ここ最近、何を目指せばいいのか、目標を見失って悩んでいました。
これまで数年間、わたしは自分の体調不良を改善するために神経科学や心理学を調べてきました。
しかし、その目的はおおよそ達成されました。過去の枷からすっかり解放されたわけではなくとも、かなり自由に動けるようになりました。医者や薬の世話にならずに済むようになりました。
なら、次はどうすればいいのか。せっかくあれほど身を入れて調べたのだから、今後も神経科学の本を読んだり、情報をまとめたりしていくべきか。確かにそれは需要がありそうです。
でも、それはわたしが今やりたいことではない。わたしはこれまでも、特定の分野に固執しませんでした。常に、自分が興味をもつ分野へ移動し続けてきました。
ならば、道北に引っ越してきて、生活ががらりと変化して、そこそこ体力もついた今、わたしがやりたいことは何なのか。
この九ヶ月、なかなかはっきりとした答えが出ませんでしたが、ようやく気づきました。
わたしは、ネイチャーガイドができるアマチュア博物学者になりたい。
もくじ
遊びにきた友達をガイドしてみて
ここ2週間のあいだに、ありがたいことに、東京と大阪から相次いで、友だちが遊びに来てくれました。
それぞれまったく違うタイプの友だちだったので、それぞれのニーズに合わせて、自然を楽しめるプログラムを組んであげました。
片方の友だちは体力に限界があったので、景色のいい湖や展望台をめぐり、近くの森で植物観察しました。
もう一方の友だちはアウトドア派だったので、川で泳ぎ、森の中をサイクリングし、夜には完全に真っ暗な山中まで行って星空を見せてあげました。
森や川での自然体験は、安全も考慮して地元のガイドさんに依頼しましたが、わたしも、そこそこ自分で解説できるようになってきたことに気づきました。
自然林や原始河川
森では今咲いているセリ科の花々、たとえば巨大で腕のように太いエゾニュウ、幾何学模様が美しいウ
川では、水際に見られる蛇のウロコのようなジャゴケ、空気のきれいなところにしか生えない地衣類、また護岸工事がされていない原始河川ならではの地形や、長い年月をかけて形勢されたコケむした岩のことなど。
また夜空を見上げながら
どの知識も、かつて都市で生きていたころのわたしはまったく知らなかったことばかり、ぜんぶ、ここ半年ほどに実地体験で学んだことばかりです。
都会から来た友だちは、かつてのわたしがそうだったように、自分が知らない自然界についての話を、興味深そうに聞いて、楽しんでくれました。
友だちの一人はアウトドアがとても好きな人でした。10年以上引きこもっていたわたしなんかより、よほどスキルと経験が豊富です。
だけど、
もっとも、わたしができたのは、風景の中の自分が知っている部分を選んで解説することだけでした。相手から尋ねられた質問に答えることは、ほとんどできませんでした。あまりにまだ自然界について知らないことが多すぎるからです。
自然界を十分に知らないのは、わたしだけではありませんでした。今回は地元の森や川のガイドさんにも依頼しましたが、そのガイドさんたちも知らないことがたくさんあるようでした。
自然界の知識をレベル1から99で評価するとしたら、友人はレベル3、わたしはレベル5、ガイドさんたちはレベル10、というくらいに思えました。確かに差はありますが、それほど開きを感じるわけでもありません。
かつての
身の回りのあらゆる動植物について知り、鳥の鳴き声とその意味を聞き分け、動物の生態を知り、植物が花や実をつける時期のみならず、その用途についても理解していたことでしょう。
だけど、現代人は、二度の戦争を経て知識の断絶を経
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる 最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているよう
わたしたちはその昔、自然と親しんでいた。自然はいわばファーストネームで呼び合うような親しい仲間だった。
ところがいまは森にあらためて自己紹介をするために、プロの力を借りなければならない。(p215)
いまさら自然界を親しく知ることなんてできる・・・のか?
この断絶を埋めることはできるのか。自然界からあまりに遠く離れてしまった人間が、また自然とつながることなどできるのか。
最近、自然界についてとても詳しい「プロ」たちの本ばかり読んでいました。
子どものころから湖水地方の森に入り浸り、植物や動物を持ち帰って解剖したりスケッチしたりして、その画力と知識をもって世界的な絵本作家として成功したビアトリクス・ポター。
ネイティブ・アメリカンの家系に生まれ、子どものころから部族のエルダーたちの植物の知識に親しみ、さらに大学で植物学について学んで、先住民の知恵と科学的な知識を融合させたロビン・ウォール・キマラー。
若いころからひたすら歩くのが趣味で、世界中の大自然を自分の足で歩き、サハラ砂漠のトゥアレグ族や、ボルネオ島のダヤク族とも接触し、大西洋を単独で横断した探検家トリスタン・グーリー。
こういう人たちの本を読んでいると、すごいなぁ、面白いなぁ、と心の底から思います。わたしもこうなれたらなぁ…と思ってはため息をつきました。
わたしはというと、大都会に生まれたせいで子どものころの自然体験に乏しく、病気で不登校になったせいで大学で学べるような学歴もなく、後遺症のせいで自然界を探検する頑健さもない。ないものづくしです。
はっきり言って、いま挙げた人たちのような自然界への博識さを育むのは、もう手遅れだと思いました。こういうのって、子ども時代の経験や専門知識を教えてくれる指導者が不可欠でしょう?
まあ、はっきり言って、無理な気はします。だから、あきらめていました。
でも、今回、遊びに来た友人を案内して、ちょっと気が変わりました。
わたしは自然界レベル50超えのような人たちを念頭に置いて、自分はとても無理だ、と思っていたけれど、もっと低くてもいいのでは?
さっき書いたように、アウトドア好きな友人や、地元でネイチャーガイドしている人でさえ、自然界レベルはそんなに高くないように感じました。
しっかり毎日、自然観察し、自然科学の本を読んで理解を深めていけば、数年もあれば地元のネイチャーガイドさんたちに追いつくかもしれない。
現代社会の人たちは、あまりに自然から離れすぎて、自然のことがわからなくなりすぎています。その中にあってはレベル50を目指さなくても、たとえレベル10くらいであっても価値があると思いました。
仕事としてのネイチャーガイドを目指すかどうかはともかくとして、せめて都会から友だちが遊びに来たときに、興味深い案内をしてあげられるようになりたい。都会育ちの人たちが自然と親しむ架け橋になりたい。
それくらいなら、わたしにだってできるはず!
現代人がこれほど自然界から離れているのであれば、だれかがガイドできるようにならなければいけない。人材不足すぎるので、少しでも知っている人さえ貴重。
大都会で育ちながらも、大自然のど真ん中に来たわたしは、それができるかもしれない。ちょうど異なる文化の架け橋となるバイリンガルのように。
わたしはまだほんの入り
今回、遊びに来た友だち二組を、移住して9ヶ月であれほど案内できたのであれば、本腰を入れて学べば、そこそこいい線までは行けるのでは?
自然界の「言語」を学ぶバイリンガルになる
さっき、バイリンガルという言葉を使いましたが、これは的を射た表現だと自分で思います。これはきっと、語学の勉強と同じなのです。
自然界について直感的に理解できるのは、いわば、自然界の用いる「言語」を理解している、ということです。森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書に引用されているヘルマン・ヘッセの言葉が示すように。
ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)は、そのことを、木々を観察する中で、美しく見事に記している。
「木々は神聖なものである。木々と語り、木々に耳を傾けることを知る者は真理を知る。
木々は教養や処方を説くのではなく、個々のものにとらわれない、生命の根本原則を説く。」(Hesse,1984)(p86)
ヘッセは、木々と「語り」「耳を傾ける」ように諭しました。
以前に書いたように、神経科学的には、わたしたちの「言語」の能力は、文字通りの言語にだけ使われているわけではありません。
未熟な学び始めのスキルは右脳の管轄下にありますが、熟達したスキルは左脳の管轄下に置かれ、高度に組織化されると言われています。
たとえばチェスの達人は、「チェスで考える」ことができ、数学者は「数式で考える」ことができ、画家は「絵で考える」ことができます。いずれも、専門技術が言語のように活用されています。
これらのスキルに共通していてるのは、いずれも、子どものころに学んだほうがはるかに有利だということです。どれも英才教育を受けた人のほうが「バイリンガル」になりやすいといえます。
外国語を話すバイリンガルになる人は、幼少期に外国に滞在するなどして学んだ人のほうが流暢になります。チェスも、数学も、絵も、音楽も、やはり子どものころからやっている人のほうが上手です。
いってみれば、チェスの達人は母語とチェスの二ヶ国語を話すバイリンガルのようなものであり、他の専門スキルを身に着けた人たちもまたそうです。
なぜなら、これらの技能はすべて、経験と感覚によって培われるものだからです。言葉によらず、知識によらず、身をもって実地体験することによって、「自分のもの」にする必要があります。そうした学習には、子どものころが最善です。
さっき挙げたビアトリクス・ポター、ロビン・ウォール・キマラー、トリスタン・グーリー、そしてアイヌやネイティヴ・アメリカンら先住民族たちは、子どものころから大自然の中で過ごすことによって、いわば幼少期から自然界の「言語」の英才教育を受けていたようなものだといえます。
彼らは、母語を話すと同時に、自然界の言葉も聞き分けることができるバイリンガルで、その両者を橋渡しして通訳することができます。
では、これらの技能は大人になってからではもう身につかないのか。
そうともいえません。確かに子どものころ学んだ人ほどには身につかないかもしれない。でも、大人になってから仕事で外国滞在でバイリンガルになる人も多いです。だから不可能ではない。
大事なのは環境です。
どうしても外国語を使わなければいけないような環境にひたすら身を置いていれば、大人でも感覚と経験によって、バイリンガルになれます。
同じように、どうしても自然界と密に関わらなければならないような環境に身を置いていれば、大人になってからでも、自然界の「言語」を身に着けることは可能なはずです。
さっき名前を挙げた探検家トリスタン・グーリーは、失われた、自然を読む力でそれを裏付けることを書いています。
風景の複雑な特徴をよく見ることは、現代人の心にとって難しく、自然なことではないようだ。それに苦労しているなら、この技術を磨くためのふたつの方法がある。
ハイテク機器も地図もコンパスもなしに長期間へんぴな場所で生活するか、風景をスケッチするかだ。
実際的な解決策は後者だ。スケッチの質は重要ではなく、大事なのは見て、気づく技術をみがくことだ。(p17)
グーリーによると、芸術家や先住民族のような自然観察の目を養うのは現代社会の人間には難しい。
しかし、「ハイテク機器も地図もコンパスもなしに長期間へんぴな場所で生活するか、風景をスケッチするか」すれば不可能ではないと。
つまり、自然界という外国の地に飛び込んで、どうしても自然の言語を読み取らなければ生き抜けないような極限生活をするか、あるいはスケッチをとるという方法で、じっくり自然界とコミュニケーションするか。
わたしは大自然の地方に住んでいるとはいえ、文明の利器をもたずに長期間自然の中で生活するできるほどの人間ではないので、やっぱり実際的なのは後者ということになるでしょう。
ビアトリクス・ポターやレオナルド・ダ・ヴィンチがしたように、自然界をよく観察してスケッチする習慣を身につけることで、自然の言語を学ばねばなりません。
どうやって自然界について学ぶか
はっきり言って、これはとても難しい。たぶん有名大学に受かるよ
有名大学在籍の知識豊富な教授のような人でも、外国語を流暢に話すことにかけては手こずるのと同じ。英語を話すには、単語を丸暗記しても無意味で、実際にコミュニケーションする経験が不可欠だから。
もっと必要なのは観察する力と感じ取る力
紙の上だけの二次元の知識と違って、空間の
身の回りのあらゆる事
博
でも、彼らこそわたしが尊敬する目標とすべき人なのだから、難
具体的なアイデアとしては…
・毎日少しでも自然を観察する時間を持つ
今でも毎日外出して、サイクリングしたり写真を撮ったりしてい
外国語を学ぶ場合もそうだが、とにかく現地で実体験することが大事。
・図鑑を持って外出する
今はスマホだけ持って外出しているが、町で自然ガイドをしている
外国語を勉強するときに、わからない単語に出くわしたらすぐ調べるのと同じ。
・アプリで使えるようになったGoogleLensで名前を知る
Google Lensは名前を知るための手がかりとして役立つ。
今までiOSではGoogle Photo内でのみGoogle Lensが使えたので、Wi-Fiがないと使えなかった。野外観
しかし、先月?やっとGoogleアプリでも使用できるようにな
Google Lensはそのままだと精度か今ひとつだが、調べたい部分を枠ツ
・自然界をスケッチする
ビアトリクス・ポターが実践していたように、またさっきの引用文で指摘されていたように、スケッチすることは、
だが、ほとんどの人は手軽
・自然科学の本を読む
最近しばらくやっているように、自然科学の関係の本を読むのはと
図鑑を読むのもいいのだが、難しい学問口調の無味乾燥な説明ばかりで、さっぱり頭に入ってこない。やっぱりわたしには図鑑より、自然科学の感情のこもったエッセイを読むほうが向いているようなので、その系統の本を定期的にリサーチする。
逆に、本
・学んだことを記事にまとめる
学ぶだけでなくアウトプットするのは重要。
わたしは読書
ただ読書量が多い読みっぱなしの人(
この三点、絵に描く、本を読む、記事に書くは、すでにネイチャー
でもわたしはこの三つをこれまで実行してきたので、これらの
・冬はどうすればいいだろう?
寒いので、外でスケッチするのは現実的ではない。他の季節に撮っ
冬に観察しやすくなる樹木を覚えるのもいいかもしれない。景色が
暖かい室内で本を読んだり、普通の創作を楽しんだりする季
・体調面はどうか
病気が治ったわけではないから、体力や体調面で不安はある。できることの量はあまり多くないと思う。
だから、目標のハードルを上げすぎないこと。自然界レベル50ではなく、レベル10くらいを目指そう。
だが
最良の場所に住んでいるのに、もったいない
こうしてやれることを列挙してみると、すぐに取り組めることがい
自然
今までやってきたことを変えていくのは大変ですし、不安もあります。
せっかく、この数年で、ひとつの分野を突き詰めたのに、今また別の分野に移ろうというのです。
もったいない気もします。今まで勉強してきた分野の最新情報を追わなくていいんだろうか、とも思います。
正直なところ、これまで学んできたすべての分野に片足を引っ掛けたまま、別の分野を開拓できたらいいのに、と思います。
でも残念ながら、わたしの体力はひどく限られていて、しかも読書が大嫌いなので、量はこなせません。
複数を同時に進めることは難しいので取捨選択しなければなりません。今まで勉強してきた分野を捨てるわけではないけれど、優先順位は見直す必要があります。
でも、今までもわたしはそうしてきました。世の中の多くの人たちは、自分が今まで投資してきた分野に執着するあまり、すばやく方向転換できず、損失を抱え込みがちです。これをサンクコスト(埋没費用)バイアスといいます。
わたしはそうした執着に乏しいので、変わり身が早いのが強みです。ただでさえ読者がいないこのブログが、さらに誰にも読まれなくなりそうですが、仕方ないでしょう。他人のために書いているわけではありませんから。
それよりも、わたしの信念としては、専門家より博物学者になったほうが実りが多いと思っています。ひとつの分野を突き詰めすぎるのではなく、定期的に新しい領域を開拓するのは、視野を広げるために大事です。
その点、自然観察は博物学者のホームグラウンドのような分野です。自然観察のスキルなくして博物学者になれるはずはないので、少しずつでも努力を継続していきたいです。
最近、地元のガイドの人に自然の中を案内してもらったときに、こんな興味深い話を聞きました。なぜ、わたしが今住んでいるこの道北は、観光空白地帯になっているのかという話。
交通の便が悪いということはもちろんあります。でも、アクセスの悪い観光名所は他にもたくさんあります。それだけが理由ではない。
ガイドさんが言うには、ここにも取材のために自然関係の雑誌の編集者などがやって来るそうです。
ところが、あまりに手つかずの自然が残っていることに驚いて、「ここは記事にしないでおきましょう」と言って帰ってしまうんだとか。
雑誌で宣伝してしまうと、観光客に荒らされてしまうので、自分たちが個人的に楽しめる秘密のスポットとして残しておきたいらしいです。
わたしが住んでいるのは、そんな場所なのです。せっかくこんないい場所に引っ越してきたのに、自然について本腰を入れて学ばないなんて、それこそもったいなさすぎる。
学問を学ぶために高名な大学を目指す人は多くいます。場所や環境が大事なのをよく知っているから。
それで言えば、わたしは自然界を学ぶのに最高の大学にいるようなものです。
ネイチャーガイドができる博物学者までの道のりはあまりに遠い。自然界の「言語」をカタコト程度にさえ話せるようになるか怪しい。
それでも、ぜひネイチャーガイドができる博物学者になりたい。それがわたしの、大きなやりがいに満ちた目標です。