絵を描く情熱を失いました。
一時的なものなのか、もっと重大なスランプなのかはわかりませんが、とにかく描く意欲が消え失せてしまいました。
絵を描きたいという気持ちは心の片隅にはあるのですが、どちらかというと絵を描くのが怖い、という気持ちのほうが強いのです。
絵を描く情熱を失うというのは、作家の世界では珍しくないそうです。インターネットで検索すると数多くのエピソードが目に留まります。
わたしの場合は、別に仕事ではなく、趣味なので、絵を描く情熱がなくなったなら、やめればいい、と思いますが、そうはいきません。絵を描く情熱がなくなっても、絵を描くことは好きなのですから。
なぜか結婚生活がうまくいかないけれど、配偶者のことは好きでたまらないのと似ています。別れればいいという問題ではないのです。
このエントリでは、絵を描く情熱を失ってしまったわたしに対して、認知行動療法を施してみたいと思います。また、ネット上のいろいろなエピソードも参考にしてみます。
※この記事は2014年6月のものですが、ブログ移行に伴い、12月に加筆修正を加えています。
なぜ絵を描く情熱を失ったか
わたしは絵を描く情熱を突然失ったわけではありません。なんとなく、絵を描くのが辛くなって、「ゆめまな物語」を一度完結させることにしました。絵を描く情熱を失いかけていることに気づいたため、完結の4部作を描くことにしたのです。
所属していたお絵かきコミュニティにも、少なくとも一ヶ月は休む旨を書きました。自分の異変をいち早く察知していたので、計画的に行動したのです。
それにしても、毎日のように絵を描いていたわたしが、なぜ絵を描く情熱を失ってしまったのでしょうか。このスランプは何なのでしょうか。
認知行動療法では、まず不快な気分に陥った原因となる出来事をさぐります。それを洗い出してみましょう。ひとつではありません。
原因1:周りの人による評価
わたしはいくつかのお絵描きSNSに絵を投稿していました。しかし、そこでの評価は芳しくありません。下手なのでしょうがないですが、苦労した絵が、見向きもされないとなると、相当がっかりします。
特にPixivは周りのレベルが高いので、わたしにはデメリットしかありませんでした。
原因2:絵を描く交流
別のお絵かきコミュニティのほうは、わたしのレベルにもよく合った理想的なところでした。そこで、大勢の作家さんと交流していたことが、絵を描く原動力になったといっても過言ではありません。
しかし交流は時に足かせになることもあり、たとえば、せっかく新しい絵を描いてくれたのだから、コメントしてあげないと、という義務感を感じることもありました。
これはSNSでよくある、交友範囲の広げ過ぎの問題です。SNSでは際限がないのです。SNSとうまく付き合うには経験を積む必要があります。
原因3:自分が絵に向いていないことを実感する
わたしは基本的に生まれつきの認知パターンが絵に向いている人ではありません。
わたしは映像思考ではなく、言語思考です。人には、物事を画像に置き換えて考える人と、言葉で考える人の二通りがいるのです。わたしの友人にも、映像思考の人がいますが、その人はまず画像が頭に思い浮かぶそうです。
わたしはどちらかといえば言語思考です。流れるように文章が出てきます。文章であれば、いくらでも書ける自信があります。
ときどき、これでもかというほど発想豊かな絵を目にします。それは、流れるように画像が思い浮かぶ人が描いたものに違いありません。わたしにはその能力はないのです。
わたしは絵を描くたびにそのことを痛感します。
わたしは絵を描くまで、自分は発想力豊かな人間だと思っていました。しかし絵を描き始めて、わたしの発想力は非常に限られたものであり、アイデアがほとんどないことに気づきました。
原因4:絵を描く目的を見失う
絵を描く目的とは、7つの習慣でいうところのミッション・ステートメントのようなものです。道に迷ってしまった時に取り出す、行き先の記されたマップのことです。
信念やモットー、使命感とも言われます。
わたしは何のために絵を描いてきたのでしょうか。
はじめは、どこにも行きようがない、不登校だったわたしにとって、絵を描くことは自己実現の手段でした。絵の中でなら、なんだって自由なのです。
しかしわたしの拙い発想力では、表現の幅が狭いことも知りました。
また、双子とネコに、世界中を冒険させてやりたい、という気持ちも抱いていました。ところがその冒険は終わらせてしまったのです。
わたしにとっては一種の燃え尽き症候群のように思えました。
絵を描いても、収入につながるとか、有名になるとかいうことは、わたしの画力では決してありません。ではほんとうに、何のために絵を描くのでしょうか。それがわからなくなりました。
別の見方はないか、探してみる
認知行動療法では、原因となる状況と、それにたいする自動思考(はじめに感じた思い)を洗いだしたら、次に別の考え方はないのか、ということを探ります。
さきほど挙げた4つの原因に対応する反論を挙げてみましょう。
1.別の見方:喜んでくれる人がいればそれで十分
Pixivで評価されないと書きましたが、閲覧数はたった30人ほどです。多くて100人でした。そんな僅かな数の人に評価されないとしても、何が問題なのでしょう。
まず第一に、わたしの絵はオリジナル絵ばかりです。版権絵をたまに描くと、評価もブックマークもそれなりにもらえます。Pixivはそういう場所です。わたしはPixivのユーザー層と趣味の合わない絵を描いているだけなのです。
(実際に、その後、Pixivで版権絵をたくさん描いていると、各10ブクマくらいもらえるようになりました。しかし、描いていて楽しくなかったですし、SNSに参加することへの興味がなくなったので、11月でPixivは退会しました)。
第二に、わたしの絵は、リアルの友人間ではちょっとは好きになってもらえています。わざわざ仕事場に飾ってくれる人もいたり、ポストカードとしてほしいと言ってくれる人さえいたりします。
もうひとつのコミュニティでも、コメントしてくれる人がいました。わたしの絵を好きになってくれる人は少数でも存在するのです。
友達だから、ひいき目で見てくれていることはもちろんあるでしょうが、喜んでくれる人がいるなら、それで十分ではないでしょうか、
第三に、どんなにうまい絵でも、嗜好が合わなければ、スルーされます。それが絵の世界です。わたしも、いろいろ上手な絵を見てきましたが、模写やアニメ絵にはあまり興味がありません。すべての人に気に入られる絵なんてないのです。
確かに、評価が数字で表されるのは、とても辛いです。自分が悩みぬいて描いたオリジナル絵より、模写やアニメの絵の評価のほうが基本的には高いので、嫉妬心にかられてしまいます。
しかしそんなときは、逆に、少しでも見てくれる人がいたことを喜ぶべきでしょう。コップに水が少ししかないと気落ちするのではなく、少しでも入っていることに感謝するのです。
SNSという切磋琢磨する場から逃げるのは愚かな選択でしょうか。確かにそのことで、上達する可能性がいくらか閉ざされるかもしれません。しかしストレスで絵をやめてしまうよりずっといいはずです。
もし起伏の激しい山道を歩いていけそうにないなら、平地を迂回して山を越えるというのも、一つの方法ではないでしょうか。自分の体力に応じて適したルートを選べばいいのです。たとえ遠回りのルートを選んだとしても、目的地へと歩き続けることは可能です。
2.別の見方:今は絵を描くことがベスト
絵を描くのに交流は必要でしょうか。
はじめはそうでした。わたしが絵が少しでも上達できたとすれば、それは間違いなく、実力に即したコミュニティに属して、いろいろなフィードバックを得られていたからです。
下手な絵でも見てくれる人がいて、絵について話し合える空間は何物にも変えがたいと思っていました。
結局そのコミュニティではフォロワーが1000人まで増えました。
しかしそれが逆に問題でした。絵を描きたいのに、それ以外のことに時間が取られるようになったのです。
考え方を変える必要がありました。確かに初期のころは、絵を描き続けるのにコミュニティの助けが必要だったかもしれません。しかし絵を描くことが身近になった今もそうなのでしょうか。
わたしは絵を描き続けるのに、コミュニティに所属し続ける必要はないと判断しました。
わたしの絵はリアルでも見てくれる人が大勢いますし、ウェブサイトでも公開することができるので、わざわざSNSに投稿する必要を感じなくなったのです。
3.別の見方:好きならそれでいいじゃない
才能がないから描けない、というのは事実です。でも、才能がなくても、好きだから続けているなら、それはそれで立派なことなのです。
相撲の世界に森麗(もりうらら)という力士がいます。まったく相撲の才能がなく、最弱力士とまで言われています。成績もパッとせず、連続負け越しのワースト記録を作りました。
それでも、相撲が好きだという思いから現役を続けていて、好角家の間では、それなりに人気があります。
相撲に才能のない力士はこれまでも大勢いたと思います。しかし森麗が特別なのはやめなかったことです。
わたしも、なんだかんだと言いつつ、子どものころから絵を描くことは続けていますが、才能がなくてもやめないなら、それなりにいいことだってあるのです。
森麗と大関稀勢の里は一学年違いですが、どちらのほうが、相撲を楽しんでいるかと言われたら、必ずしも稀勢の里のほうが何倍も楽しんでいるとはいえないと思います。
絵も、うまい人と比べるのではなく、自分の持ちうる才能の範囲で楽しむようにすればいいと思います、うまい人の絵は、すごいなーと口を開けて見ればいいだけの話です。ねたむ必要はありません。
言語思考であって、画像が思い浮かばないというのは確かに弱点なのですが、だからこそ絵を描くことが自分にとって大事だと思えるときがあります。
たとえば、わたしは、「ゆめまな物語」の双子のイメージをずっと持っていましたが、絵に描くまでどんな姿なのか知りませんでした。絵に描いてはじめて、わたしと双子は本当の意味で出会うことができたのです。
ルイス・キャロルは、典型的な言語思考の人で絵の才能がないと評されましたが、手紙を書く際には挿し絵を添えることをずっと続けたと言われています。
自分の頭の中にイメージを思い描けないからこそ、目に見える挿し絵を描くことは彼にとって意味があったのです。
それに、才能がないように思えても、クリエイティブさはある程度伸ばすことができるものだとおもわれます。以下の記事に書かれているように、創造性はある程度習慣によって培われます。続けることにはどんな場合でも価値があるのです。
創造性は才能というよりむしろ習慣。今から身につけることもできます : ライフハッカー[日本版]
心理学者であり精神鑑定者のRobert Sternbergさんの調査によると、基本的には創造的思考はまったく超人的なものではないそうです。
朝起きたら最初に歯を磨いたり、爪を噛んだり、そのほか自動的にやるように脳が調教されている定期的な行動と同じように、創造的思考というのもまた一種の癖なのだと、Sternbergさんは言います。
4.別の見方:描きたい理由はいくらでも探せる
ここまで書いてきてはじめて気づきましたが、今回のスランプで一番大きな問題はこの4番目、絵を描く意味を見失った、ということかもしれません。
絵を描く目的は人によってさまざまです。
ひたすら純粋にうまくなろうとする人がいます。いわゆる大関や横綱を目指して頑張る人たちです。でもそんな華やかな世界は、才能ある人のためのものです。
お絵かきコミュニティが楽しいから、続ける人もいます。作家さんたちと絵について話すのが楽しいのです。必ずしもうまくなくても構いません。
自己表現のために描く孤高の絵師もいます。フィンセント・ファン・ゴッホはそんな画家でした。周りの評価など気にせず、描きたいものを追求するのです。それもまた素敵です。
どんな動機であるにせよ、外的報酬ではなく、内的報酬に動かされて絵を描くほうが長続きします。つまり、だれかに褒められるから、とか、評価されるからというものではなく、自分の内に描く意味を持つのです。
わたしの場合は何でしょうか…。
とてもきれいな色使いの絵や可愛い絵を見たとき、自分もこんな絵を描きたいと思います。
ちょっとした言葉や歌詞からインスピレーションが広がって描きたくなることもあります。
自分の思い描いた世界を、絵という形にしてみたいときもあります。たとえばファンタジーな絵がそうです。温かい家族の絵なんかも、自分が思い焦がれて描くものです。
たぶんわたしは、また描き始めると思います。わたしの大好きな双子とネコに、もっと冒険させてあげたいです。
もっと別の世界を創造するのもいいかもしれません。今はまだアイデアがありませんが、「ゆめまな物語」も今年に入るまで、形がなかったのですから。
そう、自分の思い描いた世界を形にする、これは、わたしにとって最も強い動機付けかもしれません。
先人たちの13のアドバイス
Web上を見ると、絵を描く情熱を失ったという話はたくさん出てきます。わたしが心を動かされたものをいくつか紹介したいと思います。
後悔しないために
絵の情熱がなくなりました。 私は絵が大好きで、最近では大学入試に向けて日々… – Yahoo!知恵袋
けど、突然、描きたくて描きたくてたまらなくなることがあります。「諦めずに美大を受験していたら、今がもっと違っていたのでは?」と思ってしまいます。でも社会人が趣味の絵に掛けられる時間って、多くないんですよね・・・。同じ結果になって欲しくないのです・・・・・
とても有名なベストアンサーですね。わたしもこれを読んだときは励まされました。わたしも、一度絵を描くことを諦めて、進学校に通った経験者です。
それが今、不思議なことに再び絵を描く時間と機会が舞い込んできたのです。これを無駄にはしたくないと思います。
狭い世界を飛び出そう
私の絵が下手なんですよね?お絵かきサイトPixivにて。 – Yahoo!知恵袋
でも、趣味なんだから自分の好みの絵を描いてればいいのに、そんなことにこだわって、絵を描くなんてバカバカしくないですか?
趣味ではなく、将来の職業に考えているからそれだけ真剣なんだっていうなら別ですけど。そうでないなら、あんまり気にしないほうがいいですよ。
>私の絵が下手なんですよね?
そんな事をわざわざ目の当たりにしてどうするんですか?好きで楽しくて描いているだけではいけませんか?
こちらははてブはついていませんが、個人的に、上に回答と同じくらい励まされたベストアンサーです。
Pixivのような狭い偏った場所で自分を評価するのはもったいないです。わたしがPixivに登録したのは、絵描きとして使っていることがステータスだと思ったからにすぎません。結局、そこにこだわっても仕方がないので退会してしまいました。
プラトー現象
もしも僕のように感じていてそして大きなスランプにはまってしまったなら、まず自分がスランプに陥るレベルまできているんだということに気がつくべきだと思う。
スランプのときはなかなか考えられないことだけど、そういった壁があることがまだ自分が上達していくという望みがある証しなのだから。絵が上達する成長の過程のひとつとしてスランプはとても大事なものなんだと思う。
わたしがネットで知り合った人も、スランプの後には画力が向上する実感があって、筋肉の超回復みたいなものだと述べていました。
専門的にも、このブログで何度か使っている用語にプラトー(高原)現象というものがあって、成長の前には停滞があるものなのです。
順調に成長してたのに、急に「伸び悩み」が!でも焦る必要はありません…「プラトー現象」 – 烏は歌う
続けないのは損
実際には50時間を費やした後、90%が脱落する。 好きになれない、向いていないという理由でだ。 そしてさらに50時間費やした人の90%があきらめる。 このような普遍的なサイクルがあるんだ。
これはビル・ゲイツの言葉(英語原文)だそうです。わたしはすでに50時間以上費やしていますが、ここでも90%が諦めるというのです。ここでやめるほど損なことはありません。
辞める必要はない
「人の話なんか聞くな」という教え~クリエイティブになる方法30選 : ライフハッカー[日本版]
19. 自分の声で歌え
ピカソは色づけが苦手でした。ターナーは人の顔を描けませんでした。ソール・スタインバーグは写生が驚くほど下手でした。T.S.エリオットは、日中は別の仕事をしていました。ヘンリー・ミラーはひどく波のある作家でした。ボブ・ディランはギターも歌もひどいものです。
でも彼らは辞めませんでした。どうして彼らは辞めなかったのでしょう? それは私にはわかりません。逆にどうして辞める必要があるのでしょう?
スランプだからといって、やめる必要などありません。苦手な分野があっても投げ出す必要もありません。ただちょっと休むか、あるいは気分転換するか、あえて描くことに没頭するかしてみたらいいのです。昔の偉大な作家もそうだったんですから。
自由なお絵かき仲間は大切
私が絵を描く事を好きになった理由: 初心者応援!絵描くネット
満足のいく出来だったかというと微妙なところですが、久しぶりに精一杯、なんだか楽しく描けた気がしました。
ドキドキ緊張で吐きそうになりながらSNSにアップし、1日経ってからまた見てみると、思ってもみない数のコメントを頂いていました。
お絵描きをするユーザーからのコメント、フレンドのコメント、通りすがりの人の揚げ足取り、いろんなコメントがありましたが、とても驚き、なんだかとても嬉しかったのを覚えています。
私が絵を描く事を嫌いになった理由: 初心者応援!絵描くネットとセットの記事です。絵を描くSNSでの交流がきっかけで再び絵を描き出したと書かれています。
お絵かきSNSをうまく利用すれば、モチベーションを高められると思います。わたしは結局やめてしまいましたが、絵を描く自分を確立できていない初期のころはとても役立ちました。
他人とではなく自分と比べる
自信を持つ秘訣は、他人ではなく1年前の自分と比べること : ライフハッカー[日本版]
自分の仕事を見て「なんてレベルが低い仕事だろう」と思うのはやめて、「去年の仕事よりはるかにマシだ」と思いましょう。
この記事によると、 「今や世界中の何百万という人の仕事をオンラインで見ることができる時代なので、自分の能力に自信が持ちにくい」社会なのだそうです。
特にオリジナルの世界を描く人は、他人からの評価とは別の所に、絵を描く意義を見出さなければなりません。
既存のキャラクターや模写の場合は、すでにそれらの作品のファンがいます。しかしわたし独自の世界を描く場合、だれひとりとして、そんな確証バイアスを持っている人はいないのです。
他人と比べるのはやめて、自分の過去の作品と比べてみるのがよいのです。
表現をして生きていくということ
表現をして生きていくということは、きみを大好きなひとが横を走ってくれているということであると同時にきみを大嫌いだという人も、いっしょについてくることなんだ。そっちを見ちゃだめだよ。ぜったいに
ほぼ日の糸井さんの名言。わたしはまだ、大嫌いな人がついてくるレベルの作家ではありませんが、大好きな人が横を走ってくれるというのは確かにあると思います。
肯定的なコメントを忘れない
世の中には「何でも嫌う人」がいる:研究結果 : ライフハッカー[日本版]
言い換えれば、否定的なコメントは私たちの記憶に強く残り、肯定的なコメントは忘れやすいのです。このアンバランスをよく理解してください。そして、肯定的なコメントを「意識的に」思い出す努力をしましょう。
そういえば、わたしの作品にも、本物の絵本作家さんかと思ったとか、絵本が出たら絶対買うとコメントしてくれた人がいました。
そんな人が一人でもいたことは光栄ですし、生涯記憶にとどめておきたいと思います。
人からの評価より気にすべきもの
死ぬまで進歩するつもりでやればいいではないか。
作に対したら一生懸命に自分のあらんかぎりの力をつくしてやればいいではないか。
後悔は結構だが、これは自己の芸術的良心に対しての話で、世間の批評家やなにかに対して後悔する必要はあるまい。
自分の芸術的良心にかけて一生懸命やったなら、世間の評価など気にする必要はない、と夏目漱石は言いました。なぜなら、それだけ一生懸命やっているなら、きっとその人は死ぬまで進歩できるはずだからです。今の時点の評価など、当てになりません。
作品を見返してみる
一番のお勧めは個展だ。個展なんてたいそうなもの!という時代ではない。借りるスペースはたくさんある。無料のところだっていっぱいある。
さすがに個展とまで言われるとおっかなびっくりですが…、わたしは自分の絵を全部ポストカードにしてファイリングしています。それを見返すと、下手だなあと思いつつ、愛着が湧いてきます。そしてまた描きたいという思いになります。
練習はほどほどに
楽しく絵を描きたいのに、描くたびに辛くなります。 – Yahoo!知恵袋
実は自分もそうなんですよ、きっかけはやりたくないのに絵を描く練習を自分を追いつめてやってたらある日、白い紙をみるだけで吐き気がするほどになってしまったんです
うまくなろうと思って描くと辛くなります。楽しんで描こうと思って好きなようにやっているほうが、うまくなる近道なのではないかと思います。
無理をしすぎて、絵を描こうとするだけで気分が悪くなるようなら、それはちょっとトラウマの領域になってしまっています。そうなってしまうと、どれほど絵を描きたくても、ちょうどアレルギーのように体が拒否反応を起こしてしまって、本当に絵が描けなくなってしまいます。そんなに悲しいことはありません。
心を養ってみる
絵を描くのが好きなのに、描くことが辛くなってしまいました : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
描けない間も 頭のなかで 構図を考えたり 美しい物を 沢山見ました。そして10年後に 描いてみたら 驚く位 上手くなっていました。
私は無理に描かなくていいと 思います。本当に好きなら また描きたくなりますよ。
上手い下手より 好きな事をするというのが 大切なのでは? 結論は長く続けたら 答えは出ます。少し お休みして 素晴らしい作品を いっぱい 見続けることを お奨めします。
ここにも同じような経験をしている人の意見が大量にあります。中には厳しいものもありますが…ひと通り目を通してみると、絵のスランプがたいした問題ではないように思えます。
同じような点として、こちらの記事で、エジンバラに留学した美術家の宮永愛子さんが話しておられることも、「心を養ってみる」ことの大切さを物語っているように思います。
芸術家を育てる「旅」 宮永愛子×林洋子が語る海外留学のススメ – インタビュー : CINRA.NET
アートに熱心な学生ほど目線の先がすごく近いということ。どうやったら売れるようになるかとか、そういったことには関心があるんだけど、そこにはアートはないんですよ。それこそ旅や、畑を耕すことによる発見だとかのほうが、実はアートの本質に近付くと思います。
人からの評価を目的とした絵を描くことに疲れてしまったり、伸び悩んでしまったりしたら、自然に触れたり旅に出たりして心を養ってみることが、案外スランプから抜け出す近道になるのかもしれません。
おわりに
こうして事例をちょっと見ただけでも、ものすごい数のエピソードがあります。わたしの予想以上にありそうだったので、まとめるのはこの辺にしておきます。
さて、「認知行動療法」という名目で考えてきましたが、認知行動療法では、最後に、最初抱いていた不快感がどれほど低下したかを割合で書き留めます。
わたしの場合は、「絵を描きたくない」という気持ちが50%くらいまで薄れました。
まだまだ解決にはほど遠いですが、少なくとも、絵を辞めることはなさそうです。
絵を描くのが嫌になったとき、絵を描けなくなったとき、楽しくなくなったとき、情熱が薄れたとき、自分を冷静に分析するのは大切です。
こうして記事にまとめておけば、同じ悩みに再度ぶつかったときの助けになりますし、より悩みが深まっても、一歩進んだ位置から考え始めることができます。
わたしは、もう少し休んで、その間に美しい画像をたくさん見て回って、それから絵を描くのに復帰しようと思います。
長い文章をお読みいただきありがとうございました
せっかくなので、ここまで読んでくださった方はわたしの絵も見ていってくださいね。
12月に追記
この記事を書いてから約半年後の12月、ブログの移行に伴い、加筆修正しています。
あれから無事、イラストを描けるようになり、表現方法も大きく変化していきました。
あのとき、絵を描くことをやめなくて本当によかったと思えます。
もしあのときやめていたら、その後に完成した数々の絵とは巡り会えなかったのですから。
▽挫折を乗り越える秘訣
絵を描くことに疲れたら、以下の記事も役立つかもしれません。