現実と向き合い、残りの人生を自分の足で歩き始める。そんな結末が描かれます。

ゲームの隠し要素をコンプリートすると、別の可能性が描かれますが、そちらはいわば、現実を放棄して、永遠に虚構の世界に閉じこもる結末です。その結末では、すべての登場人物たちが、何事もなかったかのように屋敷の中で幸せに踊っていますが、人々のセリフはあくまで空想の世界であることを暗示しています。そして、あのISHの役割を果たしていた妻はひと言もしゃべりません。

トラウマサバイバーたちが、傷だらけになりながら辛い現実に向き合うか、それとも、一生、空想と夢の世界に逃避しつづけるか、辛い二択を選ぶよう強いられるのを、これでもかと思い知らされる終わり方でした。

これほど真剣な形でトラウマサバイバーの経験をフィクションに落とし込んでくれるのであれば、ゲームだろうが関係ありません。実際にトラウマと向き合ってきた人たちは、ゲームであることを忘れて、すべての登場人物に反映されたルーカスの底知れぬ苦悩と、そこから脱出しようとあがく不屈の努力、そして、その先に待ち受ける答えのない葛藤に、きっと共感できるでしょうから。

SEを学べるゲームがあってもいいじゃない

つらつらとゲームの感想を書いてきましたが、じゃあわたしはどうなのかと言うと、自分はまだラフカディオみたいに地下室に封じられた記憶の深部に分け入る決意はできていないな、と思います。今はまだSEでいうとリソースの強化段階にいるので、まだ過去に向き合うだけの準備が整っていない。今それをやると、たぶんラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ で書いているようなことになってしまう。

トラウマを受けた人は、外の世界への道とそこへ向かうための内側からの活力をともに失っている。からだの内側から湧き起こる主要な感覚、本能、感情から切り離されているため、「今ここにいること」を見定めることができないのだ。

セラピストは、クライアントが自己の身体的な感覚と自己鎮静能力を取り戻す道を見いだすのを支援することによって、トラウマの迷宮を進むよう援助できなければならない。

…しかし、適切な準備なしにからだに持続的に注目させるのは賢明ではない。最初の内部感覚に接触する際には、未知のものに蝕まれるような脅威を感じるかもしれない。準備が不十分なまま感覚に集中すると、圧倒され、再トラウマ化を引き起こす可能性がある。(p95)

トラウマの迷宮はそう簡単には進めない。ゲームと現実は似ているようで違う。ラヴィーンが子どものトラウマ・セラピーで「ビデオゲームやブラックベリー(訳注:スマートフォン)の世界と比べると、自然のリズムは私たちが慣れ親しでいるペースよりも遥かに遅い」書いているとおりに。(p61)

だけど、遅々とした歩みながら、前進していることは確かだと思います。少しずつ、自分の身体の体験の意味がわかってきた。これは、ラフカディオが、ドアののぞき穴から観察し、聞き耳を立て、ひとつずつ凍結されていた部屋の鍵を開けて、館の内部を探索しているのと同じ。SEで自分の身体の感覚を探るというのは、まず感覚に意識を傾け、簡単にアクセスできる記憶から解錠し、館全体、つまり自分の身体全体のうち、アクセスできる領域を広げていくということ。

最初から、館の深部のトラウマ記憶の中核にアクセスすることはできないし、アクセスするべきでもない。まずは、手近なところ、比較的安全なところからアクセスしていき、自由に行き来できる領域を増やした上で、最後の最後に、トラウマの中核である地下室へと向かうのが、SEの目指すところ。

もともとゲーム世代なので、こういうたとえのほうが、直感的に理解できますね(笑) ゲームの力ってすごい。最初に書いたように、ゲームって一種のエクスペリエンス(経験)なので、自分の手で操作し、自分の意思で探索することによって、ただ単に本で読むより理解しやすいと思います。ゲームなんてただの遊びじゃないか、と思う人もいるかもしれないですが、子どものトラウマ・セラピーによると、子ども向けのSEって遊びがの形式でトラウマを解消していくワークなんですよね。

「その人のことを知ることができるのは1年分の会話よりも1時間の遊びからである」 プラトン(p62)

だから、今回遊んだゲームは、もはやSEの一環だと言っても過言ではない。…自分で言っていてちょっと言い過ぎ感が強いですが(笑) でもニュージーランドの国家プロジェクトとして、認知行動療法の考えに基づくRPG「SPARX」が作られたように、解離やSEの仕組みを学べるゲームがあってもいいじゃない、とは思います。

この記事に書いた「解離によって切り分けられた心」「永久にループするトラウマの時間」「さまざまな役割を持つ人格たち」あたりは全部わたしの実感そのもので、自分の感覚と対応していると思っているんですが、…ここで詳しく自分の対応する経験について書くのは気が進まないかな。

わたしはたくさん記事を書いてきたし、この体験記では個人的なことも色々書いてきたけれど、これほど書いておきながら、核心部分はあえて書かないよう避けています。たくさんの言葉を書くことで、本当に向き合わなければならないものを覆い隠しているような気もする。そこはまだ鍵をかけておくべき部屋だと思っているので、先送りして回り道している。そういや、解離と先送りの病理はよく似ていると岡野先生が書いていた気が。

前回の記事で、わたしみたいに分析している解離の当事者をあまり見かけないとは書きましたが、私の中のわたしたちのオルガみたいな人は別格です。彼女は自分の体験をすべて知った上で、脳科学的にも相当調査をして、解離の概念を説明しきっている。実体験と考察とが完全に噛み合っている人です。わたしなんかよりよほど聡明で先に進んでいる。だからこそわたしは彼女の本を読んだとき、自分と重ね合わせてしまって非常に動揺しました。

彼女は影との戦いに臨んで、地下室の鍵を開けることもできた。だけど、わたしはまだそこまで行くことはできない。もちろん彼女とわたしの経験は違う。だけど、あまりに断片的な症状が似ている。オルガの実体験にしても、このゲームのルーカスの物語にしても、どこかわたしの未来を暗示しているように感じられました。

わたしもいつか地下室の鍵を開けられるのだろうか。そしてその実体験を体験記として書くことができるのだろうか。それとも、最後まで外堀を埋めるだけで核心から逃げ続けるのだろうか、あるいは地下室にたどりつく前に力尽きてしまうのだろうか。正直なところ、なんだか無理な気はしています。防衛的悲観主義者だからそう感じるだけかもしれないけれど。

だけど、未来に何があるかは、よくも悪くもわからない。地図にない世界は知識など何の役にも立たない場所、経験だけが物を言う地だとオリヴァー・サックスは言っていました。このトラウマの迷宮という館も同じ。自分の手でひとつひとつ部屋の鍵を開けていくまで、そこに何があるか、自分がどう反応するかは何一つわからない。経験してみないことには想像すらできない。

前回書いたおなかに手を当てるセルフタッチのときもそうでした。セラピストは強い反応が引き起こされるかもしれないとためらっていたけれど、いざやってみると、予想外の反応が引き起こされた。そのときわたしはセラピストに言いました。「SEを始めてわかったことの一つは、経験してみるまでわからないということ。実際には経験してみると、頭で思っていたことと全然違う結果になることばかりだった」と。

わたしの未来もきっと、経験するまでどちらとも決まってなどいないのだろう。今はそう考えて、手の届くところにある扉から、地道に開けていこうと思います。

続きはこちら。


Categories: 4章。2018.05.04