絶対色感や相対色感は存在するのか? 色を補正する能力と創作の関係

つい最近、見る人によって色が違って見える画像が話題になりました。

「ピンクと白」それとも「グレーと緑」? 人によって色が違って見えるスニーカーが大論争

記事に書かれているように、この種の画像は、定期的に話題になっているため、ネット上でも有名なものがいくつかあります。

たとえば、上のツイートの画像でいうと、スニーカーが「ピンクと白」に見える人もいれば、「グレーと青緑」に見える人がいます。

わたしの場合は、第一印象は、「ピンクと白」のほうでした。けれども、スポイトで色を拾ってみると、画像の色の値は、「グレーと青緑」のほうが正解でした。

ところが、ややこしいことに、画像の色的には「グレーと青」が正解なものの、実物そのものは、なんと「ピンクと白」だったのです。

これは、記事の説明にも書かれているように、「色の恒常性」の問題です。わたしたちは、 照明の色や明るさが変わっても、元々の色を補正して認知する能力があります。

たとえば、赤いリンゴは、本当は白色光で見たときだけ赤なのであって、夕方の赤みを帯びた光や、夜の薄暗がりの下で見たときは違う色になっているはずです。それでも大半の人は色に違和感を覚えません。もし色の恒常性がうまく働かなければ、スーパーの店頭に売られている色鮮やかな果物は、時間帯によって別物に見えてしまいます。

気になるのは、このような色の補正能力には、人によってばらつきがあるのではないか、ということ。上の写真の場合、正しく脳内で補正して元の色を言い当てられたのは、全体の2割ほどだったからです。

見たままの色を受け取ってしまうか、それとも脳内で補正できるかは、その場の照明の色(環境光)を考慮に入れて、色味を差し引きできる能力と関係しているはずです。

これは言い換えると、見たままの絶対的な色味を認知するか、それとも周りの手がかりから相対的な色味を認知するかの違いともいえます。それはある意味、絶対音感と相対音感の違いに似ています。

科学的にしっかり確立された概念ではありませんし、こうしたネット上の写真の見え方だけで判断できるものではありませんが、もし「絶対色感」「相対色感」というものがあるとしたら、どういうものなのか考えてみました。

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絶対音感から考える「絶対色感」

絶対色感(絶対色覚)、または相対色感(相対色覚)という言葉は、学問的に研究されている概念ではありません。たとえば、Google Booksでサーチしてみると、芸術関係のエッセイ的な本の中で、ときおり使われているものの、特に詳しい研究などはないようです。

もともと音と違って、色はひとりひとり感じ方が違うため、科学ではなく、哲学のクオリアなどの研究で扱われてきました。後で書きますが、そもそも純粋な意味での絶対色感や相対色感というものは、存在していないはずです。

それでも、どちらかというと絶対色感寄りの人や相対色感寄りの人がいるようだ、と思ったのは、今回、考察の手がかりにした脳神経科学者オリヴァー・サックスの音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々という本で、絶対音感が色覚と比較して説明されていたからです。

絶対音感は、かなりまれな能力です。絶対音感がある人は、わたしたちの社会では、何かと特別視されがちです。たとえば名探偵コナンが絶対音感を持っているという設定も、絶対音感があるのは、凡人とは違うカッコいいこと、天才の特徴のひとつ、という認識の一例かもしれません。

この本では、絶対音感の特別性が、色覚と比較されて、こう説明されていました

絶対音感がこれほどまれ(1万人に1人より少ないと推定される)というのは、ある意味で妙な話に思われる。

なぜ人はみな、青色を見たり、バラの香りを感じたりするのと同じように、反射的に「ソのシャープ」を感じないのだろうか。2004年に、ダイアナ・ドイチュらはこう書いている。

「絶対音感に関する本当の疑問は、『なぜ一部の人にそれがあるのか』ではなく、『なぜ万人に共通ではないのか』である。

色を認識し、色と色の差異を区別することができるのに、それを言語ラベルに関連づけることができない色名健忘症のような、音程のラベルづけに関連する症候群に、ほとんどの人がかかっているかのようである」(p175)

要するに、ほとんどの人は絶対音感は持っていないけれど、絶対色感は持っているのではないか、というわけです。

絶対音感のある人は、特定の音を聞けば、すぐに「これはソのシャープだ」などと音階を言い当てられますが、ほとんどの人はそれと同じようにして、目に見えた色をすぐに正確に言い当て「リンゴは赤い」と言うことができます。

絶対音感のある人にとって、あらゆる音、あらゆる調は、質的に異なり、それぞれに独自の「味」や「感じ」、独自の特性があるように思えるのだ。

絶対音感のある人はそれをよく色になぞらえるが、私たちに青の色が即座に反射的に「見える」のと同じように、彼らにはソのシャープが「聞こえる」のだ。

(実際、本来色の彩度を表す「クロマ」という言葉が、音楽理論で使われることもある)(p172)

絶対音感のある人が、特定の音の振動数を正確に区別できるように、大半の人は、目に入ってときた色の波長をほぼ正確に区別し、色を直感的に言い当てることができます。

そのような意味では、ほとんどの人が絶対色感に似たものを持っている、ということになるでしょう。

「相対色感」というものがあるとしたら

しかし、本当にすべての人が絶対色感を持っているのか。

続く文脈の中で、絶対音感を持っているダイアナ・ドイチュが説明している音感と色感の比較を読んでみると、少し話が複雑になってきます。

四歳のとき、ほかの人たちは前後関係のない音の名前をなかなか言えないことを知って、自分には絶対音感があること―そしてそれがふつうではないこと―を認識し、たいへん驚きました。

私がピアノで一つの音を鳴らすと、ほかの子どもたちはどの鍵が押されたのかを見なければ、その名前を言えないことを知ったときのショックを、いまだにありありと憶えています。

絶対音感がある人にとって、それがないことがいかに不思議かという感覚をわかってもらうために、似たものとして色の呼称を例にとりましょう。

誰かに赤いものを見せて、その色の名前を言うように指示したとします。そしてその人が「色を認識することはできますし、ほかの色と見分けることもできるのですが、ただその名前を言えません」と答えたと考えてください。

次に青いものを並べて置き、その色の名前を言ったら、彼は「わかりました。この二番目の色が青ですから、最初の色は赤に違いありません」と答えました。

たいていの人はこのプロセスをかなり変だと思うでしょう。けれども、絶対音感のある人から見ると、これはまさに、ほとんどの人が音高の名前を言うときのやり方です。(p176)

ここでドイチュは、ほとんどの人は即座に色名を言い当てられるのに、不思議なことに音階を言い当てることはできない、と述べています。

そして、絶対音感がない状態、つまり相対音感というのは、色覚に例えれば、周囲の手がかりなしでは色名がわからないほど変なことだと述べます。

確かに説明を読む限りでは、こんな変な方法で色を認知している人などいないように感じます。でも、最初に紹介した画像のことを思い出してみると、どうもそうとは言い切れないぞ、ということになります。

冒頭の画像の場合、多くの人は、写真のスニーカーのあるがままの色、つまり絶対値としての色を認知して「グレーと青緑である」と述べました。これは目に見える色の波長をそのまま認識したという意味で、絶対音感ならぬ絶対色感ともいえる感覚です。

ところが、わたしを含め、中には「ピンクと白」である、と答える人もいました。この場合、ドイチュの説明に出てくる、隣に青いものを並べて置き、その色の名前を言ってやっと「わかりました。この二番目の色が青ですから、最初の色は赤に違いありません」と答えた人と似ています。

目に入ってくる波長という文字どおりの色を認知しているのではなく、(無意識のうちに)まず画像全体にかかっている環境光の色を判別し、その色を差し引いた上で、相対的にスニーカーの色味を判別しているからです。

画像の色そのものは「グレーと青緑」が正しいのに、脳内で無意識のうちに補正した結果、波長としては見えていないはずの別の色名を答えています。

言ってみれば、「この環境光の色が◯◯ですから、スニーカーの色は◯◯に違いありません」というプロセスで、相対的に色を判別しているようです。

ドイチュの例えとの類似性からすれば、こちらは相対音感ならぬ相対色感に近いもの、とみなせるかもしれません。

もちろん、色の場合は、音の場合ほどには、はっきりとした絶対色感、相対色感の区別はありません。あくまで絶対色感寄りか相対色感寄りか、というくらいにすぎません。

それでも、色を見分ける際、周囲の色に関係なく色味を正確に判別しやすい人もいれば、周囲の色に強く影響されて、色味を相対的に判別しやすい人もいるはずです。

メロディの恒常性と色の恒常性

最初に触れたとおり、目に見えた色をそのまま受け取るか、それとも補正して受け取るかは、「色の恒常性」という概念と関係しています。

わたしたちが、たとえ照明の色が変わっても、リンゴは赤いと認知するのは、脳が補正してくれるからです。

色の恒常性は、かなりの程度、記憶と経験の影響を受けています。もともとリンゴは赤い、という知識があるので、それが先入観になって、どんな場面でも、無条件にリンゴは赤いものだと脳が補正してしまいます。

ですから、すでに見たことのあるものについては、絶対色感寄りの人であれ、相対色感寄りの人であれ、色の恒常性が働くはずです。

しかし、前提となる予備知識がない、初めて見るものについてはどうでしょうか。人によって補正しやすいかどうかの違いが現れるのではないでしょうか。

たとえば、冒頭の写真のスニーカーは、元々の色がどんな色なのか、写真を見る人にはまったくわかりません。そのため、経験や記憶に基づいて、色の恒常性を働かせることが難しくなります。

その結果、8割もの人が、画像そのものの色の絶対値を認知し、スニーカーは「グレーと青緑」だと答えました。本物は「ピンクと白」のスニーカーなのに、色の恒常性による補正が働かなかったため、見たままの色を答えてしまったわけです。

しかし、2割の人は、画像の中の環境光を加味して、色の相対値を答えることができました。スニーカーの実物を見たことがないにもかかわらず、周囲の色の手がかりから、色の恒常性を働かせて、色を補正することができたのです。

面白いことに、これと似たようなことは、絶対音感と相対音感の違いでも起こります。

絶対音感は、あればどんな音楽もすぐに正確な音程で歌ったり記録したりできるので、うれしいおまけの感覚のように思えるかもしれないが、問題を引き起こすこともある。

…ダニエル・レヴィティンとスーザン。ロジャーズによると、絶対音感のある人が「よく知っている楽曲がちがう調で演奏されているのを聞くと、たいていの場合、いら立ちや不安を感じる。

……それがどんな感じかを理解するには、一時的に視覚作用がおかしくなったせいで、青果店のバナナがみんなオレンジ色に、レタスが黄色に、リンゴが紫色に見えるところを想像してほしい」(p173)

音楽を一つの調から別の調に移すことが難なくできる音楽家もいるが、難しいと思う人もいるだろう。しかし、絶対音感のある人にとってはとくに難しいかもしれない。

彼らにとって、調にはそれぞれ独自の特性があり、いつも聞いている調だけがぴったりのものに感じられる傾向がある。絶対音感のある人にとっての楽曲の移調は、まちがった色で絵を描くのに似ているかもしれない。(p174)

絶対音感を持っている人は、音の高低の絶対値を認知するので、メロディが転調させると別の曲に聞こえてしまうようです。しかし、相対音感を持っている人は、それぞれの音の高低の相対的な変化でメロディを認識しているので、転調したところでほとんど違和感は感じません。

ここでは絶対音感を持つ人が、転調したメロディを聞いたときに感じる違和感が、「青果店のバナナがみんなオレンジ色に、レタスが黄色に、リンゴが紫色に見える」ことに例えられています。

そんなことは普段の生活ではありえない、と思うかもしれませんが、もし色の恒常性が働かなけれれば、わたしたちは夕方に青果店に行ったとき、まさにそうした感覚を味わうことになります。夕方の赤い環境光には、青色の成分が含まれていないので、店頭に置かれたレタスは、緑色ではなく黄色がかって見えるはずです。

それでも、わたしたちが視覚作用がおかしくなったとは思わないのは、経験や記憶に基づく色の恒常性が働いて、脳が自動的に色を補正してくれているからです。これは絶対色感寄りの人も、相対色感寄りの人も同じです。

もしも完全な絶対色感というものがあるとすれば、前知識がなくて色の恒常性が働かなかったスニーカーの写真のように、青果店に並ぶ果物は、照明が違えば、まったくの別物の色に見えてしまうことでしょう。

これは絶対音感のある人の場合に、メロディが転調すると別の曲に成り代わってしまうのと同じです。

絶対色感によって色の波長を厳密に認知すれば、色の恒常性が働かなくなって違う色に見えてしまうように、絶対音感によって音の周波数を厳密に認知してしまうとメロディの恒常性が働かなくなって、違う曲に思えてしまうのです。

しかし実際には、色感はそこまで厳密なものではなく、どんな人でもそれなりに相対的な認知をしているので、「青果店のバナナがみんなオレンジ色に、レタスが黄色に、リンゴが紫色に見える」ほどの違和感は生じません。

なぜ絶対音感を持つ人と持たない人がいるのか

絶対音感と相対音感の違いほどには顕著でないにしても、なぜ人によって、見たままの色の絶対値を認知しやすい人と、周囲の環境光の手がかりを加味して補正しやすい人がいるのでしょうか。

はっきり言って、データがないのではわかりませんが、絶対音感と相対音感の場合は、遺伝や才能というよりは、子ども時代の体験が強く影響しているらしい、というデータがあります。

まずそもそも、わたしたちはみな、赤ちゃんの頃は絶対音感を持っていることがわかっています。

ウィスコンシン大学のジェニー・サフランとグレゴリー・グリーベントログは、音別の学習テストを行い。八ヶ月の赤ん坊を、音楽の訓練を受けている大人と受けていない大人と比較した。

その結果、赤ん坊は絶対音感の手がかりに頼るところのほうがはるかに大きく、大人は相対音感の手がかりに頼るところが大きかった。

このことから、絶対音感は乳幼児には共通で適応性が高いが、のちに適応性がなくなり、そのために失われることがうかがえる。

「絶対音感でしかメロディーを追えない赤ん坊は、調を変えて歌われると同じ歌を聞いているのだと気づかないし、異なる基本周波数で話されると同じ言葉だと気づかない」とサフランらは指摘している。(p189)

赤ちゃんはみな絶対音感を持っているのに、ほとんどの人は成長するにつれて、絶対音感を失ってしまうらしい、ということがわかります。

これは共感覚と似ています。赤ちゃんはみな複数の感覚が混じり合う共感覚を持っていますが、成長する中でほとんどの人はそれを失ってしまいます。

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ほとんどの人が絶対音感を失ってしまうのは、その能力が必要ないから、あるいは絶対音感を持っていないほうが有利だからでしょう。

ダーウィンが説明したように、生き物はみな、それぞれが置かれた環境に適応して、必要な能力を伸ばし、必要でない能力は退化させていきます。わたしたちも、成長する過程で自分の生育環境に必要な能力は伸ばし、必要でない能力は手放していきます。

わたしたちの社会では絶対音感がなくても苦労しませんし、絶対音感があることでかえって転調したメロディに違和感を感じたりするわけですから、ほとんどの人が絶対音感を持たないのは自然淘汰による適応だと推測できます。

とすると、もしも絶対音感があるほうが有利に働く環境があれば、赤ちゃんは絶対音感を失わないまま成長し、むしろ絶対音感をより高度に発達させていくのではないか。

そのことを裏づけるデータが確かにあります。

ひとつ目は、視覚障害者には絶対音感が多いという研究です。

幼少期の視覚障害と絶対音感には特筆すべき関連性がある(生まれつき目が見えない子ども、あるいは幼少時に失明した子どものおよそ五割に、絶対音感があると概算している研究もある)。(p177)

子どものころから目が見えない人の場合、おそらくは視覚的な情報が限られているために、音から多くの手がかりを得る必要があり、音階を正確に識別する能力が残るのかもしれません。

逆に言えば、大半の人は、視覚から多くの情報が得られるおかげで、音階の絶対値を聞き分けるような聴覚的能力は必要ではなく、次第に退化していくともいえます。

しかしもし、そうした聴覚的能力がどうしても必要な文化があるとすればどうか。それがふたつ目の、特定の言語のもとでは絶対音感が多いという研究です。

とくに興味深い相関の一つに、絶対音感と言語的背景の関係が挙げられる。この二、三年、ダイアナ・ドイチュらはその相関を詳しく調べ、2006年の論文に「ヴェトナム語と北京語を母語として話す人たちは、単語のリストを読むときに非常に正確な絶対音感を示す」と述べている。

…「四歳から五歳のあいだに音楽の訓練を始めた生徒の場合、中国人の生徒におよそ60パーセントが絶対音感の基準を満たしたのに対し、アメリカの非声調言語(訳注 中国語、ヴェトナム語、あるいはアメリカインディアン諸語のように、意味の区別に音の高低のパターンを用いる言語を声調言語という)を話す生徒で基準を満たしたのは約14パーセントにすぎなかった」。

…この著しい差を知ったドイチュらは、「機会を与えられれば、幼児は発話の特徴として絶対音感を獲得でき、それが音楽に持ち越されることがありえる」と推測した。

英語のような非声調言語を話す人々の場合、「音楽の訓練による絶対音感の獲得は、第二言語の発音を習得するのに似ている」。(p177)

中国語を学んだことのある人ならわかると思いますが、日本語などの非声調言語と、中国語のような声調言語は、まったくの別物です。

中国語を学ぶときに一番たいへんなのは、ピンインに沿った正しい音の高低を発音することです。

日本語では、音の高低は感情やニュアンスの違いを伝えるだけにすぎません。しかし中国語などの声調言語では、音の高低が違えば、同じ言葉でも意味がまったく違ってきます。

音の高低を正確に聞き分けられるかどうかが、コミュニケーションが成立するかに関わってきます。

日本人と違って、中国人は、音の高低の手がかりに敏感でなければ生きていけない社会で生まれ育つので、赤ちゃんのころから持っている絶対音感が、比較的退化しないまま残りやすい、ということなのでしょう。

なぜ人によって色の補正能力に違いがあるのか

では絶対色感と相対色感についても、これと同様のことが当てはまるのでしょうか。そのような研究があるのかどうか、わたしは知らないので、はっきりしたことは何も言えません。

しかし仮定として、周囲の手がかりを敏感に読み取って視覚的に錯覚したほうが生きるのに有利な環境、あるいは視覚情報をありのままに認識するのではなく、周囲の手がかりを加味して修正したほうが有利な環境、というようなものがあれば、相対色感が強くなる可能性はあるかもしれません。

たとえば、直接関係があるものかどうかはわかりませんが、視覚情報を認識するとき、周囲の手がかりによって錯覚する傾向を判別するロッドアンドフレームテストという心理検査があります。(これは特殊な機器を用いて行うものなので、ネット上で簡単に判別できるものではありません)

リンク先に載っている画像のように、視界いっぱいに棒(rod)と、それを取り囲む枠(frame)を見せて、棒の傾きを判別させます。棒の傾きだけを正確に判別できる人は「場独立」(FI Field Independent)、まわりの枠の傾きに影響されて棒の傾きを錯覚してしまう人は「場依存」(FD Field Dependent)と診断されます。

「場独立」の人は周囲の意見に流されずに行動できる性格傾向が強く、「場依存」の人は周囲の意見を拾い上げながら協調性をもって行動する性格傾向が強いと言われます。(詳しい違いについてはこちらの資料のp3-4を参照)

ということは、生育環境の中で、周囲の状況に配慮して気を使ってきた人と、それほど周囲の状況に左右されずに生きてきた人とで、視覚的な特性が異なっている可能性があります。

よく気がつく人、というのは、相手のちょっとした仕草やその場に雰囲気に目ざとく、先回りしてお茶を出したり、手助けしたりして、まわりに配慮するものです。その結果、周囲の視覚的手がかりに影響されやすくなるのかもしれません。

逆に、もともと全体のバランスを意識する視覚認知の傾向が強いために、結果としてよく気がつくようになる、という可能性もあります。生まれと育ちの両方が絡み合って性格特性が形作られていくと思われます。

色を処理する脳の領域と形や向きを処理する脳の領域は違う(ロッドアンドフレームテストの場合、重力を感知する平衡感覚なども関係しているらしい)ので、絶対色感寄りか相対色感寄りかという違いが、そっくりそのまま「場独立」と「場依存」に当てはまるとは思いませんが、周囲の視覚的手がかりに影響されやすいかどうか、という点では、類似性があるように思います。

また、過去の記事で書きましたが、わたしたちの脳には、意味システムや解釈システムと呼ばれる、情報を加工する機能があります。

入ってきた感覚情報をそのまま受け取るのではなく、いったんフィルターにかけて変換する傾向が強い人は、脳のこうした加工機能が強いのかもしれません。

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芸術の創作とどう関係するのか?

では、絶対色感寄りか、それとも相対色感寄りか、という違いは、芸術の創作に関係してくるのでしょうか。

この場合も、絶対音感と相対音感との比較から考えてみたいと思います。

まず、絶対音感のあれば確かに楽器の演奏にとっては有利に働きますが、作曲家の才能とは必ずしも関係ないようです。

絶対音感は音楽家にとってそれほど重要とはかぎらない。モーツァルトにはあったが、ワーグナーやシューマンにはなかった。(p174)

絶対音感は、たとえば楽曲を耳コピしてすぐに演奏するという点では役立ちますが、独創的な楽曲を創作する、という点では特に役立つ能力にはなりません。

これは絶対色感の場合にも当てはまるように思います。

たとえば、絶対色感寄りで、見た色をそのまま判別できる人は、模写のときに正確な色選びをすることに秀でているはずです。

冒頭の画像でいうと、絶対色感寄りの人は正しい色味を認識していましたから、模写する際にも元画像に忠実な色選びができます。写真や風景の模写などの場合、色味の正確さは写実的なリアリティにも影響するかもしれません。

ですから、色味を正確に識別する技能が求められるような職業に就く場合や、色彩能力検定のような資格を取る場合は、絶対色感寄りの人のほうが有利だということになります。

しかし、模写や正確な色選びが求められる職業などではなく純粋な創作ということになれば、音楽の作曲家の場合と同様、絶対色感か相対色感かという違いは、大した影響はもたらさないのではないか、と思います。

冒頭の写真でいうと、相対色感寄りの人が模写すると、元画像には含まれていないはずのピンクを使ってしまうことになりますが、創作であれば、色味が違ってもオリジナリティだということになるからです。

ゴッホやターナーの絵は、大多数の人の色覚認知とは異なる色選びがされていて、あたかもフィルターがかかったような色合いになっていますが、色使いが標準と異なるからといって芸術的価値がないとはみなされていません。むしろ個性豊かなオリジナリティとして受けとめられています。

いっぽうで、もし相対色感寄りの人に有利な点があるとすれば、絵を描くときに、まわりの色を考慮して調和のとれた色選びをしやすいかもしれません。

それは、絶対音感を持つ人が抱えやすい次のような悩みからわかります。

もう一つの難点は、絶対音感のある神経学者で音楽家のスティーヴン・フルフトが話してくれた。

彼はときどき、一つ一つの音の高さばかり気になって、音程やハーモニーが聞こえにくくなるという。

たとえば、ピアノでドとその上のファのシャープが演奏されている場合、ドがドであること、ファのシャープがファのシャープであることを意識しすぎて、それが三全音になっていて、たいていの人が顔をしかめる不協和音であることに気づかないのだ。(p174)

絶対音感を持つ人は、音楽全体のメロディの調和よりも、ひとつひとつの音に気を取られることがあるようです。

これは、さっき出てきた「場独立」と「場依存」の違いとよく似ています。「場独立」的な人、つまり周囲の手がかりにはあまり気を払わない人は、一部の要素だけ抜き出して注目しやすく、全体の調和を意識するのが苦手なはずです。

絶対音感を持つ人や絶対色感寄りな人は、周囲の手がかりを加味せず、音や色の絶対値に忠実なぶん、ともすれば「場独立」的になってしまうかもしれません。

言い換えれば音や色が、場、つまり背景から浮いてしまっていることに気づきにくいかもしれない、ということです。

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他方、相対音感や相対色感寄りの人は、周囲の音や色の手がかりを加味して、認知に補正を加えていました。環境光が違っても、まわりと調和のとれた色に脳が補正してくれるおかげで、色の恒常性が生まれて、違和感を感じなくなっていました。

そうした、まわりの視覚的手がかりを重視する人は「場依存」的だといえます。そのため、絵を描くときにも、無意識のうちにまわりの色に馴染む色を選び、全体としての調和を重視しやすいかもしれません。

まったくの私見(偏見?)ですが、世の中には絵を描く人はたくさんいるものの、背景のある絵を描く人は比較的少なく、キャラだけ、人物だけの絵を描く人のほうが多いような気がしています。

これは単にキャラクターが好きなために絵を描き始める人が多い、という理由もあるでしょうが、それでも背景ありきで描くか、背景がなくとも気にしないかは、かなり個人個人で差があります。

その理由として、背景のある絵を描くには、人物を背景になじませなければならないので、ある程度「場依存」的な傾向が関係しているのではないか、と思うことがあります。

ふだんから周囲の視覚的手がかりに無意識のうちに気を使っている人にとっては、周囲の風景というのは無くてはならないもの、おそらくは、場“依存”という言葉からして、無いと不安になってしまうものなので、絵を描くときにも、背景込みで描かなければしっくりこないのではないか、ということです。

他方、周囲の意見に振り回されず、我を貫ける「場独立」人は、普段から周囲の視覚的手がかりに依存せずに生きているので、絵を描くときにも背景がなくてもさほど気にならないのではないか、といえます。

以前に書いたように、独立性が重視されるアメリカの文化では、絵を見るときにキャラクターや物に注目する人が多く、協調性が求められる日本の文化では、絵の背景に注目する人が多かったという研究があります。

絵を描くときにキャラクターを重視するか、背景を重視するか、という違いには、ふだんから人や物を重視しているか、それとも場の空気を重視しているか、といった性格傾向が関連している可能性がありそうです。

色感はひとりひとり違う

この記事では、絶対音感と相対音感についての研究を手がかりに、もし絶対色感や相対色感というものがあればどういうものかを考えてみました。

途中で述べたとおり、色覚は音感ほどはっきりしておらず、個人個人の主観による補正が入り込みやすい感覚です。

そのことをはっきり物語っているのは、芸術の中動態―受容/制作の基層に引用されているフランスの哲学者エミール・オギュスト・シャルチエ(筆名アラン)のこの言葉かもしれません。

音楽には想像することと作ることの区別がなく、考えるには歌わねばならないのだから。(p142)

音楽の場合、音階ははっきりと特定の周波数と結びついていて、認知的な主観が入り込む余地がほとんどありません。画家はイメージを形にするとき、色を綿密に選ばねばなりませんが、作曲家はイメージに浮かんだとおりの音を使って作曲できます。

絶対音感か相対音感かは、かなりはっきりと二分できますが、絶対色感か相対色感かは、はっきりと区別するのは困難です。

みんなそれぞれ色の感じ方が異なっている以上、ある程度の傾向は認められるかもしれませんが、結局のところは、哲学的なクオリアの問題として考慮するしかない、ということになるでしょう。

音楽はどちらかというと、数学にかなり近い分野です。人類史上最初の数学者ともいえるギリシャのピタゴラスが、数と音のつながりを発見して神聖視したように、音楽はその数学的な正確さに支えられた芸術です。

だからこそ、音の振動数を絶対値として認識できる絶対音感は特別な能力です。絶対音感を持っている人は、音を数学的に扱えるようなものだからです。

他方、絵画は、文学に近い分野です。絵画と文学において大事なのは、(模写やデッサン、習字などを除けば) 細部の正確さではなく、無限に多様な意味です。

ある言葉やイメージは必ずこういう意味だ、という絶対的な法則性よりも、その場その場で意味合いが柔軟に変化するという相対性のほうが重視されます。

そのようなわけで、今後も「絶対音感」は学問的に興味をもって研究されていくでしょうが、「絶対色感」はあまり興味を持たれることもなく、哲学的、心理学的な研究に道を譲るでしょう。

それぞれの認知特性が創作内容に反映されることは確かですが、絵画の世界には絶対的な法則性はなく、どんな認知特性でも、個性や味、オリジナリティに昇華されうる懐の深さがあるのです。

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投稿日2018.06.07