わたしはこれまで、リアルな絵=写実的な絵だと思っていました。そう思っていたからこそ、写実画と記号絵の違い―なぜリアルな絵は難しいのかという記事も描きました。
リアルな絵=写実画という認識は、多くの人が持っている意見としては確かに正しいはずです。そして、リアルな絵=上手な絵という認識も存在します。しかし、よくよく考えてみるとそれはおかしいぞ、と述べている人がいます。絵画の脳科学で有名な、脳神経学者の岩田誠です。
ヒトはなぜ絵を描くのかという本は、中原佑介という編者が、11人の絵画評論家と、先史時代の絵について対談している本ですが、その対談相手の一人が岩田誠です。対談の中で、「リアルということ」という話題が出てきて、こんな論議が展開されています。
リアルとは何か
岩田誠はリアリズムについて、こう力説します。
岩田 いまリアリズムといわれたんですが、僕もリアリズムとはなんだろうかとずっと思っていましてね。それで、先史時代の人たちが描いてた絵がいかにもリアルに見えるのは、私たちの視覚的イメージ、つまり我われの記憶に対してリアルなんです。
おそらく現実の動物の体の部分の比率とかでいえば全くリアルではない。…現代の絵描きはほとんどそうだと思うんですけど、自分の頭の中でつくりあげたイメージに対してリアルに描く。だから、ほかの人にはリアルに見えなくても、絵描き自身にとってはものすごくリアルなわけです。(p144)
これはどういうことでしょうか。
先史時代に描かれた絵、たとえばラスコー洞窟の動物の絵などは、一般に、それほど「上手な」絵と評価されることはありません。しかし、そこには一種のリアリティがあります。迫力や雰囲気が伴っているように思われるからです。
それは、目に見える形状に忠実な写真のような絵ではなく、わたしたちが心の中に抱いている視覚イメージ、つまり心象に基づいた絵だからではないか、と言われています。
ここで、わたしたちはリアルな絵画、という言葉の定義について、よく考えてみる必要に迫られます。目に見える実物の形状を正確に表したのがリアルなのでしょうか。それとも、心の目に見える心象を忠実に表現することこそがリアルなのでしょうか。
目で見たものはリアルなのか
岩田誠はこう続けます。
岩田 むかし小学校で、エジプトの人たちの描く絵は、顔は横を向いているのに体が前を向いてるから、絵が下手だった、ルネサンス時代になってから絵が上手になって、ちゃんとした絵を描くようになったと習ったんです。
とんでもないことを教えられたといまは驚いてるんですけどね。
…リアルであるということをそういうふうに教わったというのは、僕は致命的な教育を受けたという感じをもっているんです。なんで網膜像をリアルだと思うようになってしまったのか、そこをもう少し知りたいと思っているのですが、まだよくわからない。(p144)
目に見える実物の形状というのは、すなわち網膜像です。これこそがリアルだという人もいますが、そう考える人たちは、それがあくまで脳が認知した形や色にすぎないことを忘れているのです。
目に見える網膜像も、心の目に見える心象も、脳が認知したイメージという点で、優劣はありません。どちらも神経活動の結果生じた、わたしたちの脳内に描かれた世界に過ぎません。ただプロセスの過程が違うだけです。
実際のところ、別の動物の目から見れば、視覚世界はまったく違う色や立体感になると言われています。目で見ているものが、唯一の真実、リアルな世界というわけではないのです。
岩田誠の説明によれば、古代エジプトの人たちも、自分たちの心象に忠実に描くことで、当時の感性でリアルとされる絵を描いていたわけです。どの時代、どの文化でも、絵を描く人たちは、自分にとってリアルな表現というのを追求してきました。シャガールやモンドリアンは、自分の絵はリアリズムだと主張したといいます。
しかし、それら多くの、リアルな絵を描こうとする試みのうち、網膜像を写実的に描くという試みだけが、なぜか人口に膾炙し、リアルな絵、また上手な絵として、一般に受け入れられるようになっただけなのです。それはいったいなぜなのでしょうか。
文化の違い
岩田誠は、引用した部分で述べる通り、理由はよくわからないとしています。強いていえば、自身がそうであったように、学校でそのように教えられるからかもしれないとしています。
しかし学校で教えられるということは、それ以前にだれかが写実画こそリアルで上手だと言い出して、それが広まったからでしょう。それで、そのように考える脳の傾向があるのかもしれない、とも述べています。
また、彼は西洋文化と東洋文化の違いも挙げています。たとえば、写実画に使われる遠近法は、日本画では重視されません。それは、目に見えるものより、心の目に見えるもののほうをリアルだと考える文化だったからだそうです。
彼は線路の例を出しています。目で見るものがリアルだと考える西洋文化では、線路は遠くに行くにつれて幅が狭くなり交わるものです。しかし心の目に見える印象こそリアルだとする東洋文化では、線路はどこまでも並行で、交わらないものとして描くのです。
彼はこう説明します。
確かに線路のずっと先は、網膜では交わるように映る。西洋人はそれはなぜだろうか、なぜこういうふうに見えるんだろうかということを考えるから、あんなことになる。
東洋的にものを中心に考えれば、どう見えようと、そんなものはうそだということがわかりますから、線路が交わるようには描かない。
そこが西洋美術と東洋美術を分けるところかなという気もしてるんですけどね。(p146)
それで、目に見えるものがリアルだという考え方は、西洋文化に由来しているのかもしれません。西洋文化が世界を席巻し、日本も波に飲まれたので、リアルな絵=写実画という認識が根付いた可能性があります。
「上手」なのは多数派が共感する絵
もう一つ、わたしが可能性として思うのは、結局のところ、人口に膾炙するのは多数派の考えである、という点です。
たとえば、少し違う分野の話になりますが、こういう議論があるのをご存じでしょうか。アスペルガー症候群は「障害」なのか「個性」なのか。一般にこの症候群は「発達障害」と呼ばれ、想像力の障害、コミュニケーションの障害、社会性の障害を抱えていると言われます。
しかしよくよく調べてみると、アスペルガーの人は普通と違う独特な想像力を持っていますし、アスペルガーの人同士だとコミュニケーションも円滑なのです。
それで、アスペルガーが「障害」と思われるのは、社会的に少数派であるためではないか、という説があります。もしアスペルガー症候群の人が社会的に多数派なら、逆に今 普通の人と言われている人たちが「障害者」とみなされる社会になっていたかもしれないというのです。
これと同様に、さまざまな分野において、多数派こそスタンダードで、少数派は異端とみなされる傾向があります。ここではアスペルガー症候群の例を挙げましたが、宗教弾圧や、学会の派閥や、国家の民族問題など、さまざまな場所で、この傾向は見られるものです。
もしかすると、写実画がリアルな絵とみなされるのも、これと同じではないでしょうか。
わたしたちは、目で何かを見るとき、視力や感受性の程度は違えど、だれの目にも、だいたい同じような風景が見えます。目の前に一つのリンゴがあるとき、わたしが見ているリンゴと、あなたが見ているリンゴの映像は、ほとんど違いはないでしょう。
ところが、心の目で何かを見るときには、一人ひとり思い描くイメージに違いが見られます。リンゴを想像してみてください、と言うと、ある人は形の良い真っ赤なリンゴを想像するかもしれませんし、別の人は、葉っぱがついた少し黄色がかったリンゴを想像するかもしれません。
そうすると、目に見える網膜像を描いた絵に対しては、自分にもそう見えるという理由で、共感する人が多くなります。しかし心の目に見える心象を描いた絵に対しては、一人ひとりイメージは違うので、共感する人は少なくなります。ここで多数派と少数派が生まれます。
写実的な絵画が好まれ、それこそがリアルだと言われるのは、多くの人にとって違和感がなく、共感しやすいものだからです。それに対し、心象を描いた絵がリアルだと言われないのは、描いた人にとってはリアルでも、見る人の多くにとってはそうではないからです。
多くの人が共感できる写実画は、多数派であるゆえに、絵画のスタンダードに押し上げられ、「上手」なものとみなされます。「上手」という言葉が意味するのは、あくまで多くの人が共感しやすい、ということなのです。
自分にとってリアルな絵を描き続ける
ここまで考えてきたように、結局のところ、リアルだ、上手だ、ともてはやされている絵は、単にその時代の文化に合い、多数派から共感される絵にすぎない、ということがわかります。
今の世の中で、リアルだ、上手だ、と言われていても、100年後の未来にもそのように言われるとは限らないのです。わかりやすい例を挙げれば、今、日本のネット文化でもてはやされているかわいい女の子のアニメ絵をルネサンスのヨーロッパに持っていっても、多分あまり受け入れられないでしょう。今の文化で共感されやすい絵が、別の文化でも共感されるとは限らないのです。
むしろ、今の文化ではあまり受け入れられず、スタンダードではなく、上手ともみなされない絵が、別の時代には評価される、ということがあります。ヴィンセント・ファン・ゴッホの絵は、彼の死後、高く評価されるようになったのです。
今回取り上げたヒトはなぜ絵を描くのかという本が書かれたのは、先史時代に描かれた洞窟絵画を見て、心を揺さぶられる人が現代にも存在したからです。それは、先史時代の絵は、心象に忠実に描かれた、ある意味でリアルな絵だったからでしょう。
個人の心象を描いた絵は、多くの人が共感できるものではないので、どの時代でも少数派とみなされやすいといえます。しかし同時に、個人の心象に基づいた絵というのは、感情や勢いがこもっており、時代を超えて人の心に訴えかける魅力も備えているのです。
そうであれば、今の時代、文化においてリアルだと評価される絵を描くのではなく、自分の心の目に映る情景と向き合い、自分にとってリアルだと思える絵を描き続ける、というのも、絵を描く人のひとつの生き方だといえるでしょう。