彼女たちは自分の色をもつことができないでいる。多彩な色を身にまとうことはできる。そのなかに溶け込み、演じ、かぶることはできる。
しかし、自分の色を「もつ」ことができないでいる。多彩な色は自分がもつ色ではなく、他者がもつ色でしかない。
しかし彼女たちにはどこか状況に合わせて多彩な色を引き出す力、受動を能動に変えていく潜勢力がある。
彼女たちの何人かは、回復過程の中で絵やイラストを描いたり、作曲をしたりして創造的活動へと向かう。(p39)
あなたは、自分を色にたとえると、何色だと思いますか?
きっと人によってさまざまな色があると思います。赤とか青とか緑とか、何かしらの有彩色を挙げるのではないでしょうか。
最初に引用したのは、つい数日前に発売された解離の舞台―症状構造と治療の最初の章に書かれていた、「自分を色にたとえると、どんな色だと思うか」という興味深い質問にまつわるエピソードです。
この本によると、2015年1月、女子大学生154人を対象にしたアンケートでは、74%が何かしらの有彩色だと答えたそうです。
自分は情熱的ですぐ興奮するから赤だとか、特に理由はないけれど、黄緑っぽいとか、ちょっと陰気な茶色だとか、たいていの人はそれなりに、自分は何色だ、というイメージを持っていると思います。
中には、自分は有彩色ではなく、無彩色だと言った人もいました。残りの26%の人は、自分は「白」「グレー」「黒」だと答えたそうです。白はともかく、自分はグレーだと言う人は自信がないのだろうか、といぶかってしまいますし、黒だと言った人は、…うーん、何か黒いところを自覚しているのでしょうか(笑)
それはともかく、このアンケートでは、少なくとも、女子大学生たちはみんな、自分には何かしらの色があると思っていることがわかりました。
では、わたしは何色なのか。
薄々お気づきの方もいると思いますが、わたしは今まで出たどの色でもないと思っています。前に30の質問で答えた好きな色が、そのままわたしの色だと思います。それは「虹色」でした。
「虹色」というと、なんだかすてきなイメージがありますが、裏を返せば、これぞというただ一つの自分の色がないのです。
じつはこの本は、単に女子大学生たちの好きな色を調べたような本ではなく、その中には一人もいなかった、自分は「色がない」「透明」「虹色」といった一風変わったことを言うような人たちについて書かれた、まさにわたしのことを言っているような本です。
この本に出てくる「色がない」「透明」「虹色」の人たちの話は、わたしの場合ととてもよく似ています。さらに、わたしの絵のスタイルや、ずっと空想世界を描き続けていることとも関係しているようです。
自分は「色がない」「透明」「虹色」と述べるのはどういう人たちなのでしょうか。
グレーな時代に生きるわたしたち
わたし自身の色の話をする前に、わたしたちが生きる世の中の色の話をちょっと見てみましょう。
この本では、「自分を色にたとえると、どんな色だと思うか」という質問とは別に、「今の時代を何色に感じるか」というアンケートもとったそうです。
今この記事を読んでいるあなたなら、今の時代は何色だと感じますか?
たぶん、この質問への答えは、わたしとあなた、そして大半の人たちは、みんなほぼ一致していると思います。
20歳前後の若い女性たちに「今の時代を何色に感じるか」と聞いてみると、半数を越える女性がグレーと答える。グレーは鉛色、ねずみ色などと表現されるように、晴れない、冴えない、地味な色である。
たしかに近年、政治は迷走し、経済も好転せず、自殺者の数も高値であることに追い打ちをかけるように東日本大震災が日本を襲った。このような時代にあっては若い女性たちであっても、陰鬱、不幸をほのめかすグレーを連想しても仕方がないであろう。(p27)
そう、半分以上の人たちは、「グレー」、つまり灰色だと言いました。次に多かったのは「赤」だったそうです。興味深いことに、同じ質問についての古い記録が残っていて、戦時中は「黒」、敗戦直後には「グレー」が多く、どちらのときも「黒」と「グレー」だけで8割を占めたそうです。
あなたはいかがでしたか? この中に選んだ色はあったでしょうか。もし「グレー」「黒」「赤」あたりの色以外を選んだとしたら、世の中の雰囲気に呑まれない、ユニークなセンスの持ち主だと思います(笑)
わたしは、まあ、多数派と同じく、今の時代は「グレー」かな、と思いました。そんな感じのことを昔書いた気もします。
良いことと悪いこと、仕事と日常、大人と子ども、病気と健康、さまざまなことの境界があいまいで、何もかもはっきりしない時代に思えます。どんなものにも良い点も悪い点もあって、自分で好きなものを選べばいい。そんなあやふやな雰囲気が漂っています。
そうしたどんよりとした、先行き不透明を象徴するかのような「グレー」ですが、アンケートに答えた女子大学生たちの中には、「グレー」というのは必ずしも悪いものではない、というポジティブな見方をした人たちもいたそうです。
しかしグレーにはそれと同時にまったく逆の性質がある。さまざまな有彩色に発展する可能性である。
若い彼女たちのなかには少数派であるが、グレーについて、「これから先、何色にでも変化する可能性がある」「これから白や黒になれる」などのイメージを浮かべている人もいる。
グレーはすべての色の中心に位置していて、すべての色になりうる可能性を孕んでいると言ってもよいであろう。(p19)
グレーというのは、今は色がないけれどもさまざまな色で彩色する余地があるフラットな状態、ということでしょうか。
考えてみれば、この「グレー」の時代だからこそ、開かれた可能性の扉は数え切れないほどあります。ひとむかし前は、仕事というと親の跡継ぎになったり、地元の企業に就職したりするしかありませんでしたが、今やある程度自分のしたいことに挑戦できます。女性は結婚して主婦になるものでしたが、今ではそれなりに自分の夢を追いかける機会が開かれています。
「グレー」というのは、「白」や「黒」、あるいはだれかに決められた「色」という、一色だけの選択肢に縛られることなく、自分で道を切り開いていける可能性を示す色でもあるのです。
1世紀近く前の哲学者ウィトゲンシュタインも、「グレーは(白と黒という)二つの極のあいだにあり、他のどんな色合いも受け入れることができる」と述べました。(p30)
わたしは色がなかった
こうして考えてみると、無彩色の「グレー」というのも、あながち悪いものじゃないかもしれない、という気になります。
でも今の時代が「グレー」だと感じるのと、自分自身が「グレー」だと感じるのは、まったく別物です。
「今の時代を何色に感じるか」というアンケートでは2人に1人が「グレー」だと答えたわけですが、すでに見たとおり、「自分を色にたとえると、どんな色だと思うか」というアンケートでは、「グレー」に「白」と「黒」を含めても、無彩色を選んだ人は4人に1人だけだったのです。
考えてみればあたりまえの話で、いくら時代が「グレー」で、さまざまなことに挑戦できるチャンスがあると言っても、自分まで「グレー」だったら、何も選べない優柔不断な人になってしまうでしょう。自分に「赤」や「青」、「黄緑」といった具体的な色があってはじめて、グレーな時代を活用して、自分の夢を追いかけることができます。
ところが、わたしは、そんなグレーの時代を活用できるような、自分なりの色がある人ではありませんでした。
意外かもしれませんが、わたしはもともと、さっきのアンケートでいうと、女子大学生のうちだれも選ばなかった「色がない」人でした。
子どものころは黄緑が好きだったとか、学生のころは紫や赤を好んでいたとか、色の好みはあるにはありました。でも、自分自身のパーソナルカラーはというと、とりあえず好きな色を答えてはいましたが、決まった色はなく、「無色」とか「グレー」だとか言いたかったのが本心です。
さっき、このグレーな時代に自分までグレーだと優柔不断になってしまう、と書きましたが、学生のころのわたしはまさにそうでした。
たまたま成績がよかったから進学校へ進んだものの、自分が目指したい進路などなにもありませんでした。
わたしは今の今まで、自分の行っていた学校の偏差値なんて調べたこともなければ、そもそもよく聞く偏差値というものが何なのか、いまだに全然わかっていません。
だいたい、わたしは塾に行ったことがないですし、模擬試験も一度受けたかどうかで、進路相談もまったくしませんでした。ただ、とりあえず言われるままにそこを受験しただけでした。
受験勉強もしないでいったい何をやってたのか。そのころわたしは小説を書くのに夢中でしたし、漢字検定が流行してたので、中学生のうちに準一級まで合格して、一級の勉強に取り組んでいたころでした。残念ながら高校に行ってからは忙しすぎて一級は無理だったんですが。
進学校に行ってからも、どこの大学に行きたいとか、どんな仕事をしたいといった夢は、まったくかけらさえもありませんでした。そして、そのうちに体調を崩して不登校になりました。自分に色がなかったせいで、周りに流されるままにあらゆることに手を出しすぎて、体力的に破綻してしまったんでしょう。
当時わたしはあらゆることをやっていました。学校の中でも、学校の外でも、やってみるよう言われたことは全部やって、なにをやってもそこそこ楽しく、がんばれました。でも、何をやっても、自分が本当にやりたいことは見つかりませんでした。
学校にも行けなくなったわたしは、前に書いたとおり、自分はどうしようもないダメ人間だと思うようになりました。
わたしは、あらゆる色になれると同時に、あらゆる色がありませんでした。
相手によって色が変わるという能力
あらゆる色になれるのに、何の色もない。今回読んでいる本では、それがギリシャ神話に出てくる海の神プロテウスに例えられていました。水のように何にでも変身でき、カメレオンのように色を変えられる同一性のない存在。真の姿を把握することが難しいものの象徴なのだそうです。(@49)
わたしは、自分に色がないのは、ごく普通のことだと思っていましたが、この本を見ると、どうやらそうではないようです。自分は「色がない」とか「透明」だと述べる女子大学生の中にはひとりもいませんでした。
でも、世の中にはそんな不思議なことを言うわたしみたいな人たちもいるようです。
次の言葉は、20代前半のある女性によるものだそうです。
いつも私は周りに怒りの表情を出さない。自分で抑えちゃう。怒るのは面倒なので押し込んで相手に合わせる。面と向かって思ったことを言うと、がっかりされて嫌われるんじゃないかと思う。
意識的にも無意識的にも合わせる。相手の感情の変化に敏感で、相手が言ってほしいことを言ってあげる。相手に合わせるよりも、そういった自分が出てくる。
相手によって色が変わる。コアは変わらないが、それを覆う膜が変わる。それがいつか破綻する不安がある。
読書をすると、その世界に入ってしまう。夢にも影響を受ける。
さまざまな状況に合わせることがそれなりにできてしまう。合わせることに疲れるということはない。いろんな人の気持ちがわかる。裏表ではなくサイコロです。どの面が出ても私。(p143)
もう、わたしの代わりにわたしのことを語ってくれたんじゃないかと思うほど、わたしの本質をそのまま語っている言葉です。そもそも自分のことが書かれている本だとわかっていたからこそ、この本を買ったわけですが、こんなにもドンピシャで表現されているとは思いもしませんでした。
いったいどういうことかというと、「相手によって色が変わる」。これにつきます。
自分に色がない、というのは、場面に応じて、どんな色でも自分に写し取れてしまうということです。その場の相手や状況によって、自分という存在が何色にでも変化してしまって、別人のようになってしまいます。
わたしはそれがごく当たり前のことだとずっと思っていて、他の人はそうではないと気づいたのは、わりと最近、5年ほど前だったかと思います。わたしはどんな人に対しても、相手の興味や趣味に完全に合わせた接し方をするのですが、普通の人はそこまで自分を変えないことを知りました。
場面によってカメレオンみたいに人が変わる、なんて言うと、まるで裏表のある自分を使いわけているかのように思われそうですが、まったく違います。
今の女性が言っていたとおり「裏表ではなくサイコロ」「どの面が出ても私」なのです。
多分、わたしとの付き合いが浅い人は、わたしの一面だけしか見ていないので、わたしに色がなく、どんな色にでも変わるという特徴を知らないと思います。
このサイトで記事や絵をかいているわたしは、日常生活でだれかと会っているときのわたしと随分違います。もっと言えば、家族といるときとか、特定のコミュニティにいるときとか、特定の友達といるときなどで、別人かと思うほど、性格が変わります。
決して自分を使いわけているわけではなくて、その場になると、いつの間にか勝手に変わっていて、考え方やら好みやらまで変化してしまいます。自分を無理して繕っているわけではないので、どんなわたしになるとしても、全部自分、「どの面が出ても私」です。
世の中にはときどき、無理に気を使って、八方美人を演じる人がいます。自分の気持ちに反して、嫌われないように「いい人」を演じる人たちです。この本でも、さっきの女性の例とは似て非なるものとして、そのような人たちが対比されています。
そうした人たちは、相手の考えを逐一気にして振り回され、頭の中が一杯になります。いつも他人の顔色をうかがっている自分に嫌気がさしますが、それでも気を使ってしまいます。(p142)
わたしはそういう苦労や葛藤は全然ありません。さっきの女性の言葉どおり、「相手に合わせるよりも、そういった自分が出てくる」だけで「合わせることに疲れるということはない」からです。もともと自分に色がないので、別の色になることにも苦労はしません。
一方で、八方美人で「いい人」をやっている人たちは、本当は自分には特定の色があるのに、好かれたいという気持ちから、無理して相手の色に合わせているので、フラストレーションがたまります。わたしも何度かそうした二面性のある人たちに出くわして怖い思いをしてきました。いつもはひたすらいい人なのに、あるとき突然 豹変したり、陰で悪口を言ったりする人たちです。
わたしはだれかに対して怒ってキレたことは、少なくとも大人になってからは一度もないですし、陰で不満を言うこともありません。無意識のうちにいつの間にか、勝手に相手に合わせてしまっているだけで、無理して相手に合わせているわけではないからです。
その代わり、さっきの女性と同じく「いつか破綻する不安」を感じることがあります。場面や状況が変わると、際限なく自分の姿も変わって広がっていくので、自分が何なのかよくわからなくなってしまうのです。結局、プロテウスってどんな姿なの?というような状態です。
さっきの人とは別の20代前半の女性はこう言っていました。
自分は暗めの絵の具がこぼれて、汚く混じり合った感じ。基本的に自分を単色と感じることができないですね。
私にいろんな色がある。赤、白、ダークグリーン、エンジ色、ひまわりの色、オレンジ。
曖昧な表現を駆使して相手に自分の感情を伝えたい切なさがある。素の自分がわからない。いつも何かしらを演じている。(p38)
わたしもやっぱり「素の自分がわからない」という悩みがあります。どの場面で出てくる自分も、別に無理して演じているわけでも着飾っているわけでもないので、全部わたしそのものです。裏表ではなく、すべてわたしというサイコロの一面ですが、一人称や喋り方まで変わってしまうので、素の自分がどれなのかまったくわかりません。
この本によると、こうした無意識のうちに過剰に同調してしまう傾向は、幼いころから「安心できる居場所」がなく、周りに同調しなければ生き抜けなかったような環境で育った人特有のものだそうで、わたし自身もまあ、思い当たるふしは十二分にあります。
けれども、さっきの女性が言うように「さまざまな状況に合わせることがそれなりにできてしまう。合わせることに疲れるということはない。いろんな人の気持ちがわかる」という色のなさは、ある意味で才能でもあって、人とコミュニケーションするときには大いに役立っている気がします。
この本で、30代前半の別の女性がこんなことを言っていました。
私自身は半透明、ちゃんと自分の輪郭があって自分の色が欲しいと思う。
私が半透明なのは、透明のように何もなくなることの延長ではない。相手に合わせて色が変わる。私が半透明で、それを通して色が見える。
自分の色が欲しいけど、一つになると、いろんな色になれたのにそれができなくなる。それも能力のうちだと思っているところもある。自分は存在感がなくて、何にでも溶け込んでしまう。何にでもなるし、何でもない。(p38)
わたしも同じように思っていて、いろんな色になれるのは「それも能力のうち」だと思っています。色がないからこそ「何にでもなるし、何でもない」わたしがいます。
つい先月のことですが、まだこの本がまだ発売されてないころに書いた自分語りの記事の中で、まさに同じことを書いていました。ユニークすぎる色を持ったギフテッドの子と違って、わたしの弱みでもあり、強みでもあるのは、どんな環境にも変幻自在に合わせすぎてしまうことなのだと。
わたしの絵はなぜ虹色なのか
こうやってわたしの色のなさを見てみると、わたしが色がないと同時に虹色なのもよくわかります。
この本に載せられているさらに別の30代前半の女性たちのコメントを見てみましょう。
自分はカメレオンのように周りの色に合わせる。自分には色がない。自分のなかには全部の色がある。玉虫色になっている。
つねにいろんな要素があって、状況によって特定の色が出てくる。自分の引き出しから出てくる。(p35)
世界は何色にも変わる無色です。光の加減でペンとかでも虹色になる。そのときそのときで、黒いイメージであったり、虹色、紫であったりする。
自分は色を持っていない。そのときの環境で自分の色は変わる。相手の求めるものに合わせすぎる。
そこまで気をつかわないでいいよと人に言われる。子どもの頃からそれは変わらない。(p36)
色がないということは、「全部の色」があり、「玉虫色」でもあり、「虹色」だったりもするということです。人から見れば、気を使っているように見えることもあるかもしれませんが、全色乗せが素なので、気を使っているわけでも無理しているわけでもありません。
わたしが、虹色の絵を描くようになった理由はここにあるのでしょうか。
はっきりとはわかりませんし、なんだかこじつけみたいな気もします。
でも、わたしは学生のころまで、ひたすらグレースケールの色のない絵を描いていました。色が描けなかったからです。色を塗ると絵が微妙になってしまうという不安がありました。
もしかすると、それは、さっきの女性が言っていたような「自分の色が欲しいけど、一つになると、いろんな色になれたのにそれができなくなる」という不安の反映だったのでしょうか。考えすぎな気もしますが、意外と的を射ている気もします。
わたしは、ずっと色を塗ることに抵抗を感じていて、コンプレックスにもなっていましたが、あるとき、しっくり来る解決策を見つけました。特定の色を塗る配色が苦手なら、虹色に塗ればいいじゃない。
そんなわけで、色を塗れないからこそ、わたしは虹色絵描きになった、というのはずっと前にも書いたとおりです。
何年も前にその記事を書いたわけですが、今になって、その理由かもしれないことを突きつけられるとは思いもしませんでした。
わたしは特定の色を持っていた大学生たちと違って、「色がない」か、「虹色」か、どちらかしか選べない生き方をしてきた人間だったのです。
あなたがわたしに色をくれた
わたしが「色がない」から「虹色」になったという実感は、じつは何年も前に、絵のモチーフにして描いたことがあります。しつこいようですが、今回の本はつい数日前に発売されたので、それを読むよりずーっと前の話です
この絵では、「色がない」男の子に、色とりどりの世界に住む女の子が手を差し伸べている様子を描きました。象徴的な絵ではあるものの、わたしの心情を投影した懐かしいイラストです。
わたしは不登校になってから、数年前、絵を本格的に描き始めるまで、やっぱり「色がない」ままでした。なりゆきで進学校に進んだあのころと同じまま、何のやりがいもなく、人生の目的さえもなく、ただ黙々と一日一日を過ごしていました。
でも、絵を描くようになってから、少し世界が変わりました。白黒に見えていた、薄っぺらく味気ない世界が、少しずつ、優しい色で彩られていきました。
冒頭で引用したこの本の説明を覚えていますか?
彼女たちは自分の色をもつことができないでいる。多彩な色を身にまとうことはできる。そのなかに溶け込み、演じ、かぶることはできる。
しかし、自分の色を「もつ」ことができないでいる。多彩な色は自分がもつ色ではなく、他者がもつ色でしかない。
しかし彼女たちにはどこか状況に合わせて多彩な色を引き出す力、受動を能動に変えていく潜勢力がある。
彼女たちの何人かは、回復過程の中で絵やイラストを描いたり、作曲をしたりして創造的活動へと向かう。(p39)
まさにわたしがたどってきた道のりだと思います。
ここでちょっと書かれているように、わたしみたいなややこしい幼少期を送ってきた人の中には、芸術的な感性がある人が多いと言われています。というのも、ほんの幼いころから「安心できる居場所がない」環境で育ったせいで、自分だけの空想世界を思い描く力がたくましく成長していくからです。
この本の中では、幼いころに安心できる居場所がなかった2o代のある女性についてこう書かれています。
家庭は素の自分を出せる場所ではなく、無理強いをさせられた場所であった。…幼少時から安心して素の自分を表現できる機会がなかったという。そのような状況に対して拒絶することもできない。
そんな彼女を支えていたのが、イマジナリーコンパニオンの存在や空想や物語の世界であった。
これらはもう一つの現実の世界であったが、それが機能するのはそこに没入しているときだけであり、現実の世界での居場所は次第になくなっていった。(p148)
赤毛のアンのアン・シャーリーは、家族にめぐまれない孤児でしたが、あの小説を読んだ人ならわかるように、空想力で世界を楽しくする才能にかけては、右に出る者がいないほどでした。
アン・シャーリーのモデルは、作者のルーシー・モード・モンゴメリ自身だと言われています。モンゴメリは2歳にならないうちに母親が亡くなり、祖父母に預けられるという辛い幼少期を送ったので、空想世界が辛さを和らげるスパイスとなったのでしょう。
また、ピーター・ラビットの作者ヘレン・ビアトリクス・ポターもまた、恵まれない境遇で育ちました。貴族家庭の箱入り娘として、部屋から出してもらえず、遊び相手もいないという、幽閉されたお姫さまのような子供時代を過ごした彼女は、のちに世界中の人に愛される空想世界の絵を描くようになりました。
ちなみに、わたしが描く「空花物語」のお姫さまであるハナの生い立ちは、わたしが夢の中で見た情報に忠実に描いたつもりでしたが、のちにヘレン・ビアトリクス・ポターの生い立ちを知って、二人の状況はよく似ているなーと思ったものです(笑)
こうした形で、子ども時代に「安心できる居場所」を得られなかった人たちが、代償的に空想世界をつむぐ力を身につけることは、ずっと前の記事でも扱いました。そのとき参考にした本は、今回の本と同じ著者によるものでした。
空想世界の中でだけ虹色でいられる
わたしは、「色がない」というのは、虹色の空想世界を作るための才能だと思っています。
さっきの女性たちの中に、「自分には色がない。自分のなかには全部の色がある。玉虫色になっている。つねにいろんな要素があって、状況によって特定の色が出てくる。自分の引き出しから出てくる」と言っている人がいました。
空想世界をつむぐというのは、ひとつの色しか持っていない人にはできないことです。
わたしのイメージとしては、わたしの絵に登場する人物のうち、ゆめはピンク色、まなきは緑色、ソラは空色、ハナは赤紫色、にゃんたすは黄色、といったパーソナルカラーがあります。みんなそれぞれ色を持っていますが、そんな様々な色が含まれた世界を創っているわたし自身は、「色がない」から、どんな色でも生み出せます。
そう思うと、色がない変幻自在な自分も、あながち捨てたものじゃないのかも、という気になります。
今の時代は「グレー」だと述べた人たちの中に、「グレー」には、さまざまな色へ変化する可能性があると感じた人がいたように、わたしも、色がない自分の中に、どんな色の空想世界も創れる可能性を見つけられるのかもしれません。
「かもしれません」だなんて、なんともあいまいで自信なさげですが、わたしは「虹色」の持つ強みを知るようになったとはいえ、相変わらず自分に「色がない」という現状はそんなに変わっていません。
絵を描いたり空想世界をつむいだりしているときだけ、わたしは自分が虹色の世界にいるかのような満足感を味わいますが、それ以外の場面では、なんでもそれなりにできるものの、なんにも意義が感じられないままです。
これは多分、わたしに限ったことではなく、「色がない」人生に生まれついてしまった人におそらく死ぬまでつきまとう運命なのではないかと思います。
前に記事で書いた、「創作していないと死んでしまう人」たちは、アイデンティティの拡散という問題を抱えていました。そうした芸術家たちは、常に創作していないと生きる気力さえなくなるので、いわば生きるための生活必需品として創作を続けていました。
彼らを追い立てていた「アイデンティティ拡散」というのが、取りも直さず、わたしが抱えている、「色のない」状態、「いつか破綻する不安」なのだと思います。「色がない」ということは、裏を返せば、虹色の世界を創作していなければ、見えなくなって消えてしまうということでもあって、創作しつづけて初めて、何かしらアイデンティティがあるように感じられる、ということだからです。
「色のない」人たちは、この世界で生きているかぎり、どこにも「安心できる居場所」を見出だせず、ただ自分が創り出す空想世界の中でだけ、有彩色でいられます。
自分の力でしか「安心できる居場所」を創り出せないので、自分が創作をやめたら、そのとき自分はこの世界から消え失せるということを承知しています。
結局のところ、「色がない」ということは、透明になるか、虹色になるか、という二つの可能性が常に隣り合わせなのです。
さっき出てきた、幼少時に居場所がなくて、空想世界を創っていた女性は、大人になってからこう言ったそうです。
自分にはずっと居場所がなかった。でも居場所は実際に存在するものではなくて、それぞれの受け止め方によるものだと思います。
居場所は心の奥底にあるものであれり、自分が作り上げるもの、そして創造するものです。居場所とは自分が作り上げないといけないもので、ぶれないものです。(p149)
「グレー」の時代が、不安と期待が常に隣り合わせになっていて、どこまで行ってもあいまいで不安定なままであるのと同じように、「色がない」人も常に、自分が消え失せる不安を抱えながら、あいまいで不安定な人生を生きていくしかありません。
グレーの時代を生きぬくには、自分の力で進路を見つけ、自分ならではの色を活かしていかなければならないのと同じく、「色がない」人もまた、自分の創造力だけをたよりにして、自分が自分でいられる虹色の場所を創っていくしかないのです。
グレーは「他の色合い」を受け入れ、それを映し出す、より柔軟な潜勢力をもったヴェールのような機能を果たす可能性を含んでいる。(p30)
彼女たちは自分の色をもつことができないでいる。…しかし彼女たちにはどこか状況に合わせて多彩な色を引き出す力、受動を能動に変えていく潜勢力がある。
…不安をかきたてる影や色を映し出すヴェールに取り込まれるのではなく、さまざまな色の自己を包み込み、それらを映し出す「私」の創造的ヴェールを機能させることが必要であろう。(p39)
わたしに、さまざまな色の自己を包み込む創造的ヴェールを紡いでいくだけの力があるのかどうか、いつも不安に駆られます。
でも、わたしはそうしていくしかありませんし、わたしがこれまでに創り出してきた虹色の世界は、確かにそうできるという自信をわたしに与えてくれているのです。